梅雨はいかがですか?なんか週末ごとの大雨になってます。早く梅雨があけてほしい。--------------------------------------------------------------------------------●基本ルール以下のお題や縛りに沿って小説を書いてください。なお、「任意」とついているお題等については、余力があれば挑戦してみていただければ。きっちり全部使った勇者には、尊敬の視線が注がれます。たぶん。▲必須お題:「くもの糸」「魔法幼女」「ピアス」▲縛り:「同性愛者を出す」「愛について考える(努力)」▲任意お題:「絶対正義」「裏切り」「ブルマは死んだ。殺された。」▲投稿締切:6/26(日)23:59まで▲文字数制限:6000字以内程度▲執筆目標時間:60分以内を目安(プロットを立てたり構想を練ったりする時間は含みません) しかし、多少の逸脱はご愛嬌。とくに罰ゲーム等はありませんので、制限オーバーした場合は、その旨を作品の末尾にでも添え書きしていただければ充分です。●その他の注意事項・楽しく書きましょう。楽しく読みましょう。(最重要)・お題はそのままの形で本文中に使用してください。・感想書きは義務ではありませんが、参加された方は、遅くなってもいいので、できるだけお願いしますね。参加されない方の感想も、もちろん大歓迎です。・性的描写やシモネタ、猟奇描写などの禁止事項は特にありませんが、極端な場合は冒頭かタイトルの脇に「R18」などと添え書きしていただければ幸いです。・飛び入り大歓迎です! 一回参加したら毎週参加しないと……なんていうことはありませんので、どなた様でもぜひお気軽にご参加くださいませ。●ミーティング 毎週土曜日の22時ごろより、チャットルームの片隅をお借りして、次週のお題等を決めるミーティングを行っています。ご質問、ルール等についてのご要望もそちらで承ります。 ミーティングに参加したからといって、絶対に投稿しないといけないわけではありません。逆に、ミーティングに参加しなかったら投稿できないというわけでもありません。しかし、お題を提案する人は多いほうが楽しいですから、ぜひお気軽にご参加くださいませ。●旧・即興三語小説会場跡地 http://novelspace.bbs.fc2.com/ TCが閉鎖されていた間、ラトリーさまが用意してくださった掲示板をお借りして開催されていました。--------------------------------------------------------------------------------○過去にあった縛り・登場人物(三十代女性、子ども、消防士、一方の性別のみ、動物、同性愛者など)・舞台(季節、月面都市など)・ジャンル(SF、ファンタジー、ホラーなど)・状況・場面(キスシーンを入れる、空中のシーンを入れる、バッドエンドにするなど)・小道具(同じ小道具を三回使用、火の粉を演出に使う、料理のレシピを盛り込むなど)・文章表現・技法(オノマトペを複数回使用、色彩表現を複数回描写、過去形禁止、セリフ禁止、冒頭や末尾の文を指定、ミスリードを誘う、句読点・括弧以外の記号使用禁止など)・その他(文芸作品などの引用をする、自分が過去に書いた作品の続編など)-------------------------------------------------------------------------------- 三語はいつでも飛び入り歓迎です。常連の方々も、初めましての方も、お気軽にご参加くださいませ! それでは今週も、楽しい執筆ライフを!
「個性がないのかなぁ」 観音寺透は、そんなことを呟いた。「観音が個性皆無の平凡普通人間だっていうのは、今に始まったことじゃないでしょ。まぁ、観音寺なんてちょっと変わった名字なだけでもラッキーよね」「観音寺先輩、普通なのは素晴らしいことですよ。それに、付け焼刃的にキャラ付けされた登場人物は物語中盤でフェードアウトしてしまいますから、今のままのほうがいいと思います」 ツインテールと普通のロングヘア、釣り目と垂れ目、短身長と平均的な身長、幼馴染と後輩という、共通点があまりなさそうな篠宮秋穂と朝倉奈緒。その二人の共通点といえば、透と同じ文芸部に所属しているということと、それぞれが、平均以上の美少女、そして、たった今、透に精神的ダメージをクリティカルヒットで与えたということくらいなものだ。「誰も俺の個性の話はしてない。俺が話してるのは、俺が書いている小説のキャラの話だ」 文芸部に所属している透は、当然ながら執筆をすることもある。まぁ、本格的な小説ではなく、お遊び感覚で書いて、ネットにアップロードするくらいなものだが。「まぁ、確かに観音の小説のキャラって、どこかで見たようなキャラばかりなのよね」《かんのんに50のダメージ》「あ、でもこの前の小説の主人公、私は好きですよ。私が昔好きだったアニメの主人公とそっくりなんで」《かんのんに70のダメージ》《かんのんはたおされた》《ぱーてぃーはぜんめつした》《おかねにはかえられないだいじなものをうしなった》 透の心の中で何かが傷ついていく。「ま、そんなに個性的なキャラを作りたければ、観音が個性的な人間になればいいのよ。モヒカンと逆モヒカン、どっちがいい?」「なんでその二択なんだっ! というか逆モヒカンってただのイジメだよな」「あ、私は頭にお花を乗せたらいいと思います」「どうしてお前らは頭にのみこだわるんだ! ていうか、頭に花を乗せてるキャラも絶対にどこかにいるだろ……まぁ、個性的なことをすればいいのは確かかもな。芸術家というカテゴリに含まれる人間には変人が多いっていうし」 全国の芸術家を侮辱するような発言を、作者の意図とは全く関係なく発言する透は、大きく頷いた。「そうね。じゃあ、最低でも桃色に髪をそめてみましょう!」 どこからともなく、ピンク色のスプレー缶を取り出した秋穂は、不敵な笑みを浮かべる。「そんな髪の色、最近にアニメのヒロインしかしないぞっ!」 そんな髪に憧れるのは、魔法少女にあこがれる幼稚園児……いや、幼稚園児ならば魔法幼女か……くらいなものだ。高校生が、さらにいえば男が憧れる髪なわけがない。「大丈夫、痛くないから。失敗したら髪を切ればいいだけじゃない。観音は将来絶対にハゲるんだから、今のうちに髪で遊ばないと」「誰がハゲルって決めたっ! ていうか校則違反だ!」「校則なんてやぶるためにあるのよ!」 秋穂がスプレー缶をかまえた。「聞き捨てならないわっ!」 声と同時に飛び込んできた謎の人物。最初に見えたのは、秋穂と同じ女子の制服。そして、眩しいばかりのピンクブロンド。 そして、可愛らしいベビーフェイスの顔。『赤津カオル!』「誰ですか?」 透と秋穂は同時に驚き、奈緒は首をかしげる。「幼馴染だ。秋穂、俺、そしてカオルの三人はな。あの容姿だから、一部には熱狂的なファンがいるんだ」「何が許せないのよ、赤津!」「あなたの台詞です!」 言われて、三人は先ほどのやりとりを思い出す。「あぁ、ピンク色の髪をしてるのはアニメのヒロインくらいだって言ったことか。確かにお前もピンクの髪に染めてるが、だからといってお前のことをアニメのヒロインだって言った覚えは」「そこじゃないわっ! むしろ、アニメのヒロインなら光栄なくらいだわ」「じゃあ、何を怒ってるんだよ」「校則なんてやぶるためにある? 違うわ! 校則は守るためにあるのよ」 当たり前のことで怒っていた。 そうだった。「そういえば、お前、風紀委員だったな」 絶対正義の名の下に、校則を破る人間に鉄槌をくらわす集団、風紀委員。ピアスの穴をあけたのならば、その腹に風穴をあけてやるぜ的な、校則を守るためなら法律をもやぶる。いつの日か、校則の中に法令順守の項目が設定されることを願ってしまう集団の一員だった。「えっと、赤津先輩も髪をピンクに染めている時点で校則違反じゃないんですか?」 確かに、髪を染めてはいけないという校則はある。だが――「違うんだ、朝倉。カオルは現在の校則ではさばくことができないんだ。あいつは、校則の穴をついてきている」 透はそういい、それ以上は何も語らなかった。「ところで、風紀委員のカオルが何の用?」「この文芸部を取り壊しに来たわ!」「「「なっ」」」 三人が同時に絶句した。 そして、最初に口を開いたのは、やはり秋穂だった。「ぬわぁぁんですってぇぇぇっ! あんたにそんな権限はないでしょ!」「いいえ、貴方達の文芸部の活動による功績、部員の数、なにより部長である秋穂さんの問題の数々、私が告発すればすぐにでも廃部にもちこめる」 それが真実かどうかは透にも秋穂にもわからない。 だが、二人は知っていた。こういうとき、カオルは嘘をつかないことを。カオルができると言ったら、必ずできるのだと。「でも、あんたのことだから、文芸部をただ潰すだけでこないでしょ」「ええ、もちろんよ。チャンスをあげるの。私と勝負して、私が負けたら、廃部の件はなかったことにしてあげる。廃部の告発を見逃してはいけないなんて校則はないもの」「私達が負けたら?」 いつも強気な秋穂らしくない、弱気な発言。彼女は知っていた。カオルが勝負を持ちかけたからには簡単に勝てないことを。「そうね、文芸部の中から一人、私の言うとおりにしてもらいましょうか。願い事はもちろん、『私の恋人になって』」 秋穂と透は予想していたのか、溜息をついた。だが、一人、何も知らなかった奈緒は目を輝かせて秋穂の裾をひっぱる。「……大変です、篠宮先輩。ライバル出現ですね。ここはもちろん、篠宮先輩が戦うんですね」「何言ってるのよ。私は戦わないわ。めんどくさい」「めんどくさいって、観音寺先輩をとられてもいいんですか?」「……違うんだ、朝倉」 透はため息混じりで言う。「あぁ、なんというか、カオルは同性愛者なんだ」「……え?」「というわけで、俺が戦う。勝負方法を教えてくれ」「……え?」 いまだに何が起こったのか、思考が止まっている奈緒。 透がかわいそうに……と思った瞬間。「きゃぁぁぁっ! つまり、愛するヒトを守るために二人が戦うんですね! 最高です、それ! 私、生でそういう戦い見たかったんです!」 なんとも強い子だった。「朝倉、何を勘違いしてるか知らんが――」「観音寺、勝負だ!」 透の言葉を遮り、カオルが説明を始めた。「勝負方法は文芸部らしく、」「わかった勝負だな」「作品『クモの糸』に基いて」「お前が勝負するといったんだぞ」「旧校舎にあるクモの糸を」「とりあえず、歯をくいしばれ」「どれだけ集められるか……近いぞ、観音寺」「倒れろ」 透のこぶしが、カオルの顔に吸い込まれていくように前に出た。 簡単に言うならば、透はカオルの顔を殴った。「観音寺先輩! いくら篠宮先輩のためとはいえ女性の顔を殴るのは」「そうか、女性の顔を殴るのはだめだよな」 透は溜息をつき、カオルの鳩尾に拳を打ち込む。