ツイッター上でリライト企画が盛り上がっていたのが楽しかったので、こちらでも提案してみようという、堂々たる二番煎じ企画です!(?) 今回はひとまずお試しなのですが、もし好評なようでしたらもっとちゃんと企画として考えてみたいなあと、漠然と考えています。----------------------------------------<リライト元作品の提供について> 自分の作品をリライトしてもらってもいいよ! という方は、平成23年1月16日24時ごろまでに、この板にリライト元作品のデータを直接貼り付けてください。* 長いといろいろ大変なので、今回は、原稿用紙20枚以内程度の作品とします。 なお、リライトは全文にかぎらず、作品の一部分のみのリライトもアリとします。また、文章だけに限らず、設定、構成などもふくむ大幅な改変もありえるものとします。「これもう全然別の作品じゃん!」みたいなこともありえます。* そうした改変に抵抗がある方は、申し訳ございませんが、今回の作品提供はお見合わせくださいませ。 また、ご自分の作品をどなたかにリライトしてもらったときに、その作品を、ご自分のサイトなどに置かれたいという方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、かならずその場合は、リライトしてくださった方への許可を求めてください。許可してもらえなかったら諦めてくださいね。 あと、出した作品は絶対にリライトしてもらえる、という保障はございませんので、どうかご容赦くださいませ。----------------------------------------<リライトする書き手さんについて> どなた様でも参加可能です。 こちらに提供されているものであれば、原作者さんに断りをいれずに書き始めていただいてけっこうです。* ただし、作品の冒頭または末尾に、かならず「原作者さま」、タイトルを付け直した場合は「原題」を添えてください。 できあがった作品は、そのままこの板に投下してください。 今回、特にリライトの期限は設けません。* 書きあがった作品をこちらのスレッド以外におきたい場合は、原作者様の許可を必ず求めてください。ブログからハイパーリンクを貼ってこの板自体を紹介される、等はOKとします。----------------------------------------<感想について> 感想は任意です、そして大歓迎です。* 感想はこのスレッドへ! リライトしてもらった人は、自分の作品をリライトしてくださった方には、できるだけ感想をかいたほうが望ましいですね。 参加されなかった方からの感想ももちろん歓迎です!
弥田さんの「Fish Song 2.0」に宛てて。あー、あれです。長い。すみません。えーっと、私信的になりますが、これは例の350枚もののパーツとして使えるように前提して書いたものなので、いろいろ、設定的な部分とかで抜け落ちているところがあります。そこらあたりは、想像の翼を広げて補完してやってください。すみません。そんなことで、よろしくお願いします、†------------------------------† 永遠に続くかと思われた銀の閃光の渦巻く螺旋(スパイラル)を抜けると、音と光と匂いの洪水が押し寄せてきた。 見覚えのない街。灰色にくぐもった夜空に向けて、無節操に伸びる古びたビルの群。その合間を縫う街路には、多種雑多な人々が方々から規律もなく湧いては行き交い消えゆく。雑然として、人と物、光と音に溢れ、欲と打算、背徳と捨て鉢でできた街。蜘蛛の糸のように張り巡らされた細く暗い路地は、どこもかしこも血と嘔吐の匂いがした。 オレは、薄暗い路地に建つ掘建て小屋の裏木戸を背に、獲物を見失った狼のような無様さで茫然と突っ立っていた。過去数年、これほどの間抜け面をさらしたことはないだろう、そんな自覚とともに。 その言葉は、ありとあらゆる雑沓(ノイズ)の中、無垢な有様で、無造作に打ち捨てられていた。 ねぇ 月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)を知らない? オレは、電飾(イルミネーシヨン)と放電灯広告(ネオンサイン)がたゆたう光の海の底から、どこにあるとも知れぬ水面を透かして、その先にあるはずの永遠(そら)を仰ぎ見た。捨てられた声の奏でる音色が、宇宙(そら)から降り注ぐ恒星群(ほし)の拍動(パルス)のようにも思えたのだが、空は、空というものがそこにあるのなら、空は、月のない夜の空は、地上のざわめきに掻き乱されて語る言葉を失っていた。 小さな失望を感じながら、欲望の泥海を見渡す。自意識剥き出しに着飾った夜の蝶(おんな)も、上っ面に語り合う家族、今宵限りの恋人たちも、街の街路の交差を行き交う誰一人として、その言葉に、その声に気付かない。気付けない。 オレは、闇を打ち消して輝くどぎつい原色の波と、闇を忘れんと華やぐ欺瞞に充ちた人いきれとを掻き分け、無惨に打ち棄てられたその言葉を拾い上げる。 誰の発した言葉か。いつ、どこで、どこから、誰に向けて? この声は、この声の持ち主は? 眺めるうち、その声は――懐かしくもあり、まるで聞き覚えのない、歌うようでありながら、その実、まるで抑揚のない冷淡なその声は、手の内でゆらゆらと揺らめいて、まばゆい無限色の光を放ったかと思うと、百億のきらめく熱帯魚(パイロツトフィツシユ)となって、星の海に跳ねて泳ぎ散って消えた。 月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)――、まったく聞き覚えのない、しかして、よくよく聞き知ったその響きを残して。 月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)、なるほど、世の中にはそんなものを捜そうという者がいるのか。 浴びせられた怒声に意識を引き戻される。ガタイのいい人力車の車夫が何ごとかわめいている。邪魔だとかそういうことだろうが、何を言っているのか聞き取れないので、全宇宙共通の言語で応える。怖れ知らずは結構だが、相手は選ぶべきだったのだ。半年は車を牽けまい。 人の気が遠退いた通りを、当てもなく歩く。意図せずたどり着いた街だ。抜け出すにも、意図のない行動を取る他ない。 いくつかのタイプに分類されうるステロタイプの見本市をそぞろ歩くうち、翅を持つ光る魚が目の前をよぎって行くのに出会す。南の空を映す穏やかな海の彩(カリビアンブルー)に輝く翅を羽ばたかせて泳ぐ熱帯魚(バタフライフィツシユ)は、まるでオレを誘うようにちらりと感情のない丸い眼を向け、その後は、何ごともなかったように泳ぎ去って行く。 人の気の引き方を心得た魚とは、面白い。 その少女は、ピンクの水玉が躍っている可愛らしいパジャマを着て、所在なげに、たった一人、街の片隅の、薄暗い裏道にしゃがみ込んでいた。上空を、ビル影の切れ目にわずか見れる空を眺めていた。「あ、ソードフィッシュ」 少女が、空を指して言うその声は、オレの期待したものではなかったが、瑞々しく澄んだ声音は、それなりに魅力的と言えなくもなかった。 真っ赤な複葉プロペラ式の旧型メカジキ(ソードフィツシユ)は、少女の指す空の闇から騒音を響かせて現れ、窓明かりの星座を浮かべるビル群をかすめて、再び夜の闇へ飛び去って行った。 少女はすでに興味を失い、ふんふん♪と口ずさみながら、指で地面に何か書き付けてる。見るともなく見ると、蛙の幼生(おたまじやくし)が列になってのたくっている。裏町で曲を生み出す少女、か。路面が舗装されていなかいことに、今、気付いた。 落ち着きなく泳ぐ魚(バタフライフィツシユ)が、少女の前を通り過ぎる。 つと少女が顔を上げ、視線を、泳ぐ魚と共に泳がせる。 見えて、いるのか。「ねぇ」 少女は、半ば眠っているような弛緩した顔で、けだるげな声を振り絞って問いかけた。「月狂い街(ストリート・ムーン・マニアツク)はどこにあるの?」 その言葉は、オレに向けられたものなのか、それとも、先導する蝶翅魚に問うたものなのか、判断は付かなかったが、少女はふらりと立ち上がると、よろよろとオレとならんで、小さな光る魚に連れられ歩き出した。 月狂い(ムーン・マニアツク)、そして、月狂い(ムーン・パラノイア)。罪作りな月は、今宵、その姿を見せていない。「あたし、会わなきゃいけない人がいるの」 夢現に少女はつぶやく。 オレは少女の顔を覗き見る。「誰に、会う」「うーん」 少女は、眠たげな表情(かお)のまま、眉間に皺を寄せて考え込む。さらさらとセミロングの黒髪が揺れる。「誰だっけ?」 覚えていないのか。「あれぇ、思い出せないなぁ。あたし、なんでこんなところにいるんだろう? てか、ここどこ? 月狂い街(ストリート・ムーン・マニアツク)って、なに?」 一応、訊いてみる。「君は誰だ」「あたしは……、あたしは浅里絵里。そこまでベタじゃないよぉ」 少女は、ぷくっと頬を膨らませる。血色のいい艶やかな頬。朱い唇をすぼませ、瞳で咲っている。可愛らしくないとは、言わない。「じゃあ、君は、思い出せる限り一番最近、何をしていた」 少女は再び首を傾げる。表情のころころと変わる娘だ。「あたし、自分ちの自分の部屋の自分のベッドで、眠ってた――、はず……なんだけど」「眠っていた、か」「もしかして、これって、夢?」 冗談めかして少女が問う。 オレは、軽く受け流すことが出来ない。「でも、夢ってこんなにリアル? 見たこともない場所なのに、こんなにはっきり見えるし、触れれるし、聞こえるし、痛いし、疲れるし。それに、こんなこと考えたり、話したり。夢ってこんなに色々できるもの?」「夢にもよるがね」 これは紛れもなく夢だ。いわゆる現実(リアル)ではない。物理世界で繰り広げられる、現実(リアル)という名の物理臨場感の幻想では、ない。『瑞樹煜』の見ている夢。オレの見ている夢。オレが否応なく放り込まれる、毎夜繰り返される疑似現実(ゆめ)。これくらいの臨場感(リアリティ)は生易しい方だ。 だから彼女は、オレと同じく『瑞樹煜』の視る夢の登場人物(キヤラクター)。オレが、崩壊し分裂した煜の精神の一部を引き継いだように、彼女もまた、『煜』の精神の中にあるなにかしら情報(きおく)から生じた投影人格――のはずなのだが。 