ミニイベント板にてお試しで立ち上げてみたところ、思いのほかご好評をいただきましたので、あらためてこちらで正式にスタートさせていただきます。皆様ふるってご参加くださいませ! リライトとは……という説明は省略します。リライトってどんな感じなのかな、と疑問に思われたかたは、ミニイベント板のお試し版をご参照くださいませ。■ 原作の提出について* 原作の受付期間: 2011年2月6日(日)~2月13日(日)24:00* 原作の長さ: おおむね原稿用紙20枚以内の作品とします。「自分の作品を、誰かにリライトしてみてもらいたいな」という方は、期限内にこの板に、直接作品を書き込んでくださいね。 また、今回は、お一人様につき一本までの提供とします。ほかの作品もお願いしてみたいんだけど……という方がいらっしゃったら、声をかけていただければ、後日第二回を設けますね。* また、原作を提出された方は、最低1本以上、ほかの方の作品(選択は任意)のリライトをしていただくようお願い申し上げます。(この制約はお試し版にはなかったのですが、今回から設けることにしました。なるべくたくさんのリライトがうまれたほうが、読み比べるのが楽しいという個人的な欲望です)* リライトは、文章面の改稿という意味だけでなく、キャラクター、設定、構成等の大幅な改編、二次創作に近いようなストーリーの追加等もあり得るものとします。 そうした改変に抵抗のある方は、申し訳ありませんが、今回の企画へのご参加は見合わせてくださいませ。 せっかく提出したけれど、誰もリライトしてくれない……ということもあるかもしれませんが、そのときはどうかご容赦くださいませ。ほかの方の作品をたくさんリライトしたら、そのなかのどなたかが、お返しに書いてくださる……かも?* 著作権への配慮について「ほかの方からリライトしてもらった作品を、いただきもの等として、自分のサイトやブログに展示したい!」という方がいらっしゃるかもしれませんが、必ず、リライトしてくださった方の許可を得てからにしてください。 また、許可がもらえた場合でも、かならず執筆された方の筆名、タイトルを付け直した場合は原題、企画によりご自身の原作をもとにほかの書き手さんがリライトしたものである旨を、目立つように表示してください。■ リライトされる方へ どなた様でもご参加可能です。むしろどんどんお願いします!* リライト作品の受付: 2011年2月14日(月)0時から受け付けます。(原作とリライト作品が混在するのを避けるため、原作の募集が終わってから投稿を開始してください) 書けたらこの板に、直接書き込んでください。* タイトルまたは作品冒頭に、原作者様の筆名および原作の題名を、はっきりわかる形で表示してください。* 投稿期限: 設けません。いつでもふるってご参加ください! ただ、何ヶ月もあとになると、原作者様がせっかくの投稿に気づいてくださらない恐れがありますので、そこはご承知くださいませ。 こちらに置かれている原作のリライトは、原作者様の許可を得ずに書き出していただいてけっこうです。ぜひ何作でもどうぞ! また、「作品全体のリライトは難しいけれど、このシーンだけ書いてみたい……!」というのも、アリとします。* 著作権等への配慮について この板へのリンク紹介記事などを書かれることはもちろん自由です。ですが、リライト作品を転載されることについては、原作者様の許可を明確に得られた場合に限るものとします。 また、許可を得て転載する場合にも、オリジナル作品と誤解を受けないよう、原作者様のお名前および原題、原作者さまの許可を得てのリライトである旨を、かならずめだつように明記してください。■ 感想について 感想は、こちらの板に随時書き込んでください。参加されなかった方からの感想も、もちろん大歓迎です。よろしくお願いします。 また、リライトした人間としては、原作者さまからの反応がまったくないと、「あまりにも改変しすぎたせいで、もしや原作者様が怒っておられるのでは……」という不安に陥りがちです(←経験談)* ご自分の原作をリライトしてくださった方に対しては、できるかぎり一言なりと、なにかの感想を残していただけると助かります。■ その他 好評でしたら、いずれ第二回を設けたいと考えています。でももちろん、こちらの板でどなた様か、別のリライト企画を立ち上げられることには、まったく異論ありません。 そのほか、ご不明な点などがございましたら、この板に書き込んでいただくか、土曜22時ごろには大抵チャットルームにおりますので、お気軽にお尋ねいただければと思います。 どうぞよろしくお願いいたします!
月を踏む 小鬼のチャボは生まれて三日で母に先立たれ、この世界にひとり放り出された。 チャボの身体は大体が土くれでできていて、そこに木の葉っぱが練りこまれることで動いていた。小鬼とは、元来からそういうものだった。チャボの母親が己の死期を察して作ったのがチャボであり、チャボは作られたその瞬間から彼女の記憶と知識を受け継いでいた。ただ、チャボはチャボであって母親ではなかった。これまで連綿と受け継いでいるどの小鬼でもなく、強いていえばその総体がチャボであった。 チャボは、平原にたった一本生えている木に住んでいた。家族もおらず、仲間のひとりもいなかった。淡い月光に身をまかせながら、何をするでもなくぼんやり過ごしていた。仲間を増やそうと思えば、茂っている葉っぱの分だけ増やせるのだけれど、チャボにそんな気は起らなかった。母親のように、死期を悟っても自分の記憶を受け継がせる器をつくらないだろうということも半ば確信していた。チャボは一人生き、一人で死のうと決めていた。チャボが死んだ時は小鬼という種族が滅びる時だったが、それで構わないとチャボは月を見上げて達観していた。 チャボは、月が好きだった。 この世界で月という存在は、空という天蓋に唯一あいた穴だった。この世界の大地は一枚岩でできており、そこに半球の蓋をかぶせるように空があった。世界の果てには真っ暗な空と同じ壁があり、決して傷つけることは叶わない。この広い広い世界は、そうやって完結していた。 ただ、その世界から抜ける穴がある。それが月だ。天上で終始輝く月は、世界にぽっかり空いた穴である。閉じられた世界から、動かず欠けることなどない丸い月を抜けると楽園が広がっていると信じられ、この世界の住人はそこにたどり着く事を望みとしていた。 チャボとて例外ではなかった。 チャボだけではなく、いままでのどの小鬼もそれを望んでいた。その想いは、小鬼だけものではない。この世界に生きるものの原初に刻まれた本能といってよかった。しかし小鬼の寿命はそう長くはない。幾世層と続いた小鬼の歴史でも、結局月に辿り着くことは叶わなかった。チャボは月に行くことをとうに諦め、代わりに純粋な憧憬の想いを月の向こうに向けていた。 チャボより十代ほど昔の小鬼が、偶然出会った人間からその種族が月を抜ける手段を手に入れたと聞いていた。たまさかここを通りかかったその人間は、全身で月光を反射させ、ぴかぴかと輝く顔で「もうすぐ私たちは月を抜けられる」と嬉しそうに語っていた。後日、遠く離れた場所から先のとがった筒型のものが何本も月に向かって打ち上げられ、空の抜け道を通り過ぎて行ったのを目撃していた。 受け継いだその記憶から、チャボは人間という種族は月を越えたのだろうと判断していた。もう人間はこの世界に存在しないと、そう思っていたからこそ人間に出会ったときチャボはとてもとても驚いた。 その人間はチャボ古い同族の記憶にある人間と違って、暗い印象を与えた。鈍く月光を反射させるその身体は、どことなくくすんで見えた。ぴかぴかと輝いていた顔にいたっては、どこか錆付いているようにすら見えた。 チャボがどうしてここに、月を抜けたのではなかったのかと疑問をぶつけると、人間は溜息をついて語りだした。「月を抜けたころ、か。随分と昔の話になるねえ。当時の私たちは喜んだ。半狂乱になったと言ってもいい。当然さ。月を抜けることが私たちこの世界に生きるものの望みなんだからね。何台も何台もロケットを発射させ、月を抜けていくのを見て無邪気に心を躍らせた。自分の番はまだかと、待ちきれなくてうずうずしていた。ただその中でふと誰かが呟いたんだよ。 誰一人として帰ってこないな、って。 多分それは、本当に純粋なただの疑念に過ぎなかったんだ。でもね。その一言は私たちの胸に波紋を投げかけた。私たちは盲信的に月の向こうには楽園があるって信じてきたけれど、それが本当だって証拠はどこにあるんだい。分からないじゃないか。 向こうに何が待っているか、知ってから行きたいっていう人が増えてきた。それから往復用のロケットがつくられたけど、結局誰も戻ってこなかった。涙ながらに、絶対も戻ってくるって家族を残して調査にいった人もいた。どんな障害にでも立ち向かえるような装備を組んで、自信満々に飛んで行った人もいた。でも、戻って来なかったんだ。誰も、誰の一人も。 そうすると、怖くなるじゃあないか。だんだんと変な噂が広まっていった。月を抜けたらそこは楽園だなんて、嘘っぱちなんじゃないか。あの向こうには、もしかしたら想像を絶するような地獄が待っているのかもしれない。月を抜けた人たちは、いまなおあそこで苦しんでいるんだ。そんな、噂だ。 噂はどんどん広がって定着した。最終的にはそれが人間の常識になってしまったのさ。飲み込まれたら最後、二度と抜け出ることのない煉獄に縛りつけられるかもしれない。噂に過ぎなかったそれが強迫観念になって、いまでは私たちは月に行くことはないんだ。本能がどんなにあそこに行きたいって叫んでもね」 人間は語り終えると、金属の身体を動かして歩き去っていった。やはりどこか錆ているのか、足を動かすたびにぎしぎしと鳴る不協和音がもの悲しかった。人間と呼ばれる彼らは、かつては自分の整備に余念がなかったというのに。 人間の語りを聞いても、チャボの月への憧憬は薄れることなく続いた。空の穴たる月から漏れる、青白い光に照らされた平原。そこに奇跡のように生えているひょろりとした木からチャボは世界を見て、月を見ていた。小鬼の一生ではどうあがいたところでたどり着けない場所だからこそ、人間とは違い一途に憧れることができた。 月。 チャボにとってみればやはりそれは生涯美しく、この世界で唯一の救いであり、無二の鑑賞物であり、果てなき想像を広げてくれる楽園への入り口だった。いつか月を抜け、その先にある世界を踏む。チャボは、そんな素晴らしい夢に身をゆだねた。-------------------------------------------------昔に書いた習作です。置かせてくださいませ。
