『鉛筆』 『雪女』『スクール水着』です。1時までです。ねばーねばーだーい! の精神を忘れずにきばっちゃってください><
お題は、『鉛筆』 『雪女』『スクール水着』です。「遭難ですか?」「そうなんですよ」 自分でもアホな返事をしたもんだ。これは幻覚に違いない。この猛吹雪の中、少女? 彼女はあからさまに場違いなスクール水着だからだ。 胸の刺繍にマジックで書いてある名前は、トメだった。2-3からして中学二年生だろう。 彼女の神秘的な美しさに見とれてはいない、決してスク水が趣味なわけではない。「トメさん、僕はこのままじゃ凍死してしまいます、暖かい所へと案内してくれませか? どうか助けて下さいな」「ごめんなさい、あなたを助けたいのは山々ですが、私も課題が… って、私はトメじゃありませんっ! ジェニファーですっ! このスク水はお祖母ちゃんの形見ですっ!」 プンスコッ! と顔を膨らましたジェニファーに、理不尽にも怒られた。そんな名前は知る由もない、しかも課題ってなんだ? 僕はこのままほったらかしで死んでしまうのか? それはなんとしても避けたい所存。「課題なら僕も手伝うよ、その後で暖かい所へとお願いします」 頭を下げる勢いでそのまま寝そうになるのを必死に堪える。危ない危ない。「課題と言うのはバタフライで百メートル泳ぐ事です。あなたはバタフライ出来ますか?」 え? どこで? この雪原? まさかここ? バタフライ、バタフライ、バタフライ、この危機的状況で何て素敵な響きだろう。彼女の羨望に僕は応えた。百メートルの半分、いや五メートルも進んではないだろう。服を脱ぎ捨て、必死に僕は雪をかき分け泳いだ。自殺行為とも言える。裸で発見された死体の僕はどう思われるのだろう。「教官っ! 私は教官に共感しましたっ! ありがとうございますっ!」 いつの間に教官にされ共感されたんだろう。身体は瞬時に凍結し、意識が遠のく。 洞窟の中、たき火の前で暖を取っていた僕は救助体に発見された。 果たして、ジェニファーは実在したのだろうか? 雪女だったのだろうか、または幻覚か妄想か、それを確かめる術はもうない。 二度と遭難はごめんだ。 日記を閉じ、鉛筆を置く。この日の事はそっと自分の胸に秘めておこう。
お題は、『鉛筆』 『雪女』『スクール水着』です。 私は途方にくれていた。 泳ぎが苦手な私がバタフライなどどうしてできよう。 友人達は白状で今頃冬休みを満喫している。ああ、イエティさん達との合コンに私も行きたかったな。 送られる写メが羨ましい。携帯を叩き折るのをぐっと堪え、怒りにまかせてスクール水着を破り捨て、全裸で泳いじゃる。それをしなくて本当に良かった。人が生き倒れていた。 その人の両頬を平手打ちし、目を覚まさせる。「遭難ですか?」「そうなんですよ」 アホな返事が帰ってきた。このまま見つけなければよかったのかもしれない。 男は藁にも縋る想いで私に言い寄って来た。とある投稿小説サイトの昼野様みたいでキモイ。どうやら私を雪女と認識したみたいだ。「トメさん、僕はこのままじゃ凍死してしまいます、暖かい所へと案内してくれませんか?どうか助けて下さいな」「ごめんなさい、あなたを助けたいのは山々ですが、私も課題が…」 ウハッ、名前を見られた。物凄い恥ずかしい、スクール水着なんて着るんじゃなかった。 私は咄嗟に、「って、私はトメじゃありませんっ! ジェニファーですっ! このスク水はお祖母ちゃんの形見ですっ!」 なぜ外人って思われたに違いない、そんな血は混ざって無い。男はそれでも、「課題なら僕も手伝うよ、その後で暖かい所へとお願いします」 頭を下げる男、助かりたい想いが伝わる。それならやってもらおうじゃない。「課題と言うのはバタフライで百メートル泳ぐ事です。あなたはバタフライ出来ますか?」 男は目が点になった。雪原のプールを見渡している。頭の中は真っ白だろう。 ウハッ! この人何っ! いきなり服を脱ぎ捨てパンツ一枚になり、プールに飛び込む。しなやかな肢体は無駄なく雪をかき分ける。綺麗に泳ぐバタフライの男を私は目に焼き付けた。恥ずかしくも心打たれ感動した。「教官っ! 私は教官に共感しましたっ! ありがとうございますっ!」 ここで死ぬのは男も本望じゃないだろう。 重いのを我慢し、洞窟まで運び火を付ける。 吹雪が止んだら、発煙筒を打ち上げてあげよう。 この男のおかげで課題はこなせるに違いない。 洞窟に私は小さくお礼を鉛筆で書く『教官ありがとう、ジェニファーより』