カオルはなすすべなくその場に倒れた。「ま……まて、観音寺。校則では暴力は……」「禁止されてるのか。退学はいやだし、まぁ、死人に口なしか」 透はそういいながら、カオルの顔をふみつける。 それに一番戸惑ったのは、やはり奈緒だった。「篠宮先輩、とめてください。このままじゃ、赤津先輩がっ!」「赤津なら大丈夫でしょ。というか、むしろ好きな人に踏まれて幸せなんじゃない?」「え? だって、赤津先輩は秋穂先輩のことが好きなんでしょ。同性愛者だって」「同性愛者は本当よ」 秋穂が指差した先――ぼろぼろになった赤津先輩の髪が――全て抜けていた。いや、性格にはピンク色の髪がころがり、黒い短髪が見える。「さすがは観音寺。私の見込んだ男ね」「黙れバカっ!」 透の最後の一撃によって、赤津は眠りについた。 それからそれから 校則には、髪を染めることは禁止していても、カツラは禁止されていない。 校則では学校指定の制服を着ることが義務付けられているが、男子生徒が女子の制服を着てはいけないという決まりはない。 どうして、可愛いのに一部にしかファンがいないのか。「こんなに可愛い子が女の子のわけがない……か」 部室にあるソファに横になるカオルを見て、奈緒が呟いた。「観音、少しデートくらいしてあげたら?」「確かにこいつの執念は認めるが、それは嫌だな」 赤津カオルは、もともと男であり、女装が趣味などではない普通の男の子だった。が、透に惚れてしまい、透に好かれるためだけに、彼の理想的な女性を目指して女装を始めた。「なんとも、可哀そうな話ですね」「俺がな……」「ですね」 とはいえ、カオルが風紀委員に入った理由が、透に平和的な学校生活を送ってもらうためだとか、そういう話を聞くと、奈緒もカオルのことが少し好きになる。「ま、友達としてはつきあってやってもいいが」「いいのっ! デートしてくれるのっ!?」 がばっと起き上がるカオル。「あのな、うちの校則ではデートとかそういうのは禁止されてるだろ」「不純異性交遊の禁止でしょ! 不純同性交友は禁止されてないのよ!」「自分で不純というなっ!」 透の拳が再びカオルをとらえる。 その光景を見て、奈緒は思った。 こんな個性的な幼馴染を二人持ってなお、普段は無個性な観音寺透と言う人間にとって、無個性でいられるということが十分な個性なのだと。
「くもがいるよ」 幸裕が声をかける。「そう」 和人はソファに座り、ゲームをしたまま答えた。 幸裕はキッチンまで歩いていって、ミネラルウォーターを飲む。外はそろそろ日が傾き出したころ。今日は夏至。そして真夏日だった。西日が、テレビの向こう側にあるはめ殺しの窓から差し込む。「まぶしくないの」「うん」「そのゲーム、楽しい?」「うん」「魔女っ子のエロゲやるのもいいけどさ。そんな幼い女の子が登場人物でいいの」「ララちゃんはこれでも十八歳だよ」「うそ。どう見ても魔法幼女にしか見えない」「それはお前の目が汚れているんだ」「何でもいいけど」 幸裕はペットボトルのキャップを閉めると、冷蔵庫へしまいこんだ。幸裕が話さなければ、二人のいる部屋に響く音は、なんだか楽しげで底抜けに明るいゲームのBGMと、和人がコントローラーを操作する音だけ。幸裕はしばらく、黙ってキッチンからか和人のゲームを眺めていた。太陽がだいぶ水平線に近づいたころ、BGMが代わって、なにやらイベントが始まった。「暑いね」「うん」「和人ってさ、女の子好きだよね」「うん」「今は幼女メインのゲームやってるけどさ、この間は女子高生のもやってたよね」「うん」「俺、男だけど」「うん」「やっぱちょっと不安になっちゃうよ」「うん」「遊びに来てもこれじゃあね。発売日に来たのがいけなかったのかな」「うん」 そこで幸裕は一度言葉をとめた。まだBGMはさっきのままで、イベントは終わっていない。「女々しいけど、つらいんだよね」「うん」「別れようか」「うん」「これ返すよ」 幸裕は片耳にはめていた銀色のピアスを外すと、ソファの横のテーブルへ置いた。それは、随分前に和人から贈られたものだった。「ばいばい」 BGMが変わる。和人はなにか重要なことを言われたような気がして、ふと顔を上げた。部屋の入り口で、幸裕が靴をはいているのが見える。「幸裕、帰るの?」「うん、もうここにはこないから」「幸裕?」 和人が名前を呼ぶのと同時に、扉がしまった。そして、サイドテーブルに置かれたピアスに気づく。その横を、小さなくもが歩いていた。銀色のピアスにぶつかって、それをよじ登る。 和人はコントローラーを置き、ピアスを手に取った。くっついてきたくもは、親指を伝って、手の甲を歩き、人差し指の先端まで到達する。くもはそのうち糸を吐き出して、ツーと床へ降りていった。くもの糸は、西日に照らされてきらきらと光っている。 床に着くと、糸はぷつんと途切れた。くもがどこかへ行ってしまう。和人はその様子を、ただただ眺めているのだった。
さっそく感想を>ウィルさん>>ピアスの穴をあけたのならば、その腹に風穴をあけてやるぜ的な、校則を守るためなら法律をもやぶる。この一文を読んで、思わず吹き出してしまいました。もうそのあとはひたすらニヤニヤニヤニヤ。テンポがよくて、読み手をニヤニヤさせる遊びがいたるところにちりばめられてて、ウィルさん、エンターテイナーだなーと思いました。そしてまんまとミスリードさせられました。もてあそばれちゃいました。小説にトリックを仕掛けることが苦手なので、こういうことさらっとできるウィルさん、すごいなあと思うばかりです。種明かしされた後も、カオルくんがんばれ! って気になれる、そして自分もがんばろう! という気になれる、素敵で面白い小説でした。ではでは。
>春矢様 くもの使い方が情景の中で綺麗に使われているなぁと思いました。 夕方のクモは親でも殺せといいますから、夕方のクモを殺さなかったたたりでしょうか。 二人の淡々とした会話によるすれ違いが妙に悲しいですね。 幸裕は女の姿をしている男なのか、喋り方だけが女の見た目男なのか、微妙に気になります。 ちなみに、エロゲに登場する人物のうち、描写のある人は全員十八歳以上というのに無理があることは私も同感です。
楽しそうに笑っている彼女を見るために、僕はあまり居心地の良くない大学のカフェテリアへと足を運ぶ。そこはまさに充実した人生を謳歌し切っている類の人種の坩堝で、僕みたいに恋愛とは縁遠い人間がそこにいるとどうしても浮いてしまう。僕のいるべき場所は、地下にある第一食堂なのだろう。あそこは大学生活に飽きたり疲れたりした人種の空気がなんとなく漂っている。 それでも僕は勇気を奮い起こして、充実の真っただ中へと飛び込む。そして、出来るだけ目立たないように入口近くの席から視界の隅で彼女を捉えると、先週の講義のレジュメを読むフリをする。 ストローの刺さったカップをテーブルに静かに置いて、口元に手をやって笑う彼女の両隣には、よく一緒にいるところを見る女友達が二人座っている。どちらもかなり可愛いと思うけれど、彼女はそれよりも僕好みだ。 ずっと眺めていたかったけれど、ふいに三人は席を立ってしまった。思わず僕も立ち上がりそうになるのを堪えて、目だけでそれを追いかける。 ゆるくウェーブのかかった栗色の長い髪を暖かな空調に揺れさせて、彼女が僕のすぐ傍を通った。少し遅れて、ふわりと優しい香りが鼻先を掠める。他の二人の香りと混ざっていても、僕にはどれが彼女のものだかがわかる。声を掛け損ねる度に鼻をくすぐられてきたのだから。 暖房の効いたカフェテリアから冷たい秋の空の下へと出た三人は、それぞれが違う方向へと歩き出した。一人は教室のある棟へ、もう一人は図書館へ、そして彼女はキャンパスの出口へと。 ずっと待っていたチャンスが予告無しに訪れて、僕は慌てて後を追いかける。キャンパスを出てすぐのところで僕は彼女に追いついて、ずっと前から用意していたセリフを喉から絞り出した。それを聞いた彼女はきょとんとして僕の顔を覗き込んできた。「キミって……たまに講義でボクと一緒になる子だよね? えーと、西洋史特講とか、キリスト教概論とかで」「そ、そう。あとパンキョーの心理学とかも」 自分をボクと呼ぶ彼女は、そうだったかも、なんて呟いてまた僕の顔をまじまじと見つめる。その目線がわずかにだけれど下がっていることと、「子」なんて呼び方をしたことが僕のコンプレックスを刺激する。僕は恋愛をしてこなかったわけではなくて、そこに至るまでの過程が上手くいかなかったのだ。「い、今からじゃ間に合わないかも知れないけれど、多分無理だろうけれど、牛乳だって魚だって……第一食堂で一番人気のアジフライ定食もしょっちゅう食べてるし、いやまあアレは一番安いからなんだけれど、そうじゃなくてきっともう少しくらいはなんとかなるから」 まくしたてる僕を見て、彼女はくすくすと笑い出した。それが一層僕の焦りに拍車を掛けた。 大学生の男だというのに、僕の身長は一五九センチしかない。彼女だって決して背が高いわけではないけれど、おそらく一六五センチくらいはある。僕が第一食堂の住人と化している一番の理由はそこだった。他にも女顔だとか、声が高めだとかも二番目以降に山ほどあるのだけれど。「そんなこと気にしてるの?」 そう言った彼女の視線が僕の頭のてっぺんから爪先までを往復した。僕は苦笑いでそれをやり過ごして、何度目かの敗北に耐えようと身を固くした。「ねえ、ちょっと付き合ってくれる?」 答えを待たずに彼女は僕の手を引いた。え、と思う間もなく、僕は彼女に連れられるままに歩き出すことになった。 彼女の言葉は、僕のなけなしの勇気への返事として受け取るべきなのだろうか。それとも、今この瞬間だけのことなのだろうか。そんな自問自答を繰り返しているうちに、いつの間にか僕らはとある雑居ビルへと辿り着き、地下へと続く階段を下りていた。 その先には赤く錆びた鉄扉があった。彼女がノブに手を掛けると、鈍く軋んで扉は開いた。 その中に広がる光景は、さながら衣料品の倉庫のようだった。もう少し好意的に言うならば、雑然とした古着屋のようでもあった。 何故こんなところに連れて来られたのか不思議に思っていると、彼女は僕を壁際の椅子に座らせて、「少しここで待ってて」 そう言い残して、服の海の中へと消えて行った。 そして五分ほどして戻ってきた彼女の両手には、何やら服や靴が抱えられていた。「試着室はそっち。店の人には話通して来たから」 肩で僕を試着室へとぐいぐい押しやりながら、彼女はそんなことを言った。「え、え?」 戸惑う僕を試着室の中に押し込んで、彼女は抱えていたものをどさりと僕に手渡した。「ブーツと、それに合わせた上下の服。支払いは心配しなくていいよ。ボクのワガママだからさ」 にこりと笑って、彼女はカーテンをさっと閉めた。急に一人にされて、僕は途方に暮れてしまう。