Re: 即興三語小説 -秋めいたら、太るんだよな. ( No.1 ) |
- 日時: 2014/10/21 01:47
- 名前: 鈴木理彩 ID:Oun7vuw2
人の、話し声がする。何を言っているのかまでは分からない。けれど、そのくぐもった声は確かに隣の部屋からしていた。気だるい睡魔は起き上がる気力を奪い、夢うつつに話し声を聞く。その時、不意にはっきりと声が聞こえた。 「やはり、あの者を贄にすべきです!そうすればあの方もきっと気を静めて下さいます!」 ――贄?あの方? 不穏な単語の羅列に、一気に意識が覚醒する。見慣れない大きな柱と、仄かない草の香り。わずかな混乱の後に、自分が旅行先の旅館に泊まっていたことを思い出す。ほっと息をつき、注意深く立ち上がる。息を殺して近付き、隣の部屋に繋がる襖に手を掛ける。耳を襖に近付ける。何も聞こえない。もう行ってしまったのだろうかとか、この襖のすぐ向こうで待ち構えていたらという考えもちらりと過ったが、今は恐怖よりも興味が優っていた。少しだけ、少しだけ、と誰かに弁解するように言い聞かせながら、わずかに襖を開く。 そこには、自分の部屋と同じ光景があった。 表面の凸凹した木をそのまま使った大きな柱と、部屋中に敷き詰められた美しい色合いの畳。広い部屋の奥の小さな床の間には薄紅の花が活けられている。 けれど、そこに人の気配はなかった。確かに人の声が、それも複数の人の声がした筈なのに。何とも知れない気持ち悪さを必死に夢とごまかし、逃げるように部屋を後にした。
「お客さん、そりゃあ夢ですって。いくらなんでも、この時代に生贄なんて、あるわけないやないですか。何か要望があるのなら、ちゃんと言うて下さいな。そんな悪評流されたら、いい迷惑ですわ」 たどり着いたロビーで偶然居合わせた人に先ほどの不気味な体験を話していると、やってきた若女将に怒られてしまった。確かに旅館側にしてみればいい営業妨害である。謝ると、若女将は渋い顔をしながらも去っていった。角を曲がって見えなくなった瞬間、背後で大爆笑が起った。 「いやあ、気の強い姉ちゃんだ。災難だったな坊主」 「良い退屈しのぎになったぜ」 「坊主、何か他に面白い話はねえのかい」 口々に言われ、慌てて席を立つ。いささか不満げな人達に頭を下げ、逃げるようにそこから立ち去る。けれど部屋に戻る気にはなれず、ぼんやりと歩きながら、着いた場所は旅館の庭に面した場所だった。露天風呂へと続く小さな渡りの側で、紅葉の葉がちらちらと舞っている。露天風呂に入りに来た時には気付かなかった美しい庭に見とれていると、不意に肌がざわりと粟立った。背中に冷や水を掛けられたような悪寒と共に、「ぽちゃん、ぽちゃん」と水滴の滴る音が聞こえてくる。妙に大きく響くその音は、しかし二、三度だけだった。それでも震えは収まらない。体中が痺れたように凍り付き、頭の中だけが異様なまでに冴えわたる。その時、視界の端を何かが掠めた。鬼の面を被った、それは9人の男たちだった。皆が揃いの柿渋色の衣に身を包み、長唄のようなものを口ずさんでいる。やがて唄の後半に差し掛かると、奥からさらにもう一人、がたいのいい男が現れた。腕に山吹色の衣を着た華奢な女を抱いている。未だ年若いその女は恐怖に両の眼を見開きしきりに身を捩るが、自分の倍ほどの男に抑えられて絶望の表情を浮かべる。やがて、一人の男が庭の奥の竹の覆いを取り払った。そこにあったのは、古びた井戸と、苔むした小さな祠だった。女を後ろ手に縛り、草で編み込んだような袋で頭部をすっぽりと覆う。やがて唄が終わると、男たちは祠に礼をし――女を、井戸へ放り込んだ。裂くような悲鳴はやがて止み、元の静けさが戻る。 男たちが片付けに勤しむ様子を見ながら、不意に妙な息苦しさを感じた。首筋に黒い髪のようなものが絡みつき、徐々に空気を奪っていく。目がチカチカし、甲高い耳鳴りが大きくなる。意識が途切れる寸前、視界の端を柿渋色の衣が掠めた。
「――さん、お客さん!こんなところで寝ないで下さい!」 大きく揺すぶられてわずかに目を開ける。アップで映ったのは、ここの若女将である。息苦しさも寒気もすでに消え、温かい光が廊下を包んでいる。 「あれ、庭は……」 「庭?どこにそんなものがあるんですか。部屋は廊下を曲がった向こう、ロビーはそこをまっすぐ行った先、露天風呂ならこの廊下の先です。どこにも庭なんてありません」 言われてみれば、確かに廊下だけだったような気がする。だから庭にも見覚えがなかったのだろう。鬼の形相の若女将に追われて部屋に戻ると、妙な疲れが襲った。夢だった気さえする。気を紛らわせようと読みかけの本に手を伸ばした瞬間、首筋がちくりと痛んだ。ケータイを広げて、カメラを起動する。首筋には、赤黒い帯状のものが、みみずばれのように浮き出ていた。視界の端を、柿渋色が掠めた気がした。
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