in the darkness 改訂版
 ウィルは、ポケットに入れた大事な物を落とさないよう、しっかり手で押さえながら路地の最後の水たまりを飛び越えた。ネクタイが跳ね上がり、頬を打ったが舌打ちをする気にもならない。今夜は、夕立の後の湿った水たまりもしかめっ面をせずに受け止められる。
 暗いトンネルをぬけた先には、ささやかだがにぎやかな市場が広がり、どの店も夕闇にまけまいと裸電球をかかげ、その熱い光の影あびながらも笑顔で客を迎え入れたり、招いたりしている。騒がしい地下鉄の喧噪がそれをさらにあおっていた。モンローをきどってお決まりに通風孔に足を乗せようとする女の子達を横目にウィルはいつもの花屋の前に足を止めた。
「毎度。兄さん。今夜はどれにするね? 遅咲きのチューリップは?」店主は、一本を彼の目の前に突き出した。
いつもの彼ならばそれを小銭と引き換えに受け取り先を急ぐ。でも今夜はそうはいかないのだ。
「親父さん! これで買えるだけくれないか?」ウィルは十ドル札を付き出した。
「おやおや。特別だな。よし! おまけだ!」
 店主は、大きなバケツに入った色とりどりのバラをそのまま抜きだすと手早く新聞紙に包んでくれた。
「ありがとう!」
 目指す、アパートはすぐに現われた。
 世紀末からある煉瓦作りのクラシックな建物は、趣こそあるが雨が降れば湿った空気と下水の悪さから嫌な匂いが上がってくるし、建物は少しばかり地面にめりこんでいるので、最大級の水たまりが外玄関までの道をふさいでしまう。ウィルは慎重にそれをまたぐと玄関先に入りこんだ。
 三階までのらせん階段を二段おきに飛び上がってゆく。あっちとこっちの家の夕食の匂いが混じって鼻をくすぐる。
 クイズショウに本気で答えて一喜一憂する大声。赤ん坊の泣き声。若い母親の子守歌。子供の走る足音。叱る親の声。
今夜は、すべてが騒音ではなく、温かい励ましの声に聞こえる。目指す部屋のドアは、神々しく光り輝いてみえる。
 ウィルは、はやる気持ちをおさえドアをノックした。

 開いたドアから彼女の優しい笑顔が現れ、それは驚きの表情にかわった。
「まぁ! バラの花! こんなにたくさん! 気でも違ったの? 今週のお給料の半分は消えちゃったはずよ」
 ウィルは、かまわず彼女の肩と花束をそばに引き寄せた。いつもそうするように小柄でやわらかい丸みのある体を抱きしめキスをする。きれいな栗色の髪に触れたいが、フローレンスは片方しかちゃんとしていない耳を隠していて、それを誰にもさわられたくないし、見せたくないのを知っているので、彼女の首までしかふれないようにしている。そういう気持ちを汲んでやるのを、他人行儀とは思わなかった。自分だけに事故で少し形がないのだとおしえてくれた。それだけで十分だった。
「困ったわ。こんな大きな花瓶はないのよ」言いながらも嬉しそうだ。
彼女はウィルが好きな水色のドレスを着ている。普段着より一段良いドレスだ。それから小さなキッチンの鍋とオーブンからは、ウィルの大好物のよい匂いがしている。今日は二人が付き合いだして一年目の記念日なのだ。
「今日は、時間通りだわね。仕事は大丈夫なの? 急ぎの編集はなかったの?」
 フローレンスは小さな花瓶とコップと空き瓶に水を満たすと花を分けて挿しだした。ナイフとフォークと皿が二人分乗せられているだけの小さなテーブルは不似合なほどの華やかなさで飾られた。ウィルは上の空の相槌をしながら、それが終わるのを信望強く待った。彼にはそれが一時間にも感じた。
「大統領の晩さん会みたいなテーブルになったわ」フラウは、きれいなハシバミ色の瞳で振り向いた。
 ウィルは真剣なまなざしでフローレンスの左手をとった。彼女は小さく息を飲んだ。
「フラウ。僕らは、互いに親を早く亡くして、身内もなく、家族の愛をどれだけ欲していたかしれない。でも。それを終わらせる事が出来ると思う。二人なら」
 ウィルは片膝をつくとポケットから指輪を取り出し、それをフローレンスにささげた。
「フローレンス・チェンバース。僕と結婚してくれますか?」
フローレンスは、固まっていた。でもその様子にウィルは答えを読み取った。
「フラン。答えは? イエス以外は聞かないけど」ウィルはおどけた口調で言った。
「もちろん。イエスよ」
 ウィルは彼女のその薬指に指輪をはめるとその手をはなさないまま立ち上がった。いつもと同じ、頭一つ下にフラウの優しい瞳が輝き、フラウからもいつもの位置に少し幼さが残るウィルの顔が戻った。
 フローレンスは、つま先だってウィルに抱きついた。もちろん右側に。ちゃんとした耳の方をウィルの頬に近づけた。
「ここは、静かだけどすぐ水たまりできるし、僕の所は、騒音がひどい、少しばかり静かで水がでない家を急いで探そう。当面は二人で働けば、すぐに夢もかなうよ」
「ええ。そうね。」
 二人の夢は郊外に家を持ち、大きな犬とかわいい猫を飼うことだ。彼女はその腕を肩にあずけたまま、幸福に輝く笑顔を向けてくれた。 
 その時……。
 何か小さなものが床に落ちて、その大きさのわりに甲高い音を立てた。
 フローレンスは、しゃがむとそれを拾い上げようとしたが、ウィルの方が先にそれを拾い上げていた。
 小鳥がくちばしにダイヤモンドの花をくわえているピアス。小さいわりにずっしりと重い金細工。ダイヤは小さいが素晴らしく美しい虹色に輝く。
『もう片方は、わたしの大切な人が持っているの』
『そのダイヤモンドで一年遊んで暮らせるぞ』
 懐かしい彼らの声が聞こえる……。


「ウィル? どうしたの……」
 フローレンスの手が肩にふれ、ウィルは我に返った。
 彼女の手を優しく遮るとウィルは小さなソファに倒れ込むように座った。膝に腕をあずけ、重たくもたげる頭をささえた。
『事故で耳が……』
 それを聞いても抑えこんだ記憶は振り戻されなかった。
「フラウ……このピアスは?」
「変よね。耳を隠しているのに。でも。それはわたしにとって命と同じに大事な物なの……」
 ウィルは、フラウにピアス差し出した。彼女はそれを受けとるとテーブルに進みながら耳に着けた。
「何か飲むでしょう?」
 フラウの声は動揺を抑え込んでいる。ジンの瓶に手をかけたがそれを胸に引くと振り返った。
「ごめんなさい。わたし嘘をついていたの」
「――嘘って? 何を」ウィルは、咽の奥がへばりつくのを感じた。
「両親が早くに亡くなったのは本当よ。わたし、実際に施設で育ったの。でも姉がわたしをそこから出してくれて寄宿学校にいれてくれたの。このピアスは離れていてもいつも一緒にいられるように片方ずつもっていのよ」
 彼女は言い終えるとまた向こうを向き、グラスにジンとソーダを注いだ。
「フラウ。なぜ。嘘をつく必要があるの?」
 ウィルは、その横顔とその背中が知っている女によく似ている事に気づいて、息が詰まった。
「姉が……普通の暮らしをしていないのは知っているわ」フラウはほんの少しこちらに顔をむけ、ひどくよそ行きの声でつづけた。「それは……やっぱり、わたし達には問題なの? 姉には数えるほどしか会ったことが事はないの。誕生日とクリスマスに手紙とプレゼントが送られてくるだけ、それも一八の時に途絶えたわ。――彼女は」グラスを手に振り返った。「二年前に亡くなったの」
 フラウから、知っている女のその幻は消えていた。だがウィルの頭の中では、記憶の渦が幾重にも大きくなっていった。あまりにもそれは重く、このまま首をもたげてしまいそうだった。それを振り切るよう言った。
「どうして……亡くなったの?」
「病気だと聞いているわ……」フラウの瞳は不安な色で揺れた。「姉の事、何かに書いてあったの? 何を知っているの? そんなにひどい事が書いてあったの? 」
 ウィルは顔を大きく振った。
「フラウ。僕は記者として彼女の事を知っているんじゃない。僕は彼女を知っている……初めて会ったのは、子供のころだ」
 フラウの両方の肩が大きく上下して、グラスを持つ手が震えた。ウィルは、腰を上げてそのグラスを受け取った。フラウは、テーブルに手を置いて体をささえるようにそこに立っていた。
 ウィルはグラスから一口飲んで乾いた喉を少し楽にすると話だした。

 「子供は寝ている時間よ。坊や」
 その夜、大理石の市松模様の玄関ホールに現れた女は、映画のスクリーンから抜け出たようだった。銀狐のショールを肩にかけ、真っ白なイブニングドレスの裾から銀色の靴が見える。その迫力ある長身から、もっとハスキーな声を想像したが彼女の声はとても甘くて優しい。
 ウィルはくねった階段の踊り場で文字通り固まってしまった。
 階下のドアが開いて閉まり、コートを羽織りながらフランクが出て、女のそばによると彼女の目線が上にあるのに気づき、彼はウィルの姿をとらえた。
 タキシード姿のフランクも初めて見たけど、やっぱり映画の俳優みたいだ。
「ミセス・マクフラスキー!」フランクは奥に向かって声をかけた。
「旦那様? お忘れ物ですか? まぁ! ウィル坊ちゃん! いけません」
 アンナはその大きな体のわりに俊敏な歩みで階段を駆け上がるとウィルの肩をかかえて部屋に戻した。
「アンナ。のどが渇いたんだ。夕食のお肉がからかった」
「ミルクをお持ちしますよ。さぁベッドにはいって」
 ウィルは、いつまでも子供扱いなのにむくれてベッドに入った。
「フランクおじさんが帰ったら教えてっていったのに! おじさんは今度帰った時はチェスを教えてくれるって、約束したんだ」
「旦那様はお着替えによられただけです。夜会服をお召しでしたでしょう? 急なおよばれだったようです。また、しばらくはお帰りになりませんよ」
「あのきれいな女の人は誰?」
「パーティーは女性同伴ですよ。旦那さまだってガールフレンドのお一人やお二人おいでになりますよ。さぁ。いい子にしていてください。ミルクを温めてきますからね」

 少し開けた窓から夏の風が入ってきて、バラの香りを辺りにふりまいた。本来ならばその甘い香りは、幸せな二人を包むはずだった。今は妙な空気をかき回すだけだ。
「フランク。叔父の事は誰にも話したことはない。理由は君と同じだと思う。はじめて話すよ。聞いてほしい。僕が十歳の時、両親が事故で亡くなった。フランクは父の弟で僕を引きとってくれたんだ。叔父さんがいるって知ったのはその両親の葬式の時だ」

