「洗濯機」 「静かな枝」「はにかみ」目安は一時間です。遅刻しないよう頑張りましょう。頑張ります。
いつも静かな枝森さん。おとなしげで、すうっと背が高く、控えめなそれでいてどことなく品のあるはにかみが、すてきなすてきな枝森さん。 枝森さんの休日は、早くない。 九時をまわるというころあいに、布団がもぞもぞうごめいて、それからのっと顔を出す。枕の周りにおいてあるいつもの眼鏡に手をかけて、ひとつあくびをかみ殺す。ちょっとずぼらな枝森さん。 部屋のカーテンを開けて紺のパジャマを着替えたら、朝のごはんを考える。考えながらのびをして、冷蔵庫の中あさりつつ、昨日あましたたまねぎと、にんじん、ローリエ、それからトマト、などなど野菜をきれいに刻み、お鍋のなかに放り込む。水を一杯入れたあと、トマトジュースを追加して、塩にコショウにコンソメちょっと。お鍋をコンロにかけてのち、ぐつぐつ煮込んだミネストローネ、おいしくいただく枝森さん。 食器を洗って片づけて、やかんにお湯を沸かしたら、やかんの口からとっとうと噴きだす湯気のたなびきをみて枝森さん思い出す。きょうは天気がよいのだし、洗濯もしておかなくちゃ。 パジャマやその他服などを洗濯機にかけいましがた沸かしたお湯でお茶を淹れ、ほうと一息つくうちに、日はだんだんとのぼりだし、部屋はぽかぽかあたたまる。 椅子に腰掛け本などを読むうちぴいいと音が鳴り、洗濯物が洗われた。 窓際すぐのベランダに、洗濯物を干し終わり、時計をみるともうお昼。机のうえにおいてある携帯電話に着信があるのに気づいて枝森さん、あわてて電話をおりかえす。 それからちゃんと化粧して、カーテンを閉め壁際のひいきしているミニボストンをさっと手にとり玄関へ。 それからはっと気がついたのか、わたしのほうへ顔をみせ、「いってきます」と笑いかけ、わたしはちょっとうれしくなった。 それから辺りが暗くなり、虫もいくらか休まるようなそんな時間になってから、枝森さんたらドアをあけ、顔上気させお帰りに。 お酒を飲んできたのよね。楽しそうでいいけれど、あまり遅いと心配するわ。 わたしはいって叱るのだけど、枝森さんたらおかまいなしに、きょうあったことを教えてくれる。 あのねあのねといいながら、化粧を落とし、布団敷き、それからばたんと倒れこむ。 あのねというなら枝森さん、わたしもひとついいたいの、あなたお外に洗濯物を、干したまんまで寝るつもり? わたしはあきれてしまうのだけど、すぐに寝息が漏れてくる。 しょうがないな、とため息ついて、 きょうもおやすみ、枝森さん。
ここを出ると決めたのは、沈丁花の咲く頃だった。 静枝さんに話すと、彼女はさして残念でもなさそうに「そう」とだけ言った。「あなたもどこかへいってしまうのね」 縁側でひだまりに浸りながら、静枝さんは小さく呟いた。和室の大時計が午後四時の報せを鳴らした。 慶介が出て行ったのは二週間前のことだった。白く煙るような雪が降りしきる中、彼は静かにこの家を出て行った。 引きとめようとしても無駄だった。慶介は頑として言い張った。「このままここに居たら俺、きっと駄目になる」 仕方なく、ぼくと静枝さんは並んで玄関に立ち、去っていく慶介の背中を見つめた。それきり彼とは連絡をとっていない。「どうして慶介を拾ったんですか?」 抱きかかえた猫の喉をなでながら訊くと、静枝さんは「あなたと同じ理由よ」と答えた。「かわいそうな貧乏学生に、温かい料理を作ってあげたかった」「つまり、静枝さんの暇つぶしですね」 言うと、彼女はくつくつと小さく笑った。 初めて静枝さんに会ったときも、彼女はこんな風に笑って見せた。顔の輪郭が柔らかくほどけるような、やさしいはにかみ。○「あなた、私の家に下宿しない? 料理も朝晩つくるわよ」 四月。不動産屋の軒先に貼り出された下宿人募集の貼り紙を眺めていると、突然女の人に話しかけられた。 低く湿った声に、柔らかい笑顔。ゆるく巻いた髪は肩につくかつかないくらいの長さでそろえられていた。「風呂付食事付で月五万。どう?」 ぼくはつい頷いてしまいそうになるのを堪えて、「一度、部屋見せてもらっていいですか?」と訊いた。 女の人は笑顔のまま歩き出した。駅から徒歩十分、煙草屋の角を曲がったすぐそこにその家はあった。 