わたし、あなた
 ――誰が駒鳥を殺したの?
 ――雀が言った、わたしよ
 ――わたしが弓矢で殺したの
              マザーグース『誰が駒鳥を殺したの?(Who Killed Cock Robin)』     


 空転序幕

 歪んでます。捻じれてます。曲がってます。霞んでます。
 それは壊れているから。
 見えません。聞こえません。判りません。
 隠れ続けるその声が。
 見てください。聞いてください。届いてください。
 潜み続けるその声を。


 
 一幕 アイ 疑い惑いて対話する

 リビングに置かれたスツールに腰掛けたまま、アイはずっと俯いていた。どれくらいの間、そうしているのかはひどく曖昧だ。一時間か、二時間か、それ以上か。実際に時計の針がどれほどに進んだのか――さっぱり判らない。あるいは、ほんの何分か、何秒か、もしかするともっと僅かな間、ほんの一度だけ目を瞬いただけの時間しか流れてはいないのかもしれない。そんなあやふやな感覚の中にあって、いま目の前にあるこの現実、いまもなお進行しているこの状況はひどく濃密なものに思えた。これまでに生きてきた二五年の歳月が色褪せて感じてしまうほどに。
 一瞬、身体に揺れを覚える。視界が暗く霞んだかのようだった。不意に襲ってきた眩暈と吐き気を堪えながら、アイは自分自身が薄っぺらになってゆく感覚を味わっていた。自分が感じていることは、感じ取れていると思っていたものは、いつもこんなにも不確かだっただろうかと考えると足元がぐらついてくる。
「どこに消えたの?」
 俯いたまアイは、すぐ目の前のソファに座るマイに尋ねた。恐らく彼女は――マイは――微動だにせずこちらを見つめているのだろう、とアイは思う。足を組んだまま、他人を見下すような眼差しを、ありとあらゆるものが下らないとでも言いたげなあの冷たい眼差しを向け続けているのだろう。
 しかし、質問に応じる声は発せられなかった。
 沈黙が続く。
 この部屋――恋人である男の部屋――にいるのは自分だけではないと頭では理解しているアイだったが、本当は誰もいないのではないか、自分一人だけなのではないか、という疑心が振り払っても振り払っても浮かび上がってくる。かと言って顔を上げ、周囲を確認する気にもなれず、アイは床を、真っ白な絨毯を見つめ続ける。視界に映る自分の足に、黒いストッキングの下に見えるその生々しさに嫌気が差した。
 目を瞑り、耳を澄ませた。自らの呼吸音が意識に昇る。そして、その背後には自分以外の、間違いなく自分ではない他人の息遣いが聞こえるのが判った。やがて何かを擦るような音が聞こえてくる。ゆっくりと、布を擦るような音。ゆっくりと、ゆっくりと。一度だけ、ソファが軋む音も聞こえた。風が強く吹きつけ、窓が揺れる。
 声はない。
 この部屋が静かだと感じるのは、初めてではないだろうか。単調な音の連なりを漫然と聞きながら、アイはふとそう思い、すぐにその原因に気づく。
 ――時計だ。
 置時計の音が聞こえないのだ。薄汚れた文字盤の下にウサギのシルエットを象った銅板が立てられた、あの置時計。針を刻む音が耳障りだった、あの不愉快な置時計。それが壊れてしまったのだ。
 ただ壊したのが誰なのか、アイには判断することができなかった。あるい自分自身だったのかもしれない。
 リビングに入った際、ちょうどドアを開いたすぐ真下の床に置時計は転がっていた。アイは普段からその時計が気に食わないと思っていたので、わざわざ拾い上げる気にもなれず、足でどかすことにした。ところが、ほんの少ししか力を込めていなかったにも関わらず、足で押し退けた時計は面白いようにフローリングの床上を滑ってゆき、壁にぶつかってしまったのだ。何かが折れたような音が聞こえたので近寄って覗きこんでみると、そこにあったのは文字盤が浮き上がり、すべての針が外れてしまった状態で横たわる置時計の姿だった。
 あのときに壊れてしまったのだろうか、とアイは考える。それにしては損傷の具合が激しかったようにも見えたので、すでに止まっていた、壊れていた時計に追い討ちをかけてしまっただけとも考えられた。置時計はいまも床に転がっているはずだった。だが、わざわざ確認する気にもならなかったので、アイは目を閉じたまま、俯いたままでいることにした。
 声はない。
 もう一度、尋ねてみようか。アイは口を開きかけたが、すぐに唇を結ぶ。無駄なことだと思ったのだ。先ほどの問いは、マイの耳に届いているはずだった。聞こえていながら、あえて黙っているのだろう。それなのに同じ問いを何度も口にすれば、彼女を付け上がらせることになりかねない。それならば、向こうが沈黙に耐えられなくなるまで待てば良いだけの話だ。
 自分の呼吸音。誰かの息遣い。ゆっくりと、だが規則的に布を擦る音。突発的に響くソファの軋み。窓の外で鳴り続ける風。それらの音の繰り返しが耳に届く。そして、その現実感を薄れさせる反復音に呼応するように頭の中には同じ光景が何度も浮かび上がってきた。
 その記憶はリビングに足を踏み入れた直後から始まる。アイは壊れてしまった置時計をぼんやりと眺めていたが、そこで寝室のドアが開かれたままであることに気がつく。そしてその奥、寝室内のベッドの前に誰かが横たわっていることにも。
 近づいてみると、それは死体だった。アイの恋人だった男、婚約者だった男の死体だ。
 その死体の腹部は真っ赤に染まり、ナイフが突き立てられたままになっていた。そして、頭部が無くなっていた。首が切断され、消え去っていたのだ。
 鋸でも使用したのだろうか、切断面は乱れ、そこからは垂れ下った皮膚が、掻き回された肉片が、赤く染まった骨が見えた。腐りかけているかのような血の臭いに、思わず息を止めた。手で口と鼻を覆い隠した。寝室の絨毯が赤黒く変色していたものの、その範囲は小さかった。首を切れば、もっと辺り一面にぶち撒けたような夥しい出血が起こると思っていただけに意外だな、とアイは現実感を失った頭で考え、死後しばらく経ってから首を切断したのかもしれないとか、切断時にシートか何かを下に敷いていたのかもしれない、といかにも納得できそうな答えに納得しながら、寝室から一歩、あとずさった。頭を振りながら、まさかね、とまた一歩。嘘っぱちだ、ともう一歩。ずるずると後退し、寝室から出たところで、恋人の死を認識した。これは現実だと理解した。
 そして、記憶はリビングに足を踏み入れた場面に戻り、また繰り返される。繰り返し、繰り返し、繰り返される。
 ――堪らない。
 アイは不毛な回想を打ち消すために、目を開く。
 自分の呼吸音。誰かの息遣い。布を擦る音。ソファの軋み。風の鳴き声は弱まっていた。
「知らないね」
 停滞した空気を打ち破るように、マイが声を発した。
「どこに消えたんだか」
 発言するのも億劫だ、といった具合の投げやりな声音だった。そんなマイの態度も、彼女が発言したことについても、アイには当然の行為がなされたようにしか思わなかった。ボールを投げたら投げ返された。それだけだ。
 なら次は自分の番だ、とアイは俯いたまま、斜め後ろの方向、恋人の死体が横たわっている寝室へ頭を傾けてみせた。
「なら、あれは何なの? どうして、あの人の首が無くなっているの?」
 マイの、微かに息を呑む音が耳に届く。アイにはその響きだけで、マイがいま不愉快そうに顔を歪めているのだろうと推測できた。どれだけ強がってみせたところで、動揺を隠し切れるものではない。
「ただ死んだだけじゃない。ナイフで刺されている。そのナイフが、彼に突き刺さったままになっている。そして――」
 死体のある方向へと目を向けたくなる衝動を抑えつつ、アイは言う。
「首が切断されている。そして、それがどこにも見当たらない。消え去っている。持ち去られている」
 そこで言葉を切る。膝の上で握り合わせていた両手が強張っていたことに気づいたためだ。これは動揺している証拠だろうか、と考えたものの、心の中は平穏そのものだった。焦りもなければ混乱もなく、感情を震わせるようなさざ波ひとつ立っていない。
 問題はないと判断し、アイは力を緩め、互いの手を離した。左手の薬指に嵌められた指輪の光沢が視界に映る。目を細めてそれを見つめたが、やはり動揺はない。アイが認めたのは自身の心がさらに鎮まり、冷たくなっていくような感覚だけだった。
 つまりね、とアイは自身の内面から目を逸らし、顔を上げた。
「この状況から考えられるのは、あの人が殺されたってこと。誰がどう見ても、ね」
 視線の先にいたマイはソファの上で足を組み、アイと向かい合っていた。想像していた通りだ、とアイは思う。ただひとつ考えと異なっていたのは、その表情に余裕がないことだろうか。やや細長いマイの顔は不機嫌そうに歪み、黒いマスカラで強調された瞳がこちらを睨みつけていた。赤みがかった彼女の髪は短くカットされてはいたものの、唯一長く伸ばされたままの前髪が垂れ下がり、顔の左半分を覆い隠している。その様子は、刺々しさを剥き出しにした彼女の表情にある種怨念じみた力強さを与えている一方、憔悴と憂いの影を落としているようにも思えた。
 ただし、その憂いが何に由来しているのか、アイには判断がつかなかった。単にマイが殺人が起こったという事実に動揺しているだけなのか、あるいは別の理由――それはたとえば何らかの罪を犯したことへの動揺かもしれない――によるものなのか。
しかし、とアイは先走りそうになる思考に歯止めをかけた。マイから受けた印象がどうであれ、それはどこまでいっても主観でしかない。実際にはただの勘違い、あるいは自分に都合の良い解釈をしているだけなのかもしれないのだ。
 ――何かを判断をするにはまだ早い。
 いまの段階で必要なのは、ただの疑いを確信に繋げるような材料を少しでも掻き集めることだ。そう自らに言い聞かせながら、アイは改めて目の前いるマイを観察する。
 部屋の中に飛び込んできたときと変わらず、マイは黒い革ジケャットを着込んだままだった。ジャケットの下は、極端に崩れた書体の英字がごちゃごちゃとプリントされた白いシャツ。そして色の褪せ掛かったジーンズを穿いている。装飾品の類はほとんど身に着けておらず、中央にブルーサファイアの収まった剣型のネックレスが胸の辺りに下がっているだけだ。
 そうした服装と一見した印象だけからすると、マイからは幼さが感じられた。しかし、次の瞬間には、彼女のどこか皮肉めいた表情や、達観したような態度が、妙に大人びた雰囲気を醸し出しているようにも思えてくる。こんな風に感じてしまうのも、マイの年齢を知らないせいでもあるのだろう、とアイは思う。以前、本人から聞いた話ではアイよりも年下、まだ二十代半ばに届いていないとの話だったが、それが真実なのかどうかは把握していないのだ。
 それに、不明確なのは年齢のことばかりではなかった。アイが判っているのは、マイが定職を持たず、また特定の住居すらも持たずに、男やら女友達の家を転々と渡り歩いているらしいことだけだ。この事実だけで、彼女の正確な素性など判るはずもなく、むしろ、より一層、彼女の像を掴み難くするばかりだった。
 あれこれと考えていたそのとき、目を細めたマイが鼻で笑った。
「さっきから、気持ち悪いね。人のことジロジロとさ」
「それは失礼。でも、この場合、お互いさまでしょう? 何せ殺人事件だもの。あなたと同じように、わたしだってあなたを警戒しているからね」
 そうアイが言い返すと、マイは鼻を鳴らし、皮肉っぽく口の端を曲げた。
「ふん。首が無いから殺し、ねえ。アンタはそう言うけどさ、もしかしたら何かの映画にもあったみたいにさ、首に足でも生えて勝手に歩いてっただけかもしれないよ」
 これもまた皮肉っぽい調子でマイは言い、両手を頬に当てながら、怖いわあ、と宙を仰ぎ見る。心にもない言葉であり、仕草であることは一目瞭然だ。
 その軽口に僅かでも付き合うつもりはなかったので、アイは自分の話をすることに決めた。
「首が無いことから、あの死体が彼のものではないかもしれない、とも疑ったわ。でも、死体の服装は彼がよく着ていたものだったし、その体格についても彼と大きな違いはない。その辺りはミイにも確認してもらったけれど、あなたも異論はないでしょう?」 
 その問いにマイは答えず、そっぽを向いたままだったが、ふて腐れたような彼女の表情からして、その沈黙は肯定しているも同然だった。そして、とアイは言葉を続ける。
「何よりも重要なのは、死体の腕についていた火傷の痕。これはあの死体が彼のものであることを明白にする確実な証拠だからね」
 子供のころに油鍋を引っくり返して大火傷を負ったことがある、と頭を掻きながら語っていた恋人の顔をアイは思い出していた。単に照れているだけのようでもあった、あの顔。自らの肉体に残った傷跡に対するコンプレックスを白状しているかのようでもあった、あの顔。それが、いまはもう見ることもできない。文字通り、消え去ってしまった。 
「わたしがこの部屋に入った時は、彼はすでにあの状態だった。それは最初から言っていることだけど、何度だって繰り返すね。貴女たちが納得しなくても、彼を殺したのはわたしではない。なら、あの人を殺して、首を持ち去ったのは誰なのか――ねえ、マイ、どんな些細なことでも構わないよ。あなたは何も知らないの?」
「当然。わたしは何も知らないよ。知っているはずないでしょ」
 マイはそう言いつつも、アイと目を合わせようとはしなかった。
「わたしは知らない。なあんにも、知らない」
 もう何も尋くな、とマイは毒づいた。自分は無関係だとでも言いたいのだろう、いかにも被害者意識を剥き出しにした態度である。白々しい。アイは内心で呟く。虚勢を張る度に真実味が失われていく人間の姿を見るのは滑稽であり、また同時に哀れみを覚えずにもいられない。
 ミイが言う。
「う、嘘だよ」
「そうだね」
「だって知ってるよ。昨夜、わたしが帰ったあと、マイさんがあの人と会ったこと。この部屋に入ったこと」
「うん、そう。その通り」
「知ってるよ」
 しばらくの間、沈黙が続く。素知らぬ振りを突き通すことに決めたのか、マイはソファの上で反り返っていた。溜息をつきながら、アイは言う。
「嘘は良くないよ、マイ。この状況で嘘を言うのはあなたにとって不利になるだけなんだから」
「わたしが嘘を言ってるって? それってさ、もしかしてわたしに、よりにもよってこのわたしに、あの男を殺した疑いを掛けたい訳なの? アンタは」
 マイはそう言って、アイを睨みつけた。
 その通りだよ、という言葉を口にしてみたい衝動に駆られたが、すぐに自制し、アイは首を振る。そうしたところで、どんな反応が返ってくるのかは簡単に予測のつく話だ。あえてマイの感情を逆撫ですることで動揺を誘い、何らかの失言を吐かせるよう仕向けることができるだろうし、それはそれで愉快でもあるだろうが、いまはそんな回りくどい方法を取る必要もないのだ。
「わたしが嘘だと言ってるのはね、あなたの『何も知らない』って言葉についてなの。ねえ、マイ。わたしが、知らないとでも思ってた?」
「回りくどいね。何が言いたいのさ」 
「あなたが昨晩、この部屋に来たこと、そして彼と会っていたことだよ。わたしが今日、この部屋に入る前に、ね」
 そう言うと、マイは一瞬強張った表情を見せたものの、すぐに目元を歪ませて舌打ちした。
「ああ……ミイの奴が喋ったんだね」
「さっき、寝室で二人だけになったときに教えてくれたよ。いい人だよね、ミイは。あなたは彼の側から、彼の死体の側から一人で逃げ出したけど、ミイはそんな薄情なことしなかったし」
 少々酷な物言いか、と思ったアイだったが、わざわざ撤回するつもりも謝罪するつもりもなかった。あの惨たらしい死体の側から一秒でも早く逃げ出したくなる気持は理解できても、都合の悪い事実を隠して自分だけ無関係を決め込もうとした態度まで許容してやる必要などない。
「はいはい。ええ、そうですよ。その通り」
 マイは両手を挙げて降参の身振りをしてみせながら、大袈裟に頷いた。
「わたしはあの男に会ったよ。ミイがこの部屋を出て行ったあとにね。で、話をした。あんまり楽しいお喋りではなかったけどね。あんまり腹が立ったもんだから、置時計をぶつけてやったわ。あの男お気に入りの、あの喧しい置時計」
 嘲るような笑い声を上げて、マイは首を振る。
「でも、それだけだよ。この部屋で起こったことはそれだけ。わたしが帰るときには、あの男はまだこの部屋にいたし、五体満足でちゃあんと生きてもいた。もっとも、いまにも泣き出しそうな顔はしてたから、わたしが帰ったあと一人でめそめそしてたかもしれないけど。どう? 理解できた? これでもまだ、嘘や隠し事があるって疑う?」
「どうかな。理解はできても信じる気にはなれないからね」
「アンタが何をどう考えても、それはアンタの勝手だけどさ、わたしが言ったことは事実だから。それ以上も以下もない話だよ」
「で、わたしが来たら、死体が残されていて、首はどこかに消えていた、と? それで納得なんてできるはずないじゃない。わたしが来る前に、マイ、あなたがいた。その前にはミイが。あなたたち二人が互いの姿を確認しているみたいだから、この点については嘘ではないと考えてもいいでしょう。けれどもね、信じられるのはそれだけだよ。隠し事がなかったとは言い切れない。わたしからすれば、マイもミイも怪しいよ。二人で協力してあの人を殺し、首を切って隠して、口裏を合わせている――そう考えることだって可能なんだからね。それにたとえ、そうでなかったとしても――二人が共犯ではなかったとしても、マイ、あなたはやっぱり疑わしい。わたしが来る前に、何もかも片づけることはできたでしょうからね」
 アイがそう述べると、マイは露骨に顔を顰めて、髪の毛を掻き毟った。
「鬱陶しいなあ、この理屈バカが。くだらない。わたしは何も知らないよ。ついさっき、正直に話したじゃないのさ。わたしはあの男と話して出て行っただけだって」
「その話を鵜呑みにしろって言うの? いままで事実を隠していたあなたの話なのに? さすがに難しいね、それは」 
「それなら言わせてもらうけどさ、アイ、アンタだって十分怪しいじゃないの。わたしらが来たとき、この部屋にいたのはアンタだけだった。アンタがあの男を刺し殺して、死体を切断して、何食わぬ顔を――わたしは何も知らない何が一体どうなってるの、ってな顔をしてただけかもでしょ。むしろ、その方が自然なくらい。違う?」
 マイの言葉に対して、アイはいちいち反論しようとは思わなかった。疑われている以上、色々言われるだろうことは初めから予想済みだ。ただただ感情的に辛辣な言葉をぶつけられたり、見下されてまともな会話を交わせなくなることも覚悟していた。
 この部屋に一番最初に踏み込んだのもアイならば、死体を発見したのもアイだった。マイとミイがやってきたのはそのあとのことだったので、彼女たちに疑いを向けられるのは当然の流れと言える。
 ただし、それは真実ではないことをアイは知っていた。他ならぬ自分自身が自らの潔白を誰よりも理解している。自分は犯人ではない。そうである以上、他人の目からすればいくら疑わしくても、それは論理的な正しさと可能性の高さを示しているだけに過ぎなかった。論理と可能性という点から見た疑わしさで言えば、マイたちもまた同様なのだ。
 また、アイはもうひとつの理由から、マイたちが怪しいと睨んでいた。死体発見後、この部屋にいる全員が動揺し、混乱していたのは事実だ。しかし、互いに状況を整理したり、話し合ったりして落ち着いてからも、そして何よりいまになっても、誰も警察などに助けを求めようともせず、またこの部屋から出ようともしないのは奇妙なことだった。
 ――それは第三者に介入されては困るような疾しい点が、あるいは何らかの企みを持っている誰かが存在する示唆ではないのか。
 そう考えることもできたからこそ、アイもまた何もしなかった。マイたちの動向を窺い、情報を探っていけば、真相に辿り着けるかもしれないのだ。
 アイは肩を竦め、言ってみせた。
「まったく、平行線だね。わたしも、あなたも、お互いに証明できるものは何もない。『自分自身は何も知らないし、無関係だ』ってことを、ただただ主張しているだけだからね」
 ――犯人は必ずわたしが見つける。
「でもね、わたしとあなた、『どちらが信用に値する人間か』ってことになったら――どうでしょうね? 切羽詰まったような危うい生活をしてる癖に、普段から素行も口も悪くて、自分だけのことしか考えていないような高慢なあなたの言葉と、少なくともあの人と正式に婚約し、金銭的な問題も人間関係のもつれもなく生活しているわたしの言葉。他人から見たら、どちらの言い分が正しく聞こえるでしょうね」
 ――それが彼の恋人だったわたしの、そして間違いなく犯人ではない、わたしの役目だ。
 アイの言い放った言葉に、マイは顔を真っ赤にして身を乗り出した。その表情からはもう皮肉も余裕も消え去り、あるのはただ純粋な怒りだけだ。
「アンタなんかに、いえ、他の誰にだって、わたしの生き方をどうこう言われたくなんかないよ」
「関係ないよ。マイ、あなたがどう思っていようと、あなたのことを知らない他人からすればあなたはうさん臭い人間でしかないし、あなたのことを知っている人間の大半はあなたが信用に値しない人間だと思うはずだよ」
「知らないね、そんなこと」
「もちろん、このわたしも、だけどね」
「わたしの知ったことじゃない」
 そしてまた沈黙が戻った。誰も喋ろうとはしなかった。
 アイはもう一度、目を瞑る。そう、犯人を見つけるのはわたし。見つけなければならないのがわたしの役目。それはわたしが犯人じゃないからだ。あの人を殺したのはわたしじゃない。それは間違いない。自分の記憶に間違いはない。
 ――でも、本当に?
 自分をごまかした結果、そう思い込んでいる訳ではない、と言い切れるのだろうか。恋人を殺してしまったことを認めたくなくて、記憶を捻じ曲げていないと言い切れるのだろうか。心の底から、自分自身を信じられるだろうか。
 判らない。判らなかった。
 時間の感覚も、現実感も、何もかもが覚束ないこの状況で、本当に信じられるものがあるのかどうか怪しいものだ。
 自分の呼吸音。誰かの息遣い。布を擦る音。ソファの軋み。窓の外で鳴り続ける風。
 やがて、声が上がる。
 その声が、他人のものなのか、自分のものなのか、いや、本当に声がしたのかどうかさえ、アイには判断がつかなかった。
「あの人を殺したのは、わたしだよ」
 ――そう、その通り、わたしではなく――
 

