昭和という時代に生まれて

考えたらすごいことよね
昭和 平成 令和と 3つの時代を生きてるのよ
昭和生まれが明治生まれの人を見て驚いてるのとちょっと同じ感覚かしら


私が生まれたのは昭和51年 西暦でいうと1976年ですが
あの頃はまだ オイルショックの影響を引きずっていたせいからなのか
なんとなく暗い世の中だったような気がします
きっと晴れの日もあったはずなのに
記憶の中で私の頭上の空は いつもどんより曇っていました


トタン屋根の吹けば飛ぶようなオンボロの家
仏壇の横に神棚があるという なんとも不思議な家でした
便所も風呂場も家の中にはなくて
便所は暗い通路を通った奥にある汲み取り式で
電気すら通っていませんでした
昼ならともかく 夜にそこにいくのがなんとも怖くて
行くのを我慢したことも何度もあったし
風呂もどこかで拾ってきたようなささくれがいっぱいついた木の風呂で
子どもが入るには深すぎて 足をつけるのにも一苦労
おまけにでっかいねずみが何匹も出るし
まったくもって風呂に入りながら汚れにいってるような
なんとも嫌な気がしていたものです


保育園に通っていた私は 帰ってきても構ってくれる大人は誰もおらず
寒空の下 スモック姿のままで岸壁にしゃがみこんで
母親の帰りを ひたすら待ち続けていました


家にはテレビが一台ありましたが
その頃保育園の女子たちの間で流行っていた
キャンディキャンディとベルサイユのばらがどうしても観たくて
だけども これは子どもに観せるために買ったんじゃないと観せてももらえず
あとで母親が電気屋から小型のテレビを 私たちの部屋に買ってきました


その頃世間では通り魔事件が世を賑わせており
殺人とか殺されるとかいったものを
漠然とではありますが 感覚として怖いものであると知りました


母親は父親が 父親は母親が どちらも嫌い というか憎んでる
ということを肌で感じながら
子どもなりにどっちについたらいいのか
どっちにもつかないほうがいいのか
しかし とにかく父親のほうにつくと母親がものすごい目で睨むので
子どもなりに 母親は自分のことが嫌いなのだなと
そんなことを考えたりしていました


あの頃のお小遣いといったら 大体100円で
そのお金持って近所の駄菓子屋であれこれ選ぶわけですが
その頃の私はとにかくお金を貯めたくて仕方がなく
いつも50円のチョコボールだけ買って
あとはせっせと貯金箱に貯めていました
保育園児にして1万円以上貯めたって結構凄くないです?
だけどもその貯まったお金そっくりそのまま盗られてしまいました
やったのは父親か兄かのどちらかであることは間違いないのですが
母親は残念だったね とひと言云っただけで
失ったお金を補填してくれるわけでもなんでもなく
泣く泣く我慢を余儀なくされてしまい
それからはなんだかちまちま貯金しているのが馬鹿らしくなり
100円もらったらきっかり100円使うようになりました
駄菓子屋に行って100円でいかに多く品物を買うことが出来るか
そんなことに小さな炎を燃やしていたのですから
かわいいやらなんなのやらって感じでしょ


保育園最後のお遊戯会
年長は着物を着て踊るので
特に女子のあいだでは憧れだったのだけど
朝から両親がケンカ 母親が作ったお弁当を
次から次に床に蹴散らす父親
結局欠席ということになり 隣町の映画館に連れていかれ
面白くもなんともない映画を延々と観せられた揚げ句
置いて逃げようとまでされ
あとでお遊戯会の写真が配られたときの私の気持ちなんか
きっと母親にも もちろん父親にも理解できるはずもないでしょう


そのうち 怪人二十面相というのが世間を騒がせ
グリコや森永の飲み物やお菓子などに青酸カリを注入した
食べるな、死ぬぞ、という書き込みはセンセーショナルで
誰が何のためにしているのか 目的は何なのか
快楽殺人者なのか いまでいうところのサイコパスなのか
とにかく青酸カリという毒薬があることを
ほんの数ミリ口にするだけで窒息死してしまうということを
世の中には恐ろしいことを考える人もいるものだということを
はっきりくっきり思い知らされました
テレビではしきりに キツネ目の男の似顔絵を映し出しては
世の中に恐怖を煽っていました