世の中は、信じられないことが時に起こる。その原因は、そもそもそれが起こることを信じていないから、そして勝手な先入観を抱いているからだ――。「カラン」 木製の机に鉛筆が倒れ込んで、乾いた音を立てた。その音で靖史は目を覚ました。机の上には靖史の口からこぼれた水溜りがあり、靖史の目の前には授業中に居眠りする生徒に苛立つ先生が居た。「靖史……お前の鉛筆は目覚まし時計か」 先生は上手いことを言ったつもりだったのだろうが、周りの生徒たちの反応は極めて微妙だった。苦笑と失笑が入り混じり、妙な空気が教室を包み込む。先生は仕切り直すべく、改めて靖史に言った。「そんな風に鉛筆を倒したら、マッキーが痛いだろ」 鉛筆の持ち手の先端には、ネズミのマスコット人形が付いていた。先生はそれで笑いを取ろうとしたが、その試みも失敗に終わった。 授業が終わり昼休みになると、靖史は強く思った――様々な方法を考えたが、いずれも障壁がありそうだ、やるなら思い切ったことをしなければ。そう、「犯行」するなら今しかない。窓から外を見やると、夏の日差しを反射させながら、プールの水面がゆらゆらと揺れていた――。 昼休みが明け、次の授業はプールで水泳だ。みんなが教室から移動しようとしたその時、事件は起きた。「無い!」 声の主は、分厚いレンズのメガネを描け、体重は三ケタに達するのではないかと噂される米子だった。「ちょっと、私の水着が無いんだけど!」 瞬時に教室が騒然となった。「おい、誰だよ」「豚の水着返してやれよ」「豚じぇねーよ」 そこに先生が現れた。「米子、どうした?」「私の水着が無いんです」「誰か盗んだんじゃね?」 先生は必死に騒ぎを収めようとする。「みんな、冷静になれ。こんな豚の水着、誰が欲しがるんだ」「でも先生、世の中にはマニアが居るもんです」「なるほど」 至高の討論が終わり、先生は結論を述べる。「この中にマニアが居ます。みんなの持ち物をチェックします」 靖史は思った――まだだ。まだ時間が足りない。こんなんじゃ、フリーザをやっつけられない。 マニア探しが進むと、その矛先はいよいよ靖史へと向けられた。「先生、ちょっと待ってください。プライバシーの侵害です」「靖史、俺達は家族みたいなもんだ。家族にプライバシーは無いだろ?」「部屋のドアに鍵があれば、携帯にもロックする時代です」「靖史の心の鍵は俺が持ってるんだ、さあ」 コーナーフラッグ付近でボールキープするような時間稼ぎは、何とか功を奏した。もういい――靖史のカバンから、米子のスクール水着が出てきた。「あったぞ!」 先生が得意気に水着を天に掲げる。まるでワールドカップのトロフィーだ。靖史は先生の後方に、金の紙吹雪が舞っている気がした。「おい、マジかよ」「靖史、悪趣味だな」「悪趣味じゃねーよ、王道だわ」 非難の声の中で、米子は一人自分を擁護していた。「よし、みんなプールに行くぞ! 靖史、お前は教室に残ってろ」 先生の目は真剣だった。「一つだけ先に言っておくが……米子が好きなら、美的感覚を疑った方がいいぞ」 プールを目の当たりにした人間は、皆その光景に凍り付いていた――プール一面が凍り付いていたからだ。「なんだ、これは!?」 一番冷静さを保たなければならない先生が、一番動揺していた。 その後ろには、コッソリ付いてきた靖史の姿があった。良かった――靖史は思った。そして、全てを語る決心をした。「実はつい先ほど、プールが一瞬にして凍ったんです」 靖史の言葉を、先生は信用できない。「米子の水着を盗むあたりからして、お前はいかれちまったのか?」 それでも靖史は主張を止めない。