 二幕 マイ 軽んじて蔑み対話する
 
 いけ好かない女だ。内心で毒づきながら、マイはスツールの上で足を組むアイから目を逸らした。切り揃えた前髪に、目鼻立ちの整った顔立ちと大きな瞳――そうした、まるでマネキン人形を思わせるような外観だけでも気に入らないのに、感情の起伏に乏しい平坦な喋り方をするものだから薄気味悪さえ覚えてしまう。いちいち理屈っぽい言葉を並べたて、賢さをひけらかすようなところも気に食わない。
 ――くだらない。まったく何もかもがくだらない。
 マイは内心でそう吐き捨てる。視線の先にあった薄型テレビの真っ暗な画面に、自分自身の姿がぼんやりと浮かんで見えた。それもまた面白くない。はっきりとしない自分の存在を、曖昧に歪んだその姿を暗に示めされているように思えて胸が悪くなる。
 そこで窓辺に立つミイに目を向けたものの、落ち着くどころか内心の苛立ちをますます強める結果にしかならなかった。
 ミイが女子大に通う学生で、つい最近二十歳になったばかりという話を聞いていたが、彼女はとてもそうは見えないほどに小柄だった。丸みを帯びたその顔立ちは幼さを感じさせ、肩口まで伸ばした栗色の髪を内側にカールさせている様は、彼女の子供じみた印象をさらに強めていた。かなりひいき目に見て高校生、ぱっと見では中学生かと思うくらいだ。
 窓の側、カーテンを握り締めながら、視線を床に落とすミイは、灰色のニットワンピースに黒のレギンスといった服装に身を包んでいた。地味な色合いにアクセントをつける目的だったのだろう、首には白いベルトチョーカー、その腰にはエナメルの赤い細ベルトが緩く巻かれている。
 だが、青黒く腫れ上がったミイの頬は、本来なら演出されているはずの明るさや可愛らしさといった要素を台無しにしていた。その腫れ具合は痛々しいばかりであり、なまじ肌が白いためにグロテスクな雰囲気さえ漂っている。
 みすぼらしいといった表現がぴったりだ、とマイは思う。こんな様ではいくら着飾ったところで無意味であり、せいぜい陰鬱な印象に僅かばかりの滑稽さを加える役にしか立っていない。だが、ミイの惨めさを強調するのは、何よりも彼女の浮かべる表情だ。彼女の顔にべったりと貼り付いた怯えの色が、見た目以上の暗さを醸し出しているのだ。
 そして、マイが苛立ちを覚えずにいられないのも、こうしたミイの態度――まるでそれが常態であるかのように不安げな表情を浮かべ続けるミイの弱々しさのせいだった。
 マイは他人に媚びる生き方をする人間を心の底から嫌っていた。弱いだけならばまだいい。問題は、その弱さに甘んじることだ。弱さを利用して立ち回り、弱さを盾に自己保身に走り、弱さを武器にして多くの言い訳を作り出しておきながら、自らの弱さに気づかない連中、気づかない振りをし続ける連中の厚かましさときたら、唾を吐きかけてやりたくなるほどにくだらない。
 マイにとってそのくだらない人間たちの中でも、よりくだらない人間がミイだった。ミイが臆病者の姿を取り続けるのは、他人に媚を売り、他人の同情に縋ろうとする浅ましさの表れでしかない。弱々しい態度を取ることで、自分がさも可哀そうな人間であるとアピールし続ける卑しさに腹が立つ。不健康に青褪めた白い肌も、少し刺激を加えてやればすぐでも泣き出してしまいそうなほどに潤んだ瞳も、自意識過剰なくらいに身を縮めている様も、すべてが腹立たしい。くだらなさの最底辺にいる女、人間以下の屑だ。
 ――虫酢が走る。
 ふいにあの男の顔がマイの脳裏に浮かぶ。最後に出会ったときの顔、まだ生きていたときの顔、今はもう消えてしまった男の顔。泣き出しそうな顔だった。卑屈さを露わにした、ミイとそっくりな顔だった。
「あの、マイさん、わたしは……」
 おずおずとした口調でミイが切り出す。その右手は、窓横に纏められたアイボリー色のカーテンを握り締めていた。
「わたしは、別に、その、マイさんのことを疑わせようとか、不意打ちをしてやろうとか、そんなつもりでアイさんに話をした訳じゃないんです。悪気があった訳じゃないんです。それだけは、その、誤解しないでください」
 その言葉に、マイは思わず拳を握り締めた。他人のことを勝手に喋っておきながら、真っ先に口にするのが謝罪ではなく、自己正当化のための言い訳である。それに、神妙な顔つきしているところも腹が立つ。上っ面だけ詫びるような形を整える――そんな逃げ腰の態度をされるくらいなら、自分は欠片も悪くもないと開き直って堂々とされる方がまだましというものだ。 
 いますぐにミイを殴りつけてやりたい衝動に駆られたものの、平静を装ってマイは言う。
「ふうん。随分と可愛いこと言ってくれるじゃないの。いまさらさ」
「マイさん、わたしは――」
 大体さ、とマイは声を張り上げ、ミイの発言を遮った。
「真面目で、優しくて、人間のできたミイちゃんがどうしてわたしに一言も断りなく、わたしのことを喋ったりしたのかな? どうして告げ口にしか見えない、卑怯としか思えない真似をしたのか。教えて欲しいな」
 皮肉を込めた言葉のつもりだった。しかし、すぐに空しさに襲われ、マイをうんざりさせた。意味がない。何を言ったところでミイから返ってくるのは身勝手な自己弁護の言葉だけなのだ。相手に投げたつもりの皮肉が自分自身に跳ね返ってくるなど、まさに皮肉そのものだ。
 ミイが唇を噛みつつ、もどかしそうに首を振ってみせた。
「本当に悪気があってアイさんに話した訳じゃないんです。だって、こんなことになっちゃったんだから、本当のことを言った方がいいって、それが正しいことだって、そう思っただけで、わたしは……」
「本当のこと? 正しいこと? この状況で何をぬかすかなあ、アンタは。そもそも、この中で一番怪しいのがアイだってことくらい、アンタにだって判るでしょう? それも理解できないくらいに脳みそがスカスカな訳なの?」
「わたしは、信じてます。アイさんのことを。人殺しなんて、まして彼のことを殺すなんて、する訳がありません。だから――」
「へえ。そうなんだ。わたしを無視して楽しくお喋りできるくらいにあの女を信じられる訳ね。て、ことはだ。少なくともアンタにとってはわたしの方が疑わしいと、つまりはそう言いたいのね」
 酷い女だなあ、とマイは鼻で笑ってみせた。自己保身ばかり考えている癖に自分のことが一番見えていない。こうしたミイの愚鈍さもまた胸をむかつかせる。
 違う、とミイが身を乗り出す。引っ張られたカーテンが揺れ、部屋の中に微かな震えが走った。それでもなお、ミイの手はカーテンを握り締めたままだ。
「違います! わたしはマイさんのことだって疑ったりなんてしてません! だからこそ、誰も疑っていないからこそ、本当のことを話したんです。話したことだって、この部屋にマイさんがいたっていう事実だけです。それの何が不都合なんです? それともマイさんは、その事実を話されると都合が悪いんですか? 隠さなければいけない理由があるんですか?」
「ふうん。ずいぶんな物言いだこと。いつもビクビクして、わたしたちにも、あのくだらない男にも、まともな意見の一つも言えないような臆病者のアンタが、脊髄反射で怯えることしか能のない虫けら以下のアンタがさ」
「か、彼の、あの人のことを悪く言わないでください」
 苦痛に耐えるかのように顔を歪めて、ミイは言う。その目には涙が溜まり、その声は憐れみを誘うかのように掠れていた。
「わたしの……わたしのことはともかく、彼のことを悪く言うのは止めて……」
「自分よりもあの男の名誉を守ろうなんて、アンタにしてはご立派な態度だって誉めてあげるよ。でも、それはそれ。話が違うよ。わたしが問題にしてんのは、そこまで人間のできていらっしゃるミイさんが、生意気にもこのわたしを疑ったことだよ」
「それは、その、だから」
「口籠るくらいだったら、最初から喋るんじゃないよ。この虫女」
 その言葉にミイは目を見開き、顔を逸らせた。悔しさを堪えているのか、閉じられた唇が震えている。
 反論の言葉が思いつかない、思いついたとしてもそれを口にする勇気がない、といったところだろうか。ミイの様子を眺めながらマイはそう考え、顔を顰めた。まともな反論もできない癖に、中途半端に生意気な言葉を吐き、大した覚悟もないからすぐにまた黙り込む。くだらない。本当にくだらない人間だ。
 窓の外を見た。灰色の雲が空を埋め尽くしている。雲の群れが織り成す層は先ほどよりも――この部屋に入ったときよりも――厚みを増しているようだった。部屋の中に差し込む光は、頼りないくらいに弱々しい。まるで、とマイは思う。まるで、影が差し込んでいるかのようだ。薄明かりではなく、薄い影が、影そのものが、直接――
 嫌になってくる。マイは余計な感情に囚われる前に目を瞑り、小さく舌打ちをする。自身の感性のつまらなさ、意味のない考えに囚われる危うさに胸くそが悪くなる思いだった。
 ひとつ息をつき、改めてミイに目を向ける。翳りを帯びた明かりの下で縮こまり、黙り続ける彼女の姿は、ますます貧弱なものに見えた。気を取り直し、マイは言う。
「ふん。まあ、いいよ。それじゃあ質問するけどさ、わたしのことも、あの女も疑わないって言うアンタの言葉を信じるとして――それなら、誰があの男を殺したと考えているのかな?」
 ちらりとマイを見返すミイ。しかし、すぐにまた視線を逸らし、躊躇いがちに声を発した。
「わ、わたしには判らないよ。そんなこと。判る訳、ないじゃないですか」
「なら、誰があの男の首を持ち去ったんだろうね」
「判ら、ない」
「判らない判らない。判らないことばかりだね、ミイ。でも、信じているよ、って? よい子ちゃんを演じるのって、そんなに楽しいことなのかしらね。わたしにはさっぱり理解できない。したくもないね」
 溜息をつく気にも、笑う気にもなれない。マイは肩を竦め、首を振る。
 そして、ミイを指差して、口の端を思いきり吊り上げてみせた。
「大体ね、考えようにはよっては、ミイ、アンタだって怪しいよねえ」
 ひゅ、とミイが息を鳴らす音が聞こえた。
「つまりさ、アンタは知っていた。自分が出ていったあとに、わたしが一人でこの部屋に入ってあの男と会ったのを見ていた。だからこそ、そう、だからこそ、その状況を利用できたんじゃないないかな。隠れて待ち伏せして、わたしがこの部屋を出てきたら、こっそり部屋に侵入して、あの男を殺した。あとは首を切り、持ち去る。で、時間が経ってから、アイが来る時間辺りを見計らって、何食わぬ顔で戻ってくる、って感じでね。どう、ミイ? こんな方法なら、たとえアンタみたいな愚図にだって簡単にできそうだよねえ」
「そんな……そんなのは、言いがかりです!」
 再び顔を上げ、ミイが叫ぶ。その表情には驚愕と非難の色が込められていた。自分だけは疑われない、自分だけは無関係だと信じ込んでいる被害者の顔だ。
 ――救えない。救いようのない頭の悪さね。
 もう一度、今度はミイの言葉を否定する意味を込めて首を振り、マイは話を続ける。
「さて、どうかしらね。ミイ、アンタならできそうだけど。大体、首を切り落とすって行為だけでもとんでもなく陰湿なのに、それを持ち去っているんだからね、本当におぞましくて気持ち悪い。いかにもって感じだよねえ、ミイ。アンタみたいにさ、妄想じみた夢ばかり見てるような痛々しい人間のやりそうなことだよね。ぴったりじゃない。『首だけでもいいから、ずっとずっとあなたと一緒にいたいの!』とかさ」
「わ、わたしが、そんなことするはず、ないでしょう!」
「あら、怒ったの? 優しい優しいミイちゃんが、怒っちゃったの? ん? それは図星だったからかな。それとも、一回くらいはそんなこと考えちゃったことがあるからかな。どうなんだろうねえ」
「わ、わたしは! わたしは、彼のことを愛していたもの。彼だってそうだった。愛し合っていたんだもの! 殺したりなんて、する訳がないじゃない!」
 どうだか、とマイは溜息をついてみせた。そして、ミイの顔に、腫れあがったその頬に指を向ける。暴力の痕だ。あの男、いまはもう死体となった男がミイを殴りつけていた証だった。
 声を詰まらせ、ミイは慌てたようにその頬を左手で覆う。その瞳には、彼女に不釣り合いな感情が、ただの非難ではない強い感情が込められていた。
「愛し合っている、ふん、あれを愛し合っていたなんて言えるのかしら。一方が感情のままに相手を殴りつけ、もう一方はただそれを黙って受けて入れる関係が愛、だなんてね。もちろん世の中には、そういうのを嬉しがる人間もいる訳だし、互いに納得の上でそうしてたんなら構わないんだけどさ――でも、アンタら二人は違ったよね。ちっとも喜んでいる風じゃなかった。快楽に溺れてた様には見えなかった。あの男も、アンタも、苦しそうだった。あの男は悲痛な顔でアンタを殴って、アンタはただただその暴力に耐え忍んでいただけだった。すっかり怯えきった表情になりながら、ね」
「それ、は」
「あれが愛し合っている、なんてね。それとも何かな、わたしが勘違いしてただけで、ミイ、アンタは喜んでたのかな?」
「違う……」
「あの男の暴力が気持ち良くて気持ち良くて、それですぐにでも死んじゃいそうな顔をしてたのかな?」 
「ちが、う」
「うん、さすがだね恐れ入るね感服するね尊敬しちゃうね、スゴイよホント。暴力も、理不尽も、苦痛だって受け入れる――」
「ちが」
「慈愛ってやつかな。正に真実の愛、だね」
 マイは一息つくと、そこで精一杯の笑顔をミイに向けてみせた。
 そして、吐き捨てるように言う。
「くだらない」
 いつだって良い子を演じ続けようとするミイ。薄っぺらい感情を真実と思い込み、偽物の満足感に酔い続けるその欺瞞。
 ――偽善者め。
 吐き気すら覚えるほど嫌悪感が込み上げてくる。胸がむかつき、全身に痒みが走る。マイは露骨に顔を歪めてみせながら、ミイを睨みつけた。
「わたしはね、ミイ。アンタみたいな人間こそ信用できない。いつ本性を剥き出しにして襲ってくるか判ったもんじゃないからね。あの男が正にそうだったでしょう? 弱いやつほど牙を剥く、弱いからこそ理不尽なことをしでかす――で、同じように弱いアンタはそれを受け止めてた。さぞ、優越感を得られたでしょうね。『弱い自分よりも弱い存在がいる』『弱い自分が誰かを慰めてやれる立場にいる』――みたいにさ。そんな傷の舐め合いみたいな生き方してたら、互いに傷つけ合うのも当然だね。うわあ、気持ち悪い」
 そう言ってみせると、ミイが首を傾げる。眉を曲げ、困惑したような表情を浮かべていた。
「なに、それ。どういう、こと?」
「あら、気づいてもいなかったの? 少しくらいは自覚があると思っていたのに」
 ただの虫ではない、とマイは思い直す。
 ――害虫だ。
 自覚なしに他人を蝕む女、生きているだけで迷惑な害虫だ。
 声を弾ませながらアイが言う。
「ミイはそんな人間じゃないよ。優越感を得たくて彼に接していた訳じゃあない。そこまで頭が回るタイプじゃないからね。彼がわたし以外の女に何かを求めていたなんて正直な話、とても不愉快だけど……ミイ自身は、その求めに応じただけなんだと思う。それも他意は持たず、ただ素直によいことをしてるんだ、と考えていたんじゃないかな。まあ、だからこそ――より悪質でもあるんだけど」
「確かに、そうだね」
「悪意がなければよいこと、ではないもの」
「邪悪、とも言えるね」
「ミイにはミイの罪がある」
「そう。ここにいる――」
「わたしにも、だけど」
「――全員に、ね」
 僅かな沈黙の後、ミイが口を開いた。
「何を……言っているの? 判らない、わたしには、わからな」
 マイはそこで笑い声を上げ、ミイの言葉を断ち切る。欺瞞たっぷりの言い訳など聞きたくもなかった。判らない振り、気づかない振り、見ない振り。うんざりだ。
「性質が悪いね。無自覚な優しさ、ってさ。臆病者のそれは、特にそう」
「わたしは、あの人を」
「傷つけてたね、アンタは。あの男を。アンタが、あの男を受け入れれば受け入れるほど」
「そんな、わたしは――」
「誰かに受け入れられる度に自分の弱さ、醜さ、汚さが浮かび上がってしまうものだからね。耐えられないほど、大きく育ってしまうからね。弱いまま、変われなくなってしまう。だからアイツは、あの男は、あの通りだったんだよ」
「わたし、は」
「よく愚痴を零してたよ、わたしにさ。自分は惨めだ、惨めなままだ、ってね。ふん。それでいて、アンタから離れられないってさ。くだらないね、本当」
「わたしは、そんなつもりは――」
「あの男は、アンタから離れようとしたんじゃないの? アンタとの爛れた関係を断ち切りたかったんじゃないの? で、アンタはそれを受け入れなかった。自覚があろうがなかろうが、あの男は弱いアンタが唯一、優位に立てる相手だったろうからね。だから、失いたくなかった。許せなかった。殺す動機だけなら、これで十分だよね」
「わたし、じゃない。わたしは、あの人を殺したりなんか、そんな恐ろしいことなんか、できないよ」
 誤解です誤解です、とミイはか細い声で訴えながら、必死に首を振る。窓から差し込む薄い明かりを背景に、首を振り続ける。影に包まれた女が一人、カーテンを掴みながら、繰り返し繰り返し。
 アイが言う。
「ミイではない、わたしは、そう思う。いえ、そう思いたい。そう信じたい。でも」
「違うよ」
「でも、そうね、ミイが殺したって別に不思議ではない、よね」
「違うんだよ」
 首を振り続けていたミイの動きは、ゆっくりと小さくなってゆき、やがて発条の切れた人形のようにぴたりと止まる。そして俯き、黙り込んだ。
 その光景にマイは微かな哀れみと、それ以上の嫌悪感を抱いた。
「わたしからすれば、ミイ、アンタは相当にうさん臭い女だよ。アイなんかよりずっとね。怪しい、なんてものじゃない。悪質なんだ。他人を引きずり込む沼みたいにさ。本当に、最低だよ」
 最低の女だよ、とマイは呟いた。その言葉に応える声はなかった。誰も喋ろうとはしなかった。
 部屋の中に沈黙が満ちてゆく。
 最低の女。自分の放った声の残響が、じわじわと頭の中に染み渡る。どうなのだろうか、とマイは思う。自分自身はどうなのだろうか。自分にとってあの男は、どういった存在だったのだろうか。あの男にとって、自分はどういった存在だったのだろうか。
 暇なときや憂鬱なとき、気を紛らわそうと共に酒を嗜む仲間か。物や金銭と引き換えに肉体関係を結ぶ、客と情婦か。よく判らなかった。あの男に対して何か特別な感情を持ち合わせていたつもりはない。それなのにどうして、とマイは疑問を抱かずにはいられなかった。
 どうして、ミイのことが腹立たしく思えてしまうのだろう。あの男を弱いままの存在に仕立て上げたことについて、許せなくなるのだろう。あの男の目が、心が、他の女を語るときに、苛立たしさを覚えたのだろう。
 胸元に下がるネックレスに目を向ける。重々しい空から部屋に差し込む貧弱な光が、サファイアの青を深く、物憂げに照らし出す。あの男からの贈り物だった。女に媚を売りたがる男が渡すつまらない好意の証。小奇麗に装飾されているものの、本当は女を繋ぎ留めておくための首輪代わり。そんな、はた迷惑な代物でしかない。
 そう思っていた。その程度のものでしかないと信じていた。
 ――それなのに。
 それなのに、それなのに、それなのに。
 自身の認識とはまったく無関係に湧き上がってくる感情に、マイは胸を抑えつけた。死んでしまったから、なのだろうか。失ってしまったからなのだろうか。
 だからこそ、あの男を殺した誰かが、殺したかもしれない誰かが許せないのか。
 認めたくない、とマイは胸を抑える手にぐっと力を込めた。認めるものか。あの男を、わたしが、なんて。
 でも、と頭と片隅から自分自身が囁いた。
 ――でも、それなら、そうだったとしたなら。
 あるはずだった。当てはまることだった。間違いなく。自分にも。
 ――わたしにも。
 あの男を失いたくない、という思いが。
 あの男が離れていくことが許せない、という思いが。
 あの男を殺す動機が。
 男に向けて置時計を投げつけた光景が頭に浮かぶ。男が妙に気に入っていた、そしてマイにとっては見るだけで不愉快だった古臭い置時計。そのときに見せた男の顔。驚き、放心したようなあの顔。その直後に見せた悲しそうな顔。
 手に込める力を強くした。強く、強く。考えを打ち消すように、頭の中を空っぽにするように。ソファが軋んだ。
 やがて、声が上がる。
 その声が、他人のものなのか、自分のもなのか、いや、本当に声がしたのかどうかさえ、マイには判断がつかなかった。
「彼を殺したのは、わたし――」
 ――そう、わたしではなく――
 

 三幕 ミイ 逃げて避けて独白する

 窓辺に立つミイはずっとカーテンを握り締めていた。何かに掴まっていなけば、確実に存在していると実感できる何かに縋っていなれば、とても自分を保っていられないように思えたからだ。
 掌に伝わる生地の感触――綿の生地だった――に僅かばかりの安堵を覚える。カーテンの、柔らかいアイボリー色もまた、色彩に欠ける薄暗い部屋の中では心を落ち着かせた。いい加減、誰かが照明を付けてくれればいいのに、と思うミイだったが自分でその行動を取るつもりはなかった。
 動けなかったのだ。ミイにしてみれば、こうやってこの場所に立っているだけで精一杯だった。少しでも動けば倒れてしまうのではないか、いまは平静であってもたちまち恐怖に襲われて竦み上がってしまうのではないか、といった杞憂めいた不安に襲われる。
 手に込めた力を緩め、カーテンの表面に手を滑らせた。少しずつ、少しずつ、力を緩めながら、下へ、下へと。そして、腰の辺りまで下げたところで、今度は上に向かって手を這わせ、目の高さまで届いたところでまた下へ。下に、上に。また下に、上に。その動作を繰り返した。カーテンを擦り続けた。
 こうやって時間が経ち、いま見ている光景が疑いようもなく現実であると認識できるだけの落ち着きを取り戻したとはいえ、しかし、それでもまだどこかふわふわとした感覚を振り払うことができない。夢のような、他人事のような、薄っぺらい現実感。
 ――信じられない。とても、信じられない。あの人が死んでしまったなんて。
 寝室に、いまもなお死体が横たわっているであろう場所に目を向ける。寝室のドアは閉じられていた。そのドアを見つめれば見つめるほどに、ざわざわと心が落ち着かなくなる。判らない。何がどうしてこんなことになっしまったのか、まったく判らない。思考がまともに働かない。それどころか、この状況において何がまともなのか、その境界さえも曖昧に思えてくる。にも関わらず、理解できない事実に対して、さっさと何らかの説明を――ただし絶望的な気分に陥ることのない説明を――用意しなければといった焦燥は強くなる一方だ。
 感情と理性がもつれ合い、ますます混乱する頭の中から浮かび上がった一つの考えをミイは口に出す。深く考えることもなく、ただ、衝動的に。
「あれは、あの死体は彼ではない……かもしれないよ」
「どういうこと?」
「確かにさ、体格は似ているし、火傷の痕もそっくりだった。でも、ほら、首がないでしょ。顔が判らないままでしょう? ということはつまり、あの死体が彼のものだって断言することはできないじゃないですか」
「そう、だね。そんな風に考えたくなる気持ちは判るよ」
 胸の内に芽生えた微かな希望にミイは縋りつかずにはいられなかった。可能性だけの話ではあるかもしれない。現実を認めたくないあまり、見苦しくあがいているだけなのかもしれない。だが、寝室で見た死体が見知らぬ人間のものであると考えることは、非常に魅力的だったのだ。
 自らが発した言葉の重みを確かめるため、誰彼なしにおずおずとミイは問いかける。
「違う、かな?」
「もしそうだったら、嬉しい?」
「もし……あの死体が彼のものでなかったら、わたしは……その、嬉しいな。皆も、そうだよね? あの人はまだ生きているかもしれないって、そう考えられるんだから」
「ミイは、彼ではなく赤の他人が死んでいたら、嬉しい?」
「もちろん、死人が出てしまった事実に変わりはないよ。けど……だとしても、死んでいるのがあの人ではなかったのなら、その……わたしは」
「本当の気持ちを聞かせてよ。ね?」
「わたし、は」
 そこで迷いを覚え、ミイは言い淀んだ。自らの期待が、願いが叶うならば、無関係な誰かが死んでしまっても構わない――そう考えてしまう自分自身に戸惑いがあった。自分はそんなにも身勝手な人間だったのかと罪悪感に苛まれもする。
 だがそれでも、と強く思う。
 ――それでもわたしは、わたしの気持ちに嘘はつけない。つきたくない。
 ひとり頷き、ミイは改めて口を開いた。
「うん、う、嬉しい、な。死んでいるのが彼じゃなかったとしたら、嬉しいな」
「そんなにも、好きだったの? 彼のこと」
「好き、だったから。ううん、好きよ、今だって。愛してる」
「いつも殴られてたのに? あなたはただ殴られて、泣いていただけなのに?」
 ミイは自らの頬に手を伸ばし、そこに浮かんでいるであろう黒々とした痣に――殴られたその場所に――ゆっくりと触れてみる。その指が微かに震えてたはいたものの、新たに沸き上がってくる感情は何もなかった。ただ変わらない思いだけがあるばかりだ。
 だからこそ、ミイは言う。
「痛かったけど、泣いてばかりだったけど、それでも、わたしは」
「あなたは?」
「あの人を、愛しく思っている」
「うん、どうしてかな」
「だって、あの人は、優しかったもの」
「あなたを殴るのに?」
「誰にだって、あるんだよ。弱くなっちゃうときが。色んなことに耐えられなくなるときが。何もかも疎ましくなって、許せなくなって、どうしようもなくなっちゃうときがあるんだよ。その気持ち、わたしには判るもの。知っているもの。わたしと、同じだもの。だから、わたしは彼を受け入れることができたの」
 わたしだけは、と呟き、ミイは腕を抱く。心の底から誰かを認めることのできる自分。そんな相手と巡り合えることのできた幸運。素晴らしいことだ。本当に、本当に素晴らしいことだ。
 ――そして、何よりも誇らしいことだ。 
 だから悪いことばかり考えるのは止めるべきなのだ。僅かでも望みがあるのなら、勝手に不安を覚え、絶望したような気分になどなるべきではないのだ。
 僅かな沈黙の後、アイが言う。
「不毛だね」
 マイは吐き捨てた。
「気持ち悪い」
「考えとして判らなくはないけれど……他人事だと、どうしても完全には共感しかねるわね」
「共感なんて、したくもないね」
 胸の中に暖かな感触が芽生え、広がってゆくのをミイは感じ取る。口元が微かに緩んだ。強張っていた身体の奥が溶け、頭が芯から解きほぐされたかのようだった。
 ぐにゃり、と。
 歪むように。
「彼は、本当は優しい人だもの。初めて、生まれて初めて、わたしに優しくしてくれた人だもの」
「でも、彼が見ていたのは、あなただけじゃなかったんだよ。あなただけを見ていた人ではなかったんだよ。それでも優しい、なんて言えるの?」
 ――疑わない。わたしは、わたしの気持ちを、わたしの望みを、疑わない。
 そう考えることに、そう言い聞かせることに、ミイはしがみついた。視線を宙に向け、床に向け、どこにも焦点を合わせず、何物にも意識を傾けず、ただ一つのことだけに。
「そう、優しい人。彼は優しい人だったって、わたしは言える。だってわたしには、誰もいなかったもの。彼以外の誰もいないもの。だからわたしは、たとえ彼にとっての大切な人がわたしだけじゃなくても気にしない。気にならない。ちっともね」
「そっか。そうなんだ。うん、彼も幸せだね。誰かにそこまで慕われる、なんて。たった一人からさえ、そんな風にはなかなか思ってもえないものなのにさ。本当に、本当に、羨ましくなる」
「わたしにとって彼のことがすべてだもの。だから、生きていて欲しい。死んだなんて、殺されたなんて、わたしは信じたくない。認めたくない」
 疑うな。疑うな。疑うな。
 ミイはそう心の中で繰り返す。繰り返す。繰り返す。そうすればするほどに意味を失い、霞んでゆく言葉を繰り返す。頭の隅からそろりそろりと忍び寄ってくる疑念――自分の言葉がただの願望でしかないのではないか、いまここにある事実を覆すことなどできないのではないかという疑念――から意識を逸らす。
「うん。そうだろうね。でも彼は死んでいる。あの死体は、間違いなく彼そのもの。ただ首が無くなっているだけ」
「嘘だよ。彼が死んだなんて、あれが彼の死体だなんて、嘘だよ。そんなこと、あるはずがないよ」
「嘘じゃない」
 納得できない。したくもない。もどかしさに駆られてミイは首を振る。意識すまいとすればするほどにくっきりと形を成してゆく疑念は、頭の中でさらに大きく、大きく膨れ上がってゆく。
「だって、嘘じゃないなら、どうして? どうして彼が、こ、殺されなくちゃいけなかったって言うの?」
 その言葉に対して返ってくるのは沈黙だけだった。それでもミイは喋り続ける。自らの言葉で、自らを説得するために。
「一体、誰が、そんなことを?」
「それは――」
「ううん。でも、わたしは、信じない。ここにいる誰かが、彼のことを知っている人が、彼のことを好きだった人が彼を殺しただなんて、考えたくない。そんなことあるはずがない。好きな相手を殺すなんて、そんなこと」
 あるはずがない、と上の空で繰り返しながらミイは天井を仰ぎ見る。目に映る天井にはぼんやりとした薄い影が広がり、その色合いも模様も、本来なら最もくっきりと見えるはずの照明器具すらもぼんやりと霞んでいた。自分もまたこの影に塗り潰されてしまうのではないか――そんな得体の知れない圧迫感に、ミイは小さく首を振る。
 そして、あるはずがない、ともう一度、力なく繰り返す。    
「もし、彼が殺されたんだとしても、それはきっと、知らない誰かがやったんだよ。わたしたちじゃない、誰か赤の他人が来たんだよ。アイさんがこの部屋に来る前に、泥棒とか頭のおかしい人が入り込んだんだよ。そして彼を殺しちゃったんだよ。そうだよ、きっとそうなんだよ」
「ミイ、それは」
「そうに決まってるッ! わたしじゃない! わたしは彼を殺したりなんかしていないッ! 他の皆だってそうだよ! わたしは信じてる。ああ、もしかしたら、考えたくはないけれど、彼は自分で自分を殺しちゃったのかもしれないよ。自殺なのかもしれない。だって、ほら、あの人は弱いから。弱い人だから。それも信じたくはないけれど、そうなのかもしれないよ。そう考えることだってできるじゃない。できるよ。だから、もう、わたしは」
「首は?」
「嫌だよ、もう。嫌だよ、嫌だ、嫌、嫌」
「もし自殺だったとして、誰が彼の首を切ったの? 何のために? 死体から首だけ切り落として持っていく人間が、たまたまこの部屋にやってきた、って?」
「彼は自分で自分を殺して、その後でどこかの知らない誰かが彼の首だけ盗んでいった。そうだよ、そうだったかもしれないじゃない。そう考えたって問題はないじゃない!」
 ミイの、絞り出したような声の残滓が翳ってゆく部屋の中に飲み込まれ、再び沈黙が訪れた。澱んだ空気の中、部屋に集う人間たちの息遣いだけが不規則なリズムで繰り返される。
 やがて、溜息をついてアイが言う。
「彼は自殺で、首切りは赤の他人がやったこと。そういった話で納得するのは苦しいね、ちょっと。殺人の延長上に、首を切り落とす行為があったと考える方が自然ね。彼の自殺後に、まったく無関係の人間がこの部屋に侵入して死体損壊行為に及ぶというのは――まったく起こりえないとは言わないまでも、でき過ぎた話だもの。もっとも、無関係ではない人間の仕業なら、そんなに不自然ではないのかもしれないけど」
 マイもまた、溜息をついて嘲りの声を上げた。
「まったく、頭のおかしな人間の言うことは何から何まで訳が判らないね」
「彼が自殺したからこそ、首を切り落とそうと考える、というのは、親しい間柄だからこそ起こりやすいことだと思わない? 身体の一部だけでも側に置いておきたいとか、そんな倒錯した感情はなおさらにね。そこからもう少し話を進めて、首を切り落とす目的、その行為の合理的理由を探ってみれば、こんな風に考えるともできる――つまり『その自殺を殺人に見せかけて、誰かに罪をなすりつけるために首を切り落とす』とかね」
「思いつきで、自分に都合の良いことばかり喋って、満足して、それで、自分でも訳が判んなくなって、余計にこんがらがった話を始めてさ。イカれてるよ、ミイ」
「もちろん、この考えは、自殺・首切りの流れではなく、殺人・首切りの流れでも当てはまるけれど。つまり、殺人と首切りがそれぞれ別の人間の手によって行われた場合――最初から共謀していた訳ではなく、結果的に共犯関係のような形になった場合ね。両犯人は、きっとこう思うんじゃないかしら――自分の罪を相手に被ってもらおう、とかね。殺人者は首切り人に殺人の罪を、一方の首切り人は殺人者に首切りの罪を。最初から共犯関係だったとしても、そんな風にお互いがお互いに押しつけ合うってことは十分考えられるけど、もし事後共犯的な関係だったら、よりスムーズに押しつけ合いができるんじゃないかなあ。協力者を裏切ってしまうことに対する葛藤だとか、裏切られることに対する疑心暗鬼だとか、相手に対する配慮を考慮する必要がないからね。ああ、でも――違うかな。逆に不安かな? 一方の罪人がどこの誰だか判っていないかもれしないし、もしかしたら片方だけが片方の行為を知っているなんてこともあるかもしれないし、その辺を考えに入れなくても、自分ではない罪人が、自分が考えているのと同じようにいとも簡単に罪をなすりつけようとしているかもしれないんだから、気が気でないわね。いつ、どこで、どんなふうにして、襲うのか、襲われるのか、考え続けていなくちゃいけないだなんて、とても不安でしょうね。ねえ、そう思わない?」
 ミイの目から涙が零れ落ちた。いまここにある理不尽が悔しくて、どうにもできない遣り切れなさが込み上げ、泣き出さずにはいられなかった。
 認めたくない。認めたくない。好意と悪意が、愛情と憎悪が両立するなど認めたくはなかった。そんな人間はいるいずがない。ミイはそう信じていた。
「彼に好意を持っていた人が、誰かを愛することを知っている人が、殺人なんてする訳がない。そんなことをする人間をわたしは認めない。認めない。認めない。絶対に、絶対に――」
 ――認めてなんてやるものか。
 ミイの掠れたような言葉に、部屋の中の澱みはより一層に深みを増し、停滞が訪れる。
 ミイには何の音も聞こえなかった。その目に映るものも霞んでいるようにしか見えず、部屋に充満しているはずの臭いも、ここにいる何者の気配さえも、意識の表面を揺らさない。
 ただ、霞む視界が揺れて、揺れて、ミイは自らの思考の奥へ、奥へと埋まってゆく。
 白に対しての黒。生に対して死。男に対しての女。これらのように、あらゆる感情にも両極が存在し、それぞれ絶対に相容れるものではない。ミイはずっとそう考えて生きてきた。愛に対する憎悪。喜びに対する悲しみ。優しさや温かさに対する残酷さや冷たさ。こうした感情のそれぞれは対立し続けるもののはずだった。
 間違っていたのだろうか、とミイは自問する。こうした考えこそが、そもそも大きな間違いなのだろうか。いまのいままで考えたことも、考えようとしてみたこともなかった。いや――
 ――本当に?
 本当にそうだっただろうか。見ない振りをしていただけではなかったのだろうか。ミイは、自分に優しく微笑みかけ、そして同時に自分を殴り続けた男の顔を思い浮かべる。彼は弱かった。弱い人間だった。強くなれない人のはずだった。だからこそミイは、弱い自分と同じであるその男を受け入れ、許していた。
 ――でも、でも、あの人は。
 ミイは腫れの残る頬にそっと手で触れてみた。殴ったんだ、わたしを。殴っていたんだ、わたしを。愛していると言いながら、殴っていたんだ。
 愛されながら憎まれていたのだ。
 それならば自分も同じなのだろうか。憎んでいたのだろうか。愛していると言いながら。愛していながら。
 ならば――
 愛しながら殴ることができるのならば。
 愛しながら殺すことだってできるのだろう。
 ぼんやりと霞み、ゆらゆらと揺れていた視界が明滅を始めた。赤い色の明滅が、チカチカと。赤く、黒く、赤く、黒く。
 そこには恋人だった男の姿が映し出されていた。そして、ナイフを握った自分の手。男へナイフを突き立てる。ナイフの刃が腹部にめり込んでいく感触が、肉の感触が、両の掌に伝わる。服の上から血が滲み出る。赤い血が。赤い赤い血が。ナイフを強く押し付ける。その刃を何度も何度も捻じり上げ、肉の中へとめり込ませてゆく。赤くなる。赤く赤くなる。男は苦痛に喘いでいた。その姿に自分は微笑みを浮かべている。愛していると呟く。繰り返し繰り返し呟き続ける。赤くなる。赤くなる。その光景が真っ赤になって、頭の中が真っ赤になって、思考そのものが赤に染まってあらゆるものが目の前が赤く。赤く。赤く。
 ――わたしじゃない。わたしはそんなことはしていない。
 ミイはカーテンにそっと手を添えて、その布地を擦り始める。ゆっくりと手を這わせ、慈しむように、優しさを込めるようにして。ゆっくりと、ゆっとくりと。
 視界に赤の残滓が見えたように思えた。ぐらりと身体が揺れる。倒れまいと、カーテンをぎゅっと握り締めた。大丈夫、大丈夫、わたしは大丈夫。そう自分に言い聞かせ、ミイはまた、ゆっくりとカーテンを擦り始める。ゆっくりと、大きく、強く。布を擦るその音が、しっかりと自分の耳に届くように。ゆっくりと、大きく、強く。
 やがて、声が上がる。
 その声が、他人のものなのか、自分のものなのか、いや、本当に声がしたのかどうかさえ、ミイには判断がつかなかった。 
「それでも、彼を殺したのはわたし――」
 ――そう、わたしじゃなくて――


