雨を呼ぶ(仮題)

からだだけが覚えている水田の記憶は
ずっと底のほうに沈んでしまっていて
どうしてわたしはこの庭に棲んでいるのか
どのようにして生まれ 辿りついたのか
わからない おしえてくれる親兄弟もいない
ただ気に入った庭木のうえや
紫蘭の陰の湿った所で
じっとしている ひがな一日
 呼び覚ましたのは 炎天下が熱した大気
 積もりつもった雲がおとした 稲妻と雨

からだだけが覚えていること
雨がばつりばつりと稲葉を打ち
水面が逆毛立ち 水路が踊り出す頃
みなが喜びにつつまれ夜を待った
わたしたちも まだ見ぬ互いを待ち焦がれ
そうしてたしかに出逢ったはずだった
けれども今はひとりぼっちのこの庭で
かわきに怯え 雨を待っている

この記憶がわたしのものでないのなら
きっとほうぼうを巡っている雲のものだろう
 わたしはおりてきた雨をあびるようにのむ
あぜ道を歩いていたあなたは、誰であったか
あなたと出逢ったわたしは、誰であったか
 風もつよく流れはじめた

 抽選会当たってたらどうするの――
 去年も途中でふってきたんだよ――
 雨の音に混じって聞き慣れた声
 そこへまたぴしゃりとつんざく稲妻
 小さな悲鳴が庭へ駆け込んでくる
 乾いた夕べに水をまいてくれる母娘
 わたしの庭の仮初めのあるじ

 娘はしばらく家に引っ込まずにいて
 軒下から通りをみつめていた
 腕には光るホタルの輪っか
 やがて風抜け穴の向こうに気配がすると
 娘はめいっぱい手を振った
 
 きょうが特別な日であったことは
 さっきまでの賑やか音でわかる
 こんな遠音を幾たびきいただろう
 夕雨と歌いあわせた季節 稲の花咲く頃に

わたしたちは無数に出逢ったのだろう
おなじような水辺を 声をたよりにすすんで
(わたしを見つけつづけてくれたあなた)
遠い記憶が雨をよべという
おやたちの記憶が命を繋げという
わたしはひとり庭にひそむ蛙
それでもけと雨が誘う
お試しさん
2014年09月24日(水) 23時07分23秒 公開
■この作品の著作権はお試しさんさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
何年も前に庭(住宅街の)ではじめてアマガエルの鳴き声を認識して、かれ?かれら?の声に耳を傾けるようになりました。以来かれの声のことをなにかの形にしてあげたいとちょっと思っていましたが、今年のあるきっかけを組み合わせてなんとか一つに纏めました。製作期間2ヶ月ほど。9月24日投稿時の未熟な形。寝かせ期間もほとんど無く、不十分なところも多々ありますが、読んでいただけたら(感想をいただけたら)さいわいです。(後に大幅改変や全削除をする場合もあります。あらかじめご了承ください。)

この作品の感想をお寄せください。
No.17  お試しさん  評価:--点  ■2014-10-04 08:10  ID:9h6qp5PumAE
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たびたび返信いただきうれしくおもいます。
バフチンさんの本をためしに図書館検索にかけてみたのですが、どこにでもおいてある本というわけではなさそうですね。いずれどっかで手にとる事でしょう。

>「勉強」してもそこから逸れていくばかり
たぶん感性の問題ですから勉強では補えないんだとおもいます。

>何が「音楽じみたもの」から僕を逸脱させるのか、見定めたいと考えています。
んーなんでしょう、思考力と我かな?あ、これ1分で思いついた評ですので、適当なことを言ってるかもしれません。Aさんの詩は哲学的な傾向がありますね。内実、哲学と詩ってのはある部分で似ている。哲学は「簡単なことをいかに難しく言うか」ですからね。これは個人的な哲学に対するレッテルですが、詩もそういう肉付けをしていきますよね。哲学における肉付けは説得力のためのものですが、詩はどうでしょうね。なんのために比喩をつかったり、遠回りで対象に迫っていくのでしょうね。哲学は真理の追求を目的としますが、では詩はなにを目的に? なぜ噴泉のように言葉がわいてきて、なんの為に自分は詩を書くのか。そこらへんを整理するとなにかわかるかもしれません。そこで自分の詩の目的にかなっているものいないものを取捨選択すればいいのではないでしょうか。なんか長々と書いた割には中身が薄いな(笑)

