『雨だれ』 ( No.1 ) |
- 日時: 2012/02/15 20:06
- 名前: 沙里子 ID:BpSXFJz.
如月さんのことを思いながらまばたきをしたら、一粒の涙がこぼれた。 落下してゆく雫をてのひらにつかまえても、ゆびのすきまからまたこぼれだし、糸水のようにただゆるゆるとどこまでも引きずられてゆくのを、どうすることもできずに眺めていた。 窓の外は夜。雨の夜だった。けぶる煙がちいさな浴室を満たしていて、わたしの白い裸体をあまやかにつつんでいる。浴槽の底にはいろんな色のビー玉が敷きつめられていて、ふむたびに足の裏がにぶくいたむ。流れ出ようとする湯をせき止めていた栓をひきぬくと、ガラス玉たちが音を立てて水の底に落ちていった。すこしずつ減っていく温水に浸りながら瞼の裏にショパンの雨だれをえがいた。足元に音の、光の粒が降りつむ。濃い橙や淡い檸檬いろの光の層ができてゆく。 この曲を教えてくれたのは如月さんだった。三鷹の天文台を見学した帰り道、如月さんは並んで歩きながらそっと片耳のイヤホンを貸してくれた。 わたしたちは同じひかりで鼓膜を震わせながら、いま見たものたちをゆっくりと思い出していた。太陽と月、星とブラックホール。彗星。銀河。 「なにかあたたかいものがたべたいですね」 如月さんが言った。 「スープとか」 「前、読んだ本に魚のスープが出てきたんですけど」 「魚の」 「ふかいところにいる魚の」 「リュウグウノツカイとか、ですか」 「あんこう鍋もいいですね」 「鯛がたべたい」 とぎれることなく鳴り続けるピアノの淡い音にのせてぽつりぽつりと、会話ともひとりごとともいえないような意味のないことばをうみだしてゆく。結局ふかいところにいる魚のスープは飲まなかった。かわりにつめたい果物を買い、その場でふたつに割ってほとばしる清冽な匂いを肺いっぱいに吸いこみながらふたりで食べた。さむさで指がまっ赤になった。 如月さんがあまいものをたべたいと言ったので、材料だけ買って如月さんの家でチョコレート菓子をいくつかつくった。クッキーと生チョコとトリュフと、ひととおりつくってお腹におさめたあと、「そういえばもうすぐ十四日ですね」というと如月さんも「そういえば」と頷いた。 「最後に、なんだかふつうっぽいことしましたね」 「ふつうとは」 「チョコレート、つくって食べたじゃないですか」 「それが、ふつう」 「そう。なんだかふつうの恋人同士みたいで」 それからなんだかしんみりしてしまって、互いに何も言わないまま後片付けをして別れた。家に帰っても指先にはまだ果実のにおいがのこっていて、爪の先を舌で舐めているうちにだんだん悲しくなってきて、それでも指を噛んでいたら血が出てきた。鉄の味と柑橘の香りと如月さんの気配とすべてがないまぜになって、銀河、とほうもなくふくらみつづけてゆくこの世界で今夜もまた一対の恋人たちが別れた、そんなふうに考えるとすこしだけ楽になって、でもこらえきれずに一粒だけ涙をおとした。 くるぶしまで埋もれた光の結晶は、瞼をあけると嘘のように消えてしまった。とたんに流れこんでくるのはさやさやという雨音。 如月さんは雨が好きだった。ラジオの天気予報で雨のしらせを聞くたび嬉しそうに、あしたは雨だって、とわざわざ言いにくるほど、如月さんは雨が好きだった。思いでのなかの如月さんに、そうですね、よかったですねと返し、目を瞑った。浴室に雨の音がひびいている。均質に、ひそやかに。くちのなかでそっとつぶやいた。 ねえ、如月さん。雨が降っていますよ。
-----------------------------
即興で一時間弱。1444文字。 久々の三語楽しかったです、ありがとうございました。
|
|