嗅ぐ ( No.3 ) |
- 日時: 2012/03/04 02:03
- 名前: 端崎 ID:lwgut8uo
インクの匂いが、苦手だった。 子どもの頃、母がどこかから借りてきた漫画雑誌を手にとって読んでいた。そのなかのひとつに、こんなシーンがあった。牙の生えた、男だか女だかわからない大柄な身体つきの人物が、開け放たれた館の窓から、夜風とともにやってくる。降り立った部屋では、細身の男がベッドで寝息を立てている。忍び込んできた人物はその枕元に立ったまま、じっと男を見下ろしている。 妖女、ということばをはじめてみたのは、そのときだったはずだ。
――妖女は 音もなく 男の首に
話の続きは覚えていない。ただその一節と、ページをめくるたびに鼻をついてきたインクの匂いだけが脳裏から消えないでいる。
辰の部屋で本棚を物色していたら、ふとそんなことを思いだしたのだ。 たいしておもしろくもないのになんでだかもう飽きるくらい読み返しているホラー漫画。赤っぽいその背表紙に、また誘い込まれるように指をかけて。 辰は、キッチンの方へいって、電話をしている。 ――うん、うん、うん。うん。火曜の? うん。 ちょっと待って、と言って、こちらへ戻ってくる。 冷蔵庫の脇に放り投げてあった鞄をあけて、手帳とペンを、取り出す。 そしてキッチンへ。 わたしは、それで、結局いちど棚に返した漫画を、また手にとってしまう。もちろん読まない。クッションの上に、座りなおす。 電話の声は、べつにわたしを憚るでもなく、比較的高いトーンで続けられている。辰の言葉はほとんどが相槌で、わたしはどうしようもなく気がめいる。もう夕方で、部屋の電気はつけているけれどキッチンは玄関からすぐのところにあるので暗い。暗いけれど、辰の口元が笑っているのは、みえる。 ――うん、うん、うん。 相槌を打ちながら、辰が、ペンの先を舐める。手帳になにか書きつける。 片手に持った漫画を、親指で下から上にばらばらとめくる。いつのまにか、手癖になっているのだ。本を傷めるけれど、やめられない。ページが風をおこして、乾いた、うすっぺらくて安っぽい匂いをはこんでくる。どうしようもなく、つまらない気持ちが、せりあがってくる。きてしまう。 「ご飯いこっか」 ばいばーい、と電話を切った辰が、わたしに、そう言った。 「うん、いく」 答えたなり、わたしは動かないで、辰をみる。辰をみて、みるのをやめて、ばらばらめくっている漫画のほうに目を落とす。 それから、巻きおこる、その風の匂いを、吸った。
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