雨の中のできごと ( No.4 ) |
- 日時: 2012/06/11 02:55
- 名前: 片桐 ID:WTZkbyas
この程度なら、と思い切って店を出、数分もしないうちに雨は本降りへと変わった。 風も強まり、つぶてのように固くなった横殴りの雨粒に、眼を開くことさえままならない。日曜日の昼に出歩き、珍しく書店に寄ってみたらこれだ。「くそ」などとうそぶいてみても、かえって苛立ちがつのるばかりだ。とにかく屋根のあるところをと、私は近くの店舗の下に駆け込んだ。 店は、シャッターが降りており、どうやら閉店中らしい。しかし、いちいちことわりをいれなくてすむのはかえって好都合だと思い、しばらくやっかいになろうと決めた。 雨の勢いはなお激しく、いったいいつになったら止む気配が見えだすのかもわからない。自宅まで駆けていこうとも考えたが、今はとりあえず一服しようと、胸ポケットからマイルドセブンを取り出した。着火口が濡れたせいか、上手く火が付かずに、いらだちがつのる。そんな時、不意に、赤いものが視界の隅を横切った。 「まあ、まあ、ひどい雨」 そう言いながら、若い女が赤い傘をたたんでいた。さんざ雨を吸った長い髪が、頬に張り付いている。女は、無言のまま濡れた髪を二度三度と手で梳くと、私から少し離れて立つ。 歳は二十代後半といったところか。透けたシャツが肌にすいつき、下着のラインさえ浮んでいる。じろじろ見てはいけないと思って、雨に煙る向かいの看板を見ようとはするが、視界の脇に意識が向かうのは、おさえようがない。 「よりこちゃんは、こういう雨は好きじゃないね」 突然、そんな声が聞こえた。 女が言ったのは間違いないが、かといって私に向けて語りかけたわけでもないらしい。 「よりこちゃんは、もっと優しい雨が好き。だって、そうじゃないと、雨の中をお散歩できないもの」 つい女を見てしまうが、私の視線に女が気づく気配はない。独り言をつづけ、よりこちゃんはどうだ、よりこちゃんならこうだ、と延々しゃべり続けている。一瞬でも下心が見え隠れした自分がいたたまれなく、この場を離れようとした。すると。 「あの」 声が掛かった。 嫌な予感がしつつも、女のほうに目をやると、こちらを向いて、微笑みを浮かべていた。 「何か?」 私は、できるだけ愛想なくいうように心がけた。が、女は、ふふふ、などと笑い声をあげて、「お話ししませんか?」と尋ねてきた。 「いや、私は――」 私が言いかけるのを遮り、女は口を開く。 「よりこちゃんは、とてもかわいい子なんです。えくぼを浮かべて笑う女の子で、お花の絵が描くのが大好き。いつもわたしにその絵をプレゼントしてくれるんですよ。はい、ママにプレゼント、なんていって。わたしがよく描けたね、上手だね、と言って褒めてあげるとね、ウフフってはにかんで、わたしに抱きついてくるんです。そしてね、よりこちゃんは雨が大好き。雨のなかをお散歩するのがなにより大好きなんです」 女がいくら語ろうと、私にはあいづちさえ挟みようがない。ただ黙って、立ちつくす。 さきほどは、女が自分自身のことをよりこちゃんなどと呼んでいると思って、痛々しく感じていたが、どうやら、よりこちゃんというのは女の、娘の名前なようだ。どちらにせよ、この母親では、そのよりちゃんとやらも、さぞ苦労しているに違いない。 女は、娘の自慢話をつづけている。私のほうを向いてはいるが、会話をしたいのではなく、ただ聞かせたいだけらしい。 いい加減飽き飽きし始めたとき、幸いにも雨音が弱まった。 「あら、いい感じの雨になった」 女もそれに気づいて、やや小振りとなった鉛色の空を見上げる。 「いいわ、いい。こういう感じの雨が、よりこちゃんは好きなのよ。ね、よりこちゃん?」 そういって、女は、手にした赤い傘を見た。 私もついその傘に目をやると、がさがさした布のようなものが赤い傘にかぶさってみえる。なんだろう、と思って目を凝らしてみるが、いまいち判然としない。 「よりこちゃんは、こういう雨が大好き。でもね、よりこちゃん、いくら雨が好きだからって、周りが見えないまま走り回っちゃだめ。そんなことをすると、またあんな危ない目にあってしまうから。だからこれからは、ずうっとママと一緒にお散歩です。いいわね、よりこちゃん」 かわいそうに、と声になりそうなのをおさえて、女を憐れむ。 詳しい事情はわからないが、きっとそのよりこちゃんは、事故か何かに遭ったのだろう。そしておそらく、その幼い命を落とした。この若い母親は、心が崩れ、今もなお、そのよりこちゃんの幻影とともに、雨のなかを歩くのだ。 「さあ、いきましょう」 女はそういって、手にした赤い傘を開く。 やはり何かが貼りついている。 ――いや、覆いかぶさっているのか? 大きい。ふやけたスルメのような? いや、それにしては……。 その時、ふやけたなにかの一部を見て、私は息をのむ。 やわらかそうな毛がまばらに生えた、小さな小さな渦。 それは、ずっと以前に、親戚の子供とおいかけっこをした時の記憶を呼び起こす。 私は、いよいよ遊びの時間を終えようと、親戚の子供にいっきに駆け寄り、その後ろ姿のてっぺんに、小さな小さな渦をみつけたのだ。 立ち尽くす私をよそに、女は背中を向けて歩き出す。 ぴっちぴっちちゃぷちゃぷらんらんらん、という例の歌が聞こえたが、やがてそれさえ、未だふりやまない雨のなかに消えた。
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