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RSSフィード [22] 平日のお昼が気怠いので三語
   
日時: 2011/04/05 15:34
名前: 弥田 ID:Vrnz9ThU

「洗濯機」 「静かな枝」「はにかみ」

目安は一時間です。遅刻しないよう頑張りましょう。頑張ります。

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彼を乞う ( No.2 )
   
日時: 2011/04/05 17:14
名前: 沙里子 ID:ecTpKQas

 ここを出ると決めたのは、沈丁花の咲く頃だった。
 静枝さんに話すと、彼女はさして残念でもなさそうに「そう」とだけ言った。
「あなたもどこかへいってしまうのね」
 縁側でひだまりに浸りながら、静枝さんは小さく呟いた。和室の大時計が午後四時の報せを鳴らした。

 慶介が出て行ったのは二週間前のことだった。白く煙るような雪が降りしきる中、彼は静かにこの家を出て行った。
 引きとめようとしても無駄だった。慶介は頑として言い張った。
「このままここに居たら俺、きっと駄目になる」
 仕方なく、ぼくと静枝さんは並んで玄関に立ち、去っていく慶介の背中を見つめた。それきり彼とは連絡をとっていない。
「どうして慶介を拾ったんですか?」
 抱きかかえた猫の喉をなでながら訊くと、静枝さんは「あなたと同じ理由よ」と答えた。
「かわいそうな貧乏学生に、温かい料理を作ってあげたかった」
「つまり、静枝さんの暇つぶしですね」
 言うと、彼女はくつくつと小さく笑った。
 初めて静枝さんに会ったときも、彼女はこんな風に笑って見せた。顔の輪郭が柔らかくほどけるような、やさしいはにかみ。



「あなた、私の家に下宿しない? 料理も朝晩つくるわよ」
 四月。不動産屋の軒先に貼り出された下宿人募集の貼り紙を眺めていると、突然女の人に話しかけられた。
 低く湿った声に、柔らかい笑顔。ゆるく巻いた髪は肩につくかつかないくらいの長さでそろえられていた。
「風呂付食事付で月五万。どう?」
 ぼくはつい頷いてしまいそうになるのを堪えて、「一度、部屋見せてもらっていいですか?」と訊いた。
 女の人は笑顔のまま歩き出した。駅から徒歩十分、煙草屋の角を曲がったすぐそこにその家はあった。
 大きな木造の家。門をくぐると、枯れた芝生に柿の木が立っていた。小さな池まである。
 土間をあがり、軋む床板を踏んで階段をあがる。家中淡い線香の匂いで満たされていた。
「ここ」
 ふすまを開けると、がらんとした和室が広がっていた。大きな窓に曇りガラスがはめ込まれている。
「九畳あるわ。どう使ってくれてもかまわないから。朝食は七時、夕飯は七時半ね」
 それを聴きながらぼくは、この家で暮らすことを決めた。明日からいいですか、と訊くと、女の人はもちろん、と笑った。
「そういえば、名前きいてなかったわね」
「光喜です。池川光喜。あの、あなたは」
 足元にすりよってきた黒猫を抱き上げて、女の人は言った。
「静かな枝と書いて、静枝。この子はクロ」
 縁側からなまぬるい風が吹き込んで、静枝さんの髪を揺らした。髪を耳にかけるしぐさの艶やかさに、思わず息を飲む。
 そうして、静枝さんに拾われたぼくは彼女の家に住み始めた。

 ぼくが静枝さんの肌に触れようとするたび、彼女はそれをさり気なく拒んだ。
「私、あなたのこと好きよ。でも駄目。夫以外は体が受けつけてくれないの」
 小さく笑いながら、静枝さんは言う。
「夫、いたんですか?」
「うん。今はいないけど」
 お仕事頑張ってこんな大きい家買ってくれてね、でもそのあとすぐいっちゃった。
 静枝さんは笑顔のまま続けた。どこへ、とは訊けず、ぼくは黙って猫の喉をなで続けた。

 慶介がこの家にやってきたのは冬の始まりの頃だった。彼は明らかに静枝さんに惚れていた。
「静枝さん、どうしても触らせてくれないんだ」
 時々慶介は、ぼくの部屋に来て酒を呑んだ。ぼくはそれに付き合いながら、適当にあいづちを打つ。
「向こうも俺のこと好いてくれてるの分かる。手に取るように分かるんだ。でも、やっぱり触らせてくれない」
「仕方ないよ。静枝さんはそういう人だから」
 慶介は御猪口に注いだ酒を一気に飲み干し、ため息を吐いた。
「あの人いつもにこにこしながら、慶介くん大好きって言うんだよ。そのくせ決して触らせてくれない。気が狂いそうだ」



 洗濯機から湿った衣服を取り出しながらふと、この作業も今日で最後なんだと気づいた。
 ハンガーにかけた服を、家中の壁に吊るしてまわる。作業を終えて居間に戻ると、静枝さんはいなかった。猫を抱いて、縁側に腰掛けている。
「静枝さん、」
 声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「光喜くん。洗濯物干し終わったの?」
「はい」
 ありがとう、と静枝さんが微笑む。ぼくは彼女の隣に座った。
 きめ細やかな白い頬が、月に照らされてぼんやりと光っている。ぼくはそっと手を伸ばした。
 息を止める。猫が逃げ出す。風が鳴る。闇が濃くなる。
 爪の先が皮膚に食い込む。静枝さんは目を閉じて、じっと黙っていた。伏せたまつげの影が頬に落ちて、ぼくは手のひらをそっと頬に押し当てた。
 そのまま唇を近づける。重なる瞬間、強い力で押しのけられた。
 ぼくは縁側から転がり落ち、枯れた芝生に手をついた。静枝さんは荒い息を繰り返している。
「ごめんなさい、」
 かすれた声で言うと、彼女はそのまま自室の方へ走っていった。
 ぼくはため息を吐き、立ち上がった。指先にまだ、頬のぬくもりが残っていた。
 翌朝早く、ぼくは半年間暮らした静枝さんの家を出た。彼女は部屋にこもったきり、一度も顔を見せてくれなかった。

 今も時々、彼女のことを思い出す。静枝さんは探していたのだ。自分の肌に触れてくれる人を。夫を。
 もしかしたら、という淡い期待を込めて若い男の子を拾っては、結局出て行かれる。
 あの大きな古い家で今も、ただ一人を待ち続けているのだ。

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すみませんでした。

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