ひるがえる袖祭りの夜灯がともりゆれる提灯君の声遠くよりさまよい来る風受けてひるがえる矢絣の袖結いあげた黒髪にひかる簪我知らず駆け寄りて君の名を問う頬染めてうつむいた君の愛しさお囃子よ今しばし止んでくれるな君は立つ都へと明日の朝に我は知る逢えぬこと祭り終わればこの炎消えずともひそめることをお囃子よ今少し止んでくれるなひるがえるひるがえる矢絣の袖我の手に残された君の簪*********おそらく詩でのリライトになりますが、参加させていただきます。詩はダメという方はお言いつけくださいませ。
「タイトルなんて迷う」これが病み期って奴かな何もおもしろくないサッカーもギターも読書も、何もかもいや、死にたい。とか皆死んじゃえ。とかそんなんじゃなくてもっとこう本質的なこの世界この現実この社会がおもしろくない、つまらないだって皆して周りの目とか気にして生きてるじゃん世間体とか印象とかそんなの気にせずに生きればいいのに無理して我慢して必死で模範でいたいちょっと怒られるくらいでいい自分でいたいってそうやって私の周りはどんどんどんどん福祉? 公共の福祉? だっけかを気にするんだろうね馬鹿みたいに、あれはいいこと。悪いこと。って言われるんだろうね今朝見た猫の死体はなかなかよかったと思う腕が千切れかけてて、血がどばあってなってて、四肢がだらーんって伸びきってて目があったときは思わず笑ったくらいに、よかったあれはあれで芸術かも。命の芸術。みんなああなるんだね悲しいようで、悲しくないおもしろいようで、おもしろくない世界はこんなに正直なのに、そこに住む人間はそうじゃない嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つきばか。しね。あなたは何を思う?ああ、明日も生きたいあの人と付き合いたいあれがほしい、これがほしい毎日が楽しい平和で嬉しいばかみたいだね君はおかしいね死ねばいいのにねここにいるのは何故何故何故さあ命のシンフォニーを奏でよう今日は今日、明日は明日心臓が鳴っている胃がぎゅるぎゅる鳴っているいいよ君達、最高だ一緒にがんばろう生き抜こう正気の沙汰じゃないよねわかってるありがとうありがとうQ:この社会は好きですか?A:私がいる限り、大好き。愛おしい** * *手帳に書いてあったメモというか詩というかはっきりしない文字の羅列です。1ページにずらぁっと書かれていました。今思い出しても、いい気はしない。最後の2行は隅っこにぐちゃって書かれてた自問自答。どんだけ好きなんだ自分。リライトしにくいでしょうが、お願いします。
彼女がいなくなったのは、秋口だった。残暑も忘れさったかのように、涼しげな風の吹く日があったかと思えば、また急に真夏に戻る。けれど水道を捻ってみれば、手に触れる水は思いがけず冷たい。そういう、季節の移ろいにふと気づく朝のように、彼女の姿も、気づけば部屋から消えていた。 彼女がぼくの部屋に住み着くようになったのは、祖母がひっそりと逝った去年の初夏、葉桜の季節のことだった。 祖母は口がきけなかった。耳は年相応以上にしっかり聞こえていたが、喉が悪く、言葉を発することができなかった。 祖母はとても物静かなひとで、それはもちろん彼女の障害のためということもあったけれど、それ以上に、自分の意見を前面に押し出そうというところのない女性だった。どうしても何か伝えたいことがあれば、いつも持ち歩いている広告の裏を綴じたメモ帳に、ちびた鉛筆を持って、筆談をする。ちんまりとしてあまりきれいとはいえない、けれどひどく丁寧な字で、祖母はときおり短い言葉をつづった。 幼い頃のぼくはお祖母ちゃんっ子で、物言わぬ祖母が、どんな話にでもにこにこと笑って頷いてくれるのが嬉しく、何かあると、うれしいことでも辛いことでも、まず祖母に話した。 そして、にもかかわらず、就職してからはずっと疎遠になっていた。祖母の住む故郷は遠く、上京したぼくも、生家とは離れたところに職を得ている両親も、祖父なきあと彼女に一人暮らしをさせていることに、抵抗はもちろんあった。けれど、口のきけない祖母は、知らない人ばかりの都会にうつるよりも、誰もが顔見知りで気安い田舎のほうがずっといいと、めずらしく強く主張するように、何度も帳面に書いてみせた。うちの両親にしても、ふたりとも昼間は働きに出ていることもあって、そのほうが安心だという思いがあったようだ。 けれど田舎は遠く、ぼくの足は次第に遠のいていった。もう長いこと、年に一度、盆と正月のどちらかに顔を見せればいいほうだった。 そういう次第だから、ぼくは祖母の訃報を耳にしたとき、まずなによりも先に、罪悪感を覚えた。倒れていた祖母を見つけたのは近所に住む親戚だった。両親はかろうじて死に目に間に合ったものの、ぼくは駆けつけようとする途中で、携帯電話越しに涙ぐむ母の声を聞いた。 祖母がひとりで暮らしていた郷里の家で、通夜も葬儀も行うというので、ぼくはそのまま会社に電話を入れ、その足で帰省した。 普段はあまり弱った様子を見せない祖母だったが、それでもじきに八十という年で、大往生とまでは言わないにしても、客観的にはしんみりとした、いい葬式だったと言っていいだろう。遺影の祖母は、帰省するたびに眼にしていたのと同じ、穏やかな笑みを浮かべていた。 もう少しまめに顔を見せればよかった、もっと電話もすればよかったと、後悔をもてあましたまま二日を郷里で過ごし、東京に戻るために、バス停まで向かっているときだった。ぼくは後ろからついてくる、若い女性の姿に気が付いた。 歩きながらちらりと振り返ってみたところでは、少し野暮ったい印象の格好だった。暗い色の服も、少し派手な化粧も、けして不恰好ではなかったものの、いまどきの若い女性の装いにしては、どこか時代遅れな感じがした。 そのときは、その服装に違和感を感じはしたけれど、あまり気にしてはいなかった。何せ、交通機関も限られた田舎のことだから、駅まで行く道が誰かと重なったところで、不思議もない。 けれどバスに乗って駅に着き、電車に乗って、乗り換えのために改札を出たときに、ぼくはまた同じ女性の顔をホームで見た。 その瞬間は、偶然かとも思ったが、電車を乗り換えて、一人暮らしをしているアパートの最寄り駅を降りたところで、自分のあとに続いて彼女が降りてきたときには、偶然だの気のせいだのという考えは頭から飛んでいた。女の子に後をつけられるような覚えはないつもりだったが、どう考えても、はるばる郷里からぼくを追いかけてきたとしか思えない。「何か」 話しかけると、その女性は驚くようすも、怯むようすもなく、ただにっこりと微笑んで、小首を傾げた。十代の終わりか、二十代の前半か、それくらいの年頃に見えるが、その割にはどこかあどけないような、夢見るような表情だった。 あまりに彼女が平然としているので、実はぼくの単なる思い違いで、よく似た別の女性だったのか、それとも本当にたまたま同じ道行きになっただけなのかと思えて、「失礼」と会釈をして元通り、家路に着いた。 ところが、女性はいつまでもあとをついてくる。もの問いたげな視線を何度となく向けてみても、目が合うたびににっこりと笑うばかりで、彼女はやはり、ぼくの数歩後をのんびりと歩き続ける。 そうこうするうちに、とうとうアパートに着いてしまい、階段を上がって三階にある部屋の前までやってきたところで、立ち止まり、振り返って睨みつけたけれど、それでもやはり彼女は笑顔のままで、何の気負いもないように、のんびりと歩み寄ってきた。そうして、さも当然のような顔をして、ぼくの部屋のドアノブに、手をかけようとする。 鍵がかかっているのだから、そうされたところでドアが開くはずもなかったが、ぼくはとっさに、「ちょっと」と声を上げて、彼女の腕をつかもうとした。 その指が、すり抜けた。 背筋をいやな寒気が駆け上った。何の感触もなかった、というわけではない。指がそこを通過したその瞬間、靄のような湿った、冷えた手触りがあった。 ぼくはまじまじと、彼女を見下ろした。そうして間近に見てみると、袖からのぞく腕が、ひどく白いけれども、若く見えるわりには張りがなく、すこし疲れているようなのが、まず見て取れた。手の甲にある小さな黒子や、その上に並ぶやわらかな色の薄い産毛まで、くっきりとこの眼に見えた。 それなのに、触ることができない。 彼女は首を傾げると、凍りついたぼくから眼を逸らし、なんなくドアノブを捻って、ぼくの部屋に上がりこんでいった。 スチール製のドアの向こうに、彼女の姿が隠れ、音を立てて鉄扉が閉まった。鍵をかけわすれていたのかと、そんな日常的なことに思いが及んだところで、ようやくぼくの体は動いた。 けれど慌ててドアノブを捻ると、鍵のかかった、たしかな手ごたえが返ってくる。 思わずよろけて後ずさると、手すりが背中にあたった。独身者くらいしか住まない安アパートは、廊下も階段も手すりが低く、もう少しぼくの足取りがたしかだったなら、真っ逆さまに転落しようかというところだった。