相変わらず父親は些細なことで機嫌が悪くなり
醤油の瓶を投げつけられ 危うく失明しかけていた頃の出来事でした
兄が呑気そうに観ていたアニメ パーマンが
やけに虚しく見えたのをよく覚えています
ついでに云うと 子どもの頃の私はカレーが食べられず
あの黄色っぽい色合いがなんだか受け付けなかったのですが
珍しく家族で軽食屋へ入ったとき メニューを見ていると
父親がさも偉そうに、みんなおんなじもんだ!って云って
よりにもよってカレーを注文しやがりました


連帯責任という言葉が好きな先生がいました
国語の教科書の巻末に書かれた漢字を全部 
一字につき一行ずつ書いてこい
という宿題が出されました
全員がやってくるまで出し続けると
そんな毎日やらされるなんてまっぴらだったので
4時間くらいかけて 眠い目をこすりながらなんとか仕上げ
次の日持っていくと やってこない奴が
またかよ、とうんざりしながら4時間かけて仕上げて
またやってこない奴が
正直 なんで真面目にやってきてる人間がこんな目に遭わされるのか
やってこない人間にだけやらせればいいじゃない
この先生は生徒になにか恨みでもあるのではないか
そんなことまで考えてしまっていました


三原山大噴火というニュースを見たときには
不謹慎だとは思いながらも テレビに映し出された流れる溶岩が
すごくきれいだなと思ってしまったんです
しばらく釘付けになって その映像を見続けていました


私と同級生との間で なにかよくわからない壁のようなものを感じ始めたのも
この頃だったように思います
そんなつもりはまるでないのに 他人からは
スカしてる、とか、気取ってるとかいうふうに見えていたらしいのです
ああ 私って嫌われてるんだってことが解ってしまって
それでもどうにか 平静を装うのに必死でした
冷めてるという人もいたし ネコ被ってるという人もいました
他人って知ってるようで本当のところ 何も知らないんだなということが
身に染みてよく解ってきた頃でもありました


ひとりで過ごすことが多くなって
夕方のドラマの再放送が唯一の楽しみだった頃
日航ジャンボ機墜落事故が起きました
乗客のほぼ全員が亡くなった大きな事故でした
そして その中にはあの上を向いて歩こうで知られている
坂本九さんも搭乗されていたということ
いつもニコニコしていて やさしそうなおじさんだなと
結構好きだっただけに かなりショックだったのを覚えています
あのとき奇跡的に助かった少女は いまどうしているのでしょう
どうか どうかしあわせであってほしいと
切に 切に願わずにはいられません


光GENJIが世を席巻し ローラースケートが一大ブームに
例にもれず 私も夢中になっていました
さすがに運動神経マイナス人間の私には
ローラースケートは無理でしたが


幼児連続殺人事件、通称・宮崎勤事件が発生
殺害した幼児の遺体を 家族のもとへ送りつけたり
犯人は女であるかのように偽装工作してみたり
遺体の一部を食べていたりとか
長いことずっと引きこもりで
部屋には大量のアニメビデオや雑誌があふれていたり
親はそんな息子をどうすることも出来ずに
放っておくより他なかったらしかったり
犯人の不気味さが異様に際立って
そしてまた うちの兄が似たような感じだったために
後に同じような事件を起こさねばいいが、と
妙に身近すぎて 幼児を殺害した動機がなんだったのか
そんなことは全く理解できませんが
その他のことについて 妙に解ってしまう自分がいて
背中になんだか得体の知れない冷たいものを感じていました



昭和64年1月7日 昭和天皇が逝去されました
64年という長い歴史を刻んだ昭和という時代が
静かに終わりを告げました
葬儀の日 その日は学校も会社もみんな休みで
テレビは葬儀の模様一色
冷たい雨が降りしきる中 厳かにそれは行われていました


昭和という時代
長い戦争がありました
欲しがりません、勝つまでは
ぜいたくは敵
鬼畜米兵
非国民
配給の食料も底をつき
飢えに耐えながら
きっと勝つと信じて生きた人々
空襲で原爆でもちろん戦地でも多くの人々の命が犠牲になりました
そうして 敗戦という形で
長い長い戦争が終わりを告げました


高度経済成長
日本はどんどん経済的に成長していき
やがて世界と肩を並べるほどに
一方で工場から排出される有害物質による公害被害が相次ぎました
戦後に生まれた子供たちは
何かに苛立ちをぶつけるように
ゲバ棒と火炎瓶を手に持ち 革命を夢見てシュプレヒコール
三島由紀夫が市ヶ谷の駐屯地で割腹自殺し
暴走した若者たちは 仲間であるはずの同士たちを次々殺害し
あの有名な浅間山山荘事件を起こしました
あの狂騒の時代は一体なんだったのでしょう