 四幕 アイ 疑って、戯れて、偽る

「ミイ、本当の所を言うと、わたしはあなたが彼を殺したなんて思えないし、思いたくない。けど、その願望と本当のことを知りたいと思う気持ちを比べたら、悪いけれど優先されるのは後者。わたしは、自分を偽ってまであなたを信じ切ることなんてできないし、そうしたくもないから」
 アイは慎重に顔を上げ、決してドアへ――いまもなお首無し死体が転がる部屋へ――と目を向けないようにしながらミイと顔を合わせた。窓辺に立つミイの顔はすっかり青褪めており、部屋の薄暗さと相まって、ぼんやりと霞んで見える。彼女という存在そのものがあと少しで消えてしまいそうな影のように思われた。
 ミイはアイの視線から逃れるように顔を逸らし、当惑と怯えの滲んだ掠れ声で言う。
「わ、わたしは別に、気にしてません。こんな状況なんだし、アイさんがわたしをどう思ってもそれは仕方がないと思い……ます。それは判ります。理屈では、判ってるんです」
 身を守るように肩を抱くミイの姿に、アイは軽く溜息をつく。ミイが何を言おうとも、白々しいものしか思えなかった。その頑なとも言える態度から窺えるのは、僅かでも都合の悪い事柄を徹底的に無視してやろうとする主張だ。
 単に穿った見方でしかないのかもしれない。ミイの本心はまた違うのかもしれない。アイはそう考え、できるだけ感情を薄めよう、ただただ事実のみを見つめる冷静な視点を持とうと努めるが、それでも頭の奥がチリチリと焦げつくような感覚に襲われる。いま目の前にいるミイの姿に忌わしさを覚えずにいられない。マイではないが、苛立つのも当然のことのように思えた。
「繰り返すようだけれど、ミイ、わたしはあなたにだって犯行に及ぶチャンスがあったと考えている。彼の死は自殺によるもので、それと首の切断は無関係、なんてことも、まあ考えられなくはないよ。でも、それは仮定としてあり得るというだけの話。現実に何が起こったのかを考えれば、殺人者がいて、その人物が首を切断したとする方がよっぽとシンプルで起こる可能性の高い話だもの。それは、判るよね」
 アイの放ったその言葉に、ミイはぎくしゃくとした動きで顔を逸らす。
「そう、だね。そうなんだろうね」
「そこでね、これもまた繰り返しになるけれど、あなたという人物が怪しいと睨んで考えを進めるとね、思いつくことは二つ。一つ目、あなたはマイが部屋を出てくるまで待ち伏せして、その後、彼を殺した。二つ目、あなたとマイが手を組んで彼を殺した。前者ならマイに――保険としてわたしにも――疑いを向けさせることができる。後者なら、完全にわたしを陥れるため、だね。さて、そこであなたに質問。彼を殺したのは、あなた?」
 問いかけに対して、ミイはちらりと視線を寄こしたものの、すぐに目を逸らし、消え入るような声で否定の言葉を口にした。
「違う……違います。わたしは、彼を殺してなんて、いません」
「そう言うだろうね、あなたが殺したんだとしても、本当に殺していなかったんだとしても、まあ、否定するのが当然だよね。殺しました、なんて白状するなら、最初からそうするだろうからね。いまのところはそれでいいよ。あなたは彼を殺してはいない、ということにして、また質問ね。それなら、あなたは彼の死後、その首を切断したのかもしれない。どうかしら」
「首切り……なんて、そんなことはしていません。したくもありません! そんな恐ろしいこと……。それどころか、わたしはあの死体に指一本だって触れてないです」
「首切りも否定する、なるほど。でも、まだこんな風にも考えられるよ。あなたは殺人にも首切りにも関わってはいない。けれども、あなたは犯人を知っている。知っていて、隠している。犯人との共謀であれ、あなただけが一方的に知っているのであれ、ね。どうかな」
「知りません! わたしには何も判りません!」
 言いながらミイは、目を閉じ、耳を塞ぎ、大きく首を振ってみせた。説明をしようとする努力を放棄した幼児並みの態度だ、とアイは思う。滑稽だ。哀れみさえ覚えるほどに。
 そして、おぞましいと思えるほどに。
 アイは目を細め、こめかみを指先でこつこつと三回ほど軽く叩いた。そして、ゆっくりと一つ、息を吐く。
「何も知らない、判らない、か。何も考えたくありません、考える知能も持たない馬鹿です、って自己申告しているみたいだね。もしこれであなたが嘘をついているんだとしたら、本当に大したものだよ。弱さを装って、何食わぬ顔をし続ける――なんて、マイみたいな言い方を借りれば鳥肌ものにぞっとする、ってところだね。驚きを通り越して空恐ろしくなってくるよ」
「わたしは……違う。そんな人間じゃ、ありません」
 苦痛に耐えるかのように顔を歪め、窓辺の女はいまにも掻き消えてしまうそうなほど掠れた声を絞り出す。いかにも弱々しく、いかにも儚げに。
 もしも、とアイの頭に疑念の塊が浮かぶ。もしも不安通りにミイの態度の何もかもが演技なのだとしたら、ただ揺さぶり続けてもこれ以上の効果はできそうにない。
 アイはまたしてもその指先でこめかみを叩く。こつこつと。何度も、何度も。幾度目かで背筋を伸ばし、居住まいを整えるとすぐに、それなら、と口を開いた。
「ミイ、あなたにあなた自身の正しさを証明してもらおうかな。あなたはこの殺人に一切関わっていないと、誰が見ても――とは言わないまでも、そうね、大半の人間が信用できる何か、少なくともこの場にいるわたしたちを、わたしを納得させてくれる話を聞かせて欲しいな」
「そんなこと言われても、わたしは」
 か細い悲鳴のような声を上げてミイはそのまま口籠る。薄闇の中で俯き加減に佇む彼女の姿は、さらに儚げで、頼りのないものになっていた。その姿が透き通って見えたとしても、あるいはいますぐに消えてしまっても、そう驚くことではないのかもしれない。そんなことをアイは考える。そして、その考えにちっとも心が動かないことに気づいたが、それでも自身の感情から揺らぎめいたものを掴み取ることはできなかった。言葉を探しているのか、切羽詰まったような悲愴な面持ちで唇を歪めるミイを見つめていても、何も思うところがなかった。憐れみを覚えることもなければ、先ほどのような苛立ちを覚えることもなく、見つめるという行為をただ静かに、淡々と続けていた。どれだけ時間が経っても待っていられる、そんな風に思えた。
 心が冷え固まる、とはこのような心境を指すのだろうか。そんな、ほとんど他人事のような感想がアイの頭に浮かぶ。特別な感慨は湧き起こらない。戸惑いもなく、驚きもなく、新鮮さもなければ、心地良さもない。ただ黙したまま、アイは待ち続けた。ミイの言葉を。
「い、意味があるんですか?」
 やがて、弱々しい口調でミイがそう切り出した。その瞳に、弱腰の非難の色を浮かべて。自分は一方的に理不尽な状況に追いやられているのだとでも言いたげな被害者の顔で。
 見苦しい、とはこのような態度のことを指すのだろうな、とアイは無感動に考えながら肩を竦めてみせた。
「意味? 意味ね。それは何に対する意味かな。答えの候補が色々あり過ぎて、見当がつかないわね。話の流れからすると、首を切ることの意味かしら。それとも殺人の意味かな。罪をなすりつけることの意味かな。弱いことの意味? わたしという人間の『わたし』――つまりあなたにとってのわたしの意味? あなたにとっての『わたし』――つまりわたしにとってのあなたの意味? 人間全体にとっての自我と呼ばれるもの、それを指す『わたし』の意味かしら。それとも自我であるところの『わたし』とは別の『わたし』、他者を指し示す『あなた』の意味? 意味の意味? どれなのかな、判らない」
 ミイはすぐに反応を示そうとはせず、放心したように立ち尽くしていた。不意を突かれた表情。状況を理解できずに呆けている、愚か者の顔だった。
「冗談だよ。ただの冗談。どうぞ、続けて」
 アイは表情も変えず、ただ淡泊にそう述べて先を促した。そこでようやく自分がからかわれたことに気づいたのか、ミイは微かに怒りの表情を見せたものの、そこに浮かんでいるものの大半は困惑と動揺ばかりだ。
 ――怒りでさえ、これっぽっち。
 アイはもう溜息をつく気にもなれなかった。純粋な怒りにすら愚鈍さがつき纏う人間など哀れとしか言いようがない。見る耐えないほどの惨めさ、愚かさだ。
 アイを睨みつつ、それでいて怯えながら、ミイは言う。
「わたし……は、こんなところで、わたしたちが話すことに、意味なんてないって、そう言ってるんです。無意味でしょう? 誰が人殺しなのか? いつ? どうやって? そんなこと……わたしたちに判るはずがないですよ。そんなの警察の仕事じゃないですか。だから、呼びましょうよ。たとえ、警察でもなくても、今は誰かを呼びましょうよ。呼んできましょうよ、いま、すぐに!」
「嫌だね」
 アイはそう言い放った。愚か者の吐き出す泣き言を切り捨てた。鬱陶しい。そう思った。本当に、鬱陶しい。目の前の、こいつが。この女が。
 言葉を失くしたミイは、ありえないものでも目にしたかのよう表情でその場に固まっていた。アイは目を細め、もう一度、今度は噛んで含めるように、ゆっくりとした口調でミイに語りかける。
「嫌だ、と言ったの。却下すると言ったの。拒否すると言ったの。理解、できたかな」
「ど、どうして……」
「警察を呼ぶ? 誰かを呼ぶ? この場所に何も知らない第三者を招き入れる? そんなことお断りだね。なぜなら、犯人はここにいるからよ。彼を殺した人間がいま、ここにいるからよ。それ以外には考えられないの。それ以外の可能性を考える必要はないの。そして、そうであるなら、犯人がここにいるなら、わたしはそいつを――あるいはそいつらを――突き止めなければならないの。いえ、違うわね。突き止めたい、そう、突き止めたいの。それがわたしの望みなの」
「そんな、そんなの判らないでしょう? いま、ここに犯人がいる、だなんて。あなたがそう思うどんな理由があるって言うんですか」
「犯人がこの部屋にいる、わたしがそう思うのはそれしか考えられないからだよ。ええ、もちろん、理解はしている。わたしがただそうしたいだけ、そういうことにしておきたいだけかもしれないってね。確かにその願望があることは否定しない。でもね、そうであったとしても、偶然の積み重ねによって彼がここで死体になっている、なんて馬鹿げた仮定を受け入れるよりは理に適っているもの」
 言いながらアイは自分がこれから導こうとしている結論と、自身の欲求について素直に納得した。こうして自身の思考を並べ立てても、揺らぐことのない確信がある。疑問を差し挟む余地がないという確信が。
 胸の奥が僅かに高鳴るのを感じつつ、アイは天井を仰ぎ見る。頭上では薄く、ぼんやりとした影がじわじわと広がり続けていた。
「考えてもみて。わたしたちは、いまどうしてこの部屋にこうして集まっているの? わたしは今日、彼に呼ばれていたからここに来た。それはあなたたちも同じよね。彼に呼ばれたからここに来た。それぞれが到着した時間がぴったり同じではなかったにせよ、ね。なら、なんのために集まったのか――それは、あなたたちにも大体の予想はついていたでしょう? 彼が話していたとしても不思議じゃないしね」
 流れるように口をつく言葉を、アイは躊躇うことなく紡ぎ続ける。頭上に広がる影が揺らいで見えた。
「ええ、そう。もともとあなたたちを彼に呼んでもらったのは、このわたし。いい加減ね、はっきりさせるべきだと思ったの。彼とわたしたちの関係をね」
「関係……って、わたしと彼は、その」
「もちろん、それぞれに事情があるのは判ってるよ。元を正せば、何人もの女に手を出していた彼に責任がある訳だから、わたしがあなたたちに何かを要求するのは筋違いなのかもしれない。けれどもね、彼と正式に結婚すると決めた以上、わたしも黙っている訳にはいかなくなってね。この際だから、きっちりと白黒をつけるつもりだったのよ。あなたたちがもう二度と彼に近づかないように、ね」
 アイはそこで言葉を止め、目を細めてミイを見つめた。窓から漏れる頼りない明りが、青褪めた顔の女を照らしていた。怯えたように腕を抱く、朧げな存在の女を。その光景に、冷え固まったと思っていた胸の中が奇妙な心地良さに――ちっぽけで、厭わしいだけの虫を意識的に踏み潰す時に感じるような暗い喜びに――満たされてゆく。影が、自分の中に落ちてきたかのように思えた。
 ミイは何かを言おうとして口を開きかけた。が、すぐに目を逸らして押し黙り、その唇を強く噛み締める。何かを言いたいのに、言い出せない。話したいけれども、話したくない。彼女の仕草からそんな印象を感じ取ったアイは、そこで自らの口元が僅かに緩んでいることに気がついた。
 ――うん、それもいい。いえ、そうであるべきなんだ。わたしは。
 アイはひとり頷いて言った。
「改めて言うまでもないことだとは思うけれど、彼も納得していたことだからね。特に口論になることもなく、渋るでもなく、それどころかむしろ喜んで首を縦に振ってくれたよ。『アイの好きなようにしたらいい』ってね。判るよね、この意味?」
 あなたにも判るよね、とアイは繰り返す。口元の緩みが、いまやもう完全に笑みの形を取っていることを自覚した。
 やがてミイが声を絞り出すようにして、言った。
「ちが、う」
「ん?」 
「違い、ます。違うんです」
「違う? ミイ、あなたはわたしの言うことが事実とは違っていると、そう言いたいのかしら。ふうん、なるほど。それはつまり、あなたはわたしが知らないことを知っていると、そういった理解で構わないのかな。興味深いね。何が飛び出してくるのか、少しワクワクしてくるね、うん」
 喉の奥からくすくすと笑い声が漏れ出す。
 ――ああ、笑っている、わたしは笑っている。
 笑っているのが自分自身であるにも関わらず、アイはそんなことを改めて考える。自身の感情が、湧き上がってくる感情が愉快なものであることをワンテンポ遅れて気づく、というのも妙な気分だったが、そうしたある種乖離した状態そのものに滑稽さがあるようにも思え、やはり愉快だと判断した。面白い、ええ、本当に面白い。 
 それじゃあ、とアイはわざと猫撫で声を上げて、ミイに尋ねた。
「ねえ、教えてくれないかな? わたしに。あなたから見た事実がわたしの事実と、どこが、どんな風に違うのか、良ければ説明してくれないかな? 何も時間制限だとか、語数制限だとか、禁止語句だとかは設けないから、さ。ね?」   
 アイはそう言って、さあ、とミイに掌を差し出して催促する。さあ早く、さあ早く。今度は自分の意思で大きな笑顔を作った。
 そんなアイの挙動に身体を縮めるようにして戸惑いの表情を浮かべて固まるミイ。それでも、アイはそれ以上は何も言わず、手を差し伸べたまま、笑顔のまま動かなかった。
 薄暗い部屋の中、ぎい、とソファの軋む音がする。強い風が吹き、かん高い音が駆け抜ける。窓の向こうに見える空に、灰色の雲が群れてゆく。部屋の中に、暗く薄い膜が一枚、ゆっくりと重なってゆく。ゆっくりと、少しずつ、また一枚。
「だ、だから、違うんです」 
やがてミイは、躊躇いがちな口調で言葉を発した。
「その、あの人は、納得なんてしていませんでした。アイさんが、その、えっと、しようとしていたことに……同意していたはずがないんです」
 その言葉に、アイは差し伸べた手を僅かに突き出し、続けて、と促した。その顔に笑みを張りつけたまま。
「あの、だから、あの人は言ったんです、昨日……、この部屋で会ったときに、言ったんです、わたしに。『本心なんかじゃないんだ』って。『仕方がないんだ』って。彼は、とても、とてもとても辛そうな顔で、そう言ったんです。そう言って、くれたんです。だから、わたしは――」
「だから、あなたは受け入れた」
 アイがそう言葉を継ぐと、ミイは息を詰まらせて目を見開いた。
「彼が迷っていたからこそ、あなたはそれを受け入れた。違うかな? 彼が迷っていたとすれば、ミイ、あなたならその隙にどうつけ入るでしょうね。『わたしは嫌だよ』とか『あなたも嫌でしょう』とか、別れるなんてまっぴらごめんだと彼に詰め寄ったのかな。そして、わたしがあなたたちに何を言おうと、わたしがあなたたちをどれだけ非難しようと、無視するとか従わないと息巻いたのかな。ああ、そうか、そうだよね、だから彼に殴られたのよね」
 見開かれたミイの目が揺らぎ始める。
「彼が迷っていた、という事実はつまり、彼自身、自分を改めたいと考えていた証拠。強くは意識していなかったにせよ、少なくともあなたたちとこれ以上つき合うのは良くないことくらいは理解していたはずだからね。そこにあなたは横槍を入れた。迷いの中にいる彼をさらに迷わせるように仕向けた。あわよくば、彼の気持ちがあなたに向かうかもしれないと期待を込めて。だから彼を怒らせた、彼に殴られた――どうかな、違うかな。わたしの言っていることはどこか間違っているかな。何せこれはただの推測、根拠もなく言いたい放題に言ってるだけのわたしの妄想みたいものだからさ、事実と異なるところがあるなら遠慮なく否定して欲しいな。ねえ、ミイ」
 その問いに答えは返ってこなかった。
 マイが蔑みの言葉を口にする。
「はん、やっぱり気色悪い。おぞましい、って言葉がぴったりだ」
「そう、だね。そうかもしれない。けれど」
「何て言うのかね、同じ空気を吸ってると思うだけでも身体中が痒くなってくる。いまこの瞬間に生きてるってだけで死んで欲しくなる。死ねばいいのに。いまここで、いますぐに」
「けれど、それは多分、この場にいる皆に言えることだよ。きっと」
 ミイは何も言おうとはしなかった。その身体が小刻みに震え出す。
 そんな彼女の様子に、アイはいかにもわざとらしく見えるように小首を傾げた。
「あら、どうしたの? どうして黙るの? もしかして、わたしの言ったことは間違いではなかったの? そう受け取って構わないのかしら?」
 ミイは答えはない。小刻みな震えは止まらなかった。
「へえ、正解だったの。それは……驚きだね。びっくりだよ」
 笑顔のままそう言ってみせたアイだったが、内心ではやはりそうか、と納得していた。目の前のミイに向けていますぐにでも嘲笑と侮蔑の言葉を投げかけてやりたい気分だ。
 最初からある程度は予想できていたことだった。ミイの頬にできた痣から、彼に殴られたであろうことはいままでの経緯を考えればすぐに推測がつく。殴られた理由についても、互いに依存し合っている彼とミイの関係、それぞれの性格、彼らを取り巻く状況を考えれば大方のことは想像できた。
 ――とは言え、本当にその通りだったとはね。
 自分の予想に間違いはなかったことに小さな驚きを覚えつつも、アイの胸中は優越感で満たされてゆく。隠し事を暴いてみせたこの状況に、気分が高揚してゆく。本当に、単純だ。ミイも、彼も、あまりに浅はかだ。
 一方で、それをじっと見つめている自分自身もまた認識することができた。心の片隅で急激に冷めてゆく感情を。ああ、何だろう、この違和感は。気持ちの悪い、不愉快な感覚は。
 笑みを消し、話を続けた。
「さて、ミイ。あなたは、彼を引き留めたい一心で彼に縋りついた訳だね。そして、拒絶された。あなたはそれは違う、拒絶ではなく迷いの表れでしかない、なんて言いたいかもしれないけどさ、自分でも感じているでしょう? 少しくらいは。本当に拒否された、心からの否定を突きつけられた、って」
 ミイは何も言わなかった。震えたまま、その身体を縮めてゆく。そのまま小さくなろうとしているかのように。消え去ろうとするかのように。 
「だとすると、どうなるのかな? 拒まれたあなたは、どうしたのかな? わがままが通らなかったとき、人はどんな行動を取るのか――諦める、ほどほどの妥協点を探す、何も諦めずに色々な方法を模索する実践する、考えなしに闇雲に突っ込み続ける――様々だけれど、中にはこんなのもあるよねえ、つまり、『思い通りにならないなら、ぶち壊してしまえ』とか。自暴自棄でしかなくて、単なる子供の癇癪みたいなものだけどさ、最終的にこの手段に訴える人間は決して少なくないんだよね。ねえミイ、言っている意味、判るよね?」
「わたしが、そ、その手段を取ったって、そう、言いたいんですか?」
「あら、ちゃんと答えてくれたんだ。また何も言ってくれないとか思っていたから、わたし、少し感激しちゃうなあ。その上、ぴったり正解だもの、泣いて喜びたい気分だね。ええ、その通り、あなたは自己中心的な感情のおもむくままに、短絡的な行動を取った――いえ、少し違うわね、その行動を取った可能性が極めて高い。彼とあなたの置かれていた状況と、二人の間で起こった出来事を考えれば、ね。彼が憎かった、彼を殺したかった、とあなたが思ったとしても、ちっとも不思議ではないし、むしろ自然なくらい。もちろん思った通りに行動したとしても」
「アイさん、わたしは……アイさんがそんな風に考えるのは仕方ないのかもしれないし、疑いたくなるのも当然なのかもしれないけれど、わたしは、何も」
「怪しいよね、本当に」
 ミイの言葉を遮り、アイは語気を強めてそう言い切った。
「そう、怪しい。いまの話をするまではね、わたしはあなたを疑いたくないと思っていた。たとえ、あなたに犯行のチャンスがあったとしても、ただそれができたかもしれないってだけであなたを疑うのは胸が痛い、そう思っていたの。あなたが殴られた理由だとか、そこから続けた推測だとかは、さっきも言った通り妄想みたいなものだったから、それを判断材料に加えるつもりもなかった。でもね、彼とあなたの間にあった軋轢がわたしの思い込みではなく事実だと判ったいまとなっては、わたしは積極的にあなたに疑いの目を向けたくなったね。疑わなければならないと、そう思う」
 言い終えたアイはそこで認めた。話しているうちに、苛立ちを覚え始めていたことに。片隅にある違和感が、不愉快な感覚が、怒りであったことに。
 アイは心を鎮めようと、深く息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す。余計なもの、邪魔な感情を冷静な判断の邪魔になる不純物を、吸い込んだ息と共に吐き出す。深く息を吸う、ゆっくりと息を吐く。息を吸う、息を吐く。息を吸う、息を吐く。単調に、機械的に、感情を挟まない純粋な行動としての呼吸を繰り返す。
「とは言っても」
 そうして、アイは言う。大丈夫、もう何もない。不要なものは何もない。そのはずだ。
「疑いが強まったとは言っても、それはミイ、あなただけに当てはまる話じゃあない。いまこの部屋にいる全員に当てはまる話だよ。彼とは二度と会うなと通告するために、わたしはあなたたちを今日、この部屋に呼んだ。そして、あなたたちは彼自身の口から呼びつけられる理由を聞いていた。そんな前提があって、今日になったら彼は殺されていた。おまけで首まで切られて持ち去られた。全員に彼を殺す動機があり、チャンスもあった。わたしにも、ね。もちろんわたしは、わたしが犯人ではないと――」
 ――本当に?
「自分が犯人ではないと知っているけれど――」
 ――本当にそう思う? 思える? 
「この状況じゃあ第三者の目からすればわたしたち皆が皆、疑わしく見えるでしょうね。それはもう真っ黒に映るはずだよ。たぶん、いえ、かなり高い確率でこんな風に思われるんじゃあないかな。つまり、わたしたちが全員で彼を殺したのではないか、ってね」
「そんな、まさか……」
 ありえない、と口にしながらミイは首を振る。気づいていても認めない。理解していても見ない振りをする。自分の希望にそぐわないものは拒む。彼女の弱さ故なのだろうか、自身を守るためには客観的な理屈さえも押し退けようとする頑なな態度に、アイは呆れるのを通り越して、ある種の羨望さえ抱いた。羨ましくなる生き方だ。自分ひとりだけが幸福になりたいと願う純粋な姿だ。皮肉ではなく、本心からそう思った。
 それでも、アイは口にする。
「残念だけれど、決してありえない話ではないよ」
 ミイの願いを否定する。どうやっても、自分には真似できない生き方だから。憧れと呼ぶには遠く、決して届かない夢想でしかないから。
 また胸の中が冷えてゆく。冷えてゆく。空っぽになってゆく。
「それくらいにわたしたちは疑わしく見える。これが事実。どんなに認めたくなくてもね。ああ、うん、もしかしたらさ、わたしたちは、わたしたち皆で彼を殺した現実を認めたくないあまりにいまこの場所でこんな茶番を演じているのかもしれないね。だとしたら、少し、いえ、かなり面白い話だよね。大笑いしたくなるくらいにさ」
 そんなアイの言葉を、笑おうとする者はいなかった。
 笑わずに、無感動にマイが言う。
「素敵だよ、この疑い合い。疑って疑って、疑り深さが極って、その先はどうなるんだろうね。また殺人が起きそうじゃないのさ。この調子なら」
「本当は、それを止めたかったんだけどね」
「殺したり殺されたりが起こったばかりで、また繰り返しそうじゃないのさ」
「このままだと不毛な殺し合いになるのは目に見えていたから」
「うんざりだよ。笑うしかないくらいにくだらなくて、もうここにいる全員を――」
「わたしはそんな状況になるのを避けたかったんだ」
「――皆殺しにしてやりたいくらいだよ」
「だからなんだよ。だからでもあるんだ。殺し合いの連鎖を引き起こす元凶を――」
 沈黙が重みを増そうとする気配に微かな不快感を覚え、アイは冗談だと手を振ってみせる。
「ただの冗談。自分で言っておいて何だけど、つまらない話よね」
 ――本当に、冗談? わたしはわたしを信じてる?
「この状況で言うことじゃなかったね。ちょっと趣味が悪かった。謝るよ。まあ、それはともかくとして――」
 ――大丈夫、わたしはわたしを信じてる。
 アイは自身に言い聞かせると、足を組み、身体を前方に――ミイの立つ場所に向かって傾ける。
「わたしたち全員が疑わしく見えてしまうこの状況に第三者を招き入れるのが得策とは言えないことは判るでしょう。最悪全員が捕まって、真相がうやむやになってしまうかもしれない。わたしはそんなのごめんだわ」
「そんな……そんなの、判らないじゃないですか。どうなるか、なんて。わたしたちがいまここでいがみ合うよりは、誰かを呼んだ方がずっと助けになるはずでその方がわたしたちのためになるはずで……その」
「へえ、あの人以外の他人が助けになる、だなんてあなたらしくもない言葉だね。それほどまでに、この場にいるわたしたちが信用できない、ということかしら」
「ち、違います、そうじゃなくて」
「いいのよ、それで。その態度で正解。この状況で自分以外は誰も信用できないのはわたしも同じだもの。でもね、この状況だからこそ、無関係の人間からすれば怪しく見える人間がこれだけ集まっているこんな状況だからこそ、わたしはチャンスだと思っている。彼を殺した人間が誰かを突き止める、ね」
「アイ、さん……」
「わたしは、いまこの場で、わたしたちしかいないこの場所で、彼を殺した人間を見つけたいの。見つけられると信じている。この殺人、しかもご丁寧に首を切って持ち去る行為に、彼とは関係の薄い人間や、まったく無関係の人間が関わってはいないという自分の判断を信じているの。だからね、ミイ、もし誰かがこの場所を離れようとしたら、わたしはその人物を無条件に犯人と見なす。そして――」
 そこで言葉を切った。アイは薄く笑い、怯えた目でこちらを窺うミイの視線を受け止める。
 薄闇の膜がまた一枚、重なってゆく。
 アイはただただミイを凝視し続ける。声もなく、音もなく、時間の流れさえも曖昧になってゆく。そんな沈黙の中にあっては、自分の行動の意味さえも、自分自身が確固として存在している事実さえも、霞んでしまうように思えた。
 ただ一つ、かろうじて明確なのは自身の決意だけだ。 
 ――わたしは彼を殺した人間を、この手で。
 軽い眩暈を覚える。
 ――わたしは、彼を、この手で。
 歪んでいた。自分自身に、自分以外に、歪みを感じていた。
「わたしが――」
 歪み捻じれた意識の中で、微かに響く声。  