大きな木造の家。門をくぐると、枯れた芝生に柿の木が立っていた。小さな池まである。 土間をあがり、軋む床板を踏んで階段をあがる。家中淡い線香の匂いで満たされていた。「ここ」 ふすまを開けると、がらんとした和室が広がっていた。大きな窓に曇りガラスがはめ込まれている。「九畳あるわ。どう使ってくれてもかまわないから。朝食は七時、夕飯は七時半ね」 それを聴きながらぼくは、この家で暮らすことを決めた。明日からいいですか、と訊くと、女の人はもちろん、と笑った。「そういえば、名前きいてなかったわね」「光喜です。池川光喜。あの、あなたは」 足元にすりよってきた黒猫を抱き上げて、女の人は言った。「静かな枝と書いて、静枝。この子はクロ」 縁側からなまぬるい風が吹き込んで、静枝さんの髪を揺らした。髪を耳にかけるしぐさの艶やかさに、思わず息を飲む。 そうして、静枝さんに拾われたぼくは彼女の家に住み始めた。 ぼくが静枝さんの肌に触れようとするたび、彼女はそれをさり気なく拒んだ。「私、あなたのこと好きよ。でも駄目。夫以外は体が受けつけてくれないの」 小さく笑いながら、静枝さんは言う。「夫、いたんですか?」「うん。今はいないけど」 お仕事頑張ってこんな大きい家買ってくれてね、でもそのあとすぐいっちゃった。 静枝さんは笑顔のまま続けた。どこへ、とは訊けず、ぼくは黙って猫の喉をなで続けた。 慶介がこの家にやってきたのは冬の始まりの頃だった。彼は明らかに静枝さんに惚れていた。「静枝さん、どうしても触らせてくれないんだ」 時々慶介は、ぼくの部屋に来て酒を呑んだ。ぼくはそれに付き合いながら、適当にあいづちを打つ。「向こうも俺のこと好いてくれてるの分かる。手に取るように分かるんだ。でも、やっぱり触らせてくれない」「仕方ないよ。静枝さんはそういう人だから」 慶介は御猪口に注いだ酒を一気に飲み干し、ため息を吐いた。「あの人いつもにこにこしながら、慶介くん大好きって言うんだよ。そのくせ決して触らせてくれない。気が狂いそうだ」○ 洗濯機から湿った衣服を取り出しながらふと、この作業も今日で最後なんだと気づいた。 ハンガーにかけた服を、家中の壁に吊るしてまわる。作業を終えて居間に戻ると、静枝さんはいなかった。猫を抱いて、縁側に腰掛けている。「静枝さん、」 声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。「光喜くん。洗濯物干し終わったの?」「はい」 ありがとう、と静枝さんが微笑む。ぼくは彼女の隣に座った。 きめ細やかな白い頬が、月に照らされてぼんやりと光っている。ぼくはそっと手を伸ばした。 息を止める。猫が逃げ出す。風が鳴る。闇が濃くなる。 爪の先が皮膚に食い込む。静枝さんは目を閉じて、じっと黙っていた。伏せたまつげの影が頬に落ちて、ぼくは手のひらをそっと頬に押し当てた。 そのまま唇を近づける。重なる瞬間、強い力で押しのけられた。 ぼくは縁側から転がり落ち、枯れた芝生に手をついた。静枝さんは荒い息を繰り返している。「ごめんなさい、」 かすれた声で言うと、彼女はそのまま自室の方へ走っていった。 ぼくはため息を吐き、立ち上がった。指先にまだ、頬のぬくもりが残っていた。 翌朝早く、ぼくは半年間暮らした静枝さんの家を出た。彼女は部屋にこもったきり、一度も顔を見せてくれなかった。 今も時々、彼女のことを思い出す。静枝さんは探していたのだ。自分の肌に触れてくれる人を。夫を。 もしかしたら、という淡い期待を込めて若い男の子を拾っては、結局出て行かれる。 あの大きな古い家で今も、ただ一人を待ち続けているのだ。--------------------------------すみませんでした。
