魔女たちの茶会
 日の沈みゆく空色が鮮やかだった。
 学院の歴史ある木造校舎は朱に染まっていた。改築の話は度々出ているが、学院のOGである理事長は首を縦に振らない。思い出の残り香が漂う校舎がなくなってしまうのを惜しいと思うのか。
 キリスト教にもとづく女子教育を目指す学院には教会が敷地内に建つ。また学院関係者が眠る共同墓地も敷地内にある。
 先日、その共同墓地で事件があった。
 学院で熱心な信者として知られていた生徒が亡くなり、家族の希望で共同墓地に埋葬された。しかし埋葬されて間もなく、何者かによって墓は掘り返され、遺体が盗み出されたのだ。一体どのような意図があってのことなのか。事件についての想像を生徒たちはささやき合っていた。
 もっとも、朝比奈唯花(あさひなゆいか)が今いる美術室の窓辺からは、森に遮られて共同墓地は見えない。
 唯花は美術室で一人、キャンバスに向かっていた。
 鋭い西日に染められた面差しにはなんの表情も浮かんでいない。唯花は一心に絵筆を走らせていた。使い込んで絵具の汚れが目立つ白衣を、黒いセーラー服の上から羽織っている。
 緩く三つ編みにした長い黒髪。
 沈みがちな黒い瞳。
 一七歳にしては成長不足の痩せた体。
 そして、どこか人の温もりを拒絶するかのような、表情に乏しい顔。
 唯花は絵を描く以外に打ち込むことのない少女だった。
 しかし家ではあまり絵を描かない。絵を描くことに両親が良い顔をしないからだ。実際、唯花の描く絵は両親からすれば心穏やかではいられないのだろう。
 例えば今、唯花が描いているのは、鎖に繋がれた全裸の少女の姿だった。丸く膨らんだ下腹部は月が満ちていることを知らせている。少女は妊娠しているのだろうか。しかし少女の顔にはなんの表情も浮かんでいない。むしろ、そこには濃厚な死の匂いがあった。もしかすると少女はすでに事切れているのかもしれない。
 この少女について尋ねたとしても唯花には答えられないだろう。
 何故なら唯花自身にも分からないのだから。
 脳裏に浮かぶ鮮烈なイメージを、唯花はそのまま絵として描き起こす。そこにどんな意味があるのか唯花自身にも不明だった。周囲の大人たちは唯花の絵を気味悪がり、唯花をしばしばたしなめた。
――唯花ちゃん、こういう怖い絵を描いちゃ駄目。
 唯花の両親は世間体というものを酷く気にする人たちだ。だから娘が気味の悪い絵を描くことに拒絶反応を示した。唯花の理解者は歳の離れた兄だけ。唯花の兄に絵心はなく、唯花の絵について特になにも批評しなかった。それでも兄は静かに唯花を見守ってくれた。唯花の好きなように描いたらいい、というのが兄の口癖だった。
 それが唯花にとってどれほど救いになったことか。
 唯花が学院の高等部に進んだ理由として、兄がそこの教師であることが第一に挙げられるだろう。
 自分でも兄に依存していると唯花は思わないではない。
 けれど人付き合いが苦手で、友人に恵まれているわけでもない唯花にとって、兄の存在は大きかった。
 不意に風の流れを感じて、唯花は顔を上げた。
 見れば、クラスメイトの一之瀬雫(いちのせしずく)が両手に一本ずつ缶コーヒーを携えて、美術室に入ってきたところだった。
 唯花を見つけた雫は軽く微笑むと、黒いプリーツスカートを緩やかになびかせて進み出す。
 雫は習い覚えたわけでもないのにモデルのように颯爽と歩く。
 その姿に同性である唯花さえ見惚れてしまうことがしばしばあった。学院の生徒たちが漏らす羨望の溜め息を唯花は何度も聞いている。
 それほどまでに雫は可憐な容姿を持つ。
 身長は一六五センチと少し高い。
 しなやかに伸びた手足は折れそうなほど細かった。しかし、歩みに合わせて軋む床板が彼女もまた体重を持った存在なのだと知らせている。
「唯花さんはいつも熱心だね。これは差し入れ。唯花さんは微糖でいいかな?」
 まるで少年のような口調。
 艶のある黒髪を腰のあたりまで真っ直ぐに伸ばしているのとは対照的だった。
 唯花は戸惑いながら缶コーヒーを受け取る。
「あ……ありがとうございます、一之瀬さん」
「雫でいいよ」
「じゃあ……ありがとう、雫さん」
 そんな唯花の気恥ずかしさを含んだ言葉に、雫は満足げにうなずき、自分の缶コーヒーを煽った。甘いものが苦手な雫はいつもブラックコーヒーと決めている。「スイーツは堕落した味がする」とは雫の普段からの弁。
 唯花も缶コーヒーに口を付ける。
 ずっと絵筆を走らせていたために気を張っていたのか。コーヒーの苦みが唯花の内部に沁み込んでいった。
「美味しい……」
「ただの缶コーヒーだよ?」
 と雫は可笑しそうに笑う。
 水晶を共鳴させたような美しいソプラノが美術室に響いた。
 唯花はなにか気の利いたことを言おうとしたが、口を出たのは平凡な台詞だった。
「そう、ですけど……」
「唯花さん。なにを描いているのかな? 見てもいい?」
「これは……見ても面白くないと思います」
 実際、唯花自身も面白いと思って描いているわけではない。
 唯花はただ、心の底から浮き上がってくる衝動に衝き動かされるまま絵筆を走らせていたに過ぎない。
 雫は軽やかな足取りで唯花の後ろに回った。
 ふわり、と白檀の甘く爽やかな香りが舞う。
 その雫の顔が驚きで彩られた。
「塔子……」
「塔子?」
 振り返った唯花は雫の反応に訝しく思った。
 今まで唯花の絵を見た者は、兄を除けば、気持ち悪そうな反応を返すのが常だった。
 一体どういうことだろう?