やがて経済も降下の一途をたどり
オイルショック
トイレットペーパーやティッシュペーパーを
買い占める人々の映像を見ながら
コロナ発生当初 マスクやトイレットペーパーを買い求めて
ドラッグストアなどに長蛇の列を作っていた人々を思うのです
昔もいまも 根本はなにも変わっちゃいない
そりゃそうよね だってやってるのは人間だものね




昭和という時代
激動と云われる時代
きっと晴れの日だってあったはずなのに
記憶の中の私の頭上の空は いつも曇っていた
それが昭和という時代の空模様だったのではないかと
こんな晴れた青空を眺めながら
そんなふうに思うのです




平成生まれから見た平成についても
ぜひ聞いてみたいところです






陽炎
2023年10月20日(金) 08時07分40秒 公開
■この作品の著作権は陽炎さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
最後までお読みいただき、ありがとうございます

描いてから削れるところは削ろうと思っていたのですが( ;∀;)
こんなに長くなってしまいました

自分が生まれた昭和という時代を
描いてみたいな、と思いまして

平成生まれの方にとってみたら
なんのこっちゃ?かもですが(^-^;

この作品の感想をお寄せください。
No.4  陽炎  評価:0点  ■2023-10-30 10:28  ID:.T.XHKIbJ8o
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☆小松菜 みずさんへ

TCにお越し下さり、ありがとうございます
なんか、催促したみたいであれですけど(^_^;)

小松菜さんから見た昭和は、そういったイメージなのですね
戦争があったし、どん底から這い上がった日本人って
すげぇって思ったりもするし
一方では家庭は核家族が進んだとはいえ
まだまだ三世代同居が当たり前でしたしね
それを温かいと感じるか、苦しいと感じるかは
山崎まさよしじゃないですけど
育ってきた環境が違うから〜
となるような気がします

凶悪事件は年を追うごとに酷さを増してますし
昭和の時代には表沙汰にならなかった
虐待やDV、セクハラ、パワハラ、モラハラ
毒親なんて言葉も出てきましたね
そのおかげで、今まで自分だけがおかしいのでは?
と思っていた問題に対して
声をあげることができるようになったことについては
良かったんじゃないかなって思ってますけども

時代の空気ってありますよね
令和はどんな時代になるのやら

鋭い中に優しさ、と受け取っていただけて
とても嬉しいです

ありがとうございました
心より感謝
No.3  小松菜 みず  評価:50点  ■2023-10-29 12:00  ID:ELoqBiWqZQs
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昭和のイメージは「世界」は「冷たさ」なんです。でも、昭和の家庭のイメージは「個人」で「温かい」イメージ。公は冷たいイメージだけれど、個は温かいイメージ。平成の「世界」は「温かい」けれど、個や家庭は「冷たい」イメージ。どちらが良いとか悪いとかではありませんが。難しいです。

陽炎さんの世界観はいつも鋭いです。
その鋭さに対して、でも実際は優しさに溢れているような。
そんなことをいつも想像して読ませて頂いています。

小松菜でした。
No.2  陽炎  評価:0点  ■2023-10-25 20:01  ID:.T.XHKIbJ8o
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☆ゆうすけさんへ

いつもありがとうございます
昭和46年生まれ、5つお兄さんだったのですね(^^)/
私の目線からの昭和を語ってみましたけれども
同じ世代に生きたゆうすけさんにも突き刺さってもらえて嬉しいです

建築途中で建築屋が夜逃げって、未完成の家に住んでたってことですか?
仏壇に手を合わせてミッション系の幼稚園、なんだか混乱しますね
借金取が取り立ててる家を偶然見てしまったことがありますが
ドラマとかでよく聞くセリフ
本当に云うんだなって思いました
多分、家の中で息も立てずにじっとしてたんだろうなって
いまなら少し解る気がしてきます

なめくじ、最近は見かけなくなりましたが
いましたよね、うちにもうようよいました。わ、なんか寒気が
家鳴りってあの、メシって鳴るやつですよね、あれは怖い
うちにも柱時計がありましたが、壊れていてまったく機能しておらず
埃かぶってましたけども

