クロイテガミ














 一週間ほど続いた残業がようやく片付き、最終電車に疲れた身体を揺らされながら帰宅した僕は白い息を吐くといつものようにアパート入口にある、二〇五と書かれたポストを開けた。
 健康食品のダイレクトメール、少し厚手の紙に書かれた分譲マンション見学会の知らせ、色鮮やかなピザ屋のチラシにそれとは対照的に地味な公共料金の領収書、その横にはデリヘル利用を呼びかけた半裸の女が微笑んでいる風俗のチラシが見えて、少しの時間眺めていると疲れた身体がさらに重くなり、その重さに押し出されるようにして口から浅く息が漏れた。すぐに右手を突っ込んで中央にかき集めるようにして取り出し、通勤鞄と一緒に提げていたコンビニの袋の中に乱暴に押し入れる。扉を閉めようと右手を上げた時、ポストの一番奥に何かが見えて、僕はそのままの姿勢で中に手を差し入れた。
 
 取り出してみると、それは真っ黒な封筒だった。

 一般的に長形四号と言われる、B五判の紙が四つ折りで入るくらいのサイズで宛先や差出人名、切手や消印という通常郵送時に必要な事柄が一切拒絶されたその手紙は異様な存在感を醸し出していて静かな真夜中、午前零時過ぎの空気を震わせる。
 これは一体何だろうと思い、僕はしばらくその手紙をじっと見つめていたがふと我に返り、同じようにコンビニ袋に入れると一人暮らしをしている1Kの自室へと歩いた。
 キーケースから鍵を取り出してドアを開け、すぐに照明のスイッチを押した。外気とさほど変わらない冷えた空気が身体を包み、鈍い蛍光灯の光を浴びながら靴を脱いで部屋に上がると荷物をリビングにあるテーブルの上に置き、そばに置かれていたリモコンで暖房を入れて風呂場に歩いた。浴槽の縁から垂れ下がっている栓を穴にはめると蛇口をひねり、すぐに湯を溜める。
 年の瀬も押し迫る十二月下旬、若さだけが取り柄の二十八歳の僕でも身震いするくらい室内の気温は低くなっており、熱めのお湯が蛇口から吐き出されると風呂場は一気に湯けむりに包まれて視界を真っ白い靄が覆った。
 再びリビングに戻ってきた僕は先ほどの真っ黒な封筒を思い出して袋から取り出すと机の引き出しにある鋏みを持ってきて手紙を開封する。親指と人差し指で両側を少し押してやると中には白い便箋が入っているのが見え、すぐさま引き抜いて開いた。

【ジュウニガツニジュウシチニチ、ササキブチョウガカイダンカラオチテフショウスル】

「何だこれ?」
 思わず口からその言葉が飛び出した。
 訳が分からず、もう一度封筒の中を覗き込んだがその紙以外は何もない。一枚だけ入っていた便箋にはワープロ文字で書かれた文章以外何も記載されていなくて短い時間睨めっこしていたがすぐに馬鹿らしくなり、手紙をテーブルの上に投げた。買ってきたオレンジジュースにストローを挿して一口吸い、リモコンでテレビをつけた。
 数分、ぼんやりと画面に映し出されるニュースを見ていたが目の前にある手紙が気になってもう一度手に取った。僕の勤めている会社には確かに佐々木という名前の上司がいるからだ。
 佐々木部長は現在四十歳、僕と同じ郷里、そして出身大学も同じとあり、社内でも気さくに声をかけてくれる頼もしい上司だ。学生時代から陸上を嗜んでいて見た目は四十路に見えないほど若々しく、身体は二十代の僕から見ても硬く引き締まっている。
「――二十七日って、明日だよな」
 壁に貼られているカレンダーに視線を送った。
 クリスマスから二日過ぎ、大晦日から四日足りない十二月二十七日は特にこれといって特筆することもない、何の変哲もない日付に思える。短い時間カレンダーを見ながら(どういうことだろう)と考えていたが特に思い当たる節はなく、もう一度オレンジジュースを飲むと、(まあ、誰かの悪戯だろう)と心の中でつぶやいて手紙を元に戻し、視線をテレビへと向けた。
 十分が過ぎて風呂の湯を止め、部屋着に着替えた。替えのパンツをクローゼットから出して風呂場に歩いたそのとき、携帯が喧しく鳴った。部屋に流れる着信音でそれが恋人の麻宮美香からだと判り、途端に気分が重くなる。力ない溜息を空中に吐き出すと仕方なくといった感じで携帯を拾い上げ、通話ボタンを押す。こちらが応答する前に美香は耳障りな甲高い声を出した。
《もしもーし、翔太もうウチィ? 今日も寒いねェ》
「ああ、そうだけど。どした?」
《んー別にィ、どうもしないけどォ。クリスマスも会ってくれないから元気かと思ってェ》
 美香はいつもと変わらず、僕が大嫌いな語尾を不必要に伸ばすバカっぽい喋り方でそう言った。特大の溜息を吐き出したい気分に駆られたが何とか抑えて口を開いた。
「元気だよ。昨日も電話で話しただろ?」
《あっれェ、そうだったァ? 忘れちゃったァあははッ》
「ごめん、用がないのなら切るよ。疲れてるんだ」
《最近何か冷たくないィ? あっ、浮気してるんでしょ? 絶対そうだッ》
 今日一日の疲れが一気に倍増し、両肩にのしかかってくるような気がした。首筋や背中が強張り、溜息すらも出ない。
「ごめん、本当に疲れてるんだ。今日はもう遅いから明日また話そう、クリスマスの埋め合わせは今度必ずするから」
 相手の返事を待つこともなく、そのまま電話を切った。
 彼女とは大学時代合コンで知り合い、酒の勢いもあってか初めて会ったその日の夜、男女の関係になってしまった。一夜だけのつもりでいたが優柔不断な僕の性格が災いし、だらだらと六年間もその関係が続いている。最近は会うたびに別れ話を切り出そうと試みているのだが、美香は見透かしたように笑うだけで気の弱い僕はそれ以上何も言えないでいた。
 その問題から逃げるようにして仕事に打ち込み、結果二十八の若造が課長にまで昇進したのだから『人間万事塞翁が馬』とはよく言ったものだ。明日も午前中から大事なプレゼンがあることを思い出した僕はひとつ身震いしてそそくさと風呂場へと急いだ。

 次の日、いつもより三十分ほど早く出社した僕を待ち構えていたのは思いもしないことだった。狭い喫煙所でタバコを吸いながらコーヒーを飲んでいるとガラスの向こう、同期入社で今は部下の高橋晃一が慌てた顔で走り去っていくのが見えた。普段沈着冷静なアイツが取り乱している姿を見て不思議に思い、灰皿に煙草を押し付けるとコーヒー片手に喫煙所から出る。丁度大学からの知り合い、大木美知留が通りかかったので訊いた。
「何、どうしたのアイツ。何かあった?」
 こちらの呼びかけに振り向いた彼女の顔は真っ青で僕は驚き、コーヒーをこぼしそうになった。慌てて体勢を立て直す。
「部長が……佐々木部長が出社する途中、階段で転んで怪我したって今、警察の方から連絡があったの」
 美知留は何とかやっと、という感じでそう言葉を繋いだ。
「えっ、それで容態は? 大丈夫なのか」
 問いかけに彼女はゆっくりと首を左右に振る。その目は死んだ魚のように生気を失っているように見えた。
「判らない、警察は意識不明だとしか言ってなかったみたい。翔太、部長死なないわよね?」
 会社では立場上、上司である僕のことを彼女は森山課長と呼び、敬語を使うが相当動揺しているのだろう、翔太という学生時代の呼び方で言い、弱々しくこちらを見つめてくる。
「馬鹿、そんなことあるわけないだろう。しっかりしろッ」
 強い口調でそう言うと美知留は力なく頷いて覚束ない足取りでオフィスへと走る。その小さな背中を見つめていてハッと思い出した。そう、あの黒い手紙のことだ。

【ジュウニガツニジュウシチニチ、ササキブチョウガカイダンカラオチテフショウスル】

 そんな馬鹿な、と僕は吐き捨てるようにつぶやいたが胸の奥で発生した闇のようなモヤモヤを拭い去ることはできず、顔を顰めた。事実その手紙に記載されていた内容が現実に起こったのだ。考えた途端に怖くなり、身体が震える。午前中に予定されていたプレゼンは急遽変更になり、僕たちの部署には滅多に現れない木村常務が顔を出し、部長の容態を深刻な表情で皆に伝えると、予断を許さない状況に泣き出す女子社員も出てオフィスは異様な空気になった。


 昼休みになり、八階にある社員食堂でいつものAランチを食べていると僕の前に美知留がトレイを持って立っていた。
「ご一緒しても宜しいでしょうか?」
「ああ、どうぞ。それと敬語はいいよ、どうも堅苦しくてさ」
 彼女は辛そうに溜息を吐きながらテーブルの上にトレイを置く。見ると僕だったら一口で食べ終わってしまいそうなハムサンドと飾りに近い少量のコーンサラダが乗っているだけだった。朝に起きた部長の一件で食欲がないのだろう、そう察した。
「心配しなくても大丈夫だよ」
 僕はそう言ったが、美知留はシルバーのフォークを持つと食べる気がなさそうにガラス皿の中にあるコーンを弾いて弄んだ。
「部長はそんな簡単に逝く男じゃないよ、君もよく知っているだろ?」
 彼女の手が止まり、視線が上がって僕の目を射抜いた。憤りや哀しみや不安をまぜこぜにした色彩が垣間見えたような気がして少し息苦しくなり、僕も小さく息を吐きだした。美知留の部長に対する思い入れは僕たち同期の比ではなかった。彼女は幼い頃に父親を亡くしていて長い間、母ひとり子ひとりの生活を送っていた。そんな中この会社に就職し、理想の父親像とも言える豪放磊落な部長と出会い、彼に今まで我慢していた父親に対する憧憬や父性を求めていたに違いなかった。入社して二年目の春、当時としては大きなプロジェクトを任された僕と高橋と美知留の三人は互いの力を合わせて何とかその仕事を全うした。プレゼン終了後、当時課長だった佐々木部長が僕たちに歩み寄り、おめでとうと右手を差し伸べてきた。僕が手を出そうとしたとき、真っ先に彼女がその日焼けした分厚い右手に飛びついた。あの時の嬉しそうな美知留の笑顔は今でも鮮明に覚えている。
「――うん、そうだよね。部長は大丈夫よね?」
 同意を求めるように不安げにこちらを見る美知留に僕は力強く頷いて見せた。本音を言えば僕も泣き出したいくらい不安だったが課長として、そして男としてもそんな素振りを見せることはできなかった。

 僕たちの部署はその日、浮き足立ってはいたが部長がいない今だからこそ個々が課せられた業務を消化することに集中し、仕事自体はいつもと変わらずスムーズに事が運んだように思えた。定時を迎え、今日は残業しないようにと常務命令が出ていたので皆すぐにオフィスをあとにして僕も年内最後、明日のプレゼンに備えると午後七時には会社を出た。駅前のイタリアンレストランでカルボナーラを食し、ずいぶん久しぶりに終電以外の電車に乗って帰宅した。肌を切り裂く寒さの中、昨日と同じようにポストの前に立った。いつものように右手を差し伸ばしたが途中で躊躇った。もし、またあの黒い手紙が入っていたら――そう考えると怖くて身体が動かない。少しの時間が経過して僕は意を決し、腕を伸ばすとポストを開けた。すぐに捨てられてしまいそうな安っぽいビラの上、真っ黒い手紙が置かれていた。その瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねた。背中を冷たい何かが通り過ぎた気がして身体が不自然に震える。他のビラには目もくれず、ひったくるようにして手紙をつかむと自分の部屋に駆け込んだ。蹴り飛ばすように靴を脱ぎ、照明をつけて鞄を床に放り、息を切らしたまま右手で封筒を破いて中の便箋を取り出した。