整理すると、背が低いことを気にする僕のために高さのあるブーツと、それに合わせてコーディネートされた服を用意してくれた、ということなのだろうか。それを身につければ僕は彼女と並んで歩くのに恥ずかしくないだけの男になれるということなのだろうか。少なくとも、彼女の方はそう思ってくれると考えていいのだろうか。「どう? ひょっとしてサイズ合わない?」 カーテンの向こう側から彼女の声が聞こえる。「あ、ごめん。ちょっともたついてて」 考え事を無理矢理中断して、僕は来ていた服を脱ぎ始めた。そして渡された服に手を掛けて、そのままたっぷり十秒ほどは凍りついた。「……え?」 疑問と困惑でほとんどを占めた僕の声に、彼女が反応した。「あ、終わった? それじゃ、開けるよー」 体の硬直が解けないまま、僕は服と握手するような体勢で彼女の前に姿を見せることになった。 パンツだけの格好で。「うわあ!」 情けない声を上げた僕とは対照的に、彼女は落ち着き払って訊いてきた。「もしかして着方がわからない? 複雑なものは避けたつもりだったんだけどなあ」「そ、そうじゃなくて! これ、どこからどう見ても女物じゃないか!」 思わずカーテンを巻きつけるようにして体を隠しながら、僕はそう言った。「そうだよ?」 事もなげに彼女は答えた。「あの、僕は確かに背が低いけれど、男……なんだけど。勘違いしてないよね?」 僕のおそるおそるの確認に、彼女は先ほどと同じように、「うん、知ってる」 当たり前のように答えた。ますます混乱する僕に、彼女は突然何かに思い当たったかのように目を見開いて、口に手を当てて声を上げた。「ごめん、言ってなかったっけ。ボク、女装をしている男の子しか愛せない性質なんだよね」「……はい?」「うーんと、つまりボクと付き合いたいのなら、それを着て欲しいなあって。そのブーツ、結構底が厚いからボクと同じくらいの身長になると思うし、お互いに利害が一致するでしょ?」 本当に一瞬だけ納得しかけて、僕は思いっきり首を横に振った。「いやいやいや、だからって女装なんて!」「……そう? 残念だなあ……」 悲しげに目を伏せる彼女の顔はとてつもない破壊力を秘めていた。今にも泣き出してしまいそうなこの顔を前にして、さらに否定を重ねられる男がいるだろうか。いるとすれば、それはゲイかド畜生だ。「わあ、似合う似合う! ちょっと嫉妬しちゃうかも」 胸の前で手を軽く合わせ、彼女はふんわりと柔らかな笑顔を浮かべた。僕の方はといえば、顔が引きつっているのが鏡を見なくてもわかるほどだ。 カーテンを隔てて僕が悪戦苦闘している間に彼女がしてくれた説明によると、白地に淡いピンクの花柄のチュールエンブレースワンピに、アッシュ系ブラウンのモヘアジャガードカーディガン、それと同系色のロングレザーブーツに黒のハイサイソックス……といった装いらしい。その辺りまではまだ理解できる。 でも、見えない部分にまで彼女はこだわった。「やるなら徹底的にね」 下着までもが女物にされていた。しかも、ご丁寧にその下に着けるサポーターまでが用意されていた。両脚の間に下がる僕自身を包み込んで目立たなくさせる、伸縮性に富んだ素材が締め付けてくるような感覚に、僕は常に意識のどこかでその辺りを気にしてしまう。「はいはい、次はこっちこっち」 もぞもぞと足に手をやる僕に、彼女は椅子をぽんぽんと叩きながら手招きをしてくる。促されるままに座った僕の前には鏡と、どう使うのかよくわからないものがずらりと並んでいた。「せっかくだから、メイクもしちゃおうか」 彼女は四角く平べったい開閉式の小物に手を伸ばしながら、歌交じりに僕の前髪をヘアゴムで纏め始めた。僕には拒否権すらないらしい。「本当はファンデーションからやるんだけど……キミ、びっくりするくらいお肌が化粧荒れしてないから必要ないかな」 それは当たり前だと思うのだけれど、彼女は心底羨ましそうにそう言った。「若いうちからファンデは良くないからね。ボクも滅多に使わないし。はい、まずはアイシャドウから」 小さなブラシのようなものになにやら粉をつけて、彼女は僕の目にそれを近づけた。「あー、ダメダメ。慣れるまでは怖いかも知れないけど、目はちゃんと開いてて。まぶたにフェイスパウダー乗せるからね」 彼女の視線がまともに僕の視線とぶつかる。ブラシを動かす彼女の真剣な顔がぐっと近づいてきて、胸のドキドキが止まらない。思わず視線を外しかけて、その度に僕は、「ほら、まぶたが動くと下地がズレちゃうよ。ホラームービーみたいなメイクになっちゃうから」 と、軽く怒られてしまう。「目の際に乗せるのはブラウン系がいいかなー。ナチュラルな方が似合いそうだし。その上から淡いブラウンをブラシでぼかして重ねようか」 彼女は楽しそうにそう訊いてくるけれど、僕にはさっぱりわからない。ほとんどオモチャにされているような気分だ。「キミの場合、目は大きい方がもっと可愛く見えると思うんだけど、アイラインはどうする? 目ギリギリのところにペンシルで太めの線を引いて……ううん、思い切って目の粘膜に直接リキッドアイライナー入れちゃおうか」 やっぱりわからない。けれど、もの凄く怖いことを言われてる気がする。そんな僕の不安が顔に出ていたようで、「大丈夫だいじょうぶ。まつ毛の間をちょっと埋めるだけだから。あ、絶対にまばたきはしないでね。半目のままで我慢だよ」 彼女はそう言うけれど、それは大丈夫なのか大丈夫じゃないのかも僕には全然わからない。慣れないまぶたの動きに目が攣るんじゃないかという気がする。「はい、あとは下まぶたにも少しライン引いて、間をペンシルでちょいちょいっと。ほら、もう終わった。我慢できたでしょ?」 鏡を見るように促されて、そこに映った人物にびっくりした。まるで自分ではないみたいだ。ぱっちりとした目の、八割がた女の子に見える誰かがいる。「ビューラーでまつ毛をカールさせるよ。動くとお肉を挟んだりして地味に痛いからじっとしててね。それが終わったらマスカラでボリュームアップして」 ハサミのような持ち手の変な道具で、彼女は数回に分けて僕のまつ毛を上向きに整えていく。そしてマスカラを塗ってさらに長く見えるように演出をした。「アイメイクはこれくらいでOKかな。口紅もナチュラルで統一したいから、淡いさくら色に透明のグロスでカバーすれば良いよね」 喋りながら、彼女は手際良く僕の唇を飾り立てていく。そして僕の顔を覗き込みながら何事か少し悩み始めた。「……ねえ、眉は剃っちゃダメ?」「ダメダメ! 他はともかく、それは元に戻らないし!」「えー、その方が綺麗に整えられるのに。まあ、ウィッグで隠れちゃうから……あ、別にウィッグなくてもイケそうだね。それくらいの長さの女の子なら、その辺にいないこともないし」 彼女はにっこり笑いながら僕から少し離れると、じっと見つめてから、「何かちょっともの足りないなあ……。アクセントが欲しいかも。ピアスとかどう?」「え、耳に穴開けるのなんか嫌だって!」「開けないよー? マグネットのやつなら挟むだけだから」 と、いつの間にか取り出した赤いピアスを僕の耳につけた。「はい、秋色モテカワ女子のかんせーい! とっても女子力高そー!」 馬鹿にされているのか褒められているのか理解に苦しむ表現をして、彼女は僕の口元に軽く握ったこぶしを近づけてきた。「え、なに?」「街で見つけた今日のモテカワ女子はこの娘でーす! はい、お名前は?」 どうやらインタビューなにかのつもりらしい。いまいちノリ切れないテンションのまま、それでも僕は答えてあげようとして気がついた。「……あれ、そう言えば本当に名前も言ってなかった気がする。涼ちゃんだよね?」「……あ。そういえば訊いてなかったかも。あれ? 私の名前は知ってるの?」「うん、友達が名前を呼んでるのを聞いたから、下の方だけはね。僕は皆川優貴(みながわゆうき)っていうんだけど」「ボクは若王子涼(わかおうじりょう)。ちゃんなんて付けなくていいから、涼って呼んでよ」 とびきりの笑顔でそう言った彼女に、僕は「涼」と呼びかけるだけの単純な作業を一度失敗した。こんな可愛い女の子をそう呼ぶことになるなんて、今までの人生にはなかったことだから変に緊張する。「ところでさ、ユウキって名前は本名?」「そうだけど? どうして?」 怪訝な顔をした僕に、彼女は面白がるように言う。「女の子でも通用しそうな名前だなあって」 ……そこは放っといて欲しい。自覚はあるのだから。 擦れ違う女の子たちが笑っているのは、何か楽しい話をしているからなのか、それとも僕が男だということに気づいているからなのか。一歩一歩を踏み出す度に、僕の心臓は爆発してしまいそうに強く跳ね上がる。「ほら、もっと堂々としてなきゃ返って目立っちゃうよ? 歩き方はすごく良いみたいだけど」 薄いワンピースと小さな下着の頼りなさに、僕は知らず知らずの内に内股で歩いてしまっている。隣には目線の高さが同じになった――高さが変わったのは僕の方だけれど――涼がいる。「だって、この格好で外を歩こうだなんて信じられないことを言うから……」 小声で呟く僕に、彼女はけらけら笑いながら、「カワイイ女の子にしか見えないよ。もっと自信持ちなってば」 果たしてその自信は持っちゃって良いものかどうか、僕には答えが出せそうにない。「どこかでお茶しようよ。大学のカフェテリアとか行かない?」 何気なく悪魔の提案をする彼女に、僕は思わず素になって大声を上げかけた。「そっ……んなところにこの格好で行って、知り合いに会ったらどうするんだよ!」「ユウキくん、言葉使い言葉使い。まあ、最近は女の子でも言葉荒いけどねー」「そっちこそ『くん』で呼ばないでよ……。余計に恥ずかしいから……」 頬のあたりが熱くなるのを感じながら、僕は少し早足になって道を行く。もちろん、大学からもその最寄駅からも離れた方向へと。そうすれば、知り合いに遭遇する可能性はぐんと低くなるはずだ。「こっちの方に良いお店があるから、早く行こ行こ」 本当はそんなものは知らないけれど、危険から逃れたい一心で涼の手を引く。さりげなく喫茶店がないかを目の端で探しながらなのと、慣れない底の厚いブーツのせいで歩きにくいったらない。 五分ほど歩いていく内に、首尾良く綺麗なオープンカフェを見つけた。僕は時々ここに来ているかのように振る舞う。「ここのは美味しいんだよ」 具体的に何が美味しいのかを言えなかった時点で、バレバレな気はする。現に、僕のすぐ後ろを歩く涼は忍び笑いを漏らしていた。僕は聞こえないフリで、涼の手を引いて店内に入ろうとする。「ユウキ、せっかくお天気良いんだし、中より外の席にしようよ」「もう秋も深いし、寒いからそれはやめようよ」 もっともらしいことを言いながら、僕は後ろに回って強引に涼の背中を押す。道行く知り合いに偶然見つかる可能性はできるだけ減らしたかった。涼は少し不満そうだったけれど、「あー! 秋限定スイーツだって!」 