ミニイベントやります。テーマは「ツンデレ」というもの。締め切りは23時あたり。これだけです。あとは好きにやってもらってかまわないので、楽しんでみてください。誰より良いものを書こうと思うな、誰より楽しんで書いていると思えるようになれ、が今回の隠れテーマですw。まずはそんな風になりたいですねー。
風薫る五月。新学期が始まってさっとひとつきが去り、ゴールデンウィークの真っただ中。田舎では田植えの真っただ中。都会では田舎へまっしぐら、の時。「お嬢様。今年こそは、早乙女をしていただきますからね」 手伝いで来るヨシ婆さんその言葉に、こっそりと家を抜けだそうとしていた令嬢のヒナはどきりとした。いつの間にか行く手も姉のヒヨとカヤ、それに妹のヨモギに塞がれている。 彼女の家は旧家でも旧家。土豪の子孫だということもあって家の年中行事として定例かつ半ば掟と化した広い田圃の田植えがある。 毎年姉妹に早乙女を押しつけて、なんだかんだと言いつつ逃れてきた彼女であったが流石に今年こそは逃れられないらしい。「い、いいわよ。早乙女ぐらい」 仕方なく彼女は行く手を遮られてはなす術もなく、承知せざるを得なかった。 この分だと連休明けに男子連中に何言われるかわからない。 ちょいと悔しい気もする。 着慣れない絣の着物とモンペを着せられて、半分連行された形で田圃に送られる。 その途中で、クラスメイトのタツキに見られた。「お前、その格好でどこへ行くんだよ」「田圃よっ。べ、別に好きでこんな恰好してるんじゃないからね」「ふ~ん。意外に似合ってるじゃん」 逆に興味をそそられたらしい。 田圃に来るとあまりの広さに立ちくらみを起こしそうになる。気になったらしく、後をつけて来たらしいタツキがはるか先のあぜ道でうろついていた。 田植えが始まる。 田植え囃子と太鼓が響き渡る。 その音でようやくタツキが気づいたらしい。 姉妹が囃子に合わせて植えてゆく。ヒナはそれにかなり遅れて植えてゆく。 それをタツキが興味深そうに見ていた。 ちょっと恥ずかしい。でも、似合っている、言われたのが妙にうれしい。 ヒナは複雑な心持ちだった。 気が付けば、田圃のあぜ道はギャラリーが集まっていた。 姉妹に遅れること三十株以上。 どうにかこうにか植え終わってほっとしていると、父のイナゾウがどこかの夫人と話をしていた。「誰?」「え、姉さん知らんの? ウナガミ家の人だよ。あぜ道で私らを見ていた兄ちゃんの家」「へ?」 驚きである。 どうつながりがあるのかはさっぱりわからない。「今年も神饌に使う稲が育てばいいなぁ」 イナゾウが言う。 ようやくそれでヒナは納得した。 そういえば、彼の家も海に近くにあってかなり大きな屋敷だったし、神社っぽいのがあった。「山と海は切っても切れんのよ」 イナゾウはそう言った。 そう、彼女の家であるヤマガミ家は、ウナガミ家の田圃も作っていたのだった。 ヒナは魚取りするタツキってどんな格好をしてるのだろうと、勝手に妄想をしていた。了
あたしはダメだ。ダメな人間だ。なにひとつできやしないクズだ。いっそこのまま死んでしまった方がいいと思うのだけれど、それすらこわくて如何ともしがたい。せっかく三万円で買ったナイフも、鞄の底にしまわれたきり日に日に輝きを失っている気がする。はじめて手にしたときはあんなにきらきらとまばゆくて、本当にこれが人を殺すための道具かしらん、などと不思議に思ったくらいだったのに、今はどうしたことか。まるで土くれにも劣るような愚鈍な物質は、ただ重みだけを存在理由として日々を無為に過ごしている。時折鞄からひっぱりだしてみても、もはや以前のような元気はなくて、ぐったり身体をよこたわえたまま、すうはあとか細い呼吸をするのに必死だ。往時はあまりに元気さがよすぎて、両親から隠すのに苦労したほどだった。あのときは愛嬌もあってかわいかったけれど、いまはもうダメだ。愛情ももてない。そんなわがままな自分を省みると、さらにイヤになって、ああ、ダメだダメだ。 いつか殺そうと試みた鈴木はダルマとなりながらまだ生きている。まだきらきらときれいだったころのナイフとあたしは、鈴木の学ランごとその短い両手両足をえぐって、ついでにへそから背中へ刃を貫通させたりなんかして、引き抜くと傷口から溢れる腸やら血しょうやらの海に混じって子宮がこぼれて、あたしもナイフも鈴木のことをすっかり男だと思っていたからひどく驚いたものだった。