黄泉比良坂にて


   一


 西側の窓から差し込む光が、シャーペンの影を長く伸ばしている。
 午後四時を回っている教室には、おれのほかに二人しか生徒はいない。数学の葛西先生が授業の最後に配り始めた小テストがまだ終わっていないのは、おれと、後ろの席に座っている西川原という女子だけだ。隣に座っている工藤はとっくに答案を提出していたが、いまは退屈そうに窓の外を眺めている。
 成績にさほど響くわけでもないので、さっさと提出して帰ってもよかったのだが、なかなか帰る気になれなかったのは、西日の射したこの教室の時間が止まっているみたいに穏やかで、意外と居心地が悪くないなと思ったからだ。
「なあ、まだ終わらないのか?」
 思考停止状態のおれを見て、しびれを切らした工藤がだるそうな声をあげた。
「先に帰ってろよ。なんで待ってんだよ」冷たく言うと、「待ってるんじゃない、見張ってんだよ、カンニングしないようにな」工藤は男にしてはずいぶん長い、天然パーマの髪を搔き上げながら言った。
 工藤は数学が得意で、成績は学年でもトップクラスだ。だが、英語がぜんぜん駄目で、暗記科目全般が苦手。いわゆる、典型的な理系だ。
「お前、受験どうすんの?」工藤がまた話かけてくる。
「外大とか受けるつもりだけど」顔を答案用紙に向けたまま返事をすると、「へえ。そういや、英語得意だったっけ」と大して興味もなさそうに工藤は言った。
 おれはそんなことより、後ろに座っている西川原が気になっていた。テストがまだ終わっていないのは、授業の終わりがけに、遅れてやってきたからだろう。
「気付けばもう二年だもんな。再来年には大学生か」工藤がしみじみ言った。
「もう大学生になれるつもりか?」おれは呆れて言った。
「なれるだろ、大学生ぐらい。どっかの大学には絶対入れる」
「しょうもない大学とか行っても仕方がないけどな」
 筆箱に付けているキーホルダーをいじっていた工藤が思いついたように言った。「でもさ、神社とか行くと、『大学に合格しますように』とか、そういうこと書いてある絵馬とか、あるよな。あれって、冷静に考えたらすげぇ馬鹿っぽいよな」
「藁にもすがりたい思いなんじゃないの」
「でもさ、例えば親とかが自分の息子が合格しますように、っていう意味でああいうの書くなら、まだわかるよ。でも、本人だったらさ、そんな絵馬書いている暇あるんだったら勉強しろよって感じ、しない?」
「お前それ、実際に書いているやつに言ってやれよ」
「そう思わん?」
「思うけどさぁ。他の受験生の体調がみんな悪くなることとか願ってるんじゃねぇの」
「それ凄いな。神様ってそんなことできんのか?」
「まあ、仮にも、神だからな」
「神通力か?」
「そう、神通力」
「ちょっと待てよ。もちろん、他のやつが似たようなこと書き始めたら、そっちの願いも聞き入れなきゃいけないわけだから、神通力はそっちにも使われるんだよな?」
「知るかよ」
「つまり、相殺されるのでは?」
「神通力の相殺?」
「そうそう。そうか、なるほど、だから、みんなお布施するわけか」
「何ひとりで納得してんだ」
「より多くのお布施をした人に、より強力な神通力が与えられる、と」
「怖ぇ話になってきたな」
「まあ、君みたいに資本力のない貧乏人は……」
「誰が貧乏人だって?」
「どうすれば良いのでしょう」
「勉強すればいい」
「確かに」
 一瞬、静かになった。
「それか、ちょっと人気のない神社に行ってみるとか」ついでの思いつきで、おれは言った。
「人気のない神社?」
「日本ってヤオヨロズの神っていうぐらいだから、いろんな神がいるんだろ? アマテラスみたいにメジャーなのじゃなくて、もっとマイナーな神にお願いしたらいい。どうせ、大学に合格させるぐらい、大した神通力じゃなくてもいけるだろ」
「いけるか? 結構大変だろ、受験合格させるのって。第一、受験に合格させる神って、具体的にどういうことをしてくれんだよ。脳みその能力でもアップさせてくれるのか?」
「そうなんじゃねぇの」
「それか、テストの点数を十点ずつ足してくれるとか」
「完全に不正じゃねぇか」
「まあ、百歩譲って、受験当日に他の受験生のおなかを痛くしてくれるだけでいい」
「ただの嫌がらせだな」
「そこまでハードル落とせば、なんとかやってくれそうじゃんね」
「はあ、もういいよ、帰ろうぜ」
 おれはペンを投げ出した。どうせ、これ以上考えたところで結果は変わりそうにない。椅子を引いて立ち上がったとき、工藤が思い出したように言った。「そういや、マイナーな神社といえば、この裏の山に神社あるの、お前知ってた?」
「神社?」
「山頂らへんに神社があるんだと。こないだ、二組の井上たちから聞いた」
「へえ、初耳だな」
「でも井上たち、行けなかったんだって」
「行けなかったって?」
「山のてっぺんにたどり着けなかったんだってさ」
「たどり着けないってことないだろ。だって、あの山だろ?」
 おれは窓のそばに寄って、外を指差した。西側の校舎に隠れてよく見えないが、裏手の山はすぐそこにある。特に高い山ではなく、高校生の足で登れないような高さの山ではない。
「登れなかったって言ってるんだから、そうなんだろ。山頂に繋がる道が途中からなくなってるんだと。それよりもさ、神社だよ。まともに登れないようなところに神社があるって、どうしてなんだろうな?」
「知らん」
 おれはカバンの中に筆箱を詰め、後ろを振り返った。ショートカットの髪を綺麗に切りそろえた西川原は、俯いて、机に視線を落としている。だが、ペンは動いていない。
「西川原」おれは大きめの声で、話しかけた。「テスト、終わってるんなら、今から職員室行くけど。一緒に出してこようか」
 西川原は顔を上げてこちらを見ると、「いい」と短く言い放った。
 おれはほとんど西川原とはしゃべったことがない。クラスの大半の人間が、ないだろう。暗いというより、とにかく、クールなのだ。西川原は、相手の目を見て、言いたいことを端的に言う。切れ長の目で、ストレートに言われると、たじろいでしまうのは確かだ。
 彼女は決して嫌われているわけではない。ただ少し浮いていて、どこか敬遠されているような感じだった。
「あ、そう」とおれは言い、かばんを抱えて教室を出て行こうとした。
 すると、背後から、「ねえ」と西川原の声が聞こえてきた。「神社はね、行く道がないんじゃなくて、行く道がなくなったのよ」
「え?」おれと工藤は振り返る。
「あの山の神社はね、昔からある神社なんだけど、三年前に土砂崩れがあって、そこに繋がる車道がなくなったの。神社に繋がるだけの道だから、復旧工事も遅れてて、まだ塞がったままなのよ」
 それを聞いた工藤は、「へえ、そうなんだ。そういえば、井上たちも、道が途中から通行止めになってるって言ってたな。だから、別の道を探したんだと」
「車道とは別に、登山道があるのよ。車道とは違うところから登る道だから、通行止めのところからは行けないわ」
「へえ、そういうことなのか。にしても西川原、ずいぶん詳しいな?」
「だって、あの神社、うちの管轄の神社だもの」
「そっか、お前の家、神主だったっけ」工藤は言った。工藤は西川原とは同じ中学だから、多少はバックグラウンドは知っているようだ。
「ほら、駅前にある、諏訪神社。あそこの神社だよ」工藤がおれに説明する。
「ああ、そうなんだ。知らなかった」
「神社って、色々他の神社も兼任したりしてんの?」工藤が再び西川原に話しかける。
「神主より神社のほうが多いって言うぐらいだしね。あの神社も、普段は無人。うちが管理してるってだけ」
「そうか。でも、行き方ぐらいは知ってるよな」
「でもね、もうずいぶん行ってないのは確かだわ」
「え?」
「だって、お父さん、あの神社で、亡くなってるから」
「は?」おれと工藤は二人で間抜けな声をあげた。「どういうこと?」
「文字通りよ。お父さん、あそこで死んだのよ」
「……嘘だろ?」
 信じられずに言うと、「嘘よ」と西川原はあっさり認めた。
「嘘?」おれと工藤はまた声を重ねる。
「そう、嘘」
「そうだよな、おれ、今年の正月に、諏訪神社でお前の父さん見たよ。別に普通だったぞ」工藤があっけらかんとした声で言う。
「そうか、嘘か……」
 ここは笑うべきところなのかどうなのか、反応に困った。
 そこで、西川原ははじめて、唇の端を少し持ち上げるようにして、笑った。西川原の笑顔を見たのは、これがはじめてかもしれないとおれは思った。
「怖かった?」
「え?」
「怖かったかって、聞いてるの」
「え、いや、まあ」おれはしどろもどろに答える。
「マイナーな神社のほうがご利益あるって、たぶんそうだと思うな。だってそうでしょ? 大きな神社って、人もたくさん来るけれど、たくさん来れば来るほど、その人たちにご利益が分散しちゃうでしょう。でも、マイナーな神社だったら、来る人も少ないから、それだけご利益もたくさん残ってると思うな。それにね、日本の神様って、少し人間っぽいところもあるから、人が来ない神社のほうが神様も寂しがってるだろうし、効果あると思うよ」
「なるほどなあ」工藤がうんうんと頷きながら言う。「理にかなってる」
 いや、意味がわからない、とおれは思ったが、声には出さなかった。
「行ってみる?」西川原は言った。
「え?」
「その神社に、行ってみる? 私、何回かしか行ったことないけど、道なら知ってるし、案内できるよ」
「行くって、今からか?」
 九月に入ったばかりのこの季節はまだまだ陽が長いし、四時過ぎだから決して遅い時間ではないが、それでもこれから知らない山に登るような時間ではない。第一、なぜいきなりそんなことを言い始めたのかがわからない。
「そうよ」西川原は涼しい顔で言った。
「今からってなあ……工藤、どうする?」
 工藤はへらへら笑っていて何を考えているのかわからない。おそらく、何も考えていないに違いない。
「怖いの?」西川原は今度は明らかに挑発的に微笑んだ。もしかすると、けっこう笑顔のバリエーションがあるのかもしれないな、とおれは思った。
 おれは一瞬、顏に血がのぼるのを感じ、顏が赤くなったことがバレないように、顏をそむけた。西川原はショートカットの髪を揺らして、頬杖をつき、黒目がちの眼でこちらを見ながら微笑んでいる。
 西川原のそんな表情にイラついたのは事実だが、不覚にも、そんな西川原が可愛い、と思ってしまった。おれは首を横に振って、それを打ち消した。
「そんなに大したところじゃないよ。登山道だって、階段とかあるちゃんとした道なんだから。三十分ぐらいで登って、神社を参拝して、帰ってくるだけ。受験祈願。簡単でしょ? ビビるようなことじゃないよ、清水くん」
「まあまあ、季節外れのちょっとした肝試しってことでいいじゃないか、清水くん。じゃ、おれたちテスト出してくるから。西川原も、もういいだろ? 自転車置き場で集合な!」
 工藤は西川原の答案用紙を掴むと、強引におれの肩を組み、そのまま教室の外までおれを引っ張っていった。
「何考えてんだよ」
 教室を出て、階段を降りながらおれは工藤に文句を言った。
 階段の踊り場で、工藤は真剣な表情で振り向いた。
「まあ、聞け。よく考えてみろ。こんなチャンスは滅多にないことなんだ。肝試しだろうが何だろうが、おれたちの行動する先に、女がいたことがあるか?」
「それは、まあ……ないけど」
「確かに西川原があんなに不思議ちゃんだったのは想定外だった。いや、もちろん、ちょっと変わっている、というのは知っていたわけだがな。しかし、ここに重要な事実がひとつある」
「重要な事実」
「西川原は可愛い」
「ううむ」
「否定できるか?」
「できません」
「ようし、いい子だ」
 工藤は階段を駆け下りながら言った。「もうひとつ、重要な事実がある。おれたちは、十七歳、高校二年生だということだ」
「それがどうかしたのか?」
「十七歳の女の子と山に出かけるチャンスは、これからの人生において、飛躍的に減少することが予測される」
「馬鹿か」
「いいや、これは間違いない事実だ。おれたちはこの冬を超えたら三年生、完全に受験生モードに突入するだろう。来年の今頃は、こんなことを考えている余裕などあるはずがない。それを超えたらもう大学生だ。つまり、成人する。未成年の女子と遊びに出かけるなんていうことは、現実的に難しくなる」
「お前は大バカか、天才のどっちかだと思うよ」
「安心しろ、お前は一時間後には、おれの行動に感謝し、おれが天才であることを認めるだろうから」
 おれは何も考えないことにして、職員室に向かった。