今後の投稿へのお誘いありがとうございます。ストックはそれなりにあるのですがね。ちょっと今は満腹感、いや膨満感でいっぱいです。
No.16  A  評価:0点  ■2014-10-02 05:32  ID:pA0QzJ9KbiA
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さらに逸れて(すみません)。

バフチンをもう一度読み直し、自分のものにして疑問を抱かれた箇所に対して議論を展開してもよいと思うのですが、世界文学の領域で個別具体の詩、小説を代表的なものだけでも網羅し、彼の論と照合しながら解説する事は(そうしないと説得力ないですものね)現時点での僕には能力的に無理な話なので、僕から持ち出しておいてなんですが、ここで(紹介程度で)止めておきたいと思います。ご興味がおありであれば、読んでみてください。


「音楽じみたもの」の正体を掴むのは僕の積年の望みです。しかし、「感じる力が弱ってしまった」と申し上げたように、「勉強」してもそこから逸れていくばかり…どれほど愚かに見えようが、もっともらしい事を言うよりも、「音楽じみたもの」に真っ直ぐ向かう方が正しいと内心思うんですけどね……それにしても、僕は現に逸れ続けている。ただ、この逸脱の過程にあっても、何が「音楽じみたもの」から僕を逸脱させるのか、見定めたいと考えています。そして、「正しいと内心思う」この信念をも疑い、問い続けたいですね(どうかこの言葉に行動が伴いますように)。

僕の書くものにコメントをつけて頂く必要はありません。ただ、この板に顔を出していただき、時々は作品を見せていただきたいな、と思います。

余計な事もしゃべり過ぎました。取り敢えず、これで。
No.15  お試しさん  評価:--点  ■2014-10-02 02:50  ID:9h6qp5PumAE
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つづきです。
古今東西、たくさんの詩人や作家評論家が詩を定義しようと試みていますが、どの論も決定打にはなっていませんね。神学論争ですから当然な話です。
私はあまり本を読まないのでバフチンさんを存じ上げませんが、紹介してくださった部分は、なるほどなと思うところが半分と、ん?じゃああのモノローグの小説はどういう扱いになるんだろう?と頭を抱えてしまうところが半分、そんな印象です。
ダンテの神曲のような叙事詩はオーケストラ=多声的ですからどうなんでしょうね。詩と小説の重なり合ったゾーンも相当程度あるのではないでしょうか。

>詩は対象に没入する詩人の志向性によって隅々まで貫かれることによって彼自身のものになった言葉であり、
こういう意味でしょうか。
一般的な詩作の場合、対象を最もふさわしい言葉で表そうと模索しますね。
この言葉がいいかな?、それとも別の言葉があるかな? とか。
言葉を自らつかみとって対象にすり合わせていく、そういう力学を基本とするのが詩作であるから「彼自身のものになった言葉」とバフチンはいうのでしょうか。
小説の場合は……うーん、小説といっても色々ありますからね。。。大衆文学の場合だとたしかにバフチンのいう傾向が強いけども。まあ他者の言葉がよりそのまま存立しやすいのは小説のほうでしょうね。

ただこれらはかなり深いところでの言語的な本質論・成り立ち論ですから、詩が韻文であるべきかどうかってのはもう一段上の階層での議論だとおもいます。あ、それは承知の上でってことで後段に続くのかな。

>これは安易な自己投影ではなく、
>その上で、蛙の意識で世界をうたっている訳だから、バフチンの区別では、
はい、有難うございます。安易な自己投影じゃないとフォローしてくれるなんて思いもよりませんでした。
作り手は蛙になりきってそこから純粋に言葉を希求したはずです。かつ表出された言葉もモノフォニー/単声的ですから、バフチンも詩と区別してくれるでしょうかね。

>ここで起きているのは、蛙(になった作者)の声が作者の声に出会うという不思議です。
>この詩を丁寧に読む読者なら、「飛躍」の成立を十分認め、ここにこそ面白さを見出すのではないでしょうか。
これは助け舟ですね。自分で解説してもここまで上手くは説明できませんでした。
飛びすぎていたら読み手は破綻と感じていたでしょうし、なんとか着地できたようでありがたいです。

>一言で言えば、「出逢い」の神秘ですね。
ああ、やっぱりテーマはこれでよかったんだと教えられました笑。この作品のテーマはなんですか?と問われたらこう答えることにします(笑)