「僕は小さい頃から、正夢を見るようで……あの午前の授業中、プールが凍る夢を見たんです」「どういうことなの、靖史くん?」 自分に気があると勘違いしている米子は、靖史に好意的だ。「午後一時半くらいに、教室の窓から外を眺めていると、プールが一瞬にして凍る夢を見たんだ。もしそれが現実に起きれば、授業中で多くの死者が出る」「はっ! だから時間を稼ぐ為に、わざと水着泥棒を演じて……」 米子の顔は悪いが、頭は良いようだ。「言いがかりだ、大体プールが一瞬で凍るはずないだろ。誰がやったっていうんだ」「雪女です」 とんちんかんな先生も、これには乗ってこない。「雪女か、季節外れの雪女ね」「先生、雪女が冬に現れるというのは先入観です。大体、雪女を見たことがあるんですか?」 わけのわからない主張に、先生はついに堪忍袋の緒が切れた。「どうせ、朝から何かして凍ってたんだろ? それ以外、物理的に有り得ない! 雪女が居たっていうんなら、証明してみろ!」 靖史は黙ってプールの底を指差した。 鉛筆の先端に付いたマッキーが、皮肉な笑みを浮かべていた。
ムスコよ ところでぼくは雪女の一族として生まれたんだが、おかげでずいぶんと困っている。乳房もなければ女陰もなく、ほとほと困っている。だったら雪男なのかといえば、それはまた種族が違う。あいつらはどちらかといえば毛深いが、ぼくは女の子でも通じるほどの白い肌で、産毛は透明な金色で風にわずかに揺れるばかりだ。 いつもようにネズミの散歩につきあって、夜中の住宅街をこそこそと歩いている。 とっくに真冬でときどき雪もちらつくような季節にあって、うちのネズミはまったく夏場と変わらない。はげちょろげた灰色の毛皮をまとっているだけで、それでいて震えるようなこともなく、ほこらしげな足取りでアスファルトを蹴りつけている。回転は早いが、コンパスの短さで、ぼくがのんびり歩いても問題はない。 そのぼくはといえば、あっさりと薄いロングTシャツとデニム。なにしろ雪女の男だから雪が降ろうが、空っ風が吹きすさぼうがさっぱり寒さを感じない。もっと薄着でもかまわないのだが、いくら深夜とはいってもご近所の目がどこで光っているかわからないので、このような格好になっている。 それでも自分から好んで身につけているのは、この黄色とオレンジのボーダーになっているキャップだ。いっそ、このキャップだけで、あとは裸で歩き回りたい。 街灯の下で、ネズミがフンをした。 ほぼ十五分おきにするので、散歩の間に三回ほど脱糞する。 ちなみに散歩をさせていると、まるでぼくかぼくの家族が飼い主のようだが、それは間違いだ。ネズミはペットではない。自由に我が家を出入りしているし、エサを与えているわけでもない。ちょっとした顔見知りよりも、関係は薄いような気がする。そもそもこいつに名づけてもいない。誰もがネズミとしか呼ばない。 なぜか深夜に訪れては、リードを前歯でひっかけてぼくのところにやってくる。催促されるから、しかたがない。 だいたいぼくは、なんだっけ、主体性? そういうものがない。自分が何者なのかもさっぱりわからないのだから、それも仕方ないと思う。 ぐるりとうちの近所を廻る。もう午前二時を回っているから、さすがに住宅地は静かなものだ。冷え冷えとした空気が心地よい。思い切り深呼吸しても、並の人間のように呼気が白くならないのはつまらないけど。 玄関前まで来たところで、ネズミが立ち止まる。最後にもう一回というわけ。 下腹部が見えない手に押されているようにへこんだりふくらんだりを繰り返し、にゅるりと後ろ足のさらに後ろにフンが出る。 今回はダイナミックマイクが出てきた。 その前が鉛筆四本、さらにその前がスクール水着(2-4 田端庸子)。 いつも思うのだけど、このネズミはほんとうのネズミなんだろうか。フンといっても、肛門からあり得ないものばかりが、そのままの姿で出てくる。 ぼくの部屋はこいつのこうした習性のおかげですっかりガラクタ置き場のようになっている。フンなのかモノなのか判断しきれず、トイレに流せばいいのかゴミステーションに持ち込めばいいのかわからないので、そのままだ。 