   二


 テストの答案を出し終えると、急に胸が高鳴ってきた。今まで西川原のことを意識したことはないが、彼女が可愛いのはまぎれもない事実だ。だが、工藤と同レベルの思考しかできないことが悲しく、それを考えると急速にテンションが下がってきた。
 工藤と二人で靴を替え、自転車置き場に行くと、西川原が両手でカバンを前に抱え、おれたちを待っていた。
「遅いよ」と西川原は言う。おれと工藤は曖昧に頷いた。「こっちよ」
 西川原は歩き出す。おれと工藤はそのあとをついていった。
 夕方とはいえ、真夏の熱を残した太陽が、じりじりと焼き付けてくる。先を歩く西川原の肌は驚くほど白い。その肌が焼けてしまわないか、少し心配になる。おれと工藤にしたところで、部活をやっているわけではないから、男子にしては白いほうだが、それでも西川原ほどではない。
 学校の裏にある田んぼのあぜ道を超え、歩き続ける。学校の裏手を流れている大きな川まで出た。川沿いは砂利道になっていて、そこを無言で西川原は歩いて行く。
 しばらく歩くと橋が見えてきた。今にも崩れそうな、オンボロの橋だ。
 橋を渡ってすぐ、西川原は道路脇から伸びている脇道を指差した。「登山道に行くには、この道を歩いていかないといけないの。このまま車道をあがっていくと、そのうち土砂崩れになっていたところに出てしまうんだけど」
 脇道は普段は誰も人が通らないのか、少し草が茂っていたが、構わずに西川原は歩いて行く。おれと工藤は黙ってついていった。
 十分ほど歩いただろうか、山側の林の中に、黒ずんだ石の階段が見えてきた。
「お、ここから参道か?」と工藤が声を上げる。辺りは背の高い木ばかりになっていて、先ほどまでの田んぼの景色とは明らかに違っていた。あたりの空気が、きゅっと引き締まっているような感じがした。
「ここを上がっていけばいいだけ。簡単でしょ?」やはり西川原が先頭になって階段を上っていく。
「なんでこの場所、井上たちは気付かなかったんだろうな」と工藤が言う。
「車道を上がっていっちゃうとね、こっちに道があることに気がつかないんじゃないかな」と西川原。
「そういうもんか?」
「こんな目立たないところにある階段だからね。でももちろん、山を登るルートとしては、こっちのほうが古いよ、当たり前だけど。あっちの車道って、山の構造とか全く無視して作られたものだし」
「山の構造?」
「そう、山の構造」
「なんだよ、山の構造って」
「そうね、風水みたいな感じ?」
 おれは学校から見える山の様子と、間近で見るこの山の様子の違いに戸惑っていた。木々は鬱蒼と生い茂っているわけではないが、どれも背が高く、暗くて奥が見通せない。これなら、いくら車道が近いところにあっても、こっちの道は見えないだろうな、とおれは思った。
 工藤も森の奥のほうをじっと見つめている。西川原はそんなおれたちを無視して、階段を上って行く。おれと工藤は黙ってついていった。
 登り始めると気分が変わった。途中でおれと工藤は西川原を追い抜き、ふたりで競争するように階段を駆け上っていった。ときおり後ろを振り返り、西川原がちゃんとついてきているかどうかを確認した。登り始めてみると、登山というよりは、普通の神社の参道のようだった。しばらくあがっていくと急に石段がなくなり、岩肌が露出しているところが目立つようになった。
「おい、見ろよ、あれ」
 工藤が階段脇を指差した。工藤が指差した先には、巨大な岩があり、その表面に無数の像が彫られていた。人形ほどの大きさの、小さな像だ。地蔵だろうか。長い年月を経て水が岩肌を削ったのだろう、どの像も顏が消失している。それはどこか寂しさを湛えていて、こののどかな夕方の山道においては、穏やかな情緒を感じさせるものだった。
「いったいどれぐらいの人がここのことを知ってるんだろうな?」と工藤が言った。
「昔はね、けっこう地元の人が参拝に来ていたみたいよ。この地域で農業をやったりしていた人たちは、ここに登って、豊作のお願いをしたのよ」
 西川原は息を切らし、額にはちょっぴり汗をかいている。普段見れないそんな彼女の姿は、なんだか新鮮だった。
「登ってみたら大したことないな。でも、ふもとがあんなに遠い」
 おれはふもとを見下ろしながら言った。そんなに高いところに登って来た実感はないが、しかし、はるか遠くのほうまで見通せるほど広々とした空間が広がっていた。ただ、ここから学校は見えなかった。
 しばらく歩いて行くと、古ぼけた鳥居があり、その奥に、神社はあった。
「なんだ、意外とあっさり着いたな」工藤は言う。おれも少し拍子抜けした気分だった。勝手にビビっていたのは、西川原が直前によくわからない話をしたからに違いない。
「なあ西川原、なんで自分の父親が死んだなんて嘘、ついたんだ?」
 西川原は、鳥居に向かってお辞儀をしながら、「別に。ちょっとした刺激があったほうが面白いと思っただけよ」
「だからって、自分の父親が……」
「ほら、こっち」
 西川原はおれを無視して神社のほうへと歩いて行く。確かに、古い神社だ。もちろん木造だが、ここまで古くて薄汚れている建物は滅多に見ない。神社の本殿は、『小屋』としか形容できないほどの大きさしかない。本殿の前に小さな賽銭箱があり、その上に黒く変色した鈴が掛かっている。
 鈴緒はもともとはカラフルな色のようだったが、年季が入ってくすんでいるため、もとの色がなんなのかがよくわからなくなってしまっている。
「なあ西川原、本当にご利益はあるんだろうな?」工藤が言う。
「ご利益?」西川原は首をかしげる。
 工藤が呆れた顔をした。
「お前言ってただろ、マイナーな神社のほうがご利益があるはずだって。おれたちはそれ、信じてここまで来たんだからな」
 工藤は鈴緒に手をかけ、ガラガラ、とがさつな音を立てた。
「なあ、参拝ってどうやるんだっけ?」
「二礼二拍手一拝だよ」
「なんだそれ」
「そのままだよ。二回お辞儀して、二回手を叩いて、またお辞儀する。それだけ。そんなことも知らないのか」
 工藤が神妙な顏をしておれが言ったことを実行しているのがおかしかった。
 西川原は、こちらのことなどおかまいなしに、じっと遠くを見つめている。耳を澄ませているようにも見える。
「どうかしたのか?」
 西川原が遠くを見つめてじっとしているので、不思議に思って声をかけると、なんでもない、と消え入りそうなぐらい小さな声で西川原は呟いた。
 西川原は神社に向き直ると、石段をあがって、賽銭箱の前に立った。そして、工藤がやったとのは違う、堂に入った様子でお辞儀をした。石段の下で、工藤が感心したようにぼんやりと眺めている。
 さっき、西川原は何を気にしていたのだろうか。彼女が視線を向けていた先に目をやったが、木々の隙間から隣の山の稜線が覗いているばかりで、何も変なものは見えなかった。神社の脇に小さな公園があるが、それを見ていたのだろうか。錆びついたブランコがあるだけで、そこにも特に変わったものは見当たらない。おれは釈然としないまま、西川原の後に続いて参拝をした。
「そろそろ戻るか」おれが言うと、西川原はこちらを見て、軽く頷いた。
 そのとき、おれは彼女の身体が小刻みに震えているのがわかった。表情の変化に乏しいのでわからなかったが、彼女は、何かに怯えているのだ、と思った。
「おい、西川原」
 何か声をかけたほうがいいと思って名前を呼んだが、あとの言葉が続かない。その時、風が少し吹いていることに気が付いた。唐突に秋の気配が忍び寄ってきたようで、おれは少し身震いした。西川原が震えているのは、寒いからだろうか。
「静かにして」
 西川原は少し鋭い声で言った。そこでやっと、彼女の様子が明らかにおかしいことに工藤も気が付いた。「どうしたんだよ、西川原」
「静かにしてって、言ってるでしょ」西川原がまた言う。工藤は目を丸くし、理解できない、といったように肩をすくめ、おれを見た。西川原はあたりをゆっくりと見回している。おれと工藤も同じように、周囲を警戒したが、木々が風で擦れる音しか聞こえない。時折、強い風が吹き抜けて、うなり声のような音を立てている。
「寒くなってきたな」
 工藤がそんな寝ぼけたことを言っている。神社の周りはぐるりを林で囲まれていて、見通しはあまり良くはない。風が出てくるのと同時に、あたりが暗くなってきたのを感じた。日没までは、まだ時間はあるはずだ。雲でもかかったのだろうか。自分の足元を見ても、なんだかぼやけてみえる。
「人がいる」
 工藤が神社と逆側の、公園の先のほうを指差した。指を指した先には公園のガードレールがある。暗くなってきたので見えにくいが、言われてみれば人影のようなものが見える。その影は、どうやらガードレールの向こう側に立っているようだ。
 ガードレールまでは数十メートルの距離があり、人だという確証はない。ただの切り株かもしれない。
「何してるんだろうな、あんなところで。おーい」
 工藤が声をかけながら近づいていく。工藤はおれよりも目がいいのだろう、それが確実に人だと認識できているようだ。
 待って工藤くん、と西川原は言いながら工藤を追いかけるが、聞こえていないのか、工藤は止まらない。そのままフェンスのほうに向かって歩いて行く。
 おれはなんだか、イヤな予感がした。西川原の雰囲気から、異様な空気を感じ取った。
 おれも二人に続いて、そちらに向かって歩いていった。工藤はガードレールの手前まで来ると、ふと、足を止めた。
「なんだよ」工藤と西川原に追いついたおれは言った。
「地蔵だ」と工藤は言った。
 工藤が人だと思ったものは、実は地蔵だったのだ。この神社に登ってくるときに、参道でおれたちが見たものと形は似ている。だが、かなり大型のもので、小柄な大人か、子どもぐらいの大きさがあった。やはり顏の部分は劣化していて、どういう表情かは読み取れない。
 地蔵は、ガードレールを超えたところの、やや不自然な位置に佇んでいた。そのすぐ後ろは崖になっている。工藤はガードレールを超えると、地蔵のすぐ横に立った。
「なんでこんなところにあるんだろうな、これ」
 おれが言うと、工藤は首を振った。
「いや、違う。これじゃない。さっき見たのは、確実に人だったよ。子どもぐらいの背の……」
「子どもぐらい、どこにでもいるだろ。このへんにいたって、不思議じゃない」
「まあ、そうだけど……何か気になるんだよな。こっちのことをずっと見てた気がする」
 言いながら、工藤はあたりを見渡した。
「あ、いた。あんなところに」
 工藤は崖の下を見ながら言った。おれの位置からは死角になっていて見えない。
「暗くなってきたから、そろそろ戻らないと」
 工藤のそんな様子を無視して、突然、西川原が言った。おれは、そうだな、と頷き、元来た方向に身体を向けた瞬間、めまいがして、足元がふらついた。
 おかしいな、なんでこんなめまいがするんだろう、としばらく落ち着くのを待っていたが、一向にそれは収まらない。
 やがて、それはめまいではなく、地面そのものが揺れているのだということに気がついた。
「地震だ」
 おれは小さく叫んだ。木々は揺れ、近くにあった灯籠も大きく揺れて、ガチャガチャと鈍い音を立てている。
 地面が、轟音を立てて、揺れていた。
「工藤!」
 おれは慌てて振り返った。
 そこに工藤の姿はなかった。
 おれは目を見開いた。
 心臓が口から飛び出るかと思った。
 地蔵が、四体に増えていたのだ。
「西川原!」
 耐えきれずに叫んだ。
 声が裏返っていたかもしれない。
 ありえない。
 さっきまで見ていた地蔵が、ちょっと目を離した隙に、増えているなんて。
 西川原が振り向いた。
 そして、おれの目線の先に気付くと、そちらを一瞥した。
 眉を潜めているように見える。
「工藤が、消えた」
「え?」西川原が不思議そうに言う。
「工藤がどこかに行った。それで、さっきまで、地蔵は一体しかなかっただろ。それが、四体に増えてる」
「工藤くんはどこに行ったの? まさか、転落したとか」
 おれはガードレールを乗り越え、崖の下を見た。工藤の姿は見えない。そして、工藤が見たという子どもの姿も、確認できなかった。おれと西川原は、そもそもその子どもを一度も見ていないのだ。
 おれは隣にいる地蔵をもう一度ゆっくりと見た。劣化した、人の大きさぐらいの地蔵だ。さっきまではなかったはずの隣の地蔵を見ても、まるで何十年もそこにあったかのように、堂々とそこに鎮座している。
 おれは何か、見間違いをしているのだろうか?


