『水底のひかり』 ( No.1 ) |
- 日時: 2012/02/21 20:48
- 名前: 沙里子 ID:ZM6KeOts
水無月さんは箸のつかいかたがとても上手い。いつも持ち歩いているという漆塗りのうつくしい箸を、男の人の割にほっそりした指で器用にあやつり、どんな食べものもこぼさず口まではこんでゆく。 「てる子さんの指は箸よりもペンを握るのに適しているんですよ」 飴色のカウンターテーブルにちらばった天ぷらの衣を見ながら、水無月さんはなぐさめるように言った。 「それより、どんどん食べましょう。大将、山菜てんぷら盛り合わせもうひとつお願いします」 てる子さんも好きなもの頼んでくださいね、と言われ、わたしは熱燗とひれ酒をふたつずつ注文した。時間帯のせいか客はまばらで、カウンターの奥の厨房から皿を洗う水音がしずかにきこえてくる。 店の暖簾をくぐるときに水無月さんが、いつもひとりで来るお店なんです、と言った。 「他の人にはずっと内緒にしていました」 「どうして?」 「行きつけの隠れ家みたいなお店って、なんだか素敵だと思いませんか」 そんな隠れ家にどうしてわたしを連れてきてくれたのだろう、と思った。けれど深くは考えない。無理やり思考を停止させて、目の前にどんと置かれた山盛りの天ぷらに意識を集中させた。 ふきのとうの天ぷらにさっと抹茶塩をかけて、ほおばる。香ばしいにおいが口のなかに広がった。衣を噛みしめるとさっくりとくずれ、春の植物のまろい苦みがじわりと染みだしてくる。 「うまいですか」 お猪口をかたむけながら横目で頷くと、水無月さんは微笑んだ。
池のある庭つきアパートに引っ越してからもう一年が経つ。庭のあるアパートを探していた。十冊目の自著の売れ行きが順調だったおかげで貯金もある程度貯まり、この機会に実家から出ようと決心したのだ。幸い、建物はすぐに見つかった。しかも庭だけでなく池まであるという。半径五メートルほどの小さな池で、錦鯉の飼育が趣味の大家が何年か前につくったものらしい。その日のうちに契約を交わし、翌日わたしは両手に持てるだけの荷物をかかえて部屋を訪れた。 トラックで届いたダンボールの包みを剥がしていると、チャイムが鳴った。大家かと思い、出てみると知らない男性が立っていた。大人の男性がもつ雰囲気、としか形容できないなにかを彼はまとっていた。すらりと背が高く、目は細い。あっけにとられていると、頭を下げられた。堂々とした、完璧なお辞儀だった。 「大家さんに、新しい入居者さんが来られたと聞いて挨拶に参りました。隣の部屋の、水無月と申します」 挨拶はこちらから行くものだと思っていたわたしが慌てて名乗ると、彼はおどろいたように目をひらいた。 「あの、そのお名前、本名ですか」 「ええまあ、一応」 「本物の、作家の方にお会いするのは初めてです」 握手された。うろたえながらもなんとかお礼を返すと、彼は何事もなかったかのようにごみ捨ての曜日や回覧板の順番、その他諸々を説明してから帰っていった。それからも彼はたびたびわたしの部屋に訪れた。夕飯ののこりものだというやけに凝ったおかずを持ってきてくれることもあれば、立ち話だけして帰る日もあった。 他意があったわけではない。すくなくとも、わたしの方ではそのような類のことは全く考えていなかった。何よりも仕事が忙しくて、毎日それ以外のことはほとんど考えていなかった。だから水無月さんに別居中の奥さんがいると聞いたときも、驚いたものの動揺はしなかった。 「その、いろいろあったんです。たいしたことではないのですが」 そのときわたしたちは、池の側にあるベンチに腰かけて月見をしていた。わたしは何か気の利いたことを言おうとしたけれど、何も浮かばなかった。肝心なときに言葉が出てこないというのは物書きとしてどうなんだと自問しつつ、かといって軽々しく慰めの言葉を口にすることもためらわれ、仕方なく、持ってきた鞄から缶のお酒をとりだして水無月さんに手渡した。 「今度、きちんと飲みにいきましょう」 わたしが言うと、水無月さんは「楽しみにしています」としずかに微笑んだ。それから長編に行き詰まったりエッセイのネタが尽きると、わたしは水無月さんを誘ってお酒を飲みに行った。水無月さんの方からもときどきわたしを誘ってくれた。けれどそれ以上わたしたちの関係は進むことはなかった。互いに細心の注意を払っていたのだと思う。境界はとても曖昧で、ふとしたことでくずれてしまう。あからさまに不自然な均衡を見ないように、けれど丁寧に保ちつづけた。 おいしいものを一緒に食べる相手がいるのはいいことだ。そう思いながらも、毎回わたしは水無月さんのうつくしい手元から目を離すことができないのだった。
