Re: 即興三語小説 ―どうでもいいゴシップは平和の証― ( No.2 ) |
- 日時: 2013/06/13 16:28
- 名前: zooey ID:NP6cDc6M
ふと、背中に視線を感じ、心臓が縮む。それと同時に、聴覚を背後に集中させ、視線で前方に逃げ道を探す。その目はすぐに細い路地を捕え、次の時には歩が速まって、そこへ身を隠していた。外から見えない程度に奥に向かって進み、壁にぴったりと背をつける。目を瞑る。息を殺す。肩の上下がやけに大きい。頭では歯車が、ぐるぐる、ぐるぐる回っているよう。胸を打つ鼓動が、自己主張するように強い。 しかし、しばらくじっとしていると、次第に頭の歯車が緩まっていく。次いで、思考が動き始め、ゆっくり、今の状況をなぞっていく。事務所、若頭、AV撮影、女の子――と、足元に何かが触れた。刹那、胸が凍りつく。思わず目を向けると、そこには――一匹の猫がいた。頭にその姿がくっきり刻まれると、胸の内が元の温度に戻っていく。そう分かってみると、足元にある感触は、柔らかく心地良い。何とはなしに、しゃがんで、頭から背にかけて撫でてやる。すると、その思いがけない毛並みの柔らかさと、体のしなやかさに、心が完全にほどけ、破顔してしまう。気が付くと、笑い声すら漏れていた。それに意識が留まると、やっぱりオレは猫が好きなんだな、と呑気なことが頭をよぎる。そして、改めて考える。なんでこんなことになったんだろうな、と。それは結構長い話になる。
オレはある事務所の部屋住みだった。その名の通り、部屋に住み込んで、掃除や食事番、兄貴分たちの雑用なんかをこなしていた。要は、暴力団最下層のチンピラだ。 オレらみたいな下っ端だと、付いてる兄貴分からもらう小遣いが唯一の収入源だ。だから、ケチなのに当たると何ももらえない。運の良いことに、オレの付いてた兄貴分はかなり気前が良い方で、毎日煙草をくれたし、偶に機嫌の良い時は、千円くらいの小遣いをくれることもあった。部屋住み二年目の新参にしては、かなり恵まれてる方だ。 それでも、毎日、毎日、狭い部屋で雑用をこなすだけの生活をしていると、おかしくなりかけることもある。一番きついのは、夏だった。外が四十度近い熱さの日でも、部屋には冷房なんて大そうなものはない。しかも、空気もこもっていて、湿度が半端じゃない。重力が増したみたいな重みが、ずん、と肩にかかった。全身の毛穴から、玉になった汗が滲み、次第にそれが大きくなって、だら、と皮膚の上を伝い始めた。そのうち、体中の汗が垂れ流れ、額に貼り付いた前髪からも、鬱陶しく顔に滴ってきた。体の表面も内側も、べたべたするみたいだった。そんな、体が溶けちまいそうな気怠さの中、ひたすら終わりの来ない掃除を続けて、ただ、疲弊していった。それで、夏は、大抵、一人か二人発狂した。馬の嘶きみたいに叫びまくって、兄貴に殴られ、妙な飲み薬を口に押し込まれて、やっとおとなしくなる、という具合だった。オレはそうなったことはなかったが、そうなっちまうのは、分かった。すごく、分かった。こんな生活が永遠に続いていく、そう思うとオレもめちゃくちゃに叫びたくなった。
でも、変化は突然訪れた。 オレがいつも通り流しで食器を洗っていると、若頭が話しかけてきた。 「お前、ちょっと俳優の仕事、やらないか?」 一瞬、何のことだか分からなくて、オレは白痴みたいに口を半開きにして、若頭を見つめた。でも、数秒後に、はたと思い当って、気付くと「はい」と答えていた。 若頭は十近くの風俗店を取り仕切っていて、裏DVDの製作にもかかわっていた。そこいらからのミカジメ料が若頭の収入で、子分への小遣いもそこから出ている。オレら最下層の小遣いも、もとをたどればそこに行きつくわけだから、敬意がないわけじゃない。DVDに出演してくれということだから、申し訳程度でも、その恩返しができるわけだし、何より、それができれば若頭に目をかけてもらえる。そうしたら――オレはこの糞みたいな生活から抜け出せるんじゃないか? 眼前でどこまでも続く暗いトンネルの先に、やっと、光が、出口の光が、見えたようだった。 それで、オレはAV撮影のために都内のあるホテルへ連れて行かれた。 そこには、町で適当に引っかけられたのだろう女の子がいた。若頭やDVD製作側の男たちに囲まれ、事情を知ってか知らずか、にこにこ笑って話していた。しばらくすると、若頭は「ちっと相談してくるから、お前ら親睦でも深めてろ」と言って、他の男たちと部屋の外へ行ってしまった。 