あのあと問いただしたところ彼、あるいは彼女は実はある種のアンドロギュヌスのようなものであったらしく、ペニスもヴァギナもついていて、そのせいで性欲が常人の二倍あるらしい。あたしのことを強姦したのもその性欲を押さえきれなかったのが原因で、「まあ、これでおあいこだろ。ごみんごみん」とすでに失われた手をあわせたが、あたしの恥辱はこんなもんじゃない。絶対に殺してやる、と決意するもののダルマとなった彼は退院した後、規定にしたがってすみやかにダルマの学校へと転校していった。その足取りは人間であるあたしに追うことあたわず、彼は永遠に殺し損ねたままだ。はじめてをかえしてほしい。 思えばナイフと決裂したのもあの事件が故で、殺すことが目的のあたいと、切り刻むことが目的のナイフとではそもそもの美意識が違った。突き刺す、ということをナイフは好まなかった。そのことでひどい口論をして、それきり。鞄の底に放り込んで、それきり。衰弱しても、それきり。ナイフを飼うのに愛情は絶対不可欠なのだけれど、それを抱けないでいるあたしは、このまま見殺しにするしかないのか。あたしは人を愛せない人間であるのか。人類が好きだとか、世界が好きだとか、そんな大言を壮語するあたしが、ナイフの一本も愛せないのか。 言葉はむなしくて、だからあたしはダメだ。ひとを愛せない人間種に、生きる資格はない。なのに死ねなくて、だからあたしはダメだ。 鞄の底からそっとナイフをとりだす。動かない。ついに死んだか、と心配になって背中をさすると、ぴくり。痙攣するようにすこし動いて、ほ、と胸をなで下ろす。「そう悩むなよ。俺はいつまでもまってるからさ」 ナイフがつぶやいて、だけど素直になれないあたしはダメだ。「う、うるさい! 別にあんたのことなんか好きじゃないんだからね!」 いつか愛せるようになるといいな、と思う。
「だから、機嫌直してよ。……キミねー、そういって何度絶交させたかわかってる? 禁煙は簡単だ、私は今まで何度でもしてきたのだからって言い回しじゃああるまいし。……よく言うよ。僕が大人の鷹揚さというものを見せなかったら、キミはただクズって拗ねるばかりじゃないか。……ああ、そうさ。……別れるのは良いけれど、今晩帰るところがピリアにはあるわけ? ……で、どうするわけ? ……へえ、そんなお金があったのか。……なるほど。万年散財癖の塊であるキミが、困窮するうちの家計の中で、貯金していたわけだ。……あれほどの甘いものを買っておいてねー。……わかった、わかったって。僕が謝れば良いんだろ」 周囲の視線が痛い。冬の乾燥した冷たい空気とあいまって、それこそ矢印の先端がそこら中から突き刺さってくるようだ。つまりはあの人、おかしいんじゃない? ということなのだろう。 人のごった返す週末の大通りで、僕とピリアはケンカしていた。ささいな誤解――約束の時間をどちらが間違ったか、ということで、口論となっていたのだ。いや、口論と思っているのは、僕とピリアだけだろう。僕ら以外は、十中八九そのようにはとってくれない。僕というおかしな人間が、一人で、ただの一人で、騒いでいるように見えるだけなはずなおのだ。まったく損な立場にいるよな。そんな思いにかられる僕を察したのか、ピリアがキッと僕を睨み付け、そのままそそくさと歩きだしてしまった。一瞬手を伸ばしてみるが、彼女の亜麻色の髪にさえ指が絡むことはなかった。 僕はため息をついて、うなだれる。そして、なんとなく頭を上げると、僕を訝しむように見ていた人たちが、『一体何を騒いでいたんだ、このおかしなヤツは』と不思議がっている姿が見て取れた。 ――ああそうさ、おかしなヤツと思ってくれてかまわない。 僕は毎度のごとく、そう心の中でつぶやいて、さて、今回の絶交はいつまで続くのだろうかと、あらためてため息をつくのだった。 一人で帰り道を歩くのは、何度目になるだろう。そう思いながら、自宅のアパートまでの道のりを歩いていた。日が傾き、先行く人の影がやたらと長い。どこかから匂ってくる香辛料の匂いが空腹を刺激するものの、足が速めるというわけにもいかなかった。帰ったところで、寒いボロアパートに独りなのだ。そう、ピリアは当分帰っては来ないだろう。彼女を僕はいったいいつ探しに出るのだろうか。それはもしかしたら、ピリアがこの寒さが堪え、重い脚を絶交した相手のアパートに向けるのと同じ頃なのかもしれない。 僕はため息を吐いて、先ほどの『会話』を反芻してみた。「だから、機嫌直してよ」『やだね。シュンとはもう絶交だ』「キミねー、そういって何度絶交させたつもりか分かってる? 