部屋に戻ると、ネズミはいつものように礼をすることもなく、またどこかへ行ってしまう。一度どこから出入りしているのか後を追いかけたが、見失った。それからネズミの行方を探るのはやめた。 今夜はスクール水着が手に入ったので、ネズミの肛門から出てきた姿見の前で、ネズミの肛門から出てきたスク水を着てみる。鉛筆があるのだから、これをスケッチしてみよう。 スケッチブックだって、もちろんネズミの肛門由来だ。 ただし、腰かける椅子はぼくが自分で買ったもの。さすがにこんなものまでネズミの肛門由来では気分が悪い。でも、スクール水着を着たぼくはなかなかのもので、そこは気分が良くなった。 薄暗い、暖房もつけない部屋の中で、闇にぼうっと浮かんでいる紺色のスクール水着と白いぼくの肌。モノトーンで陰影をつけるには悪くない。うん、悪くないよ。 へくちん。 ふいにくしゃみが出て、ぼくはびっくりした。でもそれは寒さから来るものじゃなく、単に水着から立ち上る蒸発したネズミの腸液によるものだった。 なんとなく、ぼくはそのとき怒ったんだろう。なにに? 自分にかな。 気がついたら鉛筆をへしおっていた。ようやくこの物体はフンともモノとも知れない状態からゴミに変わった。レッツゴミステーション。 市の指定する半透明のゴミ袋に入れることもせず、ぼくはそのまま玄関を出て、徒歩二十三歩のゴミステーションにかつて鉛筆だったものを投げ込んだ。 戻ってくると、ぼくの立てる物音で起きたのだろう、父さんが灯りのついた玄関で仁王立ちしていた。 てっきり怒られるかと思ったけど、スクール水着姿のぼくは抱きしめられたよ。「母さんみたいに、おまえまで行っちまうのかと思った……」 だってさ。 雪女でも雪男でもないぼくにどこに行けというのか。このバカオヤジの目に浮かぶ涙をひと吹きで凍らせて、何も言わずに自分の部屋に戻った。
「深雪さんって優しいね」 クラスメイトから、たまにそんな言葉をかけられる。 とんでもない。それは氷の優しさとでも呼ぶべきものだ。 暑い日、触れてみれば確かに心地よい。ほてった肌を優しく冷やしてくれる。でもそれは最初の数秒のことで、じきに不快な冷たさが皮膚の奥に忍びこんでくる。そうなったらもう触れてはいられない。手放さないと神経がしびれ、感覚がなくなり、やがては凍傷を負う。そうなってからでは遅いのだ。 だから私は優しさの雰囲気だけを身にまとう。もって生まれた容姿と、鏡の前で練習した表情、仕草、立ち居ふるまい。そこに適度な声の調子をかけ合わせれば、ほとんどの人は私のことを好意的に見てくれる。中にはひねくれてて、人を食った顔で口をとがらせながら悪態をつくようなヤツもいたけど、おおむねいい印象をもたれてきたのは確かだ。 誰もに優しく、しかし近づかず。床に落ちた鉛筆を拾って渡すことはあっても、その鉛筆を私から借りることはない。特別な好意はもらえないが、その代わり行きすぎた敵意もない。そんな毎日を繰り返しながら、きっと私は大人になっていく。母の教えに従い、父の犠牲を悲しみながら、一人前と呼ぶにふさわしい力を手に入れる。 そうなるものだと信じていた。信じたかった。 ――だけど。「あああぁぁぁぁ……やっぱり泳ぎたいよう……」 深夜の学校。校舎わきのプール。 月と星がきらめく空の下、石畳の上で私は震えている。 寒いからではない。泳ぎたくて泳ぎたくて、うずうずしているのだ。 思いきって飛びこんでしまおうか。いや、駄目だ。そんなことをして無事でいられるわけがない。私はもちろん、翌朝になって訪れた学校関係者が卒倒してしまう。学校は大騒ぎとなり、私も今の生活を続けていられなくなる。 だめだ。泳いだらだめだ。泳ぐの禁止。飛びこむの禁止。本能のままに突っこむの禁止。本能を禁じるの禁止。泳がないの禁止。飛びこまないの禁止……ってあれ? いけない、思考がループしている。こんなんじゃせっかく校内に侵入した意味がない。何のために警報装置を凍らせた? 