 五幕 マイ 毒を吐く

 ソファの上、身体を斜めに傾けながら、マイは胸元に下がるネックレスをぼんやりと眺めていた。薄明りを受けた一瞬、サファイアの青が鈍い光沢を放った。
 空っぽの気分だ。何かを考えようとしても、その何かは掴みどころがなく、まともな思考にならないうちにするすると逃げてゆく。考えられないことを考えている。何とも馬鹿げた話だと内心で自嘲したものの、単なる言葉遊びのような考えもろともにすぐに雲散霧消して、再び思考の空白へと投げ込まれた。
 そうして自己嫌悪に襲われる。
 もう、この繰り返しばかりだ。嫌悪感を紛らわそうと何かを考えて失敗し、その嫌悪感の正体を見極めようとしてもごちゃごちゃした考えにしかならず、いい加減考えることすら嫌になってきているにも関わらず、考えることを止められない。リセット、トライ、エラーの繰り返し。うんざりだ。
 ――嫌になってくる。
 マイはネックレスをその手に握る。握り締める。
「あいつのせいだ」
 そう呟きながら、眉間に皺を寄せる。
「あの男のせいだ。アイツが――」
「あの人が、死ななければ?」
「アイツが死ななければ、殺されたりなんかしなければ、こんなイラつくこともなかったんだ。気持ち悪い、この感覚」
 やり場のない感情、持て余すばかりの感情を少しでも減らそうとマイは力を込めて、そう吐き捨てる。煩わしく思えてならなかった。空しさのついて回るこの感覚が。胸にぽっかりと穴が開いているようなこの感覚が。
「あの人が死んで、悲しい?」
「腹が立つんだ。アイツが死んだのが許せない。悲しいだとか、わたしは思わない」
「あの人が殺されて、泣きたい?」
「いっそ、泣きたくなってくるね。悲しいからじゃない。悔しくてさ。こんな結果になったことが悔しいんだ。許せないんだ、わたしは」
「そう、だね。理不尽だものね」
「あんな奴に出会わなければ良かった。そう思うよ、本当に。いまさら、だけどさ」
 意識的に唇を曲げ、マイは小さく笑い声をあげてみせる。無理にでも苦々しい思いを表すことで自身のくだらなさを呆れてやらなければ気が済まなかった。たとえそれが形だけのものであっても。
「本当に? 本心からそう思うの?」
「後悔……そう後悔しているよ。しない訳がない。そりゃあ、あいつと会っててさ、まったく楽しくなかった訳じゃないよ。そうでなきゃ、進んで会いに行ったりはしなかっただろうからさ。でも――」
「うん、でも、何かな?」
「でも、さ。そんな思い出なんてさ、結果がこれじゃあ意味なんか、ないんだよ。時間の無駄だった、感情の無駄だった、金銭的には……まあ色々奢ってもらったりしたから得したと言えなくもないけど、何もかもひっくるめて考えれば、やっぱり損した気分だよ。ただ自分が擦り減ってしまっただけに思えてくる」
「それは、あなたにもう何の見返りもないから? あの人が、もう二度とあなたに何かを与えたりすることがなくなったから?」
「これ以上、何にも手に入らないことだけ完全に決定したってのが気に食わないんだよ。面白くもないことだけが絶対的に揺るがないなんてさ、空しすぎる。積み重ねてきたものがふいになった、なんて言い方をするのは未練がましく悲しんでるみたいに思われそうで嫌なんだけど、あえて言葉にしたらそんな気分だよ。やってらんないよ」
「空しい、ね。それは何の未練? あなたが欲しかったものは何? あの人から与えて欲しかったものは、何? 何を積み重ねて、その先に何を求めていたの?」
「何なんだろうね、この気分は。自分でも訳判んないよ。わたしは、どうしたいんだか。どうしたかったんだか」
「あなたは、嬉しくなかった? あなたがあの人に何かを与えることが。それは悔しくないかな。もう与える機会を失ってしまったことが」
「わたしは――」
 言葉に詰まり、マイの視線は宙をさ迷う。薄暗がりの中に求める答えがふわふわと浮かんでいる訳もなく、自身の感情がどんな形を成しているのか、どんな言葉によって表わされるのか、判らないままだった。表わせたとして、それを口に出したいのかどうかも判らなかった。判断の基準も、対象も、己すらも見失っているような感覚が、やはり漠然とした不安を生み出してゆく。
 ――むしろ、何も気づかないままの方がましなのではないか。
 そんな風に思った。
 アイが言う。
「そう、好きだったんだね、彼のことが。あの人のことが。だから苦しい。当然だね」
 ミイが言う。
「そう……ですね。判ります。マイさんも、同じだったんですね。わたしと、わたしたちと」
「それなのに、当の本人はそれに気づかない。いえ、気づいていない訳ではないのかな。気づいてて、認めようとしない。そんなところかしら。ミイといい、マイといい、なかなか自身を受け入れようとしない。事実を事実として捉えたがらない。頑固者ばかりだわ」
「認めたくないことを無理に認めてしまったら、折れてしまうもの。心が、消えそうになるもの。それに、失ってしまったあとで、自分の気持ちに気づくなんて辛すぎる」
「愚かだね。見てられないくらいに」
「可哀そうです。見ていられないくらいに」
 ふいに口をつきそうになった言葉を飲み込み、マイは唇に力を込める。何を口走ろうとしたのか、自分でも判らない。それでいい、そう思った。
 得体の知れない何かに具体的な形を与えてしまうことが恐ろしかった。
 ――恐ろしい? 
 自分の考えを反芻し、マイは呆然となり、それと同時に屈辱的な気分になる。羞恥心と怒りがこみ上げてくる。弱気になるな、とマイは自分に言い聞かせた。弱気になってしまえば、不安になってしまえば、判断の基準を間違える。現実と妄想の区別がつかなくなってしまう。
 ――いま考えるべきは、そんなことじゃない。
 自分を奮い立たせるようにして、マイは勢いよく身体を起こす。
「そう、わたしは……わたしはね、あの男のことなんてもうどうでもいい。死んでしまった奴のことなんて、考えてみりゃどうだっていいことじゃない」
 力を込めてマイは声を上げる。情けない思考を振り払うように、自分は挫けないと宣言するように。
「だいたいね、間違っているんだよ。わたしとアンタたちと一緒にしないで欲しいね。アイツは、わたしにとって金づるだった。それがいなくなって悔しかった。それだけさ」
「それは、本心なの? あなたの心からの言葉なの?」
「これがわたしの、そう、これが偽りのないわたしの本音だよ。それは間違っているだとか、自分の気持ちに気づいてないだけだとか、そんなことは言わせない。『本当の自分はどこにいるの?』なんて、くだらないことも言わない。わたしが思うわたし、わたしが思うこと、わたしが言うこと、わたしがわたしの意思でする行為のすべてが本物だからね。それ以外は、他の誰が何と言おうと知ったことじゃないね」
「あなたは――」
「まあ、さすがに死体なんて見たのは初めてのことだったから、動揺はした。でも、それも、もう終わりだよ。終わったこと、済んだこと、気にすることじゃない。いま大事なのは、この状況がわたしにとって、あまり喜ばしい状況ではないってことだよ」
「あなたは、それでいいんだね。それが、いまのあなたの望みなんだね」
「わたしはね、あの男を殺してなんかいない。何もしていないのにわたしらの関係だとか、殺す機会があっただとか、そんな理由だけで疑われるなんてまっぴらこめんだね。繰り返すけど、何度だって繰り返すけど、わたしは昨日の夜、あの男と会って話をしただけ」
 そもそも、とマイは続ける。考えろ、考えろと自身を鼓舞しながら。
「全員が疑わしい、なんて言うアイの話は何だか筋が通っているように思えるさ。けどさ、いくらもっともらしい理屈を並べたところでアイ自身の疑いはちっとも晴れてなんていないんだよ。犯人を見つけたい、なんて言ってたけどさ、考えてみればそれこそ怪しいじゃない」
 話しながらマイは、当たり前のことだと小さく頷いた。本来であれば、あれこれと言い合いを続けるような状況ではないのだ。
「わたしがこの部屋に来たとき、アイは死体の側に立っていた。普通に――アイの言葉を借りるなら、犯行の自然な流れってやつを考えれば、死体の第一発見者が最も怪しい人間だよね。それに加えて、その第一発見者は殺人事件が起こったってのに警察も呼ぶなって、わたしたちをこの部屋に足止めしている。それはつまり」
 ――そう、つまり、単純な話なのだ。
「この状況ってのはさ、最初からアイの計画通りなんじゃないかってわたしは思うんだよ。今日、わたしたちをここに呼びつけたのはアイだ。その目的は、話し合いをしようなんて、生温いことじゃなくてさ、あの男も、わたしたちも皆殺しにするつもりだったんじゃないかってことさ。これなら、自分の婚約者が殺されたってのに涼しい顔してるアイの態度も納得できるしね。ああ、それに――」
 マイはそこで宙を仰ぎ見て、にやりと唇を歪めてみせた。
「それにさ、こんな風も考えていくと、こんな推測もできるね。アイも初めはあの男を殺すつもりはなかった。けれど、わたしたちが来るまでの間、アイとあの男の二人しかこの部屋にいなかったときにトラブルが発生した。口論の末、頭に血が昇って殺しちゃった、って感じでね。殺したあとになってから、『うわっ、どうしよう殺しちゃったわ』なんて動揺して、途方に暮れた。で、次に考えた。『どうしてこんなことに?』『何が悪かったの?』『誰が悪かったの?』って具合でさ」
 三文芝居を演じるように、大袈裟な声音と身振り手振りを加えて頭に浮かんだ情景を再現しながら、マイは語り続ける。
「その先は逆恨み。『ああ、あいつらだ。わたしがこんなことをしでかしたのは、全部全部あいつらのせいなんだ』ってさ。お門違いもいいところのくだらない思考だけどさ、アイを真似て言うなら、この手の人間は決して少なくない、からね。それで、筋違いの皆殺し計画を考え出して、いまに至る、と。冷静ぶった顔して内心はらわた煮えくり返ったアイちゃんがわたしたちの隙を窺ってるって訳ね。どうかな? 案外、当たっちゃってるんじゃないのかなあ」
「考えとしては悪くないし、面白いよ。けど」
「まあ、とにかく、わたしはこれ以上この部屋に留まり続けるのは止めにしたいね。わたしの考えが当たっていなくても、無駄に怪しまれるし、当たっていれば殺されることになる。どっちにしても悪いことばかりだ。わたしは、ごめんだね。あの男のせいで、余計な疑い掛けられて捕まるのも、殺されるのも。わたしは、わたしが何も悪くないことを知っている。あの男を殺してもいないし、首を切ってもいないことを知っている。だったら、わたしは自分を守らなくちゃいけない。わたしが一番大切なのは、自分だもの。自分だけだもの」
 アイが短い溜息をつく。
「なるほど。らしい、と言えばらしい言葉ね」
 ミイが長い吐息を漏らす。
「心からの言葉のように聞こえますね」
「口だけだろうけど」
「聞こえるだけでしょうけど」
「そこまで強い人間ではないはずだからね」
「自分だけしかいない世界に耐えられるはず、ありませんから」
 マイは胸元に下がるネックレスを、今度は睨みつけた。今となっては忌々しい。こんなものさえも、あの男の欠片が僅かにこびりついていそうなものさえも、自分にとって害であるように思えてくる。
 虫に纏わりつかれているように感じ、慌ててネックレスを取り外す。握り締め、床に叩きつけた。だが、絨毯の上に落ちたそれは、拍子抜けするような音を立てただけで、僅かばかりは得られるかもしれないと期待した爽快さは少しも味わえない。清々しさも、満足感もない。
 あるのは、ただ空しさばかりだ。重く圧し掛かるような、空っぽが。
 なので、足元に転がったそれを踏みつけた。踏みつける足に力を込めた。
「わたしはね」
 マイは言う。
「わたしは、自分を信じてる。自分が大切だからこそ、信じてる。記憶が飛んで自分を見失ってる訳でもなけりゃ、自分を騙して都合のいい現実だけを見てる訳でもない。頭がいかれてる訳でもおかしな夢を見てる訳でもないんだ。まともなんだ」
 もう一度、踏みつける。また足を上げて、踏みつける。
「だからもう、あの男のことなんて、どうでもいい。わたしは、わたしの命が大切なんだ。あいつより、自分が大事なんだ。捕まりそうになっても逃げ切ってやる。殺されそうになっても生き延びてやる。いざとなったら、ここにいる全員を殺してでも。わたしだけは、わたしを救ってやるんだ」
 踏みつけたままのネックレスを足で転がす。前に、後ろに。後ろに、前に。
「どうだっていいんだよ、もう」
「あなたは、本当に自分を騙していない?」
「わたしは、自分のことだけを考えてればいいんだ。それでいいんだ」
「彼に対して抱いていた想いを、隠し続けているあなたが?」
「あの男、あんな男、死んだって構うもんか。むしろいい気味だよ、殺されるなんてさ」
「殺されて、嬉しいの?」
「殺されても仕方なかったんだよ、あの男。最初はもちろん、そんな風に思ってなかったけどさ、そんな印象もなかったけどさ、何度か会っている内に判ってきたんだ。気づいたんだ。あいつのくだらなさ、あいつの弱さに。ミイを殴ってるって知ったときは、ぞっとした。そっくりだったんだ」
 言いながら、マイは腕を抱く。踏みつけていたネックレスを蹴飛ばした。遠ざけた。踏みつけても、踏みつけても自分に纏わりついてくる。染みこんでくる。そんな風に思えたから。
 床に足を擦りつける。汚物を落とすように。これ以上、何も入ってこれないように。擦りつける。前に、後ろに。後ろに、前に。
「まるで兄さんみたいだったんだ。わたしの兄さんと、同じだったんだ。わたしを殴って、わたしを犯して、その癖、すぐにわたしに泣きついて縋りついた兄さんに。わたしのことを自分に都合のいいおもちゃ程度にしか扱わなかった兄さんに。ミイを殴ったあとのあいつの顔を何度か目にしたよ。吐きそうになった。泣きそうになりながら、それでいて満足そうにして、わたしに許しを乞うてくるあの顔。言い訳めいた言葉だとか、それらしく聞こえるような侘びの言葉をくどくど並べ立てたりするとこも、かと思えば、いかにも取ってつけたみたいな澄ました態度で接してきたりわざとらしく何事もなかったみたいに振る舞おうとするところも、みんなみんなそっくりだった」
「それでも」
「兄さんのことは嫌いだった。嫌いだったんだ。大嫌いなんだ。だから」
「あなたは」
「あの男のことも」
「あの人が」
「大嫌いだったんだよ」
「好きだったんでしょう?」
「憎かったんだよ。それこそ」
「あなたの、お兄さんと同じくらい」
「殺したいくらいに」
 殺したかったんだよ、とマイは薄く笑う。そして理解した。言葉にすることで、ようやく気づくことができた。これもまた偽りのない、自分の本心だと。
「わたしは、殺したかった。殺したいと思っていた。前みたいに、兄さんのときみたいに逃げ出したりしないで、今度こそ。そう思ってたんだ」
「それくらいに思いが深かった、そういうことだね」
「あんな人間は死ぬべきなんだ。生きていたらダメなんだ」
「それくらいに愛していたから、憎んでいたから」
「殺して構わないんだ。殺すべきなんだ。だって、それは正しいことだもの」
「でもね――」
「正しいことをしなくちゃいけないんだ。間違ってない人間は正しいことをしなくちゃいけないんだ。わたしは間違ってない。わたしは正しい。だから、わたしが――」
すう、と心が軽くなり、マイは安堵の笑みを浮かべる。今度こそ、本当の意味で何もかもがどうでもいいと思える気分だった。何もない。何もいらない。それでいい。そう思えた。
 空っぽになった。真っ白になった。
 音もなく、声もなく、ただ薄く暗く、薄く暗く、影に沈んでゆく部屋でただ一人、白くなる。
「彼を――」
 空白の中、曲ってゆく意識の隅で微かに響く声。


 六幕 ミイ 逆らって襲い、逆らわれて襲われて、逆さまに
 
 誰も動かなかった。喋ろうともしなかった。皆、黙したまま俯いている。風の音は小さくなりつつあり、小刻みに揺れていた窓の音はすでになくなっていた。
 沈黙に耐えかねてミイは顔を上げ、声を出す。
「アイ、さんは」
 呼びかける。カーテンを握る手は離さなかった。
「アイさんは、どう思っていたんですか?」
 その言葉で、床に視線を落とし、放心しているのかそれとも熟考しているのかも判然としない表情を見せていたアイが、ちらりとミイを見つめ返す。そしてすぐに取り澄ました声で応じた。
「思っていたこと、と言われてもね。思う対象はそれこそ山のようにあった訳だし、現にいま思考の真っ只中にある訳だから、何とも言えないかな。もう少し具体的な質問にしてもらえると助かるんだけど、どうかしらね」 
 嫌な人だ、とミイは思う。こんな風に人のことを見下し、からかうような物言いしかできないのか。たとえそうではなかったとしても、アイに悪意などなく、ただ純粋に曖昧なものを排除した会話を求めているだけだとしても、やはりいい気分はしない。向こうの意思と無関係に自分の愚さを浮き彫りにされているようで、余計に性質が悪く思える。
「いえ、その」
 ミイは口籠り、自身の情けなさに思わず顔を伏せた。気分を害したのは自分のはずなのに、それが自分のせいだと思えてしまう。自分の愚鈍さを詫びたくなる。
「その、あの人のことを、本当はどう思っていたんですか?」
「それもまたよく意味が判らない質問だね。いえ、言わんとしていることは判るけど、質問の意図が判らない。そんなことをわたしから聞いて、あなたは何をどうしたいの? わたしの言葉から何かを理解した気分になりたいのかな。上っ面だけの共感を得たいのかな。そうやってわたしに近づいて、自分のスペースにわたしを引きこみたいと、そういうことなのかな」
「ち、違います。わたしは、ただ」
 アイの言葉をミイは慌てて否定する。小さく首を振りながら、違う人だ、と改めて思い知る。自分とは何から何まで異なる人間だ。言葉の裏に何かが隠されているといちいち考えてみせるところも、感情をほとんど表に出すこともせずに落ち着いた態度を取り続けるところも。
「ただ、知りたかっただけなんです。そんな、アイさんに対して何かしてやろうとか、自分の都合のいいようにしてやろうとか、そういうことを考えて言っている訳じゃないんです」
 どうかしら、とアイは目を細めた。
「たとえあなたがそれほど深く意識していないにしても、わたしがいまここであなたの質問に答えたとすれば、結果として現れる効果は似たようなものだと思うけれどね。共通する部分を探りたい、思考を探りたい、どの言葉が特定の反応を、あるいは無反応を引き起こすのかを知りたい、ありとあらゆる様々な情報を相手から引き出したい――そうした願望を叶えるための手段が、会話するということだもの。違う?」
「それは、そう、なのかもしれません……けど、わたしは」
「そこに『かも』も『けど』もいらないよ。だって事実だもの。そして、あなたはその辺の理屈を無自覚に実行していたの。これも事実。そうでしょう? 自分がただそうしたいから、できるだけ考えなしに生きたいから、なんてわがままな理由でね。だから始末に悪い。いえ、悪かったと言うべきかな、この会話によってあなたもいい加減学んだでしょうから。会話する、ただそれだけで他人の意思をある程度は自分の支配下に、つまりいいように操ったり、翻弄したりすることができるってことが。そして、たとえ意図がなくてもそれと同様の効果をもたらす危険性があるってことをね」
 どうかな、と口元に笑みを浮かべ、肩を竦めてみせるアイの態度に、ミイは居心地の悪さを覚える。それと同時に不満も。
 こちらを非難するような物言いそのものに対する恐れだけではなく、納得できないという気持ちがふつふつと沸き上がる。
「それは何の皮肉ですか。わたしが彼を操作していた、って言いたいんですか」 
「あら、ちゃんと皮肉だって気づいてくれたのね。嬉しいな。自分の意図が相手に通じる――これこそ人と人のコミュニケーションから生まれる素敵な効果だよ」
「誤解ですよ。彼が殺されるなんていう酷い状況になってしまったんですから、あなたがわたしを非難したくなる気持ちは判ります。でも」
「非難? おかしなことを言うのね。わたしは非難なんてしていないよ。あなたをからかって遊んでいるのは認めるけどね。怒らせちゃった? だとするとさすがに、少しおふざけが過ぎちゃったかな。優しくて情け深いあなたが、これくらいで気分を害するとは思わなかったものだから」
 ごめんね、と頭を下げるアイだったが、ミイがその言葉を素直に受け止めることなどできるはずもなかった。本当は謝るつもりなどこれっぽっちもないのだろう。俯くアイの顔に薄ら笑いが浮かんでいる様が容易に想像できた。
 遣り切れない。これではあまりに遣り切れない。憎しみを、怒りを、一方的にぶつけられてばかりのこの状況にミイの胸はじくじくと痛み出す。理解されないことに対する不満が、すれ違うばかりで重ならないやり取りに対するもどかしさが、ただでさえ重い気分をさらに底へ底へと沈みこませてゆく。
 ――どうしてわたしばかり。
 気性が荒く、最初から自分を毛嫌いしているマイだけならばともかく、常に冷静だったアイまでもが敵意を向けてくるのは堪らなかった。何も反論しないからなのだろうか。言われるがまま黙っているだけだから、責められるのだろうか。自分は望んでいないのに、誰かを傷つけるようなことなど、望んでいないのに。そうした態度こそが誰かの怒りを助長させてしまうなど、あまりに理不尽だ。
 と、そこでミイはふと気づく。
 ――怒り?
 改めて、アイに目を向ける。すでに頭を上げ、こちらを見据える彼女の眼差しは底冷えのするような光を放っていた。
 ――この人が怒る?
 それはミイが抱くアイの印象とは噛み合わない出来事と言えた。いまのいままで、アイが苛立つのも仕方ないことだと当然のように考えていた。婚約者と関係を持った自分以外の女性たちを気に食わないと思うのも、殺しただろうと疑いたくなるのも、普通の人間の反応としては自然なことだからだ。
 だが、アイに限ってみれば、それはちぐはぐな話でもある。
「いえ、いいんです。わたしは、気にしてません。それよりも」
 ミイはそこで一拍置くと、少しだけ目を伏せて、口元に笑みを浮かべてみせる。心に余裕が生まれたような、悪くない気分だった。
「それよりも、聞かせてくれませんか。わたしは、まださっきの質問の答えを聞いてないです」
「あら、まだこだわっていたの? さすが粘着質な性格だけあって諦めが悪いね。それに、飲みこみも悪い。頭の回転が鈍い人間は本当に罪深い、といま初めて心から思ったよ」
「答えになっていませんよ。それとも、答えたくないんですか?」
「そう言っているつもりだけど? それに、もう一度、色んなところの不具合が多すぎてそれはそれは可哀そうなあなたのために、判りやすく、噛み砕いて説明してあげるけどさ、わたしは初めからあなたの質問に答えるつもりはない、答えなくないって言ったつもりだったよ。あなたの期待なんて、これっぽっちだって叶えてあげたくないの。理解できたかしら? それとも、やっぱり難しい? ん?」
 芝居かがったように目を大きく見開き、わざとらしく確認を求めるアイの挑発的な態度を無視して、ミイは重ねて問う。
「答えたくないのは、本当にそれだけですか?」
「また意味の判らないことを言い出すのね、あなたは。何が言いたいのか、具体的に――」
「答えられないからじゃないんですか」
 アイは眉間を微かに寄せて黙り込んだ。その顔が警戒の色に染まってゆくのが目に見えるようだった。一矢報いてやったような気分になり、ミイは内心でほくそ笑む。
「なぜ答えられないのか、それはアイさんが、あの人のことを本当は何とも思っていなかったから。違いますか?」
「言ってくれるわね。あなたがそんな物言いをできるなんて、少し意外だよ」
「どうなんですか?」
「違う、と否定させてもらうよ。見当違いも甚だしい推測だからね。なぜなら」言いかけてアイは唇を窄め、大きく息をつく。「ここで答えれば、あなたの思惑通りって訳だね」
「いいじゃないですか。さっき、わたしはアイさんの期待に応じました。今度はアイさんがわたしの期待に応じてください。お互いがお互いの期待に応じ合う――きっと、これもまた会話することの喜び、だとわたしは思います」
「ふうん。何を企んでいるのか判らないけど……あなたにしては面白いことを言うのね。いいよ、判った。ちゃんと応じるよ、あなたの期待に。どうしてあなたの言葉が間違っているのか、それはね、わたしがあの人のことが好きだったから、だよ。自分の婚約者に何の感情も抱いていない訳がない。それくらい、考えなくても判るでしょう?」
「好き、だったんですか?」
「ええ、好きだったよ、もちろん。好意を抱いていた、愛情を持っていた、思いを寄せていた、大切に思っていた、懸想していた、色々な言い回しがあるけれど、そのどれにも当てはまり、そのどれにも当てはまらないくらいの感情をわたしは有していたの。あなたにも判るでしょう? 当たり前のことだもの」
「それは……どうでしょうね」
 ミイがそう呟いてみせると、アイの眉間に浮かんだ歪みが大きくなった。
「どう、って。何が判らないの?」
「わたしとアイさんの考える、『好き』の気持ちはまったく違うものに聞こえるんですよね。いえ、それどころか、アイさんの言っていることに中身なんかないって、わたしには思えます」
「中身が、ない?」
「ええ、空っぽなんです。言葉だけ、形だけ、何か感情が伴っていそうな気がするだけで、本当は何も感じてなんかいないんでしょう」
「ずいぶんな――」大きく息を吸い込みながら、アイは言う。「言い方してくれるのね。あなたに、わたしの何が判るのかな」
「だって、アイさん、あなたに他人を思い遣る感情があるようには見えないですからね。自分のことしか考えていないとか、そんなのじゃなくて、他人のことなんて理解できない人だって、そう思うんです。あなたは普通の人間なんかではありませんから」
 その言葉にアイは何かを言いかけたが、ミイはそれを遮って話を続けた。
「誰かを思うことのできないあなたが、彼を思っていた振りをする。それに何の意味があるんでしょうね。いえ、意味があるからやっているんですよね。あなたが意味のないことをするはずがありませんから。だとすれば――こんな風に考えてみると、わたしにも判るような気がするんですよ。アイさんが何をしたいのか」
 そこでミイは言葉を切って、相変わらずの無表情に戻っている女を見つめたが、無言が返ってくるだけだった。いまはもう口を挟むつもりがないらしい。ただ次の言葉を待っている、そんな風に見えた。
「マイさんが言っていましたよね、アイさん、あなたがわたしたちを逆恨みして皆殺しにしようとしているんじゃないか、って。でも、わたしはあなたが、感情なんてないあなたが逆恨みをするだなんて思えない。アイさんの行動には何よりも理屈が優先される。いえ、理屈だけで行動している。その理屈の基準は、人間として常識的な振る舞いかどうか、当たり前に見えるかどうか、それだけなんだとわたしは考えます」
 そうして、とミイは顔の前で人差し指を立てる。
「いまの話を踏まえてマイさんの語った説を捉え直してみるとですね、アイさん、あなたは恨みだとか怒りだとか感情に突き動かされてわたしたちを殺そうとしている訳ではありません。ただそれが『普通の人間の反応として、当然のように見える』からです。恋人が死ねばそれが八つ当たりであれ何であれ、自分以外の人間に恨みを持つのは、ある意味で当然のことだとわたしも思います。大切な人が死ぬなんて理不尽なことだし、その理不尽の責任を誰かに、何かに負わせたくなるもの。そして、あなたもまたそんな風に考えて『普通の人間なら当然のこと』として『怒らなければならない』と決めた。決めた以上、それらしく振る舞わなければならないから『全員を殺す』と判断した。どうです?」
 マイが笑う。
「面白いことを言うじゃない、ミイにしては」
「疑い始めたらどこまでも止まらないからね。底に向かう道筋はそれこそ――」
「それにアイも面白いよ。何だか、らしくない反応だ」
「――無限にあるからね。憎む理由と同じように」
「でも、やっぱり堪らないね、こんなのは。胸がむかついてくる」
「ええ、堪らなく嫌になってくる。だから、判っていたから――」
 どうなんです、とミイは詰め寄った。
「無茶苦茶な理屈だわ」
 そう言って、アイは首を振る。その顔にはしかし、怯えも、怒りも、呆れも、何の表情も浮かんではいなかった。その無表情にミイは僅かに気圧され、反射的に身を引いた。
「だいたい、その理屈ならどうしてわたしは彼を殺すことになったの? わたしには何の感情もないんでしょう? なら彼を殺さなければならない理由もないでしょう」
「そんなことはありませんよ。あなたが『普通の人間なら、ここは怒るべきところ』とか『当然の反応として殺すべきだ』と頭に浮かべて行動したとか、いくらでも考えられますから。それに……あまり考えたくはないですけど、彼の方があなたを襲ってきて、揉み合いになったところで、刺し殺してしまったなんて話もあり得なくはないですから」
「首は? どうして切断する必要が?」
「それは……錯乱した振り、と言うことができますね。意図的にであれ事故であれ、彼を死なせてしまったあなたは、『普通の行動』として『動揺しなければならない』と考え、彼の死体をバラバラにして隠すことに決めた。そして、それを実行している最中に、『恨まなければいけない』と判断するようになった――こんな流れだったのではないでしょうか」
 それに、とミイは慌ててつけ加えた。アイの言う通り、自分は無茶な理屈を組み上げているという思いが急激に強まり、焦燥感が募ってゆく。
 ――違う、違う、そんなはずはない。
「そ、それに……そう、動揺するなんて過程は抜きにして、もっと直接的に『殺人を犯してしまったなら、この犯行を隠すのが当然の反応』と判断して死体をバラバラにしようとした、ってことも考えられますよ。いえ、うん、あなたなら、理屈だけで動くあなたなら、そっちの方が可能性が高いんじゃないかとわたしは、思います」
 間違えている、とミイは考えずにいられなかった。わたしは、間違えている。目の前の、冷やかな眼差しを向けてくる女の姿が、その思いをさらに強めてゆく。
 もしも、と女はやはり冷やかな声を上げた。
「わたしの行動基準が『人間として当然のこと』だけなら、さっさと警察に知らせるとか、自首するだとか、結論づけると思うけどね。その方が『当然』であると、あなたは思わないの? 人を殺してしまったときの行動として、あなたにとっての『当たり前』は、自分の罪を隠したり、誰かのせいにすることなのかな」
「そ……それは、そんなことが当たり前だなんてわたしは思わない……ですけど。でも、あなたは、理屈だけで行動するあなたは、だからこそ自分にとって都合の悪くなるような事態は避けようとするはずです。警察に捕まるとか、犯罪者として生きていく、なんて不都合を背負うなんて、そんなこと」
「するはずがない?」言って、アイは呆れたと言わんばかりに宙を仰いだ。「犯した罪を贖いたい、許しを乞いたい、反省することで人として正しい姿を取り戻りたい――ごく普通の人間なら普通に抱くはずの願いがあれば、自首することに不都合なんて何もないと思うけれど。いえ、むしろ、贖罪を求めるなら困難が多い方がある意味で好都合、とも言えるでしょうね」
 沸き上がる感情に顔が熱くなり、ミイは唇を噛む。強く噛む。単なる怒りではない。羞恥心だけではない。胸の中が真っ黒に塗り潰されてゆく。劣等感に塗り潰されてゆく。
「あなたに、あなたみたいな人に、そんなまっとうな考えができるだなんて思えません」
 苦し紛れに言い放ったものの、相対する女は少しも揺るがなかった。その顔に浮かんでいるのはつまらなそうな表情だけだ。
「そう? なら、好きにするといいよ。あなたがどう思おうとあなたの自由ですもの。想像力にも理解力にも大きな欠陥があるみたいだから、どれたけ思考したとしても何の役にも立たないでしょうけれど」
「欠けてる部分が多いのは、あなたの方じゃないですか」
 勢いだけで述べたミイの言葉に、アイの顔が微かに強張る。
「何が、欠けていると言うのかしら? このわたしに」
 能面に小さな罅が入ったことに手応えを覚え、ミイはそのままの勢いで喋り続けた。
「人間味に欠けていますよ、十分に。婚約者が死んでいたのに、殺されていたのに、あなたは涙ひとつ見せやしない。怒りも見せない、動揺の欠片も見せない、その素振りさえも。あなたに本当の意味での感情があるなんて思えない。言葉だけ、理屈だけ、実感を伴った感情なんて少しも持っていないから、落ち着き払っていられるんですよ」
「わたしは――」
「それにあなた、言いましたよね。『彼を殺した犯人を見つけてやる』って。あの人を殺したのはあなたではない――そう信じたとして、あなたは、何のためにそんなことをするんですか? どうして、彼を殺した人間を見つけたいなんて思うんですか? 見つけたあと、どうしたいんですか? 本当は何も考えずに、ただそう言っているだけなんでしょう。そう言ってみせることで、恋人だった振り、婚約者だった振り、好きだった振りをしているだけなんでしょう。あなたこそ、自分をごまかしている。彼に対して何の感情も持っていなかった癖に」
 空っぽだった癖に。
「わたしは」
「あなたが彼のことを好きだったのなら、あなたは悲しむべきなんです。泣いてなくちゃいけないんです。取り乱しているべきなんです。それが当たり前なんです、人間として。それを僅かでもみせないあなたは、もう異常としか言えません。薄情なんてものじゃない、冷血なんてレベルでもない、人間の振りをしてるだけ。振りだけの――」
 ――人形ですよ。
 人形です、とミイは繰り返す。
「ねえ、どんな気分なんです? 他人を僅かも理解できない、他人と少しも重なり合えない、できることは理解した振りをし続けるだけ、なんて。形だけ真似をして生きているのは、どんな気持ちなんですか?」
「わたしは人形なんかじゃないッ」
 アイが立ち上がり、吠えた。
「人形なんかじゃない! 人間よ! わたしは! あなたに、あなたにまで、そんなこと言われたくないわ! 彼みたいなことを、彼と同じことを言って、わたしを侮辱するのは止めなさい!」
「それも……振りですよね? 怒った振り」
「ふざけないで」
「わたしは真面目に言っていますよ。人形がどれだけ叫んでみても、偽物しか見えないですもの」
「わたしは人形なんかじゃ、ない」
「あの人も、彼も、あなたにそう言ったんですか? 人形だって。あなたが人形だって」
「ええ、言った。言ったよ。あの人は、あの男は、わたしを」
「そう言われて、どんな気分でした?」
「言いたくないわ、そんなこと」
「わたしは聞きたいです、とても。彼の言葉は、あなたをどんな気分にさせたんですか? あなたはどんなことを思ったんですか? 聞かせてください」
 ね、とミイは静かに語り掛ける。温かく、穏やかな感情に満たされてゆく。
 アイが、目の前の女が、人形のようだった女が、ぽつりと呟いた。
「それは、きっと同じ――」
「え?」
「きっと、あなたと同じだよ。あなたが、彼に殴られたときに感じた気持ちと、同じだよ」
 同じ。
 その言葉に、ミイは目を瞬いた。その視界で、瞼の裏で赤い色が明滅する。脳裏に浮かんだ光景が、赤い光景が、ナイフを握った自分が恋人を刺す光景が流れた。男にナイフを刺す。彼の腹部から血が滲み出す。赤い血が。赤い赤い血が。ナイフを強く押しつける。その刃を何度も何度も捻じり上げ、肉の中へとめりこませてゆく。赤くなる。赤く赤くなる。男は苦痛に喘いでいた。その姿に自分は微笑みを浮かべる。愛していると呟く。繰り返し、繰り返し、呟き続ける。赤くなる。赤くなる。その光景が真っ赤になって、頭の中が真っ赤になって、思考そのものが赤に染まってあらゆるものが目の前が赤く。赤く。赤く。倒れた男の首に刃物を突き立てる。また赤くなる。男の、生気のない目がこちらを見つめていた。微笑み返した。愛していると呟いて、刃物を突き立てた。赤くなった。赤くなった。赤くなった。
「わたし、と」
「ええ、あなたと」
 ――ああ、重なった。
 胸に小さな喜びが芽生え、ミイの口元が綻ぶ。人形と、心が重なった。
「ねえミイ、同じでしょう? わたしと同じように、彼を」
「彼を――」
 両の掌を見つめる。視界にこびりついたままの赤い残像、鼻腔に漂う血の臭い、耳の奥に繰り返し流れる自分の――愛していると囁く――声、そして、手に残る肉の感触。
 徐々に、徐々に、暗さを増してゆく部屋の中、ミイの目には赤い膜が重なる光景が映し出されていた。交互に重なってゆく、黒い膜、赤い膜、黒い膜、赤い膜。赤黒く、赤黒く。
 チカチカと光が瞬き、目を瞑る。
「――殺したの」
 赤い思考の中、霞んでゆく現実の影で微かに響く声。
 