 雫は声を震わせて語った。
「先日、共同墓地で遺体が盗み出されたのは唯花さんも知っているね?」
「ええ……聞いています」
「盗み出された生徒は、敷島塔子(しきしまとうこ)。私のルームメイトだった子だよ。塔子の遺体は今朝、学院の敷地内にある森で発見された。けれど塔子には産褥の跡があった。亡くなった時に塔子は妊娠してはいなかったはずだ。つまり塔子は死んだあと、なにかを妊娠し、出産したということになる」
 恐ろしい推測が語られた。
 死体が出産する。
 そのようなことが起こり得るのか。
「そんな……」
 唯花は二の句が告げられなかった。
 自分は死者を冒涜するような絵を描いていたのか。
 決して唯花は面白半分に描いたわけではない。それでも実在の、しかも亡くなった人の絵を描いていたと知って、申し訳ない気持ちで一杯になった。
 唯花は視線を膝に落とす。
「……ごめんなさい」
「君はどうしてこの絵を描いたのかな?」
「それは……」
 唯花は言うべきか迷った。
 兄以外が唯花に理解を示したことはない。きっと雫は唯花を許してはくれないだろう。
 唯花はそう思う。
 一方で、描いてしまった以上は説明する責任が生じたという思いもあった。
 唯花は立ち上がり、雫に向き直る。
 雫の背後で、今まさに日は沈みかけ、境界で空の色は揺らいでいた。
 唯花は勇希を振り絞って打ち明けた。
「私、イメージが突然浮かんでくることがあるんです。そうなると、これを絵にしなきゃって義務感みたいなものがあって。両親も友達も、気味悪がるだろうって分かってるんだけど、描かないと気持ちが落ち着かなくて。自分でもどうしてこんな気味の悪い絵を描いてしまうのか分からないんです」
 そんな唯花の告白を、雫は口元に手を当てて静かに聞き入っていた。
 やがて雫は語り出した。
「古く日本では巫(かんなぎ)という者たちがいた。彼ら、もしくは彼女らは超自然的な存在のメッセージを受け取り、それを人々に伝えたらしいね。こういった能力を持つ者は外国にもいた。チャネラーというのがそれだね。唯花さんはそう言う能力を持っているのかもしれない」
「私が……?」
 唯花はにわかに信じられなかった。
 しかし雫が妄想を語る人物とは唯花には思えない。
 雫は唯花の肩に手を置いた。
 ほっそりとした手には似合わない強い力が込められていた。
「私に協力して欲しい。私には君のような能力が必要なんだ」
「協力って、どういう意味ですか?」
「塔子を汚した犯人を捜す」
 体の内部を走る痛みに耐えているような、辛そうな雫の表情。
 雫という少女にとって敷島塔子というルームメイトがどれほど大切な存在だったのか。
 その一端に唯花は触れたような気がした。
 気が付いた時、唯花はうなずいていた。
「はい……私にできることがあれば協力します……」
 唯花の言葉に、雫は少年のような透明な微笑を浮かべた。



 唯花の家は街の郊外にある。
 徒歩通学の唯花が自宅に着いた頃にはすっかり夜になって、あたりは暗く沈んでいた。ぽつりぽつりと街灯が道を照らす。
 閑静な住宅街に佇む一戸建てからは食欲を誘う夕げの匂いが漂ってくる。
 夕食はなんだろう、と思うのは決して唯花が食いしん坊だからではない。今は少しばかりお腹が空いているだけ。
「ただいま……」
 玄関からリビングに移動するとエプロン姿の母が振り返った。
「唯花。貴方、こんな時間までなにをしてたの?」
 きつい口調。
 唯花は母が苦手だった。
「絵を……描いていたら、遅くなって……」
「また変な絵を描いているの? そういう絵ばかり描くから友達ができないんだって分かるでしょ? 絵っていうのはね、描く人の心を映すってテレビで言ってたわ。お母さんは心配。大体、画家になるわけでもないのに絵を描いてなんになるって言うの」
 母は一方的に唯花に意見を押し付ける。
 母の言葉は洪水のように唯花の心を押し流して行った。途中から母が何と言っていたか、唯花は覚えていない。
 唯花はリビングを飛び出し、自室に閉じ籠った。食欲はどこかに失せていた。
 着替えるのも億劫で、制服のままベッドに横たわる。
 唯花は悔しい気持ちで一杯だった。
 どうして分かってくれないのだろう。
 唯花はなにも悪いことをしていない。それなのに唯花の母は自分の意見を押し付けてくる。絵を描いていたと唯花が正直に答えたのがいけなかったのだろうか。友達と遊んでいるうちに帰るのが遅くなった、と答えた方が唯花の母は満足したかもしれない。
 明るくて、はきはき話し、友達の多い娘。
 おそらく母は唯花にそんな要望を持っているのだろう。
 しかし唯花はそのような人間には生まれついてこなかった。
 母が期待する娘になれない唯花は一体どうすれば良いのだろうか。
 いつしか唯花は眠りに落ち、肩を揺さぶられるまでベッドで寝入っていた。
 薄らと瞼を開くと、傍らにはスーツ姿の兄がいた。
 兄の礼治(れいじ)は穏やかに微笑む。
「着替えずにいたら制服にしわができてしまうよ」
「うん……」
 唯花は上半身を起こし、目尻を擦った。
 礼治は唯花と母がまた衝突したことを察しているのかもしれない。
 しかし礼治の口から出たのは優しい言葉。
「夕飯、まだ食べてないだろう? 温めるから、その間にお風呂に入っておいで」
 溶けた琥珀から立ち上る香気のような美しいテノール。
