今日は普通に、粛々と一時間三語です。お題は「歪んだ」「認識」「忍耐」です。あと任意お題として「初対面」があります。毎度のことですが、とにかく楽しめる形で参加していただければ幸い。締め切りは今から一時間後の0時ジャスト。多少の時間オーヴァーはご愛嬌ということで。では、みんなガンバ。
「三語噺を書きましょ」 その提案は、俺の幼馴染にして文芸部部長で三年の篠宮秋穂によって発せられた。「ということで、お題は「歪んだ」「忍耐」「認識」ね」 そして、いきなり三語が決まった。 三語噺というのは、決まった三語を文章に入れて短い物語を作る。有名なところでは、電○文庫の公式サイトで読者参加型として募集されていたりする。「三語噺ですか? 面白そうですね」 そう笑顔で答えたのは一年しえの朝倉菜緒。いつも笑顔でいる女子生徒で、秋穂のわがままにも笑顔で答える、とてもいい子だ。ちなみに、文芸部には二年生がもう一人いるのだが、今日は休みらしい。「観音も参加するわよね」 秋穂が俺の名前を略して(ちなみに俺の本名は観音寺透だ)参加を促す。「まぁ、先週やった、蛍の光だけで小説を書こう会よりはよっぽど有意義だしな」 あれはひどかった。うん、視力が一気に下がったような気になる。「ということで、みんなで書きましょう! 制限時間は十分」「短っ!」「スタート!」 秋穂が俺のつっこみを無視して開始の合図を出した。 そしてきっちり十分後。 全員が持参したノートパソコンに文章を書き終えた。「じゃあ、まずは菜緒ちゃんからいってみよう」「不束者ですが、よろしくお願いします」 菜緒が笑顔で毎回恒例の挨拶をしつつ、菜緒が書いたものを読むことにした。 私の生き方 作 朝倉菜緒《私の感情はいつも歪んでいる。いや、私だけではない、皆の感情も歪んだものだと思う。 全く知らない初対面の人間に対し笑顔で挨拶し、多数の人間の認識を人間全体の認識のように勘違いし、それから逸脱した人間を間違ってると罵り、そして、親友でもない友人を作って独りでいることを避ける。 そんな日常を普通だと自らに律し、忍耐力だけが積み重なっている。 でも、私は生きている。 たぶん、生きる権利ではなく、生きる義務を背負って。》 ……なんだ、この笑顔一年生。とんでもない内容を書いてるぞ。「うん、とってもいいわ! なんだか文芸部っぽいわよ」 秋穂が満足げに頷く。「ありがとうございます」 笑顔で礼を述べる菜緒。その笑顔は本当にうれしいのか? それとも回りにあわせてるのだ? どっちか教えてくれ。「次は透先輩の小説を見せてください」 笑顔でいう菜緒に、俺は背筋を伸ばして言う。「どうぞ、お読みください」 告白 作 観音寺透《認識が甘かったとしかいいようがない。 彼女――春花(ハルカ)と付き合うことになって、俺はそう思った。 俺と彼女は幼馴染だった。小さい頃、彼女は男の子のようにガサツであり、まるで男友達かのような付き合い方をしていた。 あれから幾年かして、彼女の容姿は段々と女性特有のそれとなっていき、なんというか、まぁ、魅力的になってきた。そうなると、男子というのは、一緒にいるのをいやがる。特に小学生や中学生における思春期においてはそうだ。だが、問題は彼女の性格だった。 彼女の性格は男子が抱く女性らしさなど全く無い、男の子のがさつさがさらに増したものであり、俺に対しての対応もそれだった。そのせいで、俺と彼女との関係は昔と全く変わらない。変わったのは、ただ俺の気持ちだけ。 つまり、俺は彼女のことが好きになっていた。 だが、どうしろというのだ。 彼女は俺のことを異性としてみていないことはよくわかっている。そんな状態で告白したら、どうなるというのだろうか? いや、俺もわからない。 ただわかるのは、彼女と俺の関係は変わるということだろう。 今までのように、友達のような関係ではいられない。 少なくとも、彼女は俺のことを友としては好いてくれていると思う。そんな状態を、俺はいやじゃなかった。そうじゃなければ、忍耐力の無い俺のことだ、彼女と距離を置いているだろう。