今日は趣向を変えて、ホラーイベントを行います。誰もが笑顔になれる戦慄のホラーイベント(?)、ということで、「笑顔」というお題を作品に盛り込み、作品を仕上げて下さい。締め切りは本日0時。なお、このイベントに投稿した作品を、後日一般板に投稿しなければならない、という縛りをもうけます。再投稿の際に、推敲、改訂をするのは自由。あまり気負わずに参加できますよー^^。では、スタート。
スマイル女スマイル女って知ってるかい?女はストローでコーヒーをかき交ぜていた。白と黒とが混ざるとなぜ茶色になるだろう。そんな事を思っているのかもしれない、男の言葉は届いてはいない。交差する人々をただ見ている彼女に、「スマイル女って知ってる?」たいした話題で無いのは男も分かっていた。会話を求めていただけだった。「何それ? 面白いの?」と言いたげな目線だけ送る。「ちょっと怖い話だね、都市伝説みたいなもんさ、聞く?」遠慮がちに尋ねる。彼女は興味を示したのか男に顔を向けた。「スマイル女、文字通り笑顔の女だね、この人はただ笑っているんじゃないんだ」そうなの? と表情で返事はない。男は続ける。「人には色んな表情があるよね、その女の人は今まで一度として笑った事はないんだって、ずっと真顔のままだったんだ、嬉しい時も悲しい時も」なぜ? と疑問に思わせるのに成功した。男に目を合せる彼女、「それはと言うと、彼女の素顔を誰も見たことがないんだって。彼女は誘拐されたのか出生は秘密なんだ、父親と言われる男性にずっと監禁されてたんだ、血の繋がりは定かではないけど。ある日、父親と言われる男性の死体が見つかった、捜索した警察によると、生活していたのは二人、父親とスマイル女さ」彼女は少しイライラしていた、本題には触れていなかったからだ。「まあ、そんな目しないで焦らず聞いてよ、その家からは夥しい血だまりが二つあったんだ。一つは台所で顔がグチャグチャの父親の血だまり、もう一つはベッドでの血だまり、検査の結果、ベッドの血だまりからは、二人の人間からだというんだ、なんでもスマイル女は身ごもっていたらしい、その父親の子供を」彼女はただ男を見ていた。怖がっている風にも見えない。「精神状態とかは分からないけど、父親は無理心中を図ってわけだね、だけど、刺されたスマイル女は、身籠っていた子供のおかげで、助かったってわけさ、自分を刺して、自殺したのを確認すると、父親の顔をグチャグチャに切り刻んでは鼻を削いで、耳を削いで、唇を削いで、何度もフライパンで叩きつけた後、スマイル女は姿を消したってわけさ」彼女は俯いていた。男はちょっと怖がらせたのかなと、「もうやめる?」「続けて」彼女の腹の底から声が聞こえた。「それからさ、スマイル女が人気のない、夜道に現れるようになったのは、見た人の話だと、ああ、これはネットでの噂だと、腹から腸をはみ出しているんだって、だけど、それはスマイル女の腸なんかじゃなくて、刺された赤子の脳味噌なんだ、自分の腹からはみ出た赤子の脳味噌を振り回すスマイル女、顔がグチャグチャでけたたましい笑い声を発しながら、追っかけているスマイル女、聞いた人はスマイル女が笑っているじゃない、お腹の赤子、脳味噌を振り回されている赤子が笑っているんだって、自分の脳味噌を玩具にして楽しんでいるって話さ」途中から彼女は聞いているのか男は分からなかった。自分の話に夢中になっていたとも言える。「つまらない話してごめんね」「そんな事ないわよ、面白かったわ」頭からではなく、彼女のお腹から声が聞こえた、寒気がして貧乏ゆすりする男の足から、水溜りに入るビチョビチョと音がしていた。