   三


 しばらく、呆然と立ち尽くしていた。
 工藤がどこかに消えた。工藤はさっきまで、崖の淵に立っていたから、地震の揺れで、下に転落したのだろうか。だが、悲鳴も何も聞こえなかったし、崖の下を見ても工藤はいなかった。
 一瞬で頭が真っ白になり、パニックに近い状態になった。
「どうしよう」
 西川原はいつの間にかおれの隣に立っていた。
「落ち着いて。工藤くんは転落したとは限らない。そうでしょ?」
「あそこに立ってて、転落してないってことがあるか? 他にどこに行くって言うんだよ?」
「それでも、憶測でものを判断するのは危険だわ。あなたは工藤くんが転落したところを見たの?」
「いや、それは見てない」
「実際に転落している工藤くんは?」
「それも」
「じゃあ、証拠は何もないわけよね。工藤くんはなぜかここからいなくなった。そして、なぜか、お地蔵様の数が増えた。それが確認できる、事実」
 それは確かにそうかもしれない。だが、そんなことを確認して、一体何になるだろうか?
 しかし、妙に落ち着いた西川原の口調を聞いていると、そんな当たり前の事実を確認しただけで、何か物事が少し前進したような、そんな安心感があった。
「もうだいぶ暗くなってきているし、二人だけで工藤くんを探すのは危険じゃないかしら。いったん山を降りて、人を呼んでくるのが一番いいと思う」
 西川原は冷静に言った。
 おれは一応、ポケットから携帯を取り出して、画面を呼び出した。だが、ここに電波は届いていないようだった。
「わかったよ」
 おれは階段のほうへと駆け出した。
 だが、西川原は動かない。
「何やってんだよ、西川原!」
「待って」
 また静かな声で西川原は言った。視線は、崖の上に立つ地蔵のほうを見つめたままだ。
「また、増えてるの」
「増えてる?」
「さっきまで四体だったでしょう? それが、六体に増えてるわ」
 崖の上に目をやると、西川原の言う通り、先ほどあった四体の小さな地蔵に加え、少し大きな地蔵が二体、加わっている。今度も見間違えようがない。信じられないことだが、地蔵はもとからそこにあったかのように、堂々と鎮座している。
「……視線を外してから、もとに戻すと、いつの間にか増えているみたい。目を離さないほうがいい、ってことなのかな」
 西川原はほとんど動揺していない。おれは地蔵に取り囲まれるイメージがまっさきに浮かんで、パニックを起こしそうになった。
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「このまま、後ずさって離れたほうがいいわ。あたしは後ろを見てるから、清水くんは前を見て」
 そう言いながら、西川原は後ろ向きに歩き始めた。おれと西川原は背中合わせに、少しずつ階段のほうへと進んでいく。
 おれの見ている前方は特に異常なものは見当たらないが、だいぶ薄暗くなっていて視界が不明瞭だ。階段のほうまでは遠くて見通せない。だが、だんだん階段が近づいてくると、背筋が凍りついた。
「西川原!」思わず叫んだ。
「何?」
「階段が、ダメだ。階段が使えない。取り囲まれている」
 西川原は何も答えなかった。不意に彼女は歩みを止めた。気付くと、横からも地蔵に取り囲まれている。こちらが停止し、視線を固定すると、すべてが凍り付いてピタリと止まる。しかし、こちらが少しでも視線をそらすと、風景が変わっている。目を瞑ってもいけないのかもしれない、とおれは思った。これじゃまるで、「だるまさんが転んだ」だ。
「よく見て」
「え?」
「お地蔵様を、よく見て。何か気づくことはない?」
 おれは言われたように目をこらした。階段を埋め尽くすように地蔵がひしめいている。これといって、特徴と言えるようなものはない。ここに来るときに階段の横の崖にあった石像と、似たような感じだが、こちらにあるものはずいぶんと大型だ。
「どれぐらいいるの?」
「とにかくたくさん」
「だから、どれぐらい?」
「三十はいる」
「あたしたちが通れないぐらい?」
「だろうな」
「本当に?」
 西川原は強い口調で念を押す。おれが立っている位置から階段までは十メートルほどだろうか。階段のまわりを地蔵が取り囲んでいて、そのあいだを通れるような感じはしない。いつの間にか、西川原はおれとぴったり背中をつけていた。
「ごめん、変なことに巻き込んで」と西川原は言った。「教室で、父がここで死んだ、って話、したでしょう」
「あれは、嘘だって」
「嘘じゃないかもしれない」
「え?」
「確信がないの」
「どういうこと?」
「父は、ここで死んだ。私、それをはっきり見たの。でも、父は生き返ってきた。生き返って、私の父として、私の家に帰ってきた」
「ちょっと待て、全然意味がわからない」
「前に、この神社に父と来たことがあるのよ。さっき、工藤くんが立っていた崖があったでしょう。工藤くんも言っていたけれど、あそこに、男の子が一人、立っていたの。いまにも崖から落ちそうだった。父はそれを見て、その男の子を助けようとしたの。そして……父はいなくなったの」
「それって、工藤と同じじゃ」
「そう。全く同じ」
「それで、どうなったんだ?」
「そのあと、私もショックで気を失って……。気がついたら父が近くにいたの。ちょうど、そこの公園のベンチのところにね」
「親父さんは、無事だったのか?」
「無事だった。でも、違うの。雰囲気が、以前の父と違っていたの。父の姿はしているけれど、まるで父じゃないみたいだった。父の皮をかぶった、何か別の、獣みたいな」
「ごめん、よくわからない」
「わからなくてもいいわ。あくまで、私の感覚的なものだから。他人が見たら、以前の父と全く同じだと感じたかもしれない。私が本当に恐怖を感じたのは、その目。父の目を見て話していると、まるでどこも見ていないような虚ろな目をして……、まるでガラス玉みたいな……」
 西川原のそんな話を聞いているうちに、おれの中で何かが弾けた。おれは笑い出した。おれが突然笑い出したので、西川原は驚いた表情をした。おれは笑いながら、「変なこと言うなよ。作り話だろ?」と言った。「演技力がすごいな。ちょっと信じそうになっちゃったじゃん。この地蔵も、何かのトリックなんだろ? 工藤と一緒になって、おれを驚かそうとしたのか? いつからお前ら、そんなに仲良くなったんだよ?」
「ちょっと、清水くん」
「まあな、こんな状況で、そんな話されたら、そりゃ怖いよ、でも言っていい冗談と悪い冗談があるだろ?」
「話を聞いて」西川原は静かに言った。「ごめんなさい」
「何が?」
「ここまで連れてきたこと。本当は、あなたたちを利用しようと思ってた」
「利用って、何の?」
「本当は、あの日、何があったのか。父に何が起きたのか。それをどうしても確かめたいと思っていたの。でも、一人でここまで来る勇気もなかったし……。あなたたちが、教室であんな会話をしているから」
「騙せそうだと、思った?」
「いいえ、信頼できると、思った」
「信頼? どうして?」おれが笑うと、しばらく間があって、「わからない。いや、わかるけれど……うまく伝えられない」と消え入りそうな声で西川原は言った。おれはじっと前を見つめたまま、背後で息づいている少女の存在を感じた。今まであんまり同級生として意識したことはなかったが、おれと同じ、体温のある存在として、そこにいるのだ、ということを感じていた。
「それで、親父さんはどうなったんだ?」
「どうなったって?」
「その日、山を降りて、そのあとどうなったんだ?」
「父は、何日かは様子がおかしいままだった。茫然自失というか……。受け答えはするけれど、なんだか抜け殻みたいだった。家族もみんな、気味悪がってた。でも、何日かすると、父はだんだん元に戻っていったの。全部、気のせいだった、って周りは思ったみたい。でも、私は、違和感が拭えなかった。同じ姿をしているけれど、何か、ほんの少しだけ、何かが違っているような気がしたの。私は山で何があったのか、誰にも言わなかったし、父も言ってないみたいだった。だから、家族はみんな、体調が悪かったんじゃないかぐらいに思ってるんじゃないかしら。あの日、本当は何があったのか、私は父に確かめる勇気がなかったし、今もない。だから、いつか誰かとここにきて、確かめるしかない、そう思っていたの」
「もう親父さんは、ここに掃除に来ることもなくなったのか?」
「ええ。そもそも、こんなひなびた神社の手入れなんていい加減なものだから。誰かが文句を言ったりするわけでもないし」
「そうだな」
 おれは階段のほうをじっと見つめた。おれは西川原の手をぎゅっと握りしめた。
「ちょっと、痛い」西川原が小さく悲鳴をあげる。
「もっと階段のほうに近づいてみる……歩けるか?」
「ええ……」
 西川原が小さく返事をしたのにあわせて、おれはゆっくりと前に歩きはじめた。まるで運動会の二人三脚みたいだな、とおれは思った。
 少しずつ、階段のふもとのほうが見えてくる。それは、ぞっとするような光景だった。何しろ、自分たちがいまあがってきたはずの階段に、おびただしい数の地蔵が、あたかも何十年も前からそこにあったかのように、鎮座しているのだから。そのいずれにも、ひびが入り、苔も生えていて、どうみても、はじめからそこにあるものとしか思えなかった。
「西川原」おれは足を止めて、ぴったりと背中合わせになっている西川原に声をかけた。
「何?」西川原は小さく返事をする。
「この地蔵ってさ、一体何なんだと思う?」
「え?」
「正直に言う。この地蔵は、どう考えても、はじめからここに『あった』ものにしか見えないんだよ。いま、ここに『ある』のが本来の姿で、おれたちがはじめにここを通ってきたときには、ただこれが見えなかっただけなんじゃないのか?」
「何を言ってるの?」西川原は怪訝な声で言った。
「どう見ても階段が通れるようには見えない……もし強引に入っていって、閉じ込められちゃったら、どうするんだ?」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「わかんねえよ」
 おれは苛立った声で言った。その瞬間、ふたたび足元がぐらついた。また、地震だろうか。今後の揺れはとても大きい。周囲の木々が揺れ、木の根が地面を揺らしているのがわかった。
 まわりの灯篭や、地蔵が、その空間全体が、まるごと揺れているのがわかった。石と石がぶつかりあい、鈍い音が響きわたる。おびただしい数の地蔵が揺れ、音を立てている光景だけでも、十分に強烈だった。おれはとっさに地面に伏せたが、地蔵から目を離してはいけない、ということを忘れていた。
 おれの髪を西川原がつかみ、おれは強制的に顔をあげさせられた。しばらくすると、揺れはおさまった。だが、一回目より格段に強い地震だったことはあきらかだった。しばらくは何も考えられなかった。
 おれは立ち上がり、西川原の腕を引っ張った。早くここから立ち去らないと、その思いだけで頭がいっぱいで、混乱した頭で、周囲をざっと見渡した。すると、神社の脇の道に、地蔵がいないことを発見した。
「西川原!」とおれは叫んだ。「走るぞ」
 おれは西川原の手を引っ張り、その道に向かって駆け出していた。


