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RSSフィード [130] 即興三語小説 ―消去法の選挙になっている時点で、負けている―
   
日時: 2013/07/21 23:02
名前: RYO ID:VnXMFrhI

「『プリン!』という擬音を考えた奴は天才だと思うね」
「何を言い出す? プリンでも食べたくなったか? さっき弁当を食べたばっかりだろう」
 昼下がりの廊下で校庭を見下ろす。校内一の美人(と男子の間で人気)の英語教師の山本先生がクラスの女子たちと談笑している。
「山本先生やっぱいいわ。まだ新任して二年目って言ってたから、二十四くらいだろう。オレにもチャンスあるよな」
 完全にイッた目で山本先生を見つめるのは、同じクラスの達也だ。
「しらねーよ」
「あの歩くたびに揺れるケツがたまらん。プリン!プリン!と聞こえてくるだろう?」
「オレに同意を求めるな」
「胸はプルン!プルン!だぞ」
「プリンでもプルンでもどっちでも、オレはかまわないが、インプラントで何か入っているかもしれんぞ」
 ため息混じりに冗談めかして答えると、
「そ、そうなのか? オレの山本先生のイメージが……」
「おい、本気にするなよ」
 達也は頭を抱えて、オレの声はもう届かない。と、山本先生と目が合う。笑顔で手を振ってくる。
「おお!」
 それくらいで興奮するな、達也。心底うれしそうに表情が緩んで、崩れきる。
「やっぱ、これは脈ありだな。だな」
 達也が同意を求めきたのか分からず何も答えなかったが、とりあえず達也としては自分の世界のなかで満足らしい。
「ま、とりあえずお前を『お兄さん』と呼ぶ日は、ご勘弁願いたい」
 つぶやかずにはいられない。
「なんか、言ったか?」
「なんでもねーよ」
 先生とオレは姉弟であることは、当然のことながら秘密だ。
 それにしてもあの姉貴の一体どこがいいのか? 昨日、ぶん殴られたことが思い出される。
『一体何、この点数! それでも私の弟? 私が職員室でどんなに惨めかわかる?」
 ……こいつなら、殴られることすら喜びそうだ。
 山本先生に手を振り返す達也を見ながら、オレは深く深くため息をついた。

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●基本ルール
以下のお題や縛りに沿って小説を書いてください。なお、「任意」とついているお題等については、余力があれば挑戦してみていただければ。きっちり全部使った勇者には、尊敬の視線が注がれます。たぶん。

▲お題:「インプラント」「働いたら負け」「プリン!」
▲縛り:なし
▲任意お題:「ウイスキー」
▲投稿締切:7/28(日)23:59まで 
▲文字数制限:6000字以内程度
▲執筆目標時間:60分以内を目安(プロットを立てたり構想を練ったりする時間は含みません)

 しかし、多少の逸脱はご愛嬌。とくに罰ゲーム等はありませんので、制限オーバーした場合は、その旨を作品の末尾にでも添え書きしていただければ充分です。

●その他の注意事項
・楽しく書きましょう。楽しく読みましょう。(最重要)
・お題はそのままの形で本文中に使用してください。
・感想書きは義務ではありませんが、参加された方は、遅くなってもいいので、できるだけお願いしますね。参加されない方の感想も、もちろん大歓迎です。
・性的描写やシモネタ、猟奇描写などの禁止事項は特にありませんが、極端な場合は冒頭かタイトルの脇に「R18」などと添え書きしていただければ幸いです。
・飛び入り大歓迎です! 一回参加したら毎週参加しないと……なんていうことはありませんので、どなた様でもぜひお気軽にご参加くださいませ。

●ミーティング
 毎週日曜日の21時ごろより、チャットルームの片隅をお借りして、次週のお題等を決めるミーティングを行っています。ご質問、ルール等についてのご要望もそちらで承ります。
 ミーティングに参加したからといって、絶対に投稿しないといけないわけではありません。逆に、ミーティングに参加しなかったら投稿できないというわけでもありません。しかし、お題を提案する人は多いほうが楽しいですから、ぜひお気軽にご参加くださいませ。

●旧・即興三語小説会場跡地
 http://novelspace.bbs.fc2.com/
 TCが閉鎖されていた間、ラトリーさまが用意してくださった掲示板をお借りして開催されていました。