笑って、チャーリーAFTER DAY 凄惨な現場には違いない。歴年の捜査官さえ眉をしかめるほど血生臭い現場だった。しかし、その事件を殺人によるものか、それ以外によるものか、その時点で判断できるものは誰一人としていなかった。 死体が転がっている。女性の腐乱死体だ。まだ若く、歳にして十六、七といったところだろう。死後日数が経っており、残暑の中、鼻がもげるほどの異臭を放っていた。衣服は纏っておらず、背中を部屋の壁に凭れかけながら、両脚を開いて座りこむような格好をしていた。カーペットには黒ずんだ血の跡が夥しく広がっており、死因のひとつが出血多量にあることは間違いないようだ。問題はその血がどうやって溢れたものかという点にあった。 死体に残った無数の瑕。半円型をした特別な刃物で肉をくり抜いたかのような形状をしており、その拳大の陥没が、頬に、腹部に、両腕両脚に、陰部に、臀部に、と散在している。第一に疑うべきは、快楽異常殺人犯の犯行なのだろう。しかし、捜査官たちにそう判断させなかったのは、被害者である女性の表情にあった。笑っているのだ。 満面の笑みといって差しつかえないだろう。まるで最高の祝福を得たかのような笑顔。それは慈愛さえ感じさせるもので、いかに人を殺害すればこのような表情を浮かべさせることができるのか、誰も想像さえできなかった。SUMMER DAYS ――舞子め、変わったな。 夏休み明けの始業式、早苗は親友の舞子を見て直感した。見た目の変化も多少はある。けれど、早苗が感じたのはそうした表面上の違い以上のものだった。クラス内で同じ階層にいるはずの舞子が、身体から何かを放っているのだ。自信。そう、自信も感じる。しかしそれだけではない。余裕――、さらにいえば、色気を感じる。初心な顔だったのに、まるで眼に見えない化粧でもしているように、別人のような雰囲気を放っていた。 ――ちぇ、先を越されたか。 早苗はそう踏んで、クラスの中でとろんとした表情をして席についている舞子に歩み寄った。「オッス、どうだった? 夏休み」 出来るだけ軽快に、自然に、いつも通りを装って、早苗は舞子の肩を叩いた。早苗は内心、洗いざらい聞き出してやると意気込んでいたが、いきなり本題に入るのも面白くないと、じわじわ追い詰めるつもりでいたのだ。「早苗ちゃん、おはよう。うん、良い夏休みだったよ」「ふーん、それはうらやましい。で?」「で、って?」「出来たんでしょ、彼氏。なんで教えてくれなかったのよ。昨日もメールしたじゃん」「そんなものいないよ」「あー、こいつ、しらをきるつもりだなー」 白状させてやる、と早苗は舞子の首を絞める振りをした。「いないよ、そんなの。いたら早苗ちゃんに言うにきまってるじゃない」「本当?」「うん」「おかしいなあ」 早苗は訝るが、しかしどうやら本当のことのようにも思えた。全く取り乱し様子がないのだ。「じゃさ、良い夏休みだったっていうのは、どんなことがあったからなの?」「今は内緒」「今はっていつ教えてくれるのよ」「放課後教えてあげる。早苗ちゃんもわたしと同じになればいいんだよ。すごく幸せなことなんだから」「へー」 興味があるのかないのか自分でも良く分らないままに返事をし、教師が教室に入ってきたので、早苗はその場を離れた。 放課後二人で帰り道を歩いていた。「ねえ、そろそろ教えてよ」 早苗が言う。「うふふ。良いよ。友達だもんね」 舞子は応えて、周りに人がいないと確かめ、スカートをめくった。「ちょっと、何してるの!」 早苗は慌てて止めさせようとするが、舞子は全くというほど動じていない。笑みを浮かべたままで、「ほら、よく見てよ」 と、視線を自らの太ももに向けた。 あざだ、早苗は最初そう思った。しかし、見るほどに本当にそうなのだろうか、と思える。二つの黒い丸と、その下に半円を描くように走る黒い線。それはまるで――。「エミィっていうんだよ。可愛い顔してるでしょ」 舞子が笑う。笑って言う。 そう、それは確かに人の顔に見えた。「このあざ、どうしたの?」 早苗が言うと、舞子は酷く傷ついた顔をした。「違うよ。エミィだよ。わたしのエミィ。わたしの赤ん坊」「何言ってるの? ちょっと変よ」「傷つくなあ。でも良いよ。始めはわたしもそんなふうだったもん。