すぎゆくもの ( No.1 ) |
- 日時: 2012/08/21 20:13
- 名前: マルメガネ ID:jYM3DOzM
立秋が過ぎた。 そう感じたのは残暑にもめげず洋食屋に行き、その店を出た時に感じた風の心地よさからだろうか。 水の中にたらしこんだ蜜のようにもやもやと熱くやけた路面から立ち上る陽炎でさえもその勢いはなく、うるさく鳴いていた一週間の命の蝉ですらもその鳴き声は変わっている。 秋の空と夏の入道雲。 私はいまだ盛夏を思わせるような厳しい残暑の中、軒下に吊るされた風鈴の音色に耳を傾ける。 プールの帰りなのか真っ黒に日焼けした子供たちの声がする。 強烈な西日の差す扇風機のみがある部屋に居て、悶え焦がれるような暑さに悩みながら、まとまらない物語の執筆をつづける。 気がつけば、夕暮れに近くなっていた。日も短くなってきたようだ。 侘しく去りゆく夏を惜しむかのようにヒグラシが鳴いていた。
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『アンナ』 ( No.2 ) |
- 日時: 2012/08/24 13:19
- 名前: 沙里子 ID:UAAv21sM
この街に引っ越してきて一ヶ月が経つ。朝、カーテンの隙間から射しこむ光で目が覚めたとき、見慣れない天井を見て一瞬考え込むこともなくなった。 階段を降りて台所に向かう。白い漆喰で塗りかためた壁に、樫の木でできた大きなテーブル。シンクの横の棚には、淡い桃色の花を活けた花瓶と、写真立てが置いてある。食器棚から深めの皿を取り出してシリアルを入れ、牛乳をそそいだ。それからもういちど二階へあがり、自室の隣の部屋をノックする。 「アンナ」 まだ眠っているのか返事がない。そっとドアをあけると、タオルケットにくるまる彼女が見えた。カーテンを閉め切ったうす昏い部屋のなかで、アンナの白い姿だけがぼんやりと浮かんで見える。 ぼくはスプリングを軋ませてベッドに腰掛け、アンナの頬に指を沿わせた。長い睫。ペールブロンドの巻き毛。髪に指をからませていると、アンナのちいさなまぶたがかすかに震えた。翡翠色の睛が数回まばたきをして、ぼくにささやく。 「おはよう、ルーク」 ぼくは微笑んで、起き上がろうとするアンナに手を貸す。 「ごはん、できてるよ」 ぼくたちは向かいあって食事をする。ものを食べている間、アンナは喋らない。ぼくがそう教えたから。朝食のあとはいつも散歩に出かける。アンナに白いワンピースを着せ、蚤の市で買った毛糸のポシェットを持たせ、麦わら帽子を被らせる。麻でできた、くったりとした手触りのおそろいの靴を履いてぼくたちはアパートを出た。 クリーム色のアパートのすぐ前には、大家の所有するちいさな菜園がある。トマトや蕪や、そんなささいな野菜がいつもほんのすこしだけ実っている。まだ粒のように小さいプチトマトに触ろうとするアンナの手を引いて、ぼくは歩く。 「それはまだ青いよ。食べるには早すぎる」 「ルークは物知りだね」 アンナはあどけなく笑う。抱きしめてくちづけたいほど、愛らしい。ぼくはにっこり微笑んだ。 建物と建物の隙間にはしっている、石畳の路地を歩く。頭上には、細いロープに吊るされた洗濯物たちがはためいている。どこからか漂ってくるパンケーキの焼ける匂いを吸いこみながら歩きつづけると、やがて大通りに出た。まだ車の往来は少ない。商店の立ち並ぶ坂道をのぼりきった小高い丘の上に、ぼくたちのめざす教会はある。遠くに見える海から、ほのかに潮の匂いがする風が吹くたび、くすんだうすみどりの草原が波打つ。草のなかの細い小道を辿ってようやく教会に辿りつくと、いつも通り神父が迎えてくれた。 アンナは教会の裏庭で遊んでいる間、ぼくはお祈りをする。アンナ、ぼくのいとおしいひと。彼女のためにぼくは祈る。心から、彼女の幸せを祈る。花冠を頭に載せたアンナが、こちらに向かって駆けてくる。ぼくは彼女を抱きあげ、頬をくっつける。 彼女を抱いたまま丘を降り、トラムの駅のちかくにある古い洋食屋に寄った。桃のコンポートを注文すると、アンナは顔をしかめた。 「またこれ? わたし、蜂蜜パイがたべたいのに」 「アンナ。お願いだからこれを食べて。おいそうに、食べてほしいんだ」 ぼくが懇願すると、アンナは仕方ないといったふうにフォークを手に取る。すこしひきつった笑みを浮かべながら、それでも彼女はすべて食べてくれた。 「いい子だ、アンナ。ありがとう」 髪を撫でると、アンナはうっとりと目を閉じた。 代金を払うとき、店の主人は走り回るアンナを見て、ほほえましげに「かわいい娘さんですね」とつぶやいた。ぼくも微笑み、「ありがとうございます」と返す。 帰り道、手を繋ぎながらぼくたちはくすくすと笑い合った。 「かわいい娘さん、だって」 「そう見えるんでしょう。仕方ないわ」 アンナはやけに大人びた顔をして、それでもこらえきれずにふきだした。実際、アンナは十二歳でぼくは二十三歳だから、他人には親子に見えるのだろう。けれど、ぼくたちの関係はそんなものではなかった。もっと複雑で、狂おしい、暗い愛の関係。 ふと、アンナと出会ったときのことを思い出した。去年の夏の終わり、まだ残暑がきびしい頃に、ぼくはアンナと出会った。ペールブロンドの髪と翡翠の睛。ぼくはすぐに彼女を引き取ることに決めたけれど、施設の職員はなかなか了承してくれなかった。 「まだ不安定だ。ひどく臆病で、なかなか人になつかない」 それを聞いて、僕はますます気に入った。まるで、ほんとうにアンナそのものだ。無理をいって彼女を引き取り、家に連れ帰った。 「君の名前はアンナだよ」 あたたかいココアを差し出しながら、ぼくは微笑む。 「どうして、わたしはアンナなの?」 ぼくは答えず、さらに優しく微笑んでみせた。 「大丈夫。何も心配しなくていい。きみはアンナだし、ぼくはルークだ。それだけでいい。何も考えなくていい。きみはぼくの隣にいてくれれば、それでいいんだ」 万が一、アンナの家族に見られた場合を想定し、ぼくはちいさなアンナを連れて引っ越した。 アンナのためにたくさんお金をつかってしまったけど、保険金はまだ残っている。しばらく仕事もせず、彼女とふたりきりで暮らせるだろう。 アパートに戻ると、ぼくは真っ先に写真立てのところへ行く。すらりとした肢体にペールブロンドの巻き毛、翡翠の睛。アンナ、とぼくは呼びかける。 「いいかい、たくさん食べて、たくさん眠って、はやく育つんだよ。素敵な大人に、なるんだよ」 いとおしい、ぼくのアンナ。かわいい、かわいい、ぼくだけのアンナ。愛している、心から、彼女のことを、愛している。 「ルーク、泣いてるの?」 いとけない指がぼくの頬をなぞる。ごめん、ごめんね、と呟きながら、ぼくはアンナの頭を掻きいだいた。かすかに、桃の匂いがした。
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一時間ちょっとです。2320文字。 読んでくださった方、本当にありがとうございました。
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