>最後に。
たしか一つに辛辣な評価いれたんですよね。期待感なくして厳しい評価なんていれませんよ。叱咤激励というと高慢ですが、叱咤のほうだけじゃバランス悪いと思って、実際もうひとつの良作の方に同時に激励をいれたはずですよ。良い評価も悪い評価も等しく良いきっかけですよ。これは間違いない。
ちなみに最近はもうコメント入れるのやめてしまいました。

No14
>最近は感じる力が弱ってしまったのですが、昔は敏感に感じましたね。
>言葉はイメージにも音にも(我々の心にも)関わっており、
ほぼ???されるだろうと思ってましたが、これは共感をいただけてうれしいですね。
最高の詩ってのは底流になんか音楽じみたものがあるんですよね。そう、そうです。的確に代弁して頂き有難うございました。
No.14  A  評価:0点  ■2014-10-01 22:49  ID:pA0QzJ9KbiA
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返信の途中で口を挟むのはどうかと思いましたが、コメントしておきたい。

>言葉の感触自体が音に富んでいることってありませんか?

これはありますね。なぜか、よく意味の分からない言葉(日常よく使わない言葉)に起こるものですが、おそらく、言葉にならなかったものが言葉になっていく心の(目覚ますよような)働きが起こるからではないかと思います。

>詩の物語性が発する音/音楽、これ、感じるの私だけですかね。

最近は感じる力が弱ってしまったのですが、昔は敏感に感じましたね。我々を引きこみ、最後まで掴んで離さない力の一つですよね。一行一行の含蓄の運びが奏でる音楽。物語の美味しい所。お試しさんの「韻文」という言葉がこれをも射程に入れている事が分かりました。音を素材に作られるのが音楽ですが、言葉はイメージにも音にも(我々の心にも)関わっており、両者(というより三者、いや、世界も含めれば無数者)に共通する「構造」の美を音楽性と名付けようが、他の言葉で名付けようが、言葉にはその美を生む力があると僕も思います。(僕自身は自分の作品において美を達成出来ているとは思いませんが。これは謙遜というよりも、関心の重点を別に置いているという意味です)。
No.13  お試しさん  評価:--点  ■2014-10-01 07:14  ID:9h6qp5PumAE
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またまたコメントをお寄せいただき有難うございました。
一部、こちらの投稿作について、作った当の本人より深く理解してるんじゃないかという箇所があって感服いたしました。やはり他者の視点というのは偉大です。はっと気づかされることがあります。

>中身を充実させるためには、その快楽を犠牲にしても構わない

さてさて難題がきましたね。これはどう答えるべきでしょうか。
浅識にムチ打ってこたえますと、まず詩の音楽性については複数の種類あると思ってます。持論ですが。
表面的な音楽性については前回書きました。いわゆる五音七音とかですね。これが一つめ。

二つめが、えーと、語感ですね。これは一つめにカテゴライズしてもいいんですが、言葉の感触自体が音に富んでいることってありませんか?
たとえば新聞の一面に載っているような言葉はどれも音を感じないものばかりです。無機質な言葉といってもいいかもしれません。対して「歳時記」ってご存知でしょうか、あの辞書をぱらぱらとめくってみますと、どうも香りたつような言葉が並んでいる。含蓄があって、歴史を内包していて、言葉から音が聞こえてくるような。単に情報を伝達するだけの言葉とはちょっと違う。
「風抜き穴」、これちょっとミスって風抜"け"穴としてしまいましたが、たとえば私はこの言葉からちょっと湿った苔の香りのようなものや、雨の音風の音を感じます。たぶんわたしの古い記憶や原体験?にかかわることなんでしょうか。「スマホ」、この言葉からは絶対に音楽は聞こえてきません。イヤホンをつなげば音楽は聞こえてくるのですが笑。
さらにこのカテゴリで、もう一種類、言葉自体がもつ音について補足させてください。
こういう詩があります。
(前略)
曾て私を締めつけた
多くの家族の絆はどこに行つたか
又ある部分は
見せかけだと私にはひがまれる
甘いサ行の音で
そんなに誘ひをかけ
(後略)
伊東静雄「四月の風」

昔読んだ時はよくわからなかったのですが、今では実感しますね。なるほど「サ行」はたしかに甘い感じがする。ささやか、とか、せせらぎ、とか、いわゆる歯茎摩擦音ってやつですね。発音自体が音楽的です。