 
 七幕 アイ 告白の独白

 恋人のことを初めから好きだったか、と問われると、それは違うとしか答えようがなかった。アイにしてみれば、むしろ、眼中になかったくらいだ。それほど親しくしていた訳でも、親しくなりたいと思っていた訳でもなく、単に周囲にいる同僚のひとりでしかなかった。その程度の認識でしかなかった男性が自分に声を掛けてきたのだ。
「彼に言い寄られてきたときはね、正直に言えば迷惑だったよ。職場の人間と恋愛沙汰になれば、面倒なことが増えそうだったから」
 アイはそう言って、微かに笑ってみせた。
「でも、いくら断ってもしつこくてね。しまいには、断り続けるのも馬鹿らしくなってつき合うことにしたの。それに――」
「それに?」
「根負けした、って面もあったけど、少しだけ試してみようかな、とも思ったの。うん、いえ……試す、と言うと少し違うかな。努力、ね。変える努力をしてみようと思ったのよ」
「変える努力? 何をどう、変えたかったの?」
「好きになる努力。誰かを、心から好きだと思う努力を」
「なかった? あなたは誰かを好きだった思ったことが、なかったの?」
「わたしは、経験がなかったから。誰かに好きだと言われても、好意を寄せられても、その逆はなかったと言い切ってしまえるくらいだから」 
 そもそもからしてアイは恋愛というものに対してあまり興味を持たずに生きてきた。学生時代に何人かの異性とつき合ったことはあるものの、その関係が長く続いたためしはない。交際を申しこんできた男が、しばらく経つと唐突に別れたいと切り出したり、いつの間にか音沙汰がなくなってしまうのだ。最初のうちはしつこいくらいに纏わりついてきたり、執拗に身体を求めてきてみたりと、やけに熱心だった男たち自らがおとなしく身を引いていくことが、当時のアイはよく理解できなかった。欲しがってみたり、そっぽを向いたり、男なんてわがままな連中ばかりだ。そんな風に思ったこともある。
 とは言え、同様のことが何度か繰り返される中でも、薄々は感じていた。異性との関係が長続きしない原因が自身の恋愛に対する淡泊な態度にあるのだと。
「好意だけじゃない。わたしには強い感情を抱いた経験なんてほとんどない。小さいころからずっとそうだったんだ。それが、当たり前だと思っていた」
 だからまあ、とアイは溜息をつく。
「ミイに言われたのと同じような言葉をぶつけられたよ。両親からも、友人からも。本当に無感情な人間って訳でもないのにさ」
 自分にも感情がある。その点だけは確かなことだった。喜ぶこともある。怒るときもあれば、悲しんだり、楽しいと思うことも。
 ただし、そうした自身の感情の揺れ幅が、他人からすれば何も感じていないように見えないくらいに微小なものである、という認識も成長していくにつれ抱くようになっていた。周囲の人間たちから度々そう評されたから、とも言えるが、実際に他人が見せる表情や、その振る舞いを目にすると、自分は感情表現に乏しく、またその感情の濃度自体も希薄なのだと思う他はなかったのだ。そして、そうした自身の性質を当たり前のこと、仕方のないこと、と半ば諦め似た感覚と共に受け入れた。
 恐らくは、とアイはいまにして思う。そうやって深く悩むこともなく、すんなりと受け入れることが可能だった事実そのものが、自分の感情が薄っぺらい証拠だったのだろう。
「いちいち説明するのも骨が折れる話だったし、かと言って、いつもいつも他人に合わせて大袈裟に反応するのも面倒だったから、自分はこのままでいいんだと言い聞かせてきた。だけど、そんな考えに甘んじている自分にいい加減うんざりしてたところもあったのよ。矛盾しているようだけどさ」
「だから、あなたは」
「だから、って理由でもあるんだよ。彼の好意を受け入れてみたのは。受け入れて、そしてわたしも好意で応えられるようになりたかったんだ。そのための努力をしようって決めた。まずは形だけでもいいから、それらしく見えるだけでもいいから、そんな風にさ。そうしていく内に本当の意味で強い感情を持てるかもしれない、持てるようにしよう、持ちたいんだ――そう思ったの」
 もっとも、とアイは肩を竦める。
「一朝一夕にはいかないだろうと自分でも判っていたからね。気長につき合ってくれそうな相手として、諦めの悪い彼が好都合だった、なんて打算的な面があったことも事実ではあるけど」
 そうやって始まった二人の関係だが、つき合い始めのころはかなり危うかったのだろう、とアイは思う。特に自分自身の言動が、淡泊を通り越して冷徹なものになっていたことも一度や二度ではなかった。当時の自身はそれを当たり前のこととして考えていたが、いまなら間違っていたと言える。
「ひとりで演劇やっているような気分だったよ。自分の中にある感情を自分が感じている以上に大袈裟に、しかもごく自然に見えるように表に出す、ってのはなかなか難しくてね。いかにもそれらしく見えるように、鏡の前で練習したこともあったよ。こうやって思い返すと、つくづく馬鹿みたいな話だけど」
 自嘲の笑みを浮かべようとしたアイだったが、億劫になって表情そのものを掻き消した。唇ひとつ曲げてみせることすら煩わしい。そんな気分だった。
 重みを覚える。両の手に、腕に、肩に。その身体に。圧し掛かられているかのような重みを。
「そうやって、その馬鹿みたいな茶番を何度も何度も繰り返している内にね、彼に対して好意らしきものを持てるようになっていったんだ」
 でも、とアイは心の中で呟く。たぶん、それはらしいだけのもので、好意ではなかったのだろう。好意ではなく、もっと執着めいた別のもの。いや、執着そのものだったのかもしれない。所有しておきたい、ただそれだけの。
「少しずつだったけれど、わたしは彼のことが好きなんだと、それなりには思えるようになった。それなのに」
「ええ、それなのに彼は」
「あの人は、彼はさ、他の女にも手を出していたんだよね。あれほどしつこく言い寄ってきた癖に、何度も会いたいと繰り返して、愛していると繰り返して、わたししかいないと繰り返して、何度も何度も求めてきた癖に」
 恋人だと思っていた男が他の女を作っていると知ったとき、アイは自身の中に芽生えた感情を理解することができなかった。こみ上げてくる吐き気と頭の中を真っ白にする眩暈ばかりが鮮明だった。それは、アイがそれまでに体験してきたような怒りの感情ではなかった。悲しみでもなかった。そのどちらでもあり、それら以上の何かだったのだ。
 その時の記憶を思い起こす度に、アイは胸が焦げついているような感覚に陥る。その臭いを嗅ぎ取れたようにさえ思えてくる。
 胸中で熱く、粘りつくような物質が渦を巻き始めた。また身体が重くなる。重くなる。
 マイは笑う。
「そりゃあ、人を見る目がなかったんだよ。ご愁傷さまだね」
 ミイは呟く。
「それは、仕方がないことだったんです。避けることなんてできなかったんです」
「諦めるしかないね」
「諦めるしかありません」
「理解できることもあるけど」
「共感できるところもありますけど」
「たぶんわたしと同じだろうから」
「間違いなくわたしも同じでしょうから」
「たった一つだけだけれどね」
「ただ一つだけですけれども」
 頭を締めつけてくるような痛みに、アイの身体は強張り、その皮膚に痺れが走った。神経が引き攣りを起こし、骨が震えているような心地さえ覚えた。それでもアイは表情を変えずにいられた。変えるつもりにもなれなかった。膝の上に置いていた左手を、ただ静かに握る。
「だけどわたしは、彼のそんな行為を許すことにした。いえ、違うわね、気にしないことにしたの。彼はわたしに謝罪して、他の女とは手を切ると約束したからね。だから、それを信じようと思った」
 フェアではない、と思ったからだ。恋人が他の女に手を出している間、自身の感情が曖昧だったことをアイは認めていた。本当に好意を抱いていたのかどうか自分でも迷っていた相手が浮気をしたといって、彼だけを責めることはできなかった。そうした考えを持ったのが自分の価値感と何事にも公平であろうとする信念に由来するものだったのか、それとも後ろめたさによるものだったのか、いまでもよく判らない。
 もちろん恋人の過ちを咎め、裏切られた、騙されたと一方的に糾弾し、二人の関係を断ち切ることもできただろう。だが、それはアイにとってはただの自己保身であり、あまりに身勝手な行為だと思えてならなかった。自分に非はない、悪いのは相手の方だ、と被害者意識を剥き出しにしておけば、少なくとも楽ではある。
 ――楽だけど、ただそれだけだ。わたしが楽なだけだ。
 自己憐憫に耽溺した結果、非難を加えるなど恋人に対して取るべき態度ではない。アイはそう判断した。人間だから過ちもある。その過ちを認め、許し、信頼し続けることができないのであれば、またそうしようとさえしないのは、自身に課した努力を――心から他人を好きになろう、愛するようになろうとした努力を――無為にすることでしかなかった。自分を貶めるだけの行為でしかなかった。
 仮にも恋人同士ならば、ただ信じるだけだ。互いを認め合い、互いの経験を、感情を共有し合い、互いにそれを喜びとする。恋人同士ならば、そうした関係であるべきだ。そうした関係を育もうと勤めるべきだ。アイはそう自分に言い聞かせた。何かが軋むような気配を頭の隅で感じながらも。
 けどさ、とアイは握った左手に少しだけ力を込めた。
「それは、わたしが信じようとした言葉は、彼にとってはその場凌ぎの言い訳だったんだよね。約束を守るつもりなんて、最初からなかったんだ」
「そう……だろうね。あの人らしいよ」
 アイは思い出す。他の女とも付き合っているのかと問い質したとき、すまなそうに詫びの言葉を述べてみせた彼の顔。もう二度とそんな真似をしないと床に頭を擦りつけながら謝り続けた、彼の絞り出すかのような声。哀れとしか映らないほどに情けなく、不格好だった彼の姿。
 それが――
 嘘だったのだ。たとえそのとき、その場面では嘘ではなかったにしても、心底からあのような行動を取っていたのだとしても、それをすぐに帳消しにしてしまったのは事実だった。
「わたしもね、信頼するとは決めたけどさ、ただ黙って忘れようとは思わなかった。ただ言葉だけを鵜呑みしてすませるほど楽観的でもなかったし、信頼ってのは行動を伴ってこそのものだからね。悪いとは思ったけれど、彼のことを見張ることにしたんだ。もっとも、わたしと会うことを断ってきたとき、それもわたしの時間に余裕があるときに限って、だけどね。こうすることでわたしは、わたしに疑いの心を抱かせる要素を排除したいと思った。彼に対する信頼をより強固なものに変えたかったんだ」
 くっ、と喉が鳴る。表情筋はぴくりとも動かなかったのでそれが自分の笑い声だと気づくまでに、数秒を要した。意思とは無関係に漏れ出た笑いの意味は自身でも把握できなかったが、アイは気にしないことにした。何も思い当たらないどころか、思い当たる節が多すぎて、いちいち思考に昇らせるのも煩わしい。
 マイが言う。
「アンタが笑うのは」
 ミイも言う。
「あなたが笑いたいのは」
「自分かな?」
「あの人かな?」
「信頼という言葉を信頼したことかな?」
「本当の嘘と嘘の本当を区別できなかったことかな?」
「何であれ、救われないね」
「ええ、他人事ではないだけに、余計そう思います」
 ひとつ咳払いをして、アイは続ける。
「で、結局さ、わたしがわざわざ陰湿な真似までして判ったのは、彼の意志が弱い、弱すぎるという、面白くも何ともない事実でしかなかったのね。事実を知りたい、物事を正確に捉えたいなんて願望は人間の幸福にとっては邪魔な存在でしかない、なんて考えを持ったのはこのときが生まれて初めてだったよ。何せ、彼がまだ他の女とつき合い続けていた上に、さらに他の女に手を出していたんだからさ」
「不愉快も度が過ぎると愉快でしかないね」
「でも、いえ、だからこそ、わたしは思ったよ。これは、彼の意思のせいではない、彼だけの責任ではない、彼を唆している女がしつこくつき纏っているせいだ、ってね」
「もう笑うしかないよね」
「それで直接会いに行ったんだ。彼と関係のあった女たち皆に。そして言ってやった。もう二度と彼には近づくな、ってさ。そうしたら――」
「笑いたくもないのに」
 そうしたら、とアイは繰り返したが、声が詰まる。もう一度、喉が鳴る。左手を強く握りしめた。表情は崩れなかった。
「非難したのよ。わたしを。あの人が。余計なことはするな、って。そんなに俺を信じられないのか、って。勝手な言い草とは思うけれど、わたし自身、姑息な真似をした訳だからそう言われても仕方がない面はあるでしょうね。でも、勝手なのはお互いさま。だから、言ってやったよ。信じたいからこそ信じるだけの根拠を見つけたかった、それだけだ、ってさ。平行線だよね、完全に」
「すれ違いばかり」
「彼は言ったよ、他の女とは別れるつもりだ、別れようと努力しているんだ、ってわたしを怒鳴りつけたわ。いえ、わたしにではないかもしれない。彼自身、どうにもできないことに対して苛立って、だからこその悲鳴だったのかもしれない。もちろん、それはいま振り返ってみればの話で、そのときのわたしにはただヒステリックな叫びにしか見えなかったけどね。だから、わたしは彼の言葉に対して首を振ることしかできなかった。それだけでは信じられないと返すことしかできなかった」
「噛み合わないことばかり」
「そんなわたしに対して、彼は……あの表情を何て形容すれば良いのかな、判らない。怒っているのでも、泣いているのでもない、無表情って訳でもない、あの顔で――」
 彼の顔。引き攣ったように震える皮膚。めまぐるしく入れ替わりする感情の断片。読み取れない、感じ取れない、内面の渦。判らなかった。いまとなっても、アイには理解できない。
「言ったんだ。お前こそ信じられない、って。その冷静な態度が、落ち着き払ったままの振る舞いが信じられない。人間とは思えない、人形だ。そう、言ったんだ」
 ――ときどき、怖くなるんだ、お前のことが。不気味に思えて仕方がないんだ。
 ――泣かない、怒らない、笑顔だってほとんど見せない。
 ――見えないんだ、判らないんだ、アイの心が。
 ――形が似ているだけ、形を真似ているだけで、人間じゃあないみたいだよ。
 ――まるで人形だ。
 ――人形みたいなんだよ。
 また喉が鳴る。頭の中が重くなる。アイはゆっくりと息を吐く。握り込んだ拳を、右手でそっと包み込んだ。
「彼から面と向かってそんなことを言われたときの気分も……何と言ったらいいのか説明し難いね。抱えきれない、大きなものが胸の中でどんどん膨らんでいく、それでいて、それの吐きだし方が判らない――そんな感じだった。わたしには経験したことのない感覚だったよ。だから、ただ堪えるしかなかった。抱えておくことしかできなかった」
「理解できないことばかり」
「わたしはね、言ったよ、彼に。どうすれば互いに信用できるようになるのか、一緒に考えて欲しい、そうしたい、ってさ。でも、その言葉に彼は応じようとしなかった。ただ、言い過ぎだったと謝って、あとは自分に任せて欲しいと繰り返すだけ」
「重ならない、重ならない」
「近づこうとしても遠ざかっていくばかり。信じたくても信じられなかった。だから、わたしはせめて形が欲しいと彼に言ったよ。本当の信頼を築くための下地が欲しい、って。わたしと――結婚して欲しい、って」
 ――結婚しましょう。
 そうアイが告げたときの彼の顔は青褪めていた。それが怯えの表情であることは、すぐに見て取れた。どうして、恐れるのか、何を不安に思うことがあるのか。そうした心の動きがアイには不思議でならなかった。
 たとえ形だけでも二人が結びつけば、嫌でもそれに合わせるようになる。アイにしてみればそう考えたまでだ。形さえ整えておけば、後からでも心がついてゆく。嘘が本当になる。そう考えたからこその願いだった。
 それなのに、どうして。
「彼は呆けていたよ。絶句していた、の方がぴったりくるかな。わたしは、彼にわたしの要求を受け入れるように迫ったよ。反論も言わせなかったし、疑問の言葉を口にさせるつもりもなかった。ただ首を縦に振らせるつもりだった」
 ――あなたはわたしを愛している、そうでしょう?
 ――わたしもあなたを愛している。
 ――言葉だけでも、形だけでも、それは事実。
 ――なら、心は二の次だよ。二の次で、構わないよ。
 ――どうせ、本当のことになるんだから。
 ――そうでしょう? そう、なりたいでしょう?
 あとずさろうとする彼。首を振ろうとしても、振り切れず小刻みにその顔を震わす彼。苦しむかのような、恐れるかのような表情を浮かべる彼。それでいて逃げ出せずにいる彼。
 愛おしい、と思った。そのとき初めてアイは恋人を心から愛しく思っていると認識した。渡せない、渡さない。これは、自分のものだ。自分だけものだ。そんな風にも思えた。強く、思えた。
 アイは言う。
「そして彼は頷いたんだ。わたしと結婚するって誓ったんだ。躊躇はしたかもしれないし、渋々だったのかもしれないけれど、事実、彼はわたしの願いを受け入れた。婚約指輪も渡してくれた。だからこそ――」
「だからこそ?」
「改めて信じることができた。信じようと思うことができた。そして、信じていこうと決めたからこそ、彼が他の女たちと別れられない、別れてもらえない、なんて泣きごとをぬかしても、助けようって思えたんだ。いま、ここにいるあなたたち全員に、改めて彼と別れるよう告げてやることに決めたんだ。どんなことでも、二人で乗り越えよう、乗り越えていけるって、そう信じたんだ」
「そして? あなたは彼を信じて、それから、どうしたの? 彼は、何をしたの?」
「それなのに、ここまでわたしが協力したのに、彼は、まだ躊躇っていたんだ。まだ、わたしのことを信じようとしなかったんだ」
 拳を包む右手に力を込めた。掌に指輪が食い込んでゆく。深く、深く食い込んでゆく。
 痛みはない。
「忘れられない。今日、この部屋で集まろうって決めたときに、彼が見せたあの不安げな表情を。やっぱり止めよう、なんて言い出した彼の言葉を。わたしは、彼が、あの人が――」
 あの男が――
「憎かった。初めて、いえ、たぶん、もうずっと前から、あの男が憎くて、憎くて堪らなかった。殺してやりたいくらいに」
 絞り出す。身体の内側から、声を絞り出す。
「そう。そうだね。その通りだ。だから――」
「殺したかったんだ、わたしは。彼を、この手で。わたしの手で。だから、わたしは――」
 力を緩め右手を開く。
 指輪が喰い込んだ跡がくっきりと残る、その掌をじっと見つめた。
「彼をナイフで刺したんだ」


 八幕 マイ 決して壊れて告げ白む

「憎かった。そう、憎かったよ、あの男は。ああいう男は、大嫌いなんだ」
 一語一語を噛み締め、自らに何度も問い直しながらマイはそう口にする。そしてそれは、間違いようのない事実のはずだった。
 けれどもアイは訝しげに眉根を寄せ、ゆっくりと問い掛けてきた。 
「それは、本当?」
「当然。アンタだってそうでしょう? あんな男」
「あなたも、彼に何かされたの? ミイがされたようなことを」
 その問いかけに、マイは一瞬言葉を詰まらせる。何の心当たりもないことだったにも関わらず、即答できなかったことに釈然としないものを感じた。もどかしさとも違う、忘れ物をしてしまったかのような、居心地の悪さを。
「まあ、何もされてないよ。わたしはね。でも、時間の問題だったかな。いつかきっと、ミイと同じ目に遭ってたよ」
「どうして、そう思うの?」
「同じだからだよ」
「同じ?」
「あの男の目と、わたしの兄さんの目が」
「あなたの、兄」
「ああ、そっくりだったよ。わたしを殴るとき、兄さんの目は、いつもギラギラしてた。他人に対する思いやりなんて欠片もない、自分の欲望しか頭にない、そんな目だよ」
 そうかな、とアイは首を振る。
「わたしには判らない。彼に弱い一面があることは認めるけど、あなたにまで暴力を振るう度胸があったとも思えないよ。弱い人間は、自分と同等か、それ以下の人間にしか噛みつかない、違うかな」
「アンタこそ判ってないね。弱い奴ってのは、いや、人間なんてものは皆、いつだって他人に隙が出来る機会を窺ってるもんだよ。自分が優位に立てる瞬間ってやつをさ。親しげな顔をしながら、素直に従う振りをしながら、じっとね」
「よく、判らない」
「アンタだって、同じだよ。アンタ自身、そんなこと意識しちゃあいないかもしれないけどさ、あの男をぐうの音も出ない状況に追いやって、従わせたんだろう?」
 アイは目を細め、唇を引き結ぶ。思い当たった何かを堪えるかのように。
「アンタもいつか寝首を掻かれたかもしれないね。まあ、アンタみたいな女が隙を見せる姿なんてちょっと想像はし難いけど。いや――」
 マイは唇の端を吊り上げてみせる。
「実際のところは、もう立場は逆転していたのかな。男と女の力関係なんて、優劣の表と裏がくるくるくるくる変わって、どっちが本当に強いのか弱いのか、傍目にはそうそう判るもんじゃないからね。違うかい?」
「かも、ね。だとしても」
「うん?」
「わたしはそうだったとしても、あなたは? あなたと彼の関係は、どちらが主導権を握っていたの?」
「わたし、だったろうね。一応は。でも、さっきも言った通り、そんな力関係なんて当てにならないから、いつ立場がひっくり返ってもおかしくなかっただろうね」
「そう……なの? そういうものなの?」
「そんなもんさ。たとえばわたしはあの男がミイを殴ってたことを知ったとき、とんでもなくイラついた。ムカつき過ぎて吐き気がした」
 マイは思い出す。男の部屋から泣きながら出てきたミイの姿を。片目が塞がるほどに腫れ上がったミイの顔を。部屋の奥で、泣き笑いのような表情を浮かべて呆けている男の姿を。
「でも、そのムカつきが不安の裏返しだってことも、判っていたつもりだよ。怒りってものの根っこにあるのは恐怖だって、アンタなら判るだろう? 実際のところ、わたしは怖くて怖くて堪らなかったからね。あの男の暴力が、いつわたしに向けられるか判ったもんじゃなかったからさ」
「一度、あの人とあなたが二人でいるところを見たことがあるけど……とても怖がっているようには見えなかったよ。彼は、あなたに対してすっかり頭が上がらないように見えたけど?」
「そりゃあ、そうだよ。わたしは誰に対しても、少しでも弱味を見せないよう振舞っているから。舐められるのはムカつくからね。もちろん、あの男にだって最初からそんな態度だったし、ミイの一件を知った日からは特に徹底したよ」
「ふうん。でも、不可解だね」
「アンタには判らない……かもしれないね。アンタみたいに、頭の回路が少し飛んでる女にはさ」
「違う、わたしは」
 どっちにしろ、とマイはアイの言葉を遮った。
「どっちにしろ、わたし自身、あの男との関係が危ういものになりつつあるとは感じていたんだ。不安を抱えたまま誰かとおつき合い――なんてのは、気持ち悪いったらないからね。だからアンタが横槍入れてきたときは、ラッキーだと思ってたんだ。喜んでくそ面白くもない舞台から降りてしまおう、ってね。それなのに、アイツ、あの男、わたしと別れようとしなかったんだ。わたしを離そうとしなかったんだ」
 身体の奥から這い上がってくる寒気に、マイは腕を抱く。
「冗談じゃない、そう思ったよ。別れられないなんて。逃げられないなんて」
 と、そこでアイが淡泊な声音で、それ、と口を挟んだ。
「それだよ、わたしが不可解だって言ったのは」
「え?」
「どうしてそこまで判っていて、さっさと逃げ出さなかったの? 怯えていたのに、彼と接触し続けたの? 判らないな。あなたなら、さっさと見切りをつけることができたはず。違うかな?」
「え……それは……」
 ――あれ?
 ずれている、とマイは気づく。いま考えている自分と記憶の自分が噛み合わない。一致しない。重ならない。
 ああ、とミイが息を呑む。
「それなんですね、それがマイさんの抱えている歪みなんですね」
「そう、みたいだね」
「マイさんが見たくないマイさんの姿なんですね」
「誰でも見たくはない、自分自身の姿だね」
「何が、潜んでいるんでしょうね。わたしは見たくありません」
「同感だね」
 違和感の中、マイは無理矢理に口を開く。自分自身でも何を言いたいのか理解できないままに。それでも言わなければ、という焦燥感に駆られながら。
「それは……だって、わたしは見捨てられなかったんだよ、あの人を」
「見捨てられない? 彼を怖がっていたなんて言っておきながら、ずいぶん矛盾したことを言うんだね」
「だってさ。だって、あの男は、ほら、縋りついてくるように、わたしを見たんだよ。わたしに、泣いて頼んだんだ。あんなことされてさ、見捨てるなんて、放っておくなんてさ」
 喋りながら、マイは自分が喋っている訳ではないような、心許ない感覚に囚われる。いま言葉を発している自分と、それを考えている自分とが乖離してゆく。
 ――あれ? あれあれ?
 逸れてゆく。自分自身が逸れてゆく。
「できなかったんだ、わたしには。どうしてだろうね、笑っちゃうよ。嫌いだったのに。虫酸が走るくらいに、大嫌いだったのに」
 そんなマイの様子に、アイは僅かに目を伏せ、小さく溜息を漏らす。
「判らないよ、マイ。わたしはあなたの言っていることが判らない。あなたが判らない。いえ、それどころか、どんどん判らなくなっていくみたいだ」
「判らないって、そんなことはないはずだよ? だって、そうでしょう? アンタとわたしの気持ちは同じだ。なら、判るはずだよ。たとえ嫌いでもさ、あの哀れみを乞う目とか、そんなところまで兄さんとそっくりだったんだ。放ってなんておけないよ、無理だよ、そんなこと。わたしの気持ちとか、そんなのどうでもいいんだよ。わたし自身がどうなっても、兄さんを助けてあげなくちゃいけないんだ。わたしは、兄さんが」
 ――誰だ、これ? 誰、これ? あれ?
 マイには判らなかった。いま喋っている自分が誰なのか、判らなかった。間違いなく自分であり、自分ではない。
 離れてゆく。重なって、離れてゆく。重なりながら、離れてゆく。重なっていながら、離れている。
「だけど、こうも思ったんだ。飲みこまれるって。このままじゃ、わたしはまた同じことを繰り返すって。今度こそ、本当に逃げられなくなるって。ねえ、判るでしょ? アンタなら? わたしとアンタは同じなんだから、判るでしょう?」
「いいえ、判らない。判らないよ」
 アイはゆっくりと首を振る。まるで憂いを帯びているかのような顔で。
 マイにはその表情が苦しそうに思えた。あるいは悲しそうにも。気まずくなったので、無理に笑ってみせた。乾いたような声を上げながら。
「うん、そう、だね。そうだよね。何を言ってるんだろうね、わたしは。判る訳ないよ、うん。けど……さ、そう、今度こそちゃんとやらなくちゃって、思ったんだよ。あの男に、兄さんに捕まる前に、逃げられなくなる前に、自分で始末をつけなくちゃいけなかったんだ」
「始末? どういう意味かな、それは」
「あのね、わたしはね、兄さんから逃げるときに兄さんを殺し損ねたんだ。あれだけ殴ったのに、あれだけ叩いたのに、殺せなかったんだ」
 忘れようとしても忘れられない。兄を殴り倒した夜の出来事は、マイの脳裏に焼きついていた。いつものように、マイのベッドに忍び込もうとしてきた兄。顔に近づいてくる影が見える。影が身体に圧し掛かってくる。影の、兄の息遣いが迫ってくる。夜の間、ずっと握りしめていたハンマーの柄はすっかり汗ばんていた。兄の手が毛布を払い除ける。マイはハンマーを握り直す。強く、強く握り締める。兄の手が、マイの肩に乗る。妙に優しげで、だからこそおぞましいその手触り。マイは勢いよく起き上がり、目を瞑りながら、ハンマーを振り下ろす。肉と骨を潰す感触がマイの手に広がった。その感触を振り切るように、影に向かってハンマーを振り下ろす。悲鳴にもならない呻き声がマイの耳に届いた。その声を聞きたくなくて、兄にハンマーを振り下ろす。振り下ろす、振り下ろす、振り下ろす。
 それでもマイの兄は死ななかった。苦痛に悶え、唸り声を上げていた。マイはベッドから抜け出し、用意しておいた手荷物を引っ掴んで自分の部屋を飛び出した。自分の家から、何よりも兄から、ただ逃げ出した。当てもなく、夜の街へ。ハンマーを握り締めたまま。
「逃げ出したあとはさ、友達の家だとか、その辺で知り合った連中だとか、とにかく色んな奴らの部屋に泊めてもらったよ。たまに売りやったりして、小銭稼いだりしながらさ、それでもどうにか生きていけたんだ。なのに結局また同じことを繰り返した。逃げ出した先でまた兄さんに捕まっちゃった。だからさ、あの男をちゃんと殺せば、今度こそ逃げられる。もう二度と、兄さんに捕まらない。そう思ったんだ」
「あなたは」伏せていたその視線を真っ直ぐマイに向け直して、アイが問う。「それで逃げられると本当に思ったの?」
「もちろん。わたしがこの手で兄さんさえ殺せば、あの男さえ殺せば、それでわたしは自由だよ」
「本当に、そう思った? 兄を殺し損ねたあなたに、あの人を殺すことができたとは思えないけれど」
「何を、言ってるのさ」
「だって、そうでしょう。あなたが兄を殺し切れなかったのは、殺したくなかったからではないの?」
「違うよ、違う。それは違う」
「嘘でしょう? 本当のところ、あなたは兄を失いたくなんてなかったんでしょう? だから――」
「違う!」
 その叫びは、マイにとって自分自身の声であり、また、まったくの他人の声でもあった。そもそも、何が違うのか。兄を殺したいと思ったことか。殺したくないと思ったことか。あの男を殺したいと思ったことか。あの男を殺したくないと思ったことか。そもそも、そんなことは考えたこともないということか。
 ――わたしは、「このわたし」は、決して記憶を捻じ曲げたり、自分に都合のいい夢を見たり、事実ではない妄想を信じ込んだりはしない、極めて真っ当な人間であり、いまこの部屋にいる女たちみたいに異常ではなく、冷静に思考し、冷静に物事を判断し、冷静に行動することが可能であり、だからこそ殺人などに手を染める訳もなく、自分にもたらされる利益と不利益を測り、余計な危険を冒すことなく、より安全に、より実現可能な手段のみを用いて生き抜くことを信条とし、それ以外の不合理な言動の一切を忌み嫌う者であり、ただそれのみを貫徹することを誓った者であり、自分自身に一切の不安はなく、自分自身を疑わず、自分自身こそが全てであると宣言する者であり、わたしは、だからこそ、「このわたし」は――
「わたしは殺したかった! あんな奴! 兄さんのことなんて大嫌いだったんだ! 兄さんは、運よく生き延びただけだ!」
「そうかしら。疑わしいね」
 アイが冷たく言い放つ。その顔に浮かんでいたように見えた微かな感情らしきものは、もう欠片も残っていなかった。
「そうだよ! わたしは、わたしは兄さんにそっくりなアイツなんて大嫌いだった! 憎かった! 殺してやりたいくらいに」
「なら、殺したの? あなたが。彼を。あの人を」 
 ミイが泣き声を漏らす。
「どうしてなのかな? どうしてこんなことに」
「ウサギが死んで――」
「たとえ事実だとしても、こんな光景、わたしは見たくない……見たくないよ」
「不思議の国への穴だけ空いて――」
「誰かの心なんて、本心なんて、掘り返せば掘り返すだけ、悲しいものしか出てこない本心なんて、そんなもの、ずっと閉じ込めておけばいいのに」
「時計が壊れたままだから」
「もう、見たくない」
「壊れる前にウサギは死んでいて――」
「何も聞きたくもない」
「それでも願いだけは叶えてあげたくてね。それで――」
 マイは両手を開いて、じっと見つめる。簡単にへし折ってしまえそうな細長い指。頼りなく、決して力強さなど感じられない、ちっぽけな手。しかし、血で汚れたことのある手。人を殺そうとした手。殺すことのできる手だ。
 ――ああ、そう。そうだね。そうだった。
「殺せるんだ。わたしは。いつだって、誰だって。だから、わたしは――」
 強く手を握り、もう一度、ゆっくりと開く。
 その手をじっと見つめた。
「彼の首を切り落としたんだ」


