出口なし
顔を洗おうと洗面台の蛇口を捻ると血が流れ出した
何だろうと思い、洗面台に栓をして溜まるのをじっと見ていると
半分以上溜まったところで
瘡蓋と抉れた傷跡で痛々しい唇が表面に姿を現し開いて
何を言っているのか聞き取れない小さな声を発した
唇の隙間から黒い空洞に血が流れ込みごぼごぼと音を立てていたが
やがて唇の形の盛り上がりさえ血が覆って平らになった
洗面台から血が溢れだす前に蛇口を捻って止めたが
栓を抜けば洗面台に半端な頭部が現われるのではないかと怖れ抜くのをためらいながら、
赤黒い血溜まりからふと鏡に目を移すと、そこに僕の姿がなかった
手を見ようとしても手の動きは感じられるのに見えなくなっていた
頬を摘まんだら痛かった

こうして僕は透明人間になった
洗面所を出て机に座りペンを持って白紙に「自由」と書いた
ようやくこの日が来た
僕は僕の腕の透明を通して周りを見、恍惚感に襲われた
しがらみから解放されたのだ
朝の柔らかな光を帯びたベランダ側の白いカーテンが僕を祝福しているようだった

色々考えた結果、この部屋を出て旅に出る事に決めた
親や兄弟、友や周りの人間に書き残す事はあるだろうかと考えたが
結局、何も思い付かなかった
僕のことを「冷血動物」と言った、死んだ祖父の顔を思い出した

ともかく、これからは奪うだけの日々だ
奪えないものも当然あって少し切ないけれど
これまで僕を脅かしていた日々の不安な空白からの突破口を透明は切り開いてくれた
誰かと心を重ねて慰めを得るよりも
彼方へ行く事の出来る切符を僕は欲していたのだ
行こう、どこへだって
行けるところまで、世界の外へ――

部屋の扉を開いた時
昔見た『Into the Wild』というアメリカ映画で
大学卒業と同時に蒸発し、放浪する主人公が法をすり抜けカヤックでコロラド川を下る途中
岸辺でめぐりあった男の連れの少し馬鹿な女が「街」の事をいつも間違って「宇宙」と呼ぶ、
というシーンをなぜか思い出し可笑しくて吹き出すと、
思わず口にやった手が、体が、元の不透明に戻ってしまった
部屋の中から男の呻くような不気味な声が響いてくるし
どうしたらいいのか分からなくなってしまって
他の部屋の人間が出てこないか怯えながら
いつもより長く伸びたように見えるアパートの廊下で
僕はしばらくの間、立ちつくしていた
2014年09月18日(木) 15時31分16秒 公開
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No.6  A  評価:--点  ■2014-10-24 07:56  ID:pA0QzJ9KbiA
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游月 昭さん

ご感想ありがとうございます。楽しんでいただけたようでよかったです。
No.5  游月 昭  評価:50点  ■2014-10-20 19:43  ID:UArH7IFKfkk
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こんばんは。
面白いですね。
透明人間!なんですが、その成り行く様子に主人公があまり驚いていないところとか、すぐさま自由を感じ、まもなく家を出たりするところ、夢に違いないのですが、
過去の記憶の代償をこれから開かれた未知の世界に求め、というところで敢え無く、再び襲ってくる「現実」「肉体による束縛」。思考の世界の中でスピーディーに移り変わる意識の感覚が、幾らかクールな感情を持って語られるところが興味深いです。
「夢」であるとすれば、目覚めた時の恍惚感も予想されて辛さ倍増という感じです。
おそらく、「ああ、そうだよ、そんな事くらい分かってるよ」的な台詞がいずれ口を突くのでしょう。
ラストシーンは、カメラが引いていく絶望的な映像が観えました。
楽しませて頂きました。

追伸、
書き忘れましたが、すべての細胞が透明になるのではなく、剥げ落ちるといった感じが、透明人間の常識を覆しているとも思いました。また、この内容の演出として合ってますね。
No.4  A  評価:--点  ■2014-09-24 19:52  ID:pA0QzJ9KbiA
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ご感想ありがとうございます。

坂本慎太郎の「幽霊の気分で」は初めて聞きましたが、これ、発想同じですよね。僕もポップな感じで書きたいと最初思ったのですが、性格的に無理だった感じです(笑)彼の音楽、いい感じですね!