何か、根拠の思い浮かばない違和感を感じる。これは――、今までに感じたことのない感覚。何かが、おかしい。 一つの可能性としてだが、この娘は、『瑞樹煜』の精神が創り出した幻影ではないのかも知れない。つまり『瑞樹煜』の抱え持つ『記憶(ストツクメモリー)』の投影でもなければ、何らかの『役割(ファンクシヨン)』を振られて創られたものでもない。では、何か。 ……分からない。分からないが、あるいはこれは……。 鍵は、先導して泳ぐ魚(バタフライフィツシユ)が握っている――、のかも知れない。「誰かに会わなきゃいけない気はするんだろう。だったら、誰かと会うさ。夢ならばね」「そういうもの?」「あれに付いて行けば、分かるだろうさ」 蝶翅魚が、薄ら澱んだ眼でこちらを見ている。 少女は納得いかなげに、疑惑のこもった瞳でオレを見るが、しばし考え、他にどうすることもないことを再確認して、「仕方ない、付いてってあげるわ」 と、どういうわけか恩着せがましく宣った。 獰猛な魚が来るわ 月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)に気をつけて その言葉は、少女の口から発せられたようでもあり、しかし、その声は、月夜よりも華やかで闇夜よりも澄み切ったその声は、少女の声ではありえなかった。「今、何か言ったか」 答えを知りつつ、問いかける。「へ?」 返ってきたのは、案の定、寝ぼけたような間抜けた声だった。「いや、聞き違いだろう。気にすることはない」「ふーん」 少女自身、何か気に掛かるところがあるのか怪訝に首を捻るも、諦めも早い。「ま、いいか」と、けろりとしている。 月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)――、さても月狂いに縁のある日だが、これは月の詛いなのか。 それは普通の、あまりにも普通で、雑然ときらびやかな繁華街には似合わない、簡素な街灯だった。その電灯の灯す光が、街灯の笠に張り付く光の繭のようにねっとりと膨れる。 滴り落ちる、一滴の、液状の、何か。 ぴちょん と弾けて、飛び散る。 その中から、生まれ出たものは――、魚、か? それとも、少女か? 獰猛な魚が来るわ 月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)に気をつけて 可憐な熱帯魚(グツピー)の艶やかな尾びれを持つ少女は、先に聞いたのと同じ言葉を、その可憐な唇から発した。 そして、絵里の方へつるりと泳ぎ寄ると、頬を両手に挟み、唇をぺろりと舐める。「あたし、あなたのこと好きよ」 と、熱帯魚の尾を持つ少女が言った。「あたしも好きだよ、梨花」 と絵里が返した。 二人は親しげに抱き合っている。 梨花という、下半身は素っ裸で鱗の肌を露出させているが、上半身にはなぜか体操着を着ている熱帯魚な少女は、じっと絵里を見詰め、「月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)に気をつけて」 と繰り返し言った。「月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)?」 絵里が聞き返す。「月狂い街(ストリート・ムーン・マニアツク)と何か関係があるの?」「あるとも言えるし、ないとも言える」 梨花は意味ありげに頬を歪め、「ここが、月狂い街(ストリート・ムーン・マニアツク)よ」「ほえ? じゃあ、あたしが会わなきゃいけないのって、梨花ちんのことだったの?」 いつも会ってるのにぃと屈託なく咲う。「あたしはあなたの親友の梨花であって、梨花そのものじゃない。あたしは、あなたの中のあなたの一部で、この姿は、あなたの親しい者の姿を投影してるだけのこと。けれどあたしは、そのもの梨花ではないけれど、やっぱりでも梨花でもあるの。だから、あなたを守りたい」 絵里が顔中に「?」を描いている。「そういうのは、きっとあの人の方が詳しいわ」 と、梨花がオレの方を指す。 そして、歌い始めた。――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ――「あ、それ、さっきあたしが創った歌」 絵里がくすりと咲う。「それ、あんまり歌わないでって、いつも言ってるのに」「これは、守りの歌。月狂い(ムーン・マニアツク)は誰の心の中にもある心の影。歌は、月狂い街(ストリート・ムーン・マニアツク)を月狂い(ムーン・マニアツク)で満たさないための祈り。でも、今回のは違う。これはあなたの心の影じゃなく、誰かの……」 夜が揺れる。 闇が震撼し、街が凍える。 空と地上が反転し、空に光が溢れ、地上は闇に包まれる。喧噪と静寂が化合(コンバイン)し、騒音の嵐(ノイズストーム)が吹き荒れる。天空に混沌が生じ、地上に虚無がのしかかる。 雷光を孕み渦巻く暗雲を別けて、姿を現したのは、顔。面長で、額と顎が長く半分以上を占める。押しつぶされた鼻、ぎょろりとした感情のない眼、下唇が魚のように突き出した人のように見える顔。ただし、雷雲の中に喘ぐその顔は、ゆうに二十メートルを越す。 その巨大な長顔のあとに続いて雲間からせり出したのは、青光りする鋼の鱗に覆われた獰猛な淡水魚(ピラニア)の胴体。 ぐわっと拓いた口には、鋭い歯がびっしりと並び、雷鳴轟かせる雷光を跳ねる。「なに、あれ。グロっ!」 絵里が下を突き出して嫌悪を示すのも無理はない。あれは人間が感じる嫌悪そのものを体現してる。「あれが、月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)――、なのか」 あまりの醜悪さに、情況の異様さも忘れ呆れ果てる。「そう、あれが月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)。アルバート・フィッシュとも言うわ。人喰らいの、いえ、『世界』を喰らい尽くす獰猛な魚。あなたなら、見たことがあるでしょう?」 そう問われて一度は、「いや、ない」 と応えたものの、自分の発したその答えに、オレは異議を唱える。「ある。オレは、何度かあれを、あれに似たものを狩っている」 どういうわけか記憶があやふやではっきりしないが、確かにオレは、いくつかの『世界』であれを狩っている。なぜ、何のために。思い出せないのは、なぜだ。 空が暗黒の雲に呑まれ、『世界』のあった場所に虚空が吐き出される。月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)が大地ごとさらえ呑む。生ける者も、そうでない物も、何もかも。『世界』が浸食されていく。その様子を目の当たりに見る。「普通月狂い(ムーン・マニアツク)はゆっくり時間を掛けて当人が克服していかなけらばいけない心の疵(トラウマ)。だから強制的に駆逐することはできないの。喩えそれが誰かに植え込まれたものだとしても。それができるのは、唯一、月狂い(ムーン・パラノイア)だけ。月狂いの幻影(ミラージユ・オブ・ムーン・パラノイア)と呼ばれるあなたなら、この『世界』を、あたしたちを救える」 オレがその月狂い(ムーン・パラノイア)だと言うわけか。その役割機能(ファンクシヨン)は今まで自覚したことがない。他人の夢に入り込むのも、初めてのことだ。こんなことが出来るとは、知りもしなかった。 それにしても、「随分と都合のいい話だな」 この街にたどり着いて以来ここまで、ずっと誰かのシナリオ通りに進められていたわけだ。成り行きに逆らわず来たのだから、そういう予感は無論していた。が、そうではあっても、実際、はっきりするといい気はしない。「招いたのは?」「あたし。そして、彼女。もしくは……」 輝く蝶の翅を持つ魚(バタフライフィツシユ)が、ぶるっとひとつ身震いする。と、白く輝いて蝶翅魚(バタフライフィツシユ)とグッピー女が一つに重なり、そして、絵里の中に融け込んでいく。ぐるぐると、どろどろと、『世界』だったものと合わさって、融けて、一つになって、たった一つの白い柔珠の中から生まれた、『世界』という名の古代魚(ピラルクー)。未来の絵里の上半身と、アマゾンの古代魚(ピラルクー)の下半身を持つ、巨大な、『世界』と等価の魚は、『世界』を取り巻いていた宇宙をぞろりと回遊する。「けれど、誤解しないで。あたしは、あなたのことは知らないかった。だってそうでしょう? あたしはこの『世界』の中だけのモノ。外の世界のあなたのことなんて知りようがないもの」 さっきまでの絵里のあどけなさを面影にとどめながら、格段に艶やかな大人の色気と、男には永遠に理解できないだろう深い慈愛と両立するなぞめいた微笑みを浮かべる世界魚(火らクルー)が、この期に及んでなお、言葉を弄ぶような言い訳めいた言葉を並び立てる。 オレは、彼女の掌に載せられ、その言葉を聞く。「どういうことだ」「あなたを招いたのはあたし。でも、そのお膳立てをしてくれたのは、あなたのよく知っている女性(jひと)」 あぁ。合点した。なんてことだ、それに気付かなかったことが、どうかしていたのだ。「もういい、分かった。皆まで言うな。あれの真意は、あれに聞かねば分かるまい」 瑞樹まど香――、瑞樹家の長姉。崩壊し分裂した『瑞樹煜』から生じた、かつての長姉を思う気持ちが人格化した。天下無敵のお節介焼き。「やれやれ、だ」「助けてくださるのね」「オレに、他の選択肢は与えられていない」「ありがとう」 三人が三様の声で礼を言った。「礼は、あれに言ってくれ」 溜息を吐きつつ、必要以上にぶっきらぼうに聞こえるよう言った。 言ってる間にも、月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)が迫り来る。目標を細くした捕食者が、牙を剥いて襲ってくる。 三人が、一つの唇で、三つの声、三人分の祈りを込めて、歌を歌う。――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ―― 緊張感に欠ける曲だが、『世界』を『世界』として保とうとする願いが込められている。 追従して唸りを挙げるエンジン音。「ソードフィッシュか」 旗魚(ソードフィツシユ)の長く鋭利な角(レイピア)が、獰猛な歯をむき出して威嚇する月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)を貫く。 