Re: 即興三語小説 ―とととんっ、つーつーつー、とととんっ― ( No.3 ) |
- 日時: 2015/01/21 04:09
- 名前: No.3 ID:rfywD1dM
ばべるの塔がくずれおちてから十余年をへた。己れのばびろにあ語はもどらない。 全地のことばは紊れ最はや嘗ての同朋とわかりあうことは(わかる、という現象も、塔がくずれてから己れだちのあいだで生起したのだった)困難をきわむる……きわむるでいいんだったろうか? きわめる、という音のはうがより実際的につかはれて……つかわれて……いたンのだったか。たしかめる術はどうやらない。たれもおほ勢につうずるばびろにあ語をもたない……そうそう、保持していない! からだ。 いまや己れたちにできるのは、おの各がいまだもち宇るわずか許りのことば――いぜんはどうやら存在していたらしいと、左うしていぜんのわれ我がパーペキ(という語の意味はなんだろう)に駆使したらしいと、現在のわれ我が仮定しているところの「真のばびろにあ語」の残骸をもちよって、ああでもないこおでもない、ここで伝えんと欲しているのは、きみがそのように解釈(解釈! という語は、ばべるとばびろにあ語が崩落してからのち、より若い己れたちが、新た迩つくったのだ! 解釈! 伝わらないがゆえの)しているやうなことではない、どのやうにちがうかというと……などとながったらしく、まわりくどく、匙を放りたくなるような仕方でたしかめあうことだけだ。モールス信号で会話するよか(よか、というのは、よりも、ということとおぼしい。訊きそびれてしまった)しんどいぜ、とたれかがいっておったっけ。 あたかも、ばべるの塔の瓦礫を拾ひあつめて、また少しずつつみあげ始めている己れの同朋だちのやうに。あの塔の再建と「真のばびろにあ語」に就いての編纂とは、もしかしておなじことをやっているだけなのかもわからん。 解釈(このことばを使うとなにやらうずうず?としてくる)のし易いあいてというのがおの各捜してみればおるやうで、皆左ういうばびろにあんと一しょになっていまは暮らしている。あれから生まれた小共も、もちろんいる。 きりぎしから釣糸をたらして最近おぼえた「ほっ句」というやつに辛吟していたところで、その小共であるそうすけとりさが対岸から海へとび込むのがみえた。羽毛の上っぱりが岸のうえに残されている。そうすけもりさも達者に泳法を修得しているが、放っておけばなにがあるかもわからん。 「小共たち! あまり深みへちかづくな!」 りさが――肩口にほくろのみっつもある小で、母親が吉兆だと自慢している――こゑに気づいたようすで合図をかえし、水の中に潜ったらしいそうすけのほうへ視線をうつした。 釣針がひっかからないよう、やや場所をかえることにして腰をあげる。 小共は己れだち――己れたちの可能性だった。あいつらのつかひはじめている、いうなれば「ばびろにあ語もどきもどき」を「真のばびろにあ語」を目指すやつらは随分とひなんするが、己れは左うはおもわない。よしんばあの塔がかつてのように天を摩さんと矗立したとして、それはいぜんとおなじばべるの塔なんだろうか。ことばだって左うだ。解釈!することを、しあうことをばびろにあ語話者として自明のこととしつつある己れたちが、どうして身に刻まれてしまったことをなしにできるだろう? ばびろにあ語もどきもどきは、己れたちがあいてをより精確に解釈していくために研鑽されなければならない、と己れはおもう。だから、もどきもどき語話者である小共たちは、屹度己れたちの可能性なのだ。新たにいしをつむことそのものでなく、その試行を担うべつの己れたちがおることに、たぶんいまのばびろにあんが手迩すべき何ごとかがひめられている。 ほっ句、というものを瓦礫のなかから発掘された文字盤にみつけ、研きゅうすることになった己れも、このばびろにあ語もどきもどきの使用による解釈の解像度(解像度、こんなばびろにあ語ははたしてあったろうか?)をあげていくことに資さねばならない。 引き揚げた釣糸を竿に巻きつけて、辛吟していたほっ句を口に出してまたたしかめてみる。
ハぜ釣や詩を汀からはなち遣る
そうすけがみな面から顔をだして、おほきくわらいこゑをあげた。
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