結果的には、最初から腰砕けだったのが幸いして、汚い廊下に座り込むだけですんだのだけれど。 どうにか立ち上がって、震える手でキーを差し込み、ドアを開くと、見慣れた物の少ないワンルームの隅に、当然のような顔をして、彼女がくつろいでいた。 幽霊らしいその女は、何をするわけでもなかったが、低めのかすれた声で、よく歌をうたった。 それは古い歌謡曲であったり、懐かしい感じのする童謡であったり、聴いたこともないような、中国語やフランス語の歌であったりした。彼女が歌うと、どんな曲も、気だるげでしっとりとした調子に聞こえた。 最初のうちこそ、怯えて近所のホテルに泊まったり、過労で頭がおかしくなったのだと思って、いい精神科は近所にないかと電話帳を開いてみたりしていたぼくだったが、十日もしたころには、彼女が歌う以外に何も害のないらしいことを、ようやく飲み込んだ。 それから、彼女との奇妙な同居が始まった。 その、幽霊にしては祟るでもなく恨み言をいうでもない女は、ただぼくの部屋の、何も置いてはいない片隅を占拠して、気まぐれに歌ったり、ぼくがなんとなく点けているテレビを、興味深そうに眺めたりしていた。かといって、話しかけてもにこにことしているだけで、返事が返ってくるでもない。 彼女は、驚くほどたくさんの歌を知っているようで、毎日、違う歌が部屋には流れた。残業に疲れて深夜に帰った夜などは、彼女の気だるげな歌声が、ひどく胸に沁みるような思いがした。ぼくがときどき思わず我を忘れて熱心な拍手を送ると、女は、幼い少女のように無邪気に微笑んで、優雅な礼をしてみせるのだった。 何を思ってぼくについてきてしまったのかしらないが、ただ歌うだけの、何の害もない幽霊だ。そう思う心の片隅で、けれど、昼間に仕事の波がふっと途切れて、職場の喫煙スペースで煙草を吸っているときなどには、もしかしたら彼女が祖母をとり殺したのではないだろうかと、そんな考えが頭をよぎりもするのだった。そういうときには、何も害のないような顔をしていても、何かしらの未練があるからこそ幽霊として出てくるのだろうし、それならば何をしたっておかしくない。そんなふうに考える自分と、あんな歌をうたう女性が、そんなふうにたちの悪いものであるものかと思う自分と、心が真っ二つに割れて、かみ合わない平行線の議論を始めるようだった。 といって、誰に相談できるでもない。霊感なんてありもしない(たぶん、ない)ぼくに、あれだけ鮮明に眼に見える幽霊ならば、他者にも当たり前に見えるのかもしれなかったが、過労で幻覚を見るようになったと、心療内科を紹介されるのは恐ろしかったし、まだ職場にも未練があった。それに、もしその治療を受けた結果、彼女の歌声が聞こえなくなってしまったなら、それはそれで、惜しいような気がした。 やがて夏が過ぎ去り、残暑に悩まされる日中と涼しい明け方の落差に戸惑うような、そんな頃のことだった。 それまでご機嫌で、古い歌ばかりうたっていた彼女が、ある日、目を細めて懐かしそうに、なぜか子守唄を歌っていた。曲名もしらないが、いつかどこかで聞いた歌だ。幼いころに母が歌ってくれたのかもしれない。 彼女の心にどういう変化があったのかはしらない。けれど、それまではどこか気だるくもの哀しい歌ばかりだったのに、その子守歌だけはひどく温かい調子で、本当に幼い子どもに聴かせてでもいるかのような、やわらかな声がぼくの耳を撫でた。 その歌を聴いているうちに、いい年をして子どものようにあやされでもしたものか、ぼくはしらず、眠っていた。 明け方、電気も点けたままの部屋で目を覚ますと、そこにはもう、誰の気配もなかった。 それきり、彼女の姿は見ていない。隙間風の吹く夜に、その中にもしや彼女の声が混じってはいないものかと、思わず耳をそばだてる習慣だけが、ぼくに残された。 にこにこと笑むばかりであった祖母が、口を利けなかったのは、生まれつきのことではなく、若い頃にたちの悪い腫瘍にやられて、喉の手術をして以来のことだったそうだ。 まだ声を失う前の若い頃、祖父と出会う前の一時期に、祖母が酒場で歌をうたっていたらしいと、父からそんな話を聞いたのは、ずいぶんあとになってからだった。---------------------------------------- よろしくお願いいたします!
本題の前にちょっと事務連絡。本日0時をもちまして、原作の投稿を締め切らせていただきました。と同時に、リライト作品の投稿がスタートいたします! リライト作品の投稿は無期限です。もちろん、どなた様でも参加していただけます。皆様ふるってご参加くださいませ!---------------------------------------- ……ということで、本題。星野田様の作品『杞にしすぎた男』のリライトに挑戦しました。 星野田さまのファンの方に先に謝っておきます、改悪にしかなっていませんが、どうか広いお心でお読み流しいただきますよう……!(土下座)---------------------------------------- それは遠い遠い昔、まだ平らな地面の上を太陽がめぐっていた時代のことだ。空の上には高天原(たかまがはら)、地の底には根の国があって、人々はその狭間、豊葦原(とよあしはら)の山野に海辺に、細々と己らが国を築いていた。 そのひとつ、杞の国に、ある男がいた。それはひどく神経の細い男で、ぎょろりと剥いた目でせわしなくあたりを見回しては、よくもまあと人が呆れるほど、そこらじゅうからこまごまとした不安を拾いあげてくるのだった。田を均(なら)しては、今年は雨が降らないのではないかと空を見上げ、道を歩いては、石に躓(つまづ)いて転ぶのではないかと足元に目を凝らす。 常からそのような調子であったから、男がある日急に、「あの空はいったい誰が支えているのだ」 などと言い出したときにも、邑(むら)の人々は軽く男をあしらって、「誰も支えていなくても、空はそこに浮いているものだ」 そういいきかせるのだが、男はぶるぶると震えだし、木鍬(こくわ)を放り出して駆け出した。そうして己の田畑(でんぱた)にはもう目もくれず、そこらじゅうから土を掻きだし、一心不乱に積みあげてゆく。 周りのものがあきれて、いったい何をしているのだと訊けば、男は真顔で、「天を支えなくては、いつかは落ちてきてしまう。あの空が落ちてきたならば、みなひとたまりもないだろう」 という。 はじめは誰もが笑って、また心配の虫が湧いてでたといったけれど、あまりに男が真剣なものだから、近所の童らが気の毒がって、石や小枝などを拾ってきては、男の積みあげる土に混ぜるようになった。 男はきまじめに童らに礼をいい、また黙々と土を積んだ。己が田畑が猪だの鴉だのに荒らされても、そんなことには気づきもせずに、ただただ、天を支える柱を積みあげる。やがて一人の邑人が、呆れ顔でふらりと畑を離れ、「そんな土くれでは、じきに崩れてしまって、天に届くほどには積み上がらんだろうよ」 そういいながら、仲間とともに柱を担いで戻ってきた。古くなった櫓(やぐら)を解体したときにあまったもので、それは大きな柱だったが、それでも天に届くはずはない。それからも、彼らはときおり野良のあいまを見て、樹を伐り、削っては運んできて、男とともに組みあげるのだった。 そんな日々が、何年ほど続いただろうか。男を手伝う人々は、驚くほどに増えていた。柱をつくる手伝いをするものばかりでなく、男に食べるものを差し入れる女たちもいた。己の口を糊(のり)するための田畑を蔑(ないがし)ろにしてでも、みなを落ちてくる天から守ろうと不恰好な柱をつくり続ける、そういう男の必死さに心を打たれたのだった。たとえその方法が、どんなに滑稽なものだとしても。 雨が降ろうと、不作におそわれて飢えようと、寝食も忘れんがばかりに男はせっせと柱をつくり続けた。大工連中に教わったわざで、男は足場をつくる。土の柱では重過ぎて、柱自身の重さを支えることさえ叶わなくなっていたから、足元の低いところには土をさらに厚く積み、上の高いところは丁寧にこまかく木を組んで、なるたけ軽く、頑丈な構造をつくっていった。 何年も、何年もの時間をかけて、徐々に柱はその高さを増してゆき、この調子であと何年か苦労を重ねれば、ほんとうに天まで届くのではないかと思われた。邑人たちは男をはげまし、ときに手を貸し続けた。 そんなある年の冬だった。真夜中、自分のねぐらで休んでいた男は、轟音で目を覚ました。「なんだ、いまの音は」 あわてて駆けだすと、冬の夜空には分厚い雲が垂れ込め、雪が降りしきり、その上を、激しい白光が荒れ狂っていた。 辺りには、木の燃える匂いが立ち込めている。森のほうで、あかあかと火が踊っているのが見えた。 男は弾かれたように走り出し、毎日毎日精を出して積みあげた柱へと向かった。 近づいても柱のすがたが見えないことに、男はおののいた。はじめは必死に走っていた、その足取りが緩み、力のない歩みに変わる。蹌踉とした足取りで、男は歩き続けた。 柱は燃えていた。天から降ってきた神の怒りに打たれて、ごうごうと音を立てて燃え盛っていた。 男は立ち尽くした。稲光が光っても、降りしきる雪に体が冷えきっても、ただただそこにいつまでも立っていた。 邑人たちは皆怯え、それぞれのねぐらに引っ込んで、頭を抱えて小さくなっていた。あんな柱をつくったせいで、高天原の神々がお怒りなのだと、かれらは口々にいいあって、その慈悲を乞うた。 夜が明けるまで、神鳴りは轟き続けた。 男はそれからしばらくのあいだ、呆然としてすごした。日が昇って、また沈んでも、ただ焼け落ちた柱のあとを見つめ、力なくうずくまっている。そういう男を、邑人たちは気の毒がりながらも、声をかけはしなかった。神の怒りが、己らが身に及ぶのをおそれているのだった。 