Re: あけましておめでとうございます。一時間小説♪ ( No.4 ) |
- 日時: 2012/01/03 03:07
- 名前: 天祐 ID:mCpxFJks
40代女性と高校生
ソステヌート
天気がいい日は公園に行くことにしている。学校の練習場にこもっていてもいい音は手に入れられないからだ。幸い自分の通う学校のの前には小さな公園があった。僕は天気がいい日はたいていそこで時間を過ごしていた。 高校の部活は退屈だった。小学生のころに親に勧められて始めたトランペット。でも、通っていた小学校にはブラスバンドもなく、中学校ではピアノの腕を買われて合唱部へと半分強制的に入部させられたからトランペットで合奏をしたことがなかった。僕の演奏を聴いてくれるのはレッスンをしてくれている音楽教室の先生と、その音楽教室の発表会で聴衆として来ているわずかな関係者だけだった。 高校に入学して初めて吹奏楽部に入部した。やっとみんなと合奏ができると期待に胸を膨らませていたが、そんな気持ちは入部して数時間で消え去ってしまった。もともと演奏のレベルは期待していなかったのだが、それは想像以上にひどかった。 四十名の部員のうち初心者が二十五名。半分以上が小学生以下の技術しかない。そんな吹奏楽部がまともに合奏なんてできるわけがなかった。だから僕は今、公園にいる。 外で楽器を吹くのは気持ちがよかった。へたくそな部員に囲まれて雑音にしか聞こえないような楽器の音の中を耐えるなんて僕には想像できなかった。僕が知っている音楽は一セントの狂いもないハーモニーが折り重なる繊細で色彩豊かな世界だった。どぶの底の澱のようなそれは僕は音楽とは思っていなかったし、その中に身を置くなんてとても耐えられなかった。 公園ではいつもコンチェルトを練習していた。特にバロックが好きだった。今も目の前の譜面台にはコレリ作曲のソナタが置いてある。Aの音から始まる物悲しげな第一楽章がお気に入りだった。この曲を表現できるほど自分が人生経験豊かだとは思っていなかったが、それらしく演奏できているだろうなという手ごたえを感じながら、僕は楽器を鳴らしていた。 この公園はいつも人は少なかった。ときおり駅への近道をするために早足で通り過ぎていく人がいるくらいだった。だからこそ、気兼ねなく楽器を演奏することができていたのだが、その日は少し違っていた。 いつもどおり悲しげなビブラートと余韻を残して一楽章を終えて譜面をめくろうとしたとき、僕はふと視線を感じた。顔をあげるとそこには女性が一人、犬を抱えて立っていた。きっと物珍しさから少し立ち止まって聞いているのだろうと思った僕は、あまり意識せずに二楽章の演奏を始めた。僕はすぐに演奏に没頭した。たんたんと譜面を読みこなし、四楽章、つまり最終楽章になって初めてその女性がまだそこにいることに気が付いた。 いつも僕が演奏を聴かせるのは僕が知っているごくわずかな人だ。僕を知らない誰かに聞いてもらったことなどなかった。その気持ちが僕を妙に社交的にさせた。僕は楽器を下して女性に尋ねた。
「あの、何か」
マダム。その言葉がぴったり当てはまる清楚な女性だった。女の人の年齢は推定しにくいがきっと四〇代前半だろうと僕は思った。僕の言葉にはっとしたように女性は一歩僕に近づいて言った。
「いいわあ」
少しかすれた憂いを含んだような深い声だった。僕は自分の鼓動が一瞬跳ねたのを感じた。
「いい、ですか?」
とまどいを隠さずに僕は尋ねた。女性はさらに一歩僕に近づいてくる。
「ええ、とっても歌ってる。きちんとフレーズを歌えてる。ほんとにいいわあ」
女性の黒髪がふわっと風に揺れた。甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。大人の女性の香りだった。
「でもね。あなた高校生でしょ。そんなにさびしい音を奏でていてはだめ。悟るのはもう少しあとにしなさい。あなたの音は孤独すぎるわ」
自分は孤独だ。初対面の人にそう指摘されて僕はそうかもしれないなと思った。大人の女性とはこうも正確に人を見ることができるのだと妙に感心していた。これが彼女との出会いだ。 ママさんコーラスの指導をしているという彼女と僕は親しくなった。といってもやましいことがあったわけではない。公園で演奏を聞かせ、感想をもらう。それだけのことだった。僕は部活の練習に参加するようになった。さみしいと言われた音をなんとか明るくするために。部活のレベルはわずかずつだったが上向いているようだった。
「だいぶ社交的になってきたわね。あなたの音」
彼女がそう言ってくれたのは出会ってから半年が過ぎたころのことだった。
「ありがとうございます。麗子さんのおかげです」
彼女は独身だった。離婚歴があるわけでもなく、子供もいない。本当に孤独だったのは実は彼女のほうだった。僕はその麗子と名乗った女性についてじつは何も知らないのかもしれない。それでも自分の本質を一目で見抜いた彼女に最初から魅かれていた。彼女もきっと僕の気持ちに気づいているはずだった。
「あなたのセンスがいいのよ。あとは経験があればもっと音に深みと余裕が生まれはずよ」
経験。それが何を意味するのか僕には漠然とわかっていた。いや、わかったつもりになっているだけかもしれない。だから、胸がざわついた。
「あの経験ってなんですか?」
彼女は笑った。それはひどく妖艶な笑みに見えた。
「だめよ、期待しては。私はあなたが好きだけど、私から得られるのは寂しさだけ。あなたにはまだ必要のないことよ」
僕は彼女に手を差し出した。僕が欲しかったのは物悲しさだったから。数瞬の躊躇の後に握り返された彼女の手はひどく冷たかった。
ー 了 ー
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