『トマス・シーモアは裁かれねばならない』 ( No.3 ) |
- 日時: 2011/08/21 21:23
- 名前: ラトリー ID:eX2xt/56
中学校といえば、どこの学年にも奇人変人が一人か二人はいるものである。私のクラスも例外ではなく、みずからを「エリザベス女王の生まれ変わり」と信じて疑わない者がいて、ある特定の集団から注目を集めていたものだ。 きっかけは社会科の授業だった。大学ではイギリス文学を専攻していたというシェイクスピア好きの教師が歴史の担当だった。彼は、この稀代の劇作家が活躍する一時代を作った偉人として、イングランド王国テューダー朝第五代国王、エリザベス1世を私のクラスで紹介したのだ。 一人の女生徒が、そのわずかな余談にひどく感銘を受けたらしい。エリザベス1世の父親は、男子の王位継承者を残すために何人もの妃と結婚・離婚を繰り返し、ついにはローマ・カトリック教会より破門されたヘンリ8世。王室史上最高の知識人としても名高かった彼を父にもち、幼いころより聡明に育った彼女は、異母弟エドワード6世の夭折、異母姉メアリ1世の処刑という出来事を経て、波乱あふれる女王としての道を歩み始める。 その女生徒の父親は善良そのものといったサラリーマンであり、母親といえば笑顔の素敵な専業主婦、おまけに弟も姉もいない一人っ子だった。むしろそうした無難すぎる家庭環境が、彼女に女王なる存在への強い憧れを抱かせたのかもしれない。かの教師よりエリザベス1世の話を聞かせられて以後、彼女は青春のただ中にある四ヶ月間を、偉大なるイングランド女王の生まれ変わりとして過ごすこととなった。 とはいえ、誰もが見ている教室のど真ん中でいきなり「我を讃えよ。されば汝らに祝福を与えん」などと叫び出したわけではない。彼女はあくまで日本人らしく、場の空気を読むことに長けた性質を手放さなかった。女王としての真価が発揮されるのは、もっぱら特定の男子生徒と過ごす時に限られた。 それは、エリザベス1世に出会うまでは存在すら知らなかった、地理・歴史部に所属する部員だった。地味な立場にマニアックすぎる知識探求、男ばかりの花のない環境が重なって、彼らは部活の解散さえも考えていた。そこへ彼女が現れ、我が意をえたとばかりに女王さながらの行動をとり始めたのだ。 救世主の登場を喜ばぬはずがない。もともと、スポーツや音楽活動といった花形をあえて避け、ひっそりと深遠な知識の収集に努めていた者たちである。マゾヒスティックな気質を開花させた彼らは、みな一様に彼女への従属を望み、認められた。そして、すべてが彼女を中心に回り始めた。
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彼らはしばしば、エリザベス女王の周囲で歴史に翻弄された男性を演じた。ある時は父ヘンリ8世、またある時は異母弟エドワード6世、もしくは劇作家シェイクスピア、哲学者フランシス・ベーコン。即位前のエリザベスに性的悪戯を試みて斬首刑に処されたトマス・シーモアや、十数年にわたって関係を噂されたレスター伯ロバート・ダドリー、あるいは新大陸にイギリス植民地を築いた寵臣ウォルター・ローリー卿。さらにはスペイン無敵艦隊に立ち向かった海賊フランシス・ドレイク、対するスペイン国王フェリペ2世、果てはフランス王国ブルボン朝を開いたアンリ4世などになりきって部室の中を歩き回り、語り合い、見つめ合い、罵り合っては和解するという放課後を過ごした。 やがて男性にとどまらず、血染めのメアリと呼ばれた異母姉メアリ1世、姦通罪により斬首されたエリザベスの実母アン・ブーリンさえも彼らは演じるようになった。かつらをつけ、衣装をまとい、化粧を整え、乏しい知識から必死に当時のイングランド王国を想像し、それらしくふるまおうとする彼らの姿は、たとえどんなに滑稽なものだったとしても鬼気迫っていた。そしてそれ以上に、周囲がどれほど役割を変えようともエリザベス1世であり続ける彼女の姿は、絶対の名を付した王政にこの上なくふさわしいものだった。 部室はまさに異空間と呼ぶにふさわしく、現実世界の影響を強く拒む彼らの理想郷が展開されていた。多感な思春期における若気の至り、などといった一言では片づけられないほど、ゆるぎない結束が彼らの間には生まれていた。 それがいつか終わりを迎えるものであることを、当事者として参加し続けていた彼らは理解できない境地にまで達していたに違いない。想像世界への適度な没頭は、人間としての可能性を広げてくれる。だが、過度な没入は単なる妄想であり、幻想の美しい色彩を失った害毒でしかない。何より、彼らはそろそろ受験勉強という圧倒的な現実に直面する必要があった。いつまでも若さという名の特権に甘えているわけにはいかなかったのだ。 ある日、彼らは部室の机に一冊の文庫本を発見した。『涼宮ハルヒの憂鬱』と題されたそのイラスト表紙を見て、その文化を嫌悪する何人かはあからさまに顔をしかめた。だが数人の瞳の奥には好奇心の輝きが見えた。数日後、その小説を読了したらしき者の一人が部活をやめた。より優れた『女王』の支配する虚構世界を見せつけられた彼は、やがて興味の矛先を本格的にそちらへ移していくこととなる。 数日後、今度はクイーンエリザベスの名を冠したバラが花瓶と一緒に活けてあった。薄桃色で暑さ寒さに強く、病気に打ち勝つ力強さをもった品種である。まさに我らの女王にこそふさわしい花束だ……と思ったのは知識探求の足りない者だけで、知的好奇心の豊かな者は気づいてしまった。