ともちゃんの恋 ( No.1 ) |
- 日時: 2013/09/24 12:49
- 名前: 野中 ID:NOuoA1HE
ともちゃんがこの頃、真夜中にひっそりと一人で起き出していることを、わたしは知っている。 時間はだいたい決まっていて、二時から三時ごろ。まず共用リビングの方から物音がして、次に台所の白熱電灯が点く微かな音がきこえる。わたしは布団のなかのあたたかい闇でうとうととまどろみながら、ともちゃんの出す音をひとつひとつ拾う。お菓子か何かの袋をやぶる音や、コップにお茶をそそぐ音、それからボリュームを絞ったラジオの音楽。台所の椅子の上で膝をかかえて、板チョコを齧っているともちゃんを、わたしは想像する。褪せた霜降りグレイのパーカーに、同じ色のルームパンツを履いて、茶色い短い髪をうしろで小さくひとつに結び、ぼんやりとラジオを聞き流しているともちゃん。うでにもあしにもおなかにも、しろくやわらかいマシュマロのような脂肪をたっぷりとまとったともちゃん。 彼女はいま、恋をしているのだ。そのふっくりとしたからだの内にある心臓を、桃色にはじける果実酒のような、仄かな苦みを含んだ、とろりと甘い感情でみたしているのだ。わたしは布団から抜け出して、リビングの方へぺたぺたと歩いていった。 「かなみ?」 足音に気づいたともちゃんが、ぱっと顔をあげる。口もとにべったりとこびりついたチョコレート。机の上にはアップルパイ、栞のはさまれた『地下室の手記』の文庫本、大福、かぼちゃの煮物、そしてこれから料理するつもりだったのか、生のままの赤い食肉とキャベツ、剥きかけの人参とじゃがいもが転がっている。音を消されたテレビの青白いひかりが、ひろげられた食べものの表面を白々と照らしていた。 「起こしちゃってごめんね。ちょっと、おなかがすいて」 はにかむともちゃんの、まるいほっぺをゆびでつつく。 「嘘。今日、夕ごはんいっぱい食べてたじゃん」 「うん。でも足りなくて」 言いながら、あとひとつ、とバタークッキーに手を伸ばして、ぺろりとたいらげる。 「止められないの。だめってわかってるのに、食べちゃうの。おなかがすくの」 ほおばったクッキーをていねいに咀嚼しながら、彼女はぽつりとつぶやいた。 「さみしいときって、いつもより、おなかがすくでしょう」 伏せられた瞳に、胸がぎゅっとしめつけられる。 彼女はいま、恋をしているのだ。決してかなわない、かなしい恋を、しているのだ。
好きなひとができた、とともちゃんに告げられたのは、一か月ほど前のことだった。ちょうどルームシェアを始めて一年が経つ日で、わたしたちは二人でささやかなお祝いのパーティをしていた。 「ほんとに? 相手はだれ? どんなひと?」 わたしは嬉しくて、思わず身を乗り出した。大学の入学式でともちゃんと出会ったときから、彼女がこういう話をすることは一度もなかった。彼氏ができたと言ってはよろこび、ふられたと言っては泣くわたしを、ともちゃんはいつも優しく見守っていてくれた。今度は、わたしがお返しする番だ。せいいっぱい、ともちゃんの恋を応援しよう。そう思っていた。 「年上のひと、なんだけど」 ともちゃんは妙に歯切れが悪かった。照れているのだと思いこんだわたしは、にこにことあかるく微笑みながら訊ね返した。 「いいなあ! 年上ってなんか素敵だよね。いくつくらい離れてるの?」 「二十五歳差」 え、と笑顔が凍りついた。ともちゃんは淡々と話しつづける。 「古和先生っていう、私の入ってるゼミの先生なの。今年で四十六歳。奥さんも、子供もいる」 わたしはどう返事をすれば良いのか、わからなかった。わたしの知っているともちゃんは、真面目で優しくてすこやかで、こんなドラマの中のような恋をする子ではなかった。 「ともちゃん、そのひとのことが好き?」 おそるおそる訊くと、ともちゃんはこっくりとうなずいた。その瞳は、きれいに澄みとおっていた。
あれからもうすぐ一ヵ月が経つ。ともちゃんは夜な夜な起き出しては、ものを食べるようになった。さみしさでからっぽになったからだをみたすように、いっぱいいっぱい、食べるのだ。 「好きなの」 ふいに言葉がこぼれる。テレビの方を向いたまま、ともちゃんは呟く。 「好き。好き。大好き。本当に、好き」 ともちゃんはぽろぽろと涙をこぼしはじめる。めったに泣かないともちゃんの涙。わたしの胸にも、かなしみがあふれる。唇を噛みしめて、彼女のぷっくりした小さな手をそっとにぎった。 「だめなことはわかってるの。先生には家族がいるし、私はでぶだし、もう本当に、どう頑張ったって無理なことは、わかってる。でも、じゃあ、この気持ちはどうすればいいの? どこに向ければいいの?」 おどろくほど大きな涙粒が、頬を伝い落ちる。それ以上見ていられなくて、わたしは目を瞑った。 「こんなに汚く食べ散らかして。私、ぶざまだね。かっこ悪いよね。ごめんね」 「そんなことない」 わたしはともちゃんの手をさすりながら言った。 「そんなことないよ」 うすく瞼をあげると、ともちゃんが泣きながらチョコレートを齧っているのが目に入った。唇をべたべたにして、静かにぼろぼろと泣いている。 その瞬間、わたしは彼女を美しいと思った。大好きなひとを強く想って、泣いている女の子。ひとがひとを好きだとおもう気持ちが、ぶざまな訳ない。かっこ悪くなんかない。ともちゃんの心は、きっとこの世の何よりも美しい。 最初から絶対にかなわないとわかっている恋。誰も悪くない。だからこそ、こんなにもかなしい。かなしくて、うつくしい。 鼻をすすりながら、ともちゃんは言った。 「でもね、好きにならなければよかったとは、思えないの。こんなに苦しいのに、どうしてだろうね」 にぎった手に力をこめながら、いつかこの子が幸福になれますように、とわたしは願った。この恋はきっとかなうことなく散るのだろう。頭ではわかっている。それでもどうにかして、幸せになってほしかった。先生が奥さんと別れればいいとか、そういうことじゃなくて、ただ、心優しい、わたしの親友が救われることを、ひたすら祈った。 夜は、静かに更けてゆく。
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