 ウィルは、ただぽつんとリビングのすみに座っていた。
 両親の死をよく理解していない幼いウィルに優しい言葉をかけてくれたのは式を挙げてくれた牧師とその奥さんだけだった。
葬式が終わり、埋葬もすんだのだが集まった親族は牧師を客観的な意見をもらえる人材として、その話し合いの場に引っ張りこんでいた。遠い親戚は舞い込んだやっかい事に頭を悩ませていたのだ。誰がただ金のかかるだけの子供を引き取るべきか。親族がいるのだから施設も率先して引き取るとは言ってくれない。
 突然、車のエンジン音が大きく響き、砂利道にそれが停まる様子が響いたと思うが早いが背の高い大きな男がドアに現れた。
帽子をとったその顔に覚えがあるのは、親族の中で一番年かさの大伯母だけだった。
「フランク! あんた。生きていたのかい!」
「伯母さん。ご無沙汰しています。その子がウィリアムですか?」
「そうだよ。あんたの兄さんの子だ。ウィリアムこっちにおいで」大伯母はウィルを手招いた。
 フランクは、その大きな体をかがめ、ウィルを迎え入れると短く言った。
「今すぐ私と来るか? 来るなら連れてゆく」フランクはウィルの髪をくしゃりと撫でた。仕事から戻る父親がそうしてくれたのと同じ温かさを感じた。 パパの弟? 初めて聞
いた。全然似ていない。このおじさんは黒い髪だし、肌の感じも少し違う。でも、一緒に
来なさいと言ってくれた大人は彼だけだし、自分に触れてくれた親族も彼しかいなかった。
 フランクが立ち上がるとウィルの頭は彼の腰より低い。
「この子の身の回りの物は何もいりません。何か形見になる物だけ渡してやってくれませんか?」
 親戚は誰も席やその場を動かず、隣やその向こうの者とただ無意味な会話をかわすだけで、フランクに対峙する大伯母も手をこまねいているだけだ。
牧師が小さな写真立てをとるとウィルに渡した。両親が写っている。
「この家の唯一の財産は、結婚指輪くらいです。それは夫婦とともに埋葬しました」
「牧師様。ありがとうございます。では、これで失礼します」
 フランクは軽く一同を見回すと帽子をかぶり、ウィルの手を引き出て行った。
 牧師は、ほっとしたように大伯母に声をかけた。
「ウィルの叔父さんにあたるのですね。身なりはいいし、お金持ちのようだ。ウィルは安心ですね」
 彼女は、振り返ったが問題が解決したせいせいした顔ではなかった。
「あれとはとうの昔に縁が切れていますよ。ウィルの父親とは腹違いでね。母親は得体の知れない東洋人です」
 牧師の奥さんは顔を曇らせたが、この冷たい親族をたらいまわしに生活したり、無理やり施設にあずけられるよりは、ずっとよかったのだと思う事にした。
 二人を乗せたタクシーは走り出し、町に出ると洋品店に立ち寄った。フランクはウィルの着ているシャツと半ズボンにベレー帽とジャケットと蝶タイをくわえ、すっかり旅行の支度を整えた。そして行き着いたところは飛行場だった。
 タクシーに乗るのも初めてのウィルは、飛行機に乗るというそのすごい経験に興奮した。女優みたいにきれいな乗務員が幼いウィルを立派な紳士のように扱ってくれる事にまた驚き、横に座る叔父が飛行機に乗り慣れている様子に憧れのまなざしを向けた。そして、その日の夜には湿った空気と雨の匂いがする街に降り立った。
 初めて見る都会の夜をタクシーが走り抜ける。大きなビル。大きな道路。夜なのにどこもキラキラと明るい。見るものすべてが物珍しく、気になったものをやつぎばやに聞くウィルにフランクは丁寧に答えてくれた。
 瀟洒な石作りの家々が並ぶ一画に連れてこられると、その中の一軒の玄関で白いエプロンをかけた太った中年の婦人が迎え入れてくれた。
「おかえりなさいませ、旦那様。ウィル坊ちゃん。お腹はすいていませんか? お風呂に入ってから、ミルクと夜食を召し上がれ、ゆっくり眠ったら、朝ご飯をたんと食べられますよ」
 彼女は有無をいわさず、すべてをその通りに次々に実行した。
 天井の高い、ホテルのような部屋に連れてこられるやいなや、泡がたっぷりはいったバスに連れて行かれ、ドアの向こうでアンナの指示をうけながら、出ても言いと言われるまで出してもらえなかった。耳の後ろがきれいになっているか確認されるとパジャマを渡してもらった。それは少し大きかった。アンナは袖と裾を折ってくれた。それから大きなベッドに寝かせられ、ミルクとビスケットを食べ終わると頬にお休みのキスをして彼女は出て行った。
 ベッドは雲に寝ているみたいにふわふわで、ウィルは転がってみたり、はねて見たり、たくさんある枕の数を数えていたが急に瞼が重くなって眠ってしまった。しばらくすると誰かが暗い部屋に入ってきた。ウィルのおでこから髪をはらい、額にキスして、毛布を掛け直してくれたのをおぼろげに感じた。パパかママだ。二人が死んだなんて嘘なんだ。こうしていつもと同じにいてくれるじゃないか。ウィルは安心してもっと深い眠りに落ちて行った。
 翌日からもすべてがこのミセス・マクラフスキーの仕切りで進み、三ケ月を過ぎるころにはウィルは学校に通い、友達もできて大都会の生活になじんでしまった。
 ただ、フランクが家に帰る事はほとんどなく、帰ってきてもほんの小一時間、ウィルと過ごしてくれるだけだった。
 ウィルは自分の生活の基盤がしっかりしてくると、周りが気になりだしてきた。
「フランクおじさんは何のお仕事をしているの?」
 ウィルは、キッチンの横のテーブルでおやつのチェリータルトを食べながら言った。
「さぁてね。毎週ちゃんとお給金をいただいています。冷蔵庫にはたっぷりと肉も野菜もありますし、坊ちゃんの服はしみ一つありゃしません。いい学校にいっているし、何の不服がありますね」彼女も豆をむきながら言った。
「アンナに家族はいないの?」
 ともに寝起きする気のいい家政婦アンナ・マクラフスキーの事も気になりだした。
「亭主はむかーしに死にましてね。娘は、成人してカルフォルニアにおりますよ。坊ちゃんもよく勉強して、好きな仕事について、好きな所で暮らすことです」
「カルフォルニアは遠くだね。僕が大人になればアンナは子供に会える?」
 アンナは、ウィルの頭を優しくなでてきた。
「坊ちゃん。小うるさいアンナを早くやっかい払いしたいですか?」
 ウィルはびっくりした。
「違うよ! アンナ! 僕、アンナがいないと困るよ!」
 アンナは静かにほほ笑んだ。
いつもは大口を開けて大きく笑うのに……。いつもと違うアンナの顔。
 その顔はとても上品だった。
「坊ちゃん。アンナは昔、旦那様に助けていただきましてね。おかげで子供も大人になれました。それからアンナは、ずーと旦那様にお仕えしています。誰が何を言おうとご立派な方です」

「僕はフランクの庇護のもと何も考えずに暮らし始めた。そんな中で彼女に会ったんだ」
 フラウの白い咽が静かに動いた。
「それきり。彼女の姿を見ることはなかった。それからもフランクは忙しくて滅多に会えなかった。でも必ずクリスマスは一緒に過ごしてくれたし、一度だけ、休暇をとって旅行に連れていってくれた事もあった」ウィルは顔を上げ目に輝きが戻った。
「僕は十四だった。イタリアに行ったんだ。素晴らしい国だった。街そのものが芸術なんだ。僕は、その感動をフランクにやみくもにしゃべっていた。彼は、ノートと鉛筆を買ってくれて、そこに思いつくままをすべて書くようにと言った。なかなか鋭く感想を言えているから、旅行記にまとめるといいって言ってくれたんだ。僕の中の記者の目をフランクが見つけてくれた。帰国するとフランクは僕にタイプライターを買ってくれた。おかげでタイプの速さは誰にも負けない」
 ウィルは、ほうとうにただ想い出話をしているかのようにフラウに向いた。フラウも素敵な叔父さんだと頷いた。それをうけて少し笑いかけたが、それはひどくぎこちないもので終わった。
「あれは十七になったばかりの夏の初めだったと思う。僕はあらゆる物事にそれなりに考えを持てるようになっていたのに、フランクの仕事が忙しいという説明だけで家に帰るどころか、自身の部屋のベッドに眠る事もないのかという事には微塵の疑念も持っていなかった。考えれば変なもんだ」
ウィルがすこしばかり能天気でいられないのは、将来の進路を考え始める年頃になった事だろうか。彼はずっと遠くの西部の大学に進みたいと考えていた。それはひどく金がかかる事だ。引き取られた甥っ子と言う身分でそれは許される事なのだろうかとぼんやり思っていた。ウィルの曇りのない人生にほんの少しばかりの雲がかかったのは、そんな事を考え始めた頃。アンナがひどい夏風邪でダウンした夜に起きた。
 ウィルは、アンナのために缶詰めのスープを温め、部屋に運んだ。アンナは、申し訳ないとか、坊ちゃんに介抱されるなんてなどと熱が下がりきらないうるんだ目で言い、スープを一口飲んでは、また似たような事を繰り返した。 ウィルは早々に退散したい気持ちを気取られないよう相槌を打っていた。まだ許されていない九時以降の外出を予定していたからだ。友達の兄さんが帰郷していて、その仲間と高校生の弟仲間が呼び出されたのだ。みんなでダイナーに集まり、あわよくばラムコークを飲めるかもしれないし、大学生の女の子にも出会えるかもしれない。
 突然の電話のベルの音にアンナはぴたりと口を閉じ、ウィルは、あたりを見回した。電話は玄関ホールにおいてあるだけなのにベッドの横の棚の中からそれは聞こえていた。
 アンナの方を見ると彼女は、ひどく青白い顔で小さく頷いた。ウィルは棚を開け、隠された電話の受話器を上げるとそれをアンナに渡した。電話の相手は一方的に何か話しているようだがウィルの好奇心は別の方に向いているのでこれ幸いとドアに向かった。
「いいえ! いいえ! どうにか歩いてみます! でも旦那様……でも……それは……」アンナの悲痛な声がドアを閉めかけたウィルの手を止めた。
「坊ちゃん代わってください……旦那様からです……」
 代わるといつもの落ち着いた深い声が聞こえてきた。
「ウィル。今から女性が訪問する。わたしの書斎に通しなさい。彼女がそこで必要なものをとる。書斎の鍵がどこにあるかはアンナに聞きなさい。お前は鍵を渡し、受け取るだけだ。部屋には入ってはいけない。約束しなさい」
 一言だって口をはさめない迫力にウィルはただ頷いた。それでよしとフランクは電話を切った。
今度は玄関のベルが大きく高く鳴った。
「アンナ。書斎の鍵はどこ?」
 玄関ホールに急ぐとそこに女が立っていた。白いスーツとそろいの帽子にはベールがかかっていて顔がよく見えなかったが、間違いなくずっと前に会った白いイブニングドレスのあの女性だと思った。
 彼女は無言で白いバックをウィルに投げるとまっすぐに書斎に向かって歩き出した。ドアノブが言うことをきかないのがわかると彼女は憤然とウィルに向いた。
「鍵は? 早くして!」
「待ってください……。今、持ってきます」ウィルは、はじかれたようにキッチンに向った。その背中を追い立てるように女は「早く!」と急いて言った。
 ウィルは、棚を開けると、並んだ調味料の瓶に目を走らせた。砂糖、塩、オイル、小麦粉、イースト、押し麦……。あった。押し麦の瓶の蓋の裏に鍵が隠してあった。
 走って戻ってきたウィルから女はそれを受け取ると鍵を回し、ドアを大きく開けるのももどかしいとばかりに細く開け、滑り込むように部屋にはいると覗き込もうとするウィルの鼻先でドアを閉めた。
その書斎は、フランクの部屋と隣り合わせで、おそらく続き部屋になっているのだろうが両方とも常に鍵がかけてあり、ウィルは一目とのぞいた事がなかった。
 女はまた同じようにドアから滑り出てきた。胸にはマニラ封筒が抱えられていた。彼女は鍵を閉めるとウィルの手からバックをもぎとり、鍵を返してよこし、そのまま出て行った。
 ――ウィルの手には鍵がある。
「坊ちゃん! 後生ですから。こちらに来てください! 」アンナが大声でウィルを呼ぶ。
 まるで彼の好奇心を見透かすようだ。
 ウィルは鍵を強く握りながら、アンナの部屋に向かった。
 アンナはベッドにひどく弱弱しい様子で収まっていた。
「坊ちゃん。鍵をアンナに返してください」
「アンナ……鍵をまだ閉めてないから、閉めてくる」
「いいえ。鍵の閉まる音を聞きました。エレノア様が閉められました」
 ウィルは、鍵を渡した。アンナは鍵を握りしめた手を毛布の中にしまい込んだ。
「アンナ、彼女はずっと前にフランクとパーティーに出かけた女性だよね? エレノアっていうの?」ウィルは鍵の跡がついた手のひらを見るともなしに見ながら言った。
「坊ちゃん。休ませてください。薬が効いてきてやっと眠ります。明日には起き上がれますよ。ご不自由かけました」
 ウィルは、車のクラクションを小さく鳴らして合図してきた仲間と落ち合い、夜の街に繰り出したが半分も楽しむことはできなかった。

 ウィルの目の端にテーブルクロスが舞ったかと思うとバラの花が水をまきちらして、ばらけた音とともに床に落ちた。
「フラウ!」
 フローレンスはクロスを握ったまま床に座り込んでいた。彼女の体はひどく震え、その目は恐怖におびえている。真っ青になった唇は何かを言い続けているが、声は聞こえてこない。ウィルはそばにしゃがみ込むと彼女の肩に腕を回した。彼女は小さく体を丸め震え続けた。
「フラウ。落ち着いて……さぁ、ソファに座って。水に濡れている」手を貸して立ち上がれせようとした時。彼女の巻き髪がスーツのボタンにひっかかり、持ち上がった。
 ウィルは、はからずもその耳を見てしまった。
 耳はわずかに土台をとどめているだけだ。
切り取られた……その表現がぴったりだった。
 突然、フローレンスは強い力でウィルの体を押しのけ、よろけながらも立ち上がり、守るようにその腕を両肩に強くまきつけた。
「そんな目でみないで……」
「フラウ。僕は何も……」
「みんなが見るの……みんなが口ぐちにささやくの……運び込まれた病院でも看護婦が噂していたわ。やってきた警察もみんなわたしを……蔑むように見たわ」
「フラウ。落ち着いて、僕はそんな風には思っていないよ」
「あの人は違った。会ったことのない上品な婦人が病院にやってきたの」
フローレンスは、とても落ち着いた声だ。でも。その目は酷くうつろだった。
「名前は名乗らなかったけど姉の代理で来たと。彼女は、とても愛情に溢れた温かいまなざしでわたしの頬をなでてくれた。ママみたいだった。その人はわたしに生まれ変わるために必要なものをすべてくれた……。新しい出生証明書には、フローレンス・チェンバースって書いてあった。彼女は言ったわ。すべて忘れて生きなさいと。わたしは、フローレンスになって、そしてシカゴを離れてこの町に来たの。四年前よ……」
 ウィルは、フラウのそばにそっと寄った。フラウの肩が小さく強張る。ウィルは、やわらかな布地の袖だけにふれるようにして、ソファに座るように促し、自分は少し間をとって立った。
 フラウは、背をのばし、崩れた様子もなくそこに座った。白い靴がまるで陳列されているようにそろえられた。
 彼女の目は、何も見ていなかった。
 ウィルは、床に落ちたバラを拾い、元に戻し始めた。