いや、そもそもこんな状態にはならなかった。 歪んだ感情だとは思う。恋人になりたいのに恋人になりたくない。でも、このままではいたくない。 だから、俺は彼女に告白することにした。「春花、好きだ。付き合ってくれ」 悲しいかな、前日まで用意していた告白の台詞など全て忘れてしまい、そんなテンプレートな告白をした。 そして、彼女の答えは、「別にいいわよ」 めちゃくちゃシンプルな答え。「というか、付き合っても、今と何が変わるのか全く分からないけどね」 と付け加えられた。 そして、結果、全く変わらなかった。 そう、俺の認識が甘かった。俺が春花に対して、彼女になってもらってしたかったことなど、とっくの昔から叶っているんだと。 彼氏になってもなにも変わらないんだと。「あ、でも私の彼氏になるなら、お昼ご飯たまに驕ってね。男でしょ」 訂正。彼氏になんてなるもんじゃなかった。》「あらあら、まぁまぁ」 なぜかおばちゃん口調になって笑う菜緒。頼むから、その笑顔は嘘の笑顔であってくれ。ていうか、書いたときはよかったけど、後輩に読まれることをすっかり忘れていたからめっちゃ恥ずかしいぞ。「ねぇ、観音。この春花ってたまにあんたの作品で出てくるけど、モデルとかいるの?」「さぁな」 秋穂が春花のイメージについて考えている。「なぁ、秋穂。俺たちって付き合ってるんだよな」「ん? そうだけど?」「だよな」 これを読んで少しは改めて欲しいと思ったけど、どうやら俺と秋穂の関係はこのまま続きそうだ。もしかしたら一生……やべぇ、涙が出てきやがる。「じゃあ、最後は私ね!」 最後。秋穂が自信満々に俺たちに小説を見せた。 読書 作 篠宮秋穂《本を読むには忍耐がいると思ってたけど、歪んだ認識だったわ》 「またこのおちか」 結局、秋穂の文章はそれだけだった。どうりで早く書き終わっていたはずだ。 まぁ、一文だけで三語使う力は尊敬するが。「もう、このオチも天丼(いつものオチ)ですね」 菜緒が笑顔で言う。「じゃ、帰るか」 俺は疲れたので帰ろうと提案した。 ☆ 透先輩だけが気づいていませんでした。 あの時、私はその文章が改行され続けているのに気づいて下にずらしていきました。 そして、七十五行目の一文を見ました。《だって、みんなで小説を書いて、皆で読むのはとっても楽しいから》 このオチもテンプレートっぽいです。一行の間に、“みんな”と“皆”が混ざっているのが部長らしいですが、この一行には私も同感です。 だって、先輩たちといるときの私は嘘の私である必要が無いんですから。「菜緒ちゃん、今日は透に奢ってもらいましょ!」「なんでお前が決めるんだよ」「菜緒ちゃんだけ自分で出させたらかわいそうでしょ」「俺のことは可哀想とは思わないのか! てかお前の分まで出すなんて言ってないだろ」「思い出したんだけど、私たちが付き合ったときに時々おごってくれるって約束したじゃない」「あぁ、余計なこと思い出させてしまった」 二人を追いかけて、私はパソコンの電源を落としました。「はい、今行きます!」 ただ、あの二人を見ていると、私も彼氏が少し欲しいかな、なんて思います。------------- 文芸部物語。 過去に、似たような物語を書きましたが、まぁ、読んだことがある人はいないのでこそっと出します。ちなみに、過去の作品では、三人で三語ではなく、四人でポエムを書いていました。
忍耐には二種類ある。己に課す忍耐と、誰かによって課される忍耐だ。 そんな言い回しをすれば少しばかり頭が良い奴と思われる気がするから、僕はそういうわけだが、しかし少なくとも僕は今かつてない忍耐を強いられている。 うどんである。女は目の前でうどんを啜っているのである。我が人生において空前絶後と言っていい空腹感に僕が苛まれている中、女はフーフー、ズズ、ズズズ、と麺を啜り、甘い揚げをはふはふ言いながら頬張っている。はたしてうどんは、うどんというものは、かもうまそうに喰われるものであっただろうか。