【ジュウニガツニジュウハチニチ、アサミヤミカノジタクカラシュッカ、ゼンショウスル】

「マジ……かよ」
 心臓に氷でも充てがわれたようなゾクリとした寒気と痛みが身体を駆けた。酷く眩暈がして、リビングの床が流動体に変わってしまったかのようにグラグラと揺れ出し、倒れてなるものかと両足を踏ん張るとなんとか耐えた。ゴクリと唾を飲み込んで手紙を投げ捨てるようにしてテーブルの上に置き、すぐに背広のポケットから携帯電話を取り出すと美香にコールした。呼び出し音が鳴るにつれて鼓動が速まっていく。早く出ろ、早く出ろ、早く出ろ、早く出ろ、早く出てくれ。五回ほどで呼び出し音が途切れて繋がった。
《もしもーし》
「美香かッ、いま家にいるのか?」
《翔太、どうしたのォそんなに慌ててェ。何かあったァ?》
「お前、明日絶対火を使うなッ。いいか、絶対だぞ」
《えっ、何ィ? ちょっと意味わかんないィ》
「いいから明日自宅で火を使うなよッ」
《火ィ? んー大丈夫だよ。あたし、家で料理しないからァ》
 それを聞いていささか安堵した。だがすぐに思い出して僕は言った。
「お前タバコ吸うだろッ、それもダメだ。明日だけでいいから絶対吸うな、分かったな」
 えー、と彼女は駄々をこねたが何とか説得して僕は電話を切った。ひとつ息を吐いてテーブルの上に置かれている手紙を見つめる。得体の知れない未来からの警告に僕の身体は先ほどから震えてばかりいる。一体誰がこんなものを送りつけてくるのか、考えれば考えるほど薄気味悪くなり、胸がざわつく。落ち着かせようとキッチンに歩いて冷蔵庫を開けた。マーガリンや賞味期限の過ぎた缶詰の奥、冷えている缶ビールを取り出すとプルトップを開けて一気に飲んだ。薄気味悪さや恐怖から逃げるようにして一気に飲み干した。空き缶を流しに捨て、リビングのカレンダーを凝視する。
「二十八日――」
 不意に出たその声は情けないほど弱々しく、そして震えていた。

 翌日、ほとんど眠ることができなかった僕は寝不足の重たい頭を抱えて出社した。いつもと違う元気のないその姿に心配したのか、高橋が声をかけてくる。
「課長どうしたの、大丈夫?」
「ん、ああ、最近あまり眠れていないんだ」
 僕がそう言うと高橋は一瞬憂いた顔をして、そうだよなと低い声を出す。伏したその目はいつもより赤く充血していて彼もあまり眠っていないことを表していた。
「部長の一件で少し……おかしなことがあってさ」
「おかしなこと?」
 僕はゆっくりと周りを見渡して、ちょっとコーヒーでも飲みにいかないかと喫煙所まで高橋を誘った。喫煙所横にある自販機で缶コーヒーをふたつ買い、彼に渡す。目当ての場所は丁度誰もいなくて急ぐようにして中に入った。
「何、どうしたの?」
 高橋が不思議そうな顔をしてコーヒーのプルトップを開ける。僕は短く息を吐き出すと背広の内ポケットから例の手紙を出した。
「一昨日の夜、自宅のポストにこれが入っていたんだ」
 高橋は、どれという感じで身を乗り出すと差し出した手紙を受け取り、中身を引き抜いて開いた。すぐに驚いたような顔をして僕の顔を見返してくる。こちらが頷くとまた手紙に視線を落とした。
「一昨日入っていたって? いや、でもまさか」
「こっちだって偶然だと思いたいよ。でも実際部長の身に同じことが起きてる」
 高橋は「いや、でも」とまたつぶやいて右手に持っていた缶コーヒーをグイっと強く飲んだ。
「これ何だと思う?」
「俺に訊かれても……。誰かの悪戯だとしか思えないけど」
 そう言うと彼は持っていた手紙をひっくり返して裏面も覗いたが何も得るものはなかったのだろう、すぐに諦めた様子で息を吐いた。
「部長誰かに恨まれることしてないよな?」
 僕の言葉に呼応するように高橋が頷く。「あるわけないよ」という台詞がそのあとを追いかけた。
「じゃあ、どういうことなんだ?」
 少しの沈黙が室内に蔓延ったあと、彼がポツリとつぶやいた。
「――未来からの手紙か」
「えっ、何だいそれ」
 高橋はどこか緊張した面持ちでそのあとを続ける。
「いや、昔ガキのころに観た古い外国の映画でさ、そういうのがあったんだ」
「どんな?」
「サラリーマンの主人公にある日突然、予言が書かれた手紙が未来から届くっていう話。課長、知らない感じ?」
「知らない。続けて」
「最初は良いことが書かれているんだ、主人公が想いを寄せる誰々から告白されるとか、何気なく買った宝くじが当選するとか。でもだんだん恐ろしいことが書かれるようになってさ、どんどんと主人公が追い詰められていくんだ」
「何だよそれ」
「だから映画の話さ。もう二十年以上前だから所々間違っているかも知れないけど――」
 高橋がそこまで言うと、突然甲高い電子音が喫煙所に響いた。僕の携帯電話が鳴ったのだ。着信音でそれが美香からだと気づいて脳裏に昨日の手紙の内容が浮かぶ。――まさか、と思うのと同時にポケットから取り出して通話ボタンを押した。こちらが口を開く前に彼女の慌てた声が耳に飛び込んできた。
《か、火事ッ、しょ、翔太どうしよう火事、家が燃えてるのォッ》
「落ち着けッ、大丈夫か、お前今自宅にいるのかッ」
《ち、違うッ、外ォ、外にいるゥ。私の家燃えちゃってるよォ》
「とにかく消防車呼べッ、早く!」
《もう呼んだァ、でもまだ来ないよォッ》
「なら早く避難しろッ、できるだけ離れてろッ」
《チャッピーが……》
「えっ、なんだって?」
《犬のチャッピーちゃんがまだ中にいるのッ、私助けなきゃッ》
「お、おいッ待てよッ」
 そこで電話が切れた。狭い空間は静寂に染まり、脈拍が急加速して身体を叩いて内側でドクドクと反響している。冷たい汗が背筋や色々なところから滲み出てきてやけに肌寒い。
「課長、どうしたの」
 高橋が驚いた様子で僕の顔を覗き込んだ。胸に真っ黒い靄が広がって僕はいてもたってもいられなくなり、喫煙所を飛び出した。十階にあるオフィスからエレベーターを待つのももどかしく、東側通路にある階段で一気にエントランスまで駆け下りる。美香の自宅は最寄りの駅からふた駅ほど西に下った場所にあり、普段通勤に利用している駅はここから走っても十分はかかる。頭の中で最短で行けるルートを計算して会社の前にある大通りまで全力で走るとタクシーを捕まえた。乗り込んですぐに行き先を告げるとこちらの慌てた様子に運転手は少し訝しげな表情をしたが車は低いエンジン音を響かせるとすぐに発進した。携帯電話を取り出して美香にコールしたが繋がらず、不安という闇がどんどんとその存在を大きくしていく。現場には十五分ほどで到着して僕は財布から二千円を取り出し、投げるように受け取り皿に置くと車から飛び降りた。その瞬間、異様な喧騒と鼻をつく焦げ臭さが僕を包み込んだ。急いで美香の家へ走ると、そこには悪意に満ちた真っ赤な炎が空を焼き尽くしそうな勢いで立ち上っていた。木造二階建ての家屋はその殆どを赤い悪魔に飲み込まれていて、ジリジリと焼けるような熱風が僕の身体を容赦なく叩き、恐ろしさで膝が震える。周囲を大型の消防車が三台取り囲んでいて放水しているが火の勢いは衰えるどころか益々燃え盛り、辺りは噎せ返るほどの黒煙が広がって野次馬の悲鳴に似た声と交差する。
「危ない、退がってッ」
 僕よりも若い消防士の声が聞こえたとき、木材がへし折れる嫌な音が木霊して美香の自宅は二階部分が一階を押し潰す形で一瞬のうちに倒壊した。先ほどよりも濃い悲鳴が周囲に発生して耳を劈き、上昇気流で舞い上がる火の粉は不謹慎なほど幻想的で精神を縛った。僕は携帯電話を握り締めたままその光景を見つめ、しばらく動けないでいた。呆然と立ち尽くした視線の先、人垣の向こう側に焼け残った美香の家のポストが視界に入り、その投入口から何か黒いものが出ているのが見えて僕はふらふらと引き寄せられるように歩く。引き抜くとそれはあの黒い手紙だった。悍しい記憶が蘇り、ガタガタと身体が震える。
「あなた何しているんですかッ、離れてくださいッ」
 怒号のような声とともに右肩を強く引っ張られて後方によろめいた。消防隊員やその後ろにいる野次馬たちの冷たい視線が僕を捉えて心に突き刺さり、泣いてしまいそうなほど痛い。掴まれていた肩を思い切り振り払うと僕は走り出した。頭がどうにかなりそうだった。とにかく一人になりたくてひたすらに走った。路地を抜けて最初の交差点を右に曲がると大きな児童公園が見えて、その手前に濃い茶色をしたタイル張りの公衆トイレがあるのを確認すると僕はそこに駆け込んだ。肩で息をしながら三つある個室のうち、一番奥の扉を開けて中に入ると急いで閉めた。途端に恐怖と狭い便所に漂う臭気で気分が悪くなり、便器の中に激しく吐瀉した。スーツの袖で口元を拭うと涙目になった視線を左手に握っていた手紙に向ける。胃酸が混じった酸っぱい唾をゴクリと飲み込んで恐る恐る開封した。