 そんな兄の声は唯花の内部に沁み込んでいった。
 ベッドサイトに置かれた置時計を見ると、すでに時刻は二〇時を回っていた。
 唯花はお風呂に入ることにした。
 熱い湯船にゆったり浸かって唯花は今日の出来事を振り返る。
 思い出されるのは一之瀬雫というクラスメイトのこと。
 同性も憧れるほどの美貌を持つ雫。彼女は崇拝者とでも言うべき友人たちに囲まれている。そんな雫が何故、自分に声をかけてくれたのだろう。しかも雫は唯花の絵を見ても気持ち悪いとは言わなかった。それどころか唯花がどうして不気味な絵ばかり描くのか考えてくれた。
 巫。
 雫はそう語っていた。
 本当に唯花は巫なのだろうか。
 もし、そんな能力が実際にあるのだとしたら、唯花はその能力とどう向き合えばいいのか、唯花はまだ分からない。
 考えているうちにのぼせそうになった唯花はお風呂から上がり、リビングに向かった。
 リビングでは、ワイシャツの上にエプロンをまとった兄がテーブルに料理を並べているところだった。
 唯花と礼治は遅い夕食を取ることにした。
 唯花は喧嘩したばかりの母の料理を口にするのは抵抗があった。けれど兄が温めてくれたものなのだから、と自分を納得させる。
 トマトソースを絡めたミートボールは出来合いのものではなく、母が自分で作ったものだった。合挽き肉に牛乳を混ぜており、まろやかな風味がある。幼い頃、唯花はこのミートボールが大好物だった。ミートボールがお弁当に入っているだけで上機嫌になったものだ。
 幼い頃、唯花はまだ自分が愛されていると信じていた。
 しかし今、唯花は自分が両親に愛されているのか確信を持つことができない。
 箸の進まない唯花を見て、礼治は心配げな声を出す。
「どうした? おまえ、ミートボールは好物だろう?」
「うん……ねえ、兄さん」
 唯花は箸を置いて礼治を見た。
 穏やかな微笑を湛えた兄の顔を見た途端、唯花はなにも言えなくなってしまった。
 自分が母に愛されているのかどうか。
 そのことを確かめたいという思いと、結果が怖いという思いに挟まれて、唯花は言葉にすることができないでいた。
 届かない叫びが唯花の内部で迷走する。
 黙ってしまった唯花に対し、礼治は学院での出来事を語った。
「今日のことだけど。おまえ、一之瀬さんと話をしていたんだって? いつの間に親しくなったんだ?」
 放課後の美術室で唯花が雫と話をしていたことは、すでに教師である礼治の耳にも届いていたらしい。
 唯花の兄は生徒たちの間で密かに人気がある。
 確かに顔立ちは悪くない、とは唯花も認めるところ。
 身長も一八〇センチを超えているし、筋肉もしなやかについている。細面の文学青年と言った礼治に好意を寄せる生徒がいると唯花の耳にも届いていた。
 しかし礼治の人気も雫には敵わない。
 この分では、と唯花は暗鬱な気分になった。明日は学校中に広まっているだろう。学院で熱烈に崇拝されている雫と直接言葉を交わす機会に恵まれない生徒は多い。唯花は彼女らの妬みが怖かった。
 もしかしたらイジメられるかも。
 そう思うと、唯花は雫の捜査に協力すると約束したことを後悔した。
 しかし唯花はあの時、真実として雫の力になりたいと思ったのだ。その気持ちに嘘はない。
 それに雫の言葉には不思議な力があって、唯花はいつの間にか雫の世界観に引き込まれていた。
 唯花の心配をよそに礼治は教師としての一面を見せる。
「一之瀬さんもルームメイトの敷島さんを亡くしたばかりで大変だと思うから、おまえからもそれとなく見てやって欲しいんだ。それでなくても今月になって二人も生徒が亡くなっているわけだしね。ショックを受けている生徒は多いだろう。なにか様子のおかしい生徒がいたら教えて欲しい」
 今月に入って立原香苗(たちはらかなえ)と敷島塔子の二人が亡くなった。
 立原香苗は療養中の病院で。
 それに続いた敷島塔子は寮の自室で。こちらは心筋梗塞だったと唯花は聞いている。
 死が相次いだことに学院では動揺が広がっていた。
 今は静かな波。
 しかし波と波が合わさることで大きな波が生まれることもある。
 兄はそれを心配しているのだろうか、と唯花はなんとなく思った。



 次の日の放課後、唯花と雫の姿は美術室にあった。
 雫は改めて唯花が描いた絵の仔細を見る。
「ここのマークなのだけど。唯花さんはこれがなにか知っている?」
 唯花は雫が指差した部分を見た。
 キャンバスの斜め下。
 通常であれば作者のサインを入れる部分には赤い車輪のようなマークが小さく印されていた。もちろん絵を描いたのは唯花なのではあるが、このマークがなにを意味するか唯花には分からなかった。
 唯花は無言で首を横に振る。
 これはね、と雫が静かに語り出した。
「血の車輪と言ってね。古くから学院で続いているサークルのシンボルだよ」
「でも……私、見たことがありません」
「だろうね。このマークを使っているサークルは公式の存在ではないからね。サークルの名前は『魔女たちの茶会』。キリスト教の世界観にのっとっている学院で魔女を名乗るなんて、なんとも背徳的だと思わないかい?」
 雫の語るところによれば『魔女たちの茶会』は生徒たちの間で密かに続いてきた秘密めいたサークルらしい。メンバーが誰なのかは分かっていない。現在、メンバーたちはインターネットを使って連絡と取り合っているのだとか。実際、ネット上には『魔女たちの茶会』のホームページがあり、そこに相談を寄せる生徒も少なくないという。