 書斎を開けた夜から数日たった午後にフランクが帰ってきた。
「フランク! おかえりなさい!」
ウィルがはやる気持ちでリビングに走り込むと、大きな白い帽子が振り返った。
 優美な白いレースのサマードレスのたっぷりした裾をゆらしながら、嫣然としたほほえみを赤い唇に浮かべ、エレノアはウィルのすぐそばに寄ると帽子をとった。
「ウィル。紹介がまだだったな。彼女はエレノアだ」
 彼女は会うたびにまるで印象が違って見える。今日のエレノアは肩先で髪をかわいらしくカールさせ白いカチューシャをしていて、まるでどこぞのご令嬢のようななりだ。
「すっかり大人になったわね。前に会った時はとても小さかったわ」言いながらエレノアは、まっすぐに手を差し出してきた。
 先夜、会った事はなかった事にしろというのだろうか? 
ウィルは怪訝な気持ちを持ちながら、美容師によく手入れさせたマニキュアを塗った白い手と不自然な形で握手をした。
 エレノアは小さく笑った。 
「レディが手の甲を差し出したら、キスするのが礼儀よ」
スカートをゆらしながらソファに腰かけ長い足を組んだ。
「フランク。そういう事、教えてあげなさいな」
「必要ない」フランクはほんとうにそういう表情で煙草に火をつけた。
 ウィルはフランクがいつも座るたっぷりとした一人掛けのソファの袖に座った。
「チェスは教えてくれるよ。全然、勝てないけど」
「男性は戦うことばかりね。いいわ。ウィル。わたしがガールフレンドとうまく付き合える方法を教えてあげる。好きな子いるの?」かわいらしく首をかしげる姿にウィルはドキリとしてしまった。
「別に……今は、勉強が一番だし……あの……それより、あなたは、年はいくつなんですか?」ウィルは気はずかしいのを隠そうとあわててしまった。
 エレノアは、唐突に失礼な質問に目を瞬いた。
 フランクが大声で笑った。
 ウィルは、フランクがこんなに笑うのをはじめて見た。それから自分がとんでもない事を言った事に気が付き、耳まで真っ赤になった。
「す、すみません! その、変わらず若くて美しいので……なんだか時間が止まったみたいで……」
 エレノアは気を悪くした風もなく、目に優しい笑みを浮かべ、バッグから細い煙草をとりだすと口にした。笑いを抑え込んだフランクがそれに火をつけてやる。
「わたしは秘薬をもっているから永遠に年をとらないのよ。でも他の女性にはけっして聞いてはいけないわ」
彼女は投げキスするみたいにすぼめた唇から煙を吐いた。ピアスのダイヤが窓から射す夏の陽を受けてきらりと輝いた。
 片方だけだ。
「あの。ピアスを片方、落とされていますよ」
「大丈夫よ。片方しかないの。もう片方はわたしの大事な人が持っているのよ」
 ウィルの視線はそのピアスと甘い声で言葉を繰り出す魅惑的な唇の両方をとらえていた。
その人は男? 女? 男ならばどこにつけるのだろう? ウィルはちらりとフランクの耳
を見おろした。もちろんそこにはなにもない。
「そのピアスで一年暮らせるぞ」フランクは、ウィルを現実に引き戻すかのように体を起
こし、テーブルの灰皿に煙草の灰を落とした。
「さぁ。エレノアに気付かれずピアスを奪うには、どうする?」
「そんなの無理だよ」ウィルは、はしゃぐように言った。フランクが勉強を教えてくれる時によくそんな言い回しをしていた。この三角をもう一つ作りたいんだ。さぁどうする? 
 懐かしくなった。
「教えてあげるわ。ウィル。簡単よ。女の子が夢中になるキスをしてあげている時にとるのよ。優秀な怪盗は恋愛も優秀なものよ。リュパンに学びなさい」
 ウィルは目をくるりとまわした。「あなたも怪盗物を読むんですか?」
「ええ。大好きよ」
 アンナがワゴンでお茶を運んできた。三人が楽しそうに、たわいのない話に花を咲かせている光景にあまりいい顔をしていない。
「ありがとう。アンナ」ウィルは、素早くそばによると茶器をとり、それをエレノアに渡した。
「ミルク? レモン?」
「いいえ。何もいらないわ。ありがとう」エレノアは優しくウィルを見つめた。
 お茶を渡すだけで彼女の騎士になった気分だった。その奇妙な昂揚感はアンナによって遮られた。
「ああ! 坊ちゃん。忘れました! たいへんだ。キッチンに行ってください! 早く! アンナを助けてください」アンナは、ウィルのシャツを引っ張ると連れ出してしまった。
エレノアは、ほほ笑みながら二人を見送った。
「アンナにとってはいつまでも子供なのね」
「エレノア」フランクは、いつもの冷静な顔だ。
「ウィリアムには、かかわってくれるな。あの子はこっちの子だ」
「ええ。わたしのあの子と同じね。でも……わたしのあの子は闇を知ってしまったわ。あなたも気をつけなさい。彼がいつ囚われるかわからないわよ」
「――明日には、すべて整えられる。君が行くか?」
 エレノアは横に置いた帽子をかぶり直すとバックをとり、ドアに向かった。
「会えるわけないでしょう。アンナにお願いして頂戴。彼女が適役よ」エレノアは、ドアに手をかけ振り向いた。
「フランク。感謝しているわ。あなたがあの情報を渡してくれたから。でも、あなたには痛手を負わせてしまった……この借りは必ずお返しするわ」 
エレノアが帰ってしまったと聞くとウィルはひどくがっかりした。でも、めずらしくフランクが夕食を一緒にとると言うので、ウィルのふさぐ気持ちは一掃された。
ゆっくりフランクと過ごすのは、ほんとうに久しぶりだった。アンナもはりきってテーブルには乗り切らないほどの料理が並んた。
 フランクはウィスキーソーダを飲みながらウィルの話に耳を傾け、相槌をうったり、彼の小さな悩みに的確なアドバイスをくれたりした。時たま、ガールフレンドの事もまぜたが、少しばかりいいように言っているのは、フランクにばれているようだ。
「夢は新聞記者か……」フランクは、グラスを見つめた。
「後を継いでほしい? でも僕はあんまり数字に強くないからな」
 フランクは、少しだけ目線を泳がせた。
「フランクは公認会計士でしょう? アンナが教えてくれた。いくつもの大きな会社が顧客だって……お金持ちだから僕を引き取れたんだね。必ず、恩は返すよ。まっていて」
「恩など感じなくていい。ウィル。お前は兄の子だ。わたしが引き取るのが当然だ」
「でも……知らなかった。叔父さんがいるって……」
「お前も大人だ。理由は分かるだろう」フランクは、親指をこめかみにあてた。
 それは、その肌と髪と瞳の色すべてをさしている。ウィルはそんな事は意味のない事だとわかっているし、気にした事などなかった。フランクの風貌はサングラスをしてしまえば、典型的なブルネットのアメリカ人と変わらない程度だ。ただ、この大都会にあっても有色人種との混血は、もっとも嫌われる風潮がなくはない。フランクがずっとそばにいてくれない理由はそのせいなのかもしれないと思う事もあった。でもフランクがもっとも近い肉親であることに変わりはない。
「最近、後ろ姿が似てきたってアンナに言われるんだ。背だって近くなったでしょう? パパもフランクもおじいちゃんも背が高いから、そういう家系なんだね。卒業パーティーにフランクのタキシード着られるかな?」
「肩が合わないだろう。近いうちに仕立てに行きなさい」
「一緒に行ってよ。正装なんてどうしていいかわからない。服を買いに行くなんて、はじめて会った時以来だよ」
「――そうだったか」
「そうだよ。覚えてるよ。あの町で一番高い店だった」
 フランクは、何とか都合をつけると約束した。ウィルは調子にのっているのを十分に感じながら、ずっと聞きたかった事を思い切って聞くことにした。
「あの。エレノアはフランクの恋人なの?」
 フランクの頬に厳しい影が戻った。
 言ってはいけない事を言ってしまった気まずい空気が襲うのをウィルは感じた。でも、そんな悪い事を聞いているわけではないはずだ。もしかして……ウィルの頭に別の扉が開いた。
「僕がいるから結婚できないとか……なの?」
 メインの料理を誇らしげに運んできたアンナは、そこに足を止めた。
「ウィル」フランクは、いつもの静かな深い声で言った。
「エレノアはビジネスパートナーだ。彼女は自立した新しい女性だ。誰であっても彼女を恋人や愛人や家庭の主婦だけにおしこめることはできない」
 フランクは手をかざしてアンナに合図を送った。妙な空気を一掃するようにアンナは二人の間に大きな体を割り込ませた。
「さぁさぁ! アンナ特性のローストチキンですよ! たんと召し上がれ」
「ミセス・マクフラスキー。あなたも席について。せっかくだ。一緒に。ウィル。椅子を引いて差し上げなさい」
「まぁ! そうですか。では遠慮なく!」アンナは大袈裟に笑い、エプロンをとりながら椅子を引くウィルにウィンクをしてきた。
 フランクは主人として、鮮やかな手つきでチキンをさばきとりわける。その後は、アンナの日常の世界についてのこまごまとした話やウィルの子供時代の思い出やら彼女の独壇場で終始した。


「アナスタシアとフローレンス」
 何も言わず、花を片付けるウィルの背中にフローレンスは小さく唇をひらいた。
「わたしの本当の名前は、アナスタシア・ヴァルナフスキー……。姉はエレオノーラ」
 ウィルは、心臓が跳ね上がるのを感じ、ゆっくりとふりかえった。
「両親は、ロシア革命で亡命してきたロシア貴族よ。姉は、アメリカに向かう船の中で生まれたのですって。わたしは、姉とは年がずいぶん離れているの。わたしが五歳の時には、姉は家出をして行方知れずになった。それから流行病で両親を亡くして、わたしは施設にはいったわ。今までも貧しかったけれど、施設の生活はもっと酷かった。ある日、きれいな女の人が迎えに来てくれた、その時にこのピアスをくれたの」
『アナスタシア。これは、お父様とお母様が国から持ち出した宝石で唯一残った物。皇帝陛下から賜った品なの。わたし達は一緒にはいられないけれど、これをお互いに身に着けましょう。そうすればいつも一緒よ』
「姉の事を恨んではいないわ。今でも会えるなら会いたい。姉は両親と幼いわたしの暮らしを少しでも楽にしようと闇の世界に身を投じていった……。いつかはみんなで祖国に帰りたいと思っていた。でも革命後の祖国は自由を失い、いろんなものを見失う国になってしまった。もう戻る事もかなわない……。彼女はいつもそれを憂いていたわ」
「ロシア革命は、起こるべくして起こった」ウィルは何を場違いな事を言っているのだろうと思った。「専制政治のいきつくところだ」まったく関係ない。自分は混乱している。
 フラウは、デパートでわがままな客を相手にしている時のような、そういう仕事的に作りあげた笑顔を向けてきた。
「難しい事は、わからないわ。歴史は苦手だし。自分の両親が童話の世界の王子様やお姫様みたいな暮らしをしていたって、不思議に聞いていただけだもの」
 フローレンスは、うつむいて指輪を抜いた。
「お返しするわ。わたしの秘密はお墓まで持っていくつもりだった。虫が良すぎたのね。まさかあなたが……ずっとかかわりがある人だったなんて」
「フローレンス。僕は、君に起こった事を知っている。でもそれで君を嫌いになったりしない。蔑むなんてそんな気持ちはみじんもないのは信じてほしい」
 ウィルは、まっすぐにフラウを見つめた。
「じゃあ……なぜ、あなたは、この世が終わったような顔をしているの?」
「それは……」
「気持を隠さないでいいのよ。わたしのような娘にプロポーズをする人はいないわ。でも、少しでもまだ優しい気持ちがあるなら……わたしを一人にしてちょうだい」
 フローレンスは、ウィルを見ないで指輪をそのポケットに押し込み、ふり急ぐと寝室に入ってしまった。
 鍵の音が二人の間の大きな見えない溝をなぞった。
 ウィルはドアに寄ったがかける言葉がみつけられず、そのまま部屋を出るしかなかった。
さっきとは、えらく違う気持ちでらせん階段を降り、外玄関の大きな水たまわりをまたぐのを忘れ、足をとられて靴の中に水が湿った。
とてつもなく、やりきれない気持ちがその嫌な冷たさのように体中に広がって行く。それを吐き捨てるようにポケットの指輪を路地に向かって投げると道を進んだ。
 歩きながら、ウィルは記憶をたどっていた。