【ジュウニガツニジュウハチニチ、オオキミチルガトオリマニオソワレ、フクブヲササレル】

「――ふ、ふざけんなよッ」
 手紙を読んだ瞬間、恐怖とも怒りとも似ていない感情が溢れて身体が震えた。すぐ美知留に連絡を取ろうと携帯電話を出して発信ボタンを押そうとしたが指先が小刻みに震えて上手く押せない。(落ち着けッ)と心の中で叫んで美知留にコールした。心臓が破裂しそうなくらい激しく脈打って視線が揺れる。目頭を左手の指先で強く押さえながら彼女の無事を願った。呼び出し音が鳴って間もなくして彼女が応答した。その声は小声だったが珍しく慌てているようだった。
「課長、今どちらにいらっしゃるのですかッ」
「美知留ッ、無事か!?」
「えっ、何がですか?」
「怪我してないかッ」
「怪我? 誰がですか」
「大丈夫なんだな、良かった」
 僕の安堵した呼びかけに彼女は答えず、どこかに移動するような気配があった。すぐに怒ったような声が届いてくる。
「翔太、今どこにいるの? 今年最後のプレゼン始まっちゃうのに何してるのよ」
「それどころじゃないんだッ。そうだ、近くに高橋いないか? 電話代わってくれ」
「えっ、高橋君? ちょっと待ってね」
 さらに移動する気配があり、少しの間があって彼女が「今いないみたいね」とつぶやく声が聞こえた。
「美知留、今日は家に帰るな。誰かと一緒にいるんだ。行動するときも誰かと一緒に動け、高橋でもいい。分かったな」
「ちょっと、いきなり何言っているのよ。どうしたの?」
「予言があったんだ」
「予言? 何のこと」
 彼女に黒い手紙のことをいうべきか迷った。話すことでさらに混乱させてしまうかもしれないし、その前に信じてもらえないことのほうが大きいだろう。でも彼女を救う最善の行動を取らなければきっと後悔すると思った。僕はゆっくり深呼吸すると気持ちを落ち着かせて口を開く。
「いいか美知留、よく聞いてくれ。信じられないかもしれないけど未来からの警告が僕の元にきているんだ」
「未来からの警告? 翔太何言って――」
「いいから聞いてくれ。とにかく君の身に危険が及んでいる。今日は絶対一人になるな、さっきも言ったけど高橋でもいいから一緒にいるんだ。彼に例の手紙が来たと言えばわかってくれる。お願いだから今日はずっと誰かといてくれ、頼む」
 そう言うとややあって「わかった」という声が携帯電話の向こうから聞こえた。次いで「プレゼンに間に合うように来てよね」という声も聞こえたので今度は僕のほうがわかったと言葉を吐いた。電話を切って倒れるように壁にもたれる。途端に全身の力が抜けてしまい、そのまま汚れた床にしゃがみこんだ。ぼんやりと手元にある携帯電話を見つめていると不意に視線が歪んだ。涙だった。頬に流れるそれを乱暴に袖で拭っていると酷い疲労感が身体を包みこみ、床に座り込んだまま、少しだけ目を瞑った。もう何年も眠っていないかのように身体が重い。自分の身体じゃないみたいだ。意識が遠のく。僕は疲れていた。美香の屈託のない笑顔が暗闇の向こうで咲き、その瞬間、僕を取り巻いている世界は完全にブラックアウトした。



 突然、電話が鳴った。驚いて顔を上げる。どうやら眠っていたようだった。一瞬、ここがどこだかわからなかったがすぐに思い出した。右手に握られていた携帯電話の液晶画面を見ると知らない番号が提示されており、胸騒ぎがして急いで通話ボタンを押した。耳に充てるとすぐに中年くらいの低い男の声が届いてきた。
「森山翔太さんでいらっしゃいますか?」
「――そうですが、どちら様でしょうか?」
「突然失礼致します。私、中村綜合病院の寺本と申します」
「病院? もしかして美香の」
「はい、左様でございます。麻宮美香さんのご容態のことでお電話しております」
「美香は、美香の容態は――」
 その先を訊くのが怖かった。言葉を遮り、現れた沈黙は時間にしたらほんの数秒ほどだったがそれは永遠に続いていくのではと思うほど酷く長いものに感じた。携帯電話の向こう側、寺本と名乗った人物の気配が機械を通してこちらに伝わり、息が浅く短く漏れた。
「美香さんは腕や脚、それと背中に中度のやけどを負っていて避難される際に煙や熱風による呼吸器系の疾患もありましたので只今、当病院に搬送されましたが命に別状はございません。それでですね――」
「ほ、本当ですかッ。良かった」
 安堵して大きく息を吐いた。その様子を察したのか男性は少しこちらを気遣うような声音になり、「本当に良かったですね」と優しい口調で言った。そして彼は美香の親族に連絡をしたが繋がらず、仕方なく僕に連絡したこと、入院する手続きや着替えなどの支度を僕にお願いしたいとの旨を簡潔に告げてきて、こちらが了承すると「お願い致します」と彼は言い、僕は電話を切った。
 トイレを出て、先ほどの大通りまで走ってタクシーを捕まえると一旦会社へと戻った。「どうしたの?」と訊いてくる高橋と美知留に今までの事情を話し、予定されていたプレゼンに集中して業務をこなすと昼休みを利用して近くのショッピングセンターに行った。入院に必要な生活用具一式と女物のパジャマと下着類を購入して病院へと向かう。
 白を基調とした造りの清潔なロビーには美香の学生時代からの親友、恭子ちゃんがいて「森山さん」と声をかけられた。短い時間、美香の無事を互いに喜んで受付に行くと美香が入院した病室を訊き、急いで駆けつけた。一般病棟七階にある病室の一番奥、腕や脚に包帯を巻かれた彼女がベッドの上、静かに横たわっていた。怪我の影響か、もしくは施された薬の影響なのかはわからないがその顔は不自然なほど白かった。だが無事を確認することができてホッと胸を撫で下ろした。
 周りにいる何人かの医師と看護師がこちらに気づき、近づいてくる。美香の関係者だと名乗るとその中で一番の年配者だと思われる白髪の生えた担当の医師から美香の容体、今後の説明を受けたあと看護師に荷物を渡し、各種手続きを済ませるとすぐに会社へと戻った。美香のことも心配だったがそれ以上に美知留のことも気がかりだったからだ。八階のエレベータを降りて正面にある社員食堂の一番奥、窓際の四人掛けの席に美知留がいるのが見えて少しほっとした。その隣には高橋が座っており、こちらの視線に気がついたのか軽い会釈とともに左手を上げる。
「課長、大変だったね」
 席に着くなり、持っていた箸を置いて高橋が沈んだ顔でそう言った。美知留も力なく頷く。「ああ」と僕は言い、「でも幸い、命には別状ないみたいだから」とそのあとを続けた。しばらく話をしたあと、美知留は今年中に終わらせなければいけない業務があるからと言って席を立ち、オフィスへ向かう彼女の背中を見送ると背広のポケットから先ほどの手紙を出して高橋に見せた。彼の顔が一気に凍りついて口端が小刻みに震える。テーブルの上にあるお茶を一口飲み込んで「クソ、一体何なんだよ」と吐き捨てるようにつぶやいた。
「とにかく今日は三人一緒にいよう。今日の午前十二時、日付が変わればきっとこの予言も無効になるはずだ」
 まったくと言っていいほど確証はなかったが僕はそう言葉を繋いだ。そうであって欲しいという願望がそう言わせたのかもしれない。食堂の窓から覗く空は雲ひとつなくて、滄溟に酷似した青空がどこまでも続いていたが僕の心の中には拭い去ることのできない黒い靄がいつまでもかかったままだった。

 午後七時、年内最後の仕事を終えると美知留の提案で僕たち三人は近くの居酒屋で慎ましい忘年会を開くことにした。例年なら部署全体での大規模な会になるのだが今回は求心力である部長が入院していることもあり、僕たちが入社して以降滞りなく続いていた忘年会は今年初めて中止になった。
やや狭い個室に案内されて席に着くと、早速高橋がメニュー表に飛びつく。僕たちにリクエストを訊くと要領よくアルコールと料理を注文した。すぐに頼んだ生ビールと突き出しの切干し大根がのった小皿が運ばれてきて僕たちは今年の苦労を互いに労うように「乾杯」と小さな声で言うと、アルコールに口をつけた。
 酒が入ると時間の流れるのも早いのか気がつけば日付は変わり、終電の時刻を過ぎていた。予言は回避されたのだとホッと胸を撫で下ろして、忘年会も切り上げることにした。タクシーを使ってそれぞれ帰宅することも考えられたが心配性の高橋が朝まで三人でいることに固執し、結局ここから一番近い僕の部屋に始発電車が動くまでいることになった。駅前で待機していたタクシーに乗ると二十分ほどで見慣れた僕のアパートに到着して、美知留は僕の住んでいるところを見たことがなかったのか築三十年以上になる年季が入ったその物件を見つめて「昭和だァ」と暢気な声を上げたが予言の事情を知っている僕と高橋は入口にあるポストから目が離せないでいた。隣にいる高橋と目配せをすると僕は頷いて、ゆっくりとポストに近づいた。古びたアルミ製の箱は入口横にある水銀燈の外灯に照らされて妖しくその身を夜の空間へと浮かび上がらせている。短く息を吐いて奥歯を噛みしめ、覚悟を決めると僕は扉を開けた。昨日と同じように安っぽいビラがポストの大半を占めている。右手を突っ込んでビラを取り出して、さらに中を確認したが黒い手紙は見当たらなかった。安堵して大きく肩が揺れた。その動作で高橋も気づいたのだろう、近づいてくる気配がして「なかったのか?」と小声で言う。ああ、と返事をすると彼もホッとしたような顔を見せて乾いた笑みを広げた。その様子に美知留は不思議そうな顔をしたが僕は微笑むと彼女と高橋を二階にある自室へと案内した。