早苗ちゃんもすぐにわかるから」 そう言って舞子は早苗に抱きついた。抱きつき、口を重ねる。「やめてよ!」 早苗が舞子を突き飛ばした。「ごめんね、驚かせて。でも、これで早苗ちゃんもわたしと同じだよ。ママになったんだよ」「もういいよ! じゃあね!」 早苗はそういい残して、振り切るようにその場を離れた。 夜中早苗は風呂に入った。その時、右腕にやたらとかゆみを感じ、きつくこすると神経を掻いているかのように痛みが走り、悲鳴を上げた。「もう、なんだってのよ」 風呂から上がって身体を拭いていると、ぷくりと赤い斑点と、ミミズ腫れのようなものが浮かんだが、すぐに引くだろうと思い、Tシャツを着て、その日は眠った。SUMMER DAY 2 次の日、舞子が消えた。失踪したのだという。 教室に入ると、女友達が早苗に駆け寄り、捜索願いが出ているらしい、何かしらないか、と尋ねてきた。「さあ、しらないけど。でも、昨日は変だったよ」 早苗は思う。昨日の舞子の奇行は、何かのメッセージだったのではないか。自分に助けを求めていたのではないか。自分はそれを突っぱねたのではないか。 その日一日悩んでいたが、すぐに悩みは消えた。幸福な気分が身体のうちから湧き上がり、もはや舞子などどうでもいいではないかと思うようになったのだ。その態度を他の女友達はせめたが、それさえどうでもよかった。 風呂に入ると、そこに顔があった。もはやそれは痣などではなく、ひとつの存在の顔であると、それ以外の何ものでもないと早苗は思った。「あなたはチャーリー。早苗ママの赤ちゃんですよ」 早苗が言うと、チャーリーと呼んでいる何かが、笑ったように見えた。DIARY 1 学校になんて誰がいくもんか。今は大事な時期なんだ。しっかり食べて、しっかり愛情を注がないと、チャーリーが育ってくれない。今日、チャーリーが始めてママと言ってくれた。嬉しくてたまらない。 チャーリーはときどきくしゃみをする。するとチャーリーのつばがとんで、それがわたしの身体のほかの部分につくと、そこにまた笑顔が出来た。チャーリーは双子になったんだ! わたしはなんて幸せものだんだろう。DIARY 2 チャーリーはどんどん増えていく。体中がチャーリーでいっぱいだ。わたしは世界一幸せなママだ。DIARY 3 チャーリーが身体から出たいといっている。そうか、もうそんな時期なんだね、チャーリー。いいよ、ママの身体から出ておいで。ママができるのはここまでだけど、あなたはママを乗り越えていくのよ。 でも、その前に最後の笑顔を見せて。 THE DAY 早苗は笑う。「さあ、チャーリー、あなたの笑顔を見せて。あなたは早苗ママの宝物」-----------------------------------------時間に間に合わせるため、かなり省きました。シナリオっぽくなっちゃったけど、直して一般板に載せますね。ちょっとでも怖いといいんだけど。
笑顔の青年 ボブ・マーティンは禿げることを運命づけられた男であった。現在二八歳という若さではあるが、既に髪は薄くなり、額の後退も始まっている。この調子でいけば、遅くとも三十五歳までには、時と戦い続ける最後の戦士たるわずかな髪の毛もなくなり、完全に「つるっぱげ」と化すであろう。 しかし、彼がそこまで追い込まれることは、なかった。それは、もっと重大なことに追い込まれ……いや、それだけにとどまらず、崖っぷちに追い込まれさらにはそこから突き落とされるに至ったからだ。要するに、彼は二十七歳にして、命を失ったのである。 そのきっかけとなったのは、ある青年との出会いであった。青年は美しく柔らかな笑顔を湛えて、マーティンに近づいてきた。それはマーティンがこれまで関わったどの人物をも持ちえない、不思議な――妖艶とも言える美しさであった。青年が近づいてくるその数秒間、彼は口をだらしなく半開きにして、見とれていた。「すいません、道をお尋ねしてもいいですか?」 