 季節は秋になった。
 ウィルは上着に袖を通しながら階段を駆け下り、キッチンに入ると、アンナに朝の挨拶を投げ、当たり前のように用意されている朝食を食べ始めてから、アンナがいつもと違う事に気が付いた。
 アンナはきれいに化粧をほどこし、彼女の赤毛と緑の瞳によく似合うバラ色のスーツを着ている。その服は太っているばかりと思っていた体にも、ちゃんとウェストがある事をしらしてくれている。テーブルの端には帽子と手袋とバッグも置かれている。
「エプロン以外のアンナを見るのは久しぶりだな。すごく素敵だよ。どうしたの? どこかに行くの?」
「ありがとうございます。あの、娘が……急にこちらに出てくる事になって、急ですが出
かけさせていただきます。その……少しばかり帰りが遅くなるかもしれません……」
「カルフォルニアの娘さん? 」
 アンナは頷いた。
「なら。ゆっくりしてきなよ。一緒に泊まってくればいいし、夕食は外ですますよ」
「いえ。娘も乗り継ぎの途中で。あの……食事はガイの店に予約をしてまいりましょうか?」
「あそこは一人で食べに行く店じゃないよ。友達とダイナーにでもいくから」
 アンナは、頷きながら、オレンジジュースを継ぎ足した。
「心配なら、八時に電話して。ちゃんと家に帰っていると約束するよ」ウィルはジュースを飲みながらウィンクした。
 学校が終わるとウィルは、八時どころかすぐに家に戻った。一度やってみたかったささやかな冒険をすることにしたからだ。それはリビングのソファに寝っころがり、テレビを観ながら、たらふくハンバーガーを食べる事だ。ウィルは準備をととのえるとテレビのスィッチを入れた。ちょうど子供向けのアニメが始まった。頭を空にして観るには最適な番組だ。アンナが鏡のように磨く革のソファの袖に足を延ばす。アンナやフランクがいたら絶対にゆるされない事だ。二人にはなんの不満がないがとかく行儀に関してはうるさすぎる。気の合う仲間との気兼ねない時を二人が見たら、どれだけ眉をひそめるか。ばらまいたポップコーン。コークの栓を窓枠で抜きそのまま飲む。座るのは椅子でなくテーブル。ガールフレンドの肩を抱きよせている。彼女の笑顔がこちらを見上げる。
 突然その顔はエレノアになった。
「あら。坊やだけなの?」
 ウィルは、バーガーを喉に詰まらせた。
開け放してあったドアにエレノアが白いビーズのイブニングドレスで立っていた。
「フランクはまだかしら? 約束しているのだけど」
「あ、あの、約束しているなら戻るでしょう。車が………混んでいる時間だし」起き上がり、苦しい息をコーラで押しこんだ。
 エレノアは、そうねと頷くとまるで水の上を進むように歩き、当たり前のようにウィルの隣に座り、頬杖をついてテレビを観た。
ウィルはあわててテレビ番組のチャンネルを替えにいき、ソファに戻ったが思いのほかエレノアと肩がふれあったので、腰を上げて食べかけのバーガーをテーブルに置き、ナプキンをとるとソースだらけの手と口を拭きながら、間をあけて座り直した。
 夕方のニュースが流れた。
 また、ギャングの抗争だ。レストランでどこぞのボスが襲撃されて一般人も巻き添えをくったようだ。
「マフィアは専門のレストランで食事するべきだ。そうでしょう? マフィア専用の道路もあればいい」ウィルは、コーラを飲み干した。
「それでは、人種差別と同じよ」
「違いますよ。区別だ。マフィアは悪い事ばかりしでかす。ひどい事ばかりする政府も警察ももっと厳しく取り締まればいい」テレビを観たまま言った。横はむけない。すぐそばにエレノアの体温を感じる。咽のあたりが熱くなった。
「ウィル。ニュースになっているマフィアの事件は、みなが喜ぶ派手で物騒な事件だけよ。物事には裏と表がある。真面目な会社員だけど、家庭では妻に暴力をふるう亭主もいるし、マフィアのボスが孤児院を建てる事もある。善良な市民が殺人を犯したり、強盗犯が保安官だったこともあるわ」
「そうだけど。でもマフィアのやっていることは理不尽すぎ……」
 エレノアの美しい顔が自分を覗き込んでいた。
彼女は体をななめにぐっとウィルのそばに体を寄せている。さっきの幻が現実になった。ウィルの瞳は、驚きでせわしなく動き、心臓の音が耳元で聞こえている。
「きれいな青い瞳ね。わたしを見て……」彼女の細くて長い指がウィルの髪に伸びた。
「ウィルは、女の子にもてるでしょう? 背も高いし、ロマンチックな顔立ち、きれいな金色の髪。王子様みたいだわ」
「あ……あなたこそ……地中海のような青い色だ。とても……きれいだし」
「まぁ。口説き文句が言えるようになったのね」エレノアの甘い息が唇にかかった。
「地中海を見たことあるの?」
「子供の時……フランクがイタリアに連れていってくれたから……」
「子供……? 今もまだ子供よ」
「そ……」エレノアの赤い唇が出かかった言葉をふさいだ。
 背中がソファについて、エレノアのやわらかい胸が自分の胸に押しあたるのを感じた。ガールフレンドとするキスとはまるで違う。ウィルは頭の中で火花が散るように感じた。
エレノアからはとてつもなくいい香りがする。それはウィルの気持ちを余計に高ぶらせた。ドレスの背中は大きく開いていて、そのなめらかな肌に触れる事ができる。むろん彼はそうした。すいつくような肌の感触は余計に火花を大きくし、それは全身をかけめぐった。
 ウィルの夢心地は、突然、玄関が激しく開いてしまる音で邪魔された。
エレノアは、素早くそちらに向かって行ってしまった。
 ウィルは、妙な温かみの残る唇を手の甲でぬぐうと、そこにまるで血のように口紅がついているのを不思議な気持ちで見つめた。
「ウィル! こちらに来て!」
 慌てたエレノアの声が響いたと思いきや、すぐにまたもやドアが開き、今度はアンナの叫び声が響いた。
「だめです! だめです! 来てはいけません!」
「ウィル! 手伝って!」遮るようにエレノアが叫んだ。
 さすがにただならないものを感じウィルは玄関ホールに飛び出た。
 すぐに目に飛び込んできたのは転がっているフランクの帽子だった。それから、エレノアが、ホールにしゃがみ込む背中。彼女の腕の中にフランクが倒れていた。
回り込むとフランクの黒っぽいスーツに黒く広がるシミがみてとれたが、エレノアの白いドレスが赤く染まっているのでそれが血だとわかった。
「何があったの?」ウィルは文字通り青ざめた。
「アンナ。ドクターに連絡して! わかるわね。本物の医者を呼ぶんじゃないわよ!」
 アンナは、転げるように奥に消えた。
「ウィル。わたしが足を持つから。あなたは頭の方を。部屋に運ぶわ」
「む、むりだよ、僕より背が高い……」ウィルは棒のように立っているだけだった。
「しっかりしなさい! フランクを玄関先で死なすつもりなの!」
 エレノアの形相にウィルは従い、途中、戻ってきたアンナもくわわり、フランクの体をどうにか部屋の前まで運んだ。アンナは鍵を手にしていてすぐにドアは開いた。アンナが慣れた手つきでスィッチを入れ、壁の小さな明かりがついた。彼女は先に進み、寝具をめくり上げ、枕をならすとこちらに戻り、三人がかりでフランクの体をベッドに横たえさせた。それからアンナはバスルームに入り、小さな箱とタオルを持ってエレノアのそばに寄った。エレノアは、箱からハサミを取り出すとフランクの上等のスーツやシャツをかまわず切り裂き、取り除き、タオルで流れる血を押さえた。
 ウィルは、ただ部屋を見回していた。ひどく殺風景で、ベッドと小さな物書き机と書斎に通じるドアが幾何学模様のカーペットの上に存在しているだけだった。
 しばらくすると「ドクター」と呼ばれるパサついた髪と無精ひげの中年の男がよれよれの白衣を着て現れた。彼が医者らしい黒い診察バックからさまざま器具をとりだし、エレノアとアンナが看護婦のようにそれを手伝い始めた。ウィルはやっと我に返って口を開いた。
「まってよ! どうして救急車を呼ばないの! これじゃ死んでしまうよ!」
 振り返ったエレノアが、ウィルの頬を打った。
「黙ってなさい!」
 おかしいとウィルは思った。アンナもエレノアもこのドクターも……何か共有している。自分だけが知らない。そんな空気が漂った。
 フランクのうめき声が乾いた部屋にくぐもった。
「気づいたか。もう大丈夫だぞ」
「フランク! 奴らね!ロッソの手の者でしょう! 汚いやつら! わたしがかたをつけるわ!」
「もうボスが動いてくれている……お前は黙っていろ」
「いいえ。ボスに任せられないわ。あの件だって頼んだのよ! 妹を助けてくれって、でも助けてくれたのはあなただった。あの一件を渡してくれたから……妹は解放されたのよ」
「エレノア……ボスは家族を守る。お前の妹は違う……向こう側は守れない……」
「多少のリスクはあると思ったけれど、こんな手で出てくるなんて…」
「しゃべるな。フランク。よけい血が足らなくなる。誰か、同じ血液型は? Aだ」
「僕が……同じです」
「よし。腕をだせ」ドクターは止血用のゴムを振り回した。
ウィルはベッドに腕を乗せるかっこうで床に座り込んだ。
「若いから、多少とっても死にゃせんだろう」
「ドクターやめてください。坊ちゃんに何かあれば、あたしは生きられません」アンナは泣き声だ。
「ふん! なんだそりぁ」鋭い灰色の瞳で周りをみまわした。
「だいたい、堅気の人間をそばに置くのが間違っているだろうが。エレノア。あんたもそうだ。妹に情をかけたがためにグランデのやつらに誘拐されたんだろう? よりによってあのグランデだ。フランクがやつらのほしがるロッソの情報を流したから助かったんだろ? おかげでフランクはロッソの奴らにこれだ。まぁ逆なら、完全に湖に浮かんだけどな。ロッソならばこれ以上は手を出さんよ。ボスが動いたならなおさらだ」ドクターは、体を起こしエレノアにまっすぐに向くともう一度言った。
「ボスが動いたんだ。なぜ、フランクがやられたと知っている? あんた。わかっているだろうな」
 エレノアはウィルの背後に立っている。でも彼女の体が強張っていくのをウィルは感じた。
「ロッソはボスにフランクの小さな裏切りを訴えたんだろうな。道理を反したフランクへの報復はよしとするしかなかったはずだ。そうしなければ他の仲間に合わせる顔はないからな」
「……わかっているわ。わたしはまたフランクに救われた」
 アンナが小さな声だが厳しい響きで遮った。「やめてください。この家でそんな話はなさらないでください」
 ウィルは、血がとられているせいだけではなく、気分が悪くなっていくのを感じた。彼らが言っていることは、まるでテレビで観るギャング映画の中で言い交されるようなものばかりだ。
 ウィルの気持ちに気づいたかのようにフランクの手が伸びて、管で繋がれたウィルの手に力なく触れた。ウィルは、フランクの顔を見つめた。真っ青なその顔は、ぐっと年老いて見える。フランクはいくつなんだろう。聞いたこともなかった。でも、その手は変わらず温かい。ウィルはただ、管を流れる血をじっと見つめた。それは血液型が同じだけでなく、肉親のつながりのある血なのだ。
 
 ドクターの遠路のない血の取り方のせいなのかウィルは一人で歩けず、彼に支えられて部屋のベッドに体を横たえた。そうしても自分の体の重みが感じられなかった。
 ウィルの部屋は、最初に眠ったベッドルームのままだがフランクの部屋とは対照的に生活感のある部屋に変わっていた。本来ならモダンな名画の一枚がかかっていそうな壁紙には、構うことなくピンでポスターが貼られている。チェストの上にはラグビーボール、バスケットボールに野球のバッドとウィルが興味を持った残骸が本にまぎれて無造作に置かれていたが、勉強机の上だけはそこが神聖な場所のようにきれいに片づけられてタイプライターが王座に就くように置かれていた。
「ドクター……。教えて」ウィルは、絞り出すように言った。「みんな……マフィアなの?」
この男ならなんでも話してくれそうだと思った。
「何もはなさんぞ! フランクに殺される」
「フランクは人を殺すの? ……」自分の声は震えている気がした。
「……むむ…フランクは金庫番だ! マフィアにもいろいろ役目があるんだ。もうしゃべらんぞ!」ドクターは、鞄の中をごそごそと探り、薬と注射器を取り出した。
 ウィルは胸がざわめいた。
「アンナも?」
ドクターは、何かの注射の針をウィルの腕に刺した。
「アンナはロシア人だ。若い頃にロシア革命を逃れてこっちに来た。貴族様に仕える女官だったそうだ。まぁ、今は、どこにそのお上品さをやっちまったのかなってな……はっはっ!」
 彼のしゃべり方には独特の乾いた訛りがあったが聞き取りにくくはなかった。彼もどこかの国から来たのだろうか?
「――エレノアの妹は、無事に戻ってきたの?」
「無事? お前の無事の基準がわからんから答えられん」
「骨を……折ったりとか……」
「折っていない」針を抜く。
「ひどく殴られたりとか?」
「いんや」綿をテープで止める。
「じゃあ……。そんなひどい目には合わなかったんだね」
ウィルは固くなった心臓に血が巡るようなそんな感じを覚えた。ドクターは立ち上がりながら鞄に使った器具を放り込み、口をへの字に曲げて小さく言った。
「妊娠はしなかった」
 ウィルは、自分がほんの世間知らずの坊主でしかないと思い知らされた気分だった。それから、あまりの不快さに吐き気が襲ってきた。体を起こし、真っ青になって手で口をふさいだウィルを見て、ドクターはあわてて周りを見回したが何も受けれそうなものがないのがわかるとベッドカバーをはずして丸め、彼の口の下に持ってきた。
 ウィルは顔を横に振った。吐き気は胸で収まったが不快感はぬぐいきれない。
「言っておくが俺たちの仲間は、ロッソやグランデの極悪かつ馬鹿な組織とは違うぜ。政府の高官も仲間にいるんだ。格が違う。変な目で見ないでくれよ」
「マフィアにそれ以上も以下もないよ……」
 ドクターはほんの少しやれやれと口にしてから、落ち着いた感じのよい言い方で口を開いた。そういうしゃべり方もできるのだ。
「お前、まだ高校生だろう? それでも色々あったはずだ。俺たちはお前の倍以上も生きている。もっと色々ある。大人になればなるほど事情も複雑になる。自分の責任においてそれを解決していく。それをとやかく言うな。な?」
 彼はまるで鉛を持ち上げるように小さくうめきながら鞄を持ち上げるとドアにむかい、おおそうだと振り返り、糊がきいた清潔なハンカチを投げてよこした。
「坊主。口がピエロみたいになっているぞ。ふいとけよ」