何がしたくて警備員室のドアを氷で閉ざした? すべてはこの時、この一瞬のため。もう後戻りなんてできない。ほら、飛びこめ! 水泳の授業も制服のままで、楽しそうに泳ぐクラスメイトに見せかけの笑みを浮かべてばかりいた。我慢ごっこみたいな時間はもうたくさんだ。だからこうやって、一度も着たことのないスクール水着を持ちだしてきたんじゃないか。気合は充分じゃないか。どうした、何を迷っている? さあ、さあ! 私は足を踏み出した。一歩、もう一歩とプールへ近づいていく。満々と水をたたえたプール、その水面が月と星のきらめきを浴びてゆらゆらと輝いている。耳にはかすかに、遠くを走る電車の音。塩素の匂い。足の裏を刺激するざらついた石畳。「えいやあああああぁぁぁああぁ……あああぁぁあっぁあっ!?」 覚悟を決めて飛びこんだ。と思ったら誰かに背中を押された。姿勢がぐらつき、頭から着水。視界がゆがむ。派手に上がる水しぶきの音。ぬるい水の質感が、とたんに私の周囲で変わり始める。「お前は水に触れてはならない。お前も水も、そのままではいられない」 ああ、やっぱりだめなのか。私の運命は変えられないのか。お母様、ごめんなさい。深雪は悪い子です。禁を犯しました。よくないことをしました。許してなんて言いません。でも泳ぎたかったんです。みんなみたいに、ゆらめく水の中で自由に動き回りたかったんです。満足に手も洗えないこの身で、せめて、せめて――「つまんないやつ。もっとさ、ほんとのこと言えばいいのに」 どうしてだろう。動かなくなる身体の奥、あいつの声が聞こえる。耳からじゃない。心の中、前に聞いた声だ。口をとがらせながら、たった一人、私に突っかかってきた男子。なんでこんな時にあいつの声が聞こえるの……? ばしゃん、と水の跳ねる音。気がつけば、私は水面から顔を出していた。両腕を力強い手に抱えられ、水中で直立したみたいな姿勢になっていた。「お前、意外と大胆なことするじゃん」 目の前にはあいつの顔があった。いつもみたいに口をとがらせて、人を食ったような顔で私を見つめている。そんな表情が、普段よりも優しげに見える。「……ていうか、なんであんたがいるのよ」「お前とおんなじこと考えてた」「マジで?」「てのは嘘。夜の散歩してたんだ。昼間は暑くてかなわないからな。そしたらプールに忍び込みたそうなお前が見えたから、つけてきた」「……ストーカー」「なんとでも言えよ。命の恩人に言う台詞じゃねえけどな」「はあ?」 びしょぬれになった服を着たまま、あいつ……というかこいつは私の腕を引いて泳ぎ始める。まるで不器用ながらに私を楽しませようとするかのように。「ま、俺も一人じゃ水がフットーしてろくに泳げなかったし、いいバランスかもな」「なに言ってるのよ。わけがわかんない。あんたいったい何なの?」 あえて強く訊いた私の声に、こいつは何でもない調子で答える。「お前が雪女だろ? で、俺が火男なわけ。ほら、いいバランスじゃん」 その後、私たちのランデヴーは五分と経たずに終わった。水に落ちた時、私がやたらと大きな悲鳴を上げたため、仮眠をとっていた警備員が起き出したらしい。ドアを凍りつかせたのも逆効果だったみたいで、かえって異常事態だと思われたみたいだ。「またさ、今度はどっかの湖で一緒に泳ごうや」 翌日、教室でこいつ……というか火村が話しかけてきた時、ふいに思い出した。そういえば、こいつも水泳の授業では見学組だったんだっけ。「まあ、気が向いたらね」 その頃には、私もまんざらでもない気持ちになっていた。あわてて水着のままで逃げ出した私に、プールサイドに放置したままだった服を渡してくれたところは評価できる。そういう気づかいのほうが、氷の優しさなんかよりずっといい。 ――お母様。私、もしかしたら変われるかもしれません。