 その『魔女たちの茶会』が事件と関わっているのだろうか。
 窓の外では風が強くなってきたのか木々の枝が騒めいていた。
 雫は唯花を伴って窓辺に移った。
 雫の白い指が森を指差す。
「あの森で塔子の遺体は発見された。外部の犯行であれば、わざわざ遺体を学院に戻すのは不自然だよね。つまり犯行は内部の人間と考えるのが妥当だと思う。学院の教職員か、寮で生活する生徒か、それとも『魔女たちの茶会』のメンバーの中に犯人がいるのか」
 中等部および高等部には寮生活を送る生徒たちも多い。寮は学院の敷地内にあり、そこで寮生たちは厳しい指導の下に生活している。しかし最近ではパソコンが一室に置かれるようになった。多少ではあるが、現代の匂いが持ち込まれている。
 その部屋に雫は唯花を連れて行った。
 PCルームには数人の生徒たちがすでに利用していた。空いているパソコンはなかったが、雫が唯花を伴って入室すると、自分から譲ってくれた。
「ありがとう」
 と礼を言って雫は席に着いた。
 手慣れた様子でパソコンを操作する。
 『魔女たちの茶会』のホームページが現れた。
 月夜の晩に墓場を過る黒猫が一匹。
 トップページはそんな画像で飾られていた。
 魔女というイメージにぴったりだと唯花は感じた。
 唯花は雫の肩越しにディスプレイに目を走らせる。これほど近いと、唯花は雫の白檀の匂いを強く意識してしまう。
 ホームページには多くの相談が寄せられていた。家族、恋愛、友人関係、進路……。少女たちの声なき声が満ちているかのよう。そんな相談に対してセーデキムと名乗る人物が真摯に答えているのが唯花には印象的だった。
 学校でもなく、家族でもなく、匿名の関係だからこそ話せることもあるのかもしれない。
 その相談の一つで雫の手が止まった。
 雫はじっと目を注ぐ。
『死者の復活は可能ですか?』
 というタイトルだった。
 他の相談とはあまりにも異質な、しかし魔女に相談を持ち掛ける内容としては、これほど適した内容もないかもしれない。
 相談者はこう綴っていた。
『私は恋人を失いました。でも、あの人のいない人生なんて考えられません。セーデキムさんは魔女なんでしょう? 死者を復活させる方法を知っているんじゃないですか? 教えてください』
 投稿は数日前。
 遺体が盗み出された事件より前のことになる。
 セーデキムはこう答えた。
『ファウストの第二部にはホムンクルスという人造物が登場します。学院の蔵書の中にもあります。読んでみてはいかがでしょう?』
 ホムンクルス。
 唯花にはなんのことか分からなかった。
「ホムンクルスって、なんですか……?」
「ああ、ホムンクルスというのはね」
 と雫は唯花に向き直った。
 しゃらり、と長い黒髪が衣擦れのような音を立てる。
「錬金術によって生み出された存在だよ。なにをもってホムンクルスと言うのかは諸説あるようだけどね。最も普及したイメージは人工子宮によって人工的に作り出された生命体かな。人間は昔から生命という神の領域に興味を持っていたのかもね」
 人工子宮という言葉が唯花には引っかかった。
 産褥の跡があったという遺体と関連性があるのではないか。
 果たして雫は語った。
「この相談はどうも気になるね。塔子の遺体は人工子宮の代わりとして選ばれたんじゃないか。私にはそう思えてならないんだ」
 死者を冒涜してまで恋人を復活させようとする。
 唯花はその愛に狂気を感じた。
 一方で唯花はこうも思う。
 果たして死者の復活が可能なのかと。



 校舎に隣接する形で図書館は建つ。
 学院の図書館は比較的新しい建物で、コンクリートでできている。
 内部には古い本のカビっぽい匂いが漂っていた。
 床のタイルを叩く靴音も、微かな咳払いも、ページをめくる音も、やけに大きく響いていた。
 唯花と雫は司書に話を聞くことにした。
 デスクを挟んで、唯花と雫は司書と向かい合う。
 まだ若い女性の司書はファウストの第二部について、こんなことを話し出した。
「第二部は紛失してしまったんです」
「紛失した?」
 と雫は形の良い眉を寄せた。
 司書によると第二部の紛失に気付いたのは数日前のこと。
 もしかしたら、と唯花は思う。あの相談者が盗み出したのだろうか。
 雫もそう考えたらしい。
「盗まれたのでしょうか?」
 と雫は質問した。
 しかし司書は言葉を濁す。
「さて、それは。私は生徒たちを信じたいと思います」
「第二部の閲覧記録を見せてもらえますか?」
 と雫は身を乗り出した。
 司書は渋ってみせる。
「生徒のプライバシーに関することは同じ生徒であっても教えられません」
 そんな司書の態度は当然と言えば当然。
 雫はどうするつもりなのか。
 唯花は雫の横顔を盗み見た。
 雫の凛々しい面差しは心なしか陰って見えた。
 そこへ一人の女子生徒がやってきた。
「一之瀬さん」
 と女性生徒は雫に話しかけた。
「シスター伊澄がお呼びです」
 学院には多くの聖職者が勤めている。
 水無瀬伊澄(みなせいずみ)というシスターもその一人。
 二四歳と、シスターたちの中で最も若い。しかし、絵画のように枠にはまった印象で、融通の利かないシスター伊澄は生徒の間で煙たがれていた。唯花も苦手としている。
 シスター伊澄は一体なんの用だろう?