 額に感じたタオルの冷たさでウィルは目を覚ました。どれくらい眠ったのだろうか……。まだ夜の匂いがする。
「……アンナ。今、何時……?」
「一時よ。気分はどう?」
 エレノアの甘い声が耳元に聞こえた。ウィルは全身で驚いたが体は重く、跳ね起きる事はできなかった。
「熱が出ているのよ。朝には下がるだろうってドクターが言っていたけど」
 スタンドのわずかな明かりが、つややかな白いナイトガウンに金髪の巻き毛が流れているのを浮き上がらせている。
「今夜から、しばらく泊めてもらうことにしたの……」言いながら、ウィルの頬の汗をふき、その手が首に流れた。ウィルは、またエレノアがキスしてくれたらと妙な気持ちを持った。
「ア……アンナがそんなおしゃれな寝間着を着ているなんて……意外だな」
「借りたのではないの。わたしのよ。女のバッグと車のトランクにはいろんなものが詰ま
っているのよ」
「マシンガンとか……死体も……?」
「ウィル。あなた、テレビの観すぎよ」
 エレノアは立ち上がり、テーブルの洗面器の冷たい水にタオルゆらした。氷の冷たい空気がわずかに流れてきて、ウィルは冷静さを取り戻した。
「みんな……マフィアなんだね」
「一言で片付けられるものではないのよ」エレノアは白い背中で答えた。
「妹は……もう大丈夫なの?」
 エレノアは少しこちらに横顔を向けた。
「ウィル。妹はあなたと同じ年よ。まだ高校生なの」
 ウィルは、息を飲んだ。勝手にすっかり大人の女性を想像していた。同級生の無邪気な女の子達が浮かんで消えた。
「あの子は違う土地で違う人間に生まれ変わるの……。世間は冷たいわ。誘拐された若い娘は、蔑まれた目で見られるものよ。何もなくてもあってもね」冷たいタオルをウィルの額に乗せてきた。
「私が言っている意味……わかるでしょう?」のぞきこむようなエレノアの瞳に冷たい影
がよぎって消えた。
ウィルは小さく頷いた。
「だから違う名前を与え、違う人生を歩ませるのよ。でもそれも組織の力だわね……皮肉だわ」
 あの夏の夜、ベールで隠した顔から、ちらりと見えた唇は色を失い、鍵を開ける手は小刻みに震えていた。
「マフィアは、人質の体の……一部を切り取って送りつけるって本当?」
 エレノアは、答えに間をとるように優美な足取りでドアに進むとそれを開け、こちらに振り返った。
 廊下の明かりがエレノアの全身を縁どって輝かせた。
「ほんとうよ。おやすみなさい。ウィリアム」


 翌朝、ウィルは目を覚めすと素早く体を起こして、まだ気分が悪いのか確かめようと頭を右に左にふり、肩をまわしてみたりしたが熱はすっかり下がったようだ。ただ、ずっと嫌な悪夢にうなされたせいか気分は晴れなかった。悪夢の一つは、フリルがいっぱいついた水玉のドレスを着たドクターとダンスを踊っていた。
ウィルは熱いシャワーでその奇妙な映像を始末すると身支度をして階下に降りた。
「まぁ。坊ちゃん。やはりお若いですね。朝食を召し上がれそうですね。今、旦那様の様子をみてからすぐに戻りますから。あ、好物のチェリータルトも焼きましたよ。それから今朝の朝食はダイニングでお願いします。なにせお客様が多いですから」
 アンナは、まるでフランクは風邪を引いて臥せっているだけみたいな言い方だ。それに朝から菓子を焼くなど理解できないし、お客様っていえる連中かとも思いながら、ダイニングに入ると、驚いて足を止めた。
エレノアが女主人よろしく皿などを並べていた。シンプルな白いディドレスは飾りがなくとも引き立って見える。彼女の髪はきれいに巻かれて片方の肩に流されていて、その髪型はとてもエレノアに似合っているとウィルは思った。
「おはよう。ウィル。ドクター。お茶にする? コーヒーかしら?」
「俺には、熱いコーヒーをくれ」
ドクターの声にウィルは振り向いた。ドクターは無精ひげのあくびをしながら、乱暴に椅子を引くと当たり前のようにそこに座った。
「ウィルは? ミルクを温めましょうか?」
 ウィルは、あからさまに子供扱され不機嫌な顔を向けた。
「冗談よ。でも。他はすべて真実よ。受け止めなさい」エレノアは、きっぱりとした声で言い。ウィルは横を向いて椅子に座った。
「おまたせ致しました。すぐに用意ができますからね。みなさんお腹がすいたでしょう」アンナはキッチンに向かってせわしなく通り過ぎていった。
「頼むよ。アンナ。なんでもいい早く食わせてくれ。食ったら、仕事に戻る。フランクはもう大丈夫だ。また夜に様子を見に来る」
「今は、仕事は何を? ドクター」エレノアが聞く。
「どでかいビルの上から下まで掃除している。骨がおれるが情報は入りやすいな」
「あなたの耳は、あなたの医者の腕と同じに素晴らしいわ」
 ウィルは、目だけでまわりを見回した。みんな……みんな。普通じゃないんだ。突然、テーブルに置かれたナイフを武器に戦い始める彼らを想像した。アンナ。エレノア。ドクター。
「どうした坊主」ドクターは、灰色の瞳に下衆な笑いをうかべた。「頭に血が行ってないのか? いんや。まわりすぎか? ……刺激がつよすぎてさ」
ウィルは、目線をずらしたがまともにエレノアの青い瞳にぶつかってしまい、今度は下を向くしかなかった。その先にアンナが卵料理の皿を置いてきた。
「アンナ。今日は学校を休んでいいよね? まだ少し熱もあるし。行く気分じゃないし……」
 アンナは、エレノアと目を合わせ、エレノアが口を開いた。
「そうなさい。そう言おうと思っていたのよ。二、三日は家から出ないようにしてほしいの」
「僕はアンナに聞いたんだけど」ウィルは、いらついて卵をフォークでつついた。
「坊ちゃん。エレノア様のおっしゃるとおりになさってください」
 ウィルは、ひどく不快な音をたててフォークを皿に置いた。怒りをあらわにしたドクターは、ウィルのシャツをつかみ上げると椅子から立ち上がらせた。十分にウィルの方が背が高いのを気づかせない迫力があった。
「馬鹿が! いじけている場合じゃない! お前が危険だからみなが心配しているんだ!」
「僕は、マフィアじゃない! 関係ないだろう!」ウィルの気持ちにも火が付いた。
 アンナがそばによって、ドクターの腕を離させるとウィルの肩を抱いて椅子に坐らせた。ドクターも憮然と坐ると目の前の皿を平らげだした。 
 エレノアが諭すように言った。
「ドクター。いいのよ。どちらにせよウィルは、この家を出る日は近いのだから」
 ウィルは勢いよく立ち上がった。
「家を出ろって? もちろん出ていく! 秘密がばれたから置いとけないんだろう? 殺さないのはお情け?」
 ウィルはまっすぐにエレノアを見下ろした。
「坊ちゃん!」アンナは泣きそうな声だ。
 エレノアは優雅に背をただしたまま、静かに言った。
「ウィル。違うのよ。あなたをそばに置くのは、相当な危険を伴っているの。足を引っ張りたい人間は一杯いるの。わたしがされたようにね。だから、あなたが成人する十八までは、フランクと仲間が守り続けるけれど、それ以降はもう二度も会えなくなるのよ。あなたを引き取る時にフランクが決めた事なの」
 ウィルは、エレノアの目に嘘がないのを感じとると体中の力が抜けてゆくのを感じた。
「お坐りなさい」
 ウィルは素直に椅子にかけた。
「じゃあ……エレノアの妹は? 守りに失敗したの…?」
「わかんねぇ奴だな。フランクはトップだからだよ。特別だ。普通は、素人なんぞ守らねぇ」ドクターが口をはさんだ。
「ドクター。仕事に遅れるわよ」有無をいわせないエレノアの強い口調に、ドクターは口にチャックする仕草で答えた。
「ドクター。サンドイッチとチェリータルトをお昼のお弁当に……」アンナは、何もなかったかのように笑顔で紙袋を差し出し、ドクターは、ありがたいと受け取った。
「懐かしいわ! あのタルトね」エレノアもそれにならうように嬉しそうに言った。
「はい。このタルトの秘密の隠し味をお教えしたのは、あなたのお母様にだけです」
「わたしは作った事はないけど、妹は受け継いでいるわ」
 ウィルは、二人のやりとりを呆然と聞いていた。ドクターがそっと肩を近づけ、ほとんど小声で言った。
「エレノアもロシアの亡命者さ。アンナの件がきっかけでフランクと仕事を始めた。縁ってやつは、妙なもんを引き合すもんさ」
「アンナの件って?」ウィルも小声で聞いた。
口を開きかけたドクターにエレノアが冷たい視線をよこした。彼は口をふさぐためにコーヒーを勢いよくあおってあふれさせ、しみのないクロスを汚し、今度はアンナに睨まれ早々に退散していった。