禁煙は簡単だ、私は今まで何度でもしてきたって言い回しじゃああるまいし」『シュンがそのたび許してほしいっていうからでしょ。そうじゃなかったらホントに絶交だったんだ』「よく言うよ。僕が大人の鷹揚さというものを見せなかったら、キミはただクズって拗ねるばかりじゃないか」『何よ、その言い方! まるでわたしが悪いみたいじゃない』「ああ、そうさ」『もういい。もう本当に絶交。じゃあね、さようなら』「別れるのは良いけれど、今晩帰るところがピリアにはあるわけ?」『そ、そんなのなんとでもなるよ』「で、どうするわけ?」『ちょ、貯金使う。それでホテルに泊まる』「へえ、そんなお金があったのか」『そ、そうだよ』「なるほど。万年散財癖の塊であるキミが、困窮するうちの家計の中で、貯金していたわけだ」『お小遣いを貯めて、……たんだ』「あれほどの甘いものを買っておいてねー」『もう良いでしょ! とにかく絶交なの。ここでお別れね』「わかった、わかったって。僕が謝れば良いんだろ」『違う、全然わかってない。私が何に怒ってるか考えてもくれてないんだ』 振り返って思うのは、何も成長しないピリアと、同じく変わらない僕の有り様だ。どこにもいる、若いカップル。他人と違うことと言えば、彼女は、ピリアは言葉を発さないということだけだ。 そう、ピリアは言葉を発さない。発せないのではなく、発さない。喋れないのではなく、喋らない。僕だけが、彼女のうちなる声を聞き、それに応じて会話をする。 そんな馬鹿なと言われても、それが僕らの日常なのだ。孤児院で会った僕らの長い習慣。他人に打ち上げたことはないけれど、決してひた隠しにしようとしているわけでもない奇妙な秘密。きっかけはもう覚えていない。あるいは、それが重要なことなのだろうかと思うこともあるが、かといって幼いころの記憶をたどるには限界がある。今の僕に、僕とピリアの間にあるのは、ただ、普通に、そこらにいるカップルと同じように、僕らは暮らし、そして時にケンカをするということだけだ。ボロアパートの電球が灯るまでのタイムラグにやたらと腹が立った。タバコに火を付け、ベランダの窓を開け放つ。街灯の影に、人影はない。そんなことに妙に腹が立って、腹が立つ自分にまた腹が立つ。「まったく」 まったく、に続く言葉はないのだけど、そう言わざるをえない気分だった。その気分を助長するかのように、壁時計がやたらと耳障りな秒針の音を鳴らす。 絶交と言った以上、ピリアから声が届くことはないのだろう。僕らはどれだけ離れていても、彼女が僕に言葉を届けようとする限り、その思いが僕の中に響く。距離が離れればその響きは弱く、ぼんやりとしてしまうが、それは口にした声も一緒のことだ。 ソファに座り、雑誌を開いて閉じ、タバコに火をつけては、すぐに揉み消す。 ふと見れば、壁時計は、午後十時をしめしていた。 外はいよいよ冷え込んできたことだろう。そう思うと、いよいよ、いやな予感が脳裏に過る。危ないところに行ってはいないだろうか、変なやつに絡まれてはいないだろうか。仮に危険な目にあったとしても、彼女は決して声を上げることができない。 ふと、胸のうちに声なき声が響いた気がした。 それは、悲痛で、切実で、助けを求めるような声。 一瞬で、ピリアが泣いているイメージが僕の中に浮かび上がった。 気付けばコートを羽織り、玄関を飛び出していた。「ピリア! ピリア! ピリア!」 世間の目など気にせず、叫ぶ。 僕が二階からの階段を駆け下りた時、その階段の隅に、小さく縮こまった影が震えていた。「ピリア!」 彼女が、涙を眼に溜め込んで、ひざを抱え、うつむいている。「馬鹿! 早くうちに入れよ。凍えちゃうだろ」 僕がそう声をかけても、彼女は僕に『返事』をしない。 僕らの間には、どう埋めたら良いのかわからない沈黙が横たわっていて、それ以上の何かを押さえこんでいるかのようだ。 そんな時、不意にミャーと、予想外の声が聞こえた。「猫?」 僕は当たりを見回し、そしてそれが目の前の少女の胸元に抱きかかえられていることを知った。「捨て猫かい?」 僕が尋ねると、ピリアはようやくコクリと頷いた。 そこで、先ほどのピリアの声なき叫びを思い出した。一度絶交すると、よほどのことがない限り、僕に『声』を送らないピリアが、悲痛な叫びを届けてきたこと。もしかしたら――。「その猫、様子がおかしいのかい?」 ピリアは再びコクリと頷く。『どんどん元気がなくなるの。死んじゃうのかもしれない』 彼女はそう僕に言いながら、頬に涙を垂らした。