   四


 真っ暗な道を西川原と駆けた。途中で何度も枝が顔に当たったが、気にしている余裕はなかった。とても道と呼べるのようなものではなかったが、夢中で駆け抜けていった。
 止まって、と何度も西川原が言っているのが聞こえたが、おれは無視した。
 足元がよく見えず、おれたちは足を踏み外し、斜面を転がっていった。気づくと、おれと西川原は地面に横になっていた。どれぐらい時間が経ったのかわからない。しばらく、気絶していたのかもしれない。
 おれはそれでも、西川原の手を離していなかった。西川原がおれの手を引き剥がしたとき、おれはその理由がわからなかった。西川原は肩で息をしながら、こちらをじっと睨んでいる。
「……なんだよ」
 少し冷静さを取り戻して、おれは言った。
 西川原は俯いていた。
「この道を行っては駄目」
「どうして?」
「知らないわよ。駄目ってことになってるの」
「なんの根拠があるのかって、訊いてるだけなんだけど」
「父から、ここには来るな、って言われているの」
「親父さんから?」
「この道は結界の外側に繋がってるからだって。結界なんて、馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど……。そもそも、父さんはよくここに来ていたわけだし」
「来てた?」
「そう。あの神社の社を掃除したあとで、よく、こっちの道に来てた。この先に、この山のご神体があるんだって、そう言ってた。でも、あたしは来ちゃいけないって……」
「なんで?」
「わからない」
 そんなはずはないだろう、と思ったが、また怒らせるのも面倒だと思い、口にはしなかった。
「じゃあ、どうする? またあの境内に戻るか?」
「戻れるわけないじゃない」
 苛立った声で西川原は言った。結局、怒るんだな、とおれは思った。だが、互いにそれ以上何も言わなかった。何も言うことがないからだ。しばらくおれたちはにらみあったあと、黙って道の奥へと歩き出した。とにかく今は、前に進むしかないだろう。
 ここまで来ると、先ほどまでの混乱が嘘のようだった。結局、あの体験はなんだったのか、わからずじまいだ。いや、そんなことより、もっと重要なことがある。おれたちは、工藤を置き去りにしているのだ。
 山道は下りの斜面になっていて、なだらかではあるが、徐々に山を下っていっていることはわかる。道は、もちろん舗装されていない、獣道のような道だ。だが、少なくとも人が通るための道であることは確かだった。
「ちょっと待って」
 西川原が先を歩くおれを止める。振り返ると、思っていたよりも近くに西川原がいたので驚いた。
「顔を見せて……血が出てる」
 西川原は言い、おれの頬に指で軽く触れた。彼女の指には血がついていた。頬に触れただけで血がつくぐらいだから、それなりに深い傷なのかもしれない。さっき、転んだときに切ったのかもしれない。
「痛そう」と西川原は言った。
「痛くないよ」とおれは言った。
 強がりではなく、ほんとうに痛みはなかった。興奮しているからかもしれない。西川原に頬を触られたという感覚自体が希薄だった。身体のまわりがゴムの膜で覆われているように、感覚そのものが鈍くなっていた。感覚が麻痺しているのかもしれない。
「雨だ」
 静かな雨が降ってきた。頭上の木々から雫が地面の木の葉に当たる、濡れた音が聞こえた。
「行きましょう。この先に、家があるかもしれないから」
 おれたちはしばらく黙って歩いた。道は凹凸が多く、足元をしっかり確認しながら進まなくてはならなかった。もうあたりはだいぶ暗く、まっすぐ歩くのも難しかった。 
 しばらく歩いていくと、家が見えた。いま歩いている道の崖を下ったところに、一軒の家がぽつりと建っていた。あたりにはその家以外なにもなく、広い平らな土地に家と、車が一台、適当な方向を向いて止まっている。家は古くからある家ではなく、新築のようだった。だだっ広い平地に一軒だけ建っている家だが、低いフェンスで敷地が囲まれていた。家の裏には、小さな庭があり、その庭の大きさにフィットした小さな家庭菜園があった。
 おれと西川原は崖から降りられるところを探し、比較的坂がなだらかになっているところを選んで降りた。
 おれが先頭に立って、家へと近づいていく。家の周りは砂利が敷き詰められていて、近づくとザクザクと音がした。
「インターホンを鳴らせばいいのか?」
 西川原は、何を言ってるんだというふうに、バカにしたようにこちらを見た。おれは肩をすくめ、インターホンに手を伸ばす。
「何か用か」
 出し抜けに声をかけられ、反射的に身体がびくんと震えた。低い男性の声が、どこからともなく、聞こえた。
 長身の男性が車の陰から現れた。チノパンにシャツという、ラフな格好の、三十絡みの男性だった。
 驚いて、声が出せずにいると、「山の神社から来たんです」と西川原が後ろから言った。
「山の神社」男性が反復する。声にはほとんど抑揚がなかった。
「山から歩いてきたんです。友達が一人、はぐれちゃって」
「何か用? イタズラでもしにきたのか?」男はやはり抑揚を欠いた声で言い、こちらから目を逸らして、持っていたタオルで頰をぬぐった。
「どういう意味でしょうか?」西川原が聞き返す。
 男はタオルをチノパンのポケットに無理やり押し込みながら言った。「山のこちら側には、ウチしか家はないから、用事もなしにここにやってくる人はいない。何も知らないでこちらに来てしまっただけかもしれないが、普通はわざわざこっちまでは来ないよな。山の神社に用事があったのなら、来た道をそのまま戻るほうが自然じゃないか?」
 男は淡々と言い、こちらを凝視した。つま先から頭の先まで値踏みするかのような、鋭い視線だった。
「待ってください。それには色々と事情が……」おれが言った。
「どんな事情?」
「帰る道が……」
 言いかけて、続きの言葉が見当たらなかった。西川原と目が合った。戻る道がなくなったのは確かだが、それをどう説明すればいいのだろう? まさか、地蔵が大量に湧いてきて、それで帰れなくなったなんて、そんなことが言えるはずもない。
「警察を呼んで頂けませんか」西川原が強めの口調で言った。
「警察」
「友達とはぐれちゃったんです。彼を探さないといけないんです。もう暗くなってきているし……」
「いまの子はみんな携帯ぐらい持ってるんじゃないのか?」
「携帯は圏外なんです」
 西川原はスカートのポケットから携帯電話を取り出して、画面を見せた。おれも一応、自分が持っている携帯を確認したが、やはり圏外のままだった。
 男は、少しだけ、口の端を持ち上げて笑った。
「俺のも、圏外だ」
「電話が通じないんですか?」
 おれは驚いた。男は頷く。
「なぜですか?」
「電波が届かないからだ。他に理由があるか?」
 ストレートに返されると、それ以上何も言うことができなかった。
「ここから、警察に連絡をとる方法はありますか?」西川原がすぐに次の質問をする。頭の切り替えが早い、とおれは思った。だが男の表情は変わらず、無表情のままだ。
「ここからは無理だよ。街のほうへと出ていかないと駄目だな。少なくとも、電波の届くところまで」
「この道路をまっすぐ行けば、街に着くんでしょうか?」
「いいや、この道を行っても街には着かない」
「どうしてですか?」
「道が曲がりくねっているし、分岐が多いから、ただこの道をまっすぐ行くだと、迷うだけだろうね」
「道を教えて頂けますでしょうか?」
 男に対して一歩も引かない西川原をみて、おれは、すごい、と単純に思った。
「教えることはできるが、途中で迷ったりしても知らないぞ」
「わかっています」
「じゃあ、少し……中で話そうか」
 男はそう言うと、こちらの返答も待たずに、玄関へと通じるフェンスの扉を通り、家のドアを開けた。片足でドアを押さえた状態で、こちらを見ている。西川原がすぐに彼のあとをついてドアに近づいた。そのあとを追うようにして、おれも家の中へと入った。
 今までずっと薄暗い場所にいたせいで、家の中の明るさに目を細めた。外観と同じく、まだ新築の新しい家のようで、置いてあるものも少なく、やや殺風景だ。下駄箱の上に、安物の額縁に入れられた山の写真と、芳香剤が置かれていたが、むしろそういった安っぽいもののせいで余計に殺風景に見えるのかもしれなかった。男は履物をきちんと揃えてから玄関をあがり、すぐ右手にある部屋へ入っていった。続いて西川原がローファを脱ぎ、綺麗に揃えるのを見て、おれも同じようにした。
「お邪魔します」
 男の入っていった部屋に声をかけた。おかしなことは今にはじまったことではないが、それにしても変な気分だ。見ず知らずの、名前さえも知らない人の家に入るのははじめての経験だった。どの家にも、その家独特の匂いがあるが、この家は新築のせいか、あたらしい家の匂いしかしない。その匂いがおれを現実的な感覚へ繋ぎ留めてくれていた。
 玄関のすぐ脇の部屋がリビング兼ダイニングになっているようだった。こちらの部屋は物がたくさん置いてある。入り口の向かいの壁沿いに電子ピアノ、小さな本棚、大型のテレビが並んでいる。部屋の右手には、カーペットの上に低いテーブル、三人掛けのソファ、部屋の左手にダイニングテーブルがあり、その奥がキッチンになっていた。
 男はダイニングの奥の席に座った。さすがの西川原もそのままずかずかと部屋に入り込んだりはせず、部屋の入り口で立ち止まっていた。おれが後ろから小突くと、「お邪魔します」と彼女は声を発し、部屋の中へと足を踏み入れた。
 部屋に入ると、キッチンに一人の女性がいることがわかった。女性は、こちらに初めて気がついた、というふうに少しだけお知らせに目を見開いたとあと、あら、いらっしゃい、とショートカットの髪を揺らしながら言った。彼女もジーンズにTシャツというとてもラフな格好だった。
 西川原は男の正面の椅子に腰掛けた。おれもその横に座った。
「はじめに訊いておこう」と男は口火を切った。
「なんでしょうか」西川原が言う。
「君たちが行方がわからないと言っている友達は、ひょっとすると髪の長い、天然パーマの男の子のことじゃないか?」
 工藤のことだろうか、と、一瞬、おれは思った。西川原も同じことを思ったはずだ。
「そうです」おれは西川原が口を開く前に答えた。
「その子なら、さっきまでここにいたよ。君たちと同じように、帰り道を聞きにきた。そして、彼は、もう出ていった」
「え? そんなはずは……」
 西川原はそう言ってから、しまった、というふうに口元を押さえ、こちらをちらりと見た。
「彼は、君たちのことも少し話していたから、じきに来るんじゃないかと思っていた」
「そんなはずはありません」西川原はきっぱりとした口調で否定した。「私たちは、彼を置いてきたんです」
「その彼は、工藤くんっていう子なんじゃないか?」と男は言う。「そして、君は西川原さん。そっちの君は清水くん」
 息をのんだ。おれたちはまだ名前を名乗っていない。おれたちの名前を知る方法はないはずだ。