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○過去にあった縛り
・登場人物(三十代女性、子ども、消防士、一方の性別のみ、動物、同性愛者など)
・舞台(季節、月面都市など)
・ジャンル(SF、ファンタジー、ホラーなど)
・状況・場面(キスシーンを入れる、空中のシーンを入れる、バッドエンドにするなど)
・小道具(同じ小道具を三回使用、火の粉を演出に使う、料理のレシピを盛り込むなど)
・文章表現・技法(オノマトペを複数回使用、色彩表現を複数回描写、過去形禁止、セリフ禁止、冒頭や末尾の文を指定、ミスリードを誘う、句読点・括弧以外の記号使用禁止など)
・その他(文芸作品などの引用をする、自分が過去に書いた作品の続編など)

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沢部という男 ( No.1 )
   
日時: 2013/07/29 01:15
名前: かたぎり ID:sTKqH49U

 青く発光するバレーボールサイズの球体を撫でると、ガラス製の自動ドアが音もなく開いた。手のひらに埋め込まれたチップに反応して開くという仕組みだそうだ。さほど高級といえないこのマンションでさえ、こうした認証システムを取り入れているのだから、時代は確かにうつろっているのだろう。外観を変えないままに、世界はその内部ばかりを変えていく。
 エレベーターに乗り込み、六階のボタンを押す。静かに上昇していくエレベーターの階数表示を見ながら、私はこれから出会おうとしている男のことを思った。
 沢部隆一。
 変人といわれる部類の人間である。発言、行動ともども一般からかけ離れているが、当人は世間の冷めたい視線など意に介さず、たいがいは無視し、あるいはかえって哀れんだりする。そういう鼻持ちならない男なのだ。私のような平凡な三十路男と、なぜ長きにわたるつきあいがあるのかと問われれば、うまく返答できる自信がない。
 六階についたエレベーターから降りようとするとき、コツ、と手にした箱がドアの角にあたった。私は慌てて中身を確認する。保冷剤の横にふたつのカップタイプのプリンが並んでいるが、どちらも形が崩れたようすがないようで胸をなでおろした。
「あぶなかった」
 甘いものは、沢部と接するさいに必須となるアイテムである。彼は甘いものに目がなく、そういったものを持参するとしないでは、その日の態度ががらりと変わる。基本的に不機嫌な男だが、甘い物をちらつかせるとたいがいは笑顔を見せ、柄にもないお世辞さえ口にする。慣れてくれば、ある意味扱いやすい。
 沢部の部屋の前に立ち、インターホンを押す。数秒待って、入ってくれ、というお決まりのセリフがスピーカーから流れた。ロックが解除された音はしないが、それはいつものことだ。このご時世になってなお、彼には戸締りという習慣がない。私は取っ手に手をかけ、ドアを開いた。
 ソファに腰掛ける沢部の後ろ姿が見える。
 相も変わらず本に埋め尽くされた部屋だ。掃除もろくにしていないらしく、部屋の真ん中にあるテーブルとソファのセット以外は、まともな人間の生活場所とは思えない。
「やあ」
 私が呼びかながら近づいていくと、沢部は立ち上がることなく、左手を頭のよこまで持ち上げ、くるりと手のひらをこちらに見せた。彼流の挨拶というわけではない。沢部は左手で、正確には左手の小指の腹で、私を確認している。そうやって私を見ているのだ。
「小沼くん、久しいね」
 そういう沢部だが、今もなおその顔を私に向けてはいない。
「ああ、二か月半ぶりだろうか」
 私がいうと、次は左手の薬指がわずかに動いた。
「まあ、こちらに来て座ってくれよ。手荷物片手に歩いてきて、きみも疲れたことだろう」
「そうだな。そうさせてもらう」
 私は沢部の反対側のソファに腰を下ろした。
 目の前に見る沢部は、アイマスクをしている。べつに驚きはしない。今日に限らず、彼は緊急時をのぞいていつもそうしているのだ。私からは見えないが、きっと耳にも耳栓をしているはずだ。
「今日は、鼻栓はしていなんだな」
 私は皮肉まじりに言った。
「ははは、あれはさすがに見た目に難があってね。少なくとも人前ではしないことにしたよ。しかし、物を食べるときには鼻栓もしたくはなるね。何かを味わうというのは、味覚だけで足りるものではない。目で味わい、鼻で味わい、耳で味わい、触り心地を味わい、最後に舌で味わう。本当の食事とはそういうものだろう?」
「ああ、もっともだ」
「そうさ。五感のうちどれであろうと、それらは複合的な感知によって機能している」
 なるほど、それは正しい意見ではあるのだろう。だからこそ沢部は左手を私に向けて、五本の指を動かしている。目を封じ、耳を封じ、鼻をも封じようとするこの男にとって、五感とは左手の五本指そのものなのだ。沢部の指先に埋め込まれたインプラントにより、世界を感知する。小指は視覚、薬指は聴覚、中指は味覚、人差し指は嗅覚。唯一親指だけは、もとのままの姿、つまりは触覚を残している。