オレと女の子だけが取り残された。そこで、やっと、オレは自分が何をどう話したらいいか、分からないでいることに気が付いた。一年以上狭い部屋で、同じメンツとだらだら過ごしていたために、人との接し方を忘れてしまっていたのだ。十七、八年、他人とべらべら喋っていた感覚は、不思議なくらい抜け落ちていた。一人で突っ立っていてもおかしいので、とりあえず女の子の隣に腰掛けた。 「何、きょどってんの?」 女の子に言われ、オレの思考は弾けた。真っ白な頭で顔を向けると、彼女はまた口を開いた。 「挙動不審じゃん、絶対」 「別に」 気づいた時には言葉が出ていた。寸秒遅れで追いついた意識は、何か続けようと思い、言葉を探した。で、なんとなく、思いついたことを言ってみた。 「お前さ、この撮影のDVDのタイトル、知ってる?」 「知らない」 「『淫乱女とおっぱい専門官』だってさ」 言ってしまうと同時に、再び理性が追い付いてきて、ヤバい、と気づいた。一気に体が硬くなる。もし、この子が事情を知らずにここに来てんだったら、今のタイトルはさすがにマズイ。逃げられたりしたら、若頭にぶっ殺される。しかし、そう思った矢先、女の子は声を上げて笑い出した。 「マジで? 『おっぱい専門官』って、あんた? ヤバぁい」 その様子に、緊張がすっと落ち、強張った体が緩んでいった。 女の子は、あーウケる、とか言いながらも、笑いはすぐに収まっていた。ほっとはしたが、やはり話すことはなく、オレの胸では気まずさが所狭しと泳いでいた。そもそも、これからこの子にレイプ紛いのことをするってのに、お互いにそれが分かってんのに、なんでこんな普通に話なんかできてんだろう? そんな思いが波みたいに不安定に、心を漂っていた。 オレが黙っていると、また唐突に、女の子が話し始めた。 「『専門』ってさ、漢字、間違えやすくない?」 「え?」 すぐに意味が呑み込めず、オレが聞き返すと、彼女は再び、 「だから、『専門』ってさ、なんか『専』の上に点付けちゃったり、『門』の中に口書いちゃったり、しない?」 あー、と言いながら頭の中で「専」という字と「門」という字をなぞってみた。「――言われてみれば、そうかも」 「でしょ? だからね、私、いい覚え方、見つけたんだ。あのね、『専門家には、手も口も出さない』って覚えんの。分かりやすくない?」 「うん」と反射的に答えていた。 この時、オレは、頭にフィルターがかかったみたいで、彼女の言葉そのものが脳にまで届いてこなかった。ただ――彼女がこうやって話しているってことは、今、こんなくだらない話をにこにこ笑いながらしてるってことは、頭なんか通り越し、直に胸に来た。なんでそんな風に笑ってられるんだよ―― 「あ、ほら! やっぱり! いい覚え方でしょ?」 女の子は、顔をくしゃっとさせて、笑った。何のてらいもない、無邪気な表情。本当に嬉しそうだった。それで――その笑顔は、やっぱりストレートにオレの心に入ってきて、そこを抉った。できないよ、こんな子、犯せないよ。そう思うと、体が勝手に動き出した。なんでか分かんないけど、女の子の腕を掴み、体をぐっと引き寄せて、抱きしめちまった。腕の中の彼女の体は、びっくりする程小さくて、折れそうなくらいに細くて、くにゃくにゃと柔らかくて――猫みたいだな、と思った。それで、オレは完全にこの子にやられちまったんだ。 そして、思いついた。夢みたいなことを。 「あのさ、これから二人で逃げちゃわないか?」 どこまでも続いていたはずの、暗いトンネルの出口が、目の前で輝きを放っていた。白々した眩しい光が、オレに迫ってくる。そう、オレはいつでもここから出ていけるんだ。行こうと思えば、いつでも。 それで、オレは、今、この細い路地にいる。組の奴らから隠れて。しゃがんだまま、足元の猫を一瞥し、ふう、と息を吐く。もうそろそろ大丈夫だろう。猫の頭を掌で包み、毛並みに沿って、ちょっと撫でると、じゃあな、と口の中で言って立ち上がる。その時、一抹の名残惜しさが、ちらちらと胸で灯った。でも、いいんだ。猫なら、オレのところにだっている。光の中、二人でどこまでも逃げていく、猫みたいな女の子が。 オレは路地から出て、町の喧騒に戻っていった。 ――――――――――― 二時間半くらいかかってしまいました。すいません。
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