言われた瞬間、トワイライトゾーンに行きかけていたマーティンの意識は驚きとともにこっちの世界へ戻ってきた。驚きの衝撃でパンツに射精しそうになった、が彼の無意識の理性がそれを止めた。「あっ、ああ、良いですよ」 自分でも何を言っているのか分からないまま、マーティンは応えていた。 それから、彼は青年に道を教えたが、どうにも理解に苦しんでいるようだったので――確かに分かりにくい場所である上に、マーティンの説明も最悪に分かりにくかった――その場所まで案内してやることにした。 目的地まで着くと、青年はマーティンに礼を言うとともに、「これからまだ時間あるし、お礼にしゃぶってもいいですよ」 二人はその場所からすぐ近くのビジネスホテルに来ていた。青年はマーティンの一物を舐めまわしている。もともと、青年の容姿を見ただけで興奮してしまっていた彼の極太人参級のそれは、すぐに反応して青年の顔面に射精してしまった。「あ、ああ、ごめん……」「いいですよ。慣れてますから」 そういう青年の顔は彼の精液に濡れていたが、それがあまりに美しくて、マーティンはまた射精してしまった。それを見て青年は、またあの美しい妖艶な笑顔を浮かべた。 その日の深夜、美しい青年――トミー・エドワーズは、目の前の自分のコレクションの一つに満足して、幼い子供の様な無邪気な笑顔でそれを見つめた。眺めていたのは、現像され、木の洗濯ばさみでぶら下げてある写真の中の一つであった。これまでで一番面白くとれたと彼は思っていた。その写真は禿げかけた変態っぽい男がパンツを下した状態――しかも大量の白い精液で下半身と床を濡らしている――で首から血を流して死んでいる写真だった。 さて、今度はどんな奴にしようか。禿げ野郎は今日やったから、デブ野郎にしてみるか、そんな風に考えながら、青年はいまだに無邪気な笑顔を湛えていた。
男の腕に奇妙なできものが出来たので、母親は軟膏を塗れと貝殻に入った緑色のクリームを息子にくれてやった。男は寝れば直るだろうと、中指で掬った軟膏を引き伸ばし、できものの上でぐるぐるに渦を描いた。できものはなんだか表面がパリパリしていて、それでいて中はしっとりとしていて、男は軟膏を塗っている間、レコードの上に針を落とすことばかり考えていた。 男がその夜見た夢は、音楽が鳴り響く前のあのこすっからい音だ。 翌日目覚めるとできものはより一層大きくなっていた。 昨日男の指紋が撫でた通りの渦が描かれていて、ますます男はレコードのことばかりを考えるようになった。肘よりやや先端に近いほう、腕を振るとき丁度すれ違う人に見えやすい位置に出来たばっかりに、できものはやたらめったら弄られた。「なんだかスイッチのように見えるな」「ダーツの的のようでもある」「目玉じゃないかな」 概ね、丸くあればどれもそのように見えるものばかりだったので男はそれを気にしなかった。(昼食時、ゆで過ぎたマカロニをフォークで突付いていると、隣の席の人間がホワイトソースのついたフォークで腕を突付いてきたのには閉口した) 痒みを感じるわけでもないが、気がついたら男の指はできものを撫でていた。溝を掘るように爪先で掻き、砂の城を固めるように指の腹で圧し、消しゴムのような親指で擦った。 母親は大きくなったできものを見て、軟膏を塗れ、と昨日のものよりずっとねばねばした薬をよこした。乳白色のべとつきをなすりつけるとなるほどこれで治るのか、と奇妙な納得があった。 ラジオスターが『グッモーニンベトナム!』と叫びだす頃、母親は悲鳴を挙げた。 男のできものが呻いているのだ。出来損ないのスクラッチのように、グッ、グッと呻いている。それは母親がまだ幼かった頃、突如として襲い掛かった厄介事を思い出す声だった。暗がりに連れ込まれた彼女は、丁度こんな感じで押し殺した声で悪事を耐えたのだ。 男は取り乱す母親と、呻くできものを見て、憶えていない自分の赤ん坊の頃を思い出す。 