「おはようございます。坊ちゃん。旦那様がお呼びです」
 アンナは階段の下でウィルを待ち構えていた。ウィルは、今日から学校に行くようにエレノアに言われていた。
ウィルはここらが決め時かと意をけっして、フランクの部屋をノックした。
「お入り」変わらないフランクの落ち着いた声が聞こえた。
 開け放たれたカーテンからの優しい朝の光があたりに溢れているせいか殺風景さは軽減されていた。フランクはベッドに体を起こしており、髪はきちんとして顔もきれいにあたってある。寝間着さえしわひとつない。ウィルが知っているいつものフランクだ。
「そこに座りなさい」
 ウィルは、ベッドの横の四角いスチールに素直にかけた。
「すまなかったウィリアム。お前には何も知らせないつもりでいた。なのに最悪な形で唐突に伝える事になった」
「一八になった途端にどうやって放り出すつもりだったの……。無理だと思う。何も知らせずなんて」ウィルはカーペットの幾何学柄を見つめながら言った。
「お前は、西部の大学に行くと言っていたし、とにかく遠く離れた時をチャンスにわたしは、事故で死ぬ事になっていた。ちょっとした連絡ミスで、お前が戻った時には墓に埋葬済みという算段だった」
「マフィアって、ハリウッドかスパイ並みだね」皮肉を含んで言い放った。
「簡単に口にしてくれるな。一言では、片付けられない……」
 ウィルはフランクに向かないまま続けた。「でもマフィアなんでしょう。本当の父親よりフランクをずっと好きだった。フランクみたいな大人になりたいって思っていた。でも。裏切られた気分だ。僕の気持ちわかる? 汚い金でぬくぬくと育ってきたって知った僕の……」
フランクは、ウィルの横顔をじっと見ている。それを感じ、ウィルはよけいに目を合わせられず、下を向いているしかなかった。
「今後の進学の資金には、お前の親が残した金を使う」
 ウィルは、はじかれたようにフランクに向いた。
「親のって……財産なんて何もないって……牧師さんが言っていた。はっきり覚えている」
「兄はお前にわずかな金を残していた。それを大伯母と牧師が搾取した」
「そんな……」
 あの牧師さんが……彼だけが僕に優しかった。
「信じがたいだろうが真実だ」
「脅したの?」
「きちんと弁護士をたて、まっとうに行った。書類もある」
「二人は警察につかまったの?」
「付き出さないかわりに、金を返させた」
 ウィルは、エレノアが言った言葉を思い出していた。
 善が悪を持ち、悪も善をもつ。
「ウィル。つらいがすべて事実だ」
フランクは傷が痛むのか顔をしかめた。ウィルは、咄嗟に手を差し伸べ、枕を低くし、体を横たえさすのを手伝った。
「ありがとう……」
「水を飲む? 薬? アンナを呼ぼうか?」
 フランクは、片手で遮った。
「ウィル。お前の金は、この好景気に投資して3倍になった。だからそれで大学に行きなさい。言っておくが健全に企業に投資しただけだ」
「わかったよ。もういい。ごめん。ひどい事言った」
 フランクは、無理もないと頷いた。
「あの……一つだけ教えてほしい。アンナは……」ウィルは、割れる寸前の風船を持っているような顔をしている。「アンナもマフィアなの?」
アンナは、ウィルにとって母親と同じだった。
「アンナはソ連のスパイだった」
「え?」思わぬ答えにウィルは聞き返した。
「ソ連は、アメリカに亡命した者の弱みを握り、アメリカでスパイ活動をさせていた。アンナは夫と幼い娘が国に残っていた。彼女は貴族に使える女官だったから、その立ち居振る舞いが認められ、アメリカ政府高官の邸で働いていた。そこで情報を東に流していた。その頃、私は、そういう者を見つけ出し味方につけ、二重スパイに仕立てる仕事をしていた」
 ウィルはまさにぽかんと口を開けていたがはっと我に返ると早口に言った。
「――そういうのって情報局の仕事じゃないの? ドラマでまさにそういう番組があった」
「CIAだって公務員だ。何かあれば保障が必要だが、われわれがつかまって殺されたっ
て、政府は痛くもないからな。実際、正規の職員より、駒のように使われる者の方が多いかもしれない」
「アンナは今もスパイ活動をしているの?」
「ずっと昔の話だ。アンナは、今はただのアンナだ。残念ながらご主人は亡くなったが娘は無事に亡命できたからな」
 ウィルは、子供の時にアンナがフランクは恩人だと言ったのを思い出した。
「エレノアも最初はそうだったの?」
「――そうだな。まぁ。少し違うが……。さっきも言ったが一言では片付けられない複雑な背景があるんだ」
 ウィルは、唇をかんで組んだ指を強く握ったり開いたりしながら考えをめぐらせていた。聞きたい事は山ほどある。だが全部に答えてもらえるわけはない。
「ドクターもエレノアも悪い人には見えない……エレノアはすごく上品できれいだし、ドクターも……すごく味のある人だよね。なんかゆっくり話をしたい感じ」
「彼らがここで見せている顔がすべてじゃない。それを信じるな」
「フランクも?」ウィルはひどく落ち着いた大人びた口調で言った。
フランクはそれを聞くと聞きたいのはそっちかと理解した。言葉を仕掛けてくるようになったとは驚きだ。だがフランクの方がまだ上手だった。
「お前、ガールフレンドが二人いるだろう?」
「え? 何?」ウィルは、思わぬ展開にあわてた。
「知っているぞ。同じ学校の金髪と女子高のブルネット。二股かけるとは最低の男がすることだ。それだけは言っておかないと死んでも死にきれん。まったくそれを知った時は悲しかった。お前をそんな情けない男に育てた覚えはない――」
「僕の事を見張っているの!」
「お前を危険にさらさないためだ。最低限のプライベートは守らせている」
「そ……そんな……。守るってそういう事なの? 最低限って……どこまで」
「――日が暮れてから、ガールフレンドと彼女の車で湖にドライブに出かけても、隣に車はつけていない」
「わかった! もういいよ。わかったから、もう言わないで」ウィルは頬を赤くした。ガールフレンドとのドライブより、エレノアとキスした事を知られているのではという事の方が恥ずかしかった。
「すぐに二人と別れなさい」
「二人ともいっぺんに? ふつうはどちらかにしろじゃないの?」
「二人と付き合えるのはどちらとも真剣に向き合ってない証拠だ。本当に好きな娘に出会えば、他に目はいかんはずだ」
「フランクって意外とロマンチストだね……」ウィルは気恥かしいのを隠すように顔を下に向けた。
フランクは手を伸ばし、その顔を上げさせると、まっすぐに目を見つめながら言った。
子供の時、叱られた時みたいだ。
「ウィリアム。女性を女性の事で悲しませるのは、最低の男がする事だ。お前にそういう男にはなってほしくない」
「それって……おじいちゃんの事?」
 ウィルの記憶に残る祖父はただ愉快な人でしかない。だが彼が妻の他にも子供を産ませたなんて田舎の町ではすごいスキャンダルだったのだろう。しかも相手は東洋人。家出をした「弟」の事は、家族の記憶からもその町からもかき消された。
「彼は……優しいが弱い人間だった。お前は、親父と兄貴によく似ている。まったく似なくていいところが似るものだな」ため息をもらしながらフランクはベッドの枕に頭を沈めた。
「パパも……。まさかほかに子供とかいるの?」
「いない。兄貴は、町で一番もてた。彼とデートしたい女の子は後をたたなかった。踊りが上手くて、女の子が好みそうな話題を知っていた。でも兄貴がデートに誘っても一人だけイエスと言わない子がいた」
「もしかしてそれってママ?」
「そうだ」
 ウィルは、両親の昔話を聞くのは初めてだった。嬉しそうに立ち上がるとベッドのはじに座りなおし、少し笑っているフランクの顔を真正面に見た。
「でもママはパパと結婚した」
「兄貴は、浮ついた所もあったが、まわりに疎まれる私を弟として扱ってくれたし、いじめっ子には、立ち向かってくれた。ある日お前のママが町に引っ越して来て、あいさつがわりにデートに誘って断られた。彼には初めての事だ。何度、手紙をもたされて彼女の部屋の窓の下に使いに出されたかわからなかった。手紙に菓子が付くときなどは、一緒に食べようと言ってくれる優しい子だった。――お前は、背格好は兄貴によく似ている。でもその優しい青い目は母親からもらったものだな……」ウィルの顔を眩しそうに見つめた。
「もしかして、フランクもママの事好きだった? 初恋?」
 フランクは、照れ隠しなのか――ウィルにはそう見えた――少し眉をしかめた。
「そうとも言えるかもしれないな。唯一心に残った女性であることは確かだ。家族もいい人達だった。近所の白い目も気にせずにわたしを夕食に招いてくれた。わたしは兄貴の良い所を力説したよ」
「じゃあ。フランクがキューピットだね」
「そうだな。でもわたしは一六で家出でしたから、二人が結婚したのも子供が生まれたのも知ったのは、二人が事故で亡くなったのを知った時だ」
 フランクはウィルの手をとった。
「なんとしてもお前を引き取りたかった。それがあの町で唯一、優しくしてくれた彼らへの恩返しだと思った。……だが今となっては、それが正しかったのかわからない。良い養子先を見つけてやった方がずっとよかったかもしれない。きっとそうだった。わたしの身勝手な判断がお前を苦しめることになった」
 ウィルはこんな弱気な事を言うフランクを見たことがなかった。おもわずその手を強く握り返した。
 彼の記憶は幼い日、初めて飛行機に乗り、知らない大きな町に降り立った日に飛んでいった。ウィルは、フランクの手をずっと離さなかった。この手を離せば自分は一人ぼっちになってしまう。時折、不安そうな顔でフランクを見上げた。そうするとフランクは大きな手で頭をなでてくれた。大丈夫だとその手が言ってくれていた。
「フランクとアンナは最高の親だよ」
 フランクは顎を引いて小さく笑ってから、優しくウィルの手を離し静かに口を開いた。
「そこの引き出しを開けてくれないか」
 ウィルは、言われた通り小さな物書き机に向い、引き出しを開けた。
 浅い引き出しには、小切手帳と万年筆だけが入っていた。
「小切手帳は、さっき言ったお前の金だ」
 ウィルは、万年筆を手に取った。
 それはとても高級なペンだとすぐにわかった。
「それは、わたしが家を出る時に父がくれたものだ。それが彼の精一杯の親心だった。記者になりたいのだろう? 良いペンを持つべきだ――受け取ってほしい」疲れたのか、フランクは小さなため息をつくと目を閉じた。
「おじいちゃんは、なぜこんな高級な万年筆を?」
 祖父も父も車の工場に勤めていた。ペンは書ければいい。
「血は争えんだな。彼は記者になりたかったんだ――」
 ウィルは、またフランクの枕元に戻ると――すべてを許している――その気持ちをこめて言った。
「怪我がよくなったらみんなでイタリアに行こうよ。アンナも一緒にさ。エレノアも行くかな? ドクターもさそってみようよ。ちょっとない家族連れだよね。きっと楽しいよ」
 フランクは苦笑した。「サーカス団みたいだぞ」
ウィルもその一行を想像して、違いないと笑った。
「わたしは花形のブランコ乗り?」軽快なノックの音でエレノアが現れた。
 白いリボンで髪を束ね、白いブラウスに白のスカート。アンナのエプロンをしている。家電の宣伝ポスターに登場する主婦のようだった。
「ウィル、早く朝食を食べなさい。学校に遅れるわよ。フランク。包帯を替えるわ」
 ウィルは、妙な錯覚に陥った。
 フランクとエレノアが自分の両親だったら、素敵だろうと。
「なぁに? わたしの顔に何かついているかしら?」エレノアは、坐りながらほほ笑んだ。
「別に、二人が僕の親だったら、楽しいだろうなって」
「あら。それは年が近すぎるわよ」
「騙されるなウィル。エレノアは実はアンナより年上かもしれない」
「ドクター以上に痛くしましょうか?」エレノアは、鋏を掲げおどけた口調で言った。
「勘弁してくれ。奴の腕はいいが繊細さにかける」
「あら。彼は意外に繊細よ。糊のきいたシーツでないと寝むれないのだから」
「ハンカチだってまっすぐだった!」ウィルが加わる。
「あいつは、服はよれているのにまったくおかしな男だ」
「散髪させて髭をそってみたいわ。びっくりするくらいのハンサムかもしれないわよ」
 エレノアもフランクも笑っている。
 朝の陽ざしがやわらかく入る部屋は、妙な幸福感に満たされた。ウィルはいつまでもこうしていたいと思った。
 心からそう思った……。
「僕も仲間にして」
 二人ともこちらを見なかった。エレノアは背中を向けたまま、フランクも天井を見ている。
「仲間になれば別れなくていいでしょ? 一緒に暮らさないにしても、たまに会えるなら。なんか別に悪い事ばかりしているわけじゃなさそうだし。僕は目指す記者になる。それでたまにフランクやエレノアの仕事を手伝えばいいだろう! そうしたい。どうすれば仲間になれるの? 契約書に血文字でサインするとか?」
 はやるウィルをエレノアが優しく遮った。
「ウィル。アンナが遅刻しやしないか、やきもきして待っているわ。学校は何時に終わるの? 寄り道せず、早く帰ってらっしゃい。みんなでお夕食を食べながら、話をしましょう」フランクの方に向きながら「それでいいわね? フランク」
 フランクは小さく頷いた。
「あ……えっと。四時にはもどるよ。わかった。アンナの血圧上げるわけにいかないね」
 ウィルは飛びのくようにドアに向かい、ノブに手をかけながら振り返った。
「じゃあ。後で」
「ええ。待っているわ」エレノアは、それは優しい笑顔を向けた。
 ウィルはフランクに見えるようにペンを持ち上げ、ウィンクしてドアを出た。
随分とげんきんな自分に驚く気持ちもあるが「彼らと別れたくない」これが一番の自分の気持ちだとわかった。
 キッチンに入ると、テーブルのトーストを手に取って、アンナの頬にキスをした。
「行ってきます! 夕食は、ごちそうにしてね。なんかみんなで食べるって」と言い残し、トーストを食べながら、学校に急いだ。
 その行儀の悪さを叱られない事にも、見送るアンナの顔の悲しい色にもウィルは気がつかなかった。


フローレンスは、ウィルが出てゆくドアの音を背中で受け止め、胸が張り裂けるような思いを抱えながら、はじかれたように鏡台の引き出しを開けると、下の方に隠しておいた手紙を取り出した。
 それは、2年前に届いた。

 フローレンス様
 わたくしを覚えておいででしょうか? 
 病院でお会いしました者でございます。
 わたくしは、エレオノーラ様の遺言をお預かりいたしました。
 エレオノーラ様がお亡くなりになりました。
 ご病気でした。
 とても、安らかにご両親の元へ、旅立たれた事をお伝えしたします。
 エレオノーラ様からのお言葉を伝えさせていただきます。
 直筆のものは、もうございません。
 そういう決まりなのでおゆるしください。

 愛しいアナスタシアへ
 もう一度あなたに会いたかった。
 でも、かないそうにありません。
 あなたが毎日笑って過ごしてくれることが私の願いです。
 私が歩けなかった、平凡で小さな幸せに満ちた日々を送ってくれていると信 じています。
 わたしは天国であなたを見守ります。 
                    エレオノーラ

 アナスタシアはフローレンスと名前を変え、ずっと噂の届かない、誰も知る人もいない遠い町にやって来た。
 あの婦人から当面困らず暮らせるようにと金を持たされたが必要最低限だけ使い、残りには手をつけなかった。フラウはなるべく人に会わないですむ仕事を見つけるとひっそりと小さな部屋で暮らし始めた。笑顔をむけてくれる人にも次の瞬間には変貌するのではという恐怖を感じていた。日がくれたら外に出なかった。明かりがないと不安になり、電気をつけたまま眠った。若い娘が暮らすにふさわしくない日々がただ空疎に過ぎて行った。
 この手紙を受け取って、彼女はその暮らしをすべてやめた。
 亡くなった姉の想いを無駄にしてはいけない……。それだけの気持ちが彼女を突き動かしていた。
 小さなキッチンが付いた日当たりのいいアパートに引っ越すと、あえて多くの人に触れなければならないデパートに勤め出した。新しい友達もできた。聞きなれない名前で呼ばれる事にも慣れ、当たり前のように笑えるようになった。
 でも、友達がボーイフレンドの友人を紹介するからWデートをしようとかの誘いには素直に受けることはできなかったし、ダンスパーティーにも行かなかった。知っている人であっても体に触れられるのがたえられなかった。
「フラウは初心で男嫌いね」女友達に肩をすくめられてもかまわなかった。
 そんな頃、デパートの取材担当としてウィルがやってきた。新米の記者らしい、一生懸命さがまわりのスタッフに受け入れられていたが、フラウには彼が何かから逃れるように仕事をしているように思えた。いつも楽しそうな色を浮かべる瞳の奥に時折、違うものを感じたのだ。
 互いに一人きり、家族がいないと知りよく話をするようになった。ごく自然な流れでウィルは夕食や映画に誘って来たがフラウは、いろいろ理由をつけては断った。映画は見ないとか。酒は飲まないとか。アレルギーが多いから外食はしないとか。
「君が休みの日に公園でお日様にあたりながら散歩だけしない? 朝寝坊してブランチを食べてからでいいよ。日が暮れる前に家に送るって約束する」
 ある日のウィルの誘いに断る理由が見つけられずフラウは頷いた。
 何度、短い昼間の散歩デートをしただろうか。たわいない仕事の話をしながら公園を歩いた。うっかり手が触れてもあわてるフラウにウィルは嫌な顔をしなかった。フラウは家で昼食をすまして公園に来たが、ウィルは、屋台のホットドッグを買って食べた。フラウがサンドイッチを作ってくると彼は嬉しそうに平らげた。そして居眠りをし始めた。後でわかった事だがウィルは仕事に無理をしてフラウに時間をあわせていた。フラウは、サンドイッチと本を持ってくるようになり、ウィルは長く昼寝ができるようになった。
ある時、ウィルは日が暮れかけるまで眠り込んでしまった。しかも、フラウの膝枕で寝入っていたのだ。いたずらがばれて怒られる子供みたいに小さくなっているウィルにフラウは、悪いと思うなら美味しいレストランで夕食をごちそうしてと笑った。それから、無理に時間をあわせなくていいと言った。
 ダンスパーティーにフラウがウィルと現れた時は、友達がみんな驚いたがすぐにみなが笑顔で迎えてくれた。ウィルはダンスが上手くて、他の女の子も踊ってほしがったが彼はフラウとしか踊らなかった。そうしないとフラウも他の誰かと踊らなければいけないから。
 フラウは、彼を愛するようになっていた。
自分にそんな気持ちが起こるなど、生涯ないと思っていたのに。
 でも、今夜すべて壊れてしまった。
 ウィルは、「アナスタシア」に起きた事を知っていた。二人はずっと前から皮肉な運命でつながっていた。
 あんまりだ。
 それから、ウィルはそれ以上に何かの秘密を抱えている。それが二人の間を絶望的に引き裂いた。それはなんなのだろう。ほんとうに克服できない問題なのだろうか。いいや。そんなのは都合の良い慰めだ。自分のような目にあった娘と結婚したいなどと思うわけがない。
 あの事件以上につらい事はないと思っていたのに……。フローレンスは、泣くことができなかった。とうの昔に涙は枯れてしまったのだ。

