遠い音、近い音 (改稿)

強風で草の背が伸びないアラン諸島では
いまでもゲール語で毎朝挨拶がかわされる
石畳の壁が草原に無造作に並べられているだけの風景
アイルランドの西に離れたこの島で
顔に皺を刻んだ老人が畑を耕しながら歌う
時間に置き去りにされた言葉は
太陽を屈折させてしまうかのように唸りをあげる

サクソン語で「豚の丘」が起源とされるスウィンドン
ブリトン人、アングロサクソン人、デーン人
ブリテン島は行きかう人たちでいつも賑やかだが
スウィンドンの街には嘘みたいに華がない
退屈をまぎらわすために大学生たちが
パブでひたすらエールを飲み続ける
最後の一人がようやくエールを飲み干すとき
豚の丘に学生たちのいびきが響く

癖のあるフランス語一家
一家の父親は朴訥なノルマン語
母親は優しいピカルディ方言
イル・ド・フランスのフランシア方言はじゃじゃ馬の末娘で
南部のプロヴァンス方言はその陽気な兄
一家が揃って歌うとき情熱が葡萄酒のように香り
畑に穀物と蕾を繁らせ
酒場のグラスに詩をそそぎこむ

アンダルシア地方アンテケーラの村から
奇岩を見に行くスペインの恋人たち
石と砂と丘ばかりの荒野に
車に轢かれた子犬の死骸をみつけて落ち着かない
子犬は一体どこからきたのか
皿を積みあげたような岩の合間で
砂を吹く風の音が胸をざわつかせたことも忘れ
村へ戻ると恋人たちはギターの音色に満たされる

フェニキアの王子カドモスが
エウロペを訪ねて渡航したギリシア
壷に書かれたアテネ出土の最古の語刻文には
踊り子の栄誉が記されている
エピダウロスの古代円形劇場では
今でもギリシア喜劇が披露される
日暮れはそのまま舞台装置となり
笑い声は風となって月桂樹を震わせる

プリアモス王が永久の眠りにつくトロイ
エーゲ海の栄華をきわめた古都は屍となり
豊かな牧草地として羊たちに自らの躯を捧げる
緑の樫の木からは黄金色の蜜がしたたり
銀色の麦穂が輝く大地の上を風がよぎる
もうすぐ秋がくる、秋は木の実をくれる
夏は豊作で美しい
大地は耕さずとも厳かな産声をあげる

テヘランの朝食には蜂蜜とクリームがかかせない
薄いナンに蜂蜜を塗り
乳の香りのするクリームと食べる
朝の街では女たちが
ニカブやアルアミラの被り方にこだわり
お洒落に気をつかいながら颯爽と歩いて行く
より一層の自由に憧れる女たちは
新たな今日という喧騒の幕を力強く開く

イランからパキスタンへと抜ける国境の街
風土病の子供たちはみな赤い目をしている
少年たちが鳥の首に紐をくくりつけて笑う
弱いものを弱いものが痛めつける
世界の単純さに見とれた旅人は
ボールペンで旅券番号を書き写す
文盲の少年たちの悲鳴から逃げ出すように
乾いた音で文字を書き続ける

朝市に銃が並ぶペシャワールで
婚礼の契りがあった
新郎と新婦が神への誓いの法を読み
鮮やかな色の菓子を人々に振舞う
夕暮れが恋するひとたちを祝福する
神聖な晩鐘のつかの間の静寂に
乾いた土に立つ樹木が
柔らかな呼吸をする音が聞こえる

アムリトサルを恐ろしく赤い朝日が貫く
赤、それは血の色であり火の色
シク教徒の死者を奉る黄金の寺院には
死んだ戦士たちの写真が飾られている
砕かれ叩き潰され割れた顔を
無理やり縫い上げて生きていた頃の顔に近づける
夜明けと黄昏の合間の赤が
眼底を焼き焦がすように鳴り止まない

ポカラを見下ろすマチャプチャレ山
サンスクリット語で
「雪の住処」を意味するヒマラヤ山脈は
山というより巨大な岩の塊と形容する方が正しい
老いたグルカ兵が白い歯を剥き出しにする
--ヒロヒト
いびつな発音の後にたたずむ暗い歴史が
ヒマラヤを揺るがすことはない

梅雨空の下の千駄木で
パワープレス機がトラックの荷台に並ぶ
機械油と鉄の匂いと轟音のなかで
金具製造に一生を捧げた
祖父の耳がきちんと働くことはない
プレス機械を積んだトラックが遠くへ去ると
祖父の瞼からは音もなく涙がこぼれた

祖父は聴覚を失ってまでも
機械と機械のまわりの何かを信じていた
信じる人には一輪の花でさえが美しい
毎年薔薇が咲くことの
なんという不思議!