目敏く見つけたメニューに気を引かれて、すっかり席のことなんか忘れている。二人で向い合せに座って、僕はほっと一息吐いた。「どれにしようかなー。あ、このイチジクのケーキなんて美味しそう。これとアプリコットティー下さーい」 いつの間にか注文を取りに来ていたウェイトレスにそう告げて、僕の方を促す。「ええと、ぼ……じゃなかった、私はブラックコーヒーを」 そこまで言いかけたところで、涼が身を乗り出して僕の耳元でそっと囁いた。「ユウキ、忘れてる忘れてる。女の子は甘いものが好きなものだよ。とろけるように甘いものがね」 柔らかな吐息が耳にかかり、僕の鼓動が速くなる。離れていった涼の髪からは、また優しげな香りだけが僕の鼻先に残った。体中の力がゆっくりと抜けていく。「マロンケーキとアップルシナモンティーなんてどう? それとも紅茶はさっぱりしてた方が良い? それだったらローズティーとかの方が良いかもだけど」 言葉が喉につかえて出て来ない僕は、こくこくと頷くことしかできない。「じゃあ、この娘はマロンケーキとローズティーで」 頭を下げて引っ込んでいくウェイトレスを見送って、涼は笑いかけてきた。「ユウキ、注文がおじさんだよ。そういうところだけ気をつければ、見た目じゃ絶対にわからないって」 改めて言われると余計に自分の格好を気にしてしまう。忘れかけていた下腹部の違和感がかすかにぶり返してくる。 ケーキと紅茶が運ばれてきて、ひと口味わった涼は幸せそうな表情を浮かべた。「おいしーい!」 僕の方もマロンケーキを口に運んで、その甘さを楽しんだ。でも、ひとつ全部を食べ切れるかどうかは難しそうな気がする。美味しいけれど、女の子はこんなに甘いものをどうしてたくさん食べられるのか不思議で仕方ない。「ユウキ、あーん」 涼の声に顔を上げると、イチジクのケーキを乗せたユウキのフォークが僕の目の前で揺れている。「え?」「口開けて。女の子なら普通にやることだよ」 それを枕詞にされると、どんなことでも流されてしまいそうな自分が怖い。それでも結局、僕はユウキにされるがままに口を開け、逆にマロンケーキをユウキの口へと持っていった。「うん、そっちのも美味しいねー」 笑顔でいっぱいの涼を見て、僕は今さらながらとんでもないことに気がついた。(か、間接キス? それもお互いに!) 顔が紅潮する僕を見て、涼は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。「ごめんね、ボクのワガママにつき合せちゃって。やっぱり女の子の格好って恥ずかしい?」「そ、そうじゃなくて……。いやその、い、言われると返って恥ずかしいのは確かだけど」 しどろもどろの僕に、涼はケーキをフォークで突きながら続けた。「さっきも言ったけれど、ボクってどうしても女の子の格好の男の子しか愛せなくてさ。だからボクってまともな恋愛経験もないし、かと言って、そこら辺にそんな格好の男の子なんか滅多にいないし。それって人を愛してるんじゃなくて、服に恋してるんじゃないかってずっと悩んでて」「そ、そうなんだ」「ボクのことを好きって言ってくれる男の子はそれなりにいたけどさ。でも女装をしてもらうわけにはいかないじゃない? 嫌がられるだろうし、そもそもみんな似合いそうにないかったし」 伏し目がちだった目線を一瞬だけ僕の顔に向けて、今度はティーカップにそれを逃がしながら涼は、「でもね、ユウキが声を掛けてきてくれた時にこの人だって思ったの。華奢でちっちゃくて女の子っぽい顔で、声も高くて……」 コンプレックスをフルコースで刺激してきた涼の言葉に、僕はこみ上げてきた諸々をローズティーで飲み下した。鼻から抜けてゆく香りを味わうこともできず、僕はひとたまりもなく噎せ返った。「あ、ごめん。変なこと言っちゃったよね、ボク」 懐から取り出したハンカチでそっと僕の口を拭いながら、涼は伝票を手に取って席を立った。「今日はそろそろ帰ろうか。初めての経験だから、気疲れしたでしょ」「あ、ありがとう。帰るのは良いけど、ぼ……私が払うから」 涼が握っている伝票に手を伸ばしたのだけれど、それはあっさりとかわされた。「ダーメ。今のユウキは女の子なんだから、せめてワリカンじゃないと」 本当にぴったり半分ずつ代金を払って、僕らと涼は店を出た。来た道を戻りながら、涼がいたずらっぽく笑って言う。「そのまま家まで帰る?」「……勘弁して。家族が卒倒するから」 考えただけで眩暈がした。涼はくすくす笑いながら、「それじゃ、さっきの店に戻ろうか。服はクリーニングして保管してくれるから心配しないでもいいよ」「そんなことまでしてくれるの?」「そう。あそこはそういう人のためのお店。ボクの名前を出せば、ユウキひとりでも女の子になれるからね。メイクは覚えなきゃダメかも知れないけど」「いや、ひとりで女の子の格好してどうしろと……」涼は困惑顔の僕に少し肩を寄せて、片目を瞑りながらささやいた。「あ、そうだ。明後日、デートしようよ」 僕の想いは受け入れられたと思って良いのだろうか。断る理由がどこに存在するというのだろう。「うん、日曜日だね。もちろん良いよ」 できるだけ平静を装ったけれど、鼻息が荒くなってしまったのは隠しようがなかった。「わあ、良かった。それじゃ、待ち合わせは大学近くの駅でいい?」 僕が頷くと、涼はびっくりするような言葉を続けてきた。「時間は朝の六時ね。遅れないでよ」「えっ、なんでそんなに早いの?」 今日は一日驚きっぱなしで、僕の頭は振り回され続けた。だからなのか、僕はさっきの涼の言葉に隠れた違和感の正体に気づくことができなかったのだ。「ユウキ、ボクより早く来てたの? まだ五時半くらいなのに……わっ、ちょっとすごいクマだよ? 大丈夫?」「なんとかね……」 なにやら大荷物を抱えた涼は僕を見つけるなり、驚いた声を上げた。僕は興奮のせいで一睡もしないまま夜明かしをしてしまったせいで、ひどい顔をしていた。 休日に女の子と出かけるなんて、ドラマの中か都市伝説みたいなものだとばかり思っていて、自分がそんな立場になるなんていまだに信じられないくらいなのだから。「うーん。まあ、ファンデで隠せるよね、きっと」小声で呟いた涼に手を引かれ、僕たちはまだひと気のあまりない街中を歩いていく。また女装をさせられるのかと思ったけれど、この前の店とは方向が違っていた。「今日はどこに行くつもりなの?」 男のセリフじゃないなあなんて思いながら、僕は涼に尋ねたけれど、「それはついてからのお楽しみ」 楽しそうに笑いながら、涼は大きなドラムバッグを反対の肩に掛け直してどんどん進んでいった。 連れて来られた先は、イベント会場として使われるホールだった。何度か側を通ったことがあるけれど、企業の就活合同説明会や地域物産展が開かれていた覚えがある。「ユウキ、身分証明証持ってる?」 涼が受付を通る時にそんなことを言った。僕が学生証を探している間に涼も学生証を提示して、さっと通り抜けて僕を手招きする。「涼、これは何かのイベントなの? 身分証がいるなんて変に厳重だけど……」「そう。こっちが更衣室だから、早く早く」 その言葉にまさかプールや海を連想してしまうほど、僕の頭は眠ってはいなかった。嫌な予感がする。むしろ嫌な予感以外の何もない。「急がないと間に合わないよ。ひと手間余計なメイクが必要だから」 クマのことを言っているのはわかる。でも、メイクをする理由がわからない。「りょ、涼! 勝手に脱がすのはやめてよ!」「時間がないんだってば」 更衣室に入るなり、涼が僕の服に手を掛けた。しばらくは抵抗していたけれど、パンツだけにされた辺りでもうどうでも良くなってきた。さすがにその先は自分ひとりでサポーターを装着して、その後は何を着せられているのかもわからないまま、着せ替え人形さながらに涼の思うがままにされた。 メイクまでが終わって、ようやく自分の全身を鏡で確認してみて、僕はあの時とはまた違った意味で凍りついた。どこかで見たことのある、でも何だったかが思い出せない格好だった。 しばらく鏡と睨めっこしていると、いつの間にか涼も着替えていた。メイクも素早く終えている。そして片足をくの字に曲げてもう一方だけで立ち、手に持ったステッキのようなものを掲げながら、「魔法幼女シルキーバイオレット! あなたのハートをすみれ色になるまでお仕置きしちゃうんだからね!」 白いすみれの花を思わせるふわふわのドレスとピンクの長いウィッグを翻しながら、そんなことを言った。「……思い出した。日曜の朝にやってる魔女っ娘アニメのキャラだ」「せいかーい! それならユウキも自分の格好がなんだかわかるよね?」 高さのある三角帽を両手でぎゅっと被り直しながら、涼が微笑んだ。「もしかして、そのアニメに一緒に出てくるキャラクターじゃ……」「だいせいかーい! ユウキのは魔法幼女ポイズンバイオレット! 悪の組織を裏切り、シルキーとタッグを組んで絶対正義を貫く、無口で恥ずかしがり屋な娘なの!」 涼と似たようなデザインで淡い紫色のドレスに三角帽、青いショートのウィッグに、手に握らされているのは鎖の両端に刺のついた鉄球がついた武器。もちろんゴム製だけれど、どの辺りが魔法なのかはいまいちわからない。「ああ、どうりで見たことがあるような……じゃなくって! なんで僕はこんな格好させられてるのさ!」「そんな元気にしゃべるなんて、ポイズンのキャラじゃないよー。もっとシャイな娘なんだからー」「もしかしてこれ、コスプレイベントなの!?」「あ、心配しなくても写真撮影は禁止なイベントだから。ついでに女装男子限定」 さらりと衝撃的な告白をする涼に、僕は腰を抜かしかけてぺたりと座り込んでしまった。二日前のカフェからの帰り道で生まれた正体不明の違和感はこれだったのだ。 女装のための店を涼が知っていたのは、涼自身がそこの利用者だったからなのだ。「りょ、涼って……その……」「あ。その座り方、ポイズンっぽいよ。可愛い可愛い」 僕の言葉の続きは絶対にわかっているはずなのに、涼はわざと無視して僕に手を差し出した。つかまって引っ張られるように立ち上がると、そのままの勢いで僕は更衣室からホールへと連れて行かれた。 そこにはもう数十人の参加者がいて、全員がなんらかのコスプレをしていた。どこからどう見ても男丸出しの人間がほとんどだし、中には完全に開き直ってネタに走った筋肉隆々の女子高生キャラなんかもいたりする。せめて髭くらいは剃って欲しい。 そんなところに涼が現れたものだから、参加者の視線が一気にシルキーバイオレットに集まった。「すげえ! 完全に女の子にしか見えない!」と、これは多分格闘ゲームの女剣士。「魔法幼女シルキーバイオレットですぅ。再現率高いですぅ」と、イギリスっぽいメイド。「隣にいる娘はポイズンバイオレットか。こっちも女の子……いや、男の娘だね」と、スカート姿の真っ白い軍服。「ブルマは死んだ。殺された。