 人工的に作られた感覚器官を、身体の別の場所に植え付けるという技術が開発されたのは、数年前らしい。当然のことながら、主たる目的は先天的後天的に障害を抱える人々への医療的行為にあった。しかしこの沢部という男は、仮に五感のすべてを五本指に持った場合、神経系はいかに変化するか、という自らの疑問に答えを得るため、莫大な施術費を支払いそれにいたった。もちろんただちに指先が覚醒するわけもないようで、彼はもともと人体にそなわる五感を意識的に絶って、日々の生活をおこなっている。
「ところで、その、なんだ、その箱はどういったものだい?」
 私がしばし物思いにふけっていると、沢部が歯切れ悪く聞いてきた。こういうあたりが、この男に残された最後の慎ましさというものだろう。私がこの部屋に訪ねるときに持ってくるものは決まっているのだが、さすがに甘い物を催促する子供のようでばつが悪いらしい。
「おっと、そうだった。美影屋のプリンを買ってきたんだ。会社の同僚から、ここのは美味いという話を聞いてね。確かに大人気らしくて列ができていた。結局ふたつしか買えなかったんだけど、良かったら食べてくれ」
 私の言葉を受けて、沢部の薬指が、トン、と弾んだ。
「ありがとう。小沼君。きみほど気づかいのできる男を僕は他に知らないよ。きみという友人を持てたことを光栄に思う。色々抱えている案件があって気が滅入っていたのだが、今日という日はこれでなかなか意義深いものになりそうだ。さっそくいただくとしよう」
 現金なものだと思うが、悪い気はしない。こういう子供じみた部分があるからこそ、私は沢部とつきあえているのだと思う。
「しまった!」
 不意に沢部がおおきな声をあげた。
「どうかしたのか?」
「いやね、医者から甘いものを止められているんだ。血糖値が異常に高くなっているらしい。このままいけば命の危険もあるなどと脅されてね。まったくなんということだ。小沼君の気遣いにこたえられないとは」
 沢部が気遣いをむげにしてしまうことを悔いているとは思えない。たぶん、ただ純粋に、子供のように、大好物を食べられないと嘆いているのだ。
「そうか、それならしかたないな」
「いや待て、こういう時のためにこそ、僕の左手はあるんだ」
「しかし、薬指では味わうことはできても、食べることはできないだろう」
「緊急時にはやむをえない。見た目が悪くなるだろうが、中指で味あわせてもらいたい。どうだろう、こんな僕を許してもらえるだろうか?」
 アイマスク越しでは沢部の表情を読み取れるわけもないが、その声には切実なものさえ込められているようだった。
「ああ、きみに贈ったものだし、好きなようにしてくれよ」
「おお、そうか! それはありがたい! よし、せめて飲みものを用意しよう。コーヒーと紅茶しか用意できないが、きみの好きなほうをいってくれ」
 私がコーヒーを頼むと、沢部はキッチンへと小走りで向かった。視界を封じた男が、左手を身体の前に掲げたまま動き回る姿を見るのは毎度不思議な気分だが、沢部の足取りには迷いがない。左手の五指を使いこなし始めている証しなのだろう。
 その後、沢部とともにプリンを食べた。沢部の食べ方――正確には中指で味わうだけなのだが――は、案の定下品極まりないもので、中指をプリンに突き刺したり、潰れたプリンに中指で「の」の字を書いたりという有り様だった。それでいて、これは上品な味だ、などというのだからなおたちが悪い。沢部は私にも残りのプリンを食べるよう勧めたが、私は丁重に断り、ブラックのコーヒーを静かに飲んだ。
「ところで、小沼君。今日は僕にどんな相談があるというんだい?」
 さんざもてあそんだプリンにようやく満足したころ、沢部はそう聞いてきた。
「なんで相談があると思うんだ?」
 私が尋ねかえすと、沢部の薬指がぴくりと動いた。
「きみが僕のもとを訪ねてくる。それも手土産に甘いものを持って。となると、相談を持ちかける必要があってのことだろう。毎度のことだよ」
「確かにそうなんだが」
「だろう。気を遣うことはない。きみには一飯の恩があるし、我が家には一度この恩義を受けたなら、全身全霊をもってそれに報いよ、という家訓もある。さあ、何なりといってくれ」
 沢部家にそんな家訓があるとは初めて知ったが、私にとって好都合なことには違いない。沢部ほどではないにしても、私にも人生相談のようなものができる友人は限られている。私は腹をくくった。
「実は、転職を考えているんだ」
「ほう。きみは確か地元の金属加工会社で働いていたね」
「ああ、その通りだよ。ブルーカラーというのかな。沢部とは別の世界で働いている」
「過酷な労働環境だとは聞いたことがあるように思うが、三十を過ぎて転職とは、きみにしては思い切ったことを考えたものだ」
 そう、沢部の言うとおりだ。私という人間は変化を嫌う。新しい会社、新しい環境のもとで、一から仕事を覚え、一から関係性を作ると考えるだけで、気分が陰鬱になってしまうのだ。
「そう自分でも思うよ。でも、あんな会社で働いたら負けだと思うことがあってね。何に負けなのかは自分でもわからない。ずっと息苦しさを感じて、自分の気持ちを抑え込んであと数十年生きていくと考えると、たまらなく嫌になったんだ」