「貸してみて」 僕は猫をピリアから渡されると、その姿をじっと観察した。あまりに、痩せ細っている。「きっと、飢えと、寒さで弱っているんだ。大丈夫、あたたかくして、栄養のつくものを食べれば、きっと元気になるよ」『本当?』 ピリアはすがるような視線を僕に向けた。 一瞬その潤んだ瞳に圧倒されそうになった僕は、おほん、と咳きばらいをするふりをして、「ともかく」と彼女にコートを羽織らせる。「ともかく、人間も猫も、こんな寒いと、参っちゃうってことだよ」 ピリアは、男物のコートをギュッとつかんで、コクリ、と深く頷いた。 部屋に帰って、ミルクを飲む。ホットミルク。三人分、いや、二人と一匹分だ。『ねえ、この子どうしよう』 その、『この子』は、人間よろしく、ホットミルクに舌を伸ばしている。猫舌という言葉があるが、この猫は特殊なのだろうか。なかなかに愛嬌のある姿だとも思えた。「うーん、当分はうちで面倒みるよりないね。今放り出すのも忍びないしさ」『本当?』「ああ、その分、家計はますます厳しくなるよ。あと、大家さんにも話を付けておかないと」『大丈夫。わたし、いろいろ我慢するから』「ああ、それだと、助かるよ」 迷い込んだ一匹の猫のおかげか、いつの間にか日常を取り戻した僕らは、ケンカや絶交がどうというより、猫のこれからばかりを話し込む。そして、満腹した猫が眠り、僕らもトロンとし始めた。ピリアはベッドで眠り、僕はソファで眠りにつく。 寝入る前、『ありがとう、シュン』と聞こえたのは、ピリアの声なき声か、それともただお空耳か。はっきりしなくてもかわやしないさ、と僕は大きなあくびをした。今晩は良い夢が見れる、そんな気がした。
手が滑って、トレイを取り落とした。 プラスチックが床にぶつかって立てる、騒々しい音。誰かが小さく悲鳴を上げた。 ごめん。誰にともなく小声でいって、食器を拾うためにかがみこむと、背中のほう、どこか離れたところで笑い声がした。見ろよ、あのザマ。 気にするな。自分に向かって、胸のうちでつぶやく。何をいわれても聞き流せ…… 食べ終わったあとの食器だったのが、せめてもの幸いだった。それでもいくらか床に飛び散ってしまった食べものの滓を、ポケットに入っていたハンカチで拭った。その手が、無様に震える。 ちっともいうことをきかない、この手……。 ひきつれた火傷のあと。白くひきつれた、みにくい傷。あの日から、始終つきまとう忌々しい痺れ。 視界にとつぜん、影が射す。目を瞬くと、誰かの靴が、目の前にあった。顔を上げると、ソウマがそこに立っていた。 照明がちょうど逆光になっていて、その表情はよく見えない。けれどいつものように、眉間にきつく皺を寄せているのだろう。 ソウマがかがみこんで、椀を拾った。同じ高さに降りてきたその表情は、想像したとおりの仏頂面だった。 同情というわけか……。腹の底からこみ上げてきたその考えは、焼付くように熱く、驚くほど苦かった。 ソウマは乱暴な手つきで、椀を突き出してきた。受け取った僕の手は、まだ震えていた。 早く行けよ。いってから、自分の声に滲む屈辱の熱に喉を焼かれた。その苦さは、僕の顔に出ていたのだろう。ソウマは目を細めて、吐き捨てた。「無様なもんだな」 無様。 その言葉はガンガンと頭の中で鳴り響いて、くりかえし反響した。 あまりに腹が立つと、声も出ないらしい。目の前がぼうっと白んで、自分の拍動が耳の奥で谺した。無様なものだな。ああ、まったく無様なものだ。その声は途中から、ソウマの声だか、自分の声だか、わからなくなった。わからないまま、白く霞む視界の中を、ぐるぐると回った。 百年に一度の逸材。芸術の神様に愛された少年。この美大に入ったときの、僕にまとわりついてきた言葉たち。そうした賞賛やおべっかを、鬱陶しいと思いこそすれ、誇ってなどいないつもりだった。絵のために僕がどれほど努力を払ってきたかも知らず、才能の一言でなにもかもを括ってしまう周囲の無責任さを、むしろ、憎んでいるつもりだった。自分では。 けれどぼくは、知らないうちに、それに拠りかかっていたのだろう。誰より自分の才を信じ、それに縋っていたのだろう。そのことを自覚したのは、皮肉にも、この手が二度ともとのようには動かないだろうと医者に宣告された、その日の夜のことだった……。 そうだ、あの日にもこいつは病院にいた。たまたま僕がこの火傷をおったその瞬間に、近くにいて状況を見ていたという、それだけの理由で。目の前のソウマの、しかめつらを見ているうちに、いま自分がどこに立っているのか、わからなくなった。