男はやがて、立ち上がり、じっと空を見上げた。そしていった。「もう一度、やるぞ」 しかし邑人たちはぎょっとして、いっせいに男を止めにかかった。「あんな高い柱をつくろうとしたから、高天原の神々がお怒りになったんだ。もう馬鹿なことはよせ。柱なんかなくったって、空は落ちてはこん」「だけど」「どうしてもつくるというなら、頼むから、邑から遠く離れたところでやってくれ。おまえの怖がりに巻き込まれて、神鳴りに撃たれるのは真っ平だ。もう誰も手伝わないぞ」 その言葉は真実だった。もう誰も、男に手を貸そうとはしなかった。あの神鳴りで、柱ばかりか、森のかなりの範囲が焼かれたのだった。長年のあいだ彼らに恵みをもたらしつづけてきた森が。 男はしょぼくれて、焼け落ちた柱の前にうずくまっていたが、やがてのろのろと腰をあげた。この数年ですっかり荒れ果ててしまった畑へ戻り、土の手入れを始めた男は、しかし、その目処もたたないうちに、はっと顔を上げた。「そうだ。天を支える柱がつくれないのならば、穴を掘って、地の底に隠れればいい。俺は穴を掘るぞ。いざ空が落ちてきたときに、みんながもぐれるだけの穴を」 邑人たちはぎょっとして、男をひとしきり止めたけれど、男はきかなかった。「誰も手は貸してくれなくていい。ひとりでやる」 男はそういって、自分の畑だった場所に、深い深い穴を掘り始めた。邑人たちは、困惑して、一心不乱に穴を掘る男の背中を見下ろした。 柱をつくっていたときに身につけた大工の技で、木組みの支えを穴に添えることを、男は怠らなかった。そしてそれは、地上から穴の底に降りるための、足がかりをも兼ねた。いずれちゃんとした梯子をつくるにしても、ひとまずは己が降りられるほどのものでいい。 男は延々と、地面を掘り続けた。これで充分だろうかと、ときおり顔を上げて、そこにぽっかりと開いた青い空を見つめては、あの日のおそろしい神鳴りを思い出し、ぶるぶると震える。たったあれだけの神鳴りでさえ、あれほどに頑丈につくった柱を粉々にしたのだから、いざ空そのものが落ちてきた日には、こんな浅い穴でどうにかなるはずもない。 邑人たちは、今度は手を貸しはしなかった。それでも、男がひとやすみするために地上に上がると、誰か気の毒に思うらしいものが、黙ってその穴のわきに、握り飯なりと置いていてくれているのだった。ぼろぼろになった木鍬の替えが置かれていたときもあった。 男は、邑人たちのすべてが隠れるだけの場所をつくりたかったから、穴はしぜんと広くなった。そのぶん、深く掘るのには時間がかかる。ときには地中の岩に突き当たり、それを掘り起こしては、かついで、不安定な足場に苦労しながら、地上に運び出さねばならなかった。それでも男は根気強く、毎日毎日穴を掘り続けた。 ときおり誰かの差し入れがあったとはいえ、男はだんだんとやせ細ってゆき、また陽に当たる時間が短いためか、その肌は不健康的に青白くくすんでいった。たまに外に出ると、男は眩しげに空を見上げ、まだそれが落ちてくる気配がないことに安堵の息をついて、また穴の底に戻るのだった。 掘り続けていったある日、男は地面の底に、おかしな手ごたえを感じた。そのまま掘り続けたものかどうか、男は迷ったが、それでも、空を見上げてたしかめれば、それはまだ充分な深さではないような気がした。 ためらいためらい、男が地面に鍬をつき立てた、次の瞬間だった。男の足が地の底を抜けたのは。「これはいったい、どうしたことだ」 男はどうにか穴のへりにしがみ付いたが、やせ細った指では、たいした力も入らなかった。そのうえ脆い土のことだ。だんだんと崩れていく。やがてつかむべきところもなくなって、男は穴からすっぽ抜けると、真っ逆さまに落ち始めた。 自分の命もこれまでかと、男が観念して、かたく目をつぶったときだった。男の体を受け止める、何ものかがあった。「なんだなんだ。いったいどうして、人間が降ってくるのだ」 呆れ声がして、おそるおそる目を開ければ、男の体の下には、ふさふさとした毛皮があった。真っ白で、つややかな毛並み。その内側にはゆるやかに躍動する筋肉があり、男の体の下からは、にゅっと大きな翼が突き出していた。それはまるで、鳥の翼のような形をしてはいるけれど、まじまじと見れば見るほど、その生き物は鳥のようには、とても見えなかった。 それは、男がこれまで見たこともない生き物だった。体つきは狼に似ているだろうか。しかしこれほど巨大な狼など、男は見たことも聞いたこともなかったし、そもそも狼に翼はない。獣の額には二本の頑丈な角が生えていて、尻尾には蛇のような鱗があるし、その瞳はぎょろりと赤く光っていた。何より、「訊いているのだから、答えたらどうだ。どうして人間が、こんなところにいる」 そう人の言葉で訊かれて、男は驚きのあまり、身動きひとつとれなかった。もっとも、空中を飛ぶ獣の背中に乗っている以上、身動きなどとろうものなら、真っ逆さまに落ちていくしかなかっただろうが。男がおそるおそる、下のほうをのぞきみれば、その先は真っ暗で、地面は見えなかった。「ここは根の国なのか。俺は死んでしまったのか」 男が震えながらいうと、獣はあきれたようにため息をついた。「根の国は、まだこのはるかに下のほうだ。お前はまだ死んではいないが、ここから落ちたら、まあ、死ぬだろうな。ところで人間、おれの質問に答える気はあるのか、ないのか」 男ははっとして、獣の毛皮にしがみ付きながら、これまでの経緯を話しはじめた。いつか空が落ちてくるのではないかと、不安になったこと。それがおそろしく、天を支える柱をつくろうとしたが、叶わなかったこと。地面の下に隠れれば安心かと思い、村の地面を掘りすすめてきたが、もっと深く、もっと深くと思ううちに、こんなところまでやってきてしまったこと。 獣は面白がるように相槌をうちながら、男の話を聴いた。男は話しながら、汗を掻いていた。太陽の光もろくに届かないというのに、地の底はほのかな赤い光に照らされており、何よりひどく暑かった。獣がこれほどの毛皮に身を包んでいて、なお平然としているのが不思議なほどだった。「妙なことを考える人間もいるものだ。こんなところまで、自力で掘りすすんできた人間は、きっとお前がはじめてだろうよ」 男が話し終えると、獣は興がるようにそういって、ぐるぐると喉を鳴らした。「ちょうど小腹が空いていたから、お前を喰らおうかとも思ったが、お前はたいした食いでもなさそうなことだし、面白い話に免じて、見逃してやろう」「それはありがたい。見逃しついでに、俺をあそこまで、運び届けてもらえはしまいか」 男はおっかなびっくり、自分が掘った穴を指さしながら、獣にそう願い出た。獣は呵呵大笑し、「臆病なのか、度胸があるのか、よくわからんやつだ。どれ、ついでだ。地上まで送ってやろうよ。つかまっておれ」 そういって、悠然と翼をはためかせた。 男の掘ってきた広い穴の中を、獣はぐいぐいと上りながら、もう一度笑った。「よくもここまで掘ったものだ」 男が何年もかけて掘った穴も、獣の翼にかかれば、あっという間に上りきってしまった。地上に出ると、あたりは夜更けで、獣は月明かりを仰いで、眩しそうに赤い目を細めた。 邑人たちはすっかり寝静まっているようだった。男は礼をいうと、穴の脇に誰かが置いていてくれた握り飯を、おずおずと獣に差し出した。獣はぐるぐると喉を鳴らして笑うと、ひと呑みで握り飯を食べてしまった。「たいした腹の足しにはならんが、まあ、礼に、土産のひとつもくれてやろう」 獣はそう笑うと、男に、自分の翼の付け根を探るようにいった。 男がいわれるがままに、そこに手を突っ込むと、翼と胴体のあいだには、いくつかの小さな箱が埋もれていた。 その中のひとつを手に取ると、それは、螺鈿のみごとな細工の入った箱で、その紋様は、月明かりにきらきらと輝いた。そんな高価な細工など、一度も見たことのなかった男は、仰天し、ためらいながらも、そっと手のひらの上に箱を載せて、ため息をついた。 ありがとう、と男が礼をいうと、獣は赤い目をきらめかせ、「その箱は、開けないほうがいいだろうな。まあ、うまく使うことだ」 そういい捨てて、穴の底へ飛び込んでいった。 命拾いしたことに、しばらくは喜んでいた男だったが、やがてまた、空を見上げては、ため息をこぼした。柱をつくることもかなわず、地に隠れることもかなわなかった。空が落ちてきた日には、みな圧しつぶされて死んでしまうしかないのだろうか。 男は邑人たちに、獣の話はしなかった。ただ、穴の底を突き抜けて、広い空洞にたどりついてしまったことを告げ、けして中に落ちぬよう、子どもらを近づけぬようにというばかりだった。 邑人たちの好意で、男は邑のはずれに、新しい畑を耕すことを許された。空の落ちてくる日に怯えて鬱々とすごし、それでもその日がやってくるまでは、とにかく食わねばなるまいと、力なく新たな畑を耕していた男だったが、ある日、野良を終えて戻ると、誰もいないはずのねぐらの中で、奇妙な声がした。「開けてくれろ。開けてくれろ。この箱のなかは昏(くら)い。とても昏いのだ」 男は飛び上がって驚いた。箱は小さく、男の手の平に乗るくらいなのに、声は大人の男のようだった。「開けてくれろ。開けてくれろ。この箱の中は寂しい。とても寂しいのだ」 声はあわれっぽく訴える。男は思わず、箱を開けそうになったけれど、すんでのところで、獣の忠告を思い出した。「騙されないぞ。お前を出したら、きっと、何かよくないことをするに違いない」 そう男が虚勢を張ると、箱はひとしきり、すすり泣くような音を立てて、沈黙した。 だがそれからも毎晩、箱は男に、開けてくれろとあわれっぽく訴えるのだった。「開けてくれろ。開けてくれろ。ここから出してくれたなら、お前の願いをかなえてみせよう」 何日めかに、箱の声はそういった。男は思わず考えこんだ。