月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)の動きが鈍り、サイズも、いつの間にか、格段に手頃なところに落ち着く。それでも、この『世界』のモノに月狂いの魚(ムーン・マニアツク・フィツシユ)を捕殺することはできない。 だからこそ、オレがいる。 オレの背丈よりも少し大きいだけになった、クリストファー・ウォーケン似の魚の背に馬乗りになり、馬鹿長い額に、強烈なデコピンを喰らわす。「ギャバン、ダイナミック!」 * ――というところで目が覚めたの」 浅里絵里は、橘梨花と二人並んで、学校の屋上に仰向けに空を望んで寝っ転がっている。「いい天気だねぇ」 語り終えた充実感を噛みしめて絵里がつぶやく。 梨花は、むっくり起き上がって、いつも持ってるギターを小脇に抱えて歌い出した。――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ――「だから、その曲は歌わないでって」 絵里は、赤面しつつ慌ててギターを止めようとするが、ギターは留まっても梨花の声は留まらない。「世界を救う歌だよ、一緒に歌おうよ」「だからそれは、夢の話しだってば」「夢だって、大事な大事な『世界』だよ」 梨花がつぶやく。 絵里が不思議な顔をするが、「そうね、そうかもね」「じゃあ、夢を救う歌、歌いまーす」――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ――「だから、それは止めれって」 少女たちの笑い声が、抜けるような雲一つない青空に響く。 どうやらオレは、ひとまず御役御免のようだ。
改僕しました。良くも悪くも、僕っぽく。良い悪いは読む人しだいで。連投ですが、今日、午前中、予定に反して暇だったんで、合間合間見ながら、3、4時間で書いたもんです。まぁ、珍しく早く書けちゃったんで。ご容赦ください。†------------------------------†ボウズへ なぁ、ボウズ。 俺ぁ、今、お前の知らねぇ土地にいる。聞きゃあ名前くらいは知ってるだろうが、お前の来たことのない、まぁ、どんなとこか想像も出来ないような場所だ。俺にとっちゃ特別だが、誰にとっても忘れられた土地だ。過去に取り憑かれた者だけが、いつまでも覚えていて引きずってる。お前は笑うだろうがな、ボウズよ。 経験の浅いお前のために、ちょっとばかり詩的に書きつづってみようか。笑うなよ。地べた這い蹲ってきた雑兵の戯言だからな、そう巧くいくはずもねぇ。なぁ、ボウズ。人生たぁ、巧くいかないものの中から、ほんのちょっとましなものを選んで、なんとかかんとかこなしていくものなのかも知れねぇな。だから、ちょっとばかり巧くいかねぇからって、すぐに投げ出したりするんじゃねぇぞ。 月が出てる。いいお月さんだ。お月さんてなぁな、なぁんにもねぇまっ暗な荒野を歩くにゃあ女神さんみたいなもんだ。行先を照らしてくれるしな、敵の襲ってくるのも知らせてくれる。ただまぁ、女てな、皆、気紛れなもんでなぁ。いつもいつもいい顔を見せてくれるわけじゃねぇからな。なぁ、ボウズ。お前もいつか女を知るだろうが、女てな表面上の言葉や仕草なんかじゃあ量り知れねぇ。もっとずっと奥の深いもんだ。そこんところは、肝に銘じておくこった。 見渡す限りの荒野だ。緑なんかありゃしねぇ。まぁ、こう暗けりゃあっても見えやしねぇけどな。赤茶けた砂だか岩だかが延々続いてる。こいつはな、血だよ、ボウズ。俺らの流した血を吸い尽くして、この土地は赤く染まってる。そうだな、お前なら、そんな馬鹿なとか笑うだろうな。けどな、ボウズ。どんな馬鹿げたことでも、信じれば真実になる。覚えとけ、ボウズ。馬鹿の一念は岩を通すもんだぜ。 今は使われていない、まぁ忌まわしくて使う気にもならんだろう旧街道を外れて、二時間ほどか。近頃にしちゃあ、よく歩いたもんだぜ。めっきり身体もなまっちまって、隣町へ行くのすら億劫だったからな。それから思えば、たいしたもんじゃねぇか。やっぱりよ、なにはなくとも身体だきゃ鍛えとくもんだぜ、なぁ、ボウズよ。 歩けど歩けど砂と岩山ばかりだ。方角だけはなんとか見失わずにいる……はずだ。月と星とか知らせてくれちゃいるが、確信は持てねぇ。なんせ、五年ぶりだからな、荒野を歩くのは。ちょいとばかり勘が狂っちまってることは、ありうるわな。そうは思いたくねぇんだが。 たどり着けなかったらどうするつもりなんだって? そんときゃ、そんときさ。俺は余分に五年もの時間を貰ったんだ。誰がくれたんだかはしらねぇが。お前がいっちょ前の口を叩くようになるまで、なんとか一緒にいれたんだ。まったく、御の字だぜ。今ここでくたばっちまっても、別に悔いはねぇぜ。俺ぁ五年も前にここでくたばっちまってて当たり前の人間なんだ。ここらに散らばってる、このけったくそ悪い骨どもと同じでよ。今さら、長生きしようなんざ、これっぽちも思っちゃいねぇ。 しかしまぁ、見事に、白けちまいやがってよ。俺らが引き上げるときにゃ、無惨じゃああったが、それでもまぁ、着るもんは着てたし、人間の面ぁしてたもんだが。まるっきっり面影もねぇな。これじゃあ、誰が誰だか分かったもんじゃねぇ。まぁ、こんだけありゃ、どっちみち同じこったろうけどな。敵も味方も分け隔てねぇ。平等なもんだ。 こんなところにも人はいるらしい。お前の言うとおりだよ、ボウズ。さっきから明かりらしき物をちらちらと見ることがある。そん度に身を隠してよ。戦乱後の火事場泥棒が居着いて盗賊化したなんて言われりゃ、そんなもんかと思うがな。なぁ、ボウズ。お前は昔からそういう小理屈ばっかり巧かったな。そのくせ、理屈に詰まると癇癪起こしてよく当たり散らしてたもんだ。覚えてるか、なぁ、ボウズよ。 歩いていくたび、ばきばきと乾いた物を砕く音がする。気にしちゃいない。気にしたところでどうにもならん。こう暗い上に、こうそこら中にあったんじゃ、避けろって方が無理な話しだ。 まぁ、どのみち、どいつもこいつも、いっぱしの「戦士」気取っちゃいたが、半端もんの集まりでよ、ろくでもねぇヤツばっかりだったぜ。女犯して村ぁ追われた好きもんの坊主とかよ、盗賊上がりのやさぐれもんとか、妹とできちまって家放り出された元貴族のぼんぼんてのもいたな。どっちにしろ、世間にまともに面ぁ見せられねぇようなヤツばっかりだった。俺はどうなんだって。俺はまぁ、戦場しか知らねぇ戦争屋だからな。戦場じゃあいつらより幾分ましだったが、他のことはからっきしだ。お前も良く知ってるようにな。よくよく、不器用にできてるらしいぜ。 そういやぁ、俺があの戦役に駆りだされたのが、ありゃ、お前が七つか八つの頃だったか。あん頃は戦線がちょいとばかり落ち着いてて、珍しく家に長くいたんだったな。それが、どこだかの馬鹿な王族が止めときゃいいのに相手の国のお姫さんに手ぇ出したあげく、護衛の騎士を斬り殺しちまった。馬鹿な話しだぜ。折角落ち着き掛けてたもんが全部おじゃんだとよ。まったく、笑っちまうぜ。 お前ぁ、あんとき、泣いて行くなって駄々こねたっけなぁ。覚えてるか、ボウズよ。それが、どうだ、今ぁ、もう、十五だってか。驚いたんもだぜ、いっちょ前の顔しやがってよ。戦役から帰って五年。まぁ、あんまり良い父親はしてやれなかったがよ。それでもまぁ、よくも育ったもんだぜ。これからは一人で生きていくなんて抜かしやった日にゃ、なに寝言抜かしてやがると思ったもんだが、考えてみりゃ、俺ぁ十の頃にゃ、戦場にいて剣やら槍やら振りまわしてたっけなぁ。お前が独り立ちしてぇって気持ちも、分からなくはねぇんだぜ。 だけどよ、母親のことだけは、しっかり面倒見てやれ。女手一つでお前を育てたようなもんだ。父親は当てになんなかったからなぁ。だから、父親のこたぁ、どうだっていい。俺はお前に頼るほど落ちぶれちゃいねぇしな。なぁ、ボウズ。そこんとこだきゃ、よろしく頼むぜ。 なんかよ、こうしてると、五年なんて月日はまるで夢だったように思えてくる。お前やお前の母親との日々も、五年間のいろんな苦労や、歓び、哀しみやなんやかんやも、そうだな、こうして頭ん中でお前に語りかけてる今この時まで、夢なんじゃないかって思えてくる。オレ自身がよ、本当は、ここらに転がってるこの髑髏の一つなんじゃないかってよ。俺は、五年前からここにこうやって転がって、ずっと夢を見続けてるんだ。そうじゃないなんて、誰が言えるってんだ? ぼちぼち、目的の場所が見えてきたぜ。 見方によっちゃあ、竜の頭蓋骨のようにも見えなくもねぇ。竜頭岩てやな、敵味方が争ってぶんどりあおうとする、ここいらのシンボルさ。ここに旗ぁ突き立てたもんが、ここらを占領したことになる。そいつがここらの支配者さ。だからよ、ここじゃあ、大勢のヤツが死んだんだぜ。あいつらも、大方、ここで死んじまった。 俺ぁ、あいつらに別に引け目なんてものぁ、感じちゃいねぇ。生き延びたのは、ただ単に運が良かったからだ。あいつらには運がなかった。それだけのことだ。ただまぁ、時々は同情することもないでもない。あいつらの人生てのはなんだったんだろうな。どっかの時点で踏み外して、結局、元に戻せなかった。不器用なヤツらだったんだろうな。俺とちっとも変わりゃしねぇじゃねぇか。 よっこいせ、と。 なんとか登り切った。最後の仕上げがこれじゃあ、なまりきった身体にゃ、さすがに堪える。 戦役の最後の方はじり貧でな。酒どころか、まともな物も喰えねぇ。水すら、奪い合うほどの貴重品だった。お前にゃあ、想像もできまい、なぁ、ボウズ。今の世の中、いつでもどこでも望めば望んだ物が手に入る。高望みさえしなけりゃな。分相応に生きてるぶんにゃ、そう不自由はしない。あいつらは、そんな時代を知りもしないがな。 俺はあいつらにゃなんの引け目も感じちゃいない。あいつらは、今の世の中が訪れることなんか考えてもいなかったろうしな。ただ、今を過ごせれば、今日生き延びれば、金を掴んで、美味い物喰って、女抱いて、そしてまた、戦場に赴いて、生きるだ死ぬだを繰り返す。そんなことしか考えなかった連中だ。今の俺を羨もうにも、そんな考えさえ浮かばなかったろうさ。あいつらには、戦場が必用だったんだ。かつての俺がそうだったようにな。 だったなんでこんなことするんだってか。さあ、なんでだろうなぁ。俺と違って、ちゃんと勉強もして、世の中のこともよく知ってるお前なら、分かるんじゃねぇか。いや、分かんねぇか。分かんねぇよな。なんせ、俺が分かんねぇんだからよ。 さっきから背中でがちゃがちゃ音をたてる酒瓶を、バックパックから取り出す。 酒が呑みてぇ、女抱きてぇてのが、あんときの俺らの口癖になってた。さすがに女ぁ連れてきてやれねぇからよ、せめて、酒だけでも持ってきてやったんだ、感謝しやがれってんだよ、まったく。 さてと。月は皓々とこの荒れ野を照らしてる。温度差の激しい荒野の夜にしては、言うほど寒くはない。もっともっと凍えるような夜を何夜も過ごした。それに比べりゃ、高級ホテルにいるようなもんだぜ。雨の降る気配もない。明日も晴れるだろう。身体も、まだ動く。 酒瓶に残った酒をちびりとやる。 熱い塊が、体中を駆け巡る。 ちっ。まったく、まだ、生きてやがるぜ。人間てなぁ、案外としぶといもんだ。なぁ、ボウズ。人間てなぁ、生きる気さえありゃ、案外いつまでもだらだらと生き続けられるもののようだぜ。だからよ、何があったって、そう悲観することもねぇ。這い蹲ってたって生きてさえいりゃ、もう一度お前の顔を見ることもできるってもんだ、なぁ、ボウズ。 どうやら、俺は、もうしばらくお前の父親でいてもいいらしい。お前がどう思うかはしらねぇが、悪ぃがもうしばらくは、厭でも付き合って貰うぜ。生まれついた運が悪かったと諦めてくれや。 なぁ、ボウズよ。