そう思っていた時期が私にもありました。しかしどうでしょう! このポイズンは忠実に設定を守って、ドレスの下に茜色のブルマを履いているじゃないですか! リアルでは絶滅危惧種のブルマっ娘が、今ここに甦ったのです!」と、一九〇センチくらいありそうな、ポニーテールの和風女剣士……って、おい!「ちょっ、ちょっとやめっ……あっ」 いつの間にかひょいと捲り上げられていたドレスの裾を押さえて叫ぼうとした僕の後ろに回った涼が、耳にふっと息を吹きかけた。力が抜けた僕は膝からその場に崩れ落ちてしまい、「おおー、キャラを良くわかってる」「男同士じゃセクハラにもなりゃしないしなあ」「二次元よりも可愛い気がしてきた……いやでも、本当は男だしなあ……」「シルキーバイオレットの方のキミはやっぱり設定通りスパッツ履いてるの?」好き勝手な言葉が僕の頭上を飛び交っている。「ポイズン、本当に可愛いよ」 まだ立ち上がれずにいる僕を、膝立ちになった涼がそっと抱きしめてきた。おおお、と獣臭い歓声が上がる。「百合は美しいですなあ。いや、この場合BLになるんですかね」「どっちでも可愛けりゃいいや」 口々にそんなことを言い出す他の参加者を黙らせたのは、ホールに響く放送だった。『これから八時三十分より、魔法幼女ツインバイオレットのテレビ放送をスクリーンで上映致します。ご視聴される方々は、会場前方のステージ前にお集まりください。』 また獣臭い歓声が上がり、参加者の大半がそちらへ移動を始めた。「ほら、ボクたちも行こう」 涼が立ち上がり、僕に手を差し伸べる。「朝早かったのは、こういうことか……」「そう、この格好でステージに上がって、OP曲に合わせて踊れば盛り上がるよ、きっと」 瞳をキラキラさせる涼に、僕は苦笑いで答える。「踊りなんか知らないってば」「大丈夫。ポイズンは恥ずかしがってずっと後ろでモジモジしてるだけだから。今のユウキならこれ以上ないくらいリアルにできるよ」 割と本気で嫌がる僕を涼がステージに引っ張り上げる辺りも、会場からはリアルな演技として大ウケした。 その後もいろいろと声を掛けてくる人を捌いているうちに、寝不足と羞恥の限界が祟った僕はまた座り込んでしまった。体が重い。 涼が僕の異変に気づいて、「……大丈夫? もう会場出て、どこかで休もうか」 そう言ってくれたのは助かった。けれど、更衣室に向かいはしたものの着替える気力すら涌かない。「ウィッグだけ外して、上からコート着ちゃえばわかんないよ。待ってて、今準備するから」 手際良く帰り支度をして、涼も上からコートを羽織って僕に肩を貸してくれた。 会場の外に出て少し歩いただけで息が切れた。座り込みそうになる僕を、突然涼がおぶって歩き出した。「……涼、男がそんなことさせるなんてみっともないよ」 かすれ声で言ってみたけれど、「ボクだって男なんだってば。背だってボクの方が高いし、良いから黙って背負われてなよ」 涼にそう言われて、それ以上抵抗することも出来ずに僕は目を閉じた。 目を覚ました僕の顔を、涼がじっと覗き込んできていた。「あ、起きた? 顔色も悪くないし、もう大丈夫だとは思うけど……ごめんね、無理させちゃった」「……気にしなくて良いよ。それより、膝枕なんかさせちゃって僕の方こそ悪いよ」 柔らかな涼の腿の感触を後頭部に感じながら、僕はゆっくりと体を起こした。「ここは?」 辺りを見回して僕が尋ねると、涼はこう答えた。「休憩できるところ。良かった、休憩時間が過ぎても目を覚まさなかったらどうしようかと思ってた」 その言葉から今いる場所を察した僕は、思わず飛び起きた。間髪を入れずに涼が僕に飛びついてきて、僕と涼とは縺れるようにベッドの上に倒れこむ。「せっかく魔法幼女の格好のままなんだから、もう少しボクと触れ合っててよ」 涼はそう言いながら僕の上に跨るようになり、くるりと反対を向いた。ドレスの裾が僕の顔を覆い隠し、スパッツ越しの尻が口を塞ぐように軽くのしかかってくる。「りょ、涼?」「女装してる男の子しか愛せないし、ボク自身も女の格好をしてないとダメなんだ。そしてそれがコスプレだったとすれば、もう百点満点だね。つまり今がこれ以上ないくらいのシチュエーションだってことでさ」 ドレスを隔てた向こう側から、涼の楽しそうな声が聞こえる。僕は顔を引き攣らせて声を上げる。「なんか性癖が大渋滞してるんだけ……んむっ!」「騒がしい口だなあ。こうしちゃえば静かになるかな?」 少し体重をかけて、涼の尻が完全に僕の口を塞ぎにかかった。僕はなんとか顔をずらしてそれをかわす。体全体で跳ね除けようとするけれど、まるでくもの糸で絡め捕られた虫のように逃れることができない。「こ、この女郎蜘蛛ー!」「残念でした、ボク男だもんねー」 のしかかってきた尻の感触からは、確かに身近なものが感じ取れる。顎の辺りに、男にしかないはずのものが触れている感覚がある。いや、自分のそれを顎で感じたことなんかないけれど。「た、助けてー!」 くぐもった声で悲鳴を上げる僕に、涼が苦笑しながら言う。「そんなこと言いながら……このドレスの裾を押し上げてるものはなあに?」 布数枚を隔ててそっと触れてくる涼の手に、僕はどこまで抗えるのだろうか。------------------------これはひどい。そして長い。ごめんなさいごめんなさい。
>脳舞様拝読しました。女装もの、実はかなり好物でおいしくいただけました。唯一残念なのは、この三語が同性愛を縛りにしているため、涼が女装した男だということが、読み始めてすぐにわかってしまったことです。女装した相手しか愛せない女性を同性愛、といいきるようないい加減なことはしないでしょうから。でも、わかっていたらわかっているだけに、にやにやして読めました。
>ウィルさん感想ありがとうございます!女装かどうかですが、答えだけ言うと、幸裕は女装してるわけではなくて、語りも特に女性的なものを意識したものではありませんでした。どうしてそう読ませてしまったのかな、と原因をいろいろ考えたところ、もしや和樹を女性だと思わせてしまったのかな、と思いました。幸裕も和樹も、私の中では男で、普通の恋人同士という設定でかいていました。自分の中では、同性愛カップルが、実は自分の恋人は異性が好きなんじゃないか、って不安に思って破局、は一種の王道だったんです。というわけで、名前を和樹から和人に変えてみました。ぜんぜん見当違いな事言ってたらすみません。
彼らは三人で暮らしている。ちょっとした秘密を抱えながら、静かに仲良く暮らしている。 その日も、二階からあわただしい足音が響くのを聞いて、康介と純一は笑みを漏らす。「寝坊だな」 コーヒーを飲みながら読んでいた新聞から目を上げて康介が面白そうに笑いながら呟く。そんな康介を見て純一は再び笑う。彼自身もそんなに優雅に朝を過ごせる身分ではないのにと心の中で呟く。「やばい、遅刻だ」 悠太が転げ落ちるように階段を降りてくる。いつもならもう家を出ている時間だ。康介と純一にあわただしく朝の挨拶をすると、彼は朝食の乗ったテーブルに向かい、いただきますといってトーストにかじりつく。「急げよ、遅刻だぞ」 康介がからかうように声をかけると、悠太は早食い競争のように慌てて朝食を平らげる。「よく噛んで食べなよ。顔が真っ赤じゃないか」 純一は悠太に声をかける。今彼は必死に笑いをかみ殺している。純一には彼のその姿がほほえましくて仕方が無い。 悠太はテーブルの上のトーストとハムエッグを平らげると席を立とうとする。「おい、牛乳飲めよ。もったいないじゃねえか」 康介が言う。 悠太は牛乳が苦手だ。恐らく、遅刻を言い訳にして、うまく牛乳をやり過ごすつもりなのだろう。「う、いいよ。遅刻しそうなんだよ。コースケにあげるよ」 康介はそれを許さない。「ばかやろうお前、牛乳飲めよ。牛乳はすげえんだぞ。うまいし、カルシウムもたんぱく質も豊富だし、白くて綺麗だし。背が伸びるぞ。筋肉つくぞ。女の子にもてるぞ」「でも遅刻しちゃうよ」「だめだよユウ君、朝ごはんは残さずちゃんと食べなさい。寝坊したのはユウ君のせいなんだから。朝ごはんはしっかり食べて、そのせいで遅刻したら、ちゃんと先生に怒られてきなさい」 純一もそれに続く。「ううう」 悠太は観念したのか、グラスに注がれた牛乳をじっと見つめると、意を決したかのようそれを飲み干す。飲み終えた後で、顔をしかめる。「ご馳走様でした。いかなきゃ!」「おお、時間やばいからな、走っていけよ。間に合わないぞ」 悠太が居間から駆け出していく。「いや、走っちゃダメだよ。危ないから。車には気をつけるんだよ」「どっちにすりゃいいのさ! ああもう、行ってきます!」 玄関から叫ぶようにそう答えると、悠太は玄関から駆け出していく。走っていくことにしたようだ。 悠太が家を出ると、家の中はそれまでと別物のようになってしまったかのように静かになる。二人は静かに朝を過ごす。悠太がやってくるまでは、この静かな朝食の風景がこの家では当たり前だった。「俺も時間やばいな」 康介がその静寂を破る。「ははは、走っていかなきゃだ」「俺は走ってもいいのか。お前は?」「まだ少し時間あるから、お皿洗っていくよ」「ああ、悪い。いって来る」「うん、行ってらっしゃい」 悠太が二人の家に預けられてからもう二ヶ月になる。初めのうちは緊張やよそよそしさを感じられたものの、今ではもうすっかりなじんでいるように見える。 悠太の母親は康介の姉だが、悠太に父親はいない。ある意味ではこれまで父親のような役割を康介がになってきた。悠太の母は悠太を一人で産み、康介の手を借りながら、これまで一人で育ててきた。 今は彼女は仕事の都合で一時的に悠太を康介に預け、一人別の場所で暮らしている。 この仕事を無事乗り切ることができれば、彼女は職場で重要なポストを得ることになる。そして、完全に経済的自立を勝ち取ることができはずだ。しかし、その代わりに彼女は少なからず家族の時間を失うことになる。これからの生活はどのようなものになるのか分からないが、仕事をやめることはできないと彼女は康介に言った。 康介は駅まで走っていき、何とか時間通りの電車には間に合うことができた。悠太が家に着てからは、毎朝がこの調子だ。悠太を見送り、遅刻ぎりぎりの時間に家を出て、汗だくのまま荒い呼吸を電車の中で整える。ずいぶん変わったものだと、通勤電車に揺られながら、ぼんやりと、康介はかつての自分の生活を思い出していた。 康介は男性同性愛者だ。二十代の前半、康介は何人もの人間とセックスをした。ある意味ではそれはスポーツのような気軽なものでもあった。 繁華街の雑居ビルの一室に、ひっそりと普通の人間には知られること無くそのての店はある。康介のような性的志向を持った男たちはそこでセックスの相手を探し、交わる。そこにいる人間は全てが男性同性愛者であり、セックスの相手を探すためにその店に来ている。 