もうひとつ私はあるとおもってるんですが、これが三つめで、
詩の物語性が発する音/音楽、これ、感じるの私だけですかね。
たとえばAさんの「森を抜けて」からは、当然のことながら風の音や葉擦れの音、大地を蹴る音、これらがずっと聞こえていますね。疾走間にみちた展開ですから。
こういう原初的な音が聞こえる詩から、さらに凄いのは音楽がきこえてきます。おそらく「聞こえてくる=喚起される」ってことでしょうけど、なんかどっかで聞いたような音楽が喚起される、あるいは喚起されなくともその寸前までいくような、そんな構造美、格調をもつ詩があるんですね。これはちょっと伝わりにくいでしょうかね……。

つまり韻文であるための方法は色々あるってことですね。


>ルールは創造する事が可能なもの

俳句はしらないんですが、これは有季俳句にたいする無季俳句みたいなもので、触るとヤケドしそうですね。まあ前衛運動っていうのはどの世界でもあると思います。わたしたちはおのおの信じるところへ進むしかないでしょうきっと。
また後日つづきかきます。今日はこのへんで失礼します。
No.12  A  評価:0点  ■2014-09-30 11:04  ID:pA0QzJ9KbiA
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丁寧な返信ありがとうございます。

ものを書き始めた時、散文から書き始めたのですが、音に対する意識が僕もあって、「頭の中の耳」に心地よい文章を書きたいと思っていました。中身を充実させるためには、その快楽を犠牲にしても構わないと考えるようになりましたが、欲を言えばやはりどちらも追求したいものですね。この詩を読ませていただいた時、直感的に「伝統的なもの」を感じたのですが、それは祭りという内容によってではなく、リズムに秘められた情緒のようなものによってではないかと思いましたが、もしかすると、五音や七音と、かなり自覚的に選択され設定された言葉の結びのルールに「伝統的なもの」を感じたのかもしれません。

僕は、ルールの中で最善を尽くすのはもちろん素晴らしい事ですが、ルールは創造する事が可能なものとしてもあると思っています。もっとも、先人の蓄積を前に安易に創造を口にするのは慎まなくてはならないのかもしれませんが、少なくとも、それを不動のものと見るのではなく、作品を読む事においても書く事においても僕は、ルールの成立を問いたい。無闇に外れるつもりもないのですが、この視点は維持したいですね。

ところで、詩と散文の本質的な違いというのは、僕にとっては非常に興味深い問題です。ロシアの文芸批評家バフチンの『小説の言葉』という本があり、要約するのが難しいのですが、僕の理解したところでは、言葉はそもそも「他者の言葉」だが(言葉はこの世に生まれてきた我々にとって、母国語であってさえ、まずは他者の言葉として出会うものですよね)、詩は対象に没入する詩人の志向性によって隅々まで貫かれることによって彼自身のものになった言葉であり、小説は様々な他者の言葉と作者(と作者の想定する読者)の対話的な関わり合いによって、他者の言葉が矛盾をはらんだ多様性を保持しながらオーケストラのように芸術的にまとめあげられたものという事です(例:ドストエフスキー)。この考え方を紹介させて頂くのは、韻文=詩という考えとは別の考えがある事をお伝えしたかったから、というよりも、お試しさんが述べられた「一箇所」についての感性(横柄過ぎたかな)こそ、お試しさんがこの詩において詩的である事の証明になっていると思われたからです。

つまり、この詩の素晴らしいところは、僕は、お試しさんが「蛙の視点に留まった事」だと思うのですが、それは、作者が蛙の意識になりきり、彼の立場から言葉を発したという事ですよね。これは安易な自己投影ではなく、自己が自己以外のものに成るという能力と努力がなければ出来ない事です。その上で、蛙の意識で世界をうたっている訳だから、バフチンの区別では、やはり詩に分類されると思うんです。つまり、この作品は蛙の詩である。故に、お試しさんは作者としてのご自分の声に蛙の立場から違和感を感じられた、という事がここで起こっていると思われます。しかし、この「違和感」はこの作品にとって取り去るべきものではなく、コメントで述べられている通り、「飛躍」の箇所になっているところが面白いです。作者が蛙の声を聞き、感情移入して(こう言っているんだろうな)と想像するというのは、凡庸な想像力の持ち主でもやりそうな事ですが、ここで起きているのは、蛙(になった作者)の声が作者の声に出会うという不思議です。蛙と蛙、蛙と雨etcの出逢いがここに重なって来る。ここで激しく震動しているものこそ、この詩が向かっている「奥深い核心」です。一言で言えば、「出逢い」の神秘ですね。普遍的でありながら、永遠の謎。この詩を丁寧に読む読者なら、「飛躍」の成立を十分認め、ここにこそ面白さを見出すのではないでしょうか。