世界の外って宇宙かなーと思ったのですが、映画のシーン(実は最近見た)を思い出して、あ、これ使えるなと思い取り入れてみました。「街」が「宇宙」って、何か、詩的だと思いませんか。ここから「出口」を切り開けるような気もしたんですが、今回は止めました。

「自由」という言葉は本当そうですね。主人公がどうかは分かりませんが、僕は書いた瞬間(うさんくせー)と思ってしまいました(笑)全然変な解釈ではないと思います。ちゃんと読みこんで下さったのが伝わってきます。こちらこそありがとうございます。


「そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所」お読みになられましたか。面白くなかったと言われたらどうしようかとどきどきしてたんですが(笑)よかったです。面白そうな本あったら、僕も教えてくださいー。
No.3  shiki  評価:50点  ■2014-09-24 12:28  ID:/S6hyAqUMcE
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拝読させて頂きました。
不条理漫画の原作みたいで興味深かったです。
透明人間になって、しがらみから解放される場面では、坂本慎太郎の「幽霊の気分で」を想い出しました。でも、この作品は「幽霊……」のようなポップなふわっと感では終わらず、映画の主人公が出会った、人との触れ合いの場面を思い出して不透明に戻ってしまうという、堂々巡りが描かれています。(「街」の事をいつも間違って「宇宙」と呼ぶ、のが、小さいも大きいも、つまるところ変わりはしないのだという、相対の隠喩を含んでいるのかなと思ったりもしました。個人と集団も含めて)
人と関わることの煩わしさと必要性の板挟みになって、出口のない憂鬱に囚われている主人公は、現代社会の多くの人が持つであろうやるせない感覚を代弁しているように思えました。
ところで、「自由」って、明るくて危険で曖昧で、責任と無責任を自在に操り、開放的でありながら緊縛感を感じさせる、油断がならない言葉だと思いますが、自由の一言で多くを表現できてしまう事に今更ながら不自由な思いを抱いたりもします。まったく、「自由」おそるべしです。そんなところから、主人公が透明人間になって「自由」と書いた時には、恍惚感に襲われながら、すでに自由ではない己を感じていたのかなと、想像してしまいました。幸福のさなかに不幸を予感してしまうわたし自身の怯懦な性分のせいでしょうか。
変な解釈をしていたら申し訳ありません。
下手な感想にお付き合いくださり、どうも有り難うございました。

追伸:「そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所」面白かったです。
TとWが良かったです。Wの毒、見習いたいです(^.^)。明らかに無理だけど(^_^;)。「逢引」は、達筆な自虐性に中井英夫的なものを感じて、なんだか懐かしかったです。
教えて頂き有難うございました。
No.2  A  評価:--点  ■2014-09-19 22:39  ID:pA0QzJ9KbiA
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ヤエさん

ご感想ありがとうございます。

カフカの『変身』ですか…かなり昔読んだのですが、虫になって家族に煙たがれる男の話、というくらいしか記憶に残っていません(笑)なので、どういう気分か分からないのですが、「荒唐無稽だけど何か引っ掛かるな」くらいの印象を持って頂けたなら嬉しいです。ありがとうございました。
No.1  ヤエ  評価:50点  ■2014-09-18 23:22  ID:FVNkHzi1xs2
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おもしろかったです
小説のように流れていくので時間を忘れてしまいました
カフカの変身を読んだ時のような気分になりました
私ではとても思いつかない描写 突飛さに引き込まれました
楽しかったです。
総レス数 6  合計 150

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