大きなたくましい体と精悍な顔立ちを持った康介は、性別に関係なく男女の双方によくもてた。加えて、ちょっとした気遣いや気の利いた冗談を言える頭を持ち、適当な恋人には困ることが無かった。 その日も康介はいつものように店に行き、顔なじみの友人と行為をした。店内は薄暗く、青色のライトで照らされ、ほとんど裸に近い男たちが思い思いに会話やビデオ鑑賞を楽しんでいた。康介は行為後の心地よい疲労に浸りながら、黒い革張りのソファに横たわり、うとうとと短い眠りにつこうとしていた。 まどろみのなかで、ふと気がつくと、康介はすぐ近くに誰かが立っているのに気がついた。その男はいつの間にか康介の脇に立ち、自ら性器を手で刺激しながら彼を見下ろしていた。突然のことに戸惑いながらも、康介は何か用かと尋ねた。 小柄で小太りの男だった。恐らく年齢は50代あたりか、とうに中年の域に達しているであろうその男は、康介の好みの男ではなかった。もし彼が自分を誘ってきたら、疲れているのだといって断ろう。 康介はそう考えていた。 しかし、男は康介を眺めながら、自慰をしていいかと訪ねてきただけだった。できればそれを康介に見てもらいたいと言った。 康介はかまわないと答えた。ただ近くで男が自慰をするだけだ。もしそれが見たくなくなれば眠ったふりをすればいい。康介はそう考えた。 薄暗がりの中で見た男の体は、康介にはとても醜いものに感じられた。それに加えて、かすかに感じられるような男の体臭は、その見た目のイメージからなのか実際に放っているものなのかは分からないが、何かの発酵食品の匂いに似ている気がした。もしかしたら、この男は何か病気を持っているのかもしれない、と康介は思った。 男はそれから五分ほどして射精を迎えた。彼はその直前に康介の体に精液をかけてもかまわないかと尋ねた。もちろん、康介はそれを断った。 男は床に精液を撒き散らし、礼を言って去っていった。薄暗い店内では、青く照らされた床の上に浮かぶその液体を見ることはできなかった。 ただソファに横たわり、男の自慰を眺めていただけなのに、残された康介の体にはうっすらと冷たい玉のような汗がいくつも浮かんでいた。急に体が冷えたように感じる。あの瞬間の康介は、戦慄していたといってもいいほどの恐ろしさを感じていた。 そしてそれ以来、康介は店に顔を出さなくなった。 再びその店に行けば自分の身に何かよくないことが起こるのではないかと感じられた。 康介の意識は、かつての自分を俯瞰する短い回想から、今現在揺られている電車の人ごみの中に戻ってくる。沢山の通勤客を乗せた電車、康介はそこから窓の外に視線を向けているが、その眼には何も映っていない。 電車が短いトンネルを通過し、康介の目の前の黒いガラスに現在の彼自身の姿が映し出される。短い間、彼は自分の姿を眺めてみる。そこにはもうすぐ30代になる男の姿が映っている。彼は時間の流れと共に確実に年を取っていく。 多分俺は、あの頃とはもうすっかり変わってしまったはずだ。康介は考える。もうかつてのような生活を送ることはないだろうし、そのつもりも無い。 多分、あの時俺が恐れたのはあの男の行為だけではない。あの男に自分自身を重ね、年を取り誰の相手にもされないようになっても、それでも自分の欲望に抗えず、孤独に惨めな男漁りを続けている自分の姿を見たのだ。 俺自身、変わらなくてはならない。今の生活が大事だ。そんなにたいそうなものが俺自身の中に芽生えているのかは分からないが、悠太に愛情のようなものも感じている。この生活はとてもいびつで不安定なものだということは分かっている。悠太はいずれ母親の元に返っていってしまうかもしれない。だけど、できることならば少しでも長く続けていたい。くもの糸にすがるような気持ちだ。ばかげた考えだということは分かっている。だけどどうしても、手放したくはないと思うのだ。 今日の仕事は早く終わるだろうか。できることならば、あまり残業はしたくない。康介はそんな風に考えて、自分の考えに思わず吹き出しそうになる。ぎりぎりのところで、それを堪える。 純一は康介の恋人で、二人の付き合いはもうすぐ五年目になろうとしている。二人は同居し、彼は昼間はスーパーでパートタイムの仕事をしている。勤務時間の短さと給与の面に不便なものがあるが、時間の融通が利きやすく、悠太との暮らしが始まってからはむしろ好都合になっている。悠太が風邪を引いたときなどは誰かが看病してやらなければいけない。そういう場合には、今の職場ならすぐに対応できる。以前実際に悠太が風邪で寝込んだときには、改めてそれを実感した。 夕方の仕事の休憩時間に康介からその旨の連絡が届いた時、純一は慌てて上司に早退を願い出た。悠太が学校で体調を崩したので、保健室まで悠太を引き取りに行ってくれないかと言うことだった。 純一は慌てて悠太の通う学校まで走り、悠太を引き取りに行った。 学校からタクシーで家に帰り。悠太を布団に寝かせる。見るからに元気が無く、熱もある。ひどく不安な気持ちになった。とりあえずと寝かしつけたが、病院に連れて行くべきだったのだろうか。純一は自分が何をするべきかも分からず、悠太がうなされるたびに、ただおろおろするだけだった。 それからしばらくして康介が風邪薬や栄養ドリンクを買って帰ってくるまで、純一は何もすることができなかった。市販の風邪薬を飲んで、悠太はいくらか落ち着いて眠りにつくと。彼は自分のふがいなさを思い返した。 もっとしっかりしなければいけない。そうしなければ、自分はこの生活を続けることはできない、と彼は考えた。 悠太の熱は翌日には下がっていたが、二人は大事を取って学校を休ませた。看病のために純一は仕事を休み、康介もなるべく早く帰れるようにするといって家を出て行った。 眠るばかりで、目がさえてしまった悠太は、布団の中で退屈そうにしていた。純一はその隣で悠太の脇に挟まれた体温計がなるのを待っている。「悠太君はさ」「ん? なに?」 ふと手持ちぶさたに純一は口を開いた。「好きな女の子はいるの?」 ずっとこのまま一緒に暮らしたいと思うかと、彼はもう少しで、そう尋ねるところだった。「うん。いるよ」 もしくは母親と一緒に暮らしたいかと。「どんな子?」 しかし、純一にはそのことについて話題が及ぶのは恐ろしく感じられた。 それは今聞くべきことではないはずだ。もっと、他にも話題はある。今は、そのことについては考えてはいけない。「サキちゃんっていって、かっこよくて、ピアス開けてる」 目の前の話題に集中するために、純一は想像してみる。ピアスを開けている小学生か、と純一は少し考え込む。まあ、最近はそういうのもアリなのかもしれない。「告白するの?」「しない」「え、なんで?」「勇気が足りない」 悠太の子供らしい言葉に純一の頬が緩む。「そっか、勇気か。大事だよね」「サキちゃんのこと好きだけど。怖くって言えないんだ」「うん。気持ちは分かるな」「ホント?」「うん。本当だよ」「純一君もそういうことってあるの?」「そういうこと?」「勇気が足りないって思うこと」「うん。あるよ」「大人なのに?」 悠太が不思議そうな顔をする。「大人でも思うよ」「ふうん。でもこれ、康介には内緒ね」「なんで?」「あいつ絶対からかってくるよ」「ははは、ありえる」 勇気が足りない。悠太が眠った後で、純一は静かに心の中で呟いた。 今日もいつものように、日が暮れる頃に、悠太が帰ってくる。その少し後に純一が帰ってきて、夕食の支度を始める。夕食ができて康介が帰宅すると三人の夕食が始まる。食事が終わると三人は順番に風呂に入り、並んでテレビを見る。夜の十時になると悠太を寝かせる。悠太が眠った後で、二人は毎晩のように話しこむ。「子供っていいよね」「ああ」「いや、僕が言ってるのは、子供は毎日仕事なんかしないでいいよなとか、楽しそうでいいよなとか、そういうことを言ってるんじゃなくてさ。そのつまり、なんというか」「子供のいる生活のことだろ」「そう、毎日元気に朝起きてくれて。朝ごはん、おいしてくてきちんとしたもの食べさせようと考えたり、そんなふうに考えて作ったものを本当においしそうに食べてる姿を見たり、出かける前に忘れ物ないかとか注意してやったり、日曜の朝になれば休みなのに早起きして一緒に魔法幼女もののアニメなんか見たりして」「魔法幼女のアニメなんか見てんのか。あいつは」 康介は苦笑いを浮かべる。「別にいいじゃないか。男の子がそういうの見たって」「まあ別にいいか」「うん。いいと思う」 会話が途切れる。「きっと、僕らはとても貴重な体験をしているんだと思う」「ああ、ゲイの癖に、子供がもてるなんてな」「だけどちょっとさ、怖いんだよ」「何が」「例えば、もし僕たちの関係が回りに知られてしまったら、ユウ君がさ、学校でいじめられないかって。ホモ野郎の息子とか言われたりしないかって」「まあ僕らがホモ野郎であることは事実なんだけどさ。いじめとかそれだけじゃなくてなんていうかその」「俺たちの関係が、悠太に悪い影響を及ぼすかもしれないってことか」「そう、他にも、ユウ君はちゃんと女の子を好きになれるかな?」「わからない」 そんなことは誰にも断言できないだろう。と康介は考える。再び、二人は黙り込む。「この前ユウ君が熱を出した時、心配で心配でどうしようもなかったんだ」 あの日以来、純一の頭の中には一つの考えが渦巻いている。それは多分正しいことではないと分かっていながらも、彼にはどうしてもその考えを無視することができない。「こういう考えを持つのは、多分間違っていると思うんだけど、多分僕は、ユウ君のお母さんになってあげたいと思っているんだ」「もちろん、性転換とかそういう意味じゃなく」「わかってるよ」 純一は少しおどけて見せるが、康介はそれに面白くもなさそうに答える。「でもいずれ、そう遠くないうちに、きっとが僕らを必要としなくなるときが来る。いつのことになるのかは分からないけど、それは必ず来る」 その時は悠太の母親が彼を迎えに来るときかもしれない。それとも別の形でやってくるかもしれない。「その時に僕たち二人の関係はどうなっているんだろう」 康介は答えることができない。三度、二人は黙り込む。「でもまあ、少なくとも今は、あの子のそばにいてあげて、愛情を注いであげられる人間は僕たちしかいないんだよね」「ああ、しっかりやるよ」 再び、純一は勇気が足りないと考える。康介は何かが変わらなくてはいけないと考えている。 二人は互いにこのままではいけないと思いながら。自分たちの目の前にある問題に深く踏み込めずにいる。 すいません。遅刻しました。ほんとすいません。いろいろすいません。