 ウィルは、自分のアパートの玄関先の階段につまずきそうなって、いつの間にか家に着いた事に気が付いた。
 記憶を振り払うように階段を素早く上がり中に入った。ちょうどエレベーターに人が乗り込むところだったが、目を合わせず五階まで階段を駆け上がった。息を切らし、部屋に着いたが鍵穴にうまく鍵がさせない。あまりに奇妙な音をたてたせいか、隣の老婦人がそっとドアから顔を出した。
「あっ……すみません」鍵がやっと開いた。ウィルは中に滑り込みながらひきつった笑いを向けた。
「おやすみなさい……」
部屋に入るとまっすぐにクローゼットに向かい、棚の上のその奥にしまい込んだ箱をたぐりだしていた。手がすべり、中身をぶちまけてしまった。中身は、あのイタリア旅行で買った絵葉書と旅行記をしたためたノートだ。その中から手紙を探りだした。
去年届いた手紙。
 手紙を持ったまま、部屋の明かりをつけずにベッドに座った。窓の向こうは嫌味なほど能天気な都会のネオンが輝いていて白いシャツが赤や青に染まった。窓を開ければひどい騒音が聞こえるのだ、開けてもウィルの耳には何も聞こえないかもしれない。
『縁ってやつは、妙なもんを引き合す』
ドクターはなかなかの格言者だ。
 彼女のむごい過去の事件をまったく気にならないのかと言われれば嘘になる。そういう事件に遭った女性のためのセミナーの取材記事の校正を手伝った時、本人や支える家族の辛さを読んで、自分にできるだろうかと思った。
 だが何よりもそれ以上にこの事実だ。
 ウィルは封筒から手紙を出し、開いた。
 宛先の書かれていない手紙は直接、ドアの隙間に差し込まれていた。
 差出人は、あのドクター。
ドクターの字は丁寧で美しい。彼が投げてよこしたきれいなハンカチを思い出した。
 
 ウィリアム
 俺を覚えているか? ドクターだ。
 俺がこの手紙を送るということは、遺言の執行人としての役目が来たという 事だ。
 俺は、フランクの執行人だ。
 フランクが死んだ。自殺したんだ。
 フランクがお前に残した言葉は、ごく短いすぐ、書けちまう。
 でも、俺は余計な事も書く事にしたお前は知る権利がある気がするからだ。
 エレノアの裏切りが発覚した。
 ボスは、フランクにエレノアの始末をつけるよう命じた。
 フランクは人にたのまず、自分でエレノアを葬った。
 それが、パートナーへの礼儀だと。
 奴の考えそうな事だ。
 エレノアはフランクの事を愛していた。
「白氷の女」と呼ばれるあいつがだ。
 でも、まぁ。フランクは女には興味がない。
 おおっと。これは脱線だな。
 フランクは、苦しんでいた。
 エレノアは幾多の困難をともに歩んできた最愛のパートナーなのにはかわり はない。
 最後の方には、安定剤に睡眠薬を渡してやるほどだった。
 アンナもそりゃ心配して、できる限りそばで見張っていた。
 でも駄目だった。
 フランクの遺言を伝える。奴が書いたものは焼き捨てた。
 そういうルールな んだ。
 
 ウィルは、二枚目を引き上げた。
   
   ウィリアム。
    二度と闇に囚われるな。
           お前は光の中で生きろ。
                       F

 互いに唯一の愛する家族がその愛する家族を殺した。
 フラウに言うべきなのか。
 ――君の姉さんを僕の叔父さんが殺したって――
 そんな事、言えるわけない。それから、それを隠して一緒にいる事もできない。黙っていたってその事実はシャツに染みたインクのようにいつまでも残るのだ。小さくなっても薄くなっても影のようにつきまとう。
 ウィルは、手紙を床に投げ落とし、ベッドに体を投げた。強く閉じた瞼にネオンの明かりを感じながら、ウィルはあの日の事を思い起こしていた。

「ただいま! アンナ! フランク! エレノア!」
鍵をいつもの玄関わきのテーブルに置きながら、ウィルはその場に妙な違和感を感じた。
「おかえりなさいませ。ウィリアム様」
 白髪の品のいい紳士が、奥から現れた。「執事」と言う言葉がぴったりな風貌。
「あの……どなたですか?」
 執事は、とても冷静な顔でゆっくりと瞬きをした。
「なんでございますか? また新しいお遊びですか?」
「……アンナは?」
「ただ今、お茶の用意をしておりますが」
ウィルは構わず、キッチンに向かった。
「アンナ! アンナ!」ウィルは怖くなりながら、いつものあの笑顔を探し求めた。
「はい。ウィリアム様。どうなさったんですか?」
キッチンに立っていたのは、ほっそりと背の高い老婦人だった。ウィルは踵をかえし、フランクの部屋に向った。
 ドアを開けるとそこは、掃除の行き届いた寝室だった。あたりに少し煙草の匂いが漂っている。小さな本棚に化粧机。バスルームの横のハンガーラックにガウンがかけてある。クローゼットを少し開けたが衣類が入っている様子がすぐにわかった。ウィルは続き部屋へのドアを開けた。そこは文字通りの書斎だった。
「わたくしの部屋に何か? ウィリアム様」
 執事は音もなくウィルの背後に立っていた。
 ウィルは、悪夢を見ているような浮かされる顔のまま、自分の部屋にかけ上がり、ドアを閉めるとそれを背にして息を大きく吸った。階下から、知らないアンナが心配そうな声をかけくる。
「ウィリアム様! どうなさったんですか? お茶のお菓子は坊ちゃんがお好きなチェリータルトですよ!」
 彼が返事をしないでいると執事と家政婦は、一体どうされたのだと細かな会話を交わしている。念の入った子細な演技だ。
 ウィルは、ベッドに体を投げた。
 彼は、悲しいどころか、笑いが止まらなくなった。
「まさにハリウッドなみだ!」
 見事に捨てられた自分が心底おかしくて、笑いは止まらなかった。そして、涙がとめどもなく流れおちた。
ウィルは、この知らない二人と今までもそうであったかのような暮らしをしばらく続け、高校卒業を迎えた。いつの間にか彼のクローゼットには、新調されたタキシードが吊るさっていた。だがウィルは卒業パーティーには行かなかった。ガールフレンドの両方と別れて、パートナーがいなかったからだ。
やがてウィルが西部の大学に出発する日が来た。
見送る二人は、それは素晴らしい演技で送り出してくれた。細いアンナはいつでもお帰りくださいと涙してくれた。戻ったところでこの家は売りに出されているか、別の人間が住んでいるはずだ。ウィルは二度とここに帰らなかった。
アルバイトと学業の両立の日々は、いかに自分が苦労なく育ったのかを思い知るに十二分だった。周りの友人達には孤児で奨学金をもらい進学していると言った。何も思い出したくなかったし「家族」がいた事を語りたくなかった。かたくなに出目をはぐらかすウィルの育ちの良さげな振る舞いと女の子にもてる容姿から、異国の王様と美しい踊り子との子供だと噂が立った時もご勝手にと笑うだけだった。
毎日は忙しく過ぎてゆき、開放的な気候のせいか少しばかり浮かされるような恋もしたが、まわりがそんないくつかの恋の中で将来の伴侶を見つけてゆくのを全く他人事とみていた。
 大学を卒業すると育った街の雨の香りと湿った空気がどうしても懐かしくなり、すこし似ている場所を求めはじめ、今住むここに落ち着き、希望の新聞社にも就職した。
その頃からだろうか。
 背の高い黒髪の紳士とすれ違えば目で追ってしまう。
 白いドレスの女を見れば、顔を確認したくなる。
 口の悪い男の声がするともしかしてと思ってしまう。
 そして、どこで食べるチェリータルトもウィルの口を満足させてはくれなかった。
 いつのまにか彼らを追い求めた。
 もう一度、なんとしても会いたかった。すっかり大人になった自分で彼らに向き合いたいと願った。
 仕事柄、裏社会の情報も洩れ聞こえる。どこかで彼らの影が見えないか、いつも気にしていた。もし、彼らが「情報」が必要と頼ってきたら、いつでも最大限の協力を惜しまないと思っていた。
 その思慕を断ち切らせるかのように、手紙が届いた。
 半身を引き裂かれるような悲しみがウィルを襲った。両親が亡くなった時もそうだったのだろうが子供すぎて覚えていない。
 自分がそばについていたら、フランクの死を止められたかもしれない。もっとうまく、気持ちを隠して慎重に対応していたら、予定通り一八まで彼らと過ごせたかもしれない。その間にはなんとかフランクを説得し、もっとそばにいられる方法が見つかったかもしれない。そうしたらこんな悲劇を止められてかもしれない。そんな思いが余計に彼を苦しめた。
 抜け殻の気持ちをまわりに隠しながら、ウィルは仕事に打ち込み、どんな小さな仕事も率先して自分が行った。くたくたに疲れて何も考えられなくなって眠りに落ち、また起きてすぐに仕事に向かう。ただそうやって時間が過ぎてくれるのだけが幸せだと感じていた。
 そんな時、デパートの催事の取材でフローレンスと知り合った。その名のとおり花のように笑う娘だった。きっと温かい家庭で、何不自由なく育った子なのだろうとウィルは思っていた。彼女と話していると自分もごく普通の家庭で育ったよう思えて、彼女の姿を見つけては話しかけていた。
「これがクリスマスプレゼントで人気なの?」ウィルはその品物を手に取った。
「そうよ。よく売れるわ」
「君もこれを家族に贈るの?」
ウィルは品物をフラウの前に付き出した。彼女はそれを取り上げると棚に戻した。
「家族はいないの。一人きりよ」フラウはかまわず仕事をつづけた。その人気の品を全部並べるのだ。
 ウィルは次の言葉を出そうとしてしたが、張り付いた笑顔からは何も出せない。フラウは気にした風もなく、にっこりと笑うと品物をウィルの手に握らせた。
「ひとついかが? ほんとうに人気なのよ」
「僕も家族がいないんだ。でも仕事ばかりおしつける上司に買うよ。人気なんだろう?」
 フラウは一瞬、顔を曇らせたがすぐにそれを変え、社員割引で買っておいてあげると言ってくれた。
彼女に対する気持ちが大きく変わっていった。ごく自然の展開でデートに誘ったのだが彼女は首をたてに振らない。
ウィルは慎重にフラウがノーという条件を選びだし、それを取り除くと言った。
「天気がよかったら、お昼に公園で散歩しない?」

 玄関の呼び鈴がけたたましい音を立てた。ウィルは耳をふさいだ。それは何度もしつこく鳴った。
 観念してドアに向かい、のぞき窓を除くとそこには見知らぬ少年が立っていた。
 怪訝に思いながらドアを開けると少年は「頼まれた」とぶっきらぼうに言い、妙に膨らんだ封筒を付き出してきた。
下で親が待っているようで母親が彼を呼び寄せる声がした。背を向け去ろうとする少年にウィルは尋ねた。
「まって! 誰に頼まれたのかな?」
「知らないおじさん!」彼は振り向かずに階段を降りて行った。
 ウィルは、ドアを閉めずに封筒を開いた。中には、カードとさっき投げ捨てた指輪がはいっていた。
「そんな……馬鹿な……」

 玄関のノックの音にフローレンスは我に返った。
 フローレンスは、もしかしてと小さな希望を胸に部屋を飛び出てリビングをぬけ、ドアを開けた。
そこには誰もいなかった。
人は……いなかった。
 白いリボンを巻いた黒い子猫が一匹、籠に入って鳴いていた。
 フローレンスは、階段を下りる白い影に気づいた。
「あの! すみません! まって!」
 すぐに猫の入った籠を持ち、後を追いかけたが間をつめる事ができず、白いドレスが外玄関のドアをすり抜けるのを目の端にとどめながら、つまずき転んでしまった。猫と籠も放り投げられた。
猫は器用に着地し、小さな何かが転がっていった。膝をすりむき、立ち上がった彼女の足元にそれが当たった。
 フローレンスは、目を見張った。
 拾い上げたそれは、対のピアスだ。
 右の耳に手を当てたが、ピアスはきちんとついている。
 子猫の甲高く鳴く声にフローレンスは小さく息を飲むと、子猫を抱いて外に飛び出てあたりを見回した。 
 向こうはまだ市場のにぎやかな明かりが見える。こちらはうす暗い路地がつづく。
 フローレンスは路地に向って叫んだ。
「エレオノーラ!」
 闇から返事はない。
 でもそこに姉がいるとわかっていた。夏の湿った風が姉の香水を運んできていた。
「姉さんでしょう? 死んだなんて嘘なのね お願い。私も連れて行って。……もう。ここにはいたくないの。もう何もかも失ってしまったの」フローレンスは一歩踏み出した。
 路地の闇から懐かしい声が聞こえた。
「来てはいけないわ。あなたは、こちらに来てはいけない」
 
 ウィルは階段を駆け下り、さっきの少年を探し左右を見回した。
 雑踏の中、両親に手を引かれている彼を見つけた。
 その姿は、ウィルが思い描く将来の自分だった。フローレンスと築く未来のはずだった。ウィルは、走った。走るのは得意だ。記者は足が命だ。何人にぶつかったか、非礼をわびながら先を急ぎ、彼らに追いつく事ができた。
 人の良さそうな夫婦は、いぶかる事もなく依頼人の人相を話してくれた。
「背の高い紳士でした」
「とてもきれいな奥様をお連れだったわ」
 ウィルは丁寧に礼をのべるとまた走り出した。
 握りしめるカードにはこうかかれてあった。
  