ここは学生食堂なのか、それともあの日の病室なのか…… ヤスオミ・ソウマ。入学したときには、ぱっとしないやつだった。ルックスや実績のことではない、努力の形跡をうかがわせこそすれ、平凡な、とても平凡な絵を描くやつだと思った。心に訴えかけてくるもののない、ただお行儀のいいばかりの…… そうだ。僕はソウマの才能のなさに、おそらく同情してさえいた。自分ではそのことを、意識すまいとしていたけれど。 けれどいつからか、ソウマの描くものは変わった。こいつの身に――あるいは心に? ――何があったのかは知らない。知りたくもない。けれどいつの間にか、ソウマの描くものは、退屈ではなくなっていた。題材としてはありがちで、奇抜なところはない、けれどたしかに見るものの心をそっと揺さぶる、そういうものに。 その変化に僕がうすうす気づきかけたのと、ほとんど同じ時期だった。僕は手に火傷を負い、お気の毒ですがと口では言ってみせる主治医の、能面のような無表情を見た。僕の手は二度と元通りには動かず、以前のような線は引けない、二度と。 ソウマの絵は、一枚仕上げるごとに、少しずつ、けれど確実に、豊かになってゆく。線が活きている。ほかの皆も、そのことに気づき始めている。ソウマの周りには人が増えた。将来有望な、才能ある青年。それはやや遅い開花だったかもしれないけれど、遅すぎるということはない。 そこにいるはずだったのは、僕じゃないのか。 自分がそんなことを考えることそのものが、どうしようもなくみじめでしかたがなかった。だから僕は、ソウマを避けた。彼の絵もなるべく目に入れないようにした。ソウマの絵だけじゃない。美しいもの、優れた絵、その何もかもを。けして自分が二度と得られないものを。 僕の周りからは、ひとり、またひとりと、人が減っていった。それをソウマのせいにはすまい。自分の絵のことしか考えていなかった僕は、長いこと、他人との関わりにみずから労力を割こうとしてこなかった。自業自得だ。まったくもって…… ソウマは僕を見下ろしている。軽蔑の表情をもって。 ああそうだ。傲慢の報いだというのだろう。わかっているから、僕のことはほうっておいてくれ。 あの日からずっと、僕は大学の片隅で、目立たないように、ひたすら小さくなってすごした。他人の会話には耳をふさいで、誰とも目を合わせないように。はじめは同情めいたことをいって、慰めまがいのことを口にしていたほかの学生たちもいた。けれどその目の奥に、小気味いいというような色あいを見出したのは、はたして僕の心の問題だけだっただろうか? 講義もすべて、右から左に聞き流した。過去の偉人のことも、その作品のことも、この手でできもしない高度な技法のことも、もうどうだってよかった。感動とともに絵を眺めることなど、二度とできないだろうと思った。リハビリという名目で、このろくに動かない右手が引く、幼児の書いたようなつたない線ばかりを、ただただ見つめて。 少しずつその線は、ましになってきてはいた。幼児のような線から、小学生のような線にはなったかもしれない。けれど希望など抱けようもない。どれほど恢復したところで、けして元通りになることはないのだ……「行けったら」 吐き捨てるようにソウマにむかっていってから、その声のあまりの無様さを、自己弁護するかのように、僕は付け足した。「忙しいんだろう、展覧会はじきなんだ」 何を言っても、何を見ても、もう、惨めになるだけだった。僕は立ち上がり、トレイを抱えなおした。ふらつく足で、ソウマに背中を向けると、苛立った声が追いかけてきた。「お前は何もわかってない」 僕は立ち止まった。わかってない? 僕が何をわかってないって?「自分の立場なら、いやほどわかってるさ」 いいかえす声が震えた。「お前がそんな手になっても、辞めずにここに残ったのは、何のためだ?「もう描けもしないのに、いつまでも目障りだっていいたいのか? 視界に入らないところに消えちまえって?」 周囲の学生が遠巻きに注目している、その視線を感じていたけれど、荒くなる声をセーブすることが、どうしてもできなかった。 受け流せ。自分に言い聞かせ続けてきたその呪文も、もう効力切れのようだった。それでも胸の隅のほう、どこか遠いところから、自分が必死に自分をなだめようとしていた。よけいな騒ぎを起こすな。このうえ恥を上塗りしたいのか。「お前は、本当に何もわかってない」 ソウマは同じことを繰り返した。自分の顔が屈辱で真っ赤になっているのがわかった。