落語でそばを啜る芸があるが、どれだけの名人がそれを為しても、この女のようにはいくまい。 僕はかれこれ五日拘束され、狭いビルの一室らしき空間で、椅子に縛られひたすらに目の前でうどんを啜られている。 何故に、とはいう理由は僕こそが尋ねたい。仕事の帰りに夜道を歩いていると、突如後頭部を殴打され、この部屋に連れてこられた。僕に何かしらの非があったのか、あるいは無差別的な犯行なのかさえわからず、僕は今の状況に追い込まれたのだ。「お、おまえの目的はなんだ。いつになったら僕を解放するつもりなんだ!」 目の前でうどんを啜る女に僕は問う。変質的な人物であることは間違いないが、そんな人物らしからぬことに、なかなかに美人だ。ワインレッドのスーツを着こなし、ヒールを穿いた姿は、一昔前のキャリアウーマンといった風情さえ感じられる。女はうどんの椀を机にコツと置くと、琥珀の液体をしばらくみつめ、そして僕の方を見直した。「悲しいことだわ」 女は呟く。それこそ悲しげに。僕が意味が分からないという意味を込めて眉間を掘ると、女はフフと笑った。「歪んだ椅子の話は知っているかしら?」「歪んだ、椅子? そんな話知るわけがないだろう」「遠近法で精緻にかかれた椅子の絵を、西洋文化がまだ入っていない未開拓の地域の人――辺境の部族やなにかね――に見せると、どうしてこの椅子は曲がっているんだっていうらしいは」「だからなんだ?」「認識なんてそんなものなの。自分の当たり前が、相手には通じない。世界の見え方さえも一遍通りというわけじゃない」 女はそういって再びうどんのつゆに視線を落とした。「だから、わたしは――」 僕には女が何を言おうとしているのかとんと見当もつかない。世界の見え方が違う、認識の仕方が違う、それはまあ分かる。そんなものなのだろう。きっと。では、彼女が僕を拘束し、僕に絶食を強いて、何日も何日も目の前でうどんを啜り続けることに一体どうつながるのか。「――わたしは、うどんって嫌いなのよ」 ここに来て衝撃の発言ではあった。あれほど美味そうにうどんを喰う人間というのを見たことがないと思っていたのに、この女はうどんがそもそも嫌いなのだという。「なんだか、麺が太すぎて気に喰わないし、うどんって名前も気に喰わないわ。それに日本ではほとんど生産されていない外国産小麦で作られているというのも嫌。そういうのってよくないと思うの」「ああ、それで?」「それでって、それだけよ」 沈黙である。歪んだ椅子どうこうと女が語っていたから、何か深遠な意味が込められていると思っていたのだが、女はだまり、僕は困り、そして女はまたうどんを啜り始めた。「嫌いならどうして毎日そんなに美味そうに食べるんだよ?」 僕は尋ねる。この数日間、黙々とうどんを啜り続けていた女とようやく会話が成立したのは確かなことなのである。これを糸口になんとか脱出する算段を立てたかった。「え?」 女はそういうと、カランと箸を床に落とし、震えながら僕を見た。 僕はさらに問う。「嫌いなら、うどんなんか食べなければいいじゃないか。他にも食べ物はある。それを美味そうに食べればいい。いや、出来れば僕にも何か食べ物を……」 僕が言ったとたん、女は嗚咽しながら今度は涙を啜り始めた。「わたしだってわかっていたのよ。こんなことをしても何も変わらない。世界に絶望したからって、適当に男を誘拐して、目の前できらいなうどんを美味しそうに食べ続ける毎日を過ごしていたって、そんなの逃げているだけだわ」 僕には分からない。一切意味が分からないが、なんとなく今は合わせたほうがいいような気がして、わかる、わかるよ、といった風情でうなづきを繰り返していた。「ありがとう、名前も知らない人。あなたを誘拐したのは間違いだったわ。誘拐というのは犯罪だから、これからはしないように気をつける。嫌いなうどんはもう食べない。どうしても食べなきゃいけないときは、きしめんにする。ああ、わかった、いろんなことがわかったきがする。わたし蝶になるんだわ。さなぎの時間を終えて、蝶に。