それから、おそるおそる箱に訊ねた。「空が落ちてこないようにできるか」「それは難しい。しかしやってみよう」 箱は答えた。男はさらに考えて、慎重にいった。「開けるなり、俺を喰おうという魂胆じゃないだろうな」「お前に危害を加えることはしない。約束しよう」「邑人たちを喰ったりしないか」「しない。私はただ寂しいのだ。この狭く、昏く、窮屈な箱から出たいだけなのだ」 男は迷い迷い、箱の蓋に手をかけた。危害は加えないと誓ったことでもあるし、声の主が、だんだんと気の毒になってきてもいた。 男が箱の蓋をそっと持ちあげると、はじけるように、白いものが箱の隙間からあふれ出した。男はぎょっとして後じさったが、煙はもくもくと箱から立ち上り、ねぐらじゅうを覆って、さらにその外へとものすごい勢いであふれていった。あわてて男が箱に蓋をしなおしたときには、一面が真っ白に煙り、何も見えなくなっていた。「なんだ、なんだ。どういうわけだ」 男が問うと、くつくつと笑い声がした。「お前の願いはかなった。もう空はない。落ちてくる心配もいらない」 煙の向こう、どこともつかない場所から、箱の中からしたのと同じ声が響いた。「だが、空以外のなにもかも、すっかり見えなくなってしまった。お前は何者なんだ」 男が声を張りあげると、姿のない声は、楽しげに答えた。「私の名は嫉妬。私の名は疑惑。私の名は憎悪。虚飾。欲望。悲哀。後悔。私はありとあらゆる負の感情。私はもう自由だ。人々は互いに信じあうことさえ叶わないだろう」 声はけたたましく笑い、やがて飽きたように笑い止むと、ふつりと黙り込んだ。あとは男がいくら呼びかけても、何の答えも返ってこない。邑はしんと静まりかえっている。ありとあらゆる音が、白い煙に飲み込まれてしまったかのようだった。「なんということだ」 いったい己は何をしでかしてしまったのか。男は顔を覆って嘆いた。空が落ちてこないようにとは思ったが、太陽もすっかり覆いつくされてしまったいま、作物はきっと育たないだろう。邑人たちは飢える。負の感情というものが人の世に何をもたらすのか、まだ男ははっきりと理解してはいなかったが、来年の不作のことだけは、ありありと想像がついた。 ねぐらに戻り、うずくまって後悔にくれる男に、とつぜん、何者かが声をかけた。「もし。どうか、私も外に出してくださいませ」 声は、箱の中からするようだった。「もう騙されん。お前もまた、さっきのやつの仲間ならば、この世界に仇なすものに違いあるまい」 男はいって、がっくりとうなだれた。「ああ、なんということだ。俺はくるかもわからない先のことに怯えるあまり、もっと救いのない災いを、この世に解き放ってしまったのだ」 男は顔を覆ってすすり泣いた。柱をつくるあいだ、ずっと手助けしてくれていた村人たちの顔を思い出し、穴を掘っているあいだ、握り飯をそっと置いてくれた誰かもわからない人々のことを思った。 嘆く男に、声はいった。「もし。私を出してくれれば、この煙を払うことくらいはできます」 男は箱をじっと見つめ、いっとき沈黙していたが、やがて自棄のように、箱の蓋に手をかけた。これ以上わるくなることなど、なにもないような気がしたのだった。「ありがとう」 男が箱を開けたとき、その中から一陣の風が飛び出した。その風は、どこまでもどこまでも吹き渡り、世界中を覆いつくした白い煙を、きれいに吹き払ってしまった。 男がねぐらを飛び出すと、夜空が戻っていた。そこには星明りが煌々と瞬き、月が中天から静かな光を注いでいた。「もう大丈夫。闇夜にも星が光るように、空を覆う雲がいつかは途切れるように、人々の心を覆う昏い感情も、いつかは晴れることでしょう」 声は静かな調子で続ける。「人々はときに嫉妬にかられても、やがて忍耐することを覚える。疑い合う日がきても、やがては信じる心を取り戻す。虚飾を見抜く目を、人々は養うことができる。欲望に突き動かされても、優しさを思い出して自制することができる。哀しみに沈む夜にも、残ったぬくもりを取り出して耐えることができる。闇の深い夜には後悔に暮れても、やがて陽が昇れば、明日を生き抜くために立ち上がるでしょう」「お前はいったい、何者なのだ」 男は呆然として、声に問いかけた。風は小さく笑うような気配をさせて、「私の名は希望」 とだけ答えた。そうして次の瞬間には、世界中へと散っていった。 男は長いあいだ、呆然と地面の上にへたり込んでいた。やがて鶏の声が響く。男が顔を上げると、空の端がわずかに白み始めていた。 夜が、明けようとしている。---------------------------------------- 自分のペースで描写を突っ込んでいったら、無駄に長くなりました。冗長感あふれてるう!(涙) ……ごめんなさい……orz
笹原さま『ひるがえる袖』のリライトに挑戦しました。 勝手な舞台の改変、設定の追加等々、どうか寛大なお心でお許しいただきますよう、前もってお願いしておきます……!---------------------------------------- あれは祭の夜だった。小さな神輿が一台きりに、神社の境内にいくらか屋台が並ぶだけの、至極ささやかな縁日で、その頃世間には戦争の足音がひしひしと押し迫ってはいたけれど、まだ実感は湧かずにいた、そんな時分のことだった。 本来であれば学業に勤しむべき時節ではあったものの、末の妹にせがまれて、渋々下駄をつっかけた。がま口の小銭を確かめて、飴の一つも買ってやらねばなるまいかと、ため息をつきつつ家を出た。 境内には、思ったよりも人出があった。橙色の提灯が、人々の顔を照らし出している。下駄を鳴らして人波の合間を縫ううちに、金魚すくいの屋台に行き会い、妹がぱっと顔を輝かせて、あれがやりたいと駄々を捏ねた。すくうのはいいが、とても家では飼えないよ、それともお前、すくうだけすくって残らず死なせるかいと、そういって脅かすと、ぎゃあぎゃあ泣いて、ひどく閉口した。 その口に飴を突っ込んで泣き止ませ、どうにかお社の前まで歩かせると、二人して五銭玉を一枚ずつ、賽銭箱に放り込んだのだった。小さな手で律儀に拍手を打つ妹の、必死の顔つきがおかしくて、いったい何をそう真剣にお願いしているのだいと訊くと、兄ちゃん知らないの、願掛けは人にいったら叶わないんだよと、一丁前の口を返された。 呉服屋のご隠居が杖を突き突き、おぼつかない足取りでお社に向かってゆく。角の豆腐屋の洟たれが、坊主頭の友達と連れ立って走り回り、しまいには飴を落として泣き出した。見知った面々が殆どではあったが、わざわざ隣町からやってきたものか、知らない顔もちらほらとあった。どこの女学生だろう、華やかな装いの娘さん方が、鈴の鳴るような声を立てて笑っている。 途中、妹が尋常小学校の友達と行き会って、灯篭の脇で話し込みだした。まだ小さくとも女は女ということか、話には際限がない。手を繋いだまま、呆れて見守っていると、不意にどこかで、涼やかな声がした。 祭囃子に負けまいと、大声で言葉を交し合う人々の、耳の痛くなるような喧騒の中で、その声だけがひときわ澄んで、風が淀んだ空気を吹き払うように、まっすぐに耳へと飛び込んできた。 思わず声の主を目で追えば、どうやら十七、八ほどの可憐な娘御で、矢絣の着物がよく似合っていた。髪を結い上げて、年頃からすれば少し背伸びしたような、上品な簪を挿している。かの女は友人らしき女性と、何か談笑しているようだった。ときおり袖で口元を覆って、くすくすと笑う。 ぼうっと見とれていた私の視線を感じたのだろうか、かの女は友人と別れたあとで、振り返って私を見た。目が合うと、戸惑うようにその視線が揺れた。不躾を詫びるつもりで、小さく会釈をすると、かの女もまた遠慮がちに頭を下げかえしてきた。「あの、貴女は」 気が付けば、声を掛けていた。その声があまりに大きかったのだろう、かの女は吃驚したように目をぱちぱちさせてから、恥らうように慌てて俯いた。 年頃の男女が並んで立ち話をするだけで、口さがない人々の好奇心をさそうような時代だった。突然呼び止めたことの迂闊さに、自分自身が何よりも仰天して、私は慌てふためいた。「いや。その、失礼」 しどろもどろになりながら、かろうじて謝ると、かの女はうつむきがちにはにかんで、いえ、と首を振った。 振り返ると、妹はまだ友達と話しこんでいた。その視線につられたのか、かの女は私の手の先の幼い妹を見て、まなじりを緩めたようだった。子ども連れということで、警戒心も和らいだのか、かの女は小声で名前をいい、私も大慌てて名乗り返した。「その。お一人でいらしたんですか」「ええ。明日の朝にはこちらを発つものですから、最後にもう一度と思って」 かの女はそういって、東の空を仰いだ。その横顔の、透き通るように白かったこと! 空はよく晴れていて、満月からほんの僅かに欠けた月が、ひどく明るかったのをよく覚えている。「東京へ?」「ええ、東京へ」 かの女は頷いて、どこか寂しげに微笑んだ。当時、東京市が東京都へと名を変えてまもなくの頃で、復興はずいぶん進んでいたとはいえ、まだかつての大震災の記憶は、人々の中に新しかった。しかし、初対面の相手に事情を訊くのも不躾に思われて、私は口を噤んだのであった。 もう一度、会えませんか。たったその一言が、当時の私にはどうしてもいえなかった。この先の我が身の振り方も、まだ確とは定まっていなかったし、知った顔ばかりの周囲の視線も、頬に突き刺さるようだった。「兄ちゃん、行こう」 妹に手を引かれて、私ははっとした。しかし、少し待てというわけにもいかない。繰り返しになるが、年頃の男女が往来で口を利いているというだけで、見咎められるような時代のことだ。下手なことを口に出すだけで、かの女の評判に傷がつくかもしれなかった。「失礼」 ただそういって、頭を下げるほかなかった。ただ視線だけに、名残惜しい思いを託して、一度だけ私は、正面からかの女の瞳を見つめた。かの女はかすかに、睫毛をふるわせたようだった。 すれ違いざま、妹と繋いでいるのとは逆の手に、何か硬く細いものが触れた。とっさにそれを掴んで振り返ると、かの女は凝っと、私を見つめていた。その瞳が、かすかに潤んでいるような気がしたのは、私の自惚れだっただろうか。 疲れて歩けないといい出した妹を負ぶい、人目を忍びつつ掌を開くと、そこには簪があった。 驚いてもう一度振り向いたけれど、もう、かの女の姿は人混みに紛れて、確かに見定めることさえできなかった。ただ、矢絣の袖が揺れるのが、道ゆく人と人との間に、垣間見えたような気がした。 戦後、かろうじてフィリピンの地から生きて戻った後になって、ようやく近隣の人々にかの女の行方を訊ねたけれど、誰も東京に越していったという、その先を知らなかった。どうにかしてあの空襲の難を逃れていればよいがと、ただそう願うほかにできることもなく、あのときいま少し勇気を振り絞ってかの女の行く先を訊ねてさえいれば、何かが違っていただろうかと、そんな漠然とした後悔ばかりが、いつまでも胸に残った。 私の手元には、今も件の簪がある。---------------------------------------- 原作のうつくしさを壊してしまった気がする……! ごめんなさい!(土下座)