かつて自分も、泣き出す前にはこのようにしゃくりあげていたのだろう。 できものはパックリと亀裂が走っていて、中から悪質な汁がこぼれていた。 亀裂はゆるやかに曲がっている。ごちそうを前に涎をたらすトゥーンのようだった。しかしその片端が、奇妙にねじくれているせいで、シニカルな笑顔に見えるのだ。 気持ち悪い、と一言吐き捨てた母親は竈にナイフを突っ込んで、十分に暖めたそれでできものを切り跳ねた。 ハムを投げつけるような音とともに、できものは窓ガラスにへばりついた。男は刃の熱さや痛みよりも、傷口から流れ出る黄ばんだ液体の正体が気になる。血や汗のように生きている証の様な気もするし、同様に膿のように死への誘いのようにすら感じるのだ。幸い血も出ず、液体も滴り終わると止まったので、包帯を巻いてそのまま働きへ出た。 その日、男が仕事を終えてベッドに寝転がると、窓に貼り付いたできものは消えていた。「どこへやったんだい」と母に尋ねると、知るもんですかと怒鳴り声が返ってきた。「何せあんたと私は肌の色だって違うんですからね」 彼女の手の中で、酒で洗われたナイフが果物を刻んでいる。 男はもうそれ以上聞くのをやめた。窓ガラスにはうっすらとできものが貼り付いた形に曇っている。 その向こうには縁取られた満月が浮かんでいた。
雪駄履きでぶらつく。あぜ道を。トリスの小瓶を煽りつつ。 虫と蛙の声がうるさい。じめじめと暑さがいやらしい。田んぼの周りから宅地へ抜けるころ、踵にちくりと痛みがはしった。小石かなにかが挟まったらしい。 立ちどまってぱたぱたと叩いてみても、なかなか取れない。もしかすると底革を留めている鋲がつきだしてきたのかもしれない。 酔うにまかせてふらふらと宅地を突っ切る。しばらくするとまた田んぼがひろがっていて、そこを道なりにゆくと山林公園の真下に出る。 公園は入り口から坂をのぼった先にあり、春には夜桜を見物するようなひとたちもいないではない。まばらにではあるが灯りもある。しかしいまいる坂の下には――そして坂の途中にも――灯火はいっさいない。 たいした大きさの山でもないが、生い繁った木々の影で、坂の先がまるでみえない。 なかからみるとどうなっているのか、ウィスキーを煽ったいきおいで踏み入ると、樹影に樹影がかさなって、暗さが次々に覆いかぶさってくるような気がする。 すこしはのぼったか、とおもってふりかえると入り口のあたりのうす明りはアーチ上にしなだれかかった木の影に閉ざされてしまいそうだ。 とても平気ではいられなくなって、その場で引き返すと家までまっすぐ帰り、寝た。 翌日は休日で、窓から入ってくる風が身体をなでてゆくようで心地よく、うだうだ二度寝を決め込んだ。 まぶたが眠気にまかせて落ちてくるのを感じていると、ふと、昨日の坂道に立っている自分の姿が浮かんできた。暗がりにこわがって、たまらず来し方を振り返ると、みょうなものがうごいてくる。祭りのやぐらのような、はたまた巨大なナナフシかなにかのような、棒きれじみた細長い脚のようなものを夢のようなうごきで運びながら、坂を音もなく、宙に浮いたようにのぼってくる。その、なにかの正面に、顔が浮かんでいて、それはどこか能面のように表情がないのだが、たしかに、ある表情が貼りついているのだ。――笑顔が。 はっとして跳ね起きると、風がしっとり落ちついていて、窓の外は夕方だった。 踵にするどく痛みが浮かび、よくよくたしかめると昨日痛んだ場所がぱっくり割れていた。 雪駄までしらべる気にはなれなかったが、もしかすると踵につきだしているのは鋲でなく、どうも牙や角めいた骨かなにかじゃないかしら、ともおもわれた。