そうか、そのためにわたしはうどんを。ああ、人生ってなんて辛くて、でもなんて愛おしい」「あ、ありがとう、分かってくれてうれしいよ。では、僕を縛っている縄をそろそろ解いてくれないか」 今なら拘束も解かれそうな気がし、僕は女に笑みを向けた。「そうね、縄なんてうどんと一緒よ。わたしにこれから必要なのは、むしろプール付の別荘。あはは、あはははは」 女はそう言うと僕の拘束を解き、部屋のドアを開けて、僕より先に部屋を飛び出していった。 後に残された僕は、同じく女に残された食べかけのうどんに目をやる。 ふやけたうどんだけに、もう腰はなかった。 悲しみには二種類ある。言葉になった悲しみと、言葉になる前の悲しみだ。果たしてどちらが人にとって辛いのかは定かではないが、僕は一体今のこの気持ちにどう立ち向かえばいいのだろうか。自分が今、もう、どんなことも考えられない。もう、どんなことも。もう、どん、な。も、うどん、な……。
「ねえ、杏子。良かったら私も一緒に働いてみたいんだけど……」 バイトに行こうとしたら、親友の萌子が声をかけてきた。「えっ?」 私は驚きの声を上げる。というのも、私がバイトしているお店は萌子とは無縁の場所と認識していたからだ。「本当にいいの? 私のバイト先って知ってるよね?」「ツンデレカフェでしょ」 そうだ、私はツンデレカフェで働いている。 ツンデレカフェ――初対面の人にはツンツンと素っ気無く振る舞い、常連客にはデレデレと親しくするカフェ。 丸っこい優しいフェイスラインが魅力的な超癒し系の萌子には、程遠い仕事と思っていた。「萌子。ツンデレカフェがどんな仕事か知ってるよね?」 衣装だけを見て、その憧れで働きたいと言っているんじゃないかと私は疑う。確かにお店の衣装は可愛い。オーソドックスなメイド服だし、萌子がそれを着れば絶対に似合うと思う。でもツンデレカフェのメイドは、それだけではやっていけないのだ。「知ってるわよ。初対面のお客にはツンツンしなきゃいけないんでしょ」 萌子は真剣な目をしている。「それが意外と大変なのよ。客の顔を覚えてなきゃいけないし」 私も衣装が可愛いからついバイトを申し込んでしまったのだけど、始めてみて後悔した。まず、お客の顔を覚えなくてはいけない。初めてのお客さんにはキツく振る舞い、常連には優しく接する。そんな当たり前のツンデレを演出するためには、正確にお客の顔を覚えることが必要だ。「私、そういうのって結構得意だから」 確かに萌子は記憶力はありそうだ。学校の成績だって萌子の方が良い。「萌子。顔を覚えるだけではダメなの。どの客がどの頻度で来ているのかもチェックしてなきゃならないのよ」 私が働いているお店では、足が遠のいた常連には冷たくするという高度な技が要求される。せっかくデレ状態になったメイドに冷たくされたくないという一心で通いつめる有難いお客さんがいるからだ。「それくらい、余裕よ」 うーむ、萌子の記憶力なら大丈夫そうだ。私にとっては、客が通う頻度まで覚えるのはとても大変なんだけど。「それにツンツンするのは結構キツイわよ。性格歪んだって知らないから」 すると萌子はちょっと不安そうな顔をした。「そうね。でもね、私、それが目的なの。私ってタレ目でいかにも癒し系って顔してるでしょ」「それが萌子の持ち味じゃないのさ」「だから嫌なの。なんかバカにされているみたいで。杏子みたいな目力を身につけたいのよ」 えー、私ってそんなに視線がキツイかしら……。「客にツンツンするだけじゃダメなのよ。変な要求をしてくる客だっているんだから」 すると萌子の顔が曇った。「えっ? そんなことってあるの」「あるわよ。この間なんて『私を踏んづけて下さい』って四つんばいになるお客がいたんだから」「そ、それで、杏子はどうしたの?」 萌子は青ざめながら話を聞く。「もちろん踏んづけてやったわよ。これでもかってくらい。こっちが調子に乗っていたら相手もつけあがってきて新たな要求をしてきたわ」「そ、それは、ど、どんな……?」 萌子は震え始めた。