お酒でほてった体を冷やすため、河沿いを歩いて帰った。 満月の夜だった。蜜色にかがやく月の輪郭は薄雲に滲み、そのやわらかいひかりを河の水面に映していた。対岸にずらりと並ぶ工場の煙突が、赤い光を瞬かせながら、澄んだ夜空にむかって白い煙を一心に吐き出している。風もないのに、煙のすじが大きく曲がっていた。 「てる子さん、あれ」 ふいに水無月さんが立ち止まった。ひっそりと夜に沈んだ商店街で、一軒だけぽつんと黄色い光が灯っている。果物屋だった。 わたしたちは吸い寄せられるように近づき、店頭をのぞきこんだ。裸電球の光の粒を浴びた果物たちは、どれも濡れたようにあざやかだった。眼鏡をかけたお爺さんがひとり、奥の帳場机で書きものをしているのが見えた。 「なにか、買いますか」 言うと、水無月さんは腕を伸ばして檸檬をえらんだ。 「果物屋といえば、これでしょう」 「そうなんですか」 「ええ。いいですよ、檸檬は」 そこでわたしと水無月さんは置いてあるだけの檸檬を買った。少なからず、わたしは酔っていた。紙袋を抱えたわたしたちは、わたしたちのアパートに向かって歩き出した。ひと気のない大通りを信号の光がひそやかに照らしていた。 「てる子さん、僕は文章を書く人の手が好きです」 唐突に、水無月さんが言った。足取りもしっかりしているし頬も紅潮していないけれど、たしかに彼も酔っていた。わたしはうつむいたまま黙っていた。水無月さんの履いている革靴が、一歩踏み出すごとに黒くつやめいた。 アパートの部屋の明かりは、六つ中四つが消えていた。わたしと水無月さんは檸檬の袋をかかえたまま、夜露で湿ったベンチに座った。黒く円い鏡のような水面に、ぽっちりと橙の月が揺れていた。粘度のありそうな暗色の水をかきわけるようにして、鯉たちがゆったりと泳ぎぬけてゆく。そのたびに月がこまかく震えた。 突然、水無月さんが立ち上がった。両手にひとつずつ檸檬をにぎっている。そのままずんずんと池の縁まで歩いていき、そこでしゃがみこんだ。 「水無月さん?」 思わず腰をあげかけると、水無月さんは右手にもった檸檬をそっと手放した。あまりに自然な動作で、一瞬、彼が何をしたのか分からなかった。支えを失った楕円の果物はそのまま落下し、ぼちゃんと音を立てて池に落ちた。おどろいた鯉たちが、ざわざわと隅に逃げてゆく。 「てる子さんも」 手渡されたもうひとつの檸檬は、ほのかに温かかった。縁に立って池を見下ろしながら、大家さんに見つかったらどうなるんだろう、などとぼんやり考えた。きっとどうにでもなるだろう。水無月さんがいるのだから。 わたしは腕に力をこめ、檸檬を遠くに放った。つもりだったが、案外手前の方で、飛沫だけを派手にあげて沈んでいった。水中に落ちてゆく檸檬は、それでもあざやかさを失わない。昏い水底から淡い燐光を放つ果物はうつくしかった。 ふたりで檸檬をどんどん池に沈めていった。最後のひとつを投げた水無月さんは、そこで立ち尽くした。わたしもそのすこし後ろで、池を眺めた。夜をそのまま抽出したような、こっくりと澱んだみずたまりのなか、たくさんの檸檬が月からうけた光を反射して光っている。色味はすでにほとんど消え、どの檸檬もただ白くぼんやりとかがやいていた。 投げ入れたとき飛沫をうけたのか、水無月さんの手は濡れていた。白い指の先から、ほたりほたりと透明な雫がしたたっている。腕を伸ばせば、届きそうだった。今、その手に触れたら、彼は何を言うだろう。きっと黙って握り返してくれるにちがいない。なのに、いつまでたってもわたしの手は固まったようにうごかなかった。うごかす気も、なかった。何しろ、わたしの指は、人の手をにぎるのに適していないのだから。水無月さんの大きな背中をじっと見つめる、それだけで、本当に精一杯だった。これ以上、幸福にも不幸にもなりたくなかった。 水底の檸檬は、すこしずつひかりを失くしてゆく。
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約3500文字。 構想半日・執筆二時間程度です。 読んでくださった方、ありがとうございました。
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