調子に乗って3本目。†------------------------------†バイオリン弾きのゴフシェの奇跡 バイオリン弾きのゴフシェは、屋根裏に住んでいた。別に好きこのんで暗くて埃っぽい屋根裏に住んでいるわけではなく、バイオリン弾きのゴフシェは、金を持っていなかった。知人夫婦に無理を言って、わずかな家賃で住まわせて貰っているのだ。その家賃すら滞ることがあって、そろそろ大家の夫妻には渋い顔をされている。潮時かも知れなかったが、次どうするかなど思い当たることはなかった。 バイオリン弾きのゴフシェは、ある日、広場で歌を聴く。それは美しい声だった。技術もなにもあったものではなかったが、思い詰めるほどの願いが込められていた。それは、歌という祈りだった。心を奪われていた。知らず、涙を浮かべていた。その歌は、女性の歌う歌ではなかった。男の、戦役に赴く男が、家族や友人、そして最愛の恋人との別れを惜しみながら旅立っていく歌だった。バイオリン弾きのゴフシェは、歌が聞こえなくなり、まばらな拍手の音も聞こえなくなってからも、しばらくその場に茫然と立ち尽くしていた。歩き出す気力が湧かなかった。打ちのめされていた。 バイオリン弾きのゴフシェは、屋根裏部屋に帰ってからも、ずっと、広場で聞いた歌のことを思っていた。そして、一つのことに思い当たった。そして、笑った。大いに笑った。涙の涌き出るほどに笑った。 バイオリン弾きのゴフシェは、その日、早くから広場にいて、女の歌い出すのを聞いていた。歌い始めてしばらくもしないうちに、女が涙に声を詰まらせる。今日は、広場にも人がまばらで、女の歌を聞く者はあまりなかった。バイオリン弾きのゴフシェは、女にハンカチを差し出した。一瞬怪訝そうな表情をした女は、バイオリン弾きのゴフシェの笑顔を見て、ハンカチを受け取り涙を拭った。「恋人を待っているのですか」 女はこくりと頷いた。「僕に、お手伝いさせて貰えませんか」 と言って、ケースからバイオリンを取り出す。「あなたの思いを見せ物にしようって言うんじゃないんです。でも、より多くの人の興味を引き、多くの人に聞いて貰い、多くの人の口の端に登れば、思い人に届く可能性が高まるんじゃないかと思うんです。そのお手伝いをさせて貰えませんか」 誰でも知っている短い曲を、きゅきゅ、と弾いてみる。音色は楽器から溢れ、零れ落ち、ほんの少しだけ女の心を落ち着かせた。「これでも、ずっと以前には王宮で弾いたこともあるんですよ。たった一度だけですけどね」 冗談めかせて言うと、女は小さく微笑んだ。「一度でも、凄いことですね」 一度。そう、たった一度。一度だけ。「そうですか、そうでもないですよ。師匠について行っただけですから」 バイオリン弾きのゴフシェは、自慢の楽器を鳴らす。曲を弾き始める。女が音色に合わせて歌い始める。二人の奏でる歌は人々の心を惹き付け捉え、いつもより、ほんの少し多くの人々が集まり、ほんの少し大きな拍手が起こった。「明日も、ご一緒していいですか」「こちらこそよろしくお願いします。」 女は、モリーと名乗った。 バイオリン弾きのゴフシェは、ここ数日そうしているように、夜、酒場に行って、飲めない酒をちびりちびりやりながら、広場で歌う女のことを、少しばかり大げさに、知っていることも知らないことも、同情を引くようにとつとつと話した。この習慣は、その後も続く。 一ト月も経たないうちに、広場で歌う女とバイオリン弾きの噂は王国中に広まる。各地から来る商人たちや、旅人たちが、二人の歌を聞いた感動とそれにまつわる噂話とを、旅先や故郷に持ち帰って広めていたから。 バイオリン弾きのゴフシェは、ある日、旧知の男の訪問を受ける。同じ師匠に付いた男で、宮廷楽団でバイオリンを弾いている。その男の言うのには、とある貴族が二人の演奏を聴いてみたいと持ちかけられたのだという。一応、モリーの意志を確認する旨を伝えるが、その気であることは相手にも伝わっただろう。 バイオリン弾きのゴフシェは、モリーを説き伏せ、侯爵家での晩餐会への出席を実現させる。二人で演奏を始めてから、ちょうど、一ヶ月が経っていた。侯爵家の晩餐会には他国の貴族も集まる。人捜しに不利になることはない。そこでの歌は、多くの貴族を魅了した。素朴なままの姿で歌う美しい女、純粋で美しい声、素朴な歌、技巧的でありながらそれを感じさせず優しく響くバイオリン。 バイオリン弾きのゴフシェは、満足していた。想像以上の成り行きに満足していた。あれから、何回か貴族の屋敷で演奏した。モリーはいやがったが、なんとか説き伏せた。もちろん広場での歌も続けた。噂はどんどん広がる。それこそ、都市から都市、港から港を渡って世界中へ。 バイオリン弾きのゴフシェは危惧をしていた。そろそろ、時期かも知れない。急がなければならない。でなければ、すべてがご破算になる。バイオリン弾きのゴフシェの元には、いくつかの情報がもたらされていた。その中には、信憑性の高そうなものも含まれていた。すなわち、モリーの恋人の所在についての情報だった。急がなければならない。急がなければ……。 バイオリン弾きのゴフシェは、旧知の男と密会する。そして、一つの約束を取り付ける。 * ある月の皓々と晴れやかな夜。ゴブシェの元をモリーが訪れた。手紙が来たと言う。恋人からの手紙で、怪我を負って動けずにいたが、ようやく快復の見込みが出てきたので、少し無理をしてでも逢いに帰ると。船に乗り込む算段も付いていると書かれていた。その日から換算すれば、この街に彼が着く日はおおよそ知りうる。それほど遠い街ではなかった。手紙の到着も通常より遅れていることもない。バイオリン弾きのゴブシェは祈るような気持ちでいた。 数日後、再びモリーが訪れる。彼がもう近くの街に着ている。三日後、この街に着くという。三日後は、王宮で演奏することになっている日だ。モリーは、どうにかして断れないかという。そんなことができるわけがないとゴブシェが言う。相手は王様なんだよ。いくらなんでも断ったらどんな目にあうか分からない。なんとか、一日だけ延ばせないかな。「ゴブシェ、なんだか変わってしまった」「僕が変わったかどうかは知らないけども、はっきり分かることがある。一庶民が王様の機嫌を損ねたらどうなるかってことだよ。いくらなんでも、僕は牢屋に入れられるのは厭だよ」「じゃあ、あたしたちと一緒に行きましょう。三人でこの国を出て、彼のいた国で暮らすの」「本気で言ってるの」「本気よ、ねぇ、そうしましょう」「考えさせてくれ」 * バイオリン弾きのゴフシェは、煩悶していた。なんとなく、こうなるんじゃないかと予感していた。結局、巧くはいかないのだ。なにをやっても、巧くいかない。何ごとも巧くこなせる自身はある。それは今でも緩がない。でも、巧くいかない。どんなに巧く立ち回っても、結果、どうしても思い通りにならない。最後に破綻する。モリーを説得することはできたはずだった。晩餐会は夜なのだ。モリーが恋人と落ち合って、三人で王宮へ行けばいい。そうすれば、王様も、他の列席者も大喜びで、三人は歓待されるだろう。お祝い気分で、ゴブシェも、望み通り宮廷楽団にバイオリニストとして迎えられるかも知れない。その可能性は、むしろ飛躍的に高まるだろう。でも、それを言い出せなかった。なぜか。それも、もう、分かっていた。ゴフシェの中にある思いが芽生えていたからだ。 バイオリン弾きのゴフシェは、モリーに手紙を出した。晩餐会には僕一人で行く。君は恋人と二人きりで過ごせばいい。お幸せに。 バイオリン弾きのゴフシェは、たったひとり王様の前に立っていた。失望と怒りの鋭い視線が注がれる。「今宵、私が一人で参上いたしましたのは、皆様のおかげをもちまして、モリーが、念願であった恋人との再会を今日、果たしたからであります」 王宮の広間がどよめく。拍手が沸き起こった。「ならば、その恋人共々この場へ連れてくるがよい。朕が自ら祝ってしんぜよう」「恐れながら王様に申し上げます。若い二人のことでございます、どうぞ、今宵は二人にさせてやって貰えませんでしょうか」「なるほど、そなたの言うも一理だな」 やや不満そうではあったが、隣に座る后に突かれて王様がしぶしぶゴフシェの言い分を認める。「では折角来たのだ、そなたの演奏を聴かせてみよ。聞けばボールゲルテの弟子だというではないか。ならば、腕は確かなのだろう」 バイオリン弾きのゴフシェは、恭しく丁寧に愛着を持って師匠譲りのバイオリンを取り出し、そして、それを、王様の目の前で、叩き割った。「何をする」 王宮が色めき立つ。「本日奇跡が起こりました。モリーの恋人は、ブラント国のフォンバリス家に滞在していた折りいたく気に入られたそうで、婿養子との誘いもあったそうです。一度は、彼も命を救われた恩義に背くことができず、その話に応じる決意をしたそうです。しかし、彼を待つモリーの歌の話しを聞いて、居ても立ってもいられなくなって、フォンバリス家のご当主に申し出たそうです。ご当主も、その申し出をお許しになり、そればかりか、二人ともフォンバリス家に迎えたいとまで仰ったということです。これを奇跡と言わずしてなんといいましょうか」 王宮は静まっている。「私はその奇跡に便乗した卑しい貧者です。私のような者がその奇跡を汚すようなことは許されません。それに、私の音楽は彼女あってのもの。私の音楽はとっくに死んでいたのです。それを彼女に出会って、仮初めの生命を得たにすぎません。それもこれも、彼女のための奇跡なのです。私のためではありません。ですから私は、自らの手で、私の音楽を殺すのです。元の通りに。私は充分に奇跡を助けた報酬を受けました。彼女と共に演奏できた日々が私にとって最高の報酬でした」 バイオリン弾きのゴフシェは、その日以来、街から姿を消した。 バイオリン弾きのゴフシェのことを耳にすることはなくなり、バイオリン弾きのゴフシェを見かけることもなくなった。 ただ、たった一組のカップル、その築いた家族から彼の話題が絶えることはなかった。†------------------------------†ずっと引っかかってて思い出せずにいた。思い出した。宮沢賢治だった。