  愛する者を守れないなど
    もっと最低の男のする事だ。
                   F

 廃墟になったウィルの心に希望の花が咲きはじめた。
フランクは生きている。きっとエレノアも!
 彼らは、別れてなおウィルが自分たちを恋しがり追い求めるのをよしとしなかった。だから、あきらめがつくように残酷な結末を用意したのだ。彼らはそういう闇の中に生きているのだと知らしめるために。
その後もフランクは、ウィルが闇に目をむけずに歩き出したのか気にかけていただろう。ウィルがどう歩き始めたのか知るために情報屋のドクターが活躍したかもしれない。そんな時、出会うはずのないフラウとウィルが恋に落ちた。よかれと用意した結末は、二人を引き離す要因となってしまう。
 フランクは、生き返らなければならなくなった。
 
 トンネルの先の市場は、まだ明かりを灯していた。
「あれ? にいさん。どうしたね?」花屋の親父が声をかけてきた。
 ウィルは足をとめ、ポケットに手を入れた。指輪が手にあたった。もう札は入っていない。もう一探すると5セント硬貨に触れ、ウィルはそれをつまみだした。親父は、何もいわずそれを受け取とると笑顔とチューリップを一本差し出してきた。
 ウィルはそれを手に歩き出した。
 過去は気にしないといいながら、誰よりもそれに縛られていたのは自分だ。愛する者に気持ちが引き裂ける思いを与えてしまった事だけを悔いていた。
 その角を曲がれば、フローレンスのアパートが見える。
 角を曲がる。
 暗闇に白いドレスの見覚えのある女の後ろ姿が浮かんだ。
 ウィルは足を止めた。
「エレノア……?」
 女はゆっくりと振り返った。
 フローレンスだ。
 黒い猫を抱いている。
 そばによるとそのドレスは水色だった。
 ウィルは花をフローレンスに差し出した。
彼女は、猫を抱いたまま手をのばし受け取ったがその顔は、あまり楽しくない夢の中にいるようなそんな感じだった。
「僕が間違っていた。これからの長い人生できっとたくさんの試練がある。二人でそれを乗り越えなければいけないのに、さっそく僕がくじけた。フランクとエレノアの事が嘘じゃなくてもそんな事に負けるようじゃいけないんだ」
「わからないわ……嘘って? ……姉さんが生きていたこと?」
「フラウ。僕らが愛してやまない彼らは、生きているけど、どんなことがあっても会うことはかなわない。いけないんだ」
「姉さんは、さっきすぐそばにいたのよ……顔を見られなかったけど、こちらには来ていけない。あなたは、光の中を歩くのって」
フローレンスは猫をなでながら、ゆっくりとさっき姉がいた暗い路地に向いた。まるでその体ごと暗闇に引き込まれそうだ。ウィルは怖くなってその肩を振り戻すとそばに抱き寄せた。
「僕が君を守るから。だからもう彼らの事は忘れよう。それがフランクとエレノアの願いなんだから」
 はさまった猫がばたついてウィルの胸をひっかいた。体を離すと猫は飛び降り、耳を掻いた。
 ウィルは、指輪をポケットから出すとフローレンスの指にはめた。
フローレンスは、静かにそれを見て、その視線をゆっくりと上げ、ウィルの顔を真正面に見据えた。
「わたしの過去を知っても? わたし、あなたに嘘を突き通すつもりだったのよ。生き別れの姉がいることだけは言おうと思ったけれど。他のことは――。身分証明だって誕生日だって本当のものじゃないわ。わたしはフローレンスじゃない。本物は当の昔に亡くなっている。そういうの闇ルートで売買されているのよ。知っているでしょう?」
 ウィルは彼女の頬を手で包んで首を横に振った。
「名前なんてただの呼び名でしかない。僕だって嘘をついていた。家族はいない、孤児だったと。彼らと過ごした数年の事は何も話さないつもりだった。でも。僕も君も、過去のすべての日々の積み重ねでここに立っている。生きている。そうだろう? すべてひっくるめて全部自分だ。それとも僕が知っている君は偽物?」
 フラウは巻き毛を横に振らした。
「フランクは、何があっても愛するものを守れる男になれと僕に教えてくれた……。それを少し忘れていた」
 フラウは何か言いかけた言葉を飲み込み、思い切るように言った。
「わたし……いっぱいお料理したのよ。もう冷めちゃったけど……」
「温め直せばいい、手伝うよ」
「チェリータルトを焼いたの。あなたにはこだわりがあるから、好みかどうかはわからないけど……ママが残したレシピなの。とても変わった隠し味がはいっているのよ。知ったらびっくりするわ」
 アンナのレシピだ。
 ウィルは体中をかけぬける感動を抑えきれず、フローレンスを抱き上げるとくるくると回りだした。
「それは絶対に最高なタルトに違いないよ!」
「ウィル! やめて! 怖いわ!」
 それを止めるかのように子猫がウィルの足にからみつき、ひっかいた。ウィルは、フラウを抱きとめたまま、腕をのばし子猫を抱き上げた。子猫はウィルの指を吸い出した。
「こいつ腹を減らしているな。僕も腹ペコだ。実は、昼飯なしで働いて、早く上がってきたんだ」
 フラウは花が咲くようなあの笑顔をむけてくれた。ウィルは、その笑顔をどこにもやらないとばかりに彼女を胸に抱き寄せた。
「フラウ。花嫁衣裳を縫うのにどれくらいかかるの? 通例通りに何カ月も準備にかけるのはなしだ。すぐとりかかって。出来上がり次第に結婚許可証をとりにゆく。すぐに結婚しよう」
「――すぐよ。みんなが手伝ってくれるわ。明日、生地を買うわ。社員割引よりずっと安いお店を知っているの。そこの花屋さんにスズランとライラックとすみれの花を頼むわ。ママのブーケと同じよ。それが夢だったの。今の季節なら用意できるわ。よかった」
「僕は急いで家を探すよ。ハネムーンにはしばらくいけないけど」
「そんなに仕事を休んだら首になっちゃうわよ。かわりに車を借りて週末に郊外に行きましょう。でも。少しお金がたまったらニューヨークに行って自由の女神を観たいわ」
「必ず連れてゆくよ。結婚指輪を買うのに前借りが必要だ」
「十セントストアでおもちゃの指輪を買ったっていいわ。神様もわかってくださるわよ。後で買えた時に牧師様にお祈りしていただきましょう」
「付添人を頼んで」
「教会の空いている日をおさえなきゃ」
「ウェディングパーティーは? 悪友たちが騒ぎたがる」
「アルのお店に頼みましょう。格安でね」
 二人からは、さっきするはずだった幸せの会話が止めどもなくこぼれ出した。
 ウィルは、フラウに優しいキスをした。
「二度と君を悲しませたりしない。約束する」
 フラウの頬に喜びの涙が一滴流れた。
 二人は寄り添いながら水たまりを飛び越え、暗い路地から遠ざかった。
 向こうに見える市場の明かりが、祝福するように輝いて彼らを包み込んだ。


 男は目を細め、二度と見られないその姿を脳裏に焼き付けるように二人を見送った。
「花嫁を送り出す父親みたいな顔になっているわよ」女はからかうような口調だ。
「なんとでも言ってくれ」帽子を深くかぶり直すと腕時計を見た。
「汽車の時間だ。行こう」
「ええ」
 女は白い旅行着とそろいの帽子のベールを下げた。
闇にさす、わずかな月明かりに彼女の美しい微笑が浮かんだ。
「――ほんとに君はいくつなんだ?」
 女は男の腕を引き寄せ組むと男の帽子のつばを指で押し上げ、その瞳を見つめた。
「あなたから絶対言ってくれない言葉が聞けたら……おしえてあげてもいいわよ」
 二人は闇の中に消えていった。

エリザベス・ブラウン
2012年09月21日(金) 23時46分05秒 公開
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■作者からのメッセージ
ロマンスにほんの少しミステリーを加えた欧流小説を書いています。よろしくご指導願います。

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No.10  エリザベス・ブラウン  評価:--点  ■2012-10-28 21:32  ID:l.nBYleUREE
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夕凪様
何度もご意見ありがとうございます。
うれしいです。
私の場合、あまり書かれない時代設定をしていますので、どうにか早く時代を知ってもらいたいがために空回りしてしまうようです。
「出だしがまずい」のは致命傷ですので改稿してゆきたいと思います。
No.9  エリザベス・ブラウン  評価:--点  ■2012-10-20 20:04  ID:l.nBYleUREE
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夕凪様

ぜんぜん気にしないでください!
色々なところが気になって直したんです。
誤字脱字とか視点とか。たらない描写などです。



No.8  エリザベス・ブラウン  評価:--点  ■2012-10-06 20:09  ID:l.nBYleUREE
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HAL 様

ありがとうございます!!
ほんとうに励みになります。

キャラクターをほめていただいてうれしいです。
意図した人物像が伝わっていたのでほっとしました。

誤字のご指摘いただきましてありがとうございます。
さっそく直します(@_@)
細かく読んでくださって感謝です。
No.7  HAL  評価:40点  ■2012-10-06 18:09  ID:RK.vn0hGPlc
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 拝読しました。

 すっごく素敵なお話でした。ドラマチック! 筋書きもそうですが、小道具や時代の匂いをかんじさせる背景など、細部の演出が実に活き活きとしていて、たまらなく好きでした。とくに万年筆のエピソードや、「廊下の明かりがエレノアの全身を縁どって輝かせた。」のくだり!

 ラスト、よかったです。困難を乗り越えての大団円って、自分で書いてみるとすごく難しいなってしばしば感じるんですが、本作の結末、未来への展望に満ちたすばらしい終劇でした。

 キャラクターが実に魅力的でした。フランクに惚れそう……。主人公の未熟さも、エレノアの美女っぷりも、ドクターの雑駁な口の利き方に似合わないハンカチやシーツのくだりなども、細部までにいたって実にお見事な造形でした。

 指摘するようなことも特に思い当たらなかったのですが、しいていうなら、誤字がちょっと目立ちました。といっても、私自身がけっこうやらかすほうなので、人様のことを言えた義理ではないのですが(大汗)、校正の足しになればということで、気付いたところを書いておきますね。

> 子どもの足る足音
> 光輝いて(光り輝いて? わざとだったら申し訳ないです!)
> 彼はウィルの姿をとられた。
> 大都会に生活になじんで
> カルフォルニアは遠いいね
> ずーと旦那様にお仕え(これもわざとかもしれませんが……)
> 待ってくだい……
> ソファに座って水に濡れている
> 立ち上がれせようと
> バックから細い煙草(バッグ?)
> 適格なアドバイスを(的確か適確)
> 専制政治のいくつくところ
> 暴力をふるう亭主もしるし
> ドクターの遠路ない
> 寝むれない(寝られないか眠れない)

 楽しませていただきました! つたない感想、どうかお許しくださいますよう。
No.6  エリザベス・ブラウン  評価:--点  ■2012-09-27 00:11  ID:l.nBYleUREE
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桐原草 様

ご感想いただきましてありがとうございます。
本当にうれしいです。

過去がからむフラッシュバック方式は難しいものですね。
鍛練して読みやすく、わかりやすくを取得したいと思います。

No.5  桐原草  評価:30点  ■2012-09-26 11:37  ID:1zZ2b3u5YfY
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長くても最後まで楽しんで読めました。きちんとまとまってますね。ストーリー的に破綻のない、面白い小説ですね。
ただ、過去と現在が入り乱れすぎていてよくわからないところがありましたが、最後の方まで読み進めていけば腑に落ちるので、まあアリかなと思います。
こういう欧風の気品溢れた雰囲気って素敵です。クラシック音楽がバックに流れていそうですよね。
面白かったです。
No.4  エリザベス・ブラウン  評価:--点  ■2012-09-22 21:31  ID:l.nBYleUREE
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夕凪 様

ご感想いただきましてありがとうございます。
書き出しがいまいちなんですね。
そうですよね。現代でもなく、人気のビクトリア時代でもなく、しかも外国。
なんじゃ? と思いますよね。
最後まで読んでいただけて本当にうれしいです。
No.3  エリザベス・ブラウン  評価:--点  ■2012-09-22 21:26  ID:l.nBYleUREE
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お 様

ご感想いただきましてありがとうございます。
涙が出そうです。
現在、小説投稿をしていますが2社とも一次も通らずです。
いただいた点を改善し、お言葉を励みにして精進いたします。
No.2  桃太郎の雉子  評価:40点  ■2012-11-04 08:02  ID:qwuq6su/k/I
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 自分は反対に、冒頭を読んで描写が何が書いてあるのか解読出来ず、、、放置して置いたんですが。何方か40点入れてるんで、冒頭の部分は飛ばしやっと教会で主人公を遠巻きにした親類とそこへ現れた叔父の章から何とか読め出した。すると其処からは案外読み易くて終い迄ずっと続けていっぺんに・・・。
自分もエンターテインメントとして大分楽しませて頂きました。主人公が彼女を拒否したのに受け入れたトコに少し詰まりましたが。映画『テス』でも母親がテスに、彼氏に今迄の事は言ってはイケナイと言い含めたのに喋舌って 男が彼女を捨てて印度へ行っちゃったのを思い出しました。
No.1  お  評価:40点  ■2012-09-22 15:42  ID:.kbB.DhU4/c
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どもどもーっす。
楽しんで読ませて頂きました。
面白かったです!
エンターテイメントとして読み応えがありました。
良かったです!

まぁ、強いて言えば、冒頭の描写の丁寧さが全編に渡ってあればなお良かったかなぁとか。ちょっと、早足でしたねぇ。緩急が薄く感じました。背景が浮かびにくかったり、緊迫したシーンで情況ほど緊迫感が伝わらなかたっりとか。僕の主観ですが。あとは、視点が素早く変わるので、じゃっかん、切れ切れな感じはしなくもなかったですが、大した問題でないですね。
かっこいい、大人の男女ってイイですね。痺れます。

さて。もののついででアレですが。ミニイベント板にてイベント立ち上がってます。良かったら見てみてください。そして、良かったらご参加ください。

でわでわ。
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