悪ノリしすぎてしまったようで、星野田さんに怒られそうな気がして怖いです……ドキドキ。 なんかぼくの人格が疑われそうだなぁ(え? もう疑っているって……)。---------------------------------------- ヨセフどん (原作:星野田さん『杞にしすぎた男』) 眩しいほどに青い青い空を眺めながら、ヨセフどんはふとこう思いました。「もしかしたらよ、空が落ちてくんじゃね?」 これはあながち突拍子もない考えでもありませんでした。 だって神様ときたら、この間も海やら川やら湖やらを氾濫させて、大洪水を引き起こしてます。 ノアどんのアークがなければ今頃みんな水の底に沈んで、文字通りどん底の暮らしだったわけです。 でもなんでノアどんはアークなんか買ったんだろう。キャバクラに行きたいんだけど奥さんが怖いから、キャバクラにいった「つもり貯金」をして小金を貯めているという噂は聞いたことあるけど、その小金で買ったのかな。それにしてもなんであんなでかいアークなんだ? キャバクラといえば「エデンの園」のイヴちゃんは元気かな? そういえば浦島どんはキャバクラ通いが祟って、水の底に沈んでいないのにどん底の暮らしを送っているよなぁ。 なんてことをツラツラと考えていたら、「ニュニュニュ」と空が少し落ちてきたように見えました。「ヲヲヲヲヲヲヲヲ!」 もはやヨセフどんの「もしかしたらよ、空が落ちてくんじゃね?」という妄想は「落ちてくっべ! 落ちてくっべ! 空がよ、アソラソラ!」と確信へと変わりました。 なにしろ神様がやることです。あんなの計画性の欠如した気まぐれ野郎の何物でもありません。実際に後でリサーチしたところ、神様はこの時ほんの少し空を落としてみたそうです。発注した天窓と空の寸法が合わず雨漏りがひどかったので、空の位置をチョチョチョと調整してみたら、ニュニュニュと空がずれちゃったとか。発注した際に寸法を測り間違えたのが原因だったようですが、そもそも思いつきで空に天窓をつけようなんてのが計画性の欠如した気まぐれ野郎な証拠です。困ったもんですね。 それはさておき、ヨセフどん。空が落ちてきたら潰されてしまう、潰されたらもう明治製菓のアーモンドチョコを貪り食うことも、とんねるずのみなさんのおかげでしたのきたなシュランで紹介されたお店に食べにいくこともできなくなります。なによりもまだ「みひろFINAL 最後で最高のイカセ技、全部見せます」をレンタルしてないじゃないか! みひろパワー全開! 志村けんなんかに負けるな! ということでヨセフどんは空を支えるための竿をおったてはじめ……違った……柱を組み立て始めました。「なんだ、ヨセフどん、朝もきちんと立たない奴に空を支える柱なんか組めるわけねえべが!」「ソラを支える? いつからヨセフどんは巨乳好きになっだんだ? 蒼井そらちゃんはおめえにゃ無理だ。今まで通りみひろで我慢しとれ」「だいたいが蒼井そらだとかみひろだとか言っていることが軟弱なんじゃ! やっぱり伝説のグラインド長瀬愛だろ!」 とまあカンカンガクガク。みんなヨセフどんに口は出すけど手助けはしない。そもそも空が落ちてくるなんてのは荒唐無稽な話じゃないか。水が溢れればこの間みたいに洪水にはなるけど、一体何が溢れれば空が落ちてくるんだい。雲が溢れるのかい? 虹が溢れるのかい? それとも風が溢れるのかい? エトセトラエトセトラ。「じゃかましいやい! 俺は空がニュニュニュとほんのちょこっとだけど落ちてきたのを見てるんだよ。いいか、空が落ちてきたら潰されちまうんだよ。潰されたらチョコもきたなシュランもみひろもパーなんだよ。だからこの柱を組んで空を支えるんだよ。この柱を立てなかったら、お前らの○○○も一生立たなくなるんだぞ! それでもいいのかよ?」 ○○○が一生立たなくなって「いいのかよ?……はい、いいんですぅ」なんて答える男はそうはいない。みんな「アワアワアワ」とあわててヨセフどんの手助けを始める。ちなみに「○○○」には「メンツ」という三文字が入る。違う三文字を想像してはいけない。 こうして柱はあっという間に神様のところまで届いてしまいました。 面食らったのは神様。挨拶も手土産もなしになんなんだよ! だいいち、蒼井そらだみひろだ長瀬愛だとのたまっている奴らに侵入される筋合いはない! ちなみに神様のお気に入りは「なんといっても松島かえでだ!」。 激怒した神様は「二度とボーイズトークができなくしてやる!」と男どもの使う言葉をバラバラにしてしまいました。 例えばAさんはハナモゲラ語、Bさんは女子校生語、Cさんはコバイア語、Dさんは落語、Eさんは業界用語、といった感じです。 そして「目障りじゃ!」と柱に向かって昔話に出てくるようなおじいさんとおばあさんの、あんな写真やこんな写真をこれでもか、と見せびらかしました。 哀れ柱よ柱よ哀れ……あれよあれよと「フニャフニャシュポン」と崩れ落ちてしまいました。 さて困ったヨセフどん。もう仲間を集めて柱を組むどころか、ボーイズトークもできなくなってしまいました。しかもツタヤには「みひろFINAL 最後で最高のイカセ技、全部見せます」の在庫がありませんでした。もう泣きっ面に蜂です。「それでも空は落ちてくるっぺ……」 そこでヨセフどんは以前、ダンテどんと一緒に煉獄・地獄食い倒れツアーに出かけたことを思い出したのです。「そうか、上がダメなら下があるじゃないか」……短絡的というなかれ……。 ダンテどんと一緒にたどった道は何となく覚えています。だからその道をたどることにしました。ダンテどんと一緒なら心強いのですが、彼は先のツアーで親密になったベアトリーチェ嬢と駆け落ちをしてしまったのです。今頃どこで何をしているやら……ハァ。 はてさてとトコトコと地下へ降りていくヨセフどん。地獄の門を通り過ぎ、辺獄を抜け、ケルベロスに餌をやり、ブルネット先生と談笑し、アニェールの合身に拍手し、下へ下へと降りていきます。 そして贋金造りたちがたむろしているところまで降りていくと、そこに懐かしい顔を見ました。「おお、ウェルギリウスどん、こんなところでお目にかかるとは!」 それはヨセフどんの幼馴染であるウェルギルウスどんでした。「これはこれはヨセフどん。僕は今ここの管理人をしているんだよ。派遣社員だけどね。それよりもなんでまた地獄に?」「いやいや実は云々(省略)」「ははぁ、でもヨセフどん、ここから先の地獄はいま改装工事中なんだよ。アトラクションを増やすみたいだ」「なんですと!」「残念だけど、地上に戻ってもらうしかないな。ほんと、ごめんね」 せっかくここまできたのに、もう先へは進めないヨセフどん。不憫に思ったウェルギルウスどんはヨセフどんにお土産を手渡しました。「これ、質流れの品なんだけどさ、玉手箱。よかったらもってかない? あけちゃいけないんだけどね」 そうです、キャバクラ通いの借金で首が回らなくなった浦島どんは、大切にしていた玉手箱まで質に入れていたんです。「もらってくれる? 実は手に余っていたんだ。ありがとう。でもあけちゃいけないんだけどね……ウフフ」 こうしてヨセフどんは浦島どんの質流れの玉手箱をもって、地獄をあとにしました。 さて、地上に戻ったヨセフどん。悶々としています。空が落ちてくる恐怖や、あけたいのにあけちゃいけない玉手箱。それにいまだに「みひろFINAL 最後で最高のイカセ技、全部見せます」が在庫切れなんです。これで悶々としない男はいません。「おい、あけろよ、この野郎!」 たまに玉手箱が悪態をつきます。「それが人にものを頼む態度か!」 ヨセフどんは取り合おうとしません。「てめぇ、食い殺すぞ! ゴルァ!」「おおおお、上等じゃねえか、やれるものならやってみそ!」 ヨセフどんも負けてはいません。「暗いよ~ 狭いよ~ 怖いよ~」「お前は面堂終太郎か!」 わからない人はウィキペディアで調べましょ。「わかった。わかった。じゃどうすればあけてくれるんだよ」「じゃ『みひろFINAL 最後で最高のイカセ技、全部見せます』を借りてきてくれ」「それは無理な相談。玉手箱は吉沢明歩ファンだと相場が決まっているんだ」 ボコ! 玉手箱に一発グーパンチを入れるヨセフどん。「いてーなこの野郎。暴力反対! 暴力反対!」「わかったわかった。じゃみひろはあきらめるとして、空が落ちてくるのを止めてくれるか?」 しばし沈黙……玉手箱の思考がグルグルと回っている様子……そして。「それは難しい。