 九幕 ミイ 告げて解かれて明かされて行き着くは純な白、空けの白、自らの白

 窓の外に目を向ける。日が傾き始めた空は相変わらず灰色の雲に覆い尽くされたままで、ミイにとっては何の慰めにもならなかった。陰鬱な空模様の下に広がる街の光景もまた、いたずらに気分を落ち込ませる要因にしかなりえない。本来あるべき色彩を影の中に沈み込ませた建物の群れの中から生きた人間の躍動を感じ取ることなどできず、まるで何もかも終わってしまった景色を見ているような錯覚に陥りかける。
 もう、いい加減終わりにしたい、とミイはカーテンを握り締める。心地よい布の手触りに僅かな安堵を覚えた。何もない平凡な日常に戻りたい。自分の部屋に帰りたい。
 ――でも。
 いま、そんなこと考えても仕方ない。ミイは自分の耳にしか届かないくらいの小さな溜息をつく。感情に流されるままにしておけば、悲観的で救いのない想念の泥沼の沈んでしまうのは目に見えている。悪い癖だ、とミイは自嘲するように――しかし、これもまた自分にしか判らない程度に――唇を歪めた。
 振り返り、マイを見つめる。
 天井を見つめる彼女の顔は、ソファの背もたれにだらしなく傾けているその身体と同様に、すっかり弛緩したものになっていた。つい先ほどまでその表情に宿っていた刺々しさはきれいさっぱりけし飛ばされ、笑みさえ浮かべている。満ち足りたような、それでいて空疎に見える笑み。そんなマイの姿は、ミイの胸を痛めつけると同時に仄かな恐れを抱かせた。マイがいま立っている境地には辿り着きたくはない。そう思った。
「マイさん、あの……大丈夫、ですか?」
「大丈夫って? わたしは見ての通り、元気だよ。死んでない。生きてるよ」
 元気元気、とやはり緩んだ笑みを浮かべたまま、マイは言う。
「なに、どうしたのさ。言いたいことがあるみたいだねミイちゃん。いいよ何かな聞いたげる、あげちゃうよ」
 声を上げて笑うマイ。ただ脳の刺激に対応して、機械的に笑っているかのようだ。
 判らない。彼女の気持ちが判らない。判らないことが恐ろしい。ミイの胸の中で恐れが膨らんでゆく。認めたくもない何かを認めたとき、人間の理性や感情はこうも粉々になってしまうものなのだろうか。
 ――それならば、アイさんは?
 ミイはふと思う。アイもまたマイと同様に、認めたくはなかったであろう自分自身に向き合い、打ちのめされていた。それでもアイは動じない。変わらない。少なくとも、その様にしか見えなかった。彼女の境地もまた尋常ではないということなのか。
 この場所はおかしい。歪んでいる。人が殺されただけでもおかしなことなのに、その死体の側でこうやって話を続けているなんて異常に過ぎる。それが判っていながら、その異常の中に身を置き続ける自分たちは――『赤黒い血を流し』――なおさらに。歪みが歪みを生み、その歪みが大きくなってゆく。人を――『苦痛に悶える彼の姿に微笑みかけながら』――おかしくしてしまう。狂わせてしまう。このまま、この部屋に留まり続ければ、自分も――『愛していると囁きながら』――間違いなく自分も、彼女たちのように。
「マイさんは……」違う、と自分の思考を断ち切って、ミイは言う。「悲しくないんですか? 彼が、死んでしまって、悲しくはないんですか?」
 そりゃあ、とマイは考えを巡らすように宙を仰ぎ見ながら、腕を組む。その挙動は、いかにも取ってつけたようにわざとらしく、ミイはうそ寒さを覚えた。
 ううん、と唸った後、目の前のマイらしき女は頷いてみせる。
「そうだね。悲しいよ。好きだった人が死んだんだもの。それは……うん、悲しいな。悲しいね。とっても」
 言われてみればそうだった、といまさらに気づいたかのような口ぶりだった。
 納得できる訳もなく、そうでしょうか、とミイは問う。
「だって、マイさんは笑っているじゃないですか。とても悲しんでいる態度には見えませんよ」
「だってさあ、嬉しくもあるからね。わたしは憎かったもの、あの男が。そう言ったでしょう?」
 平然と言ってみせるマイ。
 ――憎かった。
 これもまたアイと同じ言葉だった。それどころかアイは、ミイと同じ気持ちだと語った。あなたと同じ気持ちだった、と。
 でも、とミイは考えずにいられない。本当に同じなのだろうかという疑いを拭い切れない。アイの言葉に共感を――いや、共感と呼ぶには曖昧に過ぎる、奇妙に捻じれた重なり合いを――覚えたのは確かなことだ。しかしアイやマイと同じく、自分もまた慕っていた人物に対して憎しみの感情を抱いていたとはどうしても思えない。
 そもそも、憎んでいた実感がないのだ。いつであっても、どこであっても、許し難く思える存在、厭わしく思える存在、不快感を催さずにはいられない存在に向けて抱く思い――ミイにとってみれば、憎しみとはそうした感情だった。対象を心底から否定する意思であり、否定してやりたいと強く希うことだ。そんな感情を自分でも気づかずに抱いていたとはどうしても考えられない。
「そんなにも、憎かったんですか? 彼のことが」
「もちろん!」
 そう答えるマイの声音は不自然なほどに明るかった。そして、その顔にべったりと貼りついた笑みもまた作りものめいている。
「でも、好きだった。そうでしょう?」 
「それも、もちろん!」
「そんなこと、できるんですか? 好きなのに、憎むなんて」
「当然!」
 一際大きな声を上げ、親指を立ててみせるマイの姿に、そして何よりもその答えに、ミイは困惑を覚える。
 ますます不可解な話だった。マイは――そしてアイも――矛盾した感情を同時に抱えている。好きだったのに、嫌いだった。愛していたのに、憎んでいた。そればかりは自分と異なっている、異なっているはずだとミイは思う。
 ――いえ、違っているべきなんだ。違ってなくちゃいけないんだ。わたしとは。
 そんな思考を見透かすかのようにマイは唇を舐めながら目を細める。貼りついていただけの笑みには生々しさが宿っていた。
「どうしたのさ、その納得がいかない、って顔はさ。好きだからこそ、嫌いになる。憎むようになる。誰でもそうだろう? ミイ、アンタだって」 
 同じでしょう、とマイは甘ったるい声を上げる。わたしたちと、同じでしょう?
「いまさらさ、隠さなくていいよ。繰り返すけどさ、ミイ、わたしはアンタのことが大嫌いだよ。心の底から、大っ嫌いだ」
「マイさん……」
「でも、それはさ、同族嫌悪みたいなもんさ。アンタに似ている自分が、わたしは大嫌いだ。いいように殴られて、汚されて、嬲られて、そこまでされた癖に、それでもそんな男を愛してるなんて言ってのけるところなんて、特にそうだ。腹が立つ、なんてもんじゃない。殺したくなるよ」
「でもわたしは、本当に彼のことが好きだったんです。そんな彼を憎んだりなんて――」
「認めなよ。アンタなら、昔のわたしと似ているアンタなら、判るはずだ。判っているはずだよ。アンタは、あの男が憎かった。そうだろう?」
 囁くように、しかし、恫喝の響きを含ませながらマイが問う。ソファの肘掛けに両腕を乗せた彼女は、その身体を窓辺へと、ミイの側へと寄せてくる。斜めに吊り上がったマイの唇が艶々と濡れていた。
「大体さ、アンタはあの男の何が好きだったの? 周りのすべてに怯えながら暮らしているようなアンタが、あの男に惹かれるような理由なんてないと思うんだけど」
 囁きながら迫り寄ってくるマイの姿に、ミイは反射的にカーテンを引き寄せて身を包む。しかし、それでも、マイから目を逸らすことはできない。濡れた瞳が、薄闇の中でギラギラと光る眼が、ミイを捕らえて離さなかった。
「それは……優しかった、からですよ。だから、嬉しかったんです。ただただ嬉しかった。優しい人、わたしに、こんなわたしに初めて優しくしてくれた人でしたから」
 ――いつもいつも泣いてばかり。本当に情けない。情けない娘だよ。
 幼いころに両親から向けられた言葉がミイの頭に浮かぶ。何の間違いで生まれてきたのか、と愚痴を零す声。出来の悪い娘だとなじる声。その態度が苛々すると殴られた。明るくて活発で、何事につけても要領の良かった二つ年上の姉からも常に見下され、馬鹿にされた。
 嫌われたり、疎まれたり、そんなことばかりだった。
 だからこそ、ミイは自分はそうすまいと心に決めた。人を憎むようなことはすまいと。否定するようなことだけはしてはいけないと。自分だけで十分だと思ったからだ。
 けれども、ミイが誰かに受け入れてはもらうことはなかった。誰も手を差し伸べることはなかった。それどころか、ミイが何を言われてもほとんど言い返さず、抵抗らしい抵抗もしないことに目をつけて、嘲笑の的にするばかりだった。小学生のころも、中学生のころも、高校に入ってからも、ずっとその繰り返しだった。
「不満がなかった訳ではないです。寂しかったし、悔しいと思うことも何度もありました。でも、それで周りの人を恨むのも筋違いだと思っていましたから、わたしは我慢しました」
 どうして自分の生い立ちを語っているのか。ミイは喋りながら疑問に思った。マイがその顔から笑みを消し、口も挟まずに黙って耳を傾けているせいなのか。それとも、彼女の視線――まるで、もっと話してみろと言わんばかりの強い眼差しのせいなのか。
「ふうん。で、そんな中でアンタはあの男に出会った訳なんだ。なるほどね」
 マイの言葉に、ミイは微笑みながら頷く。
「そうです。バイト先の喫茶店で、いつもみたいに失敗したわたしに声を掛けてくれたんです。それから少しずつ話をするようになって、二人だけで出かけたりするようになって、それで……」
「で、その優しい優しい男がアンタを殴った訳か。ふん。それで、アンタは、何を思った? 殴られて、裏切られて、どう思った?」
「痛かった、です。最初はどうして、こんなことをって、そう思いました。何かの間違いだと」 
「あいつもアンタを憎んでた、そう思わなかったの?」
「本当は、嫌われているのかもしれないって、そう思いました。だって、こんなわたしですから。嫌われても仕方がないって。でも、あの人はそれでも、わたしと別れたくないって言ったんです。わたしが必要だと言ったんです」
 殴りながら、愛していると。殴り終えたあとも、自分を抱きしめて、泣きながら、愛していると。
「本当にわたしが嫌いなら、憎いなら、そんなこと言うはずがありません。何度もわたしと会うこともなかったはずです」
 そう。ただ事実にだけ目を向ければ、自分が憎まれていた訳がないのだ。憎んでいるのに離れないなど、そんな矛盾したことなどできるはずがないのだ。憎んでいるのなら、離れてゆくものなのだ。
 かつて、両親がそうだったように。姉のように。クラスメイトの皆のように。
 マイが肩を竦める。
「どうかな。人はさ、執着があるからこそ憎むんだ。無関心なものを嫌ったりはしないだろう? 少なくとも、わたしはそうだった。執着していたからこそ、わたしを軽んじるあいつが憎かった。アンタだって、そうでしょう?」
 自嘲気味に語るマイの言葉に、その表情に、ミイはやはり大きな隔たりしか覚えなかった。
 愛しながら憎む。それは一緒にいたいと願いながら、消し去ってやりたいと願うことだ。
 違う、とミイは思う。自分とは違う。彼だって違ったはずだ。確かに、彼はミイを殴った。でも、それは憎しみがあったからではない。そうでなければ、ミイと別れなかったという厳然たる事実と重ならない。離れずいられたのは、愛があったからなのだ。
 ――だから。
 ミイはきっぱりと言う。
「違いますよ、それ」
「違う? 何が違うって言うのさ」
 哀れだ、とミイは考え、泣きたくなった。この人は、この人たちは、あまりに哀れだ。
 自分が求めていたものが手に入らなくて駄々をこねていた。それだけなのに憎んでしまった。いや、憎んでいると思いこんでしまった。本当は求めていた癖に。
「ええ、勘違いです。マイさん、貴女たちが抱えているのは憎しみなんかじゃありません。それは違います。たぶん、それはわたしと同じです。ただ、愛していたんですよ、彼のことを」
 判っていたはずなのに、判らない。愛していると気づかない。憎んでいると思い込む。
 ――悲し過ぎる。本当に。悲し過ぎる。
「あなたたちは、ただ気づけないでいるだけです。それで、色々と見失っているんです。でも、わたしは違う。違います。彼が、わたしを愛していたことをわたしは知っていた。いまだってそう思っている」
 そして、とミイは言う。
「そしてわたしも彼を愛していました。愛には愛を返したい。そう思っていたんですよ」
 ――愛されたい。愛したい。ただ、それだけ。
 アイが小さく呟いた。
「違った、のかな。ミイと、わたしたちとは」
「そう、違うね。彼を好きだった気持ちは同じ。でも――」
「彼を、憎んでいた訳じゃなかったんだね」
「彼を愛しているという、その意味が違うんだよ」
 ひとり納得したように言い切ってみせたミイに訝しげな眼差しを向けながら、マイは問う。
「あの男は嘘をついていたのに?」
「彼は嘘なんてついていませんでしたよ。迷ってはいても、悩んではいても、騙そうなんて気はなかったはずです。少なくとも、わたしを騙そうなんてつもりはなかったんです。彼のことを愛して、自分のことを疑ったりしなければ、判りますよ。わたしと同じように、彼のことを愛していたあなたたちになら、きっと」
「なら、あの男が振るっていた暴力は?」
「暴力なんて、彼は振るってませんよ。判ったんです。あれは、そんなものじゃないんです」
「まさかあれが愛情の表れだったと、そう言うの? アンタは」
「そうですよ。そうに決まってるじゃないですか」 
 彼は言った。愛していると言った。
 ミイを殴ったあと、泣きながら、悔みながら、愛していると繰り返してくれた。痛かっただろう、辛かっただろう、と優しく囁いてくれた。
 ミイが苦痛を訴えたとき、非難めいた表情を浮かべたとき、そんな顔はやめろとまた怒り出すことはあっても、最後には謝りながら愛していると抱き締めてくれた。彼が激しい怒りや、憎しみだけに囚われていたのなら、ミイの元からとっくに去っていたはずなのに、決してミイから離れたりはしなかった。
 愛があったからだ。彼が、愛してくれていたからだ。
 お互いが痛みを伴う、力強くもあり、厳しくもある愛情表現によって。
 マイの表情が複雑に歪んだ。信じられないものを見ような目つきだった。まるで何かを恐れているかのようでもあり、ミイにはそれが不思議で堪らなかった。
「わたしは、返したいと思っていただけです。同じだけの愛を」
「同じ?」
「ええ。わたしも、彼と同じように、彼を愛してあげたいって」
 同じように。
 そのままに。
 そして、きっと、それ以上に。
 その言葉に、マイは息を呑む。しばらく黙ったままミイを見つめ、その場に固まっていた。やがてその顔が、ぴくぴくと引き攣り始め、マイは笑い出す。
 大声で笑った。
「ああ、そうなんだ、ミイ。やっと判ったよ。アンタがやりたかったこと。同じ、同じね! アンタがされたことを、そっくりそのまま、あの男に! あの男を同じ目に遭わせてやりたかった――いや、同じように愛したかった、ただ、それだけだなんてね!」
 アイが深く吐息を漏らす。
「そう、こんな愛し方もあるのね」
「愛する、ってことは、いつだって一方的だからね」
「それが報われてなくても、愛だと信じられるのね」
「もちろん、愛されていると考えることだっていつも一方的だしね」
「でも。そうだとしても。わたしたちとは異なるミイの愛し方でも――」
「だから、わたしも一方的に――」
「彼を殺すことは可能だね。ああ、でも――」
「彼を愛して――」
「それなら、やっぱりわたしたちと同じだね」
「彼を憎んで――」
「だって、憎しみを伴った愛情から生まれる殺意は」
「彼を殺して――」
「純粋に、より愛したいと願った末に生まれるものだもの」
「首を切って、もう二度と彼の顔を見たくないと思った。だから――」
 傑作だよ、と声を張り上げて、マイは笑い続けていた。
 ミイにはそれが泣いているように思えた。哀れだ。本当に可哀想な人だ、とミイは首を振る。
「ええ。わたしは、彼を愛していましたから。とてもとても。だから、わたしは、彼と同じように彼のことを愛してあげたかった。いえ、彼以上の愛を」
 彼以上に強く。
 彼以上に激しく。
 彼以上に力を込めて。
 彼を殴ってやりたかった。痛みを与えてあげたかった。愛していると言いながら。愛していると泣きながら。そこまでしても相手を憎むことなく、愛し続けることのできる自分になりたかった。
 自分の行為を悔みながらも。
 自分の行為に脅えながらも。
 愛する人が浮かべる非難も、恐怖も、怒りも、悲しみも、すべて受け止めて。愛する人が感じるであろう痛みも、すべて我がことのように受け止めて。
 それでも。
 愛している、と言ってあげたかった。
 それは彼への憎しみではない。愛だ。
 愛そのものだ。
 ――わたしは、彼を憎んでなんかいなかった。
 愛していたのだ。心から。 
 ミイは自分の手をそっと開き、見つめた。
 とても小さく、頼りのない手だけれど。
 それでも、力強く。
「抱き締めて上げたかったの。いつの日か、きっと。そう思っていたの。だから、わたしは――」
 両腕を上げ、前方の、何もない空間に差し出た。
 抱き締める相手を求めてさ迷う、その手をじっと見つめた。
「彼の首を捨ててきたんだ」


