安らかに雨よ降れ ( No.3 ) |
- 日時: 2012/02/19 21:55
- 名前: ラトリー ID:EOcBxFtU
正午前の白い空。雨が降り始める前の、湿って鼻につんとくるあの匂いが、ベランダに出た少女を戸惑わせる。 きっと晴れてくれるって、思ってたのに。苦しい時だけむやみに頼ろうとする神様が、少女に現実を教えようとしてくれたのかもしれない。 学校を休んだ日は、平日なのにベッドに入っている時間が長いからか、起きてからも自分がまだ眠っているのではないかと錯覚するようなことが多い。体育の時間に気分が悪くなって、保健室で横になっても同じような状況になる。 もう身体は充分元気なのに、布団を抜け出て冷たい床に足を下ろすと、まるで夢の中をさまよっているように不安定な感覚にとらわれる。一歩、また一歩と足を進めてみても、頭の中はぼんやりとして、まともな考えをいつまでも抱けずにいる。 それでも、思考の片隅にある意思がわずかな力をふりしぼって、少女の身体をベランダへと運んだ時、彼女は自然がもたらす強烈な臭気によって気づかされる。今日が特別な日だと。今ごろ学校では同年代の少年少女、誰もがみんな恋の駆け引きに励んでいるのだと。いやおうなしに理解させられる。 せめて晴れてくれてたら、一年前を思い出さずにすんだのに。 あの、今にも泣き出しそうな空の下、泣き出しそうな意気地なしの心を隠して、頭二つ分も背が高い憧れの先輩に差し出したトリュフチョコレートは、愛想笑いと短いお世辞だけで軽そうに受け取られ、二度と帰ってこなかった。想いもまた、同じように。 そして翌日は大雨で、少女は学校からの帰り道、傘もささずにずぶ濡れで帰った。しきりに目をこすっていたのは、ゴミが入ったからではない。ただ、目の中にあるものを早く追い出したくて、雨の中を濡れて帰ったのは間違いなかった。 ベッドのわきに置いたイヤホンつきケータイからは、慰めの音楽が流れ続けている。すでに何百回とリピートしたお気に入りの歌手は、そんなこと誰にでもあるじゃん、なんて楽しそうに歌う。楽しそうに歌えるのは、それだけ悲しいことを経験していることの裏返しだ。自分はそこまで強くなれるだろうか。少女の小さな胸には、不安ばかりが募る。 部屋へと戻り、ガラス戸を閉めた。とたんに外の雑音が断ち切られて、イヤホンからこぼれ出す歌声だけの世界となる。少女は目を閉じ、両手を頬に当てる。今ここにいる自分だけが真実で、すべてなのだと、強く、強く心に言い聞かせる。 他の誰でもない、自分だけがありのままでいられる場所。ここで眠ったり、本を読んだり、音楽を聞いたり、パソコンやケータイで見知らぬ人たちとつながっている限り、自分は無敵だ。誰にも負けない。誰にも邪魔されない。真の意味で自由なのだと。 そうやって安心したところで、今度はお腹がすいてくる。朝ごはんを食べず、今日は休む、とドアの向こうの母親へぶっきらぼうに告げたのが朝の七時。それから四時間以上も経って空腹でないはずがない。晩ごはん何だっけ、と言いたげな顔で人さし指をあごに当て、部屋の中をぐるぐると回る姿からは、先ほどまでの憂いを見てとるのは難しい。 歩き回るうちにイヤホンを取り、耳に押しこみ、鼻歌さえ歌い始めながら、最後にパソコンのある場所へと落ちつく。椅子に腰かけ、ふんぞり返り、電源を入れてディスプレイに顔を近づける。今さら眼鏡をしていなかったことに気づいたらしく、あわてて立ちあがって勉強机に向かった。 レンズの小さい、ふちの太い眼鏡は少女のつぶらな瞳によく似合う。一年前、先輩に断られた日からの涙を受け止めてばかりいたレンズは、今や彼女の新たな魅力を発信するのに大いに役立っているようだった。 パソコンが起動すると、少女はさっそく晩ごはんの食材で検索をかける。何だっけ、そうそうあいつだ。うちの家にいる化け物によく似てるやつ。あんまり表面がぶよぶよぬるぬるしてて切りにくいから、特殊なやり方が必要なんだった。 えーと、吊るし切りだ。下あごにフックを引っかけて吊るして、口から水をしこたまぶちこんで膨らませる。で、身に張りが出たところへ一気に刃を入れる。いい方法じゃん。すごくきれいに解体できる。あいつにこうやったらさぞうまいことバラバラになるんだろうな。でも鍋で煮込んでもまずそう。魚ですら鍋の食材でおいしく仕上がるってのに、あいつはいったいナニ様? ああ、アニ様だった、考えるまでもなかった。 そんなことを言いたげなニヤニヤ顔で画面へ向き合っていたと思ったら、ちょうどディスプレイの反射でこちらの存在に気づいたらしい。