   五


 キッチンに立っていた女性がこちらにやってきて、君ケガしてるよ、と言った。頬の傷は、走っている最中に枝か何かで切ったようで、血が筋となって顎に流れていた。ちょっと待って、いま消毒してあげるから、と女性が言った。いえ、大丈夫ですとおれは制止したが、手当てしたほうがいい、と男が強めの口調で遮るように言った。女性は冷蔵庫の横の戸棚の引き出しから消毒液と絆創膏を取り出すと、ティッシュに軽く含ませ、おれの傷の手当てをしてくれた。
「秋川さん」と西川原は言った。「どうもありがとうございます」
 男は眉をひそめる。だが、口元にはかすかな笑みをたたえていた。
「どうして私の名前が?」
「表札を見たから」
「なるほど」
 おれはあらためて西川原の観察力に驚いた。さっき、家に入る時に、チェックしていたのだろう。とてもおれにはそんな余裕はなかった。名前を知るだけなれば、方法は色々あるということだ。しかし、おれも西川原も、自分の名前が書かれたものを持っているわけではない。秋川という男が、どうやっておれたちの名前を知ったのかは、わからない。本当に工藤はここに来たのだろうか。
 女性はまたキッチンに立って、作業の続きを再開した。手元は死角になっていて見えない。夕食の支度でもしているのだろうか。
「おれは秋川。あっちは、家内の佳恵」秋川は淡々と名乗った。「それで、工藤くんのことをもう少し話そう。彼は逆に、君たちのことをとても心配していたよ。もしここに来ることがあったなら、よろしく伝えておいてくれ、と言っていた」
「彼はどうやってここまで来たんですか?」西川原が質問する。
「どうやって? 君たちと同じだろう。山の神社から来たと言っていた」
「彼はなぜここにきたんですか?」
「ん? 質問の意味がよくわからないが」
 西川原はしばらく黙った。何かを考え込んでいた。
 佳恵が盆にカップを乗せてやってきて、おれたちの前に置いた。紅茶のようだった。砂糖とミルクもある。西川原は紅茶を出してもらったのに、目もくれず、お礼を言おうともしない。おれはどうしたらいいのかわからなくなり、紅茶に手を伸ばすと、「飲んでは駄目」と西川原が短く制した。
「え、どうして?」
「とにかく」
「毒なんか入っちゃいないさ」笑いながら秋川は言う。
 西川原はそれを無視して、部屋の中を見回していた。それにつられて、おれも部屋の中を観察する。ごく普通の、一般的な、新築の家庭だ。比較的ものは少ないというのもあるが、綺麗に整頓されている。西川原の視線の先を追っていて、あることに気が付いた。ピアノ脇の本棚に入っている本は、ほとんどが絵本だった。その前のコタツの上にも、幼児向けのおもちゃがいくつか置いてある。遊んでいて片付け忘れているような、中途半端な置き方だった。
 この家には子どもがいるのだろうか。しかし、もう夕方なのに、まだ帰ってきていないのだろうか。そのことについて考えていると、西川原は壁にかかっているカレンダーを指さした。
「あのカレンダー、替えないんですか?」
 カレンダーをよく見ると、もう九月に入っているというのに、まだ六月のままだった。
「清水くん、よく見て」
 西川原は立ち上がり、カレンダーを指し示して、おれのほうを見た。おれは彼女の意図がわからない。
 仕方なく立ち上がり、カレンダーをよく見た。上半分が風景の写真で、下がカレンダーになっている、ごくありふれたものだ。写真部分はヨーロッパの渓谷のような当たり障りのない写真で、下部分にはいくつかの記号や数字が赤ペンでメモされているだけ。なんの変哲もない、普通のカレンダーだった。
 おれはあらためて西川原の顔を見たが、彼女は何も言わず、口元はぎゅっと固く結ばれていた。
 そのとき、カレンダーの曜日がおかしいことに気付いた。たしか先月は木曜日で終わったはずなのだが、そのカレンダーは別の曜日になっている。
「気づいた?」西川原がゆっくりした口調で言う。
 やがて、西川原の意図がわかった。カレンダーは、今年のものではなかったのだ。そこに印刷してある数字が正しければ……。
「……三年前のカレンダー?」
 カレンダーには三年前の西暦が記載されていた。だが、カレンダー自体は真新しいもので、それほど年季が入っているようには見えない。
「あの時計も時刻がおかしいわ」
 西川原が指した掛け時計も、午後八時過ぎを示していた。おれたちが学校を出てからずいぶん時間が経ったように思えるが、それでもまだ、一時間ほどしか経っていないはずだ。少なくとも、六時をまわっていることは考えられない。
「おかしいと思うか?」秋川が低い声で言った。佳恵は秋川の脇に立って、お盆を胸の前に抱えたまま、ぎゅっと口元を硬く結び、こちらを見ている。
「この家の時間は、止まってるんだ。普通の人は、こんなところにはやってこないし、そもそも、来ることができない。ここまで辿り着いたことが、そもそもおかしいんだよ」
「ちょっと……何を言っているのか」
 混乱してきたおれを制して、西川原は、「私たちは、帰れるんでしょうか?」とストレートに訊ねた。
「もちろん、だから帰り方を説明すると言っているじゃないか」
「急ぐ必要なんてないわ。ゆっくりしていってね」佳恵が、感情のこもらない声で言った。
 おれは、冷静さを保ち続ける西川原に驚愕するとともに、彼女はもしかしたらはじめから全部、こうなることがわかっていたのではないか、と思い至った。もしかすると、彼女がおれをここに意図的に誘導してきたのかもしれない。しかし、それにしても、時間が止まっているとは、一体どういう意味だろうか?
 工藤がここにきたのが本当だとしても、彼はなぜおれたちを待たなかったのだろうか? 
「こっちに来て座りなさい。まだ話は終わっていない」秋川は言った。
 西川原がおとなしく席についたので、おれも黙って席についた。
「君たちの友人の工藤くんは、少し前に、君たちと同じようにここにやってきた。彼はもちろん、君たちが来るかもしれないと思って待っていたんだが、君たちが来るかどうかもわからないし、いくら待っても来る気配がなかったから、先に行くことにしたみたいだ」
 おれたちは死んだのだろうか、急にそんな考えが浮かび、頭にこびりついて離れなくなった。三年前から時間の止まっている家、不気味な夫婦、そして、おれたちより先にここに来た工藤。すべてが現実離れしていて、悪い夢でも見ているようだった。
「おれたちは、死んだんでしょうか?」
 気づいたら、考えていたことがそのまま口に出ていた。だが、もはや聞かずにはいられなかった。西川原が神社で言ったことを思い出す。彼女の父親が、子どもを助けようとして、崖から落ちたこと。その後、彼女の父親の身に起こったこと。彼女は、何度も、自分の父親が死んだ、と言っていた。
 だが、この状況を見れば……。
 死んだのは、おれたちだってそうかもしれないじゃないか。
「いや、それはわからない」
「わからない?」
「おれたちがわかるのは、ここは、はざまのような場所だということだけだ」
「そう、境界線みたいなところ」佳恵が補足するように口をはさむ。
「言っている意味がわかりません」おれが答える。
「生きている、死んでいるという状態を定義するのは難しい。大昔、人が死んだときに、身体を折りたたんで埋葬したというのを歴史で習っただろう? 屈葬という埋葬の方法だ。ああしないと、死んだ人が墓から出てきてしまうことがあったんだ。昔は、医学が発達していなかったから、意識を失って倒れていれば、それだけで死んだとみなしたんだろうな。でも実は気を失っていただけだから、意識が戻れば、人は自分の家に帰ろうとする。それを見て、みんな死者が蘇生した、と勘違いしただろうね。昔の人には死んでいると思っていても、実際にはまだ生きていたわけだ」
「でも、それは昔の話ですよね」と西川原が口をはさむ。
「現代科学は、事実をただ後追いするだけだ。どれだけ死と生を厳密に定義しても、それを覆すものは必ず現れるさ。死体から同じ人間を蘇生させる技術だって生まれるだろうし、死んだ自分の細胞を復活させることもできるだろうね。人の記憶を、別の人に移植させることだってできるかもしれない。これまで死んだと思われていた人が復活したら、現代科学はそれを受け入れ、『死』の定義を書き換えるだけだろう」秋川はそう言いながら、紅茶に口をつけた。「何が言いたいかというと、科学とか、そういうのは……関係ないわけ。ここに僕たちがこうしている以上、僕たちは存在するわけだから」
 おれがふたたび席につくと、西川原もそれに従った。おれは秋川の話に興味が出てきていたが、ただの詭弁のような感じもする。話のトリックを見逃さないようにしなければ、それだけを考えていた。
「君たちは要するに、自分の家に帰れればそれでいいわけだろ? 大丈夫、教えてあげるよ。そんな怖い顔をしなくても」
 こんな話を聞かされて不安にならないほうがおかしい、とおれは思った。
「そんな簡単に帰しちゃっていいんですか?」と西川原が言った。「死者の国から元の世界に帰るとき、簡単には行かせないだとか、なんらかのリスクがあるとか、あるじゃないですか、普通」
「それは、漫画の読みすぎ」秋川は無表情で言った。「ここは通り道なんだ。来るのも自由だし、出て行くのも自由。ただし、普通の人は普通は入って来られない、そういう場所」
「あたしたちはもう普通じゃない、っていう意味でしょうか?」
「それは君たちの解釈次第」
「あたし、どうしても、ここに来なくちゃいけない、そう思って来たんです」
 秋川は驚いた表情をする。「ここに来たかった?」
「そうです。どうしても、知りたいことがあったから」
「それは、死んだ人に関することで?」
 秋川はそう言って立ち上がった。椅子をちゃんと直し、リビングを横切っていき、カーテンを開ける。外はかなり暗いが、ここにやってきたときと光量は変わっていないはずだ。単におれたちが明るい室内に慣れたせいで、そう感じるだけだろう。
「あれを見ろ」
 秋川は遠くを指差す。おれと西川原は促されるままに立ち上がり、窓際に寄った。大窓のすぐ近くに柵があり、その向こうは砂利になっている。家の前を遮るものが何もないせいで、遠くまでよく見渡せる。視界の向こう側には、緩やかな山の稜線が見えた。
「この山の隣には川が流れている。君たちも知っているだろう、学校の隣を流れてる川だよ。あのそばをよく見てごらん」
 おれと西川原は窓に張り付いて、目を凝らした。だんだん目が慣れてくる。空にわずかに灯された星明かりと、ぽっかりと空に浮かんでいる月の光に照らされて、何かが蠢いているような気がした。最初は虫か何かだと思ったが、薄く、白く光っている何かがいるのがわかった。
「なんですか、あれ」
 おれが思わずそう声に出すと、「なんだと思う? 君が想像している通りだと思うよ」と秋川の声が後ろから聞こえた。
「なんか……『人魂』みたいな……」西川原が小さな声で言った。
「そうだ」秋川が低い声で言った。「よく見てごらん、すごい数だろ?」
 おれは目を疑った。川の水に月の明かりが反射しているだけだと思っていたが、光はすべて動いていたからだ。まさか、あれが全部、人魂ということになるのだろうか。


   六


「近くに行けば、もっとハッキリ見える。おびただしい数の人魂が、ね」
「人を呪おうとしてるとか……」
 秋川は短く笑った。「違うよ、あれはただ、あそこで揺れてるだけだ。生きかえろうだとか、人に乗り移ってやろうだなんて思ってないさ。あの人魂たちにはろくに記憶なんてないし、もう人間だったことも覚えてやしないだろう。知性はもうないんだ。それに、いろんな人魂が混じり合ったり、分かれたりして、もう『個体』ですらない。人間の絞りかすみたいなものだよ」
「あそこで一体何をしているんですか?」
「何も。ただあそこにいるだけさ」
 綺麗だわ、と西川原はつぶやいた。おれも、西川原のその言葉を聞いて、綺麗だな、と感じた。
「あなたたちがこんなところにいる理由も、理由なんてない、ということですか?」と西川原が振り返って聞いた。
 秋川は笑って答える。「そうだよ。理由なんてない」
「でも、ここに来ることになった理由はある。そうですよね? だって、ここは『普通は来れない』場所なんだから」
「何も覚えてないし、何もわからないの」佳恵は静かに言った。「あたしたちも、ここのことをそんなに深くわかっているわけじゃないの。ただ気付いたら、俊彦さんと二人、ここにいたのよ。本当に、ある日気づいたら、ここに。理由も何もわからないの。だからね、色々言ってるけれど、実際のところ、あそこで揺れてる人魂とあたしたちは、本質的には、同じなの。そんなに変わらないのよ」
 おれは後ろを振り返って、佳恵の顔を見た。佳恵は戸惑ったように視線を逸らした。
「でも、僕にはあなたが見えます」とおれは言った。「あなたもです、秋川俊彦さん」
「そのようだな」と秋川は言った。
 西川原は窓から視線を外し、また、部屋の中を観察していた。何かを考えているような顔つきだった。
「西川原、どうかしたか?」
「じゃあどうして、ずっとここにいるだけのあなたたちが、帰り道を知っているの」西川原は言った。
 秋川はゆっくり振り向く。
「当然の疑問だな」と秋川は言った。「つまり、こういうことだろう? 帰り道を知っていながら、なぜ戻ろうとしないのか、と。なぜここに居続けるのか、と」
 西川原は黙っている。その目が、そうだと言っているように見えた。
「少し、外に出て話そうか」秋川はそう言うと立ち上がった。
 秋川が外に出たのでおれたちも続いた。外はもう完全に暗くなっていて、足元もよく見えなかった。家の前に砂利が敷かれているが、途中から、土がむき出しになっている。あたりは真っ暗になっていて、山の稜線のあたりにかすかに日の光が残っているだけだった。そして、地面は月光にくっきりと照らされている。
「どう見ても時間が経過しているように思えるんですが」正面の、秋川の背中にそう話しかけてみる。「時間は流れないんじゃないんですか?」
「流れ方が違うんだ。完全に止まっているわけじゃない。時間は流れるさ。時間が全く流れないということは、すべてが止まっている、ということだろう? 停止しているわけじゃないんだ。流れてはいる。ただ、前には進んではいかない」
 おれは変な夢でも見てるんだろうな、と思った。夢なら、こんなに脈絡がないのも納得できる。
「ここが死後の世界なのかどうかはわからない。さっき、佳恵が言ったように、俺たちは気づいたらここにいたんだ。記憶も何もないままに。ただ、混乱は少なかった。なぜなら、ずっと昔から、つまりはじめから、おれたちはここに暮らしていたような気がしてきたからだ。そのうちに、君たちみたいに、迷い込んでくる人たちも出て来た。その人たちから聞いた話で、どうやら自分たちは死んだのかもしれない、ということを思うようになった」
 秋川は家から見て左手にある空を指差した。曲がりくねった細い車道が登り坂になって続いている。確か、おれたちの学校のある方角だ。
「あっちが、君たちのいる方角。そして、君たちは山沿いを通って、ここに来たんだろう。だから、あっちが帰り道なんだ。もっとも、この道は曲がりくねっていて、道順がわかりにくいから、まっすぐ向かってもあちらには着かないよ。迷うと、また巡り巡って、ここに戻って来てしまうことになる。すると、永遠に抜け出せなくなる」
「永遠に、って……」
「永遠さ。同じところをぐるぐる回って、そこから先に進めなくなる」
「やったことがあるんですね?」西川原が訊く。
「そう、やったことがある。それも一度じゃない。何度もだ。だが、結果は同じだった。佳恵も行ったことがある。それでも結果は変わらなかった」
「それじゃあ、どうして」
「君たちのように、ここに迷い込んできた人を連れて、あっちの道に行ったことがある。途中までは行ける。だが、俺たちと一緒にいると、同じ場所をぐるぐる回ってしまうんだな。永遠に同じ風景が続き、同じ場所に繰り返し戻ってしまう。だが、俺たちが目を離した瞬間、一緒にいた連中が突然いなくなってしまうことがあったんだ。目を離した瞬間だ。そのとき、俺は、そいつらが無事に帰ったんだな、とわかった」
「それだけですか?」
「そう、それだけ。言いたいことはわかる。元の世界に帰れた保証はどこにもないじゃないか、ということだろう? だが、ここではないことは確か。そして、方角は、もともと街がある方角だ。であれば、元の世界に帰れた、と思うのが妥当だろう」
「それって、成仏した、とか……」
 真面目な顔をして西川原が言うので、「不吉なことを言うなよ」とおれは小突いた。
「確かなことは、『俺たちは』ここから出られない、ということだ」
「それで、あたしたちはこう考えたのよ」おれの背後に立っていた、女性が言った。「あたしたちは、ここの世界の住人なんだって。『まだ間に合う人もいれば、間に合わない人もいる』」
「つまり、ここから出られるかどうかで、判別ができるということですか?」西川原が訊いた。秋川は頷く。
「嘘だと思うなら、いまから一緒に行こう。いま言ったことが本当か、確かめてみよう」
 おれと西川原は顔を見合わせた。おれは、行かない手はないと思ったが、西川原の意見も聞きたかった。。
「ちょっと、待ってください」
 おれは少し離れたところに西川原を呼んだ。
「なあ、どう思う?」
「どうって?」
「信用できると思うか? あの人」
「わかるわけないじゃない、そんなの」
 西川原は優しく微笑んだ。だが、すぐに、それは嘲笑なのだということに気が付いた。
「この短時間で、どうやって、何を見抜けというの?」
「いや、それは……」
 おれは口ごもった。西川原は笑うのをやめて、真顔に戻って、言った。
「とにかく、進むしかないよ」