「どうぞ笑ってよ」 と言われ、ぎこちなく動く顔筋はいかんともしがたい、引きつった笑みはあまりに不格好で、鏡で見てみるとどこか背筋の凍る思いがする。見慣れた自分ですらこうなのだから、初対面の人はそれはもう大変なことになって、あからさまに目をそらす、なんていうのはいい方で、胆の小さい人になると、その場から逃げ出したり、腰を抜かしたり、あげくの果てには胃の中身を全部ぶちまけたりする。なにがそんなに悪いのか、自分ではまったく分からないのだけど、とにかく笑うのは駄目だ。まるで人間のそれではなく、キチガイの書いた長い々い数式にも似た、ある種慄然とした狂気の隆起、そんなものを思わせるから駄目だ。あまりうまく例えられないのだけれど、生理的になにか来るものがある、カニバリズムとかゴキブリだとかに近い、そういう笑顔だから、駄目だ。 元の見た目は悪くない。すくなくとも周囲の人間はそう思っている。だからこうやってモデルの仕事なんかも廻ってくるわけだし、笑顔、以外の注文はたいていこなせるくらいには、慣れた。八歳からはじめた仕事も、もう足かけ六年になるわけで、ベテラン、というほどではないけれど、後輩なんかは大勢できた。古橋みぃ子もその一人で、黒い長い髪を腰まであるポニーテールにまとめた彼女は、私の事務所でもトップクラスに可愛い。媚びるみたいな笑顔がよくて、女の私でもぞくぞくする。生まれるならこういう子がよかった、と思う。彼女と一緒にいるのは楽しい。だからよく近所の喫茶店に連れてってあげて、一緒に甘いコーヒーを飲んだりする。角砂糖を二個も三個も放り込んで、大人は顔をしかめるけれど、私たちにはそれがちょうどいい。今日はふたり、アイスカフェラテを頼んだ。みぃ子は牛乳が苦手なのだけれど、ラテは好きだ。ご機嫌そうな顔で、あの可愛い笑みを振りまいている。そうして、最近流行の、たわいもない都市伝説を嬉しそうに話すのだ。「ねえねえなっちゃん、イガラシマスダオ、って知ってる?」「いがらしますだお。知らない、なにそれ」「うーん、あたしも詳しくは知らないんだけど、頭の大きい変質者でね、一〇〇メートルを六秒で走るの。それでね、女の子をみつけたらものすごい勢いで駆け寄ってくるんだって」「ああ、それは私のお父さんだよ」「え、ほんとっ?」 と、後ずさりするわざとらしい仕草に、思わず苦笑しかけて、止めた。「嘘だよ」「……もうっ、なっちゃんは真顔で嘘つくから怖いよ」「だって、泣きながら嘘つかれても嫌でしょう?」「なら笑ってついてよ」「嫌よ」「えー」 その日の支払いは私がしてあげた。ふたりで六八〇円。髙いな、と思う。思いながらも払う。全部小銭で払う。そうしてお店を出る。撮影帰りだったから、外はもう夕暮れで、けぶる黄昏が、みぃ子の手のひらに渦を巻いていた。触ったら弾力がありそうなほど、濃密な夕。その手のひらをとって、繋いで、ふたり、歩いて帰っていた。みぃ子は電車に乗って帰る。だから駅まで送ってあげる。その途中、ふいに前から人影だ。なにか異様な人影だ。街全体が朱に暗くて、よく見えないのだけれど、人のようで、人でなくて、空恐ろしいくらいのスピードで走っている。自転車に乗っている、のかと思った。違う。みぃ子がぽつりと呟く。「イガラシマスダオ、だよ」 なるほど、そうか、あれが、あいつが。 みぃ子は小さな身体をぶるぶる震わせて、わざとらしいくらいに怖がっている。涙目も可愛い子だ。私は、あまりなんともない。イガラシマスダオから受ける感触は、私の笑顔とよく似ていた、から。ひい、ひい、と小さな呼吸が横から聞こえる。可愛いな、と思う。頭を撫でてやった。 ――イガラシマスダオは笑っていた。あはは、あは、と笑っていた。ずいぶんと楽しそうで、私も笑った。あはは、あは、と笑った。ひい、と呼吸は荒くなった。 イガラシマスダオが通り抜けるまで、ずっとそうしていた。通り抜けた後はなにもなくて、とっても静かな夕暮れだった。私はまだまだ笑っていて、みぃ子は、みぃ子はもう、うずくまったまま、笑っていた。あはは、あは、と笑っていた。私そっくりの、可愛い、おぞましい、形容しがたい笑顔だった。彼女の笑みが失われたのは、悲しくもあったけれど、また一方で嬉しくもあって、よりいっそう高らかに、私は笑った。