 唯花は疑問に思ったが、雫は何故か納得しているようだった。
 唯花と雫は、葉桜の下、緩やかな坂を上って教会を訪れた。石と木を組んだ素朴な教会。
 中に入ると、ステンドグラスを通して、色鮮やかな光が差し込んでいた。
 整然と並んだ木製の長椅子の最前列でシスター伊澄が一人、祈りを捧げていた。
 シスター伊澄は唯花たちに気付くと音もなく立ち上がった。
 彼女の背後には壁画。
 聖母子像が淡いブルーを基調として描かれていた。
 母性に溢れた女性像は、まさに学院の理想とするところなのかもしれない。
 シスター伊澄は石畳の上を滑るように歩み寄ってくる。全体として、細身でありながら母性的な柔らかさを併せ持つ体は、修道服の上からでも見て取れる。それなのに唯花はシスター伊澄から体温が伝わってこないと感じていた。まるで偶像として描かれる女性のような、生々しさを排除した記号的な印象があった。
 半ば閉ざされたシスター伊澄の瞳は、思慮深げな光を湛えていた。
 シスター伊澄は先天的な弱視なのだと唯花は聞いている。しかし彼女は白杖を携えているわけでもなく、また所作には不自由している印象がない。唯花はシスター伊澄が視覚障害者だと感じたことはなかった。
「一之瀬さん。朝比奈さん。わざわざありがとうございます。そこへかけてください」
 シスター伊澄の冴え返ったアルトは少々きつい印象を与える。
 何事にも厳しく、妥協を知らず、シスター伊澄が一体なにを楽しみに生きているのか唯花は想像できない。
 唯花にとってシスター伊澄とは遠い人だった。
 せっかく美人なのに損をしている、と唯花は思わないでもない。笑顔を見せてくれたら生徒の印象も変わるだろうに。
 シスター伊澄に促されるまま、唯花と雫は長椅子に腰掛けた。
 雫の隣に座ったシスター伊澄が静かに語り出す。
「私が何故、貴方がたをお呼びしたのか、もうお分かりでしょう。探偵の真似事はおやめなさい。貴方がたの本分は学業。自分たちが今すべきことを忘れてはいけません」
「寮のパソコンで『魔女たちの茶会』のホームページを見ましたからね。きっと貴方が出てくると思っていました」
 雫は平然と答えた。
 スマートフォンを使わず、わざわざ各自ログインする必要のある寮のPCルームでホームページを調べたのは、シスター伊澄の反応を探るためだったのか。寮のパソコンの閲覧記録は学院がチェックしている。シスター伊澄の目に留まることを見越してのことだったのだろう。
 唯花は驚きを持って雫の横顔を見た。
 雫はなにか確信を持っているかのようだった。
 その確信とは一体なにか。
 唯花には雫がなにを言い出すのか予想が付かない。
「シスター伊澄。塔子の遺体を盗み出した犯人について、貴方はもう見当が付いているのではありませんか?」
「私の役目は生徒を見守ることです。道を踏み外した生徒を導くこともあります。今月に入って、二人の生徒が天に召されました。そのことで不安を覚える生徒に言葉を掛けるのも私の役目の一つです」
「何故、犯人をかばうのですか?」
 雫は鋭く追及した。
 だが、シスター伊澄は動じた様子もない。
「一之瀬さん。貴方のことは理事長がひどく案じてらっしゃいましたよ」
「母のことは今、関係ないでしょう」
 母という言葉が雫の口から滑り出た。
 もしかすると理事長は雫の母親なのだろうか、と唯花は考えた。確か理事長と雫は名字が同じだ。
 だが理事長のことが話題に上った途端、不機嫌になった雫の様子。
 母子の関係は良好ではないのかもしれない。
 雫が憤ったように語調を強める。
「私は塔子を汚した犯人を必ず突き止める。シスター伊澄、貴方にはそのことを宣言しておきたかったんです」
 そう語って席を立った雫を唯花は慌てて追いかける。
 しかしシスター伊澄が唯花を呼び止めた。
「朝比奈さん。お兄さんを心配させてはいけませんよ」
「……失礼します」
 一礼して唯花は雫を追った。
 教会を出ると、涼しい風が二人を迎えた。
 長い黒髪を風になびかせ、雫は少し気恥ずかしそうに笑った。
「恥ずかしいところを見せてしまったね」
「いえ、そんな」
「私と母はあまり仲が良くなくてね。寮に入ったのも母と距離を置きたかったからなんだ。とは言え、結局中等部から高等部にそのまま上がってしまったのだから、徹底していないと言われればそれまでだけど」
 雫は母親である理事長となにか諍いがあったのだろうか。
 唯花はとても聞けなかった。
 沈黙を続ける唯花の前で雫は淡々と思い出を語る。
「そんな時、塔子に出会った。自分のやりたいことがはっきりしていて、確固たる世界観を持つ塔子は私にとって眩しい存在だった」
 唯花にとって意外なことを雫は語る。
 誰もが憧れる雫に眩しく映った敷島塔子という少女。
 一体どのような生徒だったのだろうか。
 彼女がすでに亡くなったのが唯花にとって実に残念だった。
 できれば会って言葉を交わしてみたかった、と唯花は思う。
 天国というものが本当にあるか唯花には分からない。
 ただ、死ねば無になるとも思えない。
 敷島塔子という少女は確かに雫の中に生き続けている。
 唯花にはそう思えるのだった。
「雫さん……塔子さんは大切な存在だったんですね」
「そうだね。愛していたと言ってもいいかもしれない」
 その愛の形を問うのは唯花には何故かはばかられて。