最後に。勧めたというより、挑発したという方があっているような形になりましたが(笑)、まさか本当にお書きになられるとは思わなかったし、このような作品になるとは夢にも思わなかったのですが、最初にこの作品に触れ、感じたのは嬉しさであるとお伝えしたい。ぜひ、また書いて下さい。

ありがとうございました。
No.11  お試しさん  評価:--点  ■2014-09-29 14:07  ID:9h6qp5PumAE
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A様。
あらためまして感想ありがとうございました。
(ちょっと遠出をしていてお返事遅れて申し訳ありませんでした)
なるほど感想も詩的ですね。何度も読んで咀嚼し、おいしくいただきました。
過大な評価に恐縮していますが、思うところをいくつか返信させてもらいます。

>心地よい音の連なり

わたし個人の考えをいいますと、やっぱり散文と韻文をわけるのは音声化したときの感触なんですよね。
"韻"文なわけですから字義的にも一般的にもたしかにそのはずなんですけど、日本語の現代詩の場合、作り手のみなさんはどのような考えをもっているのでしょうかね。(その答えは作品から伺い知るしかないのですが。)
自分は5と7、8あたりを良い感触のする一区切りだと感じています。
たとえば
「ただ気に入った庭木のうえや 紫蘭の陰の湿った所で じっとしている ひがな一日」
7・7、7・8、7・7と続いているわけです。
「所(ところ)」を「場所(ばしょ)」にかえたらここも7・7になると思います。(かえようかな……)
昔の人は偉大で、和歌の発生の頃から5と7音というのを感覚的に「よし」としてきたのでしょうか。
定型詩はもうさすがに書けません。というのも現代詩の躍動感・自由を犠牲にすると思うので。名残程度にところどころ5・7を入れています。これが個人的な(散文に対する)韻文=詩についての考えです。
散文詩もありますから、もっともっと自由に言葉を駆使したいのなら散文詩のフィールドでの言葉の格闘になるのでしょうかね。
余談ですが、厳しい制限やルールがあるところにこそ良いものが生まれるらしいというパラドックスもあります。これは以前みたニュースの受け売りなんですが、この記事を読んでうんうんと思わずうなってしまいました。(昔の記事ですが「制限が創造性を高める」でググると出てくると思います。) 
つまり詩はあくまで韻文あり、またその制約の中で書く事こそ最善と思うわけです。韻文のルールは上でも書いたとおり自分なりに定めていいのだと思います。現代詩ですからね。
また、この制約の副産物として、見た目の綺麗さがあるのだと思います。

>簡単に言えば雰囲気が伝わってくる。

ここはホッとしました。
ホタルのわっか?なんだそりゃ?とか思われてたらちょっとショックでしたね(笑)これは今年の夏、近場の自治会主催の盆踊りにいって見かけたのですが、小中学生くらいの子がちょくちょくこれをつけていたんです。それもそのはず、露店で売っていたのです。余談ですが、最近の自治会の夏祭ってのは露店はみな自前なんですよね。地域の人が自分らで焼きそば作ってたりする。で、その光るわっかですが、これは露店商専門=テキ屋のあんちゃんが売っていたようです。
この数年ぶりのお祭体験であることを感じました。生き物ってのは夏に栄えるんだなってことと、人間も音や光に集まってくるんだなということです。中学生らしき男子グループが、夏祭会場の隅っこで、級友らしい女の子と中学生らしい青いアピールをし合っているのも耳にしました。考えてみれば生き物はみなこういう成り立ちなんだな、それぞれ時間的なサイクルは違えども、こうやって繁栄を願い子孫を残していくんだなということを感じました。で、蛙君のことを書こうと。彼も鳴かずにはいられないのです。住宅街では子孫を残せるような水辺は皆無ですが……。