   七 


 秋川を先頭にして、おれたちは歩き始めた。秋川の少し後ろを佳恵が歩き、そのさらに後ろを西川原、おれは最後尾に続いた。あたりに街灯はないが、ほんの少しだけ欠けた満月が、行く道を青白く導いている。よく目を凝らすと、街の明かりが前方の空に反射している。先頭を歩く秋川は、ポケットに手を突っ込んだまま、無言で歩き続ける。道に敷き詰められている砂利が、歩くたびにザッ、ザッと音を立てた。
「教室で、三年前にこのあたりで土砂崩れがあった、って話、したでしょう」
「うん」
 隣を歩く西川原は、目を丸くしたおれの顔を覗き込んで、少しだけ口角を持ち上げた。
「そう。あの二人、その土砂崩れのときに、行方不明になった二人だと思う。家は、完全に土砂に飲まれちゃって、もう原型も残っていなかったらしいわ。秋川っていう名前を見て、思い出したのよ。そういえば、行方不明になった人も、秋川って名前だったな、って」
「よく覚えてるな、そんなの」
 おれが呆れて言うと、「あたし、記憶力は良い方なの」と西川原は言った。「なんて、嘘。あの神社で父の件があってから、調べたからね。図書館で、当時の新聞記事を探したの。もちろん、行方不明になったのはあの人たちだけじゃないわ。他にも大勢いたのよ。でも、秋川さんは、その中でも秋川さんの記事は特に大きく扱われていたの」
「なんで?」
「この区画の土地開発のディベロッパーの社員だったからみたい。プロジェクトの責任者というわけではないけれど、重要なポジションにいたみたいよ。要するに、この山を切り開いた、張本人ね。だから、自業自得というわけじゃないけれど、マスコミ的には叩きやすいネタだったんじゃないかしら。結局、その土砂崩れで彼が行方不明になったおかげで、いろんなごたごたがあって、最終的には土地開発計画も白紙になったみたいだし」
「なんだよ、なんでも知ってるんだな」
「なんでもは知らないわよ。さっきも言ったけれど、秋川って名前を見たときに、思い出しただけ。あたしが知ってるのは、新聞で報道されていることぐらい」
「でも、あの秋川さんが、その秋川さんだとすると、つまり、ここは死後の世界、ってことになるよな」
「新聞には、秋川さんたちは、亡くなった、とはどこにも」
「え、そうなの?」
「あくまでも新聞には『行方不明』と報じていたの。死んだなんてどこにも書かれてなかったわ」
「でもそういう場合でも、さすがに死んだって判断するのが普通だと思うけど」
「まあね。でも、こういう世界に紛れ込んできちゃったんだとしたら、そうじゃない可能性もありそうじゃない?」
「もうわけがわからんよ」
「でもね、ひとつ引っかかってることがあるの」
「なに?」
「あの二人、新聞で見た顔と、ぜんぜん違うのよ。なんとなくの印象は同じなんだけれど……やっぱり、違うと思う」
「新聞の写真なんてあてにならないだろ。どんな人でも、モノクロだと犯罪者みたいになるし……それに、新聞社の人が写真を間違えたのかもしれないだろ?」
「それはそうだけれど……」
 道はまがりくねりながらも川沿いのほうへと続いていた。川に目をやると、先ほど家から見えたのとは全く違う、無数の光の粒が見えた。青白いものもあれば、黄色いものも、ちょっと赤みがかったものもある。ひとつひとつはとても小さく、ガラス玉ほどの大きさしかないが、それらが無数に交錯し、溶け合い、離れ離れになって、川の上を浮遊している。秋川はこれを人間の搾りかすだと言っていたが、間近で見てみると、宝石のように綺麗で、不気味な印象があまりなかった。ひとつひとつが生命力に満ちていた。
「なんでそんなにひどい崖崩れだったのに、あの神社が無事なのか、わかる?」
「頑丈に出来てるからか?」
「ブー。あの神社がそんなに頑丈そうに見えた? 逆。あの『場所』が、特別なのよ。あの場所が、あの山では一番安全な場所なの。そこが一番安全な場所だから、そこに神様がいると昔の人は考えて、社を建てたのよ」
「なるほど」おれは頷いた。「神社があるから安全な場所というわけじゃなくて、もともと安全な場所に神社を建てたのか」
「そう。古い神社は、そういうふうに建てられてる神社が多いの。つまり、ものすごくたくさん災害があって、ものすごくたくさんの人が亡くなって、その屍の先に、神社ができるのよ。結界って、もしかすると、そういうことかもしれない。つまり、結界が神社を守ってるんじゃなくて、統計的に、災害の起きにくい場所と、そうでない場所を区切ったのよ。それが結界」
「興味深いね」
 いつの間にかおれたちの目の前に立っていた秋川が言った。
「結界だって?」
 西川原はじっと秋川の顔を見た。秋川は脱力したように軽く笑う。
「おれたちが結界を超えた……だから罰を受けた、と」
「そうは言ってません。ただ、古い神社は、統計的に安全な場所にあることが多い。そう言っただけです」
「なるほど、統計的に、か」ポケットに手を突っ込んだまま秋川は言う。「もちろん、土地開発にあたっては、統計的なデータは取るさ。それでも予測のできない事態、というのはあるものだ」
「統計的といったって、せいぜい数十年の話でしょう? そんな短い期間の話じゃなく、もっと長い年月の話をしてるんです」
「だが、そういうことを気にしていたら、住むところがなくなってしまう。何万年も昔、それこそまだ文明なんて何もなかった頃、人類はただのちっぽけな猿でしかなかった。人類が農耕を始め、文明を作り始めた頃から、爆発的に人口が増え、人々は木を切り、山を削って、徐々に自分たちの領域を広げてきたんだ」
 西川原は一瞬黙り、「論点のすりかえです。そういうことを話したいわけではありません」と言った。
 秋川はまだ何か言いたそうに口を開いたが、後ろから佳恵が腕を引いたので、口を閉じた。
 しばらく誰も何も話さなかった。秋川が先頭になり、おれたちはそのあとに続いた。道はつづら折りの道で、曲がりくねっている感じはしない。山沿いだということもあるのだろうが、少しずつ登り坂になっているようだった。秋川の家は、ずいぶんと低いところにあったようだ。
 おれは西川原の言ったことを考えていた。
 結界。
 何か黒魔術めいたものではなく、統計的に、長い時間をかけて「安全な場所」と、「そうでない場所」を区切ったもの。
 それが結界。
 一種の境界線。
 境目。
 だが、安全な場所と、そうでない場所を、そう明確に区切ることができるものだろうか。
 ここから先は完全に危険で、ここより手前は絶対に安全。
 そうハッキリと、区別できるものだろうか。
 秋川は、死の定義について少し話していた。現代科学は、死を完全に定義することはできない。これまで死んだと思われていた人が復活したら、それまでの「死」の定義を書き換えるだけだ、と。
「清水くん」
 西川原に声をかけられ、ハッと我にかえった。
「まっすぐ歩いて」
「ごめん」
 考え事をしながら歩いていたせいか、ふらふらとした足取りになっていたらしかった。
「しっかりしてよ。それより、あの二人をちゃんと見ていて」
「何かおかしなことでもあるのか?」
「知らないわよ。わからないから、ちゃんと見ていてと言ってるの」
 西川原はそう言いながら、おれの隣を歩いた。肩が触れ合いそうなほどの距離だった。
「ちゃんと道、覚えてる?」
 さっきから、道はいくつかの分岐を進んでいた。あたりは林に覆われ、農道のような道がずっと続いている。木々の隙間から月明かりが照らしているほかは、明かりらしい明かりもなかった。西川原に言われ、どういう道を進んでいるかを記憶していないことに気づいた。
「もう戻ることもないんだから、覚える必要なんかないだろ?」
「念のためよ。ここまでは私、覚えてるから、ここからちゃんと覚えてね」
 秋川と佳恵は前方五メートルぐらいのところを歩いている。どこまで連れて行くつもりなのだろうか。
 そんなことを考えていると、前を歩いていた秋川が振り返り、分岐の右側を指差した。
「着いたよ。この道をまっすぐ、歩いていけばいい」
「ただ、まっすぐ歩いていけばいいんですか?」
 おれは質問する。秋川は無言で頷いた。
「ここでお別れですか?」おれは続けて質問する。
「そうだ」
 秋川は短く答える。
「えっと……じゃあ……」おれは言葉に詰まった。こういうとき、何を言えばいいのかわからない。
「行きましょう」と西川原はクールに言い、おれの手首をさっと引っ張った。おれは黙って引っ張られる。
 だが、数歩歩いて、西川原は振り返り、秋川に向かい合った。
「ひとつ、質問してもいいですか」
「どうぞ」秋川は言う。
「いままで、何人ぐらいを、こうして、見送ったんですか?」
 秋川は少し考え事をするように中空をにらんだ。
「さあ。数えたことはないけど、十人は下らないんじゃないかな、たぶん」
「みんな、私たちみたいな、高校生だったんですか?」
「いや、そうでもない。高校生でこんなところに来る人はあまりいないだろう。高校生は、君たちが初めてだ」
「私、どうしても知りたいことがあってここに来た、とさっき言いました。実は、父がここに来たんじゃないかと思ってるんです。少し前に、父があの神社で……、その……、おかしな体験をしたみたいだから……。私、それが知りたくて、確かめたくて、ここに来たんです」
「そんなの、自分の父親に訊いてみればいいじゃないか」
 西川原は沈黙した。
「何か、訊けない理由でもあるの?」
「それは……」
「そんなに知りたければ、俺と代わってここで暮らしてみるかい? 代わりに、俺が元の世界に帰る」
 秋川は笑った。隣にいる佳恵の表情はよく見えないが、彼女は微動だにしない。
「あの、もう行きます。ありがとうございました」
 西川原はそう言うと、振り返りもせずに歩き始めた。おれは秋川と佳恵に一礼してから、西川原のあとを早足で追いかけた。