 風を孕んで揺らめく雫の黒髪を、唯花はただ眺めるばかりだった。



 唯花は、寮にある雫の部屋に案内されていた。
 雫の部屋は三階。
 年月を感じさせる階段の手すりは艶が出ていた。その上を雫の白い手が滑る様は、降り注ぐ午後の日差しをあいまって、唯花には酷く眩しい。
 雫と歩く唯花を、寮生たちが訝しげに眺め、何事かささやき合っていた。学院のアイドルとも言える一之瀬雫の部屋と一緒にいるのだ。注目されるのは無理もないことだと唯花は思う。唯花は人の視線にさらされていることに慣れていない。居たたまれない気持ちに耐えなければならなかった。
 やがて雫は三階の角部屋の前で足を止めた。
 にっこり唯花に微笑みかける。
「お入り」
「お、お邪魔します……」
 部屋は綺麗に整頓されていた。
 甘く爽やかな匂いは雫が好む白檀の香りだった。
 ただし、ルームメイトの敷島塔子を亡くしたばかりの部屋は、その分だけスペースが空いていて、なんとなく寂しい印象を唯花に与えた。
 所在無げに立つ唯花に雫が微笑みかけた。
「紅茶でも飲む?」
「あ、はい……」
「お砂糖はいくつ?」
「二つで」
「ふふ、了解」
 雫は紅茶をストレートで淹れてくれた。
 二人は向かい合うように座って紅茶を飲むことにした。
 ブランドは伊勢紅茶。その渋い口当たりは、国産紅茶の中では異色と言えるが、ストレートはもちろんミルクティーにも合う力強さがあった。セイロンティーに近いという評価もある。
 そんな渋い紅茶を、雫は砂糖を入れず、そのままで飲む。
 唯花は紅茶を一口飲んで感想を漏らす。
「美味しい……」
「良かった」
 紅茶を飲みながら唯花は今後のことを相談する。
「これからどうしましょう? シスター伊澄には釘を刺されてしまいましたけど」
「唯花さんはどうしたい?」
「私は……」
 唯花は自分の中に芽生えた想いを語った。
「遺体を冒涜するなんて、いけないことだと思います。犯人を見つけたいです。それに……」
 もう少し雫さんと一緒にいたいから。
 そんな想いは言葉にすることができない唯花。
「ありがとう」
 と言う雫の言葉は、唯花の言外の言葉へのものだったのか。
 しかし唯花は確かに気持ちが伝わったような、そんな感触を感じていた。
 雫が立ち上がって長い黒髪をかき上げる。
「じゃあ行こうか」
「どこへ、ですか?」
「旧校舎だよ」
 学院には現在使われていない校舎がある。
 唯花は雫に従って旧校舎に足を踏み入れた。
 ぎしぎし、と床板が鳴る。
 薄闇の中で埃が舞った。
 唯花はハンカチで口元を押さえながら先を歩く雫の背中を見詰めた。
 確信を持って生きているかのような力強い足取り。
 唯花にとって、雫は眩しい存在だった。
 雫に比べ、自分はいつも自信がなく、周りの目を気にしている。雫のように颯爽と生きることができたら、と唯花は思ってしまう。
 やがて雫は保健室のあった場所で足を止めた。
 唯花と雫は顔を見合わせ、そして室内に入った。
 そこに沁み込んだ消毒液の匂いを唯花は嗅ぎ取った。あるいは、そう思ったのは唯花の幻覚だったのかもしれない。
 しかし、雫は保健室に実験の跡を見つけた。
 薄汚れたベッドの一つに赤黒い染みが残されていた。
 一体なにが起きたのか。
 唯花には想像できなかったが、なにか忌まわしい雰囲気を感じていた。
 雫が歩き回りながらアングルを確かめる。
 やがて、
「この角度だね」
 と雫は結論を出した。
「確かにここに塔子の遺体は置かれていたらしい。唯花さん、こっちに来てごらん」
 唯花は雫の立っている位置に行ってみた。
 その位置から保健室を眺めると、唯花の絵はこの角度からベッドに寝かされている敷島塔子を描いたものだと、唯花自身にも分かった。
 ではここで塔子はなにかを出産したのか。
 赤黒い染みの正体に気付き、唯花は暗鬱な気分になった。
「でも……雫さん、一体誰がこんなところに遺体を運び込んだんでしょうか?」
「そうだね……」
 雫は口元に手を当てながら考えをまとめているようだった。
「今は少し足場を固めようか」
「足場?」
「職員室に行こう。君のお兄さんに話しを聞く」



 放課後の職員室では教師たちがそれぞれ仕事をしていた。
 小テストの採点をする者。報告書を書く者。あるいは報告書を読む者。
 その中に唯花の兄・礼治の姿があった。
 礼治はコーヒーをすすりながら、なにやら厚い紙の束を読んでいた。レポートかもしれない、と唯花はちらりと思った。
 雫はつかつかと礼治に歩み寄り、正面から切り出した。
「朝比奈先生、少々お話が」
「なにかな?」
「ここでは話せません。どこか三人だけで静かに話せる場所に行きませんか? お時間は取らせませんので」
 礼治は不審そうな表情で唯花を見た。
 唯花は兄にすがるような視線を送る。
 そんな唯花の思いが伝わったのか、礼治は雫の要望を汲んだ。
「分かった。中庭でいいかな」
 放課後の中庭は人気が絶えていた。
 三人はベンチに座ることにする。
 雫が静かに語り出す。
「立原香苗さんのルームメイトについて質問があります。ルームメイトだった村木明日葉(むらきあすは)さん――彼女について話が聞きたいんです」
「うーん」
 礼治は戸惑った様子だった。
 確かに雫の言葉には目的が伏せられていた。
 そこで唯花は助け舟を出す。