「今度は顔を踏んでくれっていうのよ。だから踏んでやったわ。バッチリぱんつを見られちゃったけどね」「そ、それは忍耐が必要ね。わかった、やるわ。私、決心した」 さっきの話でどうして萌子が決心したのか不思議だったが、翌週から彼女も一緒のお店で働くことになった。「あら、あんたも私に踏まれたいの?」 今日も萌子はバイトに励んでいる。超癒し系の萌子が豹変するのが最高との噂が口コミで広がり、萌子を指名するお客が後を絶えない。「か、顔も踏んで下さいっ!」「おほほほ、女王様ってお呼びなさい」 おいおい、萌子。あんた、お店を間違えてるわよ。ここはSMカフェじゃないから。それにお客だって下心満載だから。 予期せずして萌子の才能を発掘してしまった私は、そろそろこのお店もやめようかと思い始めた。--------------------------------------------またこんなものを書いてしまった……ツンデレカフェ、行ってみたい。
風呂からあがってチャットを覗けば、期待通りに三語がはじまろうとしていた。 片桐さんがチャットに参加していたのは風呂へ入る前から既に確認済みだった。なればこそ身体を清め、落ち着いた心地で三語に参加しよう、と湯船に浸かったのだった。熱いシャワーの破裂音が空間いっぱいをすっかり満たして、数ヶ月に一度あるかないかの、とても素晴らしい入浴だった。髪をタオルで拭きながら自室に戻ると、ちょうど三語の板が立てられようとしていた。なにもかもが僕のためにあるかのような、奇蹟のような夜更け前であった。この調子ならば。予感に心が躍った。喜々としてテキストエディタをたちあげた。 筆は快調にすすんだ。自分で書いているのだとは思えなかった。無意識下になにか途方もない存在――たとえば神であるとか、たとえば宇宙より降り注ぐ電波であるとか、そんな空想じみた概念ではなく、もっと生々しく実際的で、ずっと遙かで壮大な印象をうけた――が、自動的に指を動かしているのではないか? そんな怖ろしい感じがあった。その物語はいままで見たことも聞いたこともないようなものであった。あらゆる現実をこえた現実であり、あらゆる幻想をこえた幻想であり、あらゆる認識をこえた認識であり、あらゆる比喩をこえた比喩であった。あまねくシュルレアリストたちが百年前よりずっと思い望み恋い焦がれていた「なにか」がそこにはあった。あまりの出来に、僕はかえって誰にも読ませずひとりで独占してしまおうかしら、と考えるほどであった。 主人公のとある崇高な葛藤が佳境にはいって、しばらくした頃である。ふいに集中がきれた。あれほどまでに間近だったPCの画面が、すう、と遠ざかっていった。どうしたことだろう、と思ったが、原因はすぐにわかった。喉がかわいていた。風呂からあがって、ずっとキーボードを鳴らし続けていた。水分不足が深刻であった。忍耐の限界だった。ひとまず水を飲もう、そう思って席をたった。 部屋のドアを開けると、無限の鏡が錯綜していた。無限の僕がこちらを覗いて、うっすらとぎこちない笑みを浮かべていた。 すぐにドアをしめた。目の前の光景は嘘だ、と思った。意識は不思議と冷静であったが、心臓の鼓動は痛いくらいだった。つばを飲みこみたかったが、からからに渇いた身体からは汗の一滴もでてこなかった。 ふたたびドアを開けると、鏡でできた空間が真実真性本当のものである、とわかった。 こんな状況下においても、やはり意識は透き通ったままだった。透き通ったままどこかが確実に欠落していた。あるいは無意識下に降臨した超越性が、僕の自我において最も大切なもののひとつを駄菓子代わりにでもしてしまったのかもしれない。そっと敷居をまたいで、鏡の世界へと踏み出した。足下に、ぴしり、とひびこそ入ったものの、それ以上の破壊はなさそうだった。一歩、また一歩、と進んでいった。足裏のひびと、触覚と、それ以外のすべてがゆっくりと鏡の増殖性、複写性にうずもれていき、やがて見えなくなってしまった。 