一箇所とくにわかりにくかったかな、ちょっと横柄すぎたかなという部分があります。
ここらへんが受け手側に分かりにくい印象をあたえちゃうのかなと。
「あぜ道を歩いていたあなたは、誰であったか あなたと出逢ったわたしは、誰であったか」
ここですね。
ご承知の通りあぜ道を歩くカエルというのは表現としては微妙に不自然です。いや擬人化しているわけだからそんな違和感ないよ、といわれればそれはそれで有難いのですが、実はここには人間の声が"半分"混じっています。人間=作り手の声ですね。上の夏祭体験談で言及しましたとおり、なんだ生き物も人間も同じじゃないかという思いもあって、人間の声を半分入れました。その目印としての「、」です。読点をいれたのはこの部分だけです。カエルさんは「この記憶がわたしのものでないのなら〜雲のものだろう」といっています。水田の記憶はご承知のように遺伝的な骨にまでしみついている記憶です。親や先祖が体験した記憶ですね。で、わたし=作り手の記憶もちょっとだけ忍び込ませたというわけです(笑)

ちなみにこの忍び込ませた部分はちょっと唐突で飛躍していますね。
この飛躍の技術?は、"The Waste Land"という長編詩のある部分を読んだ時、やはりと確信しました。ああやっぱりこれが必要で、これこそ活路になるのだと。Aさんの投稿作品でもたしか使われていましたね、この技術。おそらく直感的に使っているのだろうと想像します。

お時間を頂ありがとうございました。Aさんに勧められて投稿したのですがかなり勉強になりました。わかるんですよね、甘い評価や感想のなかにも自分の足りないところが。作り手は純然たる読み手にはなれませんからね。貴重な体験でした。重ねてお礼申し上げます。
No.10  お試しさん  評価:--点  ■2014-09-27 06:19  ID:9h6qp5PumAE
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A様。
感想ありがとうございます。ちょっと自分にはもったいないような論評でして。
後ほど改めて返信させていただきます。今朝は取り急ぎ失礼します。
No.9  お試しさん  評価:--点  ■2014-09-27 06:09  ID:9h6qp5PumAE
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ヤエ様
再訪&コメントありがとうございます。
>自分の考えの中でその時に一番合うであろう方法を選ぶと、( )が使われることもあるということですね。

そういうことだと思います。ただできるだけ記号を使うのは消極的であるべきなのだと思います。なるべく使わない方がいい。やっぱり大事なのはツールより中身ですからね。ご意見をいただいて注意深くやらないといけないなと、改めて考えなおしました。ありがとうございました。
No.8  A  評価:50点  ■2014-09-28 00:14  ID:BymBLCyvz/o
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拝読させていただきました。

既に感想を付けておられる方々もおそらく直観的にこの詩の良さが分かってしまったのだと想像されます。以下、本文から逸れた独り言。

ページを開き一瞥しただけで良さは分かる。それでいて、読み終われば、そこにあるのが当たり前だという錯覚を生じさせる。この作品が存在しなかっただって?そんな事は有り得ない。昔からあっただろ――この錯覚は全く平凡な事ではない。驚くべき事だ。黙読しながら文を頭の中で音に変え読んでいく時、そこに響き始める心地よい音の連なりの感覚と、意味的にも流れに乗って展開される蛙の心、夏の祭りの情景や天気の模様など全てが、本当に全てが、一つに溶けていく。簡単に言えば雰囲気が伝わってくる。生活していて、我々は普通に雰囲気を直観的に捉えている訳だが、いざ、それを言葉にしようとすると言葉にならない事に愕然とし、何でこんなに単純な事が説明しようとすると上手く説明出来ないのか、ともどかしい気持ちに襲われる。この詩は、雰囲気を決して損ねず、ある奥深い核心に、総体の単純さに真っ直ぐに向かっている。この単純さは、おそらく、この詩の中身(?)を要約し記したり、文体を別の形に置き換えては壊れてしまうような単純さだ。言葉が伝達の手段というのは正しい。ただし、そう言う人は、言葉は伝えたい事丸ごと全部伝えられるのかと問うてみなければならない。「無理だ」と即答する人は詩を全く知らない人だ。詩はあくまで言葉で作られ、日常の言葉では伝えられないものを伝達する力を持つ言葉だ。では、この詩は何を伝えたいのか?こう問う事は野暮なのだ。この詩は、この詩そのものを伝えたいのだと言って、それ以上口にしない方が賢明な気がする。少なくとも、直観してしまった事を損ねないために口を噤むべきではないだろうか。そう、これは歌なのだ。歌は歌うものであって、歌う以外の事はどうでもいいのではないだろうか。神のみぞ知る、でいいじゃないか。僕達はこの歌を知らなかった、今は知っている、よくは知らない、尋ねられても分からない、でもいい、いい歌だと言う。
No.7  ヤエ  評価:0点  ■2014-09-25 21:41  ID:BymBLCyvz/o
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お返事ありがとうございます。
わかり易かったです。様々な表現方法の中で、間を作ったり態と目を止めやすくしたり、或いは区別だったりと、自分の考えの中でその時に一番合うであろう方法を選ぶと、( )が使われることもあるということですね。
違和感なく使われている作品もあると聞いて興味が湧きました。
他の方の感想を見てても思うのですが、
もっと見る目も養っていきたいと思います。
勉強になります。ありがとうございました。
No.6  お試しさん  評価:--点  ■2014-09-25 21:24  ID:9h6qp5PumAE
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ヤエ様。
はじめまして感想ありがとうございます。