「兄さん。私たちは敷島塔子さんの遺体を盗み出した犯人を捜しているの。雫さんの質問に答えて」
 しかし礼治は渋った。
 礼治はあくまで教師としての顔を見せる。
「いくらおまえの頼みでも答えられないことはあるよ。それに村木さんのことはそっとしておいて欲しいんだ」
 そこで雫が割り込んだ。
「村木明日葉さんはルームメイトを失って気落ちしていたと聞いています。しかし最近、急に元気になったとか。そのことについて朝比奈先生は心当たりはありませんか?」
 雫は一体どういうルートから村木明日葉という生徒の情報を手に入れたのだろう。周囲で騒ぎ立てる友人たちの中に噂好きな子もいたのかもしれない、と唯花は想像した。
 礼治はすまなそうに言葉を濁した。
「その子のことについてはシスター伊澄が一任されている。あの人に任せてもらえないかな」
「やはりシスター伊澄が村木明日葉に関わっているんですね」
「だから……君たちが関わることじゃないよ」
 そう礼治はお願いする。
 しかし雫はきっぱり断った。
「残念ですが、私は事件の真相を暴きます。これは私なりの塔子の弔いなんです」
「兄さん、ごめんね」
 二人は礼治を残して歩き出した。
 雫は寮に戻ろうと唯花を促す。
 そこに犯人はいる。
 雫は確信を持って語るのだった。



 雫は唯花を伴って寮の一室を訪ねた。
 ノックすると、ほどなくしてドアが開いた。
「いらっしゃい、一之瀬さん、朝比奈さん」
 二人を出迎えた少女は、先ほどシスター伊澄の呼び出しを二人に伝えた女子生徒だった。
 何故、彼女がここにいるのか。
 唯花には分からなかった。
 しかし雫に驚いた様子はない。
「やはりシスター伊澄がかばっていたのは君か。村木明日葉さん」
 この少女が村木明日葉であることに唯花は気付かなかった。
 村木明日葉は二人を室内に案内する。
 ルームメイトを失い、閑散とした印象の部屋。
 そこで村木明日葉が穏やかな声で雫に尋ねる。
「シスター伊澄がしゃべっちゃったのかな?」
「シスター伊澄は君のことをしゃべったわけじゃない。だが、君が何故シスター伊澄の呼び出しを伝えに来たのか。それは君が直前までシスター伊澄からなにかしら説諭を受けていたと考えるのが妥当なんだ。違うかな?」
 くすくす、と村木明日葉が笑った。
「シスター伊澄は私に香苗を諦めなさいと言った」
 香苗。
 もしかすると立原香苗のことだろうか、と唯花は思った。
 村木明日葉は熱に浮かされたような口調で語り続ける。
「諦められるわけないじゃない。私と香苗は地獄に落ちても一緒にいようって誓い合ったのよ。死でさえ私たちを分かつことはできない」
「だから塔子の死体を盗み出したのか?」
 と雫は村木明日葉に問うた。
 おそらく雫にとって最も重要な部分。
 果たして村木明日葉は答えた。
「人工子宮で香苗を蘇らせることはできなかった。だから新鮮な死体なら可能だと思ったの」
「ホムンクルスの製造なんて、不可能だよ」
「そうかしら?」
 ふふ、と微笑みながら村木明日葉はみずからの下腹部を撫でる。
「香苗は今、私の中にいる。じきに会えるわ」
 女子生徒の言葉には狂気が滲んでいた。
 あまりにも忌まわしい試み。
 唯花は言葉を失った。
 代わりに雫が追及する。
「君は自分の体を使ったのか……?」
「そうよ。だって、他に方法がないじゃない」
 村木明日葉は誇らしげだった。
 処女受胎を告げられた少女もこんな表情を浮かべていたのだろうか。
 しかし雫は決然と断じる。
「君の試みが実際に成功するのかどうか。それを今は言わない。問題はそこじゃないからね。問題なのは君が彼女の死を受け入れられず、死者を冒涜し、しまいには自分の体さえ差し出してしまったことだ。恋人がそんな君を見て、喜ぶと思うかい?」
 雫の言葉は女子生徒に伝わったのかどうか。
 セーデキムという『魔女たちの茶会』のメンバーに相談したのはおそらくこの村木明日葉だろう。
 恋に生きる少女は今、本物の魔女になってしまったのかもしれない。



「――また新たに学院を去った友人のために祈りましょう」
 シスター伊澄に促され、学院の生徒たちは教会で祈りをささげた。
 朝の礼拝でシスター伊澄は事件の概要について語った。その言葉に生徒たちは少なくない衝撃を受けたようだった。教会は少女たちのざわめきに満ちた。波のように広がる動揺は、少女たちの心に黒い染みとなって残った。
 海に毒薬を投げたところで海全体から見れば取るに足らないことかもしれない。しかし毒薬を投げた少女が一人ではなかったとしたら。
 そんな不安が唯花の心から離れてくれない。
 礼拝が終わり、唯花は生徒たちの後姿を見ながら自分も教室へ戻ろうとした。どんよりと曇った空は今にも泣き出しそうだった。
 風はじんわり湿り気を帯びている。
 もうじき梅雨の季節だ。
 唯花がそんなことを考えていると声がかかった。
「唯花さん。ちょっといいかな?」
 唯花が振り返ると、そこには雫がいた。
 事件が解決したというのに雫の顔は晴れやかではなかった。
 唯花は不思議に思って尋ねた。
「なんでしょう?」
「少しいいかな? 話したいことがあるんだ」
 雫に促され、唯花は少女たちの列から離れてベンチに座った。
 静かに雫は語り出す。
「唯花さんに言っていなかったことがあるんだ」
「言っていなかったこと……?」
