僕の蛇


僕が
 と僕が言ってるあいだに
  僕は過去に落ちて
   今にいる僕と
    過去に落ちていく僕は
    別人になる
    僕は
   過去に落ちていく僕を
  僕より若い僕を
 見送りながら
 また細胞が死んだ一秒を数えて
 僕から産み出された
  新しくて少し年老いた僕の頭が
  可笑しなことを考えている
   落ちていく僕たちの影は
    先頭の僕が
     とけていくように見えて
     今の僕から
     一番下の僕までが
     全てつながって
    僕の卵に
   命が吹き込まれた時を
   尻尾として
   とても長い
    僕という生き物が
     ゆらゆらと
      時間と空間の
      座標の中で
     蛇のように
    揺れている
   僕が
  先頭の僕が消えると
  蛇になった僕は
  どうなるんだろう
  もう年老いていかない
   僕の
    先頭が決まって
     その僕が
      頭になって
       蛇は
        見えなく
          なるまで
            落ちていくのか


.



游月 昭
2014年08月12日(火) 00時46分57秒 公開
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No.8  游月 昭  評価:0点  ■2014-08-14 14:38  ID:sqfh9gLDeNI
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Aさん、こんにちは。

「私」を俯瞰で見る私を描くのって好きです。その光景には、詩を記している[私]を含めると3人以上の私が居て、まるで合わせ鏡のようになりますね。
自分がズレていく感覚というのは、子供の頃からあって、自分を含めた目に映る人々を客観的に思考する癖があったようです。過去の記憶は、その後に見る写真や聞いて想像するなどの新しい情報によって操作され、記憶の景色に、当時見る事が不可能な自分の過去の姿が映し出されるという不思議が起こります。ドラマなどで回想をしている人の姿がそこに映っているのと同じですね。
Aさんが感じられたように過去の自分は、現在思考している自分ではなく、次々に心象の中に落ちていく自分を見ている存在ということになりますね。
そういった感覚を共有出来たことを、非常に嬉しく思います。

ネット詩というのは横書き。
印刷物の詩は縦書き。
どちらに載せるかで、書き方、印象が随分違ってくる、という事がありますね。以前投稿した『いねっこ』は縦書きでないと威力を発揮しないし、この詩は掛け軸のような長さの紙でない限り、横書きでないと落ちていく感覚が少々そがれてしまう。
知人からは、詩は縦書きを手書きで書くべき、と言われる事がありますが、詩を始めた時から携帯に打ち込む方法だったので、横書きが染み付いているようです。

頭が「僕が」となっていますが
感想を読ませて頂いて、
頭を先頭(現在)の「僕」とし、尻尾を誕生時の「僕」となるバージョンも考えてみたいとも思いました。

ご感想ありがとうございました。
No.7  A  評価:50点  ■2014-08-14 05:53  ID:pA0QzJ9KbiA
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拝読させて頂きました。

受精卵を起点とし、分化・成長する「僕」の身体を中心とする歴史を一連なりの連続体として投影した姿が「蛇」だと思いますが、この詩の視覚的な姿の最も面白い特徴は、「頭」の方を上に、「尾」を下の方に持ってくる事で、「僕」が「落ちていく」という表現が直観的に理解できるように工夫されている点や、蛇のくねくねした姿を描き出している点もそうですが、やはり、「頭」が見えないという点だと思います。

「僕が」が「頭」と言えば「頭」になるのですが、どうも定まった「頭」には見えなくて、むしろ、うねりの途中に見える。この詩では、過去の僕から今の僕を見る視点と今の僕から過去の僕(たち)を見る視点のどちらも含まれていて、その事が作り出す連続性だけで完結してしまわずに、あくまで「今の僕」は開いているという事を詩の中でも、視覚的な姿でも、明確に言っているところが面白いと思います。