   八

 
 西川原の足取りは速い。ほとんどおれの全速力に近い。ザッザッとリズミカルに歩いて行く。
「おい、西川原」
「なに」
 西川原はこちらを振り返りもせずに言う。
「どうしたんだよ。何かあったのか?」
「別に」
「そんなに急いでると転ぶぞ。ただでさえ暗いんだから……」
 西川原はそれには答えなかった。おれは後ろを振り返った。秋川も佳恵も、どちらももう見えなかった。西川原はわき目もふらずに、ただまっすぐに前進している。秋川の家からここまでだけでも、既に相当な距離を歩いている。距離的には、もう十分に元の場所に戻ってもおかしくないほどの距離だった。
 空を見上げると、群青色の星空が天を覆っている。確実に深い夜が訪れていた。
 西川原の足が止まった。前方を歩いていた彼女が急に止まったので、思わずぶつかった。何してんだよ、と文句を言うと、西川原は黙って前方を指差した。
「あれ、何に見える?」
 西川原の指差す先に、一軒の家が見えた。あたりが真っ暗なせいで、その家は暗闇の中に浮かび上がっているように見える。
「家」
 おれは見たままを口にした。西川原はそれに対して何も言わなかった。
「『戻って来たんだと思う?』」
「どういう意味?」
「ほら、だって、あの家。見覚えあるでしょ」
 おれはもう一度、前方の家をよく見た。何もない平地に建っている一軒の家。家の脇には、乗用車が無造作に停められている。
「秋川さんの家?」
「たぶんそう。近くまで行ってみる?」
 おれと西川原は歩いてその家のそばに近寄った。近づいてみると、さっきまで自分たちがいた秋川の家だということがわかった。
「うそ」
 車の位置も、家の外装も、中の明かりも、すべてそっくりそのままだ。おれの記憶が正しければ。
「戻ってきちゃったのか?」
「見ての通りね」
「どうして。だって、秋川さんの言った道をまっすぐ来たわけだろ? 秋川さんも道を間違えたのか?」
 西川原はため息をついた。深呼吸なのかため息なのかわからなかったが、それまで溜め込んだ空気を吐き出したようだった。そして、低い声で笑い、バカみたい、と言った。
「秋川さんが間違えた? そんなこと、ないと思うけど」
 西川原はすぐに踵を返すと、家の玄関へと向かった。制止する間も無く、扉を開け、土足のまま家の中に上がりこむ。そして、秋川さん、と叫んだ。おれは玄関に立ったまま、呆然としていた。
「家の中を探すのよ、どこかにいるかも」
 おれは混乱したまま、西川原に言われるがまま家に上がり込み、家の中を捜索した。もともとあまり大きな家ではないので、たちまち探す場所がなくなった。
 寝室の中を覗くとき、家に上がり込んだときとは全く異質な、不思議な感じがした。他人の身体の中を覗き見しているような気分だった。
 寝室の並べられたふたつの布団のあいだに小さな枕があった。
 おれが寝室の奥にある押入れに手をかけようとしたとき、家の外を、何かの陰が横切ったような気がした。秋川かと思ったが、明らかに大きさがちがう。子どもぐらいの小さな身長だった。まさか、この家の……? と思ったが、秋川たちはこの家に子どもがいるとは言っていなかった。何かの見間違いだろうか。
「いないわね」といつの間にか背後に立っていた西川原が言った。急に声をかけられると、誰かに叱られたように肩がすくむ。おれは振り返ると、黙って首を振った。
「さっきの道、覚えてるんだろ。もう一度行ってみれば、間違いかどうかわかるさ」とおれは言った。
 西川原は迷っていたが、やがて小さく頷いた。
 おれたちは外に出た。さっきよりも月は高い位置にあり、気温はさらに下がっていた。
 先を歩く西川原の後をついていく。道の分岐に到達するたびに、彼女は迷うことなく道を選んだ。一度通った道なのでだいたいの道は覚えているが、彼女ほど正確ではない。
 相変わらず歩く速度は速い。
 すぐにさっき秋川と別れた分岐にたどり着いた。
 あたりは深い森で、月明かりも弱く、奥は見通せない。
「ここが最後の分岐」西川原は右側の道を指した。「さっき行ったのが、こっち」
 ここに来るまでは少し登り坂になっていたが、右側の道はその登り坂がずっと続いたような道になっている。
「だから、今度はこっちに行ってみる?」
 西川原は左の道を指差した。こちらは、平坦な道のようだ。
 西川原がおれの顔を覗いていたので、黙って肩をすくめた。何か気の利いたことが言えるわけでもない。
 その道の先は本当に暗くて、足元さえもよく見えない。おれはポケットから携帯を取り出すと、フラッシュを光らせた。
 すると、すぐに西川原も携帯を取り出し、光らせた。おれが西川原の顔を見ると、「縁起が悪いから」とぽつりと言った。何が縁起が悪いのかはわからなかった。
 携帯のライトで照らせる範囲など知れたものだが、それでもないよりはマシだった。
 歩いていくと、少しひらけた場所が出て来た。西川原は駆け出し、おれはその後に続く。
「嘘でしょ」
 西川原が叫んだ。さっき見た光景と、まるで同じだ。広場に佇む一軒の家と、乗用車。秋川の家だ。
「どうしてよ。こんなことって」
「落ち着けよ、西川原。何かの間違いだって、これは」
「何の間違いよ。だって、最後の分岐、さっきと違う道を選んだでしょう。なんで同じ場所に出るのよ」
「だから、何かの間違い」
「なんでそんなに冷静なの? もう帰れなくなったかもしれないのに」
「そんなのわからないだろ」
「あたしは怖い。あんな人たちみたいに、なりたくない。父さんだって、きっと……」
 西川原はその場に座り込んだ。おれは西川原を見下ろす形になった。
「なあ、そうしていたって何も変わらないだろ。さっきの道がダメなら、もうひとつ前の道からやり直す。分岐の数だけ、可能性はあるんだ。ひとつひとつ試していかないと、わからないだろ。そんな簡単に、ひとりで結論を出すなよ」
 座り込んだ西川原は顔をあげた。かすかに涙の滲んだ眼だった。
 西川原がすっと手を出したので、おれはその手を掴んで、ぐっと引っ張った。彼女は、思ったよりもあっさりと、身体を起こした。
 おれたちはもう一度、さっきの道を歩いた。おれたちは手を繋いだままだった。なぜかはわからないが、この手を離すと、お互いにバラバラになって、この世界に取り残されてしまいそうな、そんな予感がした。
 おれはポケットから紙切れを取り出すと、通ってきた道の分岐を図にした。図にしてみると、大したことはない。要するに、これらをひとつひとつ潰していけばいいのだ。
 最後の分岐に到達する前の分岐にくると、それまでとは違う方向に行った。だが、何度それを繰り返しても、また同じ場所に出て来てしまう。おれも西川原も徐々に感覚が麻痺してきて、それが異常なことであるという感覚がなくなっていった。
 何度、繰り返しただろうか。メモに残された分岐の数は、ひとつ、またひとつと減っていく。
 おれは何も考えないように、心を無にして、西川原の手を引き、歩き続けた。
「ねえ、工藤くんは、どうしたのかな」
 不意に西川原が言った。
「工藤?」
「さっき、秋川さんが、工藤くんがちょっと前に家に来たって言ってたでしょう。工藤くんがどこにもいないということは、彼は、帰れたのかな」
「まさか」
 どうなのだろう。工藤が帰ろうとしたときも、秋川は同じように彼も案内したのだろうか。あいつがどこにも見当たらないのは、何か理由があるのだろうか。
「仮に、帰れてないとしたらさ……」西川原はこちらの目をじっと見る。「彼を探したほうがいいんじゃないかな」
「うん」
 おれは頷いたものの、どうしたらいいかわからない。西川原は手でメガホンの形をつくると、「工藤くーん!」と大声を出した。びっくりするほど大きな声だった。周囲に何もないせいで、山びこのようにその声が響く。
「工藤!」
 おれも同じようにして、声を張り上げる。二人で耳をすませるが、どこからも反応らしいものはなかった。
 夢中で声を張り上げていると、西川原が先にまた、地面に座り込むのが見えた。
「どうしたんだよ、西川原」
「もうなんか、どうでもいいの。なんでもいいの。何もかも……」
 おれが西川原の肩に触れようとしたとき、おれは異変に気付いた。
 河の向こうで揺れていたはずの人魂の数が、増えている。河の上を、蛍のように浮遊しているだけだったはずが、いまは河のこちら側まできている。人魂の数も、さっきよりずっと増えているようだった。
 この光景に、既視感があった。どこかで、これと同じことを体験したことがある。すぐに、その正体に思い当たった。そうだ、さっきの地蔵だ。さっきの地蔵に取り囲まれたときの感じが、ちょうどこんな感じだった。
 青色、黄色、橙色、さまざまな色をした発光体がこちらに近づいてくる。西川原、立て、とおれは叫び、無気力な彼女の腕を掴んで、無理やり立たせた。あの地蔵とは違い、この人魂は、動く。自分からこちらに近づいてくる。おれは西川原の肩を抱いて、駆け出した。
 逃げ込む場所はひとつしかない。ここには秋川の家しか建造物がないのだから、そこに逃げ込むしかない。おれは西川原を支えているのとは反対側の、左手で家のドアを開け、中に駆け込んだ。
 その瞬間、頭に鈍い衝撃を感じ、目の前がぐらついた。
 目の端に、秋川の顔が見えた。
 次の瞬間、意識を失った。