>これが詩なんだと思わせられました。
いやいや……ちょっと頂いた感想を読み返しながら今、やっぱり足りないなぁ〜駄目だなという強烈な残念感が頭を支配し始めました。やっぱりちょっと性急すぎる部分があるんですよね。駄目ですね、これ。

>前々から気になっていたのですが、たまに作中で( )が使われている作品に出会います。私としては、急に視線が引き剥がされるようで、読んでて少し苦手なのですが、どういう意図があるものなのでしょうか。

はい、とてもお目が高いと思います。偉そうな上から目線でなくて、というのも私自身も今ご指摘いただいた部分に疑念をもっているからです。
( )のところは最後の最後の挿入しました。創作期間中もともとずっとなかった一文です。経緯を説明しますと、最後の連はもともとこうでした↓
--------
わたしたちは無数に出逢ったのだろう
おなじような水辺を 声をたよりにすすんで
遠い記憶が雨をよべという
親たちの記憶が命を繋げという
わたしはひとり庭にひそむ蛙
それでも鳴けと雨が誘う
--------
もともと( )の一文はなかったわけですが、ここにまず落差というか唐突さを感じていました。ここは改行してもいいかな、というぐらいの段差があるんですよね。そこで考えたのが3つ、@改行するA3行目から一段下げるBワンクッション的な文を挿入する で選んだのがBです。
で、ちょっと薄めの1行に満たない0.7行分くらいの一行を入れました。心の底の方から湧き起こってきた呟きみたいな。
ついでに欲張ってしまって( )の一行には決め台詞としての役割も期待しました。最後もちょっと平坦で、感を興すための決め台詞がなかったものですから。
(もうひとつある部分<3連目の4・5行目>を回収していなかったので、その回収も兼ねて。)

とすると他の詩行との差別化が必要になるんですが、そのアイテムとして考えられたのが「――」と「( )」のふたつでした。とすると、頭か尻にダッシュをつけるか、それとも( )で包むかになるわけです。
で、使い勝手の良いダッシュがまず浮かびましたが、でもちょっと今回は冒険して( )で包んでもいいんじゃない?とも思いました。これ、かなり目立ちますね。だからご指摘のとおりデメリットになる可能性もはらんでいますね。

実を言うと私自身も10年くらい前は詩の中に現れる( )に違和感を持っていました。なんか記号とかって邪道じゃない?という感覚だったでしょうか。とにかく直感的に嫌いでした。ほんと仰る通り気持ちがそがれるんですよね。しかしそういう違和感がほぐれていったのは、敬愛する詩人や作家が実際に( )を違和感なく使っていたからだと思います。以来だんだんと拒否感がなくなっていきました。
ちょっとだらだら書きましたが、( )の効用について言及が不十分だったでしょうか?……
まあどうしても長いのとか複雑のを書こうとすると、必然的に道具は多いほうがいいと思ってしまうんですよね。今回の詩でも一段下げたり、スペースと読点を使い分けたり、一応理由があってやっていますが、それが徒労に終わることもあるんだということもまた創作の厳しいところですよね。
感想ありがとうございました。自分も返信を書きながら再度頭の中を整理させてもらっています。
No.5  ヤエ  評価:50点  ■2014-09-25 20:12  ID:BymBLCyvz/o
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こんばんは。