弥田さんの「Fish Song 2.0」をリライトしました。原作よりずっと長くなって原稿用紙約二十一枚、字数6789字です。かなり加筆してますのでご了承ください。蛇足とは思いますしたが……。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ストリート・ムーン・マニアックはネオンの海に沈んでいる。キラキラと輝く光に溺れて、わたしは浮いたり、沈んだり。ぷかぷかと気楽にただよう私を見て、通り掛かったくらげがくらくら笑った。 その愛らしさに思わず抱きしめたくなってそっと手を伸ばしたけれど、くらげはゆらゆらゆれながら流れていった。 残念、って思っていたらわたしの名前を呼ぶ声が。あの子が輝くネオンの下にそっと佇んで手を振ってくれていた。手を振る度に肩の上で切り揃えた髪が小さく揺れて、そのかわいらしさに思わず抱きしめたくなった。わたしも手を振り返していると――ぽちゃん。振り返って見れば目の前に魚が一匹。ピラルクの身体に綺麗な女性の顔があるその魚をわたしは知っていた。「アルバート・フィッシュだぁ」 おおきい。とてもおおきい。わたしの身長よりもある。長い胴体は黒と赤と銀色に輝いていた。その鱗が綺麗で思わず右手を伸ばしたけれどアルバート・フィッシュの身体は指先の隙間を通り抜ける。 小首を傾げながら右手を見つめるわたしにアルバート・フィッシュは女性の顔で笑う。もう一度、今度は左手を伸ばしたけれどまたすり抜ける。だまし絵みたいな光景。少しもどかしくて、でも面白くて、何度も手を伸ばした。そしてとうとう、両手で抱きついてみたけれど、その途端消えちゃった。一体どこに行っちゃったのだろうと探して見たけど、どこにもいない。と、思ったらネオンの海の彼方に、真ん丸お月様に向かって昇っていくアルバート・フィッシュ。「行こ」 いつの間にか、わたしのすぐ隣に立っていたあの子が言った。「私たちも」 わたしと同じく月へ昇るアルバート・フィッシュを見つめながら。 わたしは笑ってうなずいて、あの子の腕に抱きついて、抱きしめて、あの子の確かな体温を感じながら、笑った。 そうして、ふたり、ぷかぷかゆっくり昇っていく。アルバート・フィッシュを追って。夜空のお月様へ。笑って、ふたり、ぷかぷかと。〇 ここは静かな海だよ、ってあの子は言った。そこは平坦な大地が続くだけ。水もないのに海なんて、ネオンも無いのに海なんて、変なの、って呟いたら、文句はケプラーに言いなさい、なんて怒られた。あの子の髪は、無重力にもへっちゃらで、ふんわりとカーブがかかった髪は太陽風にそよそよそよぎ、抱きつくわたしの頬をくすぐる。ふと見ればあの子の後ろで金星が瞬いていた。 無音の宇宙に、あの子とわたしの規則的な呼吸の音が広がる。上下に動く胸元から、細い首筋が伸びていて思わずドキッとしちゃうほど色っぽい。真っ白い肌に淡く浮かぶ頸動脈。そこを秒速63センチメートルの早さで流れる赤血球に思いを馳せた。あの子の心臓を、肺を、指先を、子宮を、脳を、全身を駆け巡る赤血球。ちょっと羨ましい、なんて思った。あの子の細い首筋に頭をあずけると、心地よいコンマ8秒ごとの鼓動がわたしの鼓膜を揺らす。あの子の鼓動はどんな子守唄よりもわたしを優しく眠りに誘うだろう。見上げると彼女の横顔。滑らかなで真っ白な肌、しなやかそうな表情筋、真っすぐな瞳、少しだけ盛り上がった鼻。『わたしたちひとりだったらよかったのに』 くらげみたいに透明で、満月みたいにまんまるで、りんかくがあいまいにぼやけていれば、わたしはあの子の中の一個の細胞として、あの子の一部になれたのに。もしくは、ふたり、どろどろに溶け合って、ひとつになれたならどんなによかったか。 でも、わたしたちは人間で。 どうしようもないくらいの人間で。 どうもできない人間だ。 そっと目を閉じて、ゆっくりとあの子の腕を離した。ふわり、ふわりとわたしは静かな海に沈んでいった。そうして、海底にたどりつくと砂塵がわたしを飲み込んだ。わたしは砂塵を吸い込んで、激しく咳き込んだ。それをみながらあの子は海底にふわりと舞い降りた。心配そうにわたしにわらいかけながら、手を伸ばす。そしたら、あの子もまた砂塵を吸って咳き込んだ。同じように咳き込む内にいつの間にか笑っていた。「咳をするのもふたり、だね」 そういってまた笑う。 ふたり、手を繋ぎそっと海底を蹴った。ゆっくりとわたしたちはまた昇っていく。わたしの目に映る青い、青い地球。きっとあの子の瞳にも今映ってる。「青いね」「青いね」 ふたりの声が無音の宇宙に溶けていった。 ふいに地球の影から顔を覗かせたアルバート・フィッシュ。ネオンの海から静かな海へ、そうして今は、青の海へとたどり着いていた。ゆっくりと地球の影から這い出てくるアルバート・フィッシュの横顔が、心地よい鼓動を聞きながら見上げたあの子の横顔だと、気づくにはそう時間がかからなかった。どおりで見覚えがあった、どおりで綺麗だと思ったはずだ。 アルバート・フィッシュがゆっくりと地球を覆っていく。その身体を巻き付けて。瞬く間に地球は覆い尽くされた。地球だったものの影から首を出したアルバート・フィッシュは自分の尾に噛み付いた。そうして、完全な球体になったアルバート・フィッシュをわたしたちはただただ見上げていた。わたしの横からよく知っているメロディーにのって、へたくそな歌がただよってくる。あの子は静かに歌い出していた。 ――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ・・・・・・・・ それを聞きアルバート・フィッシュがにやりと笑った。途端に世界が青い光に包まれる。視界が歪む。ぐにゃり、と。「さよなら」 どこからか聞き覚えのある声が響いた。〇 いつの間にか見慣れた地元の歓楽街に立っていた。辺りいっぱいに輝くネオン。ネオンの海だけどネオンの海じゃないネオンの海に、本当のネオンの海のように飛び込むようになんてできい。できはずもない。ネオンの海の見える通り、ストリート・ムーン・マニアック、なんて。そんなのばかみたい。笑ってしまうくらい。空を見上げると、ネオンの狭間から少しだけ欠けた月が顔を出していた。真ん丸満月から程遠い、歪なかたち。でもその歪さが、現実なんだなあ、なんて、うなずいて。なんとなく切なくなった。 電灯の下、そんなわたしを見ているわたし。振り返ったわたしと目があって、わたしであったわたしはあの子だった。 その時、わたし、あの子だった。 その時、あの子、わたしだった。 その時、ふたり、ひとりだった。 その時、ひとり、ふたりだった。 嘘っぱちのネオンの海がぐにゃりと歪み、夜の闇と混じり合う。ネオンの光がその色合いを失ってただただ白くなり、黒と白の世界がわたしとあの子を包んでいく。入り乱れた黒と白のコントラストはまるで世界が生まれる前の原始の混沌。わたしとあの子は今生まれ変わるんだって思った。どちらともなくわたしたちは一歩踏み出した。続けて一歩、また一歩……って歩み寄り、手を伸ばせばお互いの顔に触れる距離まで近づいて、あの子はわたしの頸動脈を優しくひっかいた。見えなくてもわかる。じわりとわたしの首からにじむけっしょうの、黄昏みたいな、鮮やかな赤色が。 あの子はそっとわたしの首筋にかみついて、あたしの血を吸い出した。でもそれは全然痛くなくて、むしろちょっと気持ち良くて、どこかの映画で見た愛する吸血鬼に血を吸わせる女性の気持ちってこんな感じなのかな、って思った。 ごくん、ごくんってあの子の喉がなる度に、いつもの声とは程遠い艶(なまめ)かしいわたしの声が響く。今、私の血は、あの子の身体の中に染み入って、全身を駆け巡っている。あの子はO型で、わたしはB型なのに、きっとふたつはひとつになって、そうして、あの子の細胞のひとつひとつにわたしが溶けているだろう。 おもぐろにわたしの首元から離れたあの子は、今度は自分の首筋を出して柔らかに笑い目を閉じた。わたしはあの子がしたように、首筋を優しくひっかきそしてかみついて、あの子の血を味わいながら吸った。あの子の血はしょっぱくて、ほのかに甘かった。あの子の血がわたしの身体を巡っていくのがわかる。わたしの血とあの子の血がお互いの身体に溶けあった。わたしはそっとあの子の首筋から離れた。「好きだよ」 って、そう伝えるのにもう勇気なんていらなかった。「わたしも」 って、そう伝えるのにもう恐怖なんてなかった。 頬と頬を寄せ合った。額と額を付き合わせた。掌と掌を重ね合った。そうして、唇と唇を、ゆっくりと近付けて・・・・・・。 あの子の後ろに私たちを見つめるピラルクがいた。〇 気付いた時、私は泳いでいた。ネオンの海を。あの子と一緒に。並んでじゃない。一緒に、だ。 ふたり、ひとつ、だった。私は、ピラルクの身体。あの子は、女性の顔。そう、私たちはアルバート・フィッシュになって泳いでた。きらびやかなネオンの光に包まれて速く、とても速く泳いでいた。心地よかった。人間の時と違って身体は軽やかで、軟らかくて、何よりあの子と一緒だったから。 