何時間たったのか、それともまだ数分とたっていないのか、それは分からないが、ちょうど自己同一性をすら失いかけて、危うい境界線上をふらふらと歩いていたころのことだ。ふいに光景にノイズが混じった。それは一枚の歪んだ鏡だった。あきらかに薄汚れていて、すみに黒い斑点ができていた。僕は鏡の真正面にたったが、そこにはなにも映ることはなかった。手を振ってみたり、足を曲げてみたり、おじぎをしてみたり、いろいろと試してみたが、やはり変化はなかった。諦めてきびすを返し、どこか別の所へ向かおうと歩き出すと、ふいに声が聞こえた。幼い少女の声だった。「ちょいとお兄さん。お待ちなさいな」 ふりかえると、鏡はなくなっていて、そこにぽっかり四角い穴があいていた。真っ暗な空間に、アニメのようなツインテールの少女がたっていた。「ひさしぶり」 と声をかけられたが、その顔に見覚えはなかった。「僕らは初対面ではないでしょうか?」 そう返すと、少女はあいまいに笑って、「そうとも言えますし、そうとも言えません。この空間においては時間ですら鏡に屈服します。無限の時間の回帰のうちにわたしたちは幾度も出会い、幾度も恋をし、幾度も悩み、幾度も抱きあって、幾度も殺しあいました。わたしたちは既にそういった存在なのです」「なるほど」 と僕は言った。それは驚くほどに突飛な発想ではなかったし、なにより現在の僕は論理だった思考というものができないでいるのだった。 だから、少女を殺した。どうせいつか殺すのなら、同じ事だと思った。ナイフをつかんだ右手と、ナイフをつかんでいない右手とがあって、僕がナイフをつかんだ方を前に突き出すと、切っ先はなんの感情も抵抗もなく、あっけないほどに心臓をくし刺しにした。 悲しくて僕は泣いた。少女が死んだことが悲しく、また殺したことが悲しかった。彼女と送るはずだった数多の時間と、彼女と送った数多の時間が悲しかった。涙は鏡に反射し、増殖し、一瞬のうちに海となった。海の底で僕はゆっくりと沈んでいた。深海では増殖するということがなかった。大量の海水以外なにひとつなく、代わりに死の匂いに溢れていた。これでいいのだ、と僕は思った。このまま死んでいけばいいのだ、と思った。僕は彼女を殺したのだ。死んでしまえ、と思った。ふいに細長い美しい魚が泳いできた。リュウグウノツカイであった。そのまるい瞳孔はまったくの虚無であったが、なにか途方もないもの――たとえば神であるとか、たとえば宇宙より降り注ぐ電波であるとか、そんな空想じみた概念ではなく、もっと生々しく実際的で、ずっと遙かで壮大な印象をうけた――が闇の中にうつりこんでいた。「やあ」 と声をかけたが、言葉は泡になるばかり。 彼はそんな僕を見て、嬉しそうに、悲しそうに笑った。 海水を飲むと、渇いた身体に心地よく浸透していった。死の気配ばかりの世界に溶けこんだ、生命のようなものを胃の中に感じた。これでいいのだ、と僕は思った。彼に笑いかえそうと思ったが、すでにリュウグウノツカイは遙か高みにまで昇ってしまっていた。月の光をうけて銀のからだがきらきらと輝いていた。綺麗だ、と思った。--------遅刻です汗。喉がかわいたので、いまからなにか飲んできます。
「あなたが連れていってはくれないの」 感情のない声音だった。およそ子どもというものが、これほど温度のない言葉を発することができるなんて、信じたくないような温度の声だった。 あやかは黒のダッフルコートを着て、前をきっちり留めている。ファーのついた子ども用の手袋は、とても上等そうに見えた。その唇から漏れる息が、これほど寒いというのに、ちっとも白くにごらなくて、そのことになぜだかぞっとした。あやかの黒々とした瞳が、無表情に見上げてくる。そこから目をそらしてしまうこともできずに、ぼくは言葉を探して探して、唇を舐めた。「みたでしょう。あの父親の態度」 あくまで淡々と、あやかはいう。たしかにぼくはみた。この子に、まだ年端もいかない自分の娘に対して、まるでかみ合わない言葉を延々といいつのる、いっけん風采のいいような四十男を。 