 二人には適当に座ってもらい、暖房を入れるとコーヒーを淹れるためにキッチンへと向かう。シンクの上にある戸棚から薬缶を取り出して水を入れ、ガスコンロにかけた。
「テレビつけてもいい?」
 半開きになっているキッチンのドアを開けた高橋がそう訊いてきて、僕は冷蔵庫の横にあるラック棚から粉末コーヒーの袋を出しながら「ああ」と答えた。袋をカウンターに置くとシンク下のキャビネットから砂糖とクリープを取り出し、同じようにカウンターに置いて食器棚の前に行き、カップを取り出す。手頃なコーヒーカップが二つしかないことに気がついて仕方なく一つは棚の奥にある何かの景品でもらったグレーの地味な湯飲み茶碗になった。それらにコーヒーの粉を入れて換気扇を回すとリビングに戻る。美知留は行儀よく正座しながらテレビを観ていたが高橋はクッションを枕がわりにして自分の部屋のように寝そべっている。予言が外れて相当上機嫌なのだろう、画面の中では若手芸人たちによる深夜特有のユルいコントが繰り広げていて誰かがギャグを言うたびに彼は豪快に笑った。短い時間談笑して、お湯が沸いたので僕はまたキッチンへと歩いた。火を止めて、三つ並んで置かれているカップに均等にお湯を入れていると、「やだ、私と同じ」と美知留の焦ったような声が聞こえ、すぐに高橋が「アッ」と声を上げた。僕は驚いて手元が狂い、注いでいたお湯をカウンターの上に少しこぼしてしまった。慌ててリビングに戻ると二人はテレビ画面を食い入るように見つめ、凍りついている。その視線を辿ると画面では報道番組が放送されていて、このアパートの近所で何か事件があったらしかった。中年の男性アナウンサーが真剣な表情で原稿を読み上げていてその途中で僕は自分の耳を疑った。
「もう一度繰り返します。昨夜、二十八日午後十一時二十分ごろ八王子市大蔵で通り魔によるものとみられる刺傷事件がありました。被害者の大木満さんは腹部を刺され、近くの病院に搬送されましたが意識不明の重体で――」
 オオキミチル? 美知留と同姓同名の被害者の名が頭の中を何回か廻り、理解するのに少しだけ時間がかかった。高橋が呻くような声を出して僕を凝視する。
「これって予言じゃないのか?」
 黙ってテレビ画面を見つめる僕に彼はそう言い、「やっぱり実行されたんだ」とそのあとを続けた。
「予言って一体なんなの?」
 黙っていると今度は美知留が僕の顔を覗き込んだ。意志の強い二重の大きな目に見つめられてもう隠し通すことはできないと悟り、背広の内ポケットから例の手紙を出して美知留に渡した。便箋を広げた彼女の顔がみるみるうちに青ざめていくのがわかる。やっぱり見せない方が良かったのではと少し後悔した。
「何なのよこれ」
 震える声が1Kの狭い室内に響いた。暖房で暖まっているはずの部屋は突如現れた緊張で酷く寒いものに感じられた。
「僕にも解らない。一昨日の夜、いきなりポストに投函され始めたんだ。部長のことも書かれていた」
 入口向かって右側、テレビ台の横にある机の引き出しから、部長と美香の予言が書かれた手紙を取り出すとテーブルの上に置いた。すぐに美知留は持っていた手紙を放すとその二つを交互に読んだ。便箋の先が微かに震えている。二重の目はいつも以上に見開かれて、不安や怖さでその視線が大きく揺れたような気がした。僕が何も言わないでいると高橋がやるせない感じで溜息を吐きだした。
「予言は実行されたようだけど――とりあえず、予言が美知留本人のものじゃなかったことを喜ぼう。こうは考えられないか? このあとも同じようにその手紙が届いたとしても最善の対策を取れば回避できると俺は思うんだ、違うかな」
 確かに彼の言うとおりだと思った。この手紙が何の目的で、そして誰が出しているのかは不明だったがこれから起きることを事前に知ることが可能な限り、必ず回避できるはず。突然発生した恐ろしさの中に一筋の光明が見えたような気がした。高橋の目を見つめて僕は頷く。
「そうだな、とにかくこれからは互いに連絡を取り合おう。もしまた手紙が来ても大丈夫なように。良いか美知留」
 視線を彼女に向けると、かなり動揺しているようで僕のその言葉は定着することなくリビングの床に落ちた。高橋が心配したのか「おい、どうした?」と美知留の右肩を揺する。
ややあって「うん、大丈夫」と弱々しい声を出して彼女は持っていた手紙をテーブルの上に置いた。
「――未来からの手紙みたいだね、これ。何か怖いな」
「美知留も観たことあるのか?」
 僕の問いかけに彼女の華奢な首が縦に動いた。「かなり昔のことだから全部覚えているわけじゃないけど」と、薄い唇がそう付け加える。
「もうやめようぜ、その話は。映画はフィクションなんだし、関係ないだろう」
 部屋に漂い始めた重い空気を高橋の言葉が払拭した。僕が頷くと彼はこちらを一瞥してまた口を開いた。
「考えてもしょうがないよ、――それより明日から休みに入るから三人でどこか遊びに行かないか? 気分転換も兼ねてさ」
「行くってどこへ?」
「俺の親戚が長野でペンションやっているんだ。たまには泊まりに来いってうるさくてさ、旅費は俺が持つからどうかな。二泊三日くらいでさ」
 黙って少し俯いた僕に彼は続ける。
「予言のことは気になるけど、だからこそ地元にいない方が良いかもしれないだろ? 三人で行動すれば大丈夫だって」 
 高橋の提案に僕たちは最初乗り気ではなかったが彼の熱心な説得に負けて、美知留は曖昧に頷き、僕もわかったと承諾し、三十日にレンタカーを借りて高橋の運転で長野へ行くことに決まった。そうこうしているうちに始発電車が動く時間になり、二人は「じゃあ、三十日に」と言い、自宅へと帰って行った。一人になった僕は昼過ぎまで眠ったあと旅行の準備を整えるため、街へ買い物に出かけた。駅近くのショッピングモールで赤色のダウンジャケットと下着を購入して一階にあるフードコートでラーメンを食べた。美香の容態が気になったので恭子ちゃんに電話すると「昨日と同じみたい」という力ない声が返ってきて心配になり、「元気出してね」と励ますとそのまま今度は佐々木部長と親しい経理課の大沼さんに電話をかけた。すぐに繋がったがこちらも依然予断を許さない状況らしく、僕は礼を言うと電話を切って溜息を一つ吐いた。
 自宅へ戻り、部屋からガムテープを持ってくるとポストの前に立った。扉を開けて中に何も入っていないことを確認すると投入口をテープできっちりと目張りした。こんなことで予言から逃れられるわけはないが、旅行に行く前に少しでも不安要素は消しておきたかった。

 次の日の朝早く、アパートの前で車のクラクションが鳴った。薄手のカーテンを開けると透明な朝陽の中、高橋は運転席の窓から身を乗り出して笑顔で右手を挙げる。車はいま流行りの青いRV車で、やや車高が高いその車の後部座席にはもう美知留が乗っていた。僕も手を挙げると荷物を持ってそそくさと下へ降りる。
 助手席に乗り込んで朝の挨拶を交わすと早速車が動き出した。警察署近くの七日町交差点を右折してすぐのところにある八王子ICから中央自動車道に乗って長野を目指す。帰省ラッシュ真只中にある年末の高速道路だったが早朝だからなのか、思いのほか道は空いており、車内に流れる高橋の大好きな九〇年代J―ポップスの曲調同様、車は軽快に流れた。
 自宅を出てから二時間半が過ぎて途中にある岡谷ICを越えたところで辺りは薄らと雪化粧に包まれ始めて、僕たちは久しぶりに見るその光景に無邪気に歓声を上げ、目的地のペンションがある最寄りの安曇野ICを降りると、そこはもう完全な雪国になった。目の前に聳える山々は四方を新雪で埋め尽くされていてこちらに迫ってくるような迫力があり、くっきりと浮かび上がる真っ白なその景色は雲ひとつない青空から降り注ぐ太陽光を余すことなく跳ね返していた。
「綺麗だねェ」
 美知留の透き通った声が車内に広がって、「どうよ、イケてるだろ?」と高橋がドヤ顔をしてそう返した。車は大通りを滞りなく進んで行き、そのうち舗装されていない道の中を走り出した。辺りはさらに濃い雪化粧となって慣れない運転に高橋も少し不安げな顔を見せる。カーナビゲーションだけを頼りにそれからしばらく進むと目的地であるペンションが見えてきて僕たちはホッと胸を撫で下ろした。

 ペンションは二階建てのまだ新しい建物だった。黒い屋根とクリーム色の外壁で想像していたものよりずっと大きく、とても清潔そうな印象だ。玄関入口の上には『anniversary』と黒字の筆記体で書かれた看板が掲げられていてその上にアンティーク調のランプが飾られており、まだ昼間だというのにオレンジ色の火がぼんやりと灯っている。屋根の天辺には豪雪地帯によく見られる落雪を促す突起物がついていてどこか面白く、何だかサザエの貝殻のようだと僕は思った。雪掻きあとが見られる、砂利が敷き詰められた駐車場に車を止めると僕たちの到着を心待ちにしていたのか建物の中から五十歳くらいで薄手の青いジャンパーを着込んだガッシリとした体格の男性がひとり出てきた。その姿を見るなり、高橋が車から勢いよく飛び出した。
「叔父さんッ」
「よく来たな晃一、しばらく見ないうちに大人になりやがってェ」
 高橋の叔父さんは嬉しそうにそう言うと、僕たちに軽く会釈をする。美知留と二人、車から降りてこちらも会釈をしていると「この人は俺の親父の弟さんで勇次さん。元々警察官だったんだけど俺が生まれる少し前から脱サラって言うのかな? 警察を辞めてペンション経営しているんだ。本当、頼りになる人だよ」高橋はそう言い、どこか誇らしげに胸を張った。
 しばらく談笑していると男性は「寒いだろう、いま家内が温かい飲み物を用意しているから遠慮せずに入ってくれ」と、良く通る声でそう言って、僕らをペンションに招き入れた。
 玄関の扉を開けた瞬間、柔らかな暖気が僕たちの冷えた身体を包んだ。エアコンのそれとは違う、どこか優しさを感じさせる暖かさ、靴を脱いで玄関先に綺麗に並べられている白いスリッパを履くと室内に上がった。入ってすぐのところにある広さ三十畳ほどもあるフロアには大きな鉄製の薪ストーブがあり、くべられている薪がパチパチと弾けて良い音を奏でている。天井は吹き抜けになっていて見上げるほどに高く、部屋の中央には大きな樫の木か何かで造られた立派なテーブルがあり、その周りに年代物の木製椅子が八脚並べられている。オーナーに座って寛いでいてくれと言われて僕たちは礼を言うと荷物を床に置き、上着を脱いで高級そうなその椅子に腰掛けた。テーブルの向こう側、揺らいでいる炎を見ていると先日の火事のことを思い出して脳裏にあの嫌な光景がフラッシュバックする。胸に黒い靄がじわじわと広がって背筋をゾクリとした寒気が覆い、鼓動が速まる。
「お待ちどうさまァ、よく来てくれたねェ」
 快活な声がフロアに響いて、僕たちは一斉に振り返った。オーナーと同じくらいの年齢の女性がにこやかな顔で銀色のトレイを両手で持ち、フロアに入ってきた。恐らくオーナーの奥さんだろう、セミロングの黒髪を後ろできつく括り、少しふっくらとした身体に花柄のエプロンを着用している。
「あッ、叔母さんお久しぶりです」
「晃一くん、大きくなったわねェ。元気だった?」
 女性はそう言いながら僕たちの前に紅茶の入ったカップを手際よく並べていく。香ばしい紅茶の香りが鼻をくすぐり、気分がいくらか落ち着いた。
「さあ、どうぞ召し上がってくださいね」
 僕たちは頂きますと各々言い、出された紅茶に口を付ける。しばらく談笑していると、入口奥にある色々な雑貨(恐らく長野の工芸品だろう)が置かれた棚の上に飾られている絵画が視界に入って僕は紅茶を飲む手を止めた。四十号ほどあるその絵は日本人っぽい三歳くらいの幼女が描かれた肖像画のようだった。ショートカットの髪は綺麗に切り揃えられ、色鮮やかな真っ赤なワンピースを着て背凭れの立派な椅子に可愛らしく座っている。小さな口元は口角が上がり、笑んでいるように描かれていたがはっきりとした二重の円い瞳はどこか寂しそうな哀愁を含んでいてずっと見つめていると背筋がいくらか冷える。初めて見たはずなのに以前どこかで見たことがある気がするが思い出せない。これは既視感というやつだろうか、酷くもどかしい。偶然有名人と街中ですれ違い、顔はわかるのに名前が出てこないあの感じだ。僕の視線に気がついたのか、正面に座っているオーナーが思い出したように声を出す。
「ああ、あの絵が気になるかい?」
「――ええ」
 僕の視線が絵から自分に移行するのを待って、彼は口を開いた。
「この夏にすぐそこにある青龍神社の広場で骨董市が開催されてね、といっても骨董市自体は毎年やっていて特に珍しいものじゃないんだがあのような絵画が出品されるのは非常に珍しくて、つい買ってしまったんだよ」
「そうだったんですか」
 僕は頷くと、また絵の方に視線を向ける。最初に見たときよりも幼女の憂いが一際強くなったような気がした。少し怖くなり、逃げるようにして紅茶に手を伸ばすと一口飲み込んだ。
「有名な方の絵なんですか?」
 僕の隣に座っている美知留がそう声を出した。オーナーは意味深にニヤリと笑むと身を乗り出して、「そう見えるかい?」と逆に美知留に問いかける。少しの間があって、「解りません」と彼女が言うと、オーナーは勿体ぶるような素振りを見せると背筋を伸ばし、「私にも解らんッ」と大きな声を出して降参するように両手を挙げておどけてみせた。フロアにどっと笑い声が木霊する。
「まあ、子供の小遣い程度で買える値段だったから大した絵ではないよ。アマチュアか、名もない画家が描いたものだろうね」
 オーナーは愛おしそうに絵画を見つめると「あ、そういや部屋の鍵をまだ渡していなかったね。ちょっと待ってて」と早口で言い、席を立った。数分後、戻ってきたその右手には透明なクリスタルがついた三つの鍵が握られていてオーナーは陽気な表情でそれらをテーブルの上に置いた。
「今日と明日は君たち以外お客はいないからゆっくりするといい。わからないことがあれば何でも訊いてくれ。部屋は皆二階の南側、日当たりが一番良いところにしておいたよ」
「やった」
 高橋が子供みたいに笑んで真ん中の二〇四と記載された鍵を抜き取った。僕は二〇五と書かれた鍵を美知留に渡して残った二〇三号室の鍵をポケットにしまう。
「早速荷物を運び入れようぜ」
 高橋は言うなり立ち上がって二泊三日の旅行にしては丸々と太ったボストンバッグを抱えるとヨロヨロとした足取りで階段を上っていく。僕たちも立ち上がり、「紅茶ご馳走様でした」と礼を言うと荷物を持って二階へと上がった。良く磨かれた飴色の廊下の一番手前に二〇一と書かれたドアが見えて、その三つ先の扉のところに高橋が立っていた。
「狭い一人部屋かと思ったら二人部屋だったよ、かなり良い感じ」
 そう嬉しそうに彼は言い、「荷物置いたらドライブにでも行こうぜ」とそのあとを続けた。ああ、と頷いて自分の部屋番号が書かれたドアの前まで歩くとドアノブに鍵を差し込んで扉を開けた。すぐに柑橘系の良い香りが漂ってきて鼻をくすぐった。見ると出入口付近の棚に小さな芳香剤が左右対称にふたつ置かれている。ライムの香りだろう、すっきりとしていてとても爽やかだ。一つ息を吸い、吐き出すとスリッパを滑らせて中に入る。廊下と同じような飴色の床、奥にはパリッとした清潔そうなシーツに包まれたシングルベッドが二台あり、その枕元にはブラウン色の簡易な電気スタンドが置かれている。反対側に大きめのテレビとその下、黒いラックの中にはDVDプレーヤーが設置されていてその前にはベージュ色をした二人掛けくらいのソファーがあり、寝ながら見るのに便利そうだった。広さは十畳ほどでそれほどでもなかったが薄いグリーンのカーテンが開け放たれている窓からは見渡す限りの雪山が広がり、酷く神々しい。荷物を置くのも忘れてその景色に見蕩れていると誰かがドアをノックする音が響いた。「はい」と声をかけるとドアの向こうから「支度できたァ? 行こうぜェ」という高橋の声が聞こえた。僕は返事をするととりあえず荷物をベッドの上に置き、上着を羽織って部屋を出た。
 一階のフロアにはもう美知留がきていて真新しい黄色のウェアを着込んでいる。玄関脇にあるフロントに奥さんがいたので高橋が皆の鍵を集めて渡そうとカウンターの前に立った。奥さんと高橋が談笑しているその肩越しに木製の棚が見える。お客のためにビデオの貸出もしているのだろう、棚にはDVDと思われる黒く薄いプラスチックカバーのケースがジャンル別に何個も並んでいて左から右に視線を流した次の瞬間、僕の目はある一点を見つめたまま止まった。
「――未来からの手紙」
 思わずそう呟いた。隣に立っていた美知留が驚いたような声を出した。それに呼応して高橋もこちらに振り返る。僕は相当怖い顔をしていたのだろう、「どうした?」と彼は気遣うように小さな声を出して僕に歩み寄る。
「あれ」
 フロントの中にある棚を指差すと奥さんがああ、と声を出した。
「うちは無料でお客さんにビデオを貸出しているの。特にここらの冬場は天気が変わりやすくて半日以上外に出られない日もあるからこのサービスは結構好評なのよ、何か気に入った?」
「あのビデオ観せてもらって良いですかッ、未来からの手紙っていうタイトルの」
 僕が慌ててそう言うと奥さんは驚いた顔をしたがすぐに後ろにあるそのビデオを取ってカウンターの上に置いた。
「珍しいわね。こんな古い映画、いまの若い人が観たがるなんて」
 僕は差し出されたビデオを掴むと高橋の制止する声も聞かずにそのまま自分の部屋に駆け込んだ。すぐにテレビとプレーヤーの電源を入れて起動させる。チャンネルをビデオ1に変更し、デッキの開閉ボタンを押してトレイを吐き出させるとソフトを乗せた。同じようにボタンを押してプレーヤーがDVDを飲み込むとしばらくして映画が画面に映し出された。