「塔子はね、自殺したんだよ」
 自殺。
 その言葉は唯花の心に暗い影を落とした。
 しかし奇妙なことだと思った。
 敷島塔子は熱心なクリスチャンだったはず。
 その疑問を唯花は打ち明けた。
「塔子さんはクリスチャンだったんですよね。戒律で自殺は禁じられているんじゃないですか?」
「そうだよ。でもね、唯花さん。キリスト教圏でも自殺者はいる。キリスト教徒と言えど、全員が戒律を守れるわけじゃないんだ。キリスト教徒だから自殺しないという認識には誤りがある。むしろ私は、戒律がありながら自殺してしまった人々の苦悩を思う」
 死への誘惑。
 それを戒める聖書の言葉。
 板挟みになったキリスト教徒は一体なにを思うのか。
 そして敷島塔子の場合はどうったのか。
 雫は辛そうに打ち明けた。
「私は塔子を救えなかった。塔子がなにかを悩んでいることは察することができても、塔子から悩みを打ち明けられることはなかった。いずれ話してくれると思っていたし、私を信頼してくれていると己惚れていた。でも本当は怖かったのかもね。塔子の本当の姿を知るのを恐れていたのかもしれない」
 雫の横顔は悲しみに沈んでいた。
 そんな彼女を元気づけてあげたいと唯花は強く思った。
 だから唯花はこんなことを言い出す。
「塔子さんが自殺した原因を調べませんか?」
 自分でも思ってもみなかった言葉。
 それでも唯花は思い付きを語ったわけではない。
 唯花の言葉は心の底にずっと沈んでいて、浮上する機会を待っていたのだろう。
 ようやく浮上する機会を得た言葉は輝きを伴って唯花の口から発せられた。
「クリスチャンである塔子さんが何故みずから死を選んでしまったのか。その理由を知らないままでいるのはよくないと思います。納得できないじゃないですか」
「……そう、だね」
 唯花は勇気を出して雫の手を握った。
 雫の手が一瞬、強張る。
 それでも唯花は離さなかった。
「私、雫さんに協力します!」
 今まで唯花は自分の描く不気味な絵を持て余していた。どうして自分がこんな絵を描いてしまうのか。その理由はいくら考えても分からなかった。
 しかし雫は唯花の絵について一つの可能性を考えてくれた。
 唯花は事件の情報が描かれた絵を描くのかもしれないと雫は語った。実際、唯花の絵が今回の事件についての示唆を与えてくれた。
 自分にも人のためにできることがあるのかもしれない。
 その可能性は唯花をこれまでになく励ましてくれた。
 だから今度は自分が雫を励ましてあげたい。
 唯花はそう思うのだった。
「ありがとう……」
 雫が唯花の手を握り返した。
 今にも泣き出しそうな空の下、二人はベンチに座って、ずっと手を握り合っていた。
クジラ
2014年03月07日(金) 14時49分52秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
学園ミステリーとして軽い読み物を目指しました。百合が苦手な人もいるかもしれませんので、どぎつい描写は入っていません。

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No.3  游月 昭  評価:10点  ■2014-06-06 23:45  ID:9IM.FzMIblM
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こんばんは。はじめまして。

面白いとは言えないんですが、きちんとした文章を書く力があって、それも改行詩のような書き方で余白スカスカになっているため、逆に読みやすくなってますね。いつも一文ごとに改行する、というスタイルで書かれているんでしょうね。問題は、文章力と語彙力、豊富な知識があるのに、展開がのっぺりしている。少し展開が唐突。理由が明かされていない(意図的に謎としているにはその効果が発揮されていない)。描写力がありそうなので恋愛主体にした方がのめり込めたんじゃないか、と思いました。

というのは、ミステリーを描くことに作者がノっていないことが透けて見えて、しかし逆に、女子二人の描写に、この先の恋愛が絡んでくることのほのめかしがずっと添えられているから。

読んでいて興味が湧いたのは、ミステリーではなく、ロマンスでした。
あなたのロマンスはきっと面白いはず、と思いました。

文章については大変勉強になりました。ありがとうございました。
No.2  クジラ  評価:--点  ■2014-03-25 06:09  ID:52PnvSC7.hs
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>おさん

感想ありがとうございます。
確かに後半が性急でしたね。
No.1  お  評価:30点  ■2014-03-16 11:44  ID:P4L5JGTUzFo
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楽しんで読ませていただきました。
学園とか、ユリとか、雰囲気がな出てて良かったです。
展開的にはちょいはしょり気味かとも思いましたが。
ありがとうございました。
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