回転の速い、九歳にしてまるで大人のような口をきくこの天才少女が、父親に向かって笑いかけながら、さりげなく話題を振る。それは気候と自然現象の話であったり、テレビで流れた経済のニュースに対する意見であったりする。それに対して、父親という男は、まともな返事を返さない。まるきり無視して口をきかないというのではない。話がかみあわないのだ。 まるであやかが普通の九歳の子、そのあたりにいる平均的な子どもと同じような思考の持ち主だと、頭からそう信じ込んで疑わないように、男はあやかの話に対して、ちぐはぐな受け答えを返す。ふつうの子どもであればこんな言葉は出てこないだろうという、あやかの語彙や、その鋭い考察や、そういうものについては、ひとつも耳に入らなかったというように。 あやかは忍耐強く、違う話題を見つけては父親に話しかける。あるいは父親のとんちんかんな答えに、もっともらしく相槌をうって、わざとらしく感心してさえみせる。そうねお父さん。そのとおりだわ。けれどそのあからさまにひややかな態度に、父親は気づきもしないで、にこにこと愛想よく、話を続けるのだ。まるで幼児に話しかけるように、丁寧に噛み砕かれたことばで。 その父親とふたりきりで、あやかは暮らしている。この子の母親の所在を、ぼくは知らない。わかるのは、ずっと前からあの家には一緒に暮らしていないということだけだ。あの広い、きれいに片付けられた家の中で、あやかは父親とふたりきり、会話にならない会話をずっと続けてきたのだ。それもきっと、何年もの間。「そういうわけにもいかないだろう」 その一言目から、ぼくの声は言い訳の色を帯びていた。あやかの表情はかわらない。「現実にきみはまだ九歳の子どもだし、ぼくはきみの肉親ではなくて、そしてきみには血縁上の、そして戸籍上の父親がいる。きみに暴力をふるうわけでもなく、犯罪を犯して服役中でもない、安定した収入のある父親が。この状況で、ぼくがきみを連れていけるようには、この国のしくみはできていない」 あやかは答えず、左の唇を吊り上げるようにして、冷たく笑う。 その歪んだ口の端をみた瞬間、細かな痺れがうなじから背中へと伝った。それと感じるより先に、足が動いている。認識の隙間にもぐりこむ、組み込まれた本能の小声の指令に従って、手が伸びる。触れたい、という感情。あるいは命令。脳髄の奥深いどこかから発せられた微弱な電流。 抱きしめても、あやかは身じろぎひとつしない。冷えた表情と反するように、子どもらしく高い体温が、コート越しに伝わってくる。「そんな表情をするもんじゃない」 空疎な言葉は空気に触れると同時に、酸化して安っぽい臭いを放ちはじめる。あやかが笑う息が、首筋に触れる。ざわりと鳥肌がたつのが自分でわかる。あやかはいま、それを見ているだろうか。いつものように、黒々とした目をぱっちりと開いて。 あやかの小さな体を離した。近所の人間にでも見られたら、即座に通報されかねない。親族でもない大人の男が、小さな女の子を抱きしめることがゆるされるような社会ではないのだ。「きみのお父さんは、きみのことが……」 いいかけて、ぼくはその続きを飲み込んだ。だけどあやかは、さらりと後をひきとった。「怖いんでしょうね。こんなかよわい女の子ひとり」 冗談のつもりだったのだろう。あやかはくすりと笑って、それから、興味をなくしたように、ぼくからすっと瞳をそらした。「だったら」 きみが子どもらしい子どもであるかのように、父親の前で演技をしたら、それで万事解決じゃないのかと。そういいかけて、ぼくは言葉を飲み込んだ。それは大人の理屈で、いくら子どもらしくない口をきくからといって、子どもに押し付けていい論理ではないような気がした。 何度か口をひらきかけて、閉じる。飲み込んだ言葉が白い息にかわって、虚しく空気に溶けていく。---------------------------------------- あああだめだまとまらなかったけど力尽きた。中途半端なところでごめんなさい……orz