 暗転終幕

 細かい雨がさらさらと窓を打つ。その音が、すでに暗がりの中に沈んでいた部屋の中に静かに染み渡ってゆく。
 誰も喋ろうとはしなかった。動こうともしなかった。その気配も、息遣いさえも、徐々に徐々に強まってゆく雨音に掻き消されていた。
 部屋の暗がりもまた、その濃さを深めてゆく。
 影が深まる。雨が降る。
 遠くの空で風が鳴る。雨が降る。
 近くの街音が空しく響く。雨が降る。
 そうして、気だるげな停滞が続いたものの、やがてぼんやりとした人影が揺れ動き、部屋の中のまどろんだ空気をざわめかせた。そして、その影から小さな溜息が漏れ出る。
「あなたが、刺したんだね。ナイフを」
 影が発したのは女の声だった。張りのない、物憂げな声音。ただの独白であるようでも、また確認を求める問いかけのようでもあった。
 だから、それに応じた。同じように、独り言のようにして。
「そうだよ」
 ゆっくりと間を取り、落ち着いた声音に聞こえるよう努めながら、そう返した。その言葉に、また小さく溜息が漏れる。
 しばらく沈黙が流れ、また声が上がった。
「そして、切り落としたんだね。首を」
 もう一度、答える。
 やはり、ゆっくりと。落ち着いた声で。
「そう。その通り」
 その答えに、苛立たしげな呻き声が上がり、すぐさま舌打ちする音が響いた。
 またしても沈黙が流れたのち、声がする。
「あなたが殺したんですね。彼を」
 今度は、少し笑う。ようやく気づいたのかという呆れと、ようやく気づいてもらえたという嬉しさの混じった笑いだった。
「そう、わたしよ。わたしが殺したの」
 わたしが、彼を、殺したの。
 一語一語を強調しながら、そう繰り返した。
 ひゅう、と息を呑む音が上がり、部屋の空気が張り詰めたものへと変わる。声が上がることなく、雨の音だけが絶え間なく響き続ける。しかし、その無言が訴えっているものは明白だ。
 問うていた。
 なぜなのか、と。なぜ、彼を殺したのか、と。
「どうしてなのか、どうして彼を殺さなくちゃいけなかったのか。殺してしまったのか。理由、理由は――そうだね、説明するのが難しい、かな。ごまかしている訳じゃないよ。違う、そうじゃない。思い当たることはたくさんあって、そのどれもが正解であるようにも思えるし、そのどれもが間違っているようにも思えるからなの。そう、だね、たとえば――」
 と、言葉を切って、少し間を置いた。部屋の様子にも、この話を聞いている者たちの様子にも変化はなかった。ただ、暗がりと雨の音があるばかりだ。
 たとえば、と話を続けた。
「彼を憎んでいたから、というのは間違いではない。そう、わたしは彼が憎かった。他の女に手を出す彼のことが憎くて堪らなかった。だから、殺した。そう言い切ってしまうこともできるけど――理由はそれだけじゃない。それだけでは彼を殺した理由になっていない。だって、わたしは彼のことが好きだった、愛していた。だから、誰にも渡したくなくて、あなたたちの誰かに奪われる前に殺してしまった、と言うこともできるのね。そう、この説明もまた、わたしには正解。『憎いから殺した』という理由と『愛しているから殺した』という理由の、どちらもね。あるいは、こうも言えるよ。つまり、以前から殺そうと思っていた末に起こした計画的犯行だったとも、その逆に、殺してやろうだとか考える前に勝手に身体が動いて殺しちゃった、なんて言い方もできる。彼の一挙手一投足に我慢ができなくなったからでもあるし、彼の性格的、身体的な一部分が無性に許せなくなったからでもある。彼の持ち物、金品を奪いたかったから、なんて即物的な理由も追加できるし、あまり認めたくはないけれど、彼が死体になってくれたら、その身体のすべてをわたしのものにできるかもしれない、って願望も皆無だったとは言えないね。もちろん、他にもまだあるよ。彼とは関係のない、わたし個人の理由が」
 ここで暗がりの中から声が問う。
「あなたの、理由?」  
「そう、わたしの理由。たとえば、単純に疲れたから、だね。彼のことだけじゃない、色々なことにね、嫌気が差して面倒になって、それで殺した。邪魔なものをひとつ取り除けてやろうって、軽い気持ちでね。あるいは、人生に立ち塞がる大きな障害を打ち壊すつもりで。そして、またこうも言える、虫の居所が悪くて苛々していたからとか、気分がすぐれなくてその八つ当たりをしたとか、あまりにも精神的に辛くて前後不覚に陥ってしまったとか、そんな風に。太陽が眩しかったからだとしても、今日が曇りだったからとしても、風が吹いてきたからとしても、わたしがいまこうしてこの時代に生まれ、この国のこの場所でこうやって彼に出会い、そして彼を殺すことが運命だったから、としてもそれが間違いだとは誰にも言わせない。誰でもいいから人を殺してみたいという身勝手な理由からだったし、どこまでやったら人が死ぬのか実験してみたいという探究心からだったし、他人の命を好きなように弄んでみたいという征服欲からだったし、地球環境のために一人くらい人間を処分しておくべきと考えたから、なんて理由も少なからずあったと言えるよ。他にも理由を挙げるとすれば……そう、あなたたち。あなたたちだね」
 暗がりの中から、非難めいた声が上がった。
「はあ? わたしたち? わたしたちのせいだってこと?」
「それはそうだよ。あなたたちの存在があったからこそ、彼を殺そうと思ったんだから。あなたたちとわたしの関係性もまた理由の一つだったなんてことは、わざわざわたしが口にするまでもないことでしょ? それを認めるのは難しいかもだけどさ……ともかく、わたしから彼を奪おうとしたあなたたちが憎くて、その当てつけに彼を殺したの。あなたたちと彼を奪い合うその行為が不毛に思えたから、その元凶である彼を殺したの。とにかくあなたたちの何もかも気に入らなくて、あなたたちが悔しがって、困惑して、混乱して、怒って、たくさん嫌な気持ちになってもらいたかったからあなたたちが大事にしている彼を殺したの。そしてね、憎くて嫌いではあったけれど、わたしはあなたたちに同情もしていたし、共感もしていたから彼を殺した、なんて理由もあるんだ。まあ半分以上、わたしの主観が混じってはいるから、言い訳じみて聞こえるかもしれないけれど、あえてあなたたちと彼の関係が理由だ、とでも言っておくよ。例えれば、そうだね、決して分割できない一人の人間を奪い合うあなたたちがあまりに不憫だったから、その原因である彼を殺したの。ただ一人の男に弄ばれているあなたたちが可哀そうだったから、彼を殺したの。あなたたちが彼を憎んでいるようだったから、彼の死を願っているようだったから、彼を殺したがっていたから、代わりに彼を殺したの。わたしは、あなたたちのために、彼を殺したの。あなたたちがわたしと同じ気持ちでいるということに共感を覚え、喜びを覚え、そのことから使命感を覚えて彼を殺したの。やっぱり、言い訳っぽいかな? でも、わたしが彼を殺した理由を正確に述べようとすると、こういった無責任な――他人に責任転嫁してるような一面が皆無だったとは言い切れないからね。だからその辺りをもっと膨らませて、他の色々な人間にまで理由を伸ばす――わたしの親が、わたしの受けてきた教育が、わたしの周囲にいた人間が、あなたたちの周囲が、彼の周囲が、わたしたちの生きるこの社会が、この国が、歴史が、さらにいえば人間全部の歴史そのものがわたしが彼を殺した理由の一因子である、なんてことも言えそうだけれど……どうかな? 考えれば考えるほど山のように理由がある、と思わないかな? うん、でもあんまりどこまでも掘り進めると際限がないし、どんどん本質から離れていくだけから、そうだね、本当に決定的な理由を挙げるとすれば彼、なのかな。彼自身が理由だね」
 悲鳴のような喘ぎ声が、ひとつ。また暗がりから漏れ落ちた。
「彼自身? 彼自身が、彼を殺した理由なんですか?」
「そう。それはわたしの中にもともとあった殺意だとか、あなたたちの事情だとか、要するに彼以外の人間とは関係なく、彼自身が望んでいたから、わたしは彼を殺した。つまりね、これ以上惨めになる前にこの世から消えてしまいたいと彼が願っていたんだよ。自己嫌悪を重ね続けるくらいなら死んでしまいたい、と。終わらない不安に押し潰されるくらいなら誰かに殺して欲しい、と。そんなことをね、彼はわたしに話してくれたんだ。で、彼は頼んだの。わたしに。殺して欲しい、って。わたしに、殺してくれって、頼んできたの。自分という存在の全てを、その決着を、任せてくれたの。わたしに。この、わたしに」
 そこで話を止めて、息を吐く。口にした言葉は、ただ暗がりの中に飲み込まれていった。
 応じる声も気配もなく、その代わりに浮かび上がってくるのは、記憶の中に刻まれた声、自分が殺したあの男の声だ。
 声は言う。殺してくれ、と。終わらせてくれ、と。絶望に満ちた、惨めな声で。尊厳の欠片もない、哀れな声で。
 自然と口元に笑みが浮かぶ。そして、これもまた自然に「わたしはね」と言葉を継ぎ、話の続きを始めた。 
「わたしは、そんな彼の言葉を聞いたとき、わたし自身の気持ちだとか色んな事情なんかとは別に、ただ純粋に彼に応えてあげたいと思った。だって彼がわたしを頼ってくれた、という事実が嬉しかったから。どう考えても無茶な願いを、あえてわたしに託してくれた事実が。そして、なによりもわたしだけ――わたしだけに、ってところが。その気持ちを表すとしたら……喜び? 使命感? どちらでもある……ああ、そう、誇り、だ。誇らしく思えたんだ。誇らしさから、殺したんだ。わたしは誇りで胸をいっぱいにして、彼を殺したの」
 その時の高揚感が胸中に蘇る。記憶の中にも、そしていまこの瞬間にも、自分自身の行動を支えた誇りは間違いなく残ったままだ。
「それだけ?」そう問う声が暗がりからかけられる。「それだけなの? 彼に殺してくれと頼まれたあなたが思ったことは?」
 まさかね、と即答した。皮肉めいた笑みで唇を歪ませながら。
「違うよ。わたしはそこまでおめでたくなんかない。本当は、彼の一方的なお願いを聞いて喜んで、それでお終いにはできなかった。彼の身勝手さに腹を立てずにいられなかったんだ。好き放題しておいて、切羽詰まったら死にたいと言って逃げたがる。もうだめだと泣いて、八つ当たり気味に殺せと叫ぶ。それも、たとえ本心からではなかったにせよ、愛しているとか離れないなんて言葉をかけて、仮にも恋人扱いしていた相手に対して。最低最悪だね。どこまでもわたしのことを舐めきった態度だよ。頭にきた。心底から怒りを覚えた。だから、でもあったかな。わたしは、ふざけたことをぬかした彼を――あの男を、殺してやったんだ」
 胸の中には黒々とした不快感がべったりとへばりついている。裏切られた屈辱も、絶望的な怒りも、ひとりの人間を完全に否定する行為にまで及んだにも関わらず、消し去ることができないままだ。
「それで?」とまた声。「それだけなの? あの男に殺せと言われて、嬉しくて、悔しくて、それだけで殺したっての?」
 その問いかけに首を振る。その目に涙を浮かべながら。
「まだ、ある。まだあるんだよ。わたしは、泣きたかったんだ。誇らしさに感極まっていたからでも、腹が立って悔しかったらでもあるけど、目の前の彼が、さ。あまりに弱々しくて、情けなくてね、失望した。ねえ、少しは判ってくれるでしょ? 自分の恋人が、体面を保つことを捨て去って縋りついてきた時の気持ちが。好きになった相手が、惨めさを剥き出しにして泣きついてきた時の気持ちが。目の前にいた彼と、わたしの中の彼が、まったく重ならなくなった時の気持ちが。本当に、泣きたくなったよ。彼の、哀れ過ぎるあの姿を見ていられなかった。見ていちゃいけないと思った。あんな惨めな彼は生きていちゃいけないって思った。死んでしまった方が、彼のためだと思った。死にたがっている彼を殺してあげるのが、わたしができるせめてもの優しさだと思ったんだ。だからわたしは、悲しくて空しくて、自分まで惨めになった気がして、泣きながら彼を殺したんだ」
「そうですか」と声が言う。「あなたは、彼の最後の望みに対してそれだけの感情を抱いて、それで彼を殺そうと思ったんですね。でも、だからって、あなたは――」
 残念だけれど、と深く息を吐く。感情の抜け落ちた顔で、暗がりの只中を見つめながら。
「まだ終わりじゃない。彼を殺した理由は、もうひとつ。それはね、衝動だよ。暴力衝動。わたしはね、わたしより格下の存在になった彼に対して優越感を覚えたんだ。傲慢さも自信も失くしてすっかり小さくなった彼を、わたしが支配できるって思うと、笑いさえ込み上げてきたくらいでね――ただ都合よく扱われてたことの方が多かったわたしが、彼に仕返ししてやれる立場になれたってのはさ、わたしをたまらなくいい気分にさせてくれたよ。それでね、彼はもう弱り切ってるんだからなにをしたって構わない、殺してくれと向こうから頼んできたんだからわたしはなにも悪くない、負い目を感じる必要なんてないんだから、この状況を有効に活かして自分の素直な心に従えばいいんだ――って、そんな風に考えたんだ。だからわたしはね、命を奪うことを面白がって、好き勝手な暴力を振るう楽しみに浸りたくて、彼を殺したんだ」
 そして言葉を止め、息を止めた。
 部屋の中からは薄明かりさえ消え去り、暗がりが目の前に広がっていた。べったりとまとわりつく黒い影が、頭の奥から立ち上る記憶が、湧き上がってくる感情の渦が、暗闇の中で混ざり合いながらその重みを増してゆくようだった。
 恐怖を感じてなかった。
 後悔を覚えてなかった。
 罪の意識などなかった。
 ただ行為があり、ただ感情が浮かび、ただ認識があった。迷いなどなく、正しいと思った通りのことを、間違いを犯さずに遂行した。それが事実だ。
 それなのに、重い。
 身も心も重くなり、このまま暗闇の中に沈んでいってしまいそうな感覚に囚われる。
 息を吐く。息を吸う。重みを感じたまま。
 そして、もう一度、話し始める。沈み込みながら。
「つまりわたしは、彼に殺してくれと頼まれたから殺したの。殺してくれと頼まれたことで、喜怒哀楽を覚えて殺したの。どうかな? これがぜんぶ、わたしが彼を殺した理由だよ。ざっと挙げてみたけれど、わたしから提示できるのはこんなものだと思う。なぜ、わたしは彼を殺したのか――端的に言えば、わたしのせいであり、あなたたちのせいであり、彼のせい。こうしてみると、わたしたち全員のせいであるとも言えるね。わたしたち全員が、彼を殺した理由そのものだよ」
 なるほどそう考えることも間違いとは言えない、とひとり合点していると、暗がりから不満げな声が上がった。
「ひどい詭弁ね。自分を正当化するための言い訳に聞こえるよ」
「そうかな。わたしは事実をごまかしているつもりはないけど。自分が意識した感情や記憶の中から彼を殺した動機と言えるものを嘘偽りなく述べようとしたら、山ほど理由が出てきたという、それだけのことだよ。それにわたしは、まだ自分の行動について自分自身の評価を述べたつもりはないから、言い訳もなにもあったものじゃないでしょ?」
 そういって、暗闇の中――誰の目にも映らないだろうと知りつつ――肩を竦めてみせたところで、心底からうんざりしたような舌打ちが響いた。
「その理屈、聞いてるだけで苛々するよ。それに、その態度も。まるっきり他人事じゃないの。自分のことなのにさ」
「そんな風に反感買うのは、まあ、仕方がないだろうね。自分の行動について客観的に話そうと努めたら、他人事のような言い方になるのは避けきれないから。もちろん、だからといって、わたしの話したことが本当に客観的であると言い張るつもりはないよ。わたしがわたしのことについて話す以上、どうしたって主観が混じる点を否定はしない。あなたたちには、わたしが自分に都合の良いことばかりを喋っているように見えることも理解する。けれどもね、わたしの行動について、わたしが評価を下すとしたら――わたしは正しいことをした、と思うよ。少なくとも間違った行動は取ってない。袋小路に陥った状況を解決するために最も効果的で、最も合理的で、最も必然性のある行為としての殺人だったと、わたしは思ってる。そう、信じてる」
 信じているんだよ、と繰り返す。暗闇の中に向けて、暗闇そのものに向けて、暗闇そのもののように、頷きながら。
 束の間、引き攣ったような沈黙が流れ、やがて暗がりの奥から返ってきたのは弱々しく、それでいて明らかに非難を滲ませた声だった。
「やっぱり……言い訳じゃないですか。どれだけ、もっともらしいこと話したって。どれだけ、理屈を並べ立てたって。それはただ、あなたが自分に都合よくなるように話しているだけ。あなたの話をしているだけです。あなただけの話です。殺す理由? それがなんだっていうんです? そんなものがいくつあったって、理由になんてなりませんよ。だって、あなたにだってあったはずですから。彼を殺す理由と同じくらいに、彼を殺さない理由が。殺さない選択をすることだって、間違いなくできたはずなんですから」
「そう、だね。殺さない理由に、殺さない選択。どちらも否定できないね。彼を失いたくない、彼を愛している、彼を傷つけることそのものが苦痛だ――なんて感情的なものから、そもそも殺人は悪である、命を脅かす行為はなんであれ禁じられたものである、禁じられ行動は取ることは許されない――といったわたし個人に蓄積された社会性だとか、法を背いた場合に課せられるペナルティや実際に命を奪う行為そのものに抱く忌避感情なんていう結果に対する恐怖心だとか――とにかく、ええ、彼を殺さない理由ならわたしはたくさん持っていた」
 そう語りながら、ゆっくりと目を閉じた。感じ取る世界にはなんの変化もなかった。明暗の境は既になく、ただ暗闇から暗闇へ。
 溶けている、と実感できた。この空間に、この場所に、この部屋に。沈みながら、溶けている。
 増してゆく重苦しさに奇妙な心地良さを覚えながら、話を続けた。
「殺さない選択にしてもそう。そちらを選ぶこともできた。殺人を回避できない絶対的な事情があった訳ではないからね。なにもかも終わってしまったからこそ、いえることなのかもしれないけど……どこかで避けられたはず、どこかで思い留まれたはず、なんて、自分でもそう思うよ」
 そう述べた直後に声が上がる。外側も内側も曖昧になった、暗がりから。
「ずいぶんと身勝手だね。そこまで判っていて、自分の行為を正当化するなんて」
「殺したくないと思いながら殺した、殺さないこともできたのに殺した。くだらない。そんなのは、ただしくじっただけじゃないのさ」
「図々しいと思います。間違った癖に正しかった、なんて言い分は」
 変わらなかった。方々から届く声に対して、心が揺らぐことはなかった。再び目を開いても、暗闇があるだけだった。微かに漂う死の臭いも、心身が溶けているような感覚も。変化はない。もちろん、過去に起こったことも。過去を見つめる、いまこの時の心境も。
「それでも、わたしは」語気を強めて口にした。「たとえ、どれだけ殺人を犯さない理由があっても、殺人に至らない機会があっても、わたしは彼を殺したんだ。それは、わたしが選択を誤った結果の行為ではない。わたしが、激情に飲まれつつも理性的に、衝動的でいて計画的に、混乱に陥りながらも沈着冷静に彼の命を奪ったのは、確固たる理由があったからだよ。殺すべき理由、殺したい理由、殺せる理由――彼を殺さない理由より多くの殺す理由があったというそれだけなんだよ」
 ねえ、と声を上げて笑ってみせた。
「逆に訊いてみたいよ。彼を殺す理由がこれだけ沢山あって、どうして殺さないの? 殺さない理由よりも、殺す理由の方が上回っているのに、どうして? 殺さない選択をするのが馬鹿馬鹿しいくらいに、殺す動機も殺す機会もタイミング良く揃ったのに行動しないなんて、その方が訳が分からないよ」
 それは、と戸惑う声。
「理由、理由、理由。理由がすべて。ひとつひとつがどれほど小さくても、そのすべてが集まったら、それはもう必然なんだよ。あなたは、あなたたちは、彼を殺したくないってどれだけ強く願っていたの? それは彼を殺したいと望む気持ちより強かった? どんなことをしてでも、彼を死なせない、なんて強く強く望んでいた?」
 いいえ、と首を振る。問うもまでもないことだった。答えを聞くまでもなく、判り切っていることだった。
 そして当然のように暗がりから反論の言葉は返ってこない。
「違うよね。だって、殺したいと思っていたんだから。彼に、あの男に、この手で報いを受けさせてやりたいと思っていたんだから」
 答える声はなく、発した言葉がただ真っ黒な空間に染み込んでゆく。
 黙り込む部屋の外、雨音は先ほどよりも勢いを増して強まっていた。雨粒の群れが、屋根を叩き、窓を叩き、地面を叩き、絶え間なく滴り落ちてくる。街の音は掻き消され、街そのものが遠ざかってしまったかのようだった。
 ひとつ大きく息を吸い込み、そしてまた語りかけた。
 目の前を塗り潰す黒色に。目の前を覆い尽くす影の幕に。目の前にぽっかりと開いた暗い穴に。
「殺したかったでしょう? 彼のことを。なぜなら――」
 そこで言葉を止めた。
 躊躇うような間の後、やがて続きを引き取るかのように声がいう。
「彼を、許せなかったから。とても、許すことができなくなったから」
「そう、許せなかった。そして――」
「あの男が、憎かったから。憎くて堪らなくなったから」
「憎み切れないほどに、ね。でも――」
「愛していたから。なにもかもすべて共有できるほど、重なり合いたかったから」
「その通り。まったく同じ痛みを味わって欲しかったから。それ故に――」
 目の前の暗さに反するかのように、頭の中が真っ白になってゆく。
 心が軽くなった訳ではない。それどころか重苦しさが続くばかりだ。
 心の中に留まっていた感情を口にしていた。心の中を晒す言葉を発していた。心の中を空っぽにするつもりで声を上げていた。
 憂さ晴らしができたような爽快感はあった。肩の荷が下りたような解放感や、開き直ったことで得られた充実感のようなものも、確かにあった。ただ、それらは感じ取った瞬間に圧し掛かる重さに掻き消され、すでに曖昧になった余韻らしきものが残るのみだ。
 そこで気づく。ああ、そうだったのかと。
 圧し掛かるこの負荷、この重さが、苦しかった。それと同時に心地良さも覚えた。
 これは苦しみだ。心と身体を満たす苦しみだ。失ってしまった部分を、消してしまった感情を、否定してしまった事実を、殺してしまった過去を埋める苦しみだ。
 あらゆる空っぽを埋めて、満たしてくれる、あの男の代わりだった。
「それ故に、彼を殺したいと思った。彼を殺したかったから、殺した」
 そう口にして、俯いた。軽く目を閉じると、瞼の裏が真っ白に瞬いて僅かに意識が遠のいた。
 圧し掛かる重苦しさは、罪悪感とは違うものだった。後悔でもない。恐怖でもない。納得して行動した結果としての事実があり、その事実が意味もなく膨れ上がっているだけだ。
 殺したという事実が。
 彼を殺したという事実が。
 この手で殺したという事実が。
 そう、と頷いて顔を上げる。
「ナイフでね、刺したんだよ。彼のことを。あれはまだ彼に刺さったままだから、知ってるでしょう? こうやって――」いいながら両手でナイフを握るような真似をして、そのまま腕を押し出してみせた。「ナイフをぐっと彼の胸に押し込んだんだ。そうしたら、彼が呻き声を上げてね。すごく痛そうな顔、辛そうな表情だった。そしてね、わたしの顔を食い入るように見つめてきたんだ。まるで――」
 記憶の中にある男の顔を思い返し、身体がぴくりと痙攣したような震えを起こす。それは一瞬だけ通り過ぎただけではあったものの、後味の悪い、不快な感覚だった。
 まるで、と気を取り直して話を進めた。
「わたしを睨むように目を見開いてね。非難がましい目だったよ。で、彼は両手でわたしの肩を掴んできた。そのうち、どんどんと力を込めてきてさ、終いには握り潰されるんじゃないかって思ったけど、わたしもそのとき必死だったからね、こっちも力一杯ナイフを押しつけてやったんだ。だいたい自分で殺してくれって頼んできた癖に、恨みがましい顔をしてみたり、抵抗するような真似をしてみせたり、勝手な話だよ。そうは思わない?」
 男の目。睨みつけてくる、あの目。苦痛に歪ませた顔に浮かぶ怒りの色。痛みを受けた人間が抱く、本能的な怒り。死の恐怖を遠ざけるために備わった反射的な怒り。
 浅はかな怒りだ。その人間の価値観や、生きてきた間に得た経験や知識に基づくことのない、ちっぽけな怒りだった。そんなものは子供の癇癪よりも程度が低い。
 嘲りの感情が沸き起こり、自然と口元を歪ませた。
 すると暗がりから、同じように嘲笑的な声。
「身勝手な男だったからね。そして最後まで意気地のない男。自業自得ね」
「そんな風にさ、見当違いに怒ってみせながらさ――泣いてたんだよね、彼。刺された痛みに耐えれなくて泣いていたのもあったんだろうけど、人が裏切られた時に見せるような……そう、傷ついた表情だったよ、あれは。絶望しているみたいに、哀れみを請うみたいに、ただただ惨めを晒すみたいに、目に涙を浮かべてたんだ。最後の時くらい毅然とした態度をとることもできないんだから、情けないよ。本当に。ねえ?」
 男の目。涙を浮かべたあの目。信頼を打ち砕かれて、青ざめた表情。現実を受け止めきれずに、途方に暮れた顔。身体の傷の痛み、心の痛みに耐え切れずに流す涙。絶望した者の真っ直ぐな感情表現、歪みのない純粋な悲しみ。
 だらしのない悲しみだ。痛みや苦しさを堪えようともせず、堪える素振りさえ見せず簡単に屈服した末の、脆弱な悲しみだった。矜持をかなぐり捨てるような涙の垂れ流しなど、軽蔑すべきものだ。
 恋人だと思っていた男が晒した情けなさに、またしても唇が――先ほどとは逆に――歪む。
 そして、暗がりの奥から声。失望感たっぷりの忌々しげな声。
「弱かったからね、アイツは。泣きながら死ぬなんて、臆病な卑怯者には相応しいよ。ざまあみろ、だね」
「そしてね、あの人は、ちょっとだけ笑ったんだ。酷い顔で泣いていた癖にさ、震えながら無理して笑顔を作って、わたしにいったの。ありがとう、って。終わらせてくれてありがとう、ってさ。あんな風にさ、死ぬ直前にお礼をいうなんて、しかも刺した本人のわたしに笑ってみせるなんてさ、酷いよね。わたしは人を殺していたはずなのに、なんだか報われたような気分になったんだから。最後までずるい人だったよ、彼は」
 男の目。穏やかさに満ちていた男の目。感謝の眼差しを向けながら、微笑んでいた顔。自らの死さえも受け入れた人間が、最後に表す謝意。望みが叶い、安らぎを得た末の喜び。死の間際にあってさえ人が得ることのできる満足感。
 ささやかな喜びだ。死の直前に灯った小さな火であり、すぐに消えてしまった幻のような感情であり、無きに等しかったような喜びだった。そんな儚い感情など、こちらの錯覚に過ぎなかったかもしれないと思えるほどに曖昧な感情など、空しいだけだ。
 すっぽりと感情が抜け落ち、唇の歪みが消え去った。
 暗がりの隅から、諦めと安堵感を帯びた声。
「優しい人だから、あの人は。安らぎを得て、穏やかに眠れたんだよ。幸せだね、とても」
 さてどうなのだろう、とひとり肩を竦めて考えた。男が死の間際に考えていたことは、本当のところなんだったのか。怒りか、悲しみか、喜びか、そのすべてか。
 もしかしたら、と独り言のように呟いた。
「死にかけで朦朧としてたから、彼はおかしくなっていたのかもしれない。彼が思ってもいないこと、感じてもいないことを、錯乱した脳が勝手に出力していただけなのかもしれない。でも、ね。それでも、わたしは最後の最後、彼が意識を失う直前に頼んできたことだけは、彼の意思だったと信じてる。わたしに向けた、わたしにだけ向けられた最後の願いだったって、そう信じてる」
 願い、と怪訝そうに問う声がした。
 願い、と鼻で笑う声がした。
 願い、と恍惚とした声がした。
「そう、願いだよ。彼はわたしにいったよ、死に顔を誰にも見せたくないって。隠して欲しいって。他人からどう見られるか、外面を保つことだけは妙に気にする人だったからね、無様な表情のまま死ぬのは恥ずかしいとでも思ったのかな。笑えるよね。恥ずかしいどころか、どこまでも恥知らずだよ。最後の最後に頭に浮かんだのが自分が格好つけることなんて、さ。さすがにわたしも呆れたよ。自分が葛藤したことも、混乱したことも、満足したことも、みんな馬鹿馬鹿しく思えた。だけど、ね。そうだったんだけれどもさ、自分でもおかしいとは思うんだけれどさ、彼が事切れた時にまた色んな感情が沸き起こってきてね、ふと彼の気持ちが――死に顔を隠したいと思う気持ちが理解できような気がしたんだ。実際のところ、彼の死に顔は見れたもんじゃないほどに酷いって訳でもなかったけれど……締りがなくて、表情にも乏しくて、間の抜けた顔だったから。だから、わたしは――」
「首を切った?」と問い掛けられる。「彼の死に顔が無様だったから、彼に同情したから、彼の願いを叶えたくなったの? それで彼の首を?」  
「うん。切り落とした。あの顔を誰にも見られないようにしてあげたいと思ったんだ。ろくでもない頼みだけど、彼にとっては最後の願いだった訳だし……それにわたしだけ、というのが大きかったからね。わたしだけが聞き入れることができて、わたしだけが叶えてあげられる願い。だから、わたしは」
「ふうん、それだけで」遮るように影の中から声がする。「そんな理由だけで、わざわざ人間の首を落とせるものなんだ。簡単な作業でもない上に、首を落としたところでなんのメリットもないのにさ。それに表情を隠すだけなら、単に顔を潰すだけで済んだはずじゃないの」
「それは、その……ね。見たくなかったんだよ。表情だけじゃなくて、彼の顔、いえ彼の形そのものを見るのが嫌になったの。だから、消してしまいたい――と、そう思ったんだよね。それに、恨みもあった。刺しても、殺しても、消えてくれない恨み。死体になっても痛めつけてやりたいほどの恨みが、ね。だから、鋸と包丁を使って黙々と首を切断していてる間に、憂さ晴らしをしているような気分にもなったよ。つまりさ、否定してやりたかったんだ。彼のことを。あの、ろくでもない男を」
「嘘だよ」と上擦ったような声が響く。「彼に嫌気が差して憎んだから首を切っただなんて、そんなのは嘘だよ。最後の願いを託されたことに喜びを感じて、だからこそ願いを叶えようと考えた人間が憎しみの感情なんて持てるはずないよ」
「嘘だといわれてもね。事実、わたしは喜んだし、憎んだ。その両方の感情で、彼の首を切ったんだ。そして、捨ててきた。ちゃんと誰にも見つからないような場所にね。もしこの先、たとえ警察に捕まったとしても、わたしはその場所を喋らない。誰にも教えない。だって、ほら、約束は約束だからさ。ああ、でも」
 言葉を止め、掌を胸に押し当てる。身体の奥にある幸福な思いを、暖かな感情を確かめた。そして、どこまでも冷えて、振り切れたしまった心を。
「でも、捨てたといっても、まだわたしの手元にあるのと同じなのかな。誰にも見つからない以上は、捨て場所を知っている人間のもの、つまりわたしのものだからね。あの首は、まだわたしのものだよ。わたしだけのものなんだ」
 重苦しさが増してゆく。吐き気を伴う幸福感と、嫌悪感が押し寄せる。
 それでも、話し続けることを止められなかった。止めたいとも思えなかった。
「うん。よくよく考えれば、正確には捨てたのではなく、隠したことになるのかな……。そうだ。わたしの望みと彼の願いが首を消した――なんて言い方に変えれば、少し素敵かも。嘘はついてないし、事実の一側面であるのは間違いないんだから、そういうことにしておこうかな。うん。つまりね、わたしとね、彼がね、二人で首を消したの」
 返ってくる声はなかった。自分の言葉だけが、ただ暗闇の中に空しく吸い込まれてゆく。
 それでも喋り続けた。じわりと忍び寄ってくる不安と焦りの影を感じながら。
 そう、と頷く。
 ただ、ひとり。暗闇の中で。二度、三度と。
「うん、そう。二人で、首を。これはね、愛の力。わたしたちの絆の力。こんなことができるなんてさ、とても幸せだよ。それに気分もいいね。なんといっても、わたしだけってのがさ。わたしだけが叶えられた願い、わたしだけが知っている秘密、わたしだけのもの、わたしだけの彼――うん、凄く素敵。わたしと彼の、正に二人だけの世界だね。わたしと彼はいつでも一緒。いつもわたしと彼が繋がっている。ずっと、彼が離れない。そう……ずっと。ずっと、ね」
 迫っていた不安の影は、すでに周囲の暗闇と一体となっていた。そして、際限なく広がっているように思える不安の中にあっても、まだ黙ることはできない。
 沈黙すれば終わってしまう。そう思えたから。
 沈黙すれば終えられる。そう思えたのに。
「ずっと、なんだよ。離れられないんだよ。頭から離れてくれないんだ。彼のことが。死体のことが。特にあの首のことが。気になって仕方ないんだ。消えてくれないんだ。殺したのに。隠したのに。捨てたのに。わたしだけが知っているってことはさ、わたしだけが思い出すってことなんだよ、あの首について。忘れられないんだよ。どれだけ安心したくても、見つからないかどうか、本当に隠しきれたのかどうか、ううん、それだけじゃない、なんだかねあの首が勝手に動き回ってるんじゃないかって、馬鹿みたいだけど、そんなことまで考えちゃうんだ。まるでさ、呪いだよ。呪われてるみたいだよ。そして、この先も呪われ続けそうだよ。ずっと、ずっと……多分、死ぬまでね」
 そう言葉を漏らしながら、死ねないだろうな、と心の中で思う。
 ただ死ぬことなどできない。ただ自然に寿命を迎えて眠ることなどないだろう。確実にやってくる死をそのまま受け入れて終わることなどできないだろう。
 殺されるのだ。
 自分に殺されるか、他人に殺されるか、病に殺されるか、不運に殺されるか。人が死に至る原因のどれかによって殺されて、死ぬ。どんな死であっても、殺されたことを意識して最後を迎える。
 あの男の復讐だ、と考えながら。あの男を殺した報いだ、と感じながら。自分が殺した男の呪いだ、と悔いながら。
 殺されて、終わる。呪い殺される。
 そうした、ほとんど妄想であるような――そして頭の中に消えては現れ、揺らめき続ける幽霊のような――予感に、ぞくりと身体が震えた。
 にも関わらず、気がつくと顔には自然と笑みが浮かんでいた。自嘲気味な、それでいて幸福に歪んだ笑みが。
「判ってはいるんだ」笑顔に歪んだまま、上の空で呟いた。「わたしの考え方、わたしの感情、わたしの行動、その全部が矛盾してるって、判ってはいるんだよ」
 定まらない思考に、一致しない言動に、ずれてゆく自分自身に、感情が磨り減ってゆく。論理が零れ落ちてゆく。心が倦み爛れてゆく。
「わたしはとても幸せだよ。でも、このおぞましい幸福感がたまらなく嫌なの。わたしは間違いなく呪われてるよ。でも、その心地良い苦しさがたまらなく安心できるの。幸せだから苦しくて、苦しくても幸せで、幸せだけど苦しくて、苦しいからこそ幸せで、そんなわたしは、幸せに呪われてる? 呪われて幸せ? どちらだと思う? 選べると思う? いえ、無理だね。どちらでもあるんだからさ」
 でもね、と闇の中で両手を開く。掌で顔を覆った。目を閉じた。俯いた。
 部屋全体の暗がりから、自分自身の暗がりに。
 この部屋に集う影の中から、自分の影に。
 真っ暗から、真っ暗に。
「それが正しいんだ。嘘のない事実なんだ。どちらかが、どちらかを打ち消してはダメなんだ。一方を無かったことにして、残った方だけを信じ込もうとするのは、嘘なんだよ。嘘は、良くない。嘘は、間違い。嘘は悪いこと、否定されるべきもの。そして、誰にでも、何にでも、いつでも、どこでも、何であれ、正しいのは事実だけ。絶対的な事実だけなの」
 顔を覆った掌の隙間から、くぐもった声を吐き出した。
 か細くも、乱れつつも紡いでみせた。自分自身の理を。
 息を吸い、だから、と宣言する。
 この部屋に。暗がりに。影たちに。なによりも、自分自身に。
「だから、わたしは嘘をつかない。だから、わたしは事実だけを口にする。理由がなんであれ、経緯がどうであれ、関係ないんだ。絶対に変わることのない事実があるんだから。それだけで、充分なんだから。つまり――」
 もう一度、口にする。
 確かめるように。認めるために。
 確かめさせるように。認めさせるために。
 正しさを。事実を。
 揺るぎのない、真実を。
「わたしが、彼を、殺したの」
 ゆっくりと掌に埋めていた顔を上げながら、目を開く。
 視界には、つい一瞬前に沈んでいたものよりも深さを増した暗闇が、押し潰されそうなほどの真っ暗闇が広がっていた。ただただ重苦しい事実だけで、溢れ返っていた。
 語ったところで気が晴れる訳ではない。救われもしない。身体が重くなってゆくばかりだ。心が倦み、疲れ、削られていくばかりだ。
 そして、そうであっても語らなければならなかった。
 語るべき事実を。語りたくもない事実を。
 語らなければならなかった。
 犯人として。
 恋人だった男を刺し殺し、その死体を切断し、その頭部を持ち去った事件の犯人として。
「わたしはあなたとして、彼を殺したの。あなたたちとして、彼を殺したの。あなたたちが、わたしとして彼を殺したの。あなたがわたしとして、彼を殺したの。あなたたちが彼を殺したの。あなたが――」
 そこで言葉を切り、もう一度、はっきりとした口調で言い直す。いまここにある事実を。
「あなたが、彼を、殺したの」
 耳鳴りがした。遠いところで雨の音もまた鳴り続けていた。
 耳が鳴る。雨が降る。
 沈黙が続いた。
 耳が鳴る。雨が降る。
 やがて、影の中から呟く声がした。そうだね、と同意する溜息混じりの声だった。
「彼を殺したのはわたしではないけれど……タイミングが少し違っていたら、きっと同じことをしただろうからね。いえ、違うか。きっと、じゃない。間違いなく殺していた。わたしは彼を殺していた。わたしは彼を殺したかったから。殺したくない気持ちよりも強く、彼を殺してやりたかったから。彼が誰かに殺されるかもしれないと予想しながら、それを本気で止めようとは思わなかったから。殺されても仕方ないと諦めていたし、殺されるべきだとも考えていたから。うん。つまりね、あなたが彼を殺したことは、わたしが彼を殺したのと同じことなんだよ。わたしも、彼を殺したんだ」
「そうだね。あなたも、彼を殺した。あなたが、彼を殺した。そしてわたしも殺し、わたしが殺した。そう。その通りだよ。同じなんだ。あなたも、わたしも。ありがとう、認めてくれて。事実を受け入れてくれて」
 そう述べると、部屋の中はまたしても黙り込んだ。鳴り止まない雨の音は次第に遠く、遠くへと離れてゆく。そして、交わされた言葉の余韻すら消えてしまったころ、くだらない、と吐き捨てる声が上がった。
「わたしが殺した訳じゃないよ。わたしは手を下してない。放っておけば、わたしもきっと同じことをしただろうけど、それでもわたしはやってない。殺してない。殺したかったけど、殺してない。だから、憎いよ。無断であの男のすべてを奪っていった、アンタが。勝手にあの男を殺した、お前が。わたしより先にあの男に復讐した、あなたが。わたしが、殺してやりたかった。この手で傷つけて、殺して、捨て去ってやりたかった。だから、あの男を憎んだ上で、憎み切った上で、殺したんなら認めてあげる。それならわたしと同じだもの。わたしがやりたかったこと、わたしがやろうとしていたこと、わたしがすでにやったはずのことと同じだもの。わたしが殺したのと同じことだもの」
「そうだよ。わたしは、憎んで彼を殺した。憎み足りなくて首を切った。それでもまだ許せなくて、彼の首を持ち去ったの。同じだよ。わたしのやったことは、あなたのやりたかったこと。あなたと殺し、あなたも殺し、あなたが殺しんだよ。ありがとう、一緒に憎んでくれて。事実と向き合ってくれて」
 そう言い終えたものの、その感謝に対する反応は返ってこなかった。
 そして今度はほとんど間を置かずに、わたしは、と別の声が上がった。動揺と非難の混じり合う、震えた声が。
「わたしは彼を愛したの。愛していたんです。彼を憎んでなんかいませんでした。殺そうだなんて思いませんでした。ただ、愛したかっただけ。ただ、彼から受けた愛と同じものをわたしも返したかっただけ。わたしだけが、愛したかっただけ。そうやって愛した結果なら、彼が死んでも構わない、そう思っただけです。でもそれは殺そうと思って殺す訳じゃありません。だって、それは愛しただけです。愛の結果、ただそれだけですもの」
「愛したからこそ殺した、ううん、愛で殺したんだよ。そして、わたしの愛が彼を死なせたんだ。死なせてしまったんだ。わたしの好意が、彼のことを肯定するわたしの思いが、彼を死なせてしまった。でも、わたしは返して上げられたよ。彼から受けた以上の愛を返してあげたよ。あなたの気持ちと同じように。あなただけが返したかったように。ありがとう、一緒に愛してくれて。事実を見直してくれて」
 そうだね、と声がする。
「わたしたちが、彼を」
「あなたたちが、彼を」
「彼自身か、彼を」
「そしてなにより、わたしが彼を」
 僅かな間が開き、やがて忍び笑いが部屋を満たす。影のひとつひとつがゆっくりと溶け合ってゆくような空気が、暗闇の濃さをより深くした。
 笑いながら声が問う。
「どうしてかな。どうして、あなたに気づけなかったのかな?」
「さあ? わたしにも判らない。どうして気づいてもらえなかったのか、わたしにも判らない。ただ、彼を殺した上にあの時計を――」いまもまだ床に転がったままであるはずの時計に、ただ真っ暗に塗り潰されている空間に顔を向けた。「ウサギの時計を壁に叩きつけて壊してしまったのはわたしだったから、そのせいで時間を止められたのかもしれない。なんだか、そんな気がするんだ」
「時計のせいで? 判らないな。どうして、そう思うの?」
「だってほら、彼のお気に入りの時計だったでしょ、あれ。だから呪いでもかかったかなって、そんな風に思えてね。よくよく考えてみれば、ウサギと似た部分もあるしさ――ほら、生殖能力が高くて、いつも発情しているようなところとか、ね。彼そのものみたいじゃない」
「本当にそんな理屈で納得してるの? なにも判らないままじゃない」
「だって、さ」問い掛けに答えようして、思わず笑い声を上げた。「だってウサギに時計とくれば、行く先はひとつじゃない。おかしくて当然、訳が判らなくて正解、きちがいじみてて当たり前――そうじゃないかな? 死んだウサギに連れて行かれる先なら、なおさらに。ねえ、そう思わない?」
 そして、ただ笑った。
 ただひとり、笑った。暗闇の中、笑った。応じる声もなく、続く笑いもなく、なんの感情も送り返されてくることがない沈黙の中、笑い続けた。
 そうしてしばらく笑い続け、少しずつ少しずつその声を弱めて、そのまま黙り込んだところで、ようやく声が上がる。
「そう、だったら」その声は底抜けに明るくて――
「彼の首を切ったのも当然だよね」ねじが飛んだように弾んでいて――
「命令だったはずですものね、ハートの女王の」なにもかも振り切った心底からの喜びに満ちていた。
 頭が真っ白になるくらいの楽しさだけで一杯だった。
「そう『首をはねろ』ってね!」
 この部屋の、この暗闇の、全員の声が重なった。
「わたしたちも同じになった訳だね」誰かがいう。「ウサギが逃げる前に死んじゃって、女王の命令で首切りがあって、ぽっかり穴が開いてわたしたちもそこに落ちた、と。なら、この状況はさしずめお茶会ってところだね」
「うん、いいね、正にそうだ。気違いお茶会、ぴったりじゃないの。わたしたちが、わたしが殺した結果のパーティだ」また誰かが、先ほどとほとんど同じであるような誰かがいう。「お茶がないのが残念だけど……でも、そろそろここから出て行きたいね」
「わたしたちがここから出るには、夢から覚めないと。お茶を楽しむのは、そのあとですね」誰かが、やはり先ほどの誰かと同じでしかない誰かがいう。「夢は夢のままにして、なかったことにしなくちゃいけませんから」
「そうだね、なかったことに」
「殺人なんて、なかったことに」
「彼そのものを、なかったことに」
 そして、と頷いてみせた。ここにいる全員が――他ならない自分自身が――判り切っていることを確認するために。
「彼のことを、わたしだけの、わたしたちだけの彼にするために」
 そう呟いて息を吐く。
 穏やかな気分だった。身体に纏わりついたままの重さを頭の隅で意識しながらも。現実になかったことにする夢がこの先ずっと心にこびりついて離れないことを確信しながらも。
「これだけいれば作業に時間を掛からないね。じゃあ、まずは切り離すところから始めようか」
「それも念入りにね。砕いたり、潰したり、千切ったり、細かく細かく、だね」
「それから、どうしよう? 埋める? 流す? 溶かす? 燃やす? 煮たり焼いたりしてから捨てる? かき混ぜて液体にしてから撒き散らす? それとも? ねえ、それはやってもいいことかな? やってもいいかな?」
「なんだって構わないよ。ここでやれることならね。手元に置こうとしたり、判りやすい形で隠そうとしないで、確実に処分できるなら――跡形もなく消してしまえるなら、どんな方法でも」
「だったら、首は?」
「え?」
「彼の首は、どうしたの?」
「ああ。首、ね」
「隠したんですか? やっぱり、まだ残っているんですか? 彼が、彼のままで」
「そうだね、あなたたちになら教えてもいいのかな。もう赤の他人でもない訳だし。わたしは、彼の首を――」
 暗闇の中、周囲よりも僅かに黒い影が揺れ動く。ごそごそと床下を這う生き物が蠢くように。ひそひそと囁くような言葉や歯止めを欠いたような含み笑いを交わし合いながら。
 部屋のあちこちから、がたがたと動き回る音が響き始める。金属音。ビニールが擦れるような音。ぶつぶつと呟く声。
「包丁に柳刃包丁、果物ナイフ、それから一本は刺さったままで、ええと……」
「……鋸、金槌、桐、ドライバー、ペンチ……あとは……」
「ミキサーと……それと、ライターと、それと、それと、なんだろう……」
「ビニールシートはある。それから雨合羽か、レインコートか、とにかく作業着が欲しいね。マスクなんかもあった方がいいね。だってほら、色々とさ……」
 がたがたと動く音、這い回るような気配。
 ひそひそと囁く声、消え入りそうな呼吸。
 きりきりと、少しずつ少しずつ締め上げられてゆくようにきりきりと甲高さを増してゆく、引き攣った笑い。
 そして、ドアを開く。
 軋んだ音が鳴ると同時に暗闇の奥の奥からは血の臭い、肉の臭いが漂ってくる。その腐臭を嗅いでいると、小さな虫が飛び交う音が、その羽の小刻みな震えが聞こえてくるように思えてならなかった。
 身体が重かった。その思考も霞が掛ったように鈍く、重い。その原形が崩れ落ちるほどに掻き回され、混ざり合った高揚感と不安に吐き気を覚えた。それでいて、他人の行動を呆けて眺めているような感覚でもある。現実であり、夢であり、そのどちらでもあり、そのどちらでもない、頭の中がとろけてゆくような曖昧さ。いまこの場所に、いまこのときに生きているなどとは思えない、ふわふわとした覚束なさ。幽霊にでもなったような気分だ。
 死んでいるのだな、と思う。肉体が、記憶が、価値観が、微かにではあるが、しかし確実に削られている。消えている。この一瞬、一瞬で死んでいるのだと強く思う。そして実感する。
 いま正に死んでいる自分自身を。
 ドアの向こうにある寝室はまだ真っ黒に塗り潰されてはおらず、家具やらベッドやらの輪郭がほんのりと確認できた。その薄暗闇の中、床の上に目を向けると、その場所には一際黒々とした影の塊が横たわっている。それは血だまりの中に横たわる男であり、包丁を腹に刺したままの男であり、その頭部を失った男だ。男は当然動くことなどなく、当然変わることなどなく、当然消えることなどなく、当然のように死んだまま、殺されたまま、死体のままだ。
 そこには、ただ行為の結果だけが、ただ事実だけがあった。
 彼は死んでいる、そう考えて、その事実を改めて認識してひとり頷いた。
 そう、死んでいる。殺されたからだ。
「わたしは」声に出す。「わたしは、後悔しているのかな。悔いているのかな。いまになって、いまごろになって」
 身体に纏わりつく重さと鈍くなるばかりの思考に現実感を失いながら言葉を吐き出す。なんとも泣き言めいていると自覚していたが、喋らずにはいられなかった。妙に落ち着かない。ただの事実、ただの結果に改めて直面しただけなのに、心の奥底にざわざわと落ち着かないのだ。
 応じる声はない。薄暗い寝室がじわじわと黒く滲み始めた。
「殺したのは、わたし? 本当に? 本当に、わたし? それは間違いなく事実――なんだよね?」
 認めたくない。そう思った。心がざわめき、現実感が薄れてゆく中で、いま目の前にある事実を拒否してやりたくなった。自分の記憶も、いままでの言動も、この現実も、受け入れるのはまっぴらごめんだ。
 そして、理解する。恐ろしいのだ、と。ただの事実が、なにも考えずにもう一度向き合った事実が恐ろしい、と。
 声はない。寝室がじわじわと黒くなる、暗くなる。
「彼を殺したのは」震える声でいう。「あなたたちではないの? あなたではないの?」 
 背後で乾いた笑い声が上がった。
 もちろん、と声はいう。
「もちろんわたしだよ。わたしたちだよ」そして今度は悪意を滲ませた、粘つくような忍び笑いを漏らす。「そして、あなただよ」
 笑いを噛み殺して声は耳元で囁く。背中に誰かが――あるいは何かが――べったりと貼りついているのが判った。
「あなたが」
「彼を」
「殺したの」
 黒くなる。暗くなる。じわじわと視界が真っ黒に、真っ暗に。
 背中に張りついた圧迫感が強くなる。
「わたしたちが……」生温く、そしてその内側は冷えきっている嫌な汗が身体の奥から滲み出た。「わたし、が」
「そう、わたしが、ね」
 嬉しそうな――本当に嬉しそうなその声に、ただ愕然とする。ぽっかりと胸に穴が開いたような実感に。確実に自身の一部が削れて消えたという確信に。
 事実を拒否する気分が薄れ、諦めが襲ってきた。そうやって認めたくない事実を受け入れることで、なにかが死んでゆく。事実そのものに対する恐怖と、自らの行為への後悔を残したまま。
 足を踏み入れた。真っ暗な部屋から、真っ暗になってゆく部屋へ。
「わたしが、殺したの」
 なんどもなんども繰り返したその言葉を口にする。その言葉で、死なせるのだ。自分の一部を。いまさらの後悔を。遅すぎる恐怖を。男の記憶を。過去そのものを。 
 そしてもう一度彼を、殺すのだ。この先ずっと、何度でも、何度でも。
「わたしが、彼を――」
 ドアを閉めた。
 部屋の中から声が消え、音が消えた。窓から微かな月明かりが差し込み、真っ暗な影が引いてゆく。
 スツールの上には誰の姿もなかった。
 ソファの上には誰の姿もなかった。
 窓辺には誰の姿もなかった。
 リビングの中には誰の姿もなかった。
 床に転がっていた時計も消えていた。
 ただ寝室のドアに、閉じられたドアの前だけにべったりと影が貼りついている。真っ黒な穴がぽっかりと開いているように。
 その穴の向こうから届くのは、くぐもった笑い声と、忙しなく動き回る音。
 やがて朝が訪れ、リビンクに日の光が差してもなお穴は開いたままだった。
 ぽっかりと、真っ黒なままだった。
naiki
2010年12月28日(火) 21時38分48秒 公開
■この作品の著作権はnaikiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ミステリではないですねと言われたら、ミステリですよと言ってのけます。
 ミステリですねと言われたら、ミステリではないと答えます。
 では何なのさ、どっちなのさと言われたら、判らないってことは謎ってことで、つまりそういうことです、と返します。