落ち着いて読める、気持ちのいい作品ですね。
これが詩なんだと思わせられました。
好き、いや、湯にぼーっと浸かる感じでしょうか。読んでいたくなります。
きっと色々工夫がされているのでしょうが、経験も知識も乏しい私は感覚的に捕らえるしかありません。
前々から気になっていたのですが、たまに作中で( )が使われている作品に出会います。私としては、急に視線が引き剥がされるようで、読んでて少し苦手なのですが、どういう意図があるものなのでしょうか。
時間があれば教えて下さると幸いです。
素晴らしい詩を読ませて頂いてありがとうございます。
No.4  お試しさん  評価:--点  ■2014-09-25 20:15  ID:9h6qp5PumAE
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菊池清美さま。
感想ありがとうございました。
私も菊池清美さん作品はだいたい目を通しています。北上川や赤い実を食べるヒヨドリ上戸、あと山肌に鷲が浮かび上がる作品(『岩鷲山』) 、そこら辺の作品は強く印象に残っていて、今でもちらちら写真もふくめ思い浮かべることができます。
>長い事書かれているのでしょう
有難うございます。何年くらいになりますかね……心がひからびてしまっています。

>詩としては長いと
そうですか〜難しいですね。とりあえず主題にみあった分量ということを心がけていきたいと思ってます。
ご意見参考にさせていただきたいと思っています。有難うございました。
No.3  お試しさん  評価:--点  ■2014-09-25 19:41  ID:9h6qp5PumAE
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逃げ腰様はじめまして。
感想ありがとうございました。
>懐かしいようでノンスタルジックとはまた違う
なるほど、そういう印象ですか。多分選んでいる言葉のせいかなと思います。一部にゲンダイ的なアイテムを使ってますが、それも正直迷いましたが、逆にちょっと引き立つかなという気持ちもあって使ったりしました。

>ある種の形而上学的なもの
多分私が作るのは全部そういった類のものだと思います。単純なものはなかなか創れなくなってしまった気がします。というのも、自分が特別に惹かれるのは読み解いてゆく労力の要る詩だし、自分が作り手の場合は隠匿すべき沢山のものがあるからでしょうか。

>漢字の効用というか視覚効果も、文章量の程度の良さもいい塩梅。
ここらへんは伝わってくれたようでほっとしています。
あとは韻というか調子の部分ですね。ここらへんはあからさま過ぎるとカチカチになるので匙加減が難しいところです。

>もし推敲されるようでしたら、娘&母とカエル&祖先の記憶で重ねる感じですかねぇ。
もともと親子だったんですよね。親子→母子→母娘と変遷しましたが、今ではやっぱり母子がいいかなと。ちょっと脱線しましたが、娘の部分は一番最後に挿入した創作なんですよね。それが意図ありげに目だってしまったかな……光=目印と出会いを強調するための他愛もない部分だったのですが。
ただ、逃げ腰様が感じたのと同じものであろう懸念を抱えています。ちょっと性急すぎるというか、足りない部分がある。説明過多と説明不足とのせめぎあいなのですが、難しい。ちょっと足りない(もう一連分くらい)かなと今思い始めています。
頂いた言葉の端っこからなんとなくではありますがひとつヒントが見えました。ありがとうございました。
No.2  菊池清美  評価:50点  ■2014-09-25 14:47  ID:dJ/dE12Tc8A
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お名前は大分前からお見掛けしてます。

想像通りの作風です、長い事書かれているのでしょう老巧な感じです。

多分小説も書かれているのかも知れませんね、詩としては長いと思いますが好き好きでしょうね。
  
No.1  逃げ腰  評価:50点  ■2014-09-25 05:20  ID:08/cgECPAPE
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初めまして、逃げ腰です
凄いなぁ。懐かしいようでノンスタルジックとはまた違うなぁ。

焦点にしたいものをピンとずれずに書けている、けれど焦点しているものはある種の形而上学的なものなので大変苦労されたんだなぁと。
一言で言えばカメラワークが良い!

漢字の効用というか視覚効果も、文章量の程度の良さもいい塩梅。
いいですねぇ…。

もし推敲されるようでしたら、娘&母とカエル&祖先の記憶で重ねる感じですかねぇ。いや、難しい…。


是非また推敲させたものを見せてください。
私のほうも勉強になります。



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