私たちは調子にのって飛びはねた。そしたら、目の前に人間がいた。それは、人間の頃のわたし。 そうだ、あの時のわたしだ。くらげに笑われ、逃げられて、あの子に呼ばれて、手を振り返したあの時のわたしだ。 わたしは私を見て感嘆の声をあげ、私を触ろうと手を伸ばすけれど、その手を私はすり抜けた。不思議そうに、ひとり小首を傾げるわたしにあの子は笑いかける。もう一度、今度は左手を伸ばすわたし。私はその手をまたすり抜けた。だまし絵みたいなその光景を面白がってわたしは何度も手を伸ばし、そしてとうとう抱きついてきた。私はわたしの両手をすり抜けてネオンの海の上へ逃げた。あの子と一緒なのにわたしと遊ぶなんて時間の無駄だった。『そうだ、静かな海へ行こう』 って思って私たちは月へと向かった。 ピラルクの尾鰭は、宇宙空間もへっちゃらでまるであの子のショートカットのよう。無重力の海を掻き分けてどんどん進む。人間だった頃よりもずっと速く静かな海へとついた。 滑らかな海底を砂塵を巻き上げながら泳ぐ。肺なんて無いから砂塵を吸ったって咳き込むことも無い。「気持ちいいね」 って私は言ったけどあの子はただ笑うだけ。 なんだろう、この感じ。さっきから変だ。あの子はずっと笑うだけで何も言わない、何も答えてくれない。 さっきまで楽しかった。人間じゃなくなって、あの子と一緒になって。でもこの違和感に気付いたら、そんな気持ちもなくなって、何か……嫌だった。 わたしとあの子の声が聞こえた。変なのって呟いたわたしに文句はケプラーに言いなさいってあの子はいった。 わたしとあの子、寄り添う、ふたり。 海底に降りて、砂塵を吸って咳き込むわたしに笑うあの子。あの子も砂塵を吸って咳き込んだ。 わたしとあの子、笑い合う、ふたり。 手を繋ぎ、海底を蹴ってゆっくり昇るわたしとあの子を見て、私は胸が苦しくなった。いや、これはきっともっと奥、奥底にある、私の心。『……ああ、そうか』 ようやく気付いた。あの子が何も言わないのは、何も答えないのは、私の心が苦しいのは、なぜか。 わたしとあの子は、今、ひとつだからだ。わたしとあの子がひとつになって、アルバート・フィッシュになったように、わたしとあの子の心はひとつになって、私になった。そう、あの子が何も言わないのは、心がないから。私の心が苦しいのは、あの子が私の隣にいないから。 ふたり、ひとりになって。 ふたつ、ひとつになった。 失われたあの子の心。あの子の身体。「私は一体何を望んだのだろう」 ひとつになりたい、って望んだ結果がこれだ。 私はどうして気づかなかったのか。 あの子とわたし。ふたりだったから楽しかった、幸せだった。 悔やんでも悔やんでも流す涙なんてない。悲しくて悲しくて赦しを乞いたくなったって、あの子はもう、私だ。私を赦してくれる人はもう、いない。私を救ってくれる人はもう、いないのだ。 砂塵を掻き分けて宇宙(そら)へと昇る。わたしとあの子のずっと下を通って地球に向かう。もう何も考えてはいなかった。 地球をピラルクの身体で覆う。あの子の顔でピラルクの尾を噛んで球体になる。そんな私を、わたしとあの子は見つめていた。 わたしは、目を輝かせながらただただ見ていた。でも、横に並ぶあの子は違った。あの子の瞳は潤んでて、その柔らかな頬に一筋の涙が光ってた。あの子の唇が動いて、呟いた。 ――だ い じょ う ぶ ――わ た し が ――ゆ る し て あ げ る「――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ・・・・・・」 かすかにきこえる。へたくそな歌が聞こえる。メロディーは不安定で、歌詞の意味もよくわからない。ただひとつわかるのは、それがラブソングだということ。都市を泳ぐ魚が、出会ったマネキンにガラス越しの恋をする、ちょっと馬鹿みたいなラブソングだということ。 それはわたしとあの子しか知らない歌だ。 きこえる。私の鱗をやさしく震わせる。 歌は続く。ずっとずっと遠くから。 まるで私を呼び戻すかのように。 ――ああ、そうか。これ…… ふいにあの子と目があった。あの子はにこりと笑って、私に手を振った。そうして、わたしとあの子は消えた。 唐突に世界のすべてが泡となって弾けた。〇 目覚めると屋上に寝ていた。仰向けに眺める空には、流れる血よりもずっと鮮やかな夕映えが一面に冴えわたっていた。 再び歌が聞こえる。「――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ……っと、起きたか。おはよう」「おはよ。……ていうか、その歌あんまりうたわないでね、って言ったよね。もう」「なんでさ、いい歌だと思うよ」「純粋に恥ずかしいんだよ」「いいじゃんいいじゃん。きっといつかその恥ずかしさが快感に」「ならないならない」「照れるな照れるな」「照れてない照れてない」 あはは、って軽く笑いながら、必死のわたしの言葉をあの子は流す。そうして、少し恥ずかしそうに「この歌、好きなんだよ。……すこし私に似てる気がして」「似てない似てない」「もう……、ちゃちゃをいれないで、最後まで聞きなさい。……だからね、別にあんたが作った歌だから、とかそんなんじゃなくて。純粋に、うたいたいから、うたってるの」 そう言って夕暮れの空を見ながらあの子は続ける。「これってすごいことじゃない?この12756キロメートルの世界に六十億人の有象無象がいて、その中のふたりがこうやって隣り合わせに立っていて、シンパシーを持っててさ、こうして笑ってるんだよ?とんでもない確率じゃない?もう、奇跡、だよね」 あの子の横顔は、茜色に染まっていて、あの子の髪は港から吹く風になびいていた。そんなあの子が眩しくて、愛おしい。「……ねえ」「なに?」「すっごくクサいよ、そのセリフ」「なっ……!」 あの子の顔が空よりも朱くなる。「そ、それ言わないでよ!……は、恥ずかしいじゃん」 そう言ってそっぽを向くあの子を見て、わたしは笑った。あの子は最初頬を膨らませて怒ったけれど、そのうち吹き出して笑った。 徐々に暗くなる空にふたりの笑い声が響いた。放課後の学校からは、部活に精を出す生徒の声。ずっと遠くで、宵の明星が瞬いていた。「――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁー」「だからうたわないでってば!」〇 自転車に乗って、満天の空の下を駆け抜ける。風がずっと冷たくなった。 あの子は今頃、彼氏の原付のケツに座っているはずだ。彼氏の腹筋にしがみついて、ぬくぬくと暖かいなぁ、なんて思ってるだろう。 ブレーキから手を離す。スピードがどんどんあがっていく。足の離れたペダルはうるさいくらいに、カラカラカラカラ回る。このまま風になれればいいんだけれど、わたしの確固とした境界線はそれを許さない、許してもくれない。 シンパシー、共鳴、ふたつの音叉、ふたりの鼓動。 坂が終わる。少しずつブレーキを握って、少しずつスピードを落とす。スピードの螺旋がほどけて夜の闇に溶けていく。 水平線を進む船の明かりが幻想的で、その上には真っ白な欠けた月が輝いていた。 口笛を吹く。自作の歌のメロディーを。作った翌日友達に聞かせてみせて、夜中ベッドの中で死ぬほど後悔した曲を。 連なる音がわたしの頭を満たすから、わたしは何も考えないですんだ。からっぽの頭でペダルを踏む。そのスピードがチェーンを伝わって、自転車は進む。風をきって進む。 ――ボォォォォォーーー!! 水平線へと旅立った一隻の船が最後に鳴いた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――原作の雰囲気を守るところは守って壊すところは壊す、とやりましたが中途半端に……。まだまだ力不足を実感しました。でも、とても参考になりました。
襖ががたがたと鳴って、隙間から熊の鉤爪が見えた。わたしは音を立てないように気をつけながら、おお急ぎで布団にもぐりこむ。 前脚で器用に襖を開けて、熊はのっそりと入ってくる。 わたしは熊がきた、また熊がきたと思うのだが、布団の中に顔を埋めて、ぜったいに眼をあわせてやらない。布団の中は蒸し暑く、湿ったにおいがして、息苦しい。だけどいま顔をだすわけにはいかない。あの眼をみると食われてしまうぞ、と自分にいいきかせながら、息を殺して、じっと体を硬くしている。 気が付かないふりをしていれば、熊はいつかあきらめて去っていく。ほんとうはそんな保証なんて、どこにもないのだけれど――考えてはいけない。おまじないのコツは、信じること。疑えば効力はどこかに消しとんでしまう。あっちにいけ、と念じる。あっちにいけ、あっちにいけ、あっちにいけ。ぎゅっと小さくなって、息を殺して、ああどうせならこのうるさい心臓もとまってしまえ。 ふおう、と唸る声がする。いやな臭いが布団の中にまで届く。どすどすと、いらだつように、熊は部屋をうろつく。踏まれるんじゃないかと、わたしはぎゅっと目を瞑る。瞼の裏がちかちかする。 熊はいっとき部屋の中をあきらめ悪くうろついていたが、「ンエー、おー、オうー」 というと、とぼとぼと部屋を出ていった。しばらくのあいだ、開けたままの襖の向こうから、じっとこちらを見ているような気配があったけれど、それでもわたしが死んだふりをしていると、やがて熊はそろそろと襖を閉めた。 熊が階下にくだってゆく音を聞きながら、わたしは布団からでた。蒸し暑さから解放されて、肺を冷やす新鮮な空気が気持ちいい。まだ視界がちかちかしている。おおきく息をつくと、へらへらとした笑いが下腹からわき起こって、思わず笑い声を上げそうになった。それをかろうじて飲み込んで、わたしは耳をすます。熊が階段を軋ませるたびに笑いの衝動はいっそうおおきくなる。 ぎし、と階段が鳴る。熊はいまや四つんばいで階段をくだっているにちがいない。---------------------------------------- えっと……いかにも無粋な解釈をつけくわえて台無しにした感がいなめませんね? うわあ。ごめんなさい!(土下座) 順番が逆転しましたが、今回は皆様の作品をひととおりリライトさせていただくつもりでいます。書けたぶんから投稿していきますね。原作者さま方、どうか改悪されても怒らない、広いお心でごらんになってください……!