さらさらとした金髪が、無造作に掻き上げられる。上気した白い頬は、赤みを帯びている。その頬を、珠の汗がするりと流れていった。 こめかみから頬へ、そして細い顎を伝って、汗は地面に落ちていく。その軌跡を眺めている内、耳たぶに目が吸い寄せられた。所在なさげに、ぽつんと空いている小さな穴。いつの間にか、空いてしまっていた小さな穴。頭から浴びせられた水も、遠慮するようにその穴に近付くことはない。そこは、僕の知っている向出(むかいで)がいなくなってしまったところになった気がして、もう誰かが居座ってしまった跡の気がして、じん、と胸が痛くなる。 ――その空洞は、君が大切と思う人が、残していった跡なの?「おう。ヤっちゃん、わりいわりい」 向出は、快活そうに笑みを浮かべて、僕の差し出していたタオルを受け取った。頭をぶるぶると振って、水気を散らす。そうして、わしゃわしゃと髪を拭う。今日の向出は妙に意気込んでいて、コートを縦横無尽に駆け回っていた。ピアスの穴に目がいった。ため息をついてしまいそうになる。向出がいつもと違うこと、そのことに僕は自然と気付いていたが、正直、気付きたくなんてなかった。「どうしたの、それ。ピアス穴空けたんだ?」「げげ。気付かれちまったか。へへ。まあ、その、ちょっとした出来心っつーか、お茶目っつーか、そんなトコ」 抜け抜けと話す向出に、つい目がとがってしまう。ピアスの穴を開けたことを咎めているのだと勘違いしたのだろう、向出は表情を緊張させた。「や、もちろん、ピアスはガッコに付けて来てねえからよ。ヤっちゃん、ここはひとつ、目えつむっとけ」「違う違う、そうじゃないよ。怒ってるんじゃなくて。先生とか顧問に見つかったら、説教食らうんじゃないかって、思っただけ」「なんだい、そっちの心配だったか。ま、でも、普段は髪に隠れてるしさ、元々パッキンだし、説教は慣れてっから」「ペア組んでる僕はどうなるの。向出が怒られるのは勝手だけど、とばっちりは御免だよ」 僕、、安手睦次(やすで むつじ)と向出百矢(むかいで ももや)は、バトミントン部のダブルスでペアを組んでいる間柄だ。といっても、消去法で最後に残った二人というだけで、能動的に組まれたペアではない。実力的にも、人徳的にも、落ちこぼれの二人というわけだ。もっとも、向出の方に欠けているのは、ほとんど全部人徳だったが。「毎度毎度、世話焼かせてわりいな、ほんと。お詫びにっちゃあなんだが、これでも飲んどけ、飲んどけ」 そういってぱっと投げ渡されたのは、スポーツドリンクの入ったペットボトルだった。あたふたと受け取っている間に、向出は部室棟の方へとさっさと歩いて行ってしまう。 無理して作っていた笑顔が、すっと溶けた。 向出が髪を染めたときも、同じような気持ちになったことを思い出す。歯痒いような、悔しいような、寂しいような、どろどろとした想い。向出の髪を色を変えさせた原因が、自分でないことだけは明白で、それがとてつもなく悔しかったのだ。でも、どうして悔しいと思ったのか、そんな自分が、まるで判らなかった。 ぽっかりと空いたピアスの穴が、今は僕の心に浮いている。 ――誰が、君にその穴を空けさせたの? そう思うだけで、僕は、どんな表情も作れなくなってしまう。今の僕は、そのことを知っている。 ペットボトルのキャップを緩め、一息に飲み干していく。乾いた喉が潤されて、心地よかった。 ふと、視界の端に、僕の方を見ながらこれ見よがしに内緒話をしている同級生の部員の姿が目に入った。ほんの少しだけ、手が震えてしまう。微かに、ペットボトルの水面が揺れた。でも、それだけだった。以前のように、尻尾を巻いて逃げ出すこともなかった。堂々と、その場に立っていられた。 ――ねえ、僕が君の心に触れることは、できないの? 向出に出会ってから、手に入れたはずの僕の強さは、向出への想いの強さほど、どうやら強くはないようだ。「なあ。なあなあ、なんかさ、臭くね?」 それは、誰もが口には出さないけれど、思っていた事実だったと思う。 入部当初から、僕は明らかに避けられていた。練習前後の柔軟体操のとき、同級生で僕と組んでくれる人はいなかった。たまに先輩が組んでくれても、二回目、声を掛けられることはなかった。 自覚のあることだったから、精一杯気にしないようにしていたし、気にしても仕方のないことだった。 隅っこでひとり、こそこそ頑張っていられれば、それでよかったのだ。「おお、ドブ臭いていうか? 誰か漏らしたんじゃね」 僕が急いで部室で着替えているところに、運悪く同級生のそいつらは帰ってきたのだった。慌てて制服のシャツのボタンを締めていったのだけど、焦ってしまって、指先が汗で滑ってしまって、思うようにならなかった。「換気しないとなあ。誰かさんの臭いが服に付いちまったら、ぜってー洗っても落ちないもんな」 自然と縮まった僕の背中に、げらげら笑う声がぶつけられた。涙が溢れ出してきた。でも、泣いたりしたら、余計笑いものにされると思った。だから、僕は声を押し殺して、脱いだ衣類を鞄に詰め込んだ。そのときだ。「お前ら、うぜえんだよ」 向出だった。当時は黒髪だったが、素行と態度の悪さが災いして、校内では悪い意味で有名な存在だった。もちろん、面識などなく、話したこともない。何回か見かけただけの僕にとっては、怖そうな人だ、という印象しかなかった。「胸糞わりい」 吐き捨てるような、攻撃的な口調だった。向出は嫌味をいっていた二人の同級生を一瞥すると、自分のロッカーの前まで来て、悠々と着替え始めた。同級生は二人とも、顔面蒼白だった。話題を転じることもできず、目配せしながら黙々と着替えるのがやっとだった。そうして、着替えおわると、そそくさと部室を去っていった。 それは、僕に垂らされた、くもの糸であるように思えた。 だというのに、僕はといえば、ちらちらと向出を盗み見ながら、制服のネクタイを結んだり、解いたりしていた。着替え終わった向出は、ロッカーを閉めると、真っ直ぐこちらを見てきた。素早く目を逸らした僕はというと、制服のボタンで取れているところはないか、無駄な確認を始めていた。「何だよ。何か用?」 びくっと指先が震えた。怖かった。といっても向出のことが怖かったのではない。折角助けてもらえたというのに、今より嫌われてしまうかもしれない、そのことに脅えたのだ。「……ネクタイ」「あ?」「緩めすぎて、スカーフみたいだなって」 束の間、向出はきょとんとした顔をしていたが、顔を俯けてネクタイを見て、僕の顔を見て、またネクタイを見て、とうとう笑い出した。「ぶははは! たしかに、これじゃあ、ネクタイっつーよーな代物じゃねーわな。まったくもってその通りだ。ナイス突っ込み、サンキュ」 向出は緩めすぎたネクタイを少しだけ締めた。鏡で確認をすると、そんじゃお先、と言い残して、部室を出て行った。 なんだ、そんな周りがいうほど悪い奴でもなかったんだな、というか、いい奴だったのか、あいつって。と、そのとき僕は少しばかり感動したのだった。 それから間もなく、ダブルスのペアを向出とペアを組むことになったのだ。サーブの下手な向出と、サーブだけは上手い僕との組み合わせは、表向き、戦略上の利点から、という理由だった。しかし、厄介者同士の捨てペアとして組むことになったというのは、誰の目にも明らかだった。 最初こそ、柔軟体操やストレッチで身体を密着させるとき、体臭のことをいわれやしないかと、内心ドキドキしていたのだが、「身体が硬い」と笑われたことがあっただけだった。 向出とそれなりに打ち解けることができたのは、懐かしのアニメーション、『純粋魔法幼女結晶アカンサス』に出てくる必殺技、ガンダーラ・トルネードのお陰だった。ひねりを加えた向出のスマッシュを見た僕が思わず「ガンダーラトルネードみたいだ」と呟いて、「ヤっちゃんもアカンサス知ってんのかよ! なっつかしいねえ」と向出があっさり同調して、アカンサス話で盛り上がった。 向出が破天荒の代名詞だということを頭で理解していたつもりだったが、突然金髪に染めて来たときには、驚きもし、呆れもした。そして、妙にドキドキもして、絶句した。似合ってるなあ、という気持ちが強くて、どうにも言葉にならなかったのだ。「どうよどうよ。ヤっちゃん、これで俺もなかなか、イケてるだろ?」 僕がうんともううんともああともイケてるとも言いかねて見惚れてる内に、顧問に見つかった向出は大目玉をくらっていた。どうやら、担任から既に話を聞いていたらしい、非常にねちねちとした口調だった。そのとき、僕は胸に鈍い痛みを感じていた。ペアである向出が怒られているからだ、単にそれだけのことなのだ、と。止まない鼓動に、言い聞かせていたのだった。 向出が、女と付き合っているらしい、との噂が部に広まったのは、それからすぐのことだった。 キャラメルミルク色に焦げた空が、ほろ苦い色彩で、暮れていこうとしていた。糸を引くようにかすんだ雲の群れは、今にも黄昏に飲み込まれてしまいそうな、まだらの小島となって、ふわふわと浮かんでいた。 クールダウンを終えた僕は部室棟に向かって歩いていた。練習を終えて、部室棟に辿り着くまでの、このわずかな時間が、僕は好きだった。心地よい疲労感とともに、さやかな風、背筋がぶるりと震えるような景色が、いつもここに訪れるのだ。 センチメンタルな気分のとき、美しすぎる空というのは、毒にしかならない、と思う。心をすべて奪い去られてしまうような気がするから。自分がこの場所に、しっかりと立てていないような気がするから。空が兆してくれる美しさはきっと、無条件の優しさに他ならないのだ。 ――そのピアスってさ、彼女からの贈り物なの? さりげなく笑いながら、からかうように笑いながら、そう問うことができたなら、ポンと背中を叩くようにして、そう問うことができたなら、どれだけ楽になれるだろう。 質問の重みは、それを出す側にしか決められない。出される側の重みは、それをどう受け取るかで決められる。渡されていくそのときに起こる、問いの一瞬の無重力。果てしなく自由で、それでも、それは苦しいに違いないのだ。 逆光が、校庭を染め上げている。伸びた影たちが、向きだけはそのままに、夕焼けの中を走り回っている。影の形は、細長くなったり、横に膨れたり、様々に変化していた。 しかしその中に、ぼうと伸びているだけの影が、ふたつあった。その影の濃さに、吸いこまれるようにして、目線を上げた。校庭の隅にぴいんと伸びた影がふたつ。その内のひとつが示している背中は、向出百矢に違いなかった。 僕は、眩しさに目を細めた。向出の目の前にいる人物は、どうやら、陸上部のマネージャーであるらしかった。マネージャーの彼女の、首から上だけが、忙しなく動いていた。視点が定まらない、というより、努めて、彼女は眼前の向出と目を合わせないようにしていというる風に、僕には思えた。 向出が差し伸べた手を、彼女は振り払った。一瞬だけ、ふたつの影が繋がった。彼女は向出に背を向けて、それきりだった。微動だにしなかった。 向出はしばらくその場にうなだれていた。やがて、向けられた彼女の背中に、自分の背中を向けた。