 強く吹く風が青々とした背の高い草を左右に靡かせている。どこまでも続いていきそうなほど広い草原、春の陽射しのように柔らかな光を全身に浴びてスーツ姿の男が仰向けに倒れている。良く晴れた空を見上げるその顔は不自然なほど色白で、歪んだ口元は苦しんでいるようにも笑っているようにも見える。しばらくして男はひどく緩慢な動きでスーツの内ポケットから手のひらに収まるくらいの小さな黒い箱を取り出した。ゆっくりとその箱を開くと青空に向かって差し伸べる。どうやらリングケースのようだ。箱の中央には小さなダイヤをあしらったシンプルだけど気品ある美しい指輪が鎮座しており、降り注ぐ光を余すことなく受け入れ、鋭く反射する。
《エリス、約束どおり迎えにきたよ。さあ、受け取ってくれ》 
 薄い唇がそう動いて、男は静かに目を閉じた。

 そこまで観ているとドアをノックする音がして僕はテレビから目を離した。
「どうぞ」
 扉が開いて高橋と美知留が部屋に入ってくる。ふたりの顔は少し怒っているように見えたが構わずにまた画面を見つめた。
「課長、一体どうしたんだ?」
「――僕にも良くわからない。だけどこの映画を今見ておかなければいけない気がするんだ、わがまま言ってゴメン」
 ふたりの溜息が聞こえた。身体を包むあの既視感や胸騒ぎをうまく説明できない。でも確実に何かが頭の片隅に引っかかっている。遠い昔に置き去りになった記憶なのか、出来事なのかわからないがこの映画を見終わる頃にはきっと答えが出ているはずだ。そして黒い手紙が送られてくる理由も。
 画面の中は場面が変わり、朝の風景になった。先ほどの男が眠そうな目を擦りながらリビングへと起きてきた。僕と同じく一人暮らしなのか部屋は狭く、置かれているテーブルの上は食器やゴミが散らばって雑然としている。欠伸をしながら冷蔵庫を開けてミルクを取り出すと一口飲み、寝癖の頭を掻いて洗面所へと向かう。顔を洗い終わり、玄関前にあるポストから新聞を取り出したその時、黒い封筒が男の足元に落ちた。主人公は訝しげな顔をしながらも手紙を開封する。中には未来からの予言が書かれていた。

「やっぱりこれだ、俺がガキの頃に観た映画」
 高橋はどこか懐かしそうにそう言って、「このシーン覚えている」と小さくつぶやいた。そのとき僕もこの場面をどこかで見たことがあるような気がしていた。あの絵画を見たときと同じ、胸にざわざわとした既視感が広がって息苦しい。美知留も黙って映画を観ていたが少し気分が悪くなったのか無言のまま立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。場面は以前高橋が言っていた主人公が想いを寄せる女性から告白されるシーンに変わり、「そうそう」という感じで彼が頷いた。映画は進み、当初良いことが書かれていた予言がどんどんと不吉なものに変化していく。追い詰められていく主人公、その時白いワンピースを着たひとりの少女が男の前に現れた。その女の子は穏やかに微笑んで口を開く。
《あなたの未来が私にはわかるの。――ねえ、教えてほしい? これと同じ物をくれたら教えてあげてもいいわ》
 少女はさらに深く笑んでポケットからプラスチックか何かで出来た指輪のような物を出して男に見せた――。
 それを見たとき、僕の脳裏に幼い頃の記憶がフラッシュバックした。
 木洩れ日が差し込む暖かなログハウス風の部屋、傍らにはショートカット姿で五歳くらいの少女が優しく微笑んでいる。僕も同じように笑ってポケットから小さな箱に入っている菓子を取り出した。その菓子のおまけにはおもちゃの指輪が付いていてそれを傍にいる女の子の指に填めた。綺麗と少女は言い、屈託なく破顔する。
 ――この子は一体誰だろう? 脳裏に浮かぶその顔を強くイメージするが名前が思い出せない。
 目を瞑り、暫く考えていたがどんどんと映像が不鮮明になり、やがて消えた。目を開けて短い時間ぼんやりと考えていたが首を振り、テレビに視線を戻した。 
 そのとき、後ろでドアが激しく開いた。僕と高橋は驚いて画面から扉へと視線を移行させる。美知留が立っていた。黄色いウェアとは対照的な酷く青褪めたその顔に僕は息を飲んだ。
「どうしたんだ?」
 声をかけたのは高橋のほうだった。彼女は「こ、これ」と震える声で右手を僕たちに差し出す。その先に黒い手紙があった。慌てた様子で高橋はソファーから立ち上がると彼女に駆け寄り、持っていた手紙をひったくるとすぐに破いて便箋を取り出した。胸の前で広げた直後、彼の顔色がみるみるうちに変わっていく。肩が震えて口端が歪み、息が浅く漏れて切れ長の目はゆらゆらと揺らいでいるように見える。
「叔父さんが……畜生、ふざけんなよ」
 そう低く呻いて、高橋は手紙を床に投げ捨てると美知留を押しのけるようにして猛然と部屋を飛び出した。床の手紙を恐る恐る拾い、視線を落とした。