母が脱皮をするところを見たのは、小学四年生の夏だった。 僕の母は美しい。顔の造作のことだけではなくて、肌の内側から淡く輝くような、そんな美しさだ。僕にはずっとそれが自慢で、子どもの頃はいつも、授業参観が楽しみだった。あるいは初めて家まで遊びに来た友達が、ちょっとぽかんとして母に見とれるのに、得意な思いを抱いていた。 夏休みを間近にしたある日、僕は家に駆け込んで、ランドセルを放り出した。それはうだるような真夏日のことで、友達とサッカーをした帰りだった僕は、汗と泥にまみれていた。水を浴びてさっぱりしようと浴室にむかうと、扉が開いていて、そこには真っ裸の母の、白い背中があった。 僕はそのころ、まだときどき母と一緒に風呂に入っていた。だからそれは見慣れた姿のはずだったのだけれど、それでも僕は、何故だかとっさに息をつめて、立ちすくんだ。 母は僕の足音にも気が付かない風で、じっと背を向けていた。夕日が窓から射しこみ、白い肌にくっきりとした陰影を落としている。 やがて、かすかな音がした。それは小さな小さな音だったのだけれど、普段耳にするどんな音とも違っている気がして、僕は辺りを見渡した。どうやら、その音は母の体から聞こえてくるらしかった。 母は座ったまま、顔を上げた。その反った背中に、僕はちいさな皹(ひび)を見た。母が身じろぎするのにあわせて、その亀裂が広がるところも。 やがて母は手を伸ばして、右足のつま先を触った。足指をまさぐる指先の、きれいに整えられたピンクの爪が、しばらくして、何かを探り当てたようだった。 ぴ、とかすかな音を立てて、母はそれを引っ張った。半透明の、ほそい糸。魚肉ソーセージを剥くときのように、あるいはCDのパッケージを剥がすときのように、母はその糸をゆっくりと引き上げていく。そしてそれは、母の静脈の透ける太もものあたりで、ふつりと切れた。 母の手のひらが、右の腿をこすると、皮はずるりと剥け落ちた。 その出来ごとが異常なものだと、僕はわかっていた。だけど、その場で声を上げることはできなかった。だってどういったらいい? お母さん、せめて僕の見てないところで脱皮してよって? はがれた皮の下には、淡く色づいた真新しい皮膚があらわれた。母はつぎに左足を、続いて両腕を、同じようにしてすっかり剥いてしまうと、胸元をひっかいた。それから脇を。 背中の皮を剥くとき、母は少しばかり苦労したようだった。だけどそれ以外の部分では、その作業はとても自然でなめらかな手つきで進められていき、ああ、慣れているのだなと、僕は悟った。母にとってはそれは、定期的に繰り返している日常の作業なのだ。 あれだけやわらかく自然に剥けた母の皮は、浴室の床に落ちると、ぱりぱりと白く乾いて、こまかく割れていった。 洗顔するときと同じように、手のひらで顔をこすって、そのまま顎の下から首周りまでを一巡すると、母はシャワーを出して、体中に残った皮膚の欠片を洗い流した。それからゆっくりと頭皮を揉むようにして、髪を洗いはじめる。髪の中からはがれて落ちた白く薄いものが、湯にまじって、排水溝に吸い込まれていった。 すべてが終わったあと、母はシャワーで風呂場のタイルを洗い流そうとして、ようやく僕のほうを振り返った。「あら、直也。帰ってたの」 なんでもないような声音だった。だから僕も、なんでもないように頷いた。「声くらいかけたらいいのに。へんな子ね」 そういって首をかしげる母は、やさしく微笑んでいた。うっとりするようなあの美貌で。 母の脱皮を見たのは、その一度きりのことだった。僕は母に、あれは何だったのかと訊いたことはないし、母も説明はしなかった。だから、もしかしたらあれは夢だったのかもしれない。そう考えるほうが、むしろ自然なことだ。 だけどいまでも帰省するたびに、僕はじっと母の顔を見つめてしまう。相変わらず瑞々しく、実年齢のとおりには見えない、輝くような肌を。---------------------------------------- 流れも内容もほとんどそのままで、文章だけを変えてみました。原文があれだけの美しさだというのにまさかの無謀な挑戦。なんていうか、ごめんなさい!(ダッシュで逃走)
紅月セイルさん「孤高のバイオリニスト」のリライトです。『河のほとりにて』「静かに時間が通り過ぎます――」 夜のレッスンを終えた鷹斗が隅田川のほとりを歩いていると、川の方から女性の歌声が聞こえてきた。 ――なんて美しい歌声なんだろう。 耳を傾けながら鷹斗が川の方に近づくと、不意に歌が止まる。「誰? タカさん? 孝彦さんなの?」 どうやらその女性は、鷹斗と別の男性を間違えたようだ。しかし、同じ「タカ」という名前を呼ばれて鷹斗はドキリとして立ち止まる。「孝彦さんじゃないのね……」 気落ちした女性のため息に、鷹斗は軽い罪悪感を感じていた。「ゴメンなさい、歌の邪魔をしてしまって。あまりにもあなたの歌声が美しかったので」「いいの、気にしないで。私が勝手に間違えただけだから」 そして二人の間に沈黙が広がる。ボーと汽笛を鳴らして、隅田川を船が通り過ぎていった。「さっきの唄……」「えっ?」「先程あなたが歌っていた唄、僕も知ってます」 そう言いながら、鷹斗は抱えていたケースを地面に置くと、その中からバイオリンを取り出した。先程までレッスンで使っていた愛用品だ。 そしてバイオリンを顎に挟むと弓を構え、うろ覚えであったが女性が歌っていた唄のイントロを弾き始めた。 美しいバイオリンの音が、夜の川辺に響き渡る。 水面のさざなみ、橋を行き交う車の騒音、それらの喧騒をすべて打ち消してしまうほどの圧倒的な音色だった。「…………」 いつまで経っても歌い始めない女性に、鷹斗は弓を動かす手を止めた。「うっ……、ううっ……」 どうやら女性は泣いているようだ。「どうなさったんですか?」 鷹斗はポケットからハンカチを取り出し、すすり声に向かって差し出す。「ごめんなさい。ありがとうございます。この唄は孝彦さんが好きだった唄……なんです。あなたの美しい演奏を聴いたとたんに、あの頃を思い出してしまって……」 そして女性はゆっくりと話し始める。「ちょうど十二年前のことです。詳しくは話せませんが、私達は別れ別れになってしまいました。その時私は、彼に手紙を残したんです。永代橋が見える場所で、また会いましょうと」 水面には、青くイルミネーションに光る永代橋が揺れている。そう、それは鷹斗が渡したハンカチの色のように。「十二年経ってこの場所もすっかり変わってしまいました。もしかしたら、孝彦さんは迷っているのでしょうか?」「そうかもしれませんね。だったらまた歌いましょうよ。きっとあなたの歌声を聞いて、孝彦さんもこの場所が分かるに違いありません」 鷹斗はそう言うと、再びバイオリンを弾き始めた。そしてそれに続くように女性も歌い始めた。「誰?」 遠くで男性の声がして、鷹斗は演奏を止めた。「孝彦さん! やっぱり来てくれたんだ……」 歓喜で声が震える女性に、鷹斗は声をかける。「よかったですね。孝彦さんが来てくれて」「ええ、もう思い残すことはありません。これでやっと成仏することができます。どなたか知りませんが、本当にありがとうございました」 そう言う女性の声が次第に遠ざかっていった。「えっ、えっ、どういうことなんです? 成仏って……」 困惑する鷹斗の元に、先程の男性が駆けてきた。そして息を切らしながら鷹斗に問いかける。「君がさっき弾いていた曲って?」 鷹斗は何て答えたらいいのか分からなかったが、正直に話すことにした。「先程までここに女性が居て、その方が歌っていたんです」「えっ、女性がここに居たんですか? それはどんな方でした?」「御免なさい。僕は目が見えないので……」 鷹斗は顔を上げて、男性の方を向く。孝彦と思われるその男性は、鷹斗を見て驚きの声を上げた。「あなたは……、もしかして先日のコンクールで優勝した盲目のバイトリニストの……」「そうです。西条鷹斗と申します」 鷹斗は孝彦に向かってお辞儀をした。 「今日は多恵子の十三回忌なんです」「そうだったんですか……」 隅田川のほとりに二人で座り、孝彦は鷹斗に語り始めた。「十二年前の今日、多恵子はこの場所で身を投げたんです。一通の手紙を残して」「…………」 きっと多恵子さんはこの場所でずっと孝彦のことを待っていたのだと鷹斗は思う。「多恵子は何か言っていましたか?」「あなたの姿を見れて心残りが消えたと」「そうですか……」 孝彦は少し考えた後、遠慮がちに口を開いた。「世界的なバイオリニストにお願いをするのは大変恐縮なのですが……」 孝彦は鷹斗を見る。「先ほどの曲をもう一度弾いていただけないでしょうか?」「ええ、喜んで」 そして鷹斗は、静かに『精霊流し』を弾き始めた。----------------------------------------------------某所の冬祭りに参加しているうちに、すっかり出遅れてしまいました。こんな感じのリライトでよければ、ぼちぼち参加したいと思います。>紅月セイルさんこんな風にしてしまってスイマセン。バイオリンの曲って、これしか思いつかなかったので。僕のブログに、このリライトを載せても構わないでしょうか?(追記2/2:HALさんのコメントを参照して、冒頭の歌の部分を修正しました)
HALさまリライトしてくださってありがとうございます!めちゃくちゃ嬉しいです!細やかな描写や台詞がもう何と言うか、あの、好きです。大好きです。どうやったらこんな風に書けるんだろう……精進します。本当に、ありがとうございました!