騒々しさに目を覚ませば、教室がやたら色めきだっている。皆ぎゃあぎゃあとうるさく騒いで、老いぼれの教師がどう注意したものか、教壇の向こうで頭をひねくっていた。いったいどうしたというのか、隣席の女に詳しく聞けば、なんでも校庭に犬が入りこんだとかで、窓の外を見ると、確かに大型犬がいっぴき、運動場をうろうろと彷徨っている。 耳を澄ますと、あちこちから嬌声が聞こえてきた。他の教室はもちろんのこと、体育館でバスケットボールをしている男子学生、プールサイドでスクール水着を着ている女学生、獣姦を噂される生物学の教師、彼らのほとんど全員が、犬を指差し、あるいは嘲笑するようなかたちで、密やかになにかささやきあっている。 たかが犬ごとき。と、あまりに呆気ない展開にくたびれてしまった。あくびをして、もう一度眠りへと落ちる。加速度は重力に比例し、僕はもう一度眠りへと落ちる。落下のイメージは兎を追う少女の姿に重なり、懐中時計の内部では歯車が音たてて噛みあっている。喰いあっている。彼らにとってカニバリズムは神聖なる祭儀であり、時を操る秘術と密接に関わっている。果たして時計の発明される以前、時間とはいかにして歩を進めていたのか、これについて答えを知るとある狂人はかたく口を閉ざしたきり果てた。エレベーターが最下層にたどりついて、鈴の鳴るかわいい音がする。ドアを開ければ一面の荒野だ。空と地が果てまで無窮で、彼方を横切る地平線の接着点では、彼らの淫らな交接が行われている。 ばう。 と後ろから声がした。振り向くと、犬がいる。白く長い柔毛をさらさらちと風に吹かせながら、四つ足が凛々しく立ちそびえている。「おまえ、夢のなかにまで入りこんできたのか」 ばう。 そういえば姉に聞いたことがある。ある種の犬はとにかく広い空間を好む傾向にあり、また広い空間へと入りこむ術に長けているらしい。数年前、『戦争』の余波で絶滅したとか、しないとか、そんなことがニュースになっていた。「昔、わたしたちの家でも飼っていたんだよ。名前はぽちっていってなんのひねりもなかったけど。それでも仲はよかったな。幼稚園のときとか、よく背中に乗ったりして、いっしょに遊ぶのはとても楽しかった」 姉の声はぼそぼそとして聞き取りづらかった。当時、明かりを絶やさねばならない夜はどこの家も薄暗く、例に漏れぬ僕たちの部屋は、発光するTVの鮮やかな映像に照らされ点滅していた。姉も、僕も、点滅していた。浅黒い肌の上で、棒読みのアナウンサーが無表情に唇を動かしている。「でも、死んじゃった。あんたの生まれるちょっと前にね」「へえ」「絶滅、しちゃったんだね」「らしいね。少なくとも、アナウンサーはそう言ってる」 姉をどうやって励ませばいいのか分からなかった。残念だったね、とも、悲しいことだね、とも言えなかった。きっと姉も同じ気持ちだったのだろう、ただ事実を淡々と呟いていくだけで、自身の気持ちは決して語ることがなかった。涙一筋流さず、ぽちの好きなえさのことだとか、ぽちの筋肉のしなやかなことだとか、そんなことを一通り言い尽くして、それから、疲れたから寝る、と言うので、僕もそれにならった。 それから二週間して、空襲があった。姉は死んだし、僕は生き残った。後には都市の骸だけが横たわっていた。僕は焼け残った木材に鉛筆で姉の名前をかき、それを墓標の代わりとした。そのあと知らない大人が来て、暖をとるためと奪い取っていったけれど。どこで焼かれて煙になったものか、公園跡で寒さに震えていた僕に知るよしもなかった。 ばう。 と、遠くで犬が鳴く。答えるように、呟いてみる。「まだ生き残りがいたんだな」「ええ、いたの。彼らはあの時、あなたの夢の中に入りこんで、その死をまのがれたのよ。かしこいものだね」 すぐ隣に女が座っていた。女は僕の肩にしな垂れかかるようなかたちで、服越しではあるが、肌と肌が密着している。なのに、寒い。僕はこごえている。姉の火はいったい温かいのだろうか、とそんなことばかり考えている。それまではよかった。姉のことを考えるのは気分がよかった。しかし、だんだんと女のことが気にかかってくる。なぜこの人物は僕と肌を重ねているのだろう。この都市の果て、公園跡で意味もなく交接しているのはなぜだろう。誰一人訪れないこの地に、女はなぜきたのだろう。一度勘ぐりはじめるともう止まらず、次から次へと疑問が湧いてくる。 