 私がいうと、沢部の五本の指が、鍵盤を叩くかのようにひとつの波を打った。
「詳しく聞かせてくれるかい?」
 沢部に問われて、私は語り出す。
 ある日、工場内で事故があった。一人の工員がプレス機に巻き込まれ、片腕と片脚を失うという重症を負った。命こそ取り留めたが、今なお病院で寝たきりの生活をしているらしい。親しくはないが、それなりの期間を同じ職場で働いた仲だ。私なりに彼の人となりは知っている。真面目ばかりが取り柄といった、不器用で内気な男だった。どこか自分と似ている、そう感じていた。
 事故があった直後、私を含めた数人で血だらけのプレス機の清掃を任された。沈黙の作業がしばらくつづいた。そんななか、ふと、あいつもついてないぜ、と誰かがいった。奇妙なことに、ついで聞こえたのは、いくつかの笑い声だった。私には彼らがなぜ笑っていられるのかわからなかった。いや、彼ら自身にさえその理由がわからなかったかもしれない。
 工場長から、面倒ごとは起こすなという通達が入り、その日の作業はまた再開した。そして一日の作業が終わると、ようやく肉体労働から解放されたという喜びに、多くの作業員が笑顔さえ見せていた。私はたまらず、どうしておまえらは笑っていられるんだ、とひとりひとりの襟首をつかんで問いつめたくなった。しかしそんなことはできなどしない。誰にだって生活がある。労働環境をなげき、責任の所在を上に求めたところで、こんな小さな会社ではどうすることもできない。私たちにできるのは、自分の身は自分で守ると言い聞かすことだけなのだ。そんなことはわかっている。わかっているが嫌になった。
 説明を終えた私は少し興奮していたのだろう。ひどく喉がかわいており、今は冷えたコーヒーの残りをいっきに飲み干した。そして茶色くなったカップの底を見つめる。なんとなく、沢部のほうを向きづらい。
「ピアノに凝っているんだ」
 思いもしない沢部の一言だった。
「僕が試しているいくつかのことのひとつなのだがね。僕はピアノなど、この歳になるまで弾いたことがなかった。あまり興味のある分野ではなかったからね。しかし、僕は見ての通り、左手の五指に五感に相当する感覚器官を持っているだろう?」
 私には沢部がいわんとするところがわからない。しかし一方で、こういったとき、私が困り果てているとき、問題をはぐらかすようなことをする男ではないと知っていた。
 沢部はつづける。
「ピアノというのは、子供のころから練習していないと弾きこなせないとされる楽器なんだ。なぜかといえば、子供が育ち大人になっていく過程において、使われることの少ない神経の発達はわずかで、いちど身体が成熟してしまえば劇的な進歩は望めなくなる。特に小指はその傾向が顕著にみられる。それはきみも実感するだろう? 僕はこの宿命とでもいうものに逆らえないかと考えたのさ。そのため、左手の五指に五感を兼ね備えたわけだ」
 私はあらためて沢部のほうを見た。ソファに座る沢部は、相変わらずアイマスクをしており、その表情をのぞかせない。しかし、彼の眼前に掲げられた左手から伸びる五本の指を見ていると、今までとは違うものを見ている気分になってきた。
「視覚神経と触覚神経を繋ぎ、それを脳まで伝える。こうすることで、錆びついた神経系全体が新たに再構築されるかもしれない。そんな突飛な思い込みさ。科学的とはとても言いがたいものだ。僕は視覚だけに飽き足らず、聴覚、臭覚、味覚までもを指先に埋め込んだ。今のところどんな成果があったかというと、取り立ててどうといえるものはなにもない。きみの知る通りの有り様だ。しかしね、ようやく指が、手が、腕が、新たにつながってきたような気分はあるんだ。思い込みかもしれないが、それを証明してみたいがために、毎日ピアノの練習をしている」
 そういって沢部は、部屋の隅に置かれたピアノの前に移動し、カバーを開けて、鍵盤を叩いた。左手のみで弾かれる「きらきらぼし」の単調なメロディーが、部屋の空気を震わす。どこか愛嬌のあるような音、それでいて何か――、なんだろう、この心の奥に浮かんでくるイメージのようなものは。
「とまあ、今はまだこんなところだ」
 左手だけで一曲弾き終え、彼は苦笑まじりに言った。
「なんというか、味のある音色だったよ」
「それはありがとう。さて、きみは僕という人間を少し特殊な存在と見ているようだがね、実際は少しずつでも自分の可能性を広げようとしたり、自分という人間の今の有り様を嘆いてばかりのどこにでもいる男さ。そのくせまともに労働した経験もなく、きみの話を聞いてみても、こうしたらいいとはっきりいうこともできない。それでも友人としてもしいえることがあるとするなら、僕もまた、きみと等しく足掻いているもののひとりだということだ。まったく僕らはいったい何に足掻いているのだろうね。こんなものだと悟る自分か、それとももっと大きなものにか。小沼くん、きみは優柔不断なようで、看過できぬと思ったことには、自分としてのゆらぐことのない答えを出す人だよ。だからこそ、僕はそれがどんな決断であれ肯定し、どういった未来が待っていようと応援したいと思っている。いつでも好きな時に訪ねてきてくれ。僕は、この部屋の鍵をかけることなくきみを待っている」