【ジュウニガツサンジュウニチ、タカハシユウジガキタクトチュウニトラックトショウメンショウトツシ、ジコシスル】

 事故死という文面に戦慄が走り、膝が震える。美知留が手紙を覗き込んだ。すぐに驚いた表情で口を手で押さえ、息を飲むのがわかった。僕たちは手紙を持ったまま急いで一階のフロアへと駆け下りた。
 フロアに高橋の姿はなく、ストーブの暖かな空気とパチパチと薪が燃える音だけが存在していた。誰かいるかと思い、すぐにフロントへ走った。ちょうど奥さんがフロントの向こうにあるリネン室から出てきて、慌てている僕らを見ると驚いたような顔で「どうしたの?」と声を出した。
「オーナーは?」
「えっ? 旦那は、いま街へ買い出しに行っているけど。さっき晃一くんにも訊かれたわ、一体どうしたの?」
 奥さんが言い終わるかどうかのタイミングで外から車のエンジン音が聞こえた。美知留と二人、全力で玄関に向かって走り、靴を履いて外に飛び出ると高橋がいる車に乗り込んだ。
「オーナーと連絡取れたか?」
「いや、繋がらない。もしかしたら運転中で出られないのかもしれない」
 彼は悔しさが滲んだ顔でそう言いながらギアをドライブに入れると車を急発進させた。砂利を激しく弾きながら雪道から公道へと突き進んだ。鬱蒼と木々が生い茂る山間特有の道路、昼間のはずなのにひどく薄暗くて気持が落ち込む。ハンドルを握る高橋の顔も同じように曇っていてその心中を察するとズキズキ胸が痛んだ。大通りにぶつかる交差点まで来た時に彼の携帯電話が鳴り、車内に一瞬緊張が走った。すぐに車を路肩に停めて、高橋は電話を取り出した。
「もしもしッ、叔父さん? いまどこにいるの」
 静かな車内に携帯電話のスピーカーから微かにオーナーの声が漏れてくる。しばらくして高橋が安心するような声音に変わり、そのあとを続ける。
「とにかく俺たちが迎えに行くからそこにいてくれッ、――うん、そうだよ。いますぐ行くから」
 高橋はそう言うとすぐに車を走らせた。真剣なその表情に僕たちは何も言えないまま十数分が経過して車は市街地へと辿りついた。視線を左右に這わすと小ぢんまりとした個人経営のスーパーが見えてきてその手前にある狭い駐車場にオーナーが立っているのが見えた。車内を安堵感が包んでほっと胸を撫で下ろした、その時だった。反対側の車線を走行していた大型のトラックがハンドルを急激に切ると突然僕たちの乗った車の前を通過した。慌ててブレーキを踏む高橋、「キャッ」と湧き上がった美知留の短い悲鳴、耳を劈くブレーキ音とともに勢いよく身体が前に傾いだ。シートベルトが胴体を強く受け止めて頭が大きく揺れる。すぐに体を起こして助手席の窓から外を見た。轟音を響かせながら駐車場に突っ込んでいくトラック、目を見開いているオーナーの顔、後ろで悲鳴を上げる美知留、全力でクラクションを鳴らす高橋、それは時間にすれば一瞬の出来事だったに違いなかったが目の前で起きた光景は不気味なくらいスローモーションではっきりと僕の網膜に焼き付いた。暴走したトラックが目の前でゆっくりと横転していく。次の瞬間、落雷のような音が轟いて目に映る現実は一気に速度を増した。砕け散る窓ガラス、トラックは運転席側の車体と荷台部分の丁度真ん中を軸にしてアスファルトを激しく抉りながら転がり、駐車していた他の車を何台か押し潰して漸く止まった。薄く細い静寂が立ち込めて高橋が良くわからない喚き声を上げながら車から飛び降りる。僕も震える身体を無理やり動かすとシートベルトを外してドアを勢いよく開けた。
「救急車ッ」
 そう誰かが叫んだ。怒鳴り声のような響き、通行人かもしれない。わからない。事故の衝撃で変形したオーナーの軽自動車の下から目を覆いたくなるような鮮血がゆるゆると流れてくる。目の前に広がる凄惨な事実に視線が頼りなく揺れた。
「叔父さんッ、う、嘘だろ……?」
 高橋の悲痛な声が耳に突き刺さる。僕は混乱しながらも携帯電話を取り出して一一九を押し、救急車を要請した。騒ぎを聞きつけた人々が現場に集まって辺りは異様なほどの喧騒に包まれたが泣きたい気持ちを堪えると地面にへたり込んでいる高橋に近づいて震えるその肩を抱き起こした。五分ほどで遠くからけたたましいサイレンが聞こえてきてすぐに赤色灯の眩い光が僕たちを照らした。救急車から迅速に隊員たちが降りてきて素早くトランク部分を開けると担架を取り出した。軽自動車の向こう側に隊員の一人が回り込むと慌てたような大声を上げて担架を持ってくるように指示を出す。バタバタとほかの隊員が動く中、周りで見ていた人たちの悲鳴や焦げ臭い匂いが入り混じり、辺りは緊迫な空気を孕み始める。痛々しく、酷く息苦しい。運び出されたオーナーが担架の上に乗せられた。額から血が流れ、それとは対照的に顔は青白く生気を失っているように見えた。目は静かに閉じられ、ぐったりとしていて動かない。高橋の嗚咽が一際強くなり、耳にこびりつく。僕はどうすることもできずにただその光景を見つめていた。すぐに担架が救急車に乗せられて隊員の一人が僕たちのほうに走ってくる。オーナーの関係者だと話すと病院まで事情がわかる方の付き添いが必要だと彼は事務的にそう言った。高橋が涙を拭って自分が同乗すると伝えてそのまま救急車に乗り込むとすぐに車は危機感を増長するような甲高いサイレンを響かせて走り出した。僕と美知留は奥さんに事情を説明するため、急いでペンションへと車を走らせた。ハンドルを握る手や足が意思とは無関係に震える。先ほどと同じ景色のはずなのに見えるその世界は次元の違う異界へと迷い込んでしまったかのようで抑えようとすればするほど鼓動が速まり、最悪の事態を想起させる。舌打ちを響かせて嫌なイメージを振り払うようにアクセルを踏み込んだ。無言のまま車を走らせてペンションに到着するとフロントで仕事をしていた奥さんに事情を説明した。突然の出来事に奥さんは最初信じられないという顔をしたがすぐに涙が頬を濡らした。僕は高橋に連絡を取り、搬送された病院を確認して奥さんに伝えると彼女はふらつく足で自分の車に乗り込むと病院へと向かった。
「これからどうなっちゃうの? 私すごく怖い」
 美知留は目に涙をためてそう訊いてきたが僕は何も言えずに視線を床に落とした。フロアに沈黙が現れて息苦しくなり、逃げるようにして二階の自室へと走った。とにかくあの映画を観れば何かが解るはず、そんな漠然とした予感だけが僕を突き動かした。半開きだった扉を乱暴に押し開けて部屋に入るとつけたままのテレビから映画が流れていた。レクイエムのようなとても静かな曲が室内を埋め尽くしている。すぐに画面を見つめた。映画はクライマックスに入ったのか、主人公の前にあの少女が憂いを秘めた顔で佇立している。その手は鮮血で真っ赤に染まり、余すことなく血だらけで僕はぎょっとした。

《わたしのこと、いつまでも忘れないでね》

 少女は大きな瞳からポロポロと大粒の涙を流すと悲しそうにつぶやいた。その瞬間、僕の脳裏に幼い頃の記憶が鮮やかに蘇った。
 まだ小学校に上がる前、冬になると毎年のように父方の遠い親戚が所有しているログハウスに遊びに来ていた。普段狭いマンション暮らしの僕は温かみのあるそのログハウスが大好きで馬鹿みたいに大はしゃぎしていた。その家には僕と同じくらいの女の子、『ユキちゃん』がいて笑顔が可愛い彼女とは気が合い、よく一緒に遊んだりもした。映画好きの親戚の叔父さんに誘われて近くの街にある古ぼけた映画館によく行っていて、そこで当時リバイバル上映されていた『未来からの手紙』を僕たちは一緒に観た。ユキちゃんは途中から怖いと泣き出して、大丈夫だよと僕が慰めた。上映が終わって赤い目をしたユキちゃんを元気にしようと僕は家から持ってきていたお菓子をポケットから取り出して彼女に渡した。あの映画と同じようにおまけにはおもちゃの指輪が梱包されていて、ユキちゃんはそれを左手の親指に填めると屈託なく笑った。
 楽しい時間はあっという間に流れて休みも終わり、僕たち親子は地元に帰る日がやってきた。お別れの日、車に乗りこもうとした上着の裾を誰かに掴まれた。振り返るとそれはユキちゃんで彼女は寂しさと苛立ちがまぜこぜになったような顔でじっと僕の目を見つめていた。僕は優しく笑んで彼女の艶のある綺麗な頭を撫でた。その動作と呼応してユキちゃんは大粒の涙を流して泣きじゃくった。来年もまた会えるわよ、と叔母さんに宥められて彼女は漸く握っていた服の裾を放して車から遠ざかった。別れの挨拶を交わして僕たちは車に乗り込んだ。父がエンジンをかける。窓を開けてユキちゃんに手を振ると彼女は落としていた視線を上げ、真っ直ぐにこちらを見る。
「わたしのこと、忘れないでね」
 車がゆっくりと走り出して、脇道に入るとすぐにユキちゃんたちの姿は見えなくなった。
 次の年の春に父の転勤に伴い、僕たちは九州へ引っ越すことになった。毎年行っていたログハウスには遊びに行けなくなり、しばらくの間僕はユキちゃんへ手紙を出していたがそれもすぐに止めてしまい、小学校に上がるころ、彼女に関する記憶は完全に僕の中から消え去っていた。
「ユキちゃん……」
 テレビ画面を凝視しながらその言葉が口から零れ落ちた。胸騒ぎに似た嫌な感覚が去来してすぐに実家へと電話をかける。呼び出し音が四回鳴ったころ、母親が普段より一つトーンの高い声で電話に出た。
「もしもし母さんッ」
《翔太? どうしたの、随分久しぶりだね。元気かい?》
「ユキちゃんって子のこと覚えてる?」
 僕が突然そう言ったので母さんは面を食らったのか黙ってしまった。構わず続ける。
「子供の頃よく一緒に遊んだだろ、ログハウスにいたあの子だよッ」
《――ああ、宮田有紀ちゃんのこと? 懐かしいわね、あの頃は若かったわねみんな》
 事情を知らない母さんは思い出に浸るような暢気な声を出して、それでどうしたの? と訊いてくる。
「連絡先とかわかる? 急いでるんだ」
 すぐに返答してくれると思ったが母さんはまた黙ってしまった。思いがけず現れた沈黙が酷く痛い。もどかしい。
《――あなた、知らなかったの?》
「何が?」
《あなたが小学校二年生になる年にあの子亡くなったのよ、水の事故で》
 知らされたその事実にしばらく言葉を失ってしまった。脳裏にあの屈託のない笑顔だけがぼんやりと浮かんだが二十数年の時間が重くのしかかり、その微笑みはすぐに消えた。
《急にどうしたの、何かあった?》
「――いや、その」
《今日は色々と変なことが起こる日ねェ》
「色々?」
《今朝、新聞を取りに行ったらポストに変な手紙が入っていたのよ》
 心臓を鷲掴みにされたような圧力が身体を縛った。息が止まり、視界が狭まる。
「――それ、黒い封筒じゃないのか」
《そうよ、何だアンタ宛てかい?》
「それ開いて中に書いてある文章を読み上げてくれッ」
《何よ、久しぶりに電話してきたと思ったら――》
「いいから早くッ」
 しばらくして携帯電話の向こう側、溜息とともにビリビリと封筒を破く音が聞こえて耳に残響する。すぐに「あら」という声がその上を追い越した。
「何て書いてあった?」
《何も》
「えっ」
《何も書かれてないわ、白紙よコレ》
「嘘だろ?」
《本当よ、真っ白け》
 これは一体どういうことなのだろう? 無い頭をフルに回転させる。今までと何が違ったのだろう、しばらく考えた。不意にユキちゃんの寂しそうな顔が浮かんで、もしかしたらこれこそが手紙が送られてくる理由であり、そして逃れられる唯一の方法なのかもしれないと思った。確証はなかったがそんな気がしたのだ。
「母さん、ユキちゃんのお墓ってどこにあるかわかる?」
《何なのよ、突然》
「いいから、わかるなら教えてくれ」
 ちょっと待ってと母さんは言い、受話器を置く音とともにどこかへと歩いていく気配があった。すぐに「わかったわ、メモの用意は良い?」と返事があった。母さんがいうその住所を僕はしっかりとメモすると電話を切った。メモ用紙を四つに折ってしまい込むと出入口の扉がキィと鳴った。
「翔太?」
「――美知留、もしかしたら逃れられるかもしれない」
「えっ?」
 急いでボストンバッグから持ってきていた手紙を取り出してポケットにしまうと驚いた顔をしている彼女の手を取って僕は走った。そのまま玄関を出て高橋の車に乗り込んだ。
「ちょっと、どうしたの?」
「思い出したんだ、何もかも」
 慌ただしくシートベルトをかけながらそう言うと美知留も腑に落ちない表情をしながらも同じようにシートベルトを着用する。もう一度メモを取り出すとエンジンをかけて車を走らせた。
「――説明してくれる?」
 僕は幼い頃の記憶をできるだけ呼び起こして美知留に話した。メモを渡すと彼女は真剣な眼差しでそれを読んでいた。
「幼いころ約束したんだ、ユキちゃんと」
「約束?」
「彼女、とても寂しがっていた。別れる前の日、今度来るときはもっと綺麗な指輪をプレゼントすると僕は約束したんだ。ユキちゃんは嬉しそうに微笑んでいた。本当に嬉しそうだった。――でも僕はその約束を反故にした。ついさっきまで約束を破ったことさえも忘れていた、最低だ」
 自責の念に囚われながら強くアクセルを踏み込んだ。車は順調に進んで時計の長針が一周するころ、ユキちゃんのお墓がある隣県の小さな町に到着した。少しスピードを落として母さんが教えてくれた場所、今福寺というお寺を探した。車を走らせていると町の中心から少し外れにある寂れた商店街に出て、道を訊こうと小さな雑貨店に立ち寄った。曇りガラスの木戸を開けて店内に入り、すみませんと声をかけたが誰の反応もなく店の中はとても暗く、しんとしていて静かだった。困ったなと思い、視線を這わすとそこは昔懐かしい駄菓子屋で眺めていると童心に帰ったような気持ちになる。店の奥、背の低い棚にある商品に目が止まり、引き寄せられるように歩いた。薄いセロファンの内側、ピンク色をしたウサギのキャラクターが描かれている小さなその箱を手に取って見つめた。幼いころユキちゃんにあげたあのお菓子と同じ、熱いものがこみ上げてきて胸が詰まった。
「いらっしゃい」
 嗄れた低い声が店内に響いた。驚いて視線を上げると一段高くなった奥の座敷から多分この店の主だろう、七十代くらいの老人が面倒くさそうな顔で出てきた。薄暗い店内、老人の短く刈り込まれた白髪の髪と同じくらい白い、あご周りの無精髭が何かの目印のようにキラリと光った。
「すみません、この近くだと思うのですが今福寺というお寺の場所を訊きたいのですが」
「八十円」
「えっ」
 老人はあご先を器用に動かすと僕が持っている菓子を指した。
「それ、買うんだろ? 八十円だ」
 財布から百円玉を取り出して店主に渡す。老人に負けないくらい古びたレジスターからお釣りの二十円をこちらに渡すと彼が言った。
「この前の道を右にまっすぐ行けばいい。そうだな、車なら三分くらいだろう」
 礼を言い、店から出てこようとした時、出入口付近にある赤い厚紙に掛かったおもちゃの指輪が目に入った。すぐにこれもくださいと言ってその中の一番大きく綺麗なエメラルドグリーンの指輪を購入した。老人は物珍しそうに僕の顔を覗き込んだが曖昧に笑むと店をあとにした。