「たいした上から目線だな。お前に何がわかってるっていうんだ」 振り返りながら、そう叫んだ。けれど視界に飛び込んできたソウマの表情は、思っていたのと、少し違った。眉間にきつく皺が寄って、苛立たしげにしている。けれどそれは、侮蔑というよりは…… こいつは何を悔しがっているんだろう? その疑問は、ほんのわずかにではあるけれど、僕の頭を冷やした。「お前の絵の中にあったのは、線の美しさだけだったのか?」 ソウマのいっていることの、意味がわからなかった。 繊細さと躍動感。動物や人間を描けば、いまにも動きだすようだと誰からもいわれた。絵の中から、いままさに飛び立とうとしている鳥の、羽毛に覆われた下の筋肉の質感まで、僕は自在に画布の上に載せることができた。全面の笑みを浮かべる少女の、頬の産毛が金色に陽射しを透かすのまで、残さず描けた。笑い声がいまにも聞こえてきそうだと……。 この役立たずの手さえ! ソウマは周囲の注目など、気にもしないようだった。滲む苛立ちを、隠そうともせず、声を荒げた。「俺はお前の描いた、夏の絵が好きだった」 僕は訝しく、眉根を寄せた。こいつはなんのことをいっているんだ?「通学路の絵だ。道端に向日葵が咲いて、遠景で高校生が走ってる」 とっさに思い出せないくらい、その絵はとっくに記憶の彼方にあった。 それはなんということのない絵だった。なにかの賞を狙ったわけでもなく、ただ習作の一枚として描いて、そのままどこかに突っ込んで……あの絵はいま、どこにあるのだろう? 何かのついでに処分してしまっているかもしれない。それくらい、たくさん描いてきた絵の中の一枚で、なんということのないものだった。僕にとっては。「あの空の色が目に入った瞬間、俺は子どもの頃にすごした夏のことを、いっぺんに思い出した。それまでほとんど忘れていた、引っ越す前の家の……」 いいかけて、ソウマは舌打ちした。「そんな話をしたいんじゃない」 ソウマは苛立たしげにためいきをつくと、はじめて僕から視線を逸らした。「元のような線は、もう描けないかもしれない。けどな、お前が持っていたのは、本当にそれだけだったか?」 お前はいつまで、そうして閉じこもっている気だ? 背中を向けて歩き出しながら、ソウマはそんなようなことを、小さく呟いた。その声を、悲しそうだと思ったのは、僕の心の問題だけだっただろうか? ソウマが立ち去って、その姿が見えなくなったあとも、僕は呆然として、その場に立ち竦んでいた。周りの学生たちが、気にしながらも、講義の時間にあわせて立ち去っていくのも、ほとんど見えていなかった。 気がつくと学生食堂には、ほとんど人がいなかった。食器を洗う音だけが、やけに耳についた。 気がついたら、テーブルを殴っていた。何度も、何度も。けれどこの手では力が入らず、自分の耳にもその音は、ひどく情けなく、弱々しく響いた。 好き勝手なことばかり、いいやがって。 唇からこぼれた声は、やはりみっともなく掠れるばかりで。続ければ続けるほど、悔しさは増すばかりで。 あのときの絵の空の色なんて、覚えていなかった。 勝手なことばかり……。 テーブルを殴った拳が、熱をもって、じんじんと痺れていた。その痺れが、元からのものなのか、拳を痛めつけたことによるものなのか、僕にはもうわからなかった。
本当になんでもないことなのだけれど、僕は犬を飼っている。今年で十八歳になる、小さな柴犬だ。年寄りの女の子で、足が悪い。生まれつき右の後ろ足がうまく動かないのだ。だから彼女は歩くときにはいつも三本足でひょこひょこと歩く。まあそんなことはなんでもないことだ。今のところそれなりに元気に暮らしている。彼女もそんなことは気にしてなんかいないのだろう。 世話はいつも僕がやっている。散歩に連れて行き、水とドッグフードを与える。ドッグフードがなくなると、それを買い求めるために近所のペットショップに向かう。病気になると自転車の前かごに載せて片道三十分ほどかけてかかりつけの動物病院にまで連れて行く。これはちょっと面倒だ。その上治療に結構なお金がかかる。とてもとても面倒なことだ。だから僕は彼女の体調管理には気を使っている。 一概に言えることではないのかもしれないけれど、犬を飼うということは面倒なことだ。少なくとも、彼女の世話をするのは面倒なことだ。例えば、おそらく僕は一日に一時間から二時間を彼女のために費やしている。費やしているというは彼女と一緒に遊ぶという意味ではなく、彼女の世話をするという意味だ。