噛みあわない歯茎をがちがちと言わせながら、おそるおそる女に話しかけてみた。「あの、あなたは誰ですか? この公園跡になんの用でしょう」「わたしは雪女というものです。あなたと交接するためにここまで来ました」「左様ですか。では、あなたの望み通りとしましょう。是非。是非」 二度目の是非、は言葉にならなかった。ばう。と僕は唸っていた。気がつけば犬と化した僕は、必死に腰を動かして、女の内部に肉の塊のようなものを打ち付けていた。ばう。ばう。と串刺すたびに声が漏れた、口の端から涎が垂れて、女の肌の上をすべった。そうして、へそのくぼみに粘液が溜まっている。「こりゃ、池というよりは沼だね」 と、僕に成り代わった犬が言う。 ばう。と、僕が答えると、「いいや、違う。すこし違う。ぜんぜん違うね。いくら君が僕を咀嚼しようと、それはなにひとつ無意味なことだ。カニバリズムたりえないよ」 ばう。 雪女の内部はあまりに冷ややかで、腰のあたりの感覚がだんだんと薄れていく。打ち付ける肉は凍傷におかされ、ひびわれ、血まみれていく。痛みに涎の量が増える。それらは女の腹の上で凍え、凝固し、結晶する。気泡混じりの氷は、身のよじられるたびに割れていく。 流血がすべりをよくしてくれる。ちぎれるような寒さのなかで、この赤い生命だけが唯一温かだ。僕は姉の火を思い、彼女の面影を懐かしんだ。 気をやると、「ぽち」 と、女が言う。「ぽち。わたし、あたし、ね、こうされることを望んでいたのかもしれない」 あしのあわいから白濁がこぼれていた。それとまったく同じ色をして、ぼたん雪が僕らの上へと積もっていく。降りしきる色彩になにもかもが真っ白になっていく様は、なにかを思い出すような気がして、しかし思い出せないままに、僕はゆっくりと眠りに落ちていく。底はいまだ遙かだから、滴る涎と同じ速度で、ゆっくりと落ちていく。おちる。
雪女のケツぐらい寒いんじゃないかと、そんなことを思うほどに冷え込んでいる夜だ。 彼は暗い部屋の中でぶるぶると震えながら毛布に包まっている。壁にもたれかかり、部屋の片隅の何もない空間をじっと見つめている。町の明かりが窓から差込み、時計の音が規則的に部屋の中に響く。右手には鉛筆が握られて、足元には開かれたノート、右脇には強く濃い色をした酒が置かれている。彼は時折思い出したようにそのノートに何かを書き付けると、鉛筆を床に置き、酒を一口飲む。アルコールが都合よく、うまい具合に脳に作用して、何かいい考えが浮かぶかもしれない、なんてことを期待しながら。そして、頭の中に思いついたその何かを書きつけようと思う。 突然、何かを思いついたような気がする。彼はあわてて、床の上においた鉛筆を手で探す。しかし指先は何にも触れない。ただ冷たい床があるだけだ。彼は毛布を体からはがし、鉛筆を探す。それはすぐに、あっさりと見つかる。すぐそばにあったのに、ほんの少し違う場所を手で探っていたのだ。彼は自分の間抜けさにばかばかしくなる。そして、やれやれと言った調子で毛布に包まり、再びノートと向き合う。さあ、ついさっきアルコールを胃の中に流し込んだその瞬間に、頭の中に浮かんだこと、それを書くだけでいいんだ。簡単なことじゃないか。 しかし、彼には何も書くことができない。そのことに気づいて、彼の体の震えはいっそう強くなる。書くべきことを、書きたいと思ったことを、彼は忘れてしまったのだ。 それはもうすっかりとどこかへ消えてしまった。はじめから存在しなかったかのように。彼が鉛筆を探している間に。毛布から体を外に出したその瞬間の、ちょっとした空白の中に溶けるようにして。 そういった理由で、彼がその時考えていたもの、これはちょっと僕にはわからない。でも色々と想像してみることはできる。 もしかしたらそれは、なんでもない、いつか見たスクール水着を着た女の子のちょっとエッチな写真集のことだったのかもしれない。あのアイドルの、彼女の名前はなんだったかな。喉の奥のほうまで出かかっているんだ。もう少し。本当にもう少しなんだ。そんなことを思い出そうとしていたのかもしれない。 