 長き昼と、快適な夜を。
 TC新装を祝して投稿です。
 長い作品ですので、もし読んでもらえたら嬉しくて泣きます。
 もし読んでもらえなかったら悲しくて泣きます。
 どちらも想像しただけで泣けてきます。
 だからいま泣いときます(;_;)
 わたし、もう泣かない……!
 
 途中まででも読んでくれた方に感謝を。
 最後まで読んでくれた方に心よりサンキャー。

4/26
誤字修正
 

 心の参考資料
『Rabbits』(2002/デイヴィッド・リンチ監督作品)

この作品の感想をお寄せください。
No.6  naiki  評価:0点  ■2011-04-26 20:10  ID:FozNbuheA1o
PASS 編集 削除
>藤村さん
感想が付いててびっくりしました……!
感謝、感謝です。

>犯人、わかりません
ですかあ。とはいえ、当ててみてと書いといて何ですが、この話、犯人当てにはあんまり意味はないよなあ、といまにして思ってます。犯人を特定することで判ることもありますけど、ぼかしたままの部分の方が多いですから、受ける印象はあんまり変わらないのかなあ、と。

>ホラー
妙な空間、妙な状況、妙な会話、なんて要素と仄めかしで作った話なのですが、これはあれやこれやと解釈を考えてもらい、そこから居心地の悪さとか薄気味悪さを抱いてもらえたらなあ、と思ってのことでした。ですから、少しでも不安みたいものを感じていただけると嬉しい限りです。

>なぞなぞ
解釈については、「こう読めば、こう理解できて、それがただ一つの答えです!」というほど明確な答えを用意せず読み手任せにしているのですが……、犯人についてはなぞなぞみたいなものですね。
登場人物がアイ、マイ、ミイ(I、My、Me)ときて、タイトルが「わたし、あなた」だから、残るは……という、そんな程度なんですけど(汗)

>地の文、語り手
これについてはあんまり深い意図なく、最後の部分あたりなんかはずっとスルーされていた分を取り返すために喋り通す犯人、という考えでしかなかったので、なんとも恐縮してしまいます……。

>窮屈な体感
箱のなかを覗いているよう、という言葉をいただきましたが、まさにそれでして、広がりも動きもない世界でただ人物の感情だけが変化していくだけのことを書きました。で、読み終わった後にはただただ疲労感が残る、「ぐったりしていってね!」という話を目指した結果、こんな風になったのですが、その方針だけで良しとしまったところが反省ですね。長さを感じさせてしまうこともそうですが、読ませていく工夫についてかなり無頓着なところがあるので、その辺りをこれからは忘れないように心掛けます。
……掛けるつもり、です。掛けられるかも、デス。掛けられたら、いいな。

>リンチのラビッツ
以前は某所において最初から最後まで字幕がついていたこともあったのですが、現在は流れちゃったみたいですねえ。あの作品の、それぞれが眼の前にいるにも関わらず会話の時系列がずれていて噛み合っていない、という演出が面白くて(そして寄り添うウサギがかわいくて)この作品を書くきっかけだったのですが、同じように会話ずらしを試みたら自分でも読めないものになってしまいました……。

>誤字
まだ……あったのですね……。
あたしって、ほんとバカ(;_;)

>読んでいて、それから感想を書いていて、たのしかったです
この長い作品読んでいただいた上に、感想を書いていただけるだけでもありがたや、なのに、そこまで言っていただけると、もう、感無量です。本当にありがとうございました。
No.5  藤村  評価:40点  ■2011-04-22 17:20  ID:zL9OHB.uklU
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拝読しました。すいません、犯人、わかりません。それはたんじゅんに、ぼくが犯人をあてようと思わなかったというか、そもそも犯人ってなんじゃいと思考停止していたからなのですけど……けど思い返すと、うーん……。

穴のむこうは、もしくはこっちは、どっちなのかな、ということがいま気にかかっています。そこへ飛び込んだら、どこへでるのか。そこを覗き見たら、なにがみえるのか。そうでなくて、そこからなにかが飛び出てくるのじゃないか。なにかがこちらを覗うのではないか。というか、こっちってどこだ……! とてもこわいです。つまりこれは……ホラー……!(え、ええー……
あのくもつー、とか、このしれいー、とか、へんな連想をしながら読んでいたんですけど、語れば語るほどどうしようもないのに語られるしかなくなっていく感じ(うーんそうかなあ?)とか、字の文の(といっていいのかなあ)語り手が終幕一手に語り手として三者をからげて、用意されていた仕掛けを、おそろしく手際のよさげな無造作さで残して、ふっつりと語りやめてしまう。そのあたり頭のよわいぼくにはむつかしくて、正解も解釈も曖昧です。余韻だけがぶわんと残って、なんだかなぞかけのような……つまりこれは……なぞなぞ……!(う、うーん?
ほんとうにいろいろ妄想はかきたてられるんですけど、とにかく個人的には語り手の設定がすごく絶妙だとおもいました。語り手の声の響く箱のなかを覗き込んでいた感じというか、そんな読後感です。
すごい、すごい、と思いました。ただ、ぼくもやはり、すこし長い、というか読んでいて窮屈な体感がありました。ミステリの重みとちがうもの重みとの比重の問題かなーみたいな漠然とした感想なんですが、どこかに、なにか、空間みたいなものが感じられたら、とおもいました。
なんだか要領をえない感想ですみません。それからミステリを(というか本を)読みつけない人間の感想ですみません。
そうこうしているうちに垂れ流していたリンチのラビッツが終わろうとしているんですけどセリフは英語だし画面はみれてないし、筋はあるのかないのかわからないし、あっれー! 悲鳴がー!
それから恐縮なんですが、おそらく誤記だとおもうものを二箇所ほど

>これまでに生きてきた二五年の歳月が色褪せて感じてしまうほどに。。

>底に向かう筋道はそれこそ――

読んでいて、それから感想を書いていて、たのしかったです。ありがとうございましたー。
No.4  naiki  評価:--点  ■2011-01-09 22:12  ID:c.P6HFmsIFo
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 読んでいただき、ありがとうございます。
>シチュエーションコメディという言葉がありますが、しいて言うならばシチュエーションミステリになるのかな。どこか演劇に似た空気を感じる部分もありました。
 そうですね、そのものと言っていいかもしれません。「舞台上で展開している話」といイメージで書いてましたので。お互いに疑心暗鬼や推理をぶつけ合う状況を、現実味に欠けてる空間で展開すれば不気味さが際立って面白いかも、なんて考えた結果がこれでした。もっとも肝心の事件が小粒で、論理展開や推理合戦をメインにできませんでしたが……。状況をしっかり構築した上での犯罪や、密室殺人を書けるようになりたいデス。

>長いと思いました。
 思えば私がTCに投稿した作品って場面転換のない話ばかりかも……!
 読み手を強く引っ張る要素。これが難しいですね……。終盤までじわじわと進んでいく形にしようとすると、どうしても中だるみが起きてしまいます。
 また当初の予定では会話文に仕掛けを作った短い話だったのですが、考えなしに進めていたら解読不能になり、それをなんとか修正しようと迷走した結果、これだけの長さになってしまいました。
 工夫もなく、計画性も足りてない、と書くと、とてもダメダメに思えてきて、あれ、なんか目の前が滲んで見えません……。
  
>ラスト
 ほぼ投げっぱなし、です。純粋なミステリではない要素については、あまり書き込みたくなかったのでこの形にしたのですが、さすがに説明不足が過ぎたでしょうか? I my meの解釈については、色々できます、と言うに留めておきますね。

 少しでも面白さを感じていただければ、嬉しいです。不要な部分を切って、話の内容に適した枚数で書けるようにしていきたいですねー。
 ありがとうございました。
No.3  HONET  評価:40点  ■2011-01-09 11:45  ID:kqc7D1g79Xw
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 遅くなりましたが、読みましたー。感想です。
 シチュエーションコメディという言葉がありますが、しいて言うならばシチュエーションミステリになるのかな。どこか演劇に似た空気を感じる部分もありました。
 3人のやりとりは、お互いの個性を浮かび上がらせながらも、物語の推理も交じっており、どこか毒入りチョコレート事件的なニュアンスもあったように感じます。もっとも、毒入り〜はアンチミステリ的な視点だから、方向性は全然違うんですけどね。

 ただ、やっぱり、というか……うん、ごめんなさい、長いと思いました。
 シーンが変わらない。状況も基本的には変わらない。3人のやりとりと、施されたギミックと、確かに要素はちりばめられているのですが、読み手を推し進める強烈な引きに欠けるように感じました。その点、序盤よりも私は中盤に中だるみを感じました。展開は面白いのです。特に終盤の急転は、アクセントになって読書の意欲を取り戻させてくれました。また、時間が流れていくにつれて形成される人物像にも面白みを感じるのです。ですが……うーん。長さと内容に若干のアンバランスがあるようには感じました。

 ちなみに、I my me については私も気づいてはおりましたが、描写その他から、まさかそういうオチにはなるまい、という気持ちで読み進めていたため、ちょっとラストが消化不良に。うぬ。どこか読み落とした気分。ちょっと悔しさが残ります。

 と、なんかアンチ的な感想が並んでしまった気がしますが(汗)、個性から文章から物語から、どこをとっても面白さを感じられる一品だったように思います。個人的な希望を言えば、もう少し短くまとめられるのであればその方がよいかもしれない、という点でございました。
No.2  naiki  評価:--点  ■2010-12-31 18:32  ID:c.P6HFmsIFo
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 この長い作品を読んでいただいたうえ、感想までつけてくださり、感激であります。
>男について 
 他の人物を介する形で間接的に書いた人物像がうまく伝わっているか不安だったのですが、その性格を色々に解釈していただけて嬉しく思います。

>殺した動機
 はい、しつこいくらいに書きました(笑) この部分は感想でいただいたように、わかりやすく作られた殺人動機に対する疑問も込めてあります。それで、動機に説得力を持たせようと考え、このように一気に羅列したのですが……。冗長になり過ぎた点とか、かなり強引に話をまとめたこととか、反省点も多い箇所ですね。

>例えば〜
 色々とお褒めの言葉をいただき恐縮です。モチーフに関して、特にアリスへの関連づけは、ほのめかしだけはしているものの取ってつけた感が強いかな、と悩んだところでしたので、このように捉えてもらえると報われた気持ちになりますね。

>序盤がちょっと息苦しくて〜
 なるほど……。いつも悩むのが、この序盤なのですよ。最初でぐっと惹きつける文章や展開がなかなか思いつかず、無難な方向へ行ってしまいます。その辺をカバーするために、険悪な空気を強調して特徴づけようとしたのですが……。やはりメリハリの付け方をもっと考えるべきでした。いまにして思えば、この場面は中盤でサスペンス性を盛り上げるために使って、序盤は死体発見から始めるなどもっとインパクトを重視した方がよかったかもです。

>三人が同一人物
 この点については私の書き方に難があることを否定しません。公開してしまった以上は読み手が物語をどのように解釈しても、私がその正否を語る筋合いはないことも承知しています。
 ただ「犯人は誰か」という今作品のミステリ面の問いに対して答えるときは、正解のうちのひとつ、という言い方になるでしょうか。他にもまだ別の解釈できる構成となっておりますので、それにも挑んでいただければ嬉しい限りです。どうにでも解釈ができる余地がありすぎる点で今作をミステリと呼ぶにはかなり無理があるのでしょうけれど……。
 ちなみに「I my me」からもうひとつ別のことが導けるようにしているのですが、こちらは連想ゲームみたいなものですね。

>中盤から一転して〜
 や、本当にこのように感じていただけるのはありがたいです。私自身、書いてて楽しかった部分でもありますし、三人の終盤部分は特に気に入っている部分でもありますので。
>誤字
 なんと……まだこんなにミスが出てくるとは。自分で発見しようとすると、どうも目が滑ってなかなかうまくいきません。すぐに直してしまいます。感謝。

 しかし、まさかこんなに早く感想がつくとは思ってなかったので、驚きました。少しでも楽しんでいただけたのであれば、私も嬉しいです。
 最後まで読んでいただいたことに、心からサンキャー。
 ありがとうございました。
No.1  HAL  評価:50点  ■2010-12-30 16:55  ID:ORwkwjVUiI2
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! ネタバレを含む感想です !

 遅くなりましたが、拝読しました。

 圧倒されました。物語の厚み、構成のうつくしさ、狂気と理性のバランス、それから美しい文体への陶酔。何より力強さ。作品そのもののパワー。
 ちょっと、感想をうまくまとめきれないので、思ったことをかたっぱしから述べていきますね。

 彼が、弱くて、そしてひどい男なんだけど、でも、恋人からこんなふうに詰め寄られ続けてきて、混乱もしただろうし、うんざりする思いもあっただろうし。想像すると気の毒で、だけど、何も悪くないただのかわいそうな男だというのとも違う。その辺のバランスが、ストーリーに複雑な厚みを作っていると思いました。

 後半、殺した動機について、しつこいくらいに(失礼!)延々と語られているのを読みながら、普段わたしたちが、ニュースで新聞で耳にするような動機が、いかに都合よく他人の手でまとめられ、整理され、わかりやすく加工されたものなのか、そんなことを考えました。色んな感情があり、複雑な状況と過去とが絡まりあっての、ひとつの行動につながる。それを遠くから他人が、わかりやすいストーリーを作って納得したいがために、型にはめて、なんとなく理解したつもりになり、あるいは理解できないものだと首をふり……。まとまらなくてごめんなさい、そんなようなことを強く思いました。

 シロート丸出しの感想で、なんていうか恥ずかしいんですけど、文章がすごいなって。
 例えば、
> その言葉に、ミイは目を瞬いた。
 ここから始まる、短文の積み重ねによる息の詰まるような圧迫感。そういう呼吸やリズムが、すごいなって思いました。
 七〜九章のそれぞれ終盤にかけて、ほかのふたりが同時に畳み掛けてくるように喋るくだり。うつろいゆく部屋の明暗、時間の経過とともに色合いを変えていく情景も。
 アリス、ウサギ、クックロビン、そうしたモチーフの効果的な使用が、ぴしゃりとはまっていて、ぞくっとしました。

 あとは、難癖をつけるようなのですが、序盤がちょっと息苦しくて、転調がほしかったかな、と。一章から三章の、毒が強い。序盤、三人がとても攻撃的で、もちろんそれが後半になって活きてくるので、けして無駄な内容ではないのだけれども、読んでいて息苦しくて。そのあとから、ぐぐっと面白くなってきて、結果的には一気に読まされたのですが、もし読むのをやめてしまう人が途中で出てくるとしたら、ここだなって思いました。
 前半三章のどこかに、ちょっと気分を切り替えるような息抜きなり、転調なりが、もうすこしほしかったかなって思いました。が、わたしの読み方がちょっと偏っていたかもしれず、シロウト意見なので、話半分に聞き流していただければ……(汗)

 それから、三人が同一人物なんだろうなっていうのが、名前が出てきた時点でわかってしまって、「ああ、I my me」なんだなって……ご、ごめんなさい。ひねくれものなので、つい。どのくらいのあいだ読者から隠されるつもりがあったのかわかりませんが、伏線がぜんぜんなくても、種明かしのときに面白くないし、明らかすぎてもちょっとくどくなってしまうし、加減の難しいところだなと思います。

 じゃあ、そこがわかってしまったので面白くなかったかっていうと、そんなことはなくて。文章の巧みさもあるけれど、序盤、どろどろして互いを非難してばかりの尖った会話だったのが、中盤から一転して、三人の心情が、屈託が、とても痛々しくて、息苦しいのは同じでも、ぐっと共感的に読めました。これって、前半があったから活きてきた部分が大きいのかなって。
 感情を演じようと必死になって鏡の前で練習したアイ。努力して感情を獲得しようとして、ようやく自覚したはじめての強い感情が、嫉妬だなんて。兄から逃れたはずが、似た種類の男に、暴力をふるう男につかまってしまって、けれど逃げ出せないマイ。自分を騙し続けてでも、愛されていると信じたかったミイ……。

 あとは、誤字に気づいたところがありましたので、メモしておきますね。これだけ長い作品だと校正も大変でしょうし、そもそも自分が誤字だらけなので、ぜんぜん人様のことをどうこういえる立場じゃないのですが、発見報告だけ。
> 「誤解ですよ。彼が殺されるなんて酷い状況なって
> 黙っているだけだから、攻められるのだろうか
> だとすれば――こんな風に考ていくと、
> 行動を伴ってこそのもだからね。
> その声は底に抜けに明るくて――

 自分の腕のなさを完全に棚に上げた発言がちらほら混じっていますことを、お詫びします……(汗)
 いい作品を読ませていただきました。拙い感想、どうかお許しくださいますよう。
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