それをほとんど毎日、十八年近く続けている。数えたことはないけれど、結構な時間になると思う。 彼女は家の中でトイレをしない。犬用のトイレのようなものを部屋に置いてはいるのだけれど、彼女がそれを使ったことは一度もない。不思議な話だ。トイレのしつけに失敗したのかもしれない。彼女のトイレのために買ってきた三十センチ四方のプラスチックでできた犬用トイレ、もしくは犬用トイレシート置きは、一度も正しい使い方をされないままに、今では彼女のお昼寝用のベッドになっている。多分彼女はそれが彼女のためのトイレだと言うことは分かっていないのだと思う。そして、困ったことに、彼女はそれが気に入っているらしい。本当に不思議な話だと思う。 そういった理由で、僕は彼女に用を足させるために毎日散歩に連れて行く。昔は一日に一回三十分ほど外に散歩に連れて行けばよかった。そこで彼女は歩き回り、用をたす。僕はそれをビニール袋にしまったり、上からペットボトルに詰めた水をかけることによって処理したりする。最近では彼女は年をとってトイレが近くなったせいか一日に三回、朝夕夜と散歩に行きたがる。これはなかなかに面倒なことだ。彼女がトイレの使い方を覚えてくれればこんな面倒をしなくてもすむのに、と僕はそのトイレの中で眠る彼女を見ながら思う。 もちろん、僕は今までに何度も彼女にそのことを伝えようと努力した。 こんな風に。「ここは、トイレ! 寝る場所じゃないの!」 彼女は何か新しい遊びが始まるのかと勘違いしたのか、期待するような目で、尻尾を振りながら僕を見つめてくる。「ここは! トイレ!」僕は言う。「おしっこと! うんちをするところ! 寝るところじゃないの!」僕は叫ぶ。 彼女はこれが遊びではなく真剣なものなのだということを理解すると、残念そうな顔をして、再び眠ろうと体を丸める。「だから!」僕は再び言う。「こーこーは! トーイーレ!」 彼女はあくびをしてつまらなそうに目を閉じる。「違う!」 僕は叫ぶ。そして諦める。 こういうのはとてもむなしい。でもいつか分かってもらえたらいいと思う。 彼女は散歩の途中でよく立ち止まる。彼女が立ち止まると、つられて僕も立ち止まる。僕と彼女は、リードで繋がっているからだ。 散歩の途中で、僕の進みたい道と彼女の進みたい道とが分かれる場合もある。例えば、僕は十字路を右に曲がりたい。そのほうが家に帰りやすくなるから。だけど彼女は十字路をまっすぐに進みたいと思っている。気分が良くてどこまでも遠くに行きたい気分なのかもしれない。そうなると、僕らの歩み止まる。十字路の角のあたりで、二つの別方向へ進もうとする力が垂直に交わる。彼女と僕の間にある丈夫な細い紐にその力を加えて、ぴんと張り詰めさせる。その紐は僕の手首と、彼女の首に繋がっている。あまり強い力がかかると彼女は苦しいんじゃないかなと僕は思う。 僕は手に少し力を込める。僕の行きたい方向へと彼女を引っ張る。彼女は三本足で踏ん張ってそれに耐える。彼女は譲らない。僕もその気になれば、無理やり彼女を引きずっていくこともできる。だけどそうすると誰か近所の人に見られたときに、とても気まずいことになるので、結局は僕が折れる。僕は彼女に引っ張られて十字路をまっすぐに進む。これでは僕が彼女を連れて散歩をしているというよりは、彼女が僕を連れて歩いているといったほうがいいんじゃないかな、と思う。 時々、何の変哲もない、曲がり角も何もない場所で彼女は立ち止まる。 僕は彼女を見る。歩きつかれたのかもしれない。どうかしたのかと問いかける。小首をかしげるような仕草で僕を見返す。彼女は何も答えない。 そんな時間の中で「何が彼女の足を止めたのだろう? 少し珍しいな。まだ歩き疲れるには早いはずなのだけれど」なんてことを考える。彼女は立ち止まったままだ。それからあたりを見回してみる。例えば、それが秋の、大通りでも路地裏でもない、何の面白みもない普通の道の上での出来事だったとする。秋の冷たく乾いた風が脇を通り抜けていく。軒家に植えられた木の葉がゆれ、乾いた木の葉が出す小さなかさかさという音が聞こえてくる。道の脇に立てられたアパートのベランダに洗濯物が干されている。男物のTシャツとジーンズ、あと何枚かの靴下。コインパーキングには車が止められている。足元の地面には歩行者用の白線が引かれていて、それが大通りまで延びている。空には雲と、どこか高いところで鳥が飛んでいる黒い影が見える。あまり人は通りかからない、秋の乾いた何もない道だ。