Re: 即興三語小説 ―第89回― 三語というお年玉はいるかい? ( No.1 ) |
- 日時: 2011/01/03 10:05
- 名前: 沙里子 ID:UGp.7PIU
風邪をひいた。 朝の七時、鳴り響く目覚ましを止めようと起き上がった瞬間に気づいた。 関節が軋むし、喉も腫れている。瞼は目やにで開かないし、体全体が重くてだるかった。手足の先に鉄球を仕込まれている感じ。 睫毛の先にまでこびりついた脂を爪でこすって落とし、水を求めて布団から這い出した。立ち上がると眩暈がした。頭の奥ががんがんと痛み、体の核が熱い。 何とか台所に辿りつき、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを掴んだ。ついでに製氷機の氷をひとつ口の中に入れる。 幸い今日は、大学の講義を入れていなかった。汗に濡れたシャツを脱ぎ、ぶ厚いパーカーを着こんで再び布団に潜る。 目を閉じると、温かな闇に包まれる。けれど意識が落ちる気配はなかった。 仕方がないので、風邪を引いた原因を考えることにした。 昨日は朝の十時に起きて、そのまま大学へ行った。昼食を挟んで講義をふたつ受け、それから校内清掃のバイト。帰りに丸善に寄って正月用の餅を買った。 大したことしてないじゃん、私。どこで風邪なんか拾ってきたんだろう。 うつらうつらとしながら窓の外に目をやる。白く煙った空気の向こうに並んだ木立と、曇り空が見えた。
風邪をひいたときは決まって変な夢を見る。子どもの頃もそうだった。 気がつくと野原に立っていた。空はピンク色で、草は群青に染まっている。流れる川の色はオレンジだった。 意味が分からない、と首を傾げながら歩いていくと、小さな人影がいた。ちっちゃい私だった。 不機嫌そうに歪んだ眉と濁った瞳。髪は油でてかてかと光っている。十歳くらいだろうか。 「あんたいくつ?」 ふいに訊かれ、驚いた私はうろたえながら「にっ、二十一」と答えた。 ちっちゃい私はなぜか不服そうに私をじろじろと眺め回し、そして忌々しそうにそっぽを向いた。我ながらむかつくガキだ。 むかつくついでに右手で頬をつねってみた。けれどいくら強くつねっても目が覚めない。 「ああ、それ迷信だよ。じっと待ってなきゃ」 ちっちゃい私が言うので、仕方なく私はその場に腰を降ろした。毒々しいカラーリングの世界が目に痛い。 ちっちゃい私は黄色いレインコートを着て赤い長靴を履いていた。実に子どもらしい派手さだ。 「なあ、でっかいあたしも風邪引いてるのか?」 赤い長靴が目の前で揺れる。つるんとした感触のゴム製。 百均で充分だという母に泣きながら頼み込み、デパートの雑貨屋で買ってもらったやつだ、きっと。 「風邪……うん、風邪引いてる。あんたも?」 ちっちゃい私はまっすぐ頷いた。 「インフルエンザ。昨日、学級閉鎖になって喜んでたらあたしもかかってた」 うわードンマイ、と言うと、ちっちゃい私はふて腐れたようにうつむいた。 「でっかいあたしって今何してるの?」 「大学行って時々バイトもしてる。そうだ、明日、仕事なんだ」 「じゃあ今日中に風邪治るといいね」 ぽつぽつとした会話の後、しばらく沈黙が続いた。 やがてちっちゃい私が口を開いた。 「あーもうそろそろ起きる気配がする」 どぱ、と音がして、ちっちゃい私が傘を開いた。くるくると回しながら言う。 「ママが仕事から帰ってきたっぽい。じゃあばいばい、でっかいあたし。さっさと彼氏作れよ」 次の瞬間、開いた傘だけ残してちっちゃい私はいなくなった。と同時に私も目が覚めた。 染みのある天井が目に入る。外はもう薄暗くなっていた。試しに起き上がってみると、さっきより大分楽になっていた。 変な夢だった。しかもやけに鮮明に覚えている。 私がちっちゃい私だったとき、夜中に熱を出して泣いた記憶があるのをふいに思い出した。 もしかして、あの毒々しい色をした野原が怖かったんじゃないだろうか。おまけに自分そっくりの女もいる。 負けず嫌いなところは今と変わってないな、と私は笑ってみた。少し涙が出た。 そういや最後に泣いたのはいつだっただろうか。覚えていない。 少なくとも大人になってから泣いたことはない。慟哭する必要がなくなったのだ、恐怖や悲しみを自分の中に閉じ込めておけるようになったから。 溜めた涙を流す機会もないから、だんだん体の調子が悪くなる。風邪を引く。夢を見て、また元気になる。これを「風邪と夢スパイラル」と名づけよう。ぼんやりとした頭で考えた。とても眠いのだ。 先ほどの夢の輪郭は既にぼやけている。会話の内容もよく思い出せない。 けれど、もしまた風邪をひいていつかの私と再会したときは、迷わず私から声をかけてあげようと思う。 ついに眠気に負け、私は目を瞑った。今度はきっと、夢を見ない。
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新TCでは初参加になります、沙里子です。一時間で1850字程度。 皆様も風邪には充分お気をつけ下さい。
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