しかしやってみよう」 ということでヨセフどんはそっと玉手箱のふたをあけてしまいました。 どこかからウェルギルウスどんの「ウフフ」という笑い声が聞こえた気がしましたが、もうあとのまつり。 玉手箱の中からは白い煙がモクモクとモクモクとモクモクとモクモクとモクモクと……とにかくいっぱい出てきました。 あわてて蓋をしめるヨセフどん。でも時すでに遅し。その白いモクモクは部屋いっぱいに広がると、家の外へ漏れ始め、国を覆い、山河を越え、やがて全世界一面に広がってしまいました。「ワワワワワワワ! なんじゃこれ!」「こうすれば空は見えないでしょ? だったらもう空はないも同然。落ちてくる心配も無くなったでしょ?」「お前は一休さんか! トンチくらべしてるんじゃねえんだ。だいたいこの白いモクモクはなんだ?」「それではお答えしましょ。このモクモクは "嫉妬" "疑い" "憎しみ" "嘘"" 欲望" "悲しみ" "後悔"。つまりありとあらゆる負の感情の盛り合わせで構成されております」「そうか、そうだったのか……騙された……お前……玉手箱じゃなくて……」 ヨセフどんは以前は玉手箱だったものをキっと睨みつけるとこう言い放ちました。「玉手箱じゃなくて……パンチラの箱だったんだな!」 ボコ! ヨセフどんにグーパンチを入れる以前は玉手箱だったもの。「アホか! パンチラじゃなくて、パンドラじゃ! チラじゃなくてドラじゃボケ!」「……シャレのわからん箱だ……。騙しやがって……」「……」「おい、なんとか言ったらどうだ?」「……」「おーい!」「……」 パンドラの箱からの声が消えてしまいました。「パンドラさん?」「……」「パンドラさぁんってばぁ?」「……」「おい! パンチラ!」 ボコ! 無言のグーパンチ。「あーあ、どうしよ……」 途方に暮れている、というかもはや諦めきってボーっとしているヨセフどん。すると先ほどとは違う声がパンチラの……違った……パンドラの箱から聞こえてきました。「ねぇねぇ。僕も出してよ!」「ふん。声色を変えたってもう騙されないもんね!」「いいじゃん。騙されたと思って出してよ」「人はそう言われて本当に騙されるんだよ」「そんなこと言わないでさ。さっき出払っていった負の感情を拭い去ることはできないけど、モクモクを吹き払うことくらいはできるよ」「だいいち、お前誰なんだよ?」「本名は "希望"。 ニックネームは ”期待”。ペンネームは ”未来”。ハンドルネームは……」「わかったわかった。もうどうでもいいや」 再び蓋をあけるヨセフどん。すると箱から一陣の風が飛び出し、あっという間に世界中のモクモクを吹き払ってしまいました。「これでもう安心。嫉妬しても耐えることができます。疑う事はあっても、信じる心も持っています。嘘を言われても、見破る目をもっています。欲望に負けそうでも、勝とうとする意志があります。悲しみに沈んでも、次への希望があります。後悔の念を抱いても、明日という未来があります。とにかくまぁ……そういうこと。それでは……ドロン!」 モクモクの消えた家の中。ヨセフどんは窓から身を乗り出しました。そして上を見上げます。 眩しいほどに青い青い空が見えました。でももうヨセフどんには空が落ちてくるという恐怖はありません。恐怖に打ち勝つための希望に燃えているからです。 そうです。希望に燃えるヨセフどん。「そうか。こうしてメラメラと燃えているうちに行ってみよう!」 ということで希望に燃えるヨセフどんは再度「みひろFINAL 最後で最高のイカセ技、全部見せます」を借りにツタヤに向かいました。 ツタヤに向かう道すがら、希望に燃えながら再び空を見上げるヨセフどん。 そこにはやはり眩しいほどに青い青い空が見えました……そしてそれはニュニュニュと少しずつ落ちているのでした……ウフフ。
原作がきちんとした完結した世界を持っているので、リライトが難しかったです。 結局は原作とほとんど変わらない内容になってしまいました。---------------------------------------- 夜想曲 (原作:紅月 セイルさん『黒猫夜想曲-BlackCatNocturne-』) ボクが真子さんとの同居を始めた夜もこんな感じだった。お月様の佇まいは柔らかい外套のようで、そんな月光の回りに群がってくる無数の星々は、両手ですくい上げたくなるほどにせわしなかった。夜風がボクの体をフワリと撫でていくと、その夜風を追いかけてこの静かな夜に飛び込んでいきたくなる。もちろん、飛び込んだりはしない。今宵は真子さんのそばにいるべき夜であり、そんな夜にボクと真子さんは同居を始めたんだ。「クロー? あ、いたいた」 振り返るとそこには淡い桃色のパジャマに身を包んだ女性。お風呂上がりなのか、肩まで伸びた栗色の髪はまだ少し濡れて光沢があり、頬は薄紅色に上気している。首にかけたバスタオルでその薄紅色の頬を撫でながら近づいてくる。これがボクの恋する人であり唯一の同居人でもある真子さんだ。「寒くないの?」 そう言いながらボクのいるベランダに出てくる。「きゃ……。さ、寒い!!」 それはそうだろう。もう十月も終わるころ。晩秋というよりは初冬に近い夜風は、お風呂上がりの肌には余計に辛いに違いない。 心配して一鳴きしてみると、「あはは、平気だよ! 平気、平気!」とにこやかに笑ってボクの横に座った。と、思ったら「あっ! そうだ!」とすぐに立ち上がり部屋に戻っていく。相も変わらず忙しい人だ。まぁ、退屈しなくていいし、そんなところが好きなんだよね。「ただいまぁ。はい、クロ、これ」 しばらくしてベランダに戻ってきた真子さんの手には、湯気が昇るマグカップとボクの水飲み用容器があった。その容器を真子さんは朗らかに笑ってボクの前に置いた。 はて、なんだろう。ボクの容器には、いつもは鏡のように透明な液体が入っているのに、今夜それを満たしていたのは真っ白な液体だった。「ホットミルクだよ。もちろん温めのね」 ホットミルク……初めてだ。少し手で掬ってみる。「温度は大丈夫だよ。ちゃんとクロが飲めるくらいにしたから」 なるほど。確かに温めだ。「さ、さっ、ぐいっと」 いやいや、ぐいっとって……。さすがにそれはできないですよ、真子さん。 顔を近づけて、おそるおそる一舐めしてみる……暖かくて、ちょっと甘くて、優しい味がする……おいしい! あとはもう夢中でペロペロと舐めはじめる。そんなボクを見て真子さんもホットミルクの入ったマグカップを仰いだ。「……ぷはぁっ。いいねぇ~、温まるねぇ、クロ」 ……うんうん。温まる。とてもとても温まるよ、真子さん。 それはそれは心地の良いノクターンであった。
原作が持っている雰囲気に共感できる部分が多々ありました。 なのに中途半端なリライトになってしまいました。---------------------------------------- 薄墨色の歌 (原作:弥田さん『歌と小人_』) 緑のこびとに出会ったのは夜の帰り道、めまいがしそうなほど広い田んぼの中を通る、一本の田舎のあぜ道でのことでした。林檎のような丸いお月様が、わたしを蒼く照らし出す、酔ってしまいそうなほどに幻想的な夜でした。妙に心が弾むようで、それでいてなんだか無性に寂しい、心に変なもやがかかってしまって自分の気持ちがよくわからない、そんな夜でした。「そこのお嬢さん」 暗がりから飛び出してきたその緑のこびとの第一声です。「歌いたいのかい?」 その緑のこびとは頭のてっぺんが、わたしの腰の高さまでしかありませんでした。「ねぇねぇ、どうなんだい? 歌いたいのかい?」 それは質問ではなく、自信に満ちた、強く念を押すような語りかけでした。緑のこびとは言葉を続けます。「歌いたいんだろう? 答えなくてもわかっているさ。お嬢さんは歌いたがっているんだよね。ぼくは緑のこびとだからさ。それくらいお見通しなんだよ」 まるで急流のような早口でそれだけ言い終わると、ゆったりとした、今までに見たことのない踊りを始めました。ゆっくりと、ゆっくりと、両手で大きな円を描きます。両足で小刻みに拍子を取っているんだけど、体は全く上下に揺れていない、まるで空中に浮かんでいるような踊りでした。そんな緑のこびとの踊りを見ていると、わたしの胸のあたりが、わたしの体から切り離されて、まるで緑のこびとと一緒に空中を舞っているような感覚に襲われ始めました。「さあ、歌いたいんだろう?」緑のこびとが再び訊ねてきます。いや、それはむしろ歌を歌うための合図のように思えました。 ……そうなのかもしれない。緑のこびとの言うとおり、わたしは歌いたいのかもしれない。いやわたしは歌いたいんだ。 わたしは深く息を吸い込み、もう少しで空中に霧散しそうになったわたしの胸のあたりの感覚を取り戻すと、今度はわたしが緑のこびとに訊ねました。「ねえ、緑のこびとさん。それはなんという踊りなの?」「月の踊りだよ。さあ、お嬢さん。早く歌いなよ。歌詞がわからなくても、節を知らなくても、どうってことないんだよ。思いつくまま気の向くままにさ。どうせ誰も見ちゃいないんだし」 歌いたい。歌いたい。わたしはこんなにも歌を歌いたかったんだと、自分でもびっくりするくらいにそのことに気が付いたのです。だけど、何を歌えばいいのでしょう。一番好きな流行り歌にしましょうか。それとも学校で教えてくださったお歌にしましょうか。なかなか決めることができません。いえ、決められないのではなく、歌を歌いたいのに、歌いたい歌がないのです。なんというもどかしさ。このままでは、わたしの中の何かが荒れ狂ってしまいそうです。たとえようもない波にさらわれてしまいそうです。そんな何とも言えない感覚に襲われます。それは今までに味わったことのない焦りと恐怖でした。歌を歌いたいのに、歌いたい歌がないなんて……。 