啜る女 ( No.2 ) |
- 日時: 2011/02/26 23:57
- 名前: 片桐 ID:myohGuA6
忍耐には二種類ある。己に課す忍耐と、誰かによって課される忍耐だ。 そんな言い回しをすれば少しばかり頭が良い奴と思われる気がするから、僕はそういうわけだが、しかし少なくとも僕は今かつてない忍耐を強いられている。 うどんである。女は目の前でうどんを啜っているのである。我が人生において空前絶後と言っていい空腹感に僕が苛まれている中、女はフーフー、ズズ、ズズズ、と麺を啜り、甘い揚げをはふはふ言いながら頬張っている。はたしてうどんは、うどんというものは、かもうまそうに喰われるものであっただろうか。落語でそばを啜る芸があるが、どれだけの名人がそれを為しても、この女のようにはいくまい。 僕はかれこれ五日拘束され、狭いビルの一室らしき空間で、椅子に縛られひたすらに目の前でうどんを啜られている。 何故に、とはいう理由は僕こそが尋ねたい。仕事の帰りに夜道を歩いていると、突如後頭部を殴打され、この部屋に連れてこられた。僕に何かしらの非があったのか、あるいは無差別的な犯行なのかさえわからず、僕は今の状況に追い込まれたのだ。 「お、おまえの目的はなんだ。いつになったら僕を解放するつもりなんだ!」 目の前でうどんを啜る女に僕は問う。変質的な人物であることは間違いないが、そんな人物らしからぬことに、なかなかに美人だ。ワインレッドのスーツを着こなし、ヒールを穿いた姿は、一昔前のキャリアウーマンといった風情さえ感じられる。女はうどんの椀を机にコツと置くと、琥珀の液体をしばらくみつめ、そして僕の方を見直した。 「悲しいことだわ」 女は呟く。それこそ悲しげに。僕が意味が分からないという意味を込めて眉間を掘ると、女はフフと笑った。 「歪んだ椅子の話は知っているかしら?」 「歪んだ、椅子? そんな話知るわけがないだろう」 「遠近法で精緻にかかれた椅子の絵を、西洋文化がまだ入っていない未開拓の地域の人――辺境の部族やなにかね――に見せると、どうしてこの椅子は曲がっているんだっていうらしいは」 「だからなんだ?」 「認識なんてそんなものなの。自分の当たり前が、相手には通じない。世界の見え方さえも一遍通りというわけじゃない」 女はそういって再びうどんのつゆに視線を落とした。 「だから、わたしは――」 僕には女が何を言おうとしているのかとんと見当もつかない。世界の見え方が違う、認識の仕方が違う、それはまあ分かる。そんなものなのだろう。きっと。では、彼女が僕を拘束し、僕に絶食を強いて、何日も何日も目の前でうどんを啜り続けることに一体どうつながるのか。 「――わたしは、うどんって嫌いなのよ」 ここに来て衝撃の発言ではあった。あれほど美味そうにうどんを喰う人間というのを見たことがないと思っていたのに、この女はうどんがそもそも嫌いなのだという。 「なんだか、麺が太すぎて気に喰わないし、うどんって名前も気に喰わないわ。それに日本ではほとんど生産されていない外国産小麦で作られているというのも嫌。そういうのってよくないと思うの」 「ああ、それで?」 「それでって、それだけよ」 沈黙である。歪んだ椅子どうこうと女が語っていたから、何か深遠な意味が込められていると思っていたのだが、女はだまり、僕は困り、そして女はまたうどんを啜り始めた。 「嫌いならどうして毎日そんなに美味そうに食べるんだよ?」 僕は尋ねる。この数日間、黙々とうどんを啜り続けていた女とようやく会話が成立したのは確かなことなのである。これを糸口になんとか脱出する算段を立てたかった。 「え?」 女はそういうと、カランと箸を床に落とし、震えながら僕を見た。 僕はさらに問う。 「嫌いなら、うどんなんか食べなければいいじゃないか。他にも食べ物はある。それを美味そうに食べればいい。いや、出来れば僕にも何か食べ物を……」 僕が言ったとたん、女は嗚咽しながら今度は涙を啜り始めた。 「わたしだってわかっていたのよ。こんなことをしても何も変わらない。世界に絶望したからって、適当に男を誘拐して、目の前できらいなうどんを美味しそうに食べ続ける毎日を過ごしていたって、そんなの逃げているだけだわ」 僕には分からない。一切意味が分からないが、なんとなく今は合わせたほうがいいような気がして、わかる、わかるよ、といった風情でうなづきを繰り返していた。 「ありがとう、名前も知らない人。あなたを誘拐したのは間違いだったわ。誘拐というのは犯罪だから、これからはしないように気をつける。嫌いなうどんはもう食べない。どうしても食べなきゃいけないときは、きしめんにする。ああ、わかった、いろんなことがわかったきがする。わたし蝶になるんだわ。さなぎの時間を終えて、蝶に。そうか、そのためにわたしはうどんを。ああ、人生ってなんて辛くて、でもなんて愛おしい」 「あ、ありがとう、分かってくれてうれしいよ。では、僕を縛っている縄をそろそろ解いてくれないか」 今なら拘束も解かれそうな気がし、僕は女に笑みを向けた。 「そうね、縄なんてうどんと一緒よ。わたしにこれから必要なのは、むしろプール付の別荘。あはは、あはははは」 女はそう言うと僕の拘束を解き、部屋のドアを開けて、僕より先に部屋を飛び出していった。 後に残された僕は、同じく女に残された食べかけのうどんに目をやる。 ふやけたうどんだけに、もう腰はなかった。 悲しみには二種類ある。言葉になった悲しみと、言葉になる前の悲しみだ。果たしてどちらが人にとって辛いのかは定かではないが、僕は一体今のこの気持ちにどう立ち向かえばいいのだろうか。自分が今、もう、どんなことも考えられない。もう、どんなことも。もう、どん、な。も、うどん、な……。
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