初春の昼下がり静かな枝川の流れる音を聞きながら、アキラは洗濯機の修理をしようと準備をしていた。ブルーシートを敷きスパナやドライバーなどの道具を用意する。 そして準備を終えると家の中から洗濯機を運びだした。運んできた洗濯機はボディのあちこちが薄汚れたかなり古そうなもので、傍目から見ればよくこれが動いているものだと感心するほどである。洗濯機をブルーシートへ横倒しにしてアキラはドライバーを持つ。そして、「さて、とっととバラすか。起きて騒がれちゃ困るし……」と洗濯機に向かって言ってから作業を始めた。まるでドラマで寝込みを襲う殺人犯のような事を言ってから。 その言葉の意味は次の瞬間、明らかになった。「い、いでででで!!!こ、このアホ!!!お前何してるんだよ!?」 どこからか怒鳴り声が響いた。アキラではない男の声が。「チッ……、起きやがった」 あーあ、とため息をつくアキラ。その目線の先にあるのは、古ぼけた一台の洗濯機。「てめぇ、まさかそのドライバーで俺を解体しようと……?」「うっせえ、ボロ洗濯機!!」----------------------------------------途中です。お題「はにかみ」はこの後登場。※枝川は地名ではありませんw
稼働する洗濯機の蓋を、ひょい、とふいに開けてみる。中には銀河が渦巻いて、きらきらとしろがねに輝いていた。綺麗だった。このまま覗き続けていれば、いずれ眼に映り込んだ色彩がはっきりと焼き付いて、わたしの瞳も少しはマシになるのかしらん、なんて思うくらいに綺麗だった。放り込んだ大量の衣服たちは、銀河の運動に飲み込まれて、宇宙の黒い真空をぐるぐる廻り続けていた。 気怠いま昼のまっただ中だった。窓越しに差しこむおうごんの日光が、温かいお布団のようにわたしの全身を包み込んでいた。風はあまりなかったけれど、時折、思いだしたように強いのが一陣舞い込んで、そのたびに庭の木々たちは静かな枝を一斉に震わせ、とたん鳴り響く心地よい葉擦れの音に自ら酔い痴れる、そんな日だった。 わたしは少年のように純真な心で、じっと銀河を見つめていた。目の錯覚か、見つめれば見つめるほどに、それはだんだんと近づいてくるようだった。このままだんだんと昇ってきて、やがて洗濯機から溢れてしまったら、その時はいったいどうなってしまうのだろう。「宇宙とか、星とか、そういうの好きなんすよ」 ふと言葉を思いだす。いつかの誰かの、交わしたはずのたわいもない会話。わたしたちはアルコールを飲んでいて、吐き出す息にはいやな臭いがしみついていた。そんなもの気にもかけず、静かな午後の真ん中に、ふたり、体温と、快感と、その他雑多な色々なものをいつまでも交換し合っていた。「わたしは好きじゃないの?」 聞き返すと、相手ははにかむように笑って、言うのだ。「女の子は、それそのものが宇宙だから」 洗濯機の中の衣服は、すべてその頃に着ていたものだ。 ならばこの銀河は、もうすでに過ぎ去ってしまったわたしの、少女時代の結晶なのかもしれない。 こんなにも綺麗なものが身体の中で渦を巻いていた、そんな時代がたしかにあったのだ。 なにかが私の心臓をなでる。きゅ。と音がして、下腹が収縮する。 誰かの面影を必死に思いだそうとした。でも、無理だった。癖だったあの可愛らしいはにかみさえ、もはや忘却の彼方だった。浮かぶのは唇の隙間から見える、あのまっ白な歯並びばかり。ところどころが焦げてぱさぱさになった、あのまっ白な骨格ばかり。 銀河はまだまだ近づいてきて、すでに手を伸ばせば触れるような、そんな距離にあった。いいさ、溢れるなら溢れてしまえ。しろがねの輝きがわたしを、そして世界を包み込む、そんな光景を夢想した。なにもかもがきらきらと綺麗で、切ないくらいで、訳もなくはにかみながらまっ白な死を迎える。そんな光景を夢想した。 そしてわたしは蓋を閉じた。するとあたりはもとの昼下がりで、洗濯機の稼働するごろごろという音と、時折鳴り響く葉擦れの心地よさと、降り注ぐおうごんの日差しと、それ以外はなにもない穏やかな世界だ。 あは、あは、あは。おかしな感傷なんかに、殺されてたまるか。そんなものにとらわれるのは、馬鹿のすることだ。 けれども、どうしてか涙がこぼれた。つぎからつぎへと溢れてくるのでしかたがなかった。困った。どうしようもないので、うずくまってひとしきり泣いた。声だけはあげなかった。声をあげてしまえば、きっとまた、あの蓋を開けてしまうに違いなかったのだ。 泣き止んでから、顔を洗おうと洗面台に向かった。鏡を見て驚いた。ふたつの瞳に銀河が焼き付いてぐるぐると回転していた。ちいさく笑って、ようやく思いだした。その笑い方は、誰かの可愛いはにかみにそっくりだった。