一度だけそっと振り返ると、ゆっくりと歩み出していた。当然ながら、その方向をじっと見ていた僕と、すぐに目が合った。向出は、困ったように頭を掻いた。しかし、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。「あえなく撃沈さ。渾身のスマッシュを、ネットの真上で容赦なく叩き落とされた気分だ」 そういって、向出は笑った。痛々しい笑顔に思えた。その表情にいつものふてぶてしさはなく、静けさだけ、ひっそりと浮かんでいた。無理矢理笑っているようにも、泣き笑いの顔のようにも、僕には思えた。「その、さ。ピアスの穴だけど、彼女のために空けたの?」「近付きたかったんだ。少しでも。それだけだ」 それ以上、向出は何も言わなかった。肩を少しだけ竦めると、真っ直ぐに空を見上げた。つられて、僕も空を見上げていた。センチメンタルを際立たせる、光が滲むような空が、広がっていた。 向出の想いが、叶わなかったこと。その喜びと悲しみが、もうもうと渦を巻いていた。それは覗き込めばもう戻れることのない速さで、ぐるぐると回り続けていた。その渦の中心にいるのが、紛れもない僕であることを、僕は知っていた。ああ、そうなのだ。向出にずっと憧れていた、僕がいた。向出を好きな僕も、ずっとそこにいたのだ。 渡す重みと、渡される重み。問いの一瞬の無重力。それでも、確かめなければ、前に進むことはできない。そうでなくては、自分の気持ちが、きっと知らないどこかにまで、旅立ってしまうから。「……僕も。空けて、みようかな。ピアスの穴」「ナイス、フォロー。サンキュな」 微かに、その声が、震えていた。 君の耳たぶに、ぽつんと空いている小さな穴を思う。そこにいた誰かは、もうそこに留まることはない。それは、不在の証なのだろう。だからこそ、僕は君の空白を埋めたくて、恋しくて。すぐ側で、ともに夕空を見上げ続けている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー遅刻すいませんごめんなさいごめんなさい。5000文字とちょっとです。4、5時間かかってしまった。そして中二病がひどくてごめんさいごめんなさい。誤字発見したので修正しました。しかもお題を誤字ってしまいました。ごめんなさいごめんなさい。
久し振りに参加させていただきました。 アルェ、こいつは驚いた、ゆりがない! と思いました。 男装のゆりものネタを書けばよかった、とちょっとだけ後悔しました。 どうでもいいですが、異性装ネタは志村貴子の放蕩息子を思い出してしまいます。 以下、感想です。>ウィルさん 会話のテンポがたまりません。突っ込みとノリ突っ込みがちゃんと使い分けられてこれぞギャグ・テイストだなと思いました。しかし、カオルは攻めのように見えていざとなると受けっぽいなあと思いました。いざ観音寺が一念発起したとき、やめてといいながら何もできない様子が目に浮かびます(って浮かんでどーするという話ですが)。 けほんけほん、横道にそれかけましたが(それも畜生道っぽい道ですが)、妄想の余地があり楽しませてもらいました。そして、この長さでこの人数のキャラをきっちり書き分けたのは素晴らしいなと思いました。>春矢さん ああ、これは情緒だと思いました。 えてして、BLにはふぁんたじーが去来するものと思っているのですが、これは実に情緒的な作品だなという風に思います。くもの糸の使い方がいいですね。作品全体に漂っている疲労感というか、閉塞的な感じがなんともいえません。設定も書きすぎずいい塩梅で、終わりも、じいんとした余韻が残って、実にいいなと思いました。>脳舞さん 長さを感じず、するするすると読めました。会話と地の分のバランスがよくて、コメディタッチの展開にも引き連れられて、ぐいぐいお話を楽しむことができました。女装恋愛ものと思いきや……というジャンルミスリードも面白かったですし、主人公が微妙に深みにはまっていっている様も滑稽だなあという風に思いました。作中のアニメには絶対ウルトラバイオレットというキャラが登場するにちがいないと思いました。>二号さん 熟年カップルがキターと思いました。(御作の場合はその片方が、ですかね)作中に漂っている不安感がいいなと思います。このままでいたいと思うあまりに何かをしなければならない、もっとよくあるために何かをしなければならないというのは、物悲しさがありますね。現在か、未来か。未来のために現在なのか。作品の内容はすごく日常がメインなんですけれども、不穏さが時折過っている感じが、なんともいえずよかったです。>自作の反省 王道を驀進してしまった。反省はしないが後悔だけしておこう。
ウィルさん テンポのいい会話、コミカルな演出、動きのあるキャラクター。ううむ。うまいなあと思いました。 >「勝負方法は文芸部らしく、」「わかった勝負だな」「作品『クモの糸』に基いて」「お前が勝負するといったんだぞ」「旧校舎にあるクモの糸を」「とりあえず、歯をくいしばれ」「どれだけ集められるか……近いぞ、観音寺」「倒れろ」 笑いました。観音君ひどいですね。 難癖をつけるとするならば、後半になるにしたがって篠宮先輩の影が薄くなってしまっているような印象を受けました。それでも登場人物にそれぞれに個性がありますね。ううむ。見習いたいです。 春矢さん くもの糸と二人の異質で不安定な関係をリンクさせたのは、とてもうまいと思いました。 和人君はゲームに熱中するあまり、幸裕君の言葉に彼の持つ不安を見出せなかったのかな読ませていただきました。この読み方を前提として考えると、ラストで一人残された和人君についてはもう少し詳しく描かれていたほうが良かったかなと思いました。読み方を間違ってたらごめんなさい。 二人の会話で和人君が、うん、としか言わない演出、すごくいいとおもいます。こういう発想、すごく見習いたいです。 脳舞さん くう、ストレートで来ましたね。女装についての描き方が良く書かれていると思います。知識量と、女装イベントまで持っていく構成力に嫉妬です。 お題の使い方もやられました。お題と任意を自然に全て使っていますね。やられた、と思いました。 境さん これも、ピアスの穴と、向出君の失恋、それと安手君の間接的な失恋(?)による心の変化とがうまくリンクしていますね。 加えて地の文の描写もたくみですね。綺麗な描写だと思いました。 ただ今回のお題的にもっと安手くんはやおやおしてもいいかななんて思ってしまいました。わっはっは。 自作 愛については語れませんでした。わっはっは。面白いテーマだと思っているんですがいかんせん書ききれてないですね。くそー。 でも皆さんの作品を読んで、とても勉強になったと思います。またやりたいです。
>> 脳舞さん男の娘来たー(゜▽゜)! って感じですね笑こんにちははじめまして、春矢です。テンポよく、ほのぼのと読んでたんですが、最後、ッアーー! なオチで笑ってしまいましたw魔法幼女っていう言葉を浮かせずに使ってるのがすごいなぁと思いました。楽しい物語ありがとうございました!>> 二号さんこんにちは!落ち着いた大人の物語、とても好きです。自分のことじゃなくて、相手のこと、子供のことを大事に思ってるんだなーっていうのが伝わってきました。大事なものだから、不安なことや心配なことがたくさんある、そんな感情描写がとても丁寧に描かれていて、登場人物に寄り添って物語りを読み進められました。>> 境さんムカデとヤスデ擬人化ホモ物語!!!まさかチャットでお話してたことほんとに書いてくださると思いませんでした、ありがとうございます^^ムカデとヤスデの擬人化でも、美しい文体で、友情と恋心を語るとこんな素敵な物語になるんだと、驚きました。境さんの擬人化の才能に嫉妬します。そして、ピアス穴の使い方がとても上手だと思いました。感想終わり!
>ウィルさん 女装という一捻りがあるのがコミカルなテイストと合っていて良いですね。秋穂と奈緒、どちらかは別にいなくても……と思ったのですが、先の一捻りのためには女性が二人必要なのでそういうわけにもいかなそうで。もう少し喋らせてほしいというか、話に絡ませて欲しかったかなあと思います。それにしても透の非道っぷりが凄すぎて面白いです。容赦がないにも程が。>春矢トタンさん 不思議な雰囲気ですね。最初は幸裕が蜘蛛の化身(というか、擬人化? もちろんオス)か何かだと思ったのですが、さすがにそれは違いました。「くもがいるよ」と気を惹こうとしたセリフだけで蜘蛛のいる描写がないのでそんな埒もない想像になってしまったのですが、それこそ拾ってきた猫が人間化して「ご主人様にゃん」みたいなことを喋り出すような、何のエロゲーだかわけがわかりません。これって想いは一方通行なのでしょうか。せつなくて好きです。>二号さん おとなのお話、という気がします。いや、別に性的描写があるからというわけではなくて。 雑居ビルの一室はいわゆるハッテン場ですね。何故かこういう場所には小汚い中年の男性が妙に似合いますね。 康介と純一の間の接触が描かれていないのは、そういうものがなくてもちゃんと繋がっている関係だということなのでしょうかね。異性であるならともかく、自身を同性愛者だと認識している同士でこの距離感はなかなか珍しいような気がします。そんなことをしても子供ができるわけではないから、という諦観も少し入っているようなやるせなさもあり、それだけに悠太を加えたこの微妙な関係が崩れることに対する怯えもあって、苦い話でした。>境さん ご自身で中二病がと仰っているのは照れ隠しだと思うのですが、正直に言えば読んでいてこっ恥ずかしい気持ちになります。ただし、心地良いこっ恥ずかしさなのですが。青春って素晴らしい。 ピアスの穴は心の穴、でも穴があるからこそ埋めることも可能……あれ、なんか変な意味になんてなってませんよね? 今回の作品の中で群を抜いて文章が綺麗なことにちょっとした嫉妬が。>自作 変態だー。縛りで涼の性別がバレバレなので、なんというかドッキリに引っかかる芸能人をニヤニヤしながら眺めるテレビ番組のようなつもりで書いてみました。アイメイクの下りは書いている私が楽しいだけなのでバッサリとカットして良かった気がします。あと後半が雑。 バイオレット(すみれ)はゲイの色だとか、どうでもいい小細工が入っていますが、別に何に生きているわけでもなくて本当にどうでも良かったです。もっと短くまとめる力が欲しい。 境さんが仰られているように、意外にも百合がありませんでしたね。私、別に縛りに関係なく参加した三語の三回に一回くらいは百合を書いているような気がするのですが、今回は珍しくBLを書いてみました。とはいえ、ビジュアル的にはやっぱり百合方面。同性愛ってSF設定の話だと作りやすいんですよね。安易ですけれど。一番の理由は単純に好きだからではありますが。