 私は沢部の部屋をあとにし、マンションの前を歩いていた。
 気づけば時刻は六時を過ぎ、夕陽もそろそろ落ちるころとなっていた。行きかうひとびとの多くはマンションの住人なのだろう。それぞれが今日という日をひとまず終えて、あるいは軽く、あるいは重い足取りを進めている。それぞれが何を思って歩いているのか知るはずもないが、誰もが何かを秘めて歩いているのだと思うと、言葉にできないなにかに圧倒される。そんなことをついつい考えてしまう。
 私にとって、今日の沢部の態度は予想外なものだった。彼ならば、私の悩み事など詰まらぬと一蹴するに違いないと踏んでいた。そして私は、彼の言葉を受ければ、これ以外ないという結論がなんとなく出せるように思えていた。
 ――結論か。
 いや、そんなものは私のなかでとっくに出ていたのだろう。とどのつまり、私は誰かの後押しを求めていたにすぎないのだ。それを覚った沢部はこうせよとはいわず、後押しだけに徹してくれた。遠回しにもほどがあるが、そうしてしまうのが沢部という男なのだ。
 マンションの上のほうから、ピアノの音が聞こえてくる。下手ながら愛嬌のある「きらきらぼし」だ。沢部がまた練習しているのだろう。それにしても、この演奏を聴いていると湧きあがってくる感覚はなんなのか。
「プリン!」
 不意にそんな大声がした方を見ると、小さな女の子が、買い物袋を提げた母親に話しかけていた。
「ママ、プリンが食べたくなった!」
「突然いわれても、今買い物してきたところじゃない」
「でも食べたい。プリン食べたい!」
 ――そうか!
 私はずっと気になっていた感覚の正体がようやくわかったように思えた。沢部の演奏を聴いていると、プリンのイメージが湧いてくるのだ。しかし、なぜそんなイメージが……。いや、思いあたる節はひとつしかない。私が彼に贈り、彼がさんざんもてあそんだ哀れなプリン。沢部はたいそう気に入っていたし、今もなおその余韻を味わっているのだろう。
 五感をもった沢部の指、そこから奏でられる音色。それがどういった理屈かわからないが、聞くものの五感にうったえかける力を持つ。突飛で、まるで科学的でない発想。しかし、かりにそうだとするなら、なんと斬新な演奏方法だろう。
 私は早速この発見を沢部に伝えようと踵を返す。しかし、一歩踏み出した途端、待てよ、と足が止まった。彼のことだから、これくらいの偶然があったからといって、早々とは信じまい。むしろ、私の安直な考えをせせら笑うことだろう。沢部の眼を丸くさせてみたいなら、こちらも相応の説得力をもって臨まなければならない。いくつもの証拠を積み上げてる必要がある。
「次はエクレアを持って行ってみるか」
 近隣住民が演奏を聞いた途端、エクレアが食べたくなるような音色。そんな想像に破顔してしまいそうになるのをおさえて、私は帰路につく。一つの決断と、今なお演奏に励む友の姿を思って。


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また長くなってしまってすいません。どうも今はこういう書き方しかできないようです。
それでももし読んで下さった方がいらっしゃれば、感謝感謝でございます。

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