いやあるいは、なんだか無性においしいものが食べたくなっていて、ここは一つ明日の夕食は凝った肉料理でも作ってみようか、なんてことを考えているのかもしれない。そのために明日かって来なければいけない食材のことだとか何かを書きつけようとしているのかもしれない。 あるいはその日、彼は誰かにものを頼まれた、何時何時までに、何々をやっておいてくれたまえと、そんな風に言われたのかもしれない。だけど彼は、それを注文どおりにうまくやり遂げることができなかった。そのために彼は誰かにこっぴどくなじられた。だから彼はその誰かのことをとても恨んでいて、殺してやりたいとさえ思っているのかもしれない。どうやってそいつに復讐してやろうか。おれをコケにしやがったあいつに、どう落とし前つけてもらおうか。そんなことかもしれない。 いや、それともこんなものだろうか。 かつて、かれには気になる女の子がいた。彼が子供のころの話だ。だけど彼はそのころとても内気な少年で、彼女に話しかけることなんかどうしてもできなかった。また、彼の周りの友人たちも彼女のことが気になっていたために、彼女と仲良くするということが、なんだか良くないことのように思えたということもある。なぜだかはわからない。だけど時折、なんでもない用事で彼女に話しかけられる機会もあった。そのたびに彼の心臓は強く脈打ち、顔は見る見るうちに燃えるようにして赤く熱くなっていき、何かを喋ろうとするたびにその一言目の音を出し損ねた。彼はそんな自分の反応を情けなく思い、どこかに消えてしまいたいような、恥ずかしい気持ちになった。 そんな風にして明らかに様子のおかしくなっている彼の姿を見て、彼女は控えめに微笑む。そして何か気の聞いた言葉をかけてくれるのだ。大丈夫、だとかそんなこと。なんでもない一言で、彼の心は自分でも抑えきれないほどに舞い上がる。実際に小躍りやだらしなくも見えるニヤニヤとした笑いをなんとか我慢しなければならないと思うほどに。 ずっと彼女と一緒にいれたらいいなと彼は思う。たまに何か、ほんのちょっとしたことで彼女の声や、笑い顔を見ることができればいいのだ。そんなことを彼は考える。 彼はそんな、臆病で、シャイな少年だったのだ。そしてそのように、臆病でシャイなやりかたで、彼女のことを遠くから眺めるだけの日々が過ぎる。でもやがて、突然にして彼女は彼の前からすがたを消してしまう。引越しや、そのほかのなんだかややこしい理由か、何やかやで。とにかく彼女はいなくなってしまう。もうずっと昔の話だ。 そして今、彼はそのことを思い出す。そういえば昔かわいい女の子がいて、おれはその子のことがとても好きだったんだ。いやはや、懐かしいな。そんなことを思い出す。 彼女の名前はなんて言うんだったかな。ちょっとそれらしいものを紙に書き出してみて、思い出すための手がかりにしてみようか。 いや、しかし。待てよ。彼女の名前を思い出したところで、一体なんになるって言うんだ? もう会うことなんてないだろうし、そもそも名前なんかどうでもいいことなんじゃないか?もし会えたとしたって、きっと彼女は変わっちまっている。結婚なんかもしてしまっているかもしれない。会ってもきっと白けちまうだけだ。くそ、ばかばかしいな。 いいじゃないか。忘れちまえよ、昔のことなんか。くだらない。彼はそう思う。 でもかわいい子だったな、顔も思い出せないけれど、そのことだけは覚えているんだ。なんだかとても懐かしいような。そのことだけは思い出せるんだ。 なんてことを、彼は考えていたのかもしれない。 ただその瞬間、彼はひとつのことだけを考えているはずだ。きっと、ほかの事は何一つとして考えていない。他の考えなんて消えちまえばいいとさえ思っているのかもしれない。 暗い部屋の中で、ぶるぶると震えながら。鉛筆をにぎり、開かれたノートを前にして、彼はじっと何かを思い出そうとしている。だけど何も思い出すことはできない。だめだ、消えちまったんだ。彼はあきらめる。暗い表情で、再び鉛筆を床に置き、酒をあおる。