そう言えば、何年も前に実家で、親の撮影した僕の「幼稚園の音楽会の映像」を見ていたのですが、先ずカメラがピアノを弾く先生を捉えてから、左から右へある段の歌う子供達を一人一人映していって、元気よく大口を開けて歌う子供にとまり、(あ、僕だ)と思った瞬間、さらにカメラは右へ動いて、若干俯いて寂しそうに歌う僕(今度は顔のほくろが映っていたので間違いありません)で止まるという、変な体験をした事を思い出しました。その時思ったのは、やはり、身体を根拠とする自身の同一性という事も十分理解できるけれども、自分が自分だと思っている自分というものは、案外不確かなものだ、という事です。結局、ほくろ(身体)を根拠に僕は過去の僕の姿を見出した訳ですが、この時僕に生じた「自分の不確かさ」の感覚は共感して頂けると思います。なぜなら、この詩では、「僕の蛇」として「僕」の確かさ(同一性・連続性)が疑われていないように見えて、「別人」という言葉や「揺れ」「落下」などは、その疑いの表現になっている、そして、「無頭」はまさに「今」におけるその疑いの表現であると思われてならないからです(疑いという言葉は適切ではないかもしれませんが)。

この詩は「僕が」という冒頭の一行に始まり、「僕」の同一性、連続性の問題を綺麗に描き出しており、素晴らしいと思います。

付記

「頭」の方を上に、「尾」を下の方に持ってくる事で、と書きましたが、「落ちていくのか」が蛇の「頭」で、冒頭の方が「尾」の方という読み方も可能ではないか、と今思いました。読み進めていく方が未来なので…どうなんでしょう笑
No.6  游月 昭  評価:0点  ■2014-08-12 12:31  ID:qVUr7kcrwv.
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(*ノ▽ノ)イヤン☆

あ、どうもこんにちは。逃げ腰さん。

ヤエさんの『晴天下』は隠れた名作です。
ラストに仕掛けが施されています。
もっと評価されるべき、と私は思うのであります。今の私にはあれほどさりげなく書けない。それこそ嫉妬です。

他人を誉めてばかりですが、
えーっと、この詩は好きです。私が感じたものと同じものを逃げ腰さんが感じてくれたんじゃないかと思います。

時間の景色の中での連なりの詩はまだありますが、これからもっといいものに研いていきたいと思います。

ご感想ありがとうございます。
No.5  逃げ腰  評価:50点  ■2014-08-12 11:56  ID:BuMl/8TWP8U
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一皮むけました?
今までで最も素晴らしい出来です。

ヤエさんの「錯覚」といい本当に良い作品には僕は嫉妬してコメントしません。
今回のみです。
No.4  游月 昭  評価:0点  ■2014-08-12 10:22  ID:HGGGNe196sc
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ヤエさん、おはようございます!

この詩の視覚効果は、実際私に見えたものに比べると、お粗末極まりないので、ない方がいいのかもしれません。
想像してみて下さい。時間という景色の中で、人がズレながら連なった長大な蛇が、深い闇に落ちていく様子を。
ご感想ありがとうございます。
No.3  游月 昭  評価:0点  ■2014-08-12 10:10  ID:4knla9qyP2A
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菊池清美違う道を選びながら さん、おはようございます!

お名前に気概が感じられて好感がもてます。

私が目で見ているものと、脳ミソの中の私が思考で見ているもの

目で見えるものは思考でも見えるが、思考で見えるものが目で見えるとは限らない

描ける範囲で言えば、圧倒的に思考の世界の方が大きい

映画『マトリックス』『トータル・リコール』などで描かれているように、さて、現実は現実と言えるだろうか

時間にも景色があるのではないだろうか



などと思いを巡らすのが好きです。
だから、恋(感情)、記憶、時間、命、宇宙などの詩が好きなんだろうなあと思います。

ご感想ありがとうございました。
No.2  ヤエ  評価:50点  ■2014-08-12 06:46  ID:L6TukelU0BA
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蛇がゆらゆらしているのを表現したのでしょうか。
一瞬二重螺旋構造にも見えました 笑
>先頭の僕が消えると
からが凄く好きです。
命や人生についてのことにも見えます。
素晴らしい詩をありがとうございます。
No.1  菊池清美違う道を選びながら  評価:50点  ■2014-08-12 02:27  ID:Y5z8Yaj/4DM
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游月 昭さんお早う御座います。

体の細胞の生まれ変わりを仰るのでしょうか、見えない世界を表現するのは難しそうです。
可視世界では飽き足らない意欲を感じます。

見えないからこそ読者に見せようとするかも知れない、腕の見せ所ですね。
失礼しました。
  
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