いや、何としても気づくべきだったのだ。 美しいバラにトゲがあるように、この花束は彼らに疑心暗鬼をもたらした。そう、これは同じエリザベスでもエリザベス2世に捧げられたバラだ。現代の女王なのだ。エリザベスは現代において、ほかにいるのだ。君たちの崇める女王など架空存在にすぎない。無言のメッセージを受け取った彼らは部室から去り、彼女の崇拝者は再び減少した。 その後も彼らにとって得体の知れない贈り物が続いた。模型として置かれた客船クイーンエリザベスは、エリザベス2世と同名の母にちなんだものであり、現代文明の象徴だった。絵葉書に印刷されたクイーンエリザベス国立公園は、アフリカ大陸ウガンダに広がる雄大な自然風景であり、彼らのイメージする貴族社会とまったく相いれないものだった。 彼らは同じ部員の中に犯人がいると確信していたようだが、口にすることはなかった。儚く美しい幻想世界に生きながら、そこから逸脱した現実的な推理を展開するという不粋な行為を誰もが許せなかったのだ。そして調子外れの王宮寸劇を繰り返したあげく、最後に訪れた破滅を摩耗した理性によって受け入れ、ついに解散を迎えたのである。
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今宵、私は自宅にミキシンググラスとカクテルグラスをそろえ、彼らに与えた最後の贈り物を自身への褒美と変えるべく準備を始める。 氷を入れたグラスに、まずドライジンを半分。仏コアントロー社のホワイトキュラソー、ならびにレモンジュースを四分の一ずつ。最後にニガヨモギから抽出した緑のリキュール、アブサンを少量加え、ふたをしてステア。しかるのちカクテルグラスに注ぐと、気品あふれるブラウンの色味がわずかに泡を立てながら姿を現した。 甘い味わいを楽しみつつ、私は女王の支配する部室で目撃した数々の光景を思い出す。最も彼女に魅せられていたのは、顧問を務めていた私だったのかもしれない。こうして酒をたしなむ程度には大人の経験を積んだ私だからこそ、彼女が見せる中学生離れした言動、仕草、振る舞いに強く惹きつけられたのかもしれない。 今ならわかる。大人に憧れつつどこまでも子供だった彼女は、処女王の異名をとったエリザベス1世を名乗ることで男子と対等に付き合いたかったのだ。肉体関係を望まない彼女は、ただでさえそういったものに奥手な部員たちを巻きこみ、いつまでも優しい幻想世界にわが身を置いておきたかったのだ。 ああ、なんと可憐で健気なことか。担任としても彼女に向ける視線は特別なものだった。同僚の彼には感謝してもしきれないほどだ。彼が彼女の可能性を切り開いてくれたおかげで、私は担任である以外に顧問としても女王と場を同じくする喜びに恵まれた。 だが、どんな喜びも漫然と続くばかりでは慢性化し、いつかは刺激を求めて暴走に転じるものである。崩壊を見守るのは繁栄を傍観する以上の快楽だった。彼らが現実を知り、次々に部室を去るたび、彼女は気丈な顔の奥に涙を隠し、ずっと耐えていた。それを感じ取ることで、私の心にいっそうの破壊願望が生まれたのは何ら不自然なことではない。 今や彼女と最後まで残っていた部員たちは、校舎内で飲酒行為に及んだものとして停学処分を受けている。私が置いたクイーンエリザベス・カクテルのレシピを読み、実際に作ろうとして、ほかでもない私の発見によって破滅を迎えたのだ。聖なる空間を侵害する謎の敵に対して立ち向かう方法が、まさか未成年に禁じられた嗜好品にみずから手を出すことだったとは。中学生の考えることはわからないものだ。期待していたとはいえ、本当に実行してくれるとは思わなかった。 私は無情の、いや無上の幸福に包まれている。この時間が永遠に続いてくれたらいい。彼女らに訪れた不幸の味を確かめながら、いつまでもその蜜に溺れていたい。それが終われば、また作りだせばいい。いつか彼女のように優れた人材を見つけ、再び導けばよいだけのことだ。何を恐れる必要があるだろう。何もためらうことなどない。
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携帯電話が鳴った。メールのようだ。誰からだろう。パソコンのアドレスならいざ知らず、携帯のほうを誰かに伝えたことはほとんどない。せいぜいが両親兄弟か、ごく親しい友人か、緊急連絡先として教師間の配布物に掲載したくらいである。 メールを開いた。発信人より先に、現れた画像データに目が向かう。文庫本、花束、客船、絵葉書、紙。何かの薬品を使ったのか、あちこちに指紋の跡が浮かび上がっている。べたべたと虫が這いまわったような画像に続いて、ひと続きのメッセージが現れた。 文字は血のように赤く、斬首された男の背景が画面いっぱいに広がっていた。
『トマス・シーモアは裁かれねばならない 我々の世界を滅ぼした罪は重い』
――女王は、まだ、この世界に生きている。 差出人の名を見つめ、私は手にした女王のカクテルを飲み干した。 それはもはや蜜の味ではなかった。
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見直した時間を含めると、三時間をさらに超えていそうです。いけませんね。いろんな意味でエリザベスさんに振り回されたようです。
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