遠い音、近い音
それぞれのしずかな歌声は
ささやかに交錯していりまじる
どこか近くから産声が聞こえる
どこか遠くからすすり泣きが聞こえる
いつもどこかで静かな轟音は鳴り響いている
じっと耳をすますと
ほら新しい歌が
終わりのなかで始まっている
OZ
2011年02月23日(水) 03時36分31秒 公開
■この作品の著作権はOZさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
2/26 改稿しました 
※フランス、トルコ、イラン、パキスタン、インドを加筆

2/27 改稿しました
※ネパールを加筆

3/5 改稿しました
※イングランド、ギリシャを加筆


この作品の感想をお寄せください。
No.8  OZ  評価:--点  ■2011-03-06 09:16  ID:4MvGQJq3VCA
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楠山様

再読とご感想ありがとうございます。
ありがとうくらいの言葉しか書けない自分がもどかしいですが、これだけで。

No.7  楠山歳幸  評価:40点  ■2011-03-06 02:59  ID:sTN9Yl0gdCk
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 失礼します。再読しました。

 OZ様の文章はこんな作風も合うと思いました(重ねて失礼しました)。
 以前と雰囲気が良いほうに変わったと思います。いろいろな立場の人の生活の匂いまで感じる、謳歌みたいでした。素人目ですが、恐らく小説だと長い話になってしまうグローバルな題材が、簡素なのにインパクトのある作品群に仕上がっていると思います。繰り返しで恐縮ですが、やはり最期の日本の機械の音、良いですね。祖父にしか聞こえない音があるかも、と想像してしまいました。


 重ねての拙い感想、失礼しました。

No.6  OZ  評価:--点  ■2011-03-05 03:08  ID:4MvGQJq3VCA
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ザイチ様

ご感想ありがとうございます。もったいなお言葉をいただいて、
とても恥ずかしいです。ありがとうございました。
No.5  ザイチ  評価:0点  ■2011-02-27 22:43  ID:2EbdM0k4XrU
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(評価をつけるのが苦手なので、感想だけ書かせてください)

自然の雄大な包容力と、それがゆえの残酷さを見たような気がしました。
どの国に行っても、産声は上がるし、人は死に逝く。
難しそうに見える言葉たちの在り様を、自然とその地に生きる民が大きく許し、認めているような、壮大なイメージでした。
この詩、私は見事だと思います。自分の性分で点数付けられませんが、最後の歌の部分、キメ方がものすごく矢で射抜かれたようになりました。
また是非読ませてください。
No.4  OZ  評価:--点  ■2011-02-25 20:58  ID:4MvGQJq3VCA
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楠山様

ご感想ありがとうございます。

音が弱いとのお言葉ありがたいです。
ご感想をいただけると客観的に自作を読み返せるので、
筆力の向上に役立つと思います。
音と色彩に敏感な楠山さんからの感想であれば尚更です。
ありがとうございます。

難聴はあれですね。
金具をつくっているとプレスの音がうるさいんです。
説明不足でした……。お恥ずかしい。

いつもご感想ありがとうございます!
No.3  楠山歳幸  評価:30点  ■2011-02-25 00:07  ID:sTN9Yl0gdCk
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  拝読しました。
 
 冒頭が良かったです。世代を超えた長い時間と音、厳しい生活まで感じさせる余韻、シンプルな中に凝縮しているところがかっこいいです。
 太陽を屈折させる言葉。生命を感じさせます。

 2,3段目は、情景は感じましたが、ちょっと音が弱かったかな、と……。場所ががらり、と変わるためか、僕の感覚が鈍いためか(いえ、原因はこれです。すみません)。

 4段目の、身近なところが現実に引き込まれた感じで良いですね。帰ってきた、という印象を受けました。ただ、少し、些細なことですが(僕も体に響くほどの騒音の中にいる時があるので)、難聴(?)になった原因のところを少し表現して欲しかったかな、と思います。

 拙い感想、失礼しました。

 
No.2  OZ  評価:--点  ■2011-02-24 20:30  ID:4MvGQJq3VCA
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無花果様

ご感想ありがとう。
無花果さんがもう少しだけ大きくなったら
きっと旅をしてみるといいよ!
国内でも海外でもいいから。

中学生は自分の心の中を旅することで
全力に忙しい時期だと思うけど、
余裕ができたら外の世界を見てみると
それは意外と爽やかで、
気持ちがいいものだと思うから。

ご感想ありがとうございました。

No.1  無花果  評価:40点  ■2011-02-24 17:46  ID:qDaj5EVH48E
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こういう感想書くのって苦手なんですけど、感想が書きたくなりました。

なんていうか、世界で起こってる戦争とか、デモとか、そういうのが頭に
浮かんできました。
改めて考えさせられました。
総レス数 8  合計 110

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