HALさまの「震える手」のリライトです、本当にすみません……!リライト希望作としてHALさまがあげられていた「荒野を歩く」は、既に他の皆様が素晴らしいリライトを書いておられるので、わざわざ私が恥晒しをする必要もないかと……。それで、サイトを観覧させて頂いて以来ずっと気になっていたこの素敵な作品をリライトさせて頂きました。覚悟はできています、どうぞ石でも何でも投げてください受け止めます(ぇ----------------------「先輩が好きです」 読書クラブの後輩、水谷くんの掠れた声が、廊下の冷たい空気を微かに震わせた。 私は数回瞬きをして、水谷くんの瞳を真正面から見つめてみた。揺れる網膜。淡い熱。 知っていた。彼の気持ちが私に向いていることは、何となく分かっていた。クラブ活動中ずっと私に向け続けられる視線や、すれ違う瞬間に感じる柔らかな、いとおしみの気配にも。 けれどいつまで経っても、何も言ってこない。最近の男子は奥手なんだな、と待ち続けること一年。もういっそ私から言ってしまおうかとまで思い始めたとき、ようやくその言葉をもらえて、少し安堵した。「でも、」 水谷くんは続ける。伏せた睫毛のうすい影。舌先で、唇を濡らして。呟くように。「ぼくは先輩に、触れられないんです」 空気が揺れた気がした。ん? と私は首をかしげた。「どういうこと?」「だから、ぼくは先輩に、じゃなくて先輩以外にも、誰にも触れられないんです」 搾り出すような声でそういうと、水谷くんは私の方に手のひらを伸ばしてきた。 白い甲に、長い指。皮下に流れる薄青の血管が、うすく透けて見える。爪の先の白いカーブがうつくしくて、私はそっと触れようとした。 瞬間、指先は引っ込められた。黒いカーディガンの袖に隠れる掌。 視線を上げると、水谷くんは頬を染めてうつむいていた。唇をやわく噛んで、耐えるように。恥じ入るように。「理由は分かりません。本当に触れたいのに、できないんです」 華奢な肩が小さく震えた。私は言葉をなくして、彼の手のひらが在った空間をぼんやりと眺めた。「先輩のことは、好きです。ほんとに心から、大好きなんです」 そういう水谷くんは今にも泣き出しそうに見えた。栗色の巻き毛が、廊下の窓から差し込む午後の日差しに透ける。 私は、小さく一歩足を踏み出した。それに応じて、水谷くんも一歩後ろへ退く。歩く。退く。歩く。 とん、と軽い音がして、とうとう水谷くんは壁に背をつけた。私はそっと手を伸ばす。「せんぱい……、あの、やめてくださ、」 怯えるようにぎゅっと目を瞑る彼の頬を、つ、と撫でた。すべらかな白い皮膚が指先に馴染む。 水谷くんは肩を震わせ、必死に耐えていた。けれど、伏せた睫毛の隙間から涙が滲むのを見て、私は彼から手を離した。「ごめんね」 言うと、彼はふるふると首を横に振った。何だか小動物みたいで、哀れに思えてくる。「ぼくが悪いんです。ぼくが、いけないんです」 でも、と彼は続ける。「ぼくは先輩が好きです。大好きです」 沈黙。からからと、枯れた木が風に揺れる音がする。私はしばらく考え、そして言った。「付き合おうか、私たち」 その言葉に、水谷くんが顔を上げる。彼が驚いている隙に、私は彼のカーディガンを握り締めた。ひっ、と情けない声を漏らして、でも水谷くんは腕を振り払わなかった。 数秒の停滞。どくり。どくり。心臓の鼓動がやけに大きく響く。空気がざわつき、ゆっくりと動き出す。 ぽとり、と床に水谷くんの顎から滴った汗が落ちて、私は腕を離した。「服の上からは大丈夫なんだね」「直接触れられる、よりは」 荒い呼吸をしながら彼は言った。ぐったりと背を壁に預けて、息を吐く。「先輩、本当に付き合ってくれるんですか?」「さっき言ったはずだよ」 返すと、水谷くんは掠れた声で囁くように言った。「だけど、手も握れないし、キスもできないですよ」 自分から告白してきておいて何を言う、と私は内心嘆息した。「それでも、いいんですか」 震える声を聞いて、ああ彼は怖いんだ、と思った。私に拒否されることより、承諾されることの方が怖いんだ。 けれど、いつか受け入れなければ、きっと君は幸福になれないよ。「いいよ、付き合おう」 キスも手繋ぎもしなくていい、隣にいるだけでいいよ。それで充分、満たされるでしょう? 同情じゃない。ただの哀れみでもなくて。本音を言うとキスもしてみたいし、手も繋いでみたい。 水谷くんと、このままずっと触れ合えない可能性も、全く否定できない。 でも私は、彼のことが好きだった。彼の柔らかな話し方や優しいまなざし、本のページをめくるときに踊る、なめらかな指。 栗色のゆるい巻き毛に、可愛らしい笑顔。猫背気味のまるい背も、いつもだらしなく伸びているカーディガンの袖も、読書をするときの真剣な目も。 全部全部、好きだった。「私は水谷くんが好きです。付き合ってください」 微笑みながら言うと、彼はくしゃりと顔をゆがませ、笑い泣きの変な表情になった。「ありがとう、里穂さん」 いつの間にか薄暗くなり始めた廊下を、私たちは二人で並んで歩く。お互いの袖を握っているせいでときどき転びそうになりながら、一緒に歩く。 このままずっと歩き続けたいな、と水谷くんのカーディガンに頬をつけながら、私は思った。
> 沙里子様 『鱗とコアントロー、まるい海。』への感想 うわあ、これすごい好きです。原作のせつなくって甘酸っぱい空気も大好きなのですが、こちらのリライト作品は、原作とはまた違う方向性の『好き』を感じます。 鱗、コアントロー、ドレープ、移動遊園地……小道具や単語の使い方が、すっごくいいなあって思います。 ラストが淡々としてるところがまたいいなあと思います。羨ましい、こういうのスマートに描けるようになりたいなあ、嫉妬……!> お様『ふぃっしゅ そんぐ にーてんれー』への感想 リライトというより、ほんとに「宛てて」というかんじですね。いろとりどりのイメージの氾濫。小道具や舞台の使い方がすごくて、見習いたいです。 感動的なかんじのクライマックスでいきなり出てくるデコピンにずっこけました。ええええ!?> お様『荒野を歩く』リライトへのお礼と感想 わあ、主人公がタフな男になってる! そして心情描写が濃密……! キャラクターも文体もジャンルも、まるきり違うかんじで、なんていうか、もとになったものが自分の書いた作品だという気がしなくて、普通に楽しんでしまいました。そして、キャラクターものを書きたいと身としては、いろいろ勉強になります。 ありがとうございました!> お様『バイオリン弾きのゴフシェの奇跡』への感想 原作やほかのリライト作品と比べると、ぐっと泥臭い(念のため、いい意味です)タッチですね。ゴフシェの自虐的な感じやジレンマ、心情の推移にドラマがあって、すごくいいなと思いました。 最後、ゴフシェはどうなったんだろう。追放されただけですんだのかな、それとも……。> 紅月セイル様『Fish Song―Capriccio―』への感想 あっ、そういう読み方があったんだあと、目から鱗が落ちたような気分です。新鮮。なんだろ、リライトすると、ふつうに感想を書くときよりも、作品解釈のわかれかたがはっきり表に出てきますねー。 そして、拙作をリライトしていただいたときにも思いましたが、紅月さまが書かれるラストは、前向きさがありますね。> 自分 『ほらねんね』リライトの反省 うー、やっぱりすごく無粋な感じがする。不思議は不思議のままだからいいんですよね。それがわかっていてなぜやった。ごめんなさい……(汗)> 自分 『僕の母は美しい。』リライトの反省 ぎゃーごめんなさい! どう考えても劣化したとしか思えません。 しかし出来を度外視すれば、リライトしていてとても楽しかったです。ありがとうございました!> つとむュー様 『河のほとりにて』への感想 あっ幽霊ネタかぶった! しかし、わたしの無理やりな幽霊ネタと違って、きれいな流れで、切なくもほっこりする仕上がりでした。いいなー。 企画ものなのに批評的なことをいうのもなんていうかすごく無粋なんですけど(大汗)、「♪」や「~」は、ちょっとコメディっぽいというか軽い感じがするというか、作品ぜんたいの雰囲気を考えたら、もう少し違う表現のほうがよかったのかな、って思いました。 あれですね、原作が詩というスタイルもあって、細かい背景を書き込まずに余白をとってあるので、リライト作品を読み比べるのが楽しいですね。> 沙里子様 『手のひらの熱』への感想とお礼 ありがとうございます……! 描写がこまやかになって、彼氏が同級生から後輩になって、そしてちょう可愛くなってる! カーディガン、いいです……! 小動物感が増してて、この子すごい好きですどどどどうしよう(落ち着け) すごくうれしいです。ありがとうございました!