プロ野球とプロレスですよ、昭和といえば
プロ野球、あれ好きな人ばかりじゃないのに
なぜか長々中継してましたよね
延長して観たいドラマが押せ押せになったり
女子プロレスが人気で、アイドル的人気のプロレスラーもいましたね

ファミコンが出たころだったですけど
あんまりゲームに興味なかったし
なんか有名なゲームソフトを夜中から並んで買ってた人とかいましたけど
そこまでするか?って感じでしたね

ゆうすけさんは子供時代、何かにハマったりはしなかったんですか?
私はどこかから聴こえてくる音楽を耳コピして
よくひとりで歌ってました

戦地に召集された若き兵士たちは、お国の為に立派に死んでまいります
と云ったそうですが
お国のため=天皇陛下のため、では決してなかったのではないかと
自分が戦死したあとの家族に迷惑をかけないように、という思いの方が強かったのではと
そんなふうにも思ったりするのです
みんな、上の者たちが勝手に決めて実行したことなのに
巻き添えになって無残に死んでいった人たち
平和な未来がくることを願っていたに違いないのです
そういう沢山の流れた血の上に、いまの暮らしがあるのだと思うのですが
だけども、やってることは何ひとつ変わっちゃいないんですよね
税金はどんどん上がる一方だし、電気、ガスの高騰、異常なほどの物価高
子育て支援には割と力を入れてるのに
超高齢化社会のいま、介護を受けるにも先立つものがなければどうしようもなく
家族なんだから面倒見るのが当たり前、という空気がいまだにあるし

そうですね、昭和を思い出すとき、なぜかいつも空がどんより曇っているのは
光化学スモッグの影響もあるのかも
でも、私が子供の頃に住んでたのは東京じゃないんだけど
多分きっと、家庭環境とかそういうのも、影響があったのかなって
私だけがそんなふうに見えていたのかな、とか思ってましたけど
同じ昭和世代の方が、自分もそうだった、と云ってもらえると
ああ、やっぱりそうなんだ、となんていうか、腑に落ちたような
そんな気がしています

こんな長い詩に最後までお付き合いくださり
本当にありがとうございました
心より感謝
No.1  ゆうすけ  評価:50点  ■2023-10-23 17:37  ID:BqYIjnMQWzw
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 ぐさーっと胸に突き刺さる同世代、昭和46年生まれのゆうすけです。ハルクホーガンにアックスボンバー食らったような衝撃を受けました。むき出しの魂に心が震えます。

 建築途中で建築屋が夜逃げした中途半端な家で、お仏壇に手を合わせてから教会幼稚園で讃美歌を歌っていました。
 家業が詐欺にあって都落ち、借金まみれでの地方都市での生活、歯ブラシとかお風呂に這うナメクジ、家鳴りがする家に掛かった柱時計、柱時計は一時間おきに時間分ボーンボーン……と鳴って三十分には一回鳴って、家鳴りが怖くて寝られない夜に、ボーンと鳴るのがまた怖くて寝られなかった。
 真空管のテレビがあって縁が見えないしなかなか写らない……。
 プロ野球優先でなかなかアニメが見られなかったなあ。映画を録画すれば野球延長で最後が観られなかったり。
 同級生が盛り上がっていた、アイドル……何がいいか分からずに困惑、好きな女子……いなかったし困惑、プロ野球……野球嫌いだし。大人になっても、酒タバコギャンブル風俗ブランド物とか何がいいのか分からずに孤立したもんだなあ。世の中に面白いものが何もなかった。
 戦争で死んでいった兵士は、きっと国で待つ家族のために、そしてこれから生まれてくる子供たちのためにその身を犠牲にしていったのでしょう。彼らはきっと問いかけるはず「君たちは幸せか?」と、せめて前向きに生きなければ顔向けできない。民間人大量虐殺の巨悪アメリカに尻尾を振っていようとも。
 経済は成長し、そして停滞を経て衰退へ。
 既得権益を守るだけの政権によって民衆は搾取され、今や戦国時代を凌ぐ重税国家。今自分さえよければそれでいい、民草の買い占めと同じレベルの国家運営。やっているのは人間だもの。
 かつて住んでいた東京の空を見上げると、意外と澄んでいた。昭和のころはどす黒いスモッグに覆われていた東京の空、いつかの都知事が排ガス規制をしたお陰で多少は綺麗になった空、排ガス除去装置にお金がかかって苦労した思い出。
 どす黒いスモッグに覆われて見通せない、そんな昭和の空模様だったなあ。
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