 店主の言う通り、車を走らせてから三分足らずで荘厳な今福寺の入口が見えてきた。車を一旦停めると美知留の顔を見る。不安そうな表情をしていた彼女だったがこちらの視線に気がつくとゆっくりと頷いた。僕も力強く頷いて入口前にある真新しい駐車場へと進入する。
 車から降りると真冬独特の刺すような冷たい風が吹いて僕たちは顔を顰める。これは今まで放っておいたユキちゃんの哀しみなのだろうか、それとも怒りなのだろうか、わからない。石畳の道をしばらく歩くと本堂が見えてきた。由緒あるお寺なのだろう、永い年月確かにそこに存在していたと感じさせる立派な門構え、その横には大きな釣鐘が堂々と建立されている。平日の昼間にもかかわらず参拝客の姿がちらほらと見える。その顔は皆穏やかそのもので焚かれた線香の香りが敷地内を守るように漂っていた。檀家の霊園はどこにあるのだろうと周りを見渡すと案内板が視界に入り、そちらに近づいた。
「行こう」
 地図を確認し、そう言うと手前の階段を下りた。すぐに視界が開けて眼前に檀家の墓が広がった。きっちりと規則正しく並んでいるそれはまるで几帳面な日本人の性格を表しているかのようだ。美知留と二人、手分けしてユキちゃんが眠っている墓石を探した。宮田という苗字だけを手がかりに闇雲に探し続けたが五分が経ち、十分が経過したころになっても一向にそれらしき墓は発見できずにいた。心身ともに疲れてきた時、「あった!」という美知留の声が遠くから聞こえて僕は声のしたほうに全力で走った。石畳の地面を何回も蹴って霊園の中を駆けた。暫くすると黒い御影石でできた墓石の前で美知留が立っていた。
「きっとこれだと思う」
 息を切らしながら墓石に近づいた。『宮田家之墓』と書かれた正面から裏側に回って見ると墓石には宮田有紀の名前がしっかりと刻まれていた。途端に涙が頬を伝い、感情が溢れた。僕は乱暴に上着の袖で涙を拭うと先ほど買ったお菓子と指輪を墓前に備えて美知留と一緒に手を合わせた。
「――ユキちゃん、遅れてごめんね……。寂しかっただろ、本当にごめん」
 幼いころの記憶が脳裏に浮かんでは消えていく中でユキちゃんの屈託のない笑顔だけが残り、また涙が溢れた。美知留も泣いていた。一人でいることの寂しさや辛さを彼女も知っているのだろう、僕たちは誠意を込めてしばらく手を合わせ続けた。

「――行こう」
 僕たちは墓石に向かって一礼すると誰ともなく歩き出した。静かな霊園、刺すような冷たさの風はいつの間にか止んでいて今は暖かな日差しが青い絵筆をまっすぐ引いたような空から降り注いでいた。僕たちの心の中も不思議なくらい静まっていて穏やかだった。ユキちゃんに何かしてあげられたとは思っていない。そしてあの手紙から逃れられることは正直ないのかもしれない。だけど、できる限りのことはすべてやった。そう思った。駐車場まで戻り、車のキーをドアに差し込んだ。そのとき、美知留の携帯電話が鳴った。応対した彼女の顔色が変わる。また何かあったのかと鳩尾あたりがギリギリと痛んだ。でもすぐに美知留は嬉しそうに明るい声を出した。痛みが消えた。どうしたと訊ねた僕に、
「オーナーの……オーナーの意識が戻ったって。助かったみたい」
 そう震える声で言った。思い出したようにポケットに入っている未来からの手紙を取り出して広げた。
「――消えてる」
 そこには何も書かれていない真っ白な便箋がただ存在しているだけだった。






 不思議なことが起きたあの日から早いもので、もう三年が経過しようとしていた。
 結局、佐々木部長も美香も命に別状はなく、次の年に入るとすぐに退院して以前と変わらない生活を送っている。部長は前にも増して頼もしくなり、精力的に仕事をこなしていて相変わらず僕らのヒーロー的存在だ。あの一件以来高橋はオーナーのことがひどく心配らしく、去年の冬に彼は会社を退職してオーナーのペンションを手伝い始めることになった。右腕だった部下がいなくなり、僕にかかる仕事の比重はさらに重いものとなったが新しく入ってきた社員共々一丸となって何とか頑張っている。今度大きなプロジェクトが開始される予定で今はその使命を全うすることだけに全力を尽くしている毎日だ。
 美香が退院する日、僕は勇気を出して長年付き合っていた彼女と別れた。気を使いすぎる僕の態度に彼女も嫌気が差していたのだろう、別れようと言うとあっけなく美香はうんと頷いた。六年間もダラダラと続いていた関係だったが終わるときは本当に一瞬で、僕は少々面を食らったが、まあとにかく新しいスタートが始まったのだと清々しい気持ちで一杯だった。
 それから半年が経過して同僚で部下の大木美知留は森山美知留になった。
 そう、僕たちは結婚したのだ。あの不思議な出来事から互いがとても大切な存在だと気がつき、どちらから告白するともなく交際が始まった。プロポーズは僕からで「ずっと一緒にいよう」と陳腐なその一言を伝えると彼女は嬉しそうに屈託なく笑った。
 きっと、ユキちゃんが二人を導いてくれたのかもしれない。僕は勝手にそう思っている。



「翔太ァ、そろそろ起きないと遅刻するよォ」
 寝室の白いドアの向こうから美知留の声が聞こえ、僕は曖昧に返事をする。すぐに扉が開いて彼女がベッドのかけ布団を豪快に剥ぐった。
「起きなさい!」
 冷えた寝室の空気と美知留の迫力満点のその声が眠気を抹殺して僕は飛び起きた。
「おはよう」
 朝の挨拶を交わして寝癖頭を掻きながら洗面所へと歩いた。顔を洗い終えるとキッチンへ行き、冷蔵庫の中のミルクを一口飲んだ。オーブントースターで焼かれている食パンの芳ばしい香りが鼻をくすぐり、幸せな朝をより一層際立たせている。
「もうすぐ出来上がるから新聞でも読んでいて」
 美知留にそう言われて僕は欠伸をしながら玄関まで歩くと差し込まれていた新聞紙を取り出した。すると足元に何かが落ちた。(なんだろう)と寝惚けた目を凝らした瞬間、言葉にならない呻き声が喉をこじ開けた。
「う、嘘だろ……」
 透明な朝陽をその身に受けて、黒い手紙がギラリと妖しく光った。      〈了〉
藍山椋丞
2013年07月08日(月) 00時01分24秒 公開
■この作品の著作権は藍山椋丞さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
【黒い○○】シリーズ、第一弾目の作品です。
ご感想を頂けると大変嬉しく思います。
どうぞよろしくお願い致します。