僕はそれらをぼんやりと眺めながら、彼女が再び歩き始めるのを待つ。まるで時間の流れが変わってしまったみたいに、ただただぼんやりとした時間が流れる。 そしておもむろに彼女は歩き出す。やっぱり歩きつかれたんだろう。と僕は彼女について歩き出す。 家の近くには芝生の生えた気持ちのいい公園がある。あまり広くはないが、ブランコと、砂場と、鉄棒と、滑り台といくつかの小さな青いベンチがおいてある公園だ。彼女はこの公園が好きだ。散歩の途中でよく通りたがる。 秋になると、緑色の芝生の上に黄色いイチョウの葉がこんもりと山のように集められている。誰かが掃除のためにそれをやっているようなのだけれど、その場面に出くわしたことはない。二つの色の対比が中々に綺麗な光景だ。この公園は何時来てもほとんど子供を見かけない、不思議な公園だ。 その代わりに、この公園にはおばあさんと猫が良く集まる。 公園には顔見知りのおばあさんもいる。「こんにちは」と僕は挨拶する「いつもえらいわねえ」とおばあさんは彼女にむかって言う。「足はどうしたの? 事故にでもあったの?」今度は僕に向けて言う。「生まれつき悪いんです」と僕は答える。「事故?」彼女は聞き返す。多分耳が遠くなっているのだと思う。「生まれつき悪いんです」先ほどよりも少し大きな声で言う。「ああそうなの、でも偉いわねえ。一生懸命歩いて」「私も足が弱くなってきてるから、歩いてるんですよ」とおばあさんは彼女に向かって言う。「そうなんですか」と僕は彼女の代わりに答える。 こういった会話を僕は何度も何度も、そのおばあさんに会うたびに繰り返している。 散歩に満足して家に帰りたくなると、彼女は道の上にへたり込む。これは道の途中で立ち止まるのとは少し違う。地面の上に伏せってしまうのだ。そうなると彼女はところかまわず足を曲げ、お腹を地面につけて歩かなくなる。 かつて彼女がまだ子犬で、僕もまだ子供だったころ、彼女が散歩の途中で伏せってしまうのは、彼女の足が悪いからだと僕は思っていた。小さかった僕はそんな彼女を見て、本当にかわいそうだと思った。そのため僕は彼女が歩かなくなると、彼女を抱き上げて、そのまま家までひいひい言いながら帰ったものだ。きっと彼女はそのことを今でも覚えているのだと思う。 子供時代の僕の優しい心は、彼女を一つ賢くした。きっと彼女はこんな風に考えている。 歩きつかれたらふりをすれば、あの男が抱きかかえて家まで送ってくれるぞ。と。 僕と彼女の散歩は僕が彼女を抱きかかえて家に帰ることで終わる。家に着くと僕は彼女の足とお腹をシャワーで洗い。散歩を終える。 これを一日に三回繰り返す。夜眠る前に彼女を散歩に連れて行き、次の日の朝にまた彼女を散歩に連れて行く。 ある日の朝、僕は目を覚まし、眠っている彼女の名前を呼ぶ、彼女は目を覚まさない。今度はもっと大きな声で彼女の名前を呼ぶ。やはり彼女は目を覚まさない。僕はいやな予感がして、彼女を揺さぶりながら、名前を呼ぶ。死んでしまったように、彼女は目を覚まさない。本当にいやな予感がする。 僕は心を落ち着けて、彼女を抱きかかえると、玄関まで連れて行き、散歩用のリードを首にかける。 そこでやっと彼女は目を覚ます。寝ぼけ眼で、これから散歩に行くのだということを理解し、のんきに尻尾を振って喜ぶ。 僕は自分の想像したものが来なくて良かったと安心すると共に、とてもばかばかしいような気持ちになる。 だけどその日は必ずやってくる。そして、それがそう遠くないうちにやってくるということを、僕は知っている。ある日の朝、僕が目を覚まし彼女の名前を呼ぶ。彼女は何も答えない。何度も何度も彼女の名前を呼ぶ。彼女はもう永久に僕の呼びかけに答えることはない。ゆすっても、抱き上げてもつねっても。彼女のトイレは本来の使い方を一度もされることなく処分されて、余ったドッグフードの袋もまた処分される。彼女のために買ったほとんど全てのものを、僕は処分することにだろう。 それがやってきたとき、僕は様々なものを失うだろう。僕は彼女を失い。それから、ぽっかりと心に穴の開いたような気持ちを得る。 今から何か準備が、それが来たときに失われていくものに対しての、お別れの準備のようなものができたらいいと思う。喪失感に対する、心構えのような。そのときはもうすぐそこまで来ているのかもしれない。本当に、すぐ近くに。準備は早くしなくちゃいけない。だけど、どうすればいいのかは分からない。 その時に何か、暖かいものがあればいいと思う。
ツンデレちゃんがいない。(;_;)