緑のこびとはそんな焦りと恐怖に駆られているわたしを踊りながら無表情に見つめていましたが、ふいに不敵な笑顔を見せるとこう提案してきました。「歌いたい歌がないのなら、お嬢さん自身が歌になればいいんだよ」 一体どういうことでしょう。わたし自身が歌になるとは。わたしのことを歌えばいいのでしょうか。それともわたしが歌に変身するべきなのでしょうか。「さあ、思いついた詞を歌ってごらん。思いついた旋律を歌ってごらん。何も考えず、何も心配せず」 そう言われてわたしはやってみました。大きく息を吸い、頭の中を一度空っぽにして、そうして思いついた詞を、思いついた旋律にのせ、ゆっくりと歌い始めました。 先の詞なんて心配することはない。前後のつながりなんて気にすることはない。一言一言、一文字一文字を大切に旋律にのせて。歌う。歌う。歌い続ける。あぁ、いい気持ち。とてもいい気持ち。なんていい気持ちなんだろう。わたしの中にあった焦りと恐怖が、荒れ狂ってしまいそうになった何かが、詞とともに、旋律とともにわたしの体の中から流れ出ていきます。「なかなかいいじゃないか、お嬢さん」 流れ出ていく感覚と入れ替わるように、これまた今までに味わったことのない不可思議な感覚が、胸を中心にして体中に拡散していきます。いえ、そうではありません。感覚ではなく、わたし自身が拡散しているのです。わたしの手が足が体が、林檎のような丸いお月様に蒼く照らし出された夜のしじまに拡散していくのです。それは肉体の消滅です。それは精神の消滅です。そしてそれは存在の消滅です。それでも恐怖は全くありません。拡散していく存在に反して、歌が高く高く澄んでいくのがわかります。さぁ、もっともっと冴えわたるがいい! あのすまし顔のお月様に届くくらい、高く高く、もっと高く、ずたずたに切り裂いてやれるくらいに鋭く! 緑のこびとはわたしの歌に合わせて踊っています。わたしは歌の拍子をどんどんと速くしていきます。緑のこびともそれに合わせてどんどんと踊りを速めていきます。もはやそこには緑のこびとはいません。わたし自身もいません。そこにいるのは「踊り」と「歌」だけなのです。 いまや月光ですら、わたしたちを照らし出すことはできません。緑のこびとは踊りとなり、わたしは薄墨色の歌になったのです。 蒼く明るい満月の夜。わたしは緑のこびとと共に世界を祝福します。わたし自身の旋律となり、緑のこびとの踊りの周りを舞います。もっともっと高く透きとおって。もっともっと鋭くなって。みんなを、全てを、ズタズタになるまで祝福してさしあげます。 林檎のような丸いお月様が、冷たく地上を照らしていました。
どうリライトしようか迷った作品です。 結局は時勢をいじって、ちょっと気になった箇所を直したくらいしかできませんでした。----------------------------------------チャボ (原作:とりさとさん『月を踏む』) チャボは、月が好きだ。 この世界で月という存在は、夜空という天蓋に穿たれた唯一の穴だった。この世界の大地は一枚岩でできており、そこに半球の蓋をかぶせるように空があった。世界の果てには真っ暗な空と同じ壁があり、決して傷つけることは叶わない。この広い広い世界は、そうやって完結していた。 ただ、その世界から抜け出すことができる穴がある。それが月だ。天上で終始輝く月は、世界にぽっかり空いた穴である。閉じられた世界から、動かず欠けることなどない丸い月を抜けると楽園が広がっていると信じられ、この世界の住人はそこにたどり着く事を望みとしていた。 チャボとて例外ではなく、だからチャボは、月が好きだ。 小鬼のチャボがこの世界にひとり放り出されたのは、チャボが生まれて三日目のことだった。わずか三日でチャボの母親は先立ってしまったのだ。 チャボの身体のほとんどは土くれでできており、そこに木の葉が練りこまれることで動いていた。チャボの母親が自分の死期を察して造られたのがチャボであり、チャボは造られた瞬間から母親の記憶と知識を受け継いでいた。元来、小鬼とはそういうものだった。ただ、チャボはチャボであって母親ではなかった。これまで連綿と受け継がれているどの小鬼でもなく、強いて言えば、その総体がチャボであった。 丸い月を抜けて楽園にたどり着くこと。それはチャボの望みでもあり、いままでのすべての小鬼の望みでもあった。そしてそれは小鬼だけの望みではなく、この世界に生きるものすべての原初に刻まれた本能であった。月を抜ければ楽園がある。それは動かず欠けることなどない丸い月の存在と同じくらいに揺らぎのないことだった。しかし小鬼の寿命は短い。何世代も続いた小鬼の歴史においても、結局は月にたどり着くことは叶わなかった。チャボは月に行くことをとうに諦め、代わりに純粋な憧憬の想いを月の向こうに向けていた。 チャボは、平原にたった一本生えている木に住んでいた。家族もおらず、仲間のひとりもいなかった。淡い月光に身をまかせながら、何をするでもなくぼんやり過ごしていた。仲間を増やそうと思えば、茂っている葉っぱの分だけ増やせるのだけれど、チャボにそんな気は起らなかった。母親のように、死期を悟っても自分の記憶を受け継がせる器をつくらないだろうということも半ば確信していた。チャボは一人生き、一人死のうと決めていた。チャボが死んだ時は小鬼という種族が滅びる時だったが、それで構わないとチャボは月を見上げて達観していた。 チャボより十代ほど昔の小鬼が、偶然出会った人間からその種族が月を抜ける手段を手に入れたと聞いていた。たまさかここを通りかかったその人間は、全身で月光を反射させ、ぴかぴかと輝く顔で「もうすぐ私たちは月を抜けられる」と嬉しそうに語っていた。後日、遠く離れた場所から先のとがった筒型のものが何本も月に向かって打ち上げられ、空の抜け道を通り過ぎて行ったのを目撃していた。 受け継いだその記憶から、チャボは人間という種族は月を越えたのだろうと判断していた。もう人間はこの世界に存在しないと、そう思っていた。 ある日、チャボは人間と出会った。人間なんてもう存在しないだろうと思っていたのでとても驚いた。その人間はチャボが持つ古い同族の記憶にある人間と違って、暗い印象を与えた。鈍く月光を反射させるその身体は、どことなくくすんで見えた。ぴかぴかと輝いていた顔にいたっては、どこか錆付いているようにすら見えた。 チャボがどうしてここにいるのかと疑問をぶつけた。もうとっくに月を抜けたものだと思っていたと。すると人間は深い深いため息をついて、ぽつぽつと少しずつ語り始めた。「月を抜けたころ、か。随分と昔の話だな。当時の私たちは喜んだ。月を抜けることがこの世界に生きるものの望みなんだからね。何人もの人間が月を抜けていくのを見て無邪気に心を躍らせた。自分の番はまだかと、待ちきれなくてうずうずしていた」 そこまで話すと人間は一息いれた。チャボは先を急かすことはせず、ゆっくりと次の言葉を待った。「ただその中でふと誰かが呟いたんだよ……誰一人として帰ってこないな、って」 人間というのは、何か新しいもの、信じられないもの、とても愉快なもの、とても素晴らしいものに遭遇したら、誰かれ構わずに教えたくなる性を持つ生き物である。チャボの知識の中にもその情報は刷り込まれている。だから楽園にたどり着いたのであれば、誰かひとりくらいはその素晴らしさを伝えに帰ってくるはずである。たとえ多くの人間が楽園の生活に安住して、その性を蔑ろにしてしまったとしても、ひとりくらいは「教えたい」という欲求を抑えることができないはずだ。それなのに誰一人として帰ってこない……これは一体何を意味するのだろう……。「多分それは、本当に純粋なただの疑念に過ぎなかったんだ。でもね。その一言は私たちの胸に波紋を投げかけた。私たちは盲信的に月の向こうには楽園があるって信じてきたけれど、それが本当だって証拠はどこにあるんだい。分からないじゃないか」 人間は悲しそうに首を振ると、続きを話し出した。「向こうに何が待っているか、ちゃんと知ってから行きたいっていう人が増えてきた。涙ながらに、絶対に戻ってくると家族を残して調査にいった人もいた。どんな障害にでも立ち向かえるような装備を組んで、自信満々に飛んで行った人もいた。でも、誰一人として帰ってこなかったんだ。誰の一人も」「そうすると、怖くなるじゃあないか。だんだんと変な噂が広まっていった。月を抜けたらそこは楽園だなんて、嘘っぱちなんじゃないか。あの向こうには、もしかしたら想像を絶するような地獄が待っているのかもしれない。月を抜けた人たちは、いまなおあそこで苦しんでいるんだ。そんな、噂だ」「噂はどんどん広がって定着し、最終的にはそれが人間の常識になってしまったのさ。月を抜けたら最後、二度と帰ってくることのできない地獄が待っているってね。噂に過ぎなかったそれがいつしか真実となって、いまでは私たちは月に行くことはないんだ。本能がどんなにあそこに行きたいって叫んでもね」 人間は語り終えると、金属の身体を動かして歩き去っていった。やはりどこか錆ているのか、足を動かすたびにぎしぎしと鳴る不協和音がもの悲しかった。人間と呼ばれる彼らは、かつては自分の整備に余念がなかったというのに。 人間の語りを聞いても、チャボの月への憧憬は薄れることなく続いた。空の穴たる月から漏れる、青白い光に照らされた平原。そこに奇跡のように生えているひょろりとした木からチャボは世界を見て、月を見ていた。小鬼の一生ではどうあがいたところでたどり着けない場所だからこそ、人間とは違い一途に憧れることができた。 月。 チャボにとってみればやはりそれは生涯美しく、この世界で唯一の救いであり、無二の存在であり、果てなき想像を広げてくれる楽園への入り口だった。いつか月を抜け、その先にある世界を踏む。チャボは、そんな素晴らしい夢に身をゆだねた。 だから、今でもチャボは、月が好きだ。