「えっ……は? 何やってんだよクソ兄貴」 「何って、寝てて暇だからちょっと来てみた」 「学校はどうしたんだよ、ずる休みすんなよ」 「お前と同じくインフルエンザだ。仲がいいな、はは」 「笑うんじゃねーよ、きめえんだよ。勝手に開けんなって言っただろうが」 「ノックしても返事がないから、心配になったんだよ。ほら、ちょうど一年前――」 「あー、うっさいうっさい! 二度とその話すんな。だいたいお前のせいだろうが。あの時先輩に告って絶対うまくいくはずだったのによ」 「その先輩、女の子同士はさすがに無理だって言ってたじゃないか。この話もう何度目だよ。お前もいい加減あきらめて、もっと自分にふさわしい相手を見つけないと」 「だーむかつく! あんこう顔のクソ兄貴に言われるとすっげーむかつく! てか勝手に入ってくんなよ、いつから見てたんだよ」 「そりゃもう、ベッドで『お兄ちゃぁん……』と愛しげにつぶやくところから――」
道化とは悲哀である。ピエロのメイクが白塗りに赤く大きな笑みを浮かべ、それでいて大粒の涙を貼りつけているのは、笑いすぎて目がにじんだからではない。泣き疲れて自嘲自虐に走ったからでもない。おそらく、もっと内面的で永続的なものだ。 「二度と入ってくんなよ、クソあんこう!」 部屋を追い出されたあげく、ついに兄とさえ呼ばれなくなってしまった。反抗期にしてもとがりすぎの妹を持つと、世の中にはこのような女子しかいないのではないかと暗澹たる気持ちになってくる。もちろん考えすぎなのであるが、学生の世界とは狭く濃密である。早く世間へ飛びだしたいという衝動と裏腹に、いつまでもこのぬるま湯に浸っていたいという思いもないわけではない。 「ああ、何だあんた、起きてきてたの。元気そうじゃない。昼ごはんの準備するから、ちょっと手伝ってよ」 二階から下りてくると、さっそく声をかけられた。見れば見るほど、小学生のころ図鑑で見たあんこうそっくりの母が台所で包丁を振るっている。振るわれるのは母の側ではないか、と思いかけて、笑えない冗談にとりあえず心の中で笑っておく。もしそんなことになったら、母の顔面遺伝子をそっくり受け継いだ兄と妹も無事ではすまないだろう。 居間のテーブルに投げ出されたビニール袋を横目に見て、今晩の食材がきちんと買われていることを確認する。すでに切り身になったあんこうは、鍋に放りこまれるのを今か今かと待ちかまえているように見える。いや、自分自身の食欲がそうさせるのか。 「何やってるの、早く来なさい。お昼食べたくないの?」 母にせかされ、しばらく手伝いに動きまわる。居間のテレビがお昼のニュースを始め、ちょうどいいBGMになると活動に精が出る。下がりきっていない熱を帯びた身体で食器を並べていると、どたどたと階段を下る音が聞こえてきた。 「ああ、ちょうどいい所へ来た。あんたも手伝いなさい、めずらしくお兄ちゃんもその気になってるんだから」 妹は母と兄の顔を見比べ、みずからの頬を両手でつかんでつねっていたが、観念したように手伝いの列に加わった。本当は愛嬌があって可愛いのに、それを自分で気づいていない。自分で気づかなければ意味がないから、兄はいつまでも黙っている。 「そういえばさ」 「何だよ」 「……あしたは雨だって。一日中」 ニュースで知ったことをさりげなく告げて、反応をみる。 「あっ、そ」 予想通り。やはりちょっと寝起きが悪いだけなのだ。うちの妹は。 「二人とも、さっさとそこどいて。お皿運べないでしょ」 「はーい」 テーブルにつき、あんこうに似た三人の昼食が始まる。 雨が降り始める前の大地の匂いが、どこからか漂ってきていた。
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一時間半くらいのお話です。何だろう、これ。
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