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No.8  藍山椋丞  評価:--点  ■2013-08-06 22:15  ID:i/iCocdcxPo
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gokui様、ご感想ありがとうございます。
面白かったと仰って頂き、大変嬉しく思います。
ユキちゃん、本当に何がしたかったのでしょう(笑)
プロットを立てず、勢いだけで書いたその弊害かも知れません。
強いて言うなら自分の事を忘れている翔太に思い出してほしくて、といった感じでしょうか。
直接的に狙うより、身近な人間を狙うことで思いだす時間を与えていた。
うん、完全なる後付けです(笑)
墓参りの件は、呪いが解けたのかどうかまだ半信半疑な部分もあり、ユキちゃんに対しての誠意みたいな感じで書きました。緊迫感を持たせることで真剣に取り組むようにです。
少女の絵はミスリードですね。あの絵に何か秘められているのでは?と見せておいて、ただ単にユキちゃんを思い出させる小道具(昔の記憶を蘇らせる呼び水)みたいな感じでした。
映画と実体験の件はよりリアリティを持たせる意味でシンクロさせてみました。
オチ(終盤の書き方)は二通りあるのかなと思います。gokui様の仰られている持っていき方と卯月様が仰られているやり方と。
先日、知人宅で偶々江戸川乱歩賞受賞作、「天使のナイフ」を見つけ、読ませてもらったのですが、登場人物のほとんどが最後ひとつに繋がるというオチでした。(ミステリーなら定石かも知れませんが)
なので、佐々木部長、恋人の美香、美知留と同姓同名の女性、高橋の叔父、これら被害者の四人が最終的につながる方向へ行っても面白かったかも、と思います。
ユキちゃんの事故死はただの水の事故ではなく、その四人が何らかの関わりを持っていた。
そのようにすれば、もっとミステリー色の強い物になったのかなと。
生まれてこの方ミステリーは十数冊しか読んだことがないので、もっと熟読し、いつかは本格的なものを書いてみたいなァと思いました。
No.7  gokui  評価:30点  ■2013-08-05 23:29  ID:SczqTa1aH02
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読ませて頂きました。
読み終わった時点の感想は、面白かったです。しかし、後でよく考えてみると、いったいユキちゃんは何がしたかったのでしょう。子供のいたずらにしては度が過ぎているし、翔太とは直接関係のない人ばかりが被害にあっています。うーん、死人の考えることは生きている人間には分からないということなんでしょうか。
それに、翔太がユキちゃんを思い出した時点で黒い手紙の効力は消えているようなので、墓参りのシーンは、翔太が一人で踊っているような印象がありますので、緊迫感は必要ないような気がします。
それから、ペンションに飾ってあった少女の絵の正体、映画「未来からの手紙」と翔太の実体験がシンクロしているのは意味があるのか、単なる偶然か、謎だらけですね。
あと、卯月さんの感想に、未来予知は超常現象かトリックかをはっきりさせるみたいな発言がありましたが、私は、これをはっきりさせない方が読者にジレンマを起こさせて引き込むえさになると思うので、はっきりさせない方が良いと考えます。卯月さんの警察の捜査という案はリアリティがあって捨てがたいんですけどね。
また、読者を引き込むような作品を待っています。頑張って下さい。
No.6  藍山椋丞  評価:--点  ■2013-07-14 23:05  ID:i/iCocdcxPo
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お様、ご感想ありがとうございます。
皆さまの仰られている通り、やはり推敲が必要ですね。すみません。
ストーリーに関して言えばプロットをほとんど立てず、勢いだけで執筆した作品なのでこんな感じになりました。
貴重なご意見ありがとうございました。
No.5  藍山椋丞  評価:--点  ■2013-07-14 23:02  ID:i/iCocdcxPo
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坂倉圭一様、ご感想ありがとうございます。
仰られている通り、無駄な言葉が多かったですね。
次回からは、もっと推敲して投稿いたします。
貴重なご意見、ありがとうございました。
No.4  お  評価:30点  ■2013-07-14 20:09  ID:.kbB.DhU4/c
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さて。
まず文章で言うと、細かい部分での精査が効いていない、ところによっては少々乱雑さすら感じさせるところもありますね。しかし一方、そういったことを抜きしにして読み進めると、エンタメ的演出としての文章のセンスが、少なくともこのサイトで見る限り卓越していると唸らざるを得ない。うん、すごい。手に汗握った。
また、他方、この小説で致命的と思えるのは、ネタの陳腐さ。いや、ほんとに、これだけ煽ってこれだけ? って絶句してしまいました。今となってはあまりに当たり前になりすぎた結論で、しかも、うまい前振りもしていないから、唐突で唐突で。せめてもう一回どんでんするのかと思ったら終わってしまったという。
だから、ほんと、この作品を読んだ感想としては、面白いのにつまらない。
僕もまぁストーリー創りとかすっげー苦手だから言うのもはばかられるのだけど、やっぱりもう少し物語りの大きな流れを詰めて考える必要はあるんじゃないかなぁ。
と、率直なところそう思いました。
でもね、ネットの投稿サイトで、文章でこれだけわくわくさせられる小説ってそんなに当たりませんぜ、だんな。

評価は……うーん、やっぱとても良いにはできないかな……てとこで、良い で。
No.3  坂倉圭一  評価:30点  ■2013-07-14 14:29  ID:31Q5QOLXqEI
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読ませていただきました。

冒頭の『一週間ほど〜午前十二時過ぎの空気を震わせる』までを読んだ際に、少し読み終えるのが困難かもしれない、という印象を受けました。実際は最後まで読みましたが。

冒頭で「息を吐く」「息が漏れる」「息を吐く」と続けすぎに思います。これでは表現の抽斗が少ない印象をいきなり与えてしまうことになります。

『一週間ほど〜午前十二時過ぎの空気を震わせる』、この間だけでも、削った方が良い言葉がたくさんある印象を受けました。

『一般的に長形四号と言われる、B五判の紙が四つ折りで入るくらいのサイズで宛先や差出人名、切手や消印という通常郵送時に必要な事柄が一切拒絶されたその手紙は異様な存在感を醸し出していて静かな真夜中、午前十二時過ぎの空気を震わせる』
ここのところも、ここまで大げさに書いてしまうと、却って浮いてしまうのではないでしょうか。作者が小説を書くためにいかにも苦心して書いたという印象がぬぐえません。

いずれにしましても、全体のストーリーは良かったです。
ありがとうございました。
No.2  藍山椋丞  評価:--点  ■2013-07-10 20:21  ID:i/iCocdcxPo
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卯月 燐太郎様、ご感想ありがとうございます。
午前十二時過ぎ……やってしまいました(笑)あとで訂正しておきます。すみません。
「その」とかの余計な言葉は、ほとんど書きっぱなしで推敲していませんでした。習作でも人様にお読みいただくならちゃんと推敲しないといけませんね。これもすみませんでした。
「初老」に関してですが、辞書で調べると四十歳の、もと異称とあるので使ってしまいました。
前回の作品で、制服警官の件は投稿した後に自分でも気がつきました。お馬鹿ですみません。これからはちゃんと調べてから執筆したいと思います。
その他のアドバイス、とても参考になりました。
ありがとうございました。
No.1  卯月 燐太郎  評価:40点  ■2013-07-10 19:13  ID:dEezOAm9gyQ
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「クロイテガミ」読みました。


1 タイトルは適正か
「クロイテガミ」一色の内容なので、これで、よいと思います。
また「黒い手紙」と漢字が入っているよりも「クロイテガミ」とカタカナで書かれていたのがよかったです。
それはポストに投函されていた「クロイテガミ」の内容がすべて「カタカナ」で書かれていたからです。


2 文章が読みやすいか
文章は読みやすかったですが、一部おかしなところがありました。
A>静かな真夜中、午前十二時過ぎ<
B>静かな真夜中、午前0時過ぎ<
AはBです。「午前十二時過ぎ」という時間は、存在しません。

「その」ほか、不必要な言葉がある。
 C>思わず口からその言葉が飛び出した。<
 D>思わず口から言葉が飛び出した。<
CよりもDです。「その」はなくても意味は分かります。

E>便箋にはワープロ文字で書かれたその文章以外何も記載されていなくて<
F>便箋にはワープロ文字で書かれた文章以外何も記載されていなくて<
EよりもFです。「その」はなくても意味は分かります。

G>佐々木部長は現在四十歳<
H>初老に見えないほど若々しく<
●「四十歳」なら「初老」とは言わない。

I>その身体は二十代の僕から見ても硬く引き締まっている。<
Hに続いて書かれている文章ですが、これも「その」はない方がよい。

J>だらだらともう六年間もその関係が続いている。<
K>だらだらと六年間も関係が続いている。<

JはKでよい。「もう」「その」はいらない。

L>仕事それ自体はいつもと変わらずスムーズに事が運んだように思えた。<
M>仕事自体はいつもと変わらずスムーズに事が運んだように思えた。<
LよりもMでよい。「その」はいらない。

●御作を読んでいると「導入部」あたりで無駄な言葉が多いです。
導入部を過ぎたあたりからは、無駄な言葉が見当たらなくなります。
これは、作者が手を抜いている証拠です。
完成した後に注意しながら読み直していけば直るものと思います。


3 興味を惹くストーリーをテンポ良く展開しているか
面白かったですよ。
「興味を惹くストーリーをテンポ良く展開」していました。
内容については、充分に他人に読ませる力があります。

ただこの作品には警察関係の情報が入っていません。
それで作品がご都合主義になってしまっています。
あとで、詳しく書きます。


4 シチュエーション(状況)をわかりやすく示しているか
「いつ、どこで、誰が、誰と、何をしたか」よくわかりました。
だから、欠点もよくわかりました。


状況設定について(御作の問題はここです)

●天災、または人間の力が及ばない事を予告して当てないことには、これら黒い手紙の内容は一般の人間が行っているということになる。天災となると、人間の力が及ぶことはではないので、未来からの予告と言うことになり、話に信ぴょう性が出て来る。
人災と言うことだと、いままで起きたことは予告状がポストに投函されているので、入れた人物を特定すれば犯人につながる。
その場合はどうするかと言うと、黒い手紙が投函されていたポストの近くにある防犯カメラをすべてチェックする。そして黒い手紙をポストに投函した共通の人物を割り出す。これが、警察のやり方です。したがって、主人公がどうして警察に届を出さないのかが不思議です。
ちなみにチラシ等も投函されているので、黒い手紙がどのチラシの間にあったのかを思い出せば、黒い手紙の投函時刻がだいたいわかるから、その時間帯の防犯カメラの記録を解析すればよい。

―――――――――――――――――――――――
御作の場合は、事件が起きているにもかかわらず、仲間内だけで解決しようとしている。普通は、警察に証拠の「黒い手紙」をもって、相談に行くでしょう。

―――――――――――――――――――――――

ラストまで読んだところでは事故予告は人外の者の仕業ということになっているので、防犯カメラに、黒い手紙を投函した者を警察が特定したが、本人は無意識のうちにそれをしていたということにすればよい。
また、本人には幼い子供を亡くして、離婚(夫婦どちらか)していたとかにすれば伏線が張れる。(この辺りは伏線だとわからないように、さらりと書いておく)

あと「クロイテガミ」の予告者が幼い子供(小学校二年生)だったことから「手紙の文章が大人びていた」のが、引っかかります。


5 魅力的なテーマか
この手の小説やドラマ(基本ストーリが似ている物)はすでにあるので、作者の個性が光る作品にする。


6 主人公および主要登場人物のキャラクターは魅力的か
「主要登場人物のキャラクター」は全員よく描かれていたと思います。
高橋の叔父が元警察関係と言うことになっていますが、そこから話が広がっていませんね。重要な役目をするのかと思っていました。
人間関係の図式はうまく出来ていました。
持ち場のバランスがよかったです。


7 ストーリーにサスペンスはあるか
ありました。
上にも書きましたが、充分読ませる力はあります。
基本的に話の展開のさせ方もうまかったです。


8 イメージ豊かな描写はしているか
これはかなり良かったですね。
読ませる文章(描写)になっています。


9 細部に臨場感はあるか
作品を読み進める上では問題はありませんでした。


10 ユーモア・ウィット・ギャグはあるか
主人公たちの若さが感じられました。
登場人物たち、年齢相応の作品になっていますね。


11 ドラマに「深さ」はあるか
ありませんでした。
社会的背景(時代等)が庶民レベルで絡んでくると深さが出て来るかもしれません。


12 その他
作品は書ける人だと思いました。
原稿用紙87枚がすんなり読めたのですから、書くことに関しては「その」とか必要ない言葉を省くように注意すれば大丈夫です。
文章をシンプルにする。

あとは、第三者の目で書くことですね。
事件が起きた時に個人で解決するのではなくて、警察に相談とかの発想になると思います。
警察が動き出せば、それなりの捜査はします。
そして黒い手紙を投函した者はわかりますが、その人物が無意識に行動していたとかで、捜査は行き詰る。

ちなみに捜査をするのは刑事です。
制服を着た警察官ではありません。前作では「制服を着た警察官」になっていたので、穴があると書きました。


まだ、書き足らない気もしますが、次の作品を拝読した時にでも思い出せば書きます。


それでは、頑張ってください。

出典
使っているテンプレートは、三田誠広著書の「深くておいしい小説の書き方」という本の中にある「新人賞応募のコツと諸注意」の「おいしさの決め手十カ条」に一部追加したものです。作者には許可を頂いております。
総レス数 8  合計 130

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