   九


 目の前には、小さな籠があった。プラスチックで出来た、小さな籠だ。籠の継ぎ目は粗く、簡単に指を差し入れることができる。そのとき、籠の継ぎ目が粗いのではなく、自分の手が小さいのだということに気付いた。感覚的には、いまの手の半分もない。
 籠に入っていた。身体全体がすっぽり入るほどの大きさの籠の中に、おれは閉じ込められているのだった。
 自分の置かれた状況を思い出す。おれは母親を探している。どこに行ってしまったのだろうか。どれだけ泣いても、決して姿を見せない。
 朝におはようと言った人が、また同じ声でただいまと必ず言うものだろうか。ただいまと言って戻ってこないことはないのだろうか。おれは不安になって、大きな声で泣く。だが、その泣き声に応えるものはなく、こだまとなって、闇の中に消えていく。
「起きたか」
 目の前にあるのは自分の足だった。身体の身動きは取れない。何かで身体を縛り付けられているらしい。
 目の前にいるのは秋川だった。おれは床に座った状態で柱にくくりつけられているようだ。秋川は立ったままこちらを見下ろしている。
「これは……」
 部屋は暗く、秋川の家であることは確かなようだが、リビングではない。寝室だろうか。
 固定されているので首が動かせないが、おれのすぐ隣に西川原も拘束されていることを目の端で確認した。怪我をしているかどうかまではわからない。
「怪我はしてないはずだ。ちょっと気絶させただけだから」おれの思考を読んだかのように、秋川が言う。
「どういうつもりですか」おれは秋川を睨みあげて言った。秋川はしゃがみ、おれの顔を覗くようにして話す。
「君たちのことは気の毒だと思うし、悪いとも思っている」
 秋川は立ち上がり、部屋の入り口に立っている佳恵の隣に立った。
「騙してたんですが、おれたちを」
「そうとも言うかな」
「どう考えても、犯罪ですよ、これ」
 語気を強めて言うと、それまで笑っていた秋川が急に無表情になった。
「騙したか、騙してないか、どっちだっていい。騙された奴が甘かっただけのことだ」
「それ。詐欺師がよく言うセリフですよね」
「君たちは動けないし、叫んだって誰もこない」
「目的は? はじめから、あたしたちを帰さないつもりだったんでしょ?」
 秋川は少し笑った。彼の横に立つ佳恵は、無表情のままだ。
「西川原、どういうこと」
「黄泉の国で煮炊きしたものを食べたり飲んだりすると、元の世界に戻れないのよ。でもさっき、何も飲まなかったのに、なぜ」
 おれはあることに思い当たった。自分の怪我を消毒して、絆創膏をつけたのは、佳恵だった。
「まさか、この傷?」
「何も食べ物だけじゃないの。この世界のものが干渉すれば、戻れなくなるのよ」佳恵が淡々と言った。
「私は?」
「え?」佳恵は目を丸くする。
「私は何も食べてないけど」
「あなたは、そうね……どうなのかしら」
 佳恵は言葉を切った。おれと西川原はその続きを待ったが、それ以上の言葉はなかった。
「……で、どうするつもり?」
 しばらくの沈黙のあと、西川原は訊く。
「そんなに焦らなくてもいい。時間はたっぷりある。またゆっくり話そう」
 秋川はそう言うと、部屋を出ていった。佳恵はしばらくこちらを見下ろしていたが、やがて秋川に続いて部屋を出ていった。
 おれと西川原は、急に静かになった部屋に取り残された。
「西川原、大丈夫か?」
「何が?」
「怪我したりしてるんじゃないかと思って」
「ありがとう。大丈夫みたい。清水くんも平気?」
「ああ。ちょっと頭が痛いし、縛られてるところがジンジンするけど」
 沈黙が流れる。
「どういうつもりなんだろうな? おれたちを拘束して、何が目的なんだろう」
「身代金を要求するつもりとか」
「身代金? どうやって」
「冗談よ」
 また笑えない冗談だ。
「おれがいなければ帰れたかもしれなかったのにな」
「お互い様よ。そもそもあたしが神社に行こうって誘ったのよ」
「でもおれたちだって乗ったわけだし。それに、こんなこと、西川原だって予想してなかった」
「でも、ごめんなさい」
「あの世の食べ物を食べると元の世界に戻ってこれなくなるって、何だ?」
「日本の神話ではね、そうなの。『古事記』では、黄泉の国にいったイザナミが死者の国のものを食べて生き返れなくなった、という話があるわ。でも、当たり前だけど、神話の話よ」
「面白いな」
「面白い?」
「だってさ、普通、死んだらもう生き返らない、って思うだろ?」
「さっき秋川さんも言ってたけど、死んだ状態と生きてる状態って明確に分かれるものではないのかもね」
「というと?」
「死んだ状態から本当に再生しなくなるまで、復活のチャンスがあるんじゃないかな」
「キリストじゃあるまいし」
「まあね」
「おれたちはいま、その状態なのかな」
「わからないけど」
「秋川さんたちはさすがにもう死んでるよな?」
「本当にあの災害にあった人たちならね。三年も経ってるから、常識的に考えたらそうなるね」
「常識外れのことしか起きてないけど」
「そうかな」
 しばらく二人は黙っていた。どれだけの時間が流れたのかわからない。後ろの手を縛っている手が痺れている。だんだん目が暗闇に慣れてきて、部屋の中の全体が見渡せるようになる。窓にはカーテンがかかっているが、カーテンの隙間から月明かりが漏れていた。西川原に目をやるが、俯いていて表情は見えない。おれはそっと目をつぶった。
 状況は何一つ好転していないが、逆にいまできることは何もない。そう考えると、そのことが逆におれを安心させた。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ガタガタ、という音が聞こえ、柱が小さく揺れていることに気付いた。目をあけると、隣の西川原も顔をあげるのがわかった。
「地震?」
 だが、どうすることもできない。部屋がガタガタと揺れ、全身が揺さぶられる。
 身体が柱に括り付けられているので、家の揺れがそのまま身体に伝わる。
 揺れはだんだんひどくなり、身の危険を感じるほどになった。いまは括り付けられているが、立っていたら、とてもじゃないが、そのまま立っていられないだろう。
 おれも西川原も、声が出ない。家全体が軋んでいだ。
 誰かが走ってくる音がして、ドアが開けられた。既に立て付けが悪くなっているのか、開くのに少し時間がかかった。
 秋川が部屋に入ってくる。暗くて表情は見えない。
「大丈夫か?」
 低く声をかけられた。
 その瞬間、横から殴られたように家が揺れた。洋服箪笥が倒れ、中身がぶちまけられる。部屋の入り口にいた滝本も吹っ飛ばされ、部屋の中央に投げ出された。西川原、とおれは叫んだ。部屋のなかが滅茶苦茶になって、西川原の姿が見えなくなったからだ。おれは渾身の力で腕に力を入れると、自分を拘束していたロープがちぎれるのがわかった。まだ揺れは続いている。滝本は床に伏せたまま動かない。
 しばらくすると揺れは止まった。耳をつんざくような静寂がやってくる。西川原は箪笥の下敷きになっていた。おれは急いで立ち上がると、箪笥をどかした。西川原の小さな白い手が見えた。
「西川原」
 西川原は仰向けに倒れていて目をつぶっていたが、声をかけると目を見開いた。身体を見たが、見た目には大きな怪我をしているわけではなさそうだ。西川原はすぐに上体を起こし、おれの背後に立っている秋川を睨んだ。しばらく誰も口をきかなかった。
「ここは、地震も起きるのね」
 西川原がゆっくりと言った。秋川は黙っている。やがて、部屋を出て行った。
 部屋には鍵がかかり、そのあとで、ドアが何かで塞がれる音がした。
 おれたちは、部屋に取り残された。
 おれと西川原は顔を見合わせる。おれが少し微笑むと、西川原は声を出して笑った。いったん笑い始めると、二人とも止まらなくなった。
 おれは手に絡みついた紐をほどいた。それは荷造り用の、ごくごくありふれたビニールテープだった。西川原も同様に、手についた紐を取り払っている。
 お互いに顔を見合わせたが、それで何かが解決するわけでもない。部屋の中は、泥棒が入った後みたいに滅茶苦茶だった。相変わらず部屋の中は薄暗いが、それがひどい状態だということはわかる。
 おれは立ち上がり、カーテンと、ドアを開けた。遠くにあの河が見える。ここは、秋川の家の二階のようだ。物置か何かに使われている部屋だろうか。
 おれは入り口のほうに歩いていき、ドアノブをひねってみた。
 ドアノブは何の抵抗もなく、すっと回ったが、押しても引いても動かなかった。ドアの向こうを何かで塞ぐような音がしたから、何か物を置いて塞いでいるのかもしれない。
 おれは秋川の名を叫び、ドアを何度も全力で叩いたが、反応はなかった。
「無駄だと思うから、やめたら」
 背後から西川原の乾いた声が聞こえる。おれは振り向き、頷いた。
 おれはドアにもたれかかるようにしてその場に座りこむ。西川原も適当なところに腰を下ろした。
 部屋の中が泥棒が入ったみたいにひどい状態であることを除けば、拘束されていたときより状況は悪くはない。
 おれは座ったまま、手近にあったタオルを手に取った。この部屋には衣装箪笥があるので、服やタオルなどを収納するために使われている部屋らしかった。そして、そのタオルを結びはじめた。
「何してるの?」
 怪訝な顔で西川原が言う。
「タオルでロープを作るんだ。その窓から降りれるかもしれない」
「窓から?」
 西川原は立ち上がり、窓の外を見る。「無理よ。だって、どこにも足場がないもの。この高さから飛び降りたら、怪我するかもしれない」
「だから、ロープを作ってるんだよ」
「そんなの作ったって、括り付けるところなんてないじゃない」
「括り付けるんじゃない。おれが端っこを持てば、西川原は降りれるだろ」
「何言ってるの?」
「言った通りだよ」
 おれたちはしばらくにらみ合った。
 西川原が何も言わないので、おれは、「おれがこっち側を持つから、西川原が反対側を持って……」と、説明を繰り返したが、「そんなの、わかってるわ。バカにしないで」とすぐに遮られた。
「言いたいことはふたつあるわ。ひとつは、そんなしょぼいロープもどきなんかを使ってここから降りたくなんかない」
「もうひとつは?」
「あなたはどうするの? そのやり方だと、あなたは出られないじゃない」
「うん」
「どうするつもり?」
「残るよ、ここに。西川原だけ、行ってほしい」
 しばらく西川原の動きが止まった。
 西川原の腕がゆっくりと動き、腕組みをするような格好になった。
「どういうつもりなの?」
「その言葉の通りだよ。おれはここに残る」
「そんなバカなこと……」
「だって、さっきのやりとりを思い返してみろよ。おれはたぶん、ここから出られない。だけど、西川原は、きっと、そうじゃない。ここではまだ何もされていないから、間に合うかもしれない」
「かもしれない、可能性があるだけね。それに、さっきまであのあたりをウロウロしてた、人魂のこともあることだし」
「それはもう、振り切るしかない。それに、思い出してみろよ。あの山で見た地蔵。おれたちが目を離したら数が増えただろ? でも、じっと見つめていたら、あいつらは何もできない」
 おれは作ったばかりの、タオルで出来たロープをぎゅっと握った。
「だから、おれがいたから、西川原は、さっき、戻れなかったんじゃないか? もし、一人で行ったら、無事に帰れるかもしれない」
「それも可能性の話よ」
「でも、可能性としては大きい」
 西川原はおれから目をそらし、ため息をひとつ、ついた。
「仮に元のところに帰れたとしても、あなたを迎えに来られる保証はないわよ」
「もちろん」おれは少し唇を持ち上げて笑った。「でも、可能性はゼロじゃないだろ?」
 おれは窓に近寄り、下を見下ろした。
 相変わらず月明かりが煌々と照らされていて、地面までくっきり見える。西川原も、おれの横から下を見た。さっきまであたりをウロウロしていた人魂も、少し数が減っているような気がする。
 おれはロープの一端を持って、西川原に目配せをした。西川原は小さく頷き、おれとは違う方の端を手に取った。
 おれはそばの棚を窓の近くに寄せ、窓から降りやすいように踏み台を作った。西川原はそれに乗るとき、「見ないでよ」と言い、スカートを手で押さえた。おれは笑って、顔をそむけた。
 西川原は片方の手で大きく窓を開け放つと、足を窓枠に乗せ、猫のようにその上に立った。
「大丈夫なんでしょうね、これ」と言いながら、タオルで出来たロープを顔の高さまで持ち上げる。一応、結び目はシンプルだが、普通のロープでも解けないように結んである。
「大丈夫だと思う、たぶん」とおれは言った。それを聞いて、西川原はかすかに微笑んだ。
 いくら西川原が小柄だといっても、人間一人を支えるのは容易ではない。おれはロープをしっかりと持ち、足を箪笥の留め金にかけた。
「オーケイ、いいよ。いつでも」
 合図すると、西川原は、後ろ向きに、身体を窓の外に降ろした。おれの全身は窓のほうに引っ張られたが、全力で支えた。
 西川原がロープを伝って、少しずつ下降していくのが伝わってくる。そもそも、ロープはそんなに長いものではなく、せいぜい二メートルぐらいしかない。途中からは、手を離して、地面に飛び降りなければならない。
 おれたちは声も出さず、その作業をこなした。遠くのほうから、離すわよ、という西川原の声が聞こえ、その一瞬あと、おれは窓とは逆側に吹っ飛んだ。
 西川原は無事に降りれたのだろうか。すぐに立ち上がって、窓に駆け寄って下を見ると、西川原が地上からこちらに向かって手を振っているのが見えた。
 おれたちは大声を出すわけにもいかず、身振りで、互いの無事を確認し合った。お互い、どこにも怪我はしていないようだった。
 おれは森の方を指差す。西川原も、森の方を指差した。さっき、自分たちが帰るために目指した方角だ。西川原はじっとこちらを見ていたが、やがて踵を返して、森のほうへと歩いていった。おれは小さく手を振り続けていた。
 これでよかったのだろうか、おれは自問した。確かに、理屈で考えればこれしか方法はない。おれが元の世界に帰れなくなったことは、さっき、どれだけ森の坂道をあがっても戻れなくなったことからも明らかだ。
 もちろん、西川原ひとりであれば元の世界に帰れるという保証はない。しかし、これはいまできる最善の手だろう、おれはそう自分に言い聞かせた。
 ただ、心の奥底で、気付かないふりをしていた事実があった。
 おれは、この世界から出ることができなくなったらしい。
 それをあらためて自覚した瞬間、鳥肌が立ち、背筋が凍りついた。
 それを真剣に考えることを、脳が拒否していたのだった。
 おれはこれから、この薄暗い世界で、ずっと生きていくのだろうか。
 生きる?
 いや、違う。
 おれは、死んだのだ。
 どうやって死んだのか全くわからないが、おれはこの世を去ったのだ。
 ここは生者と死者の境目の場所。
 おれは遠く離れていく西川原の背中を目で追った。西川原は振り返ることなく、一直線に森のほうへと向かって歩いていく。
 おれは人魂の動きを注視して見ていた。人魂は、側まで近づいてはきているが、一定の距離を保っていて、接触はしていないようだった。
 西川原は、そんな人魂などまるで目に入らないかのように、堂々と歩みを進めていく。
 西川原が坂の入り口に到達しようとしたそのときだった。坂のほうではなく、おれたちがもともと来た方向から、何かが蠢くのが見えた。はじめは人魂かと思ったが、それはそもそも発光していない。それに、大きさが全く違う。大人の人間ほどの大きさがあるのだ。
 やがて、じっと見つめていると、それが大人の、人間だということがわかった。おれは目を凝らしたが、どれだけ見てもそうとしか思えない。おれや、秋川ら以外にも、ここに人間がいたのか。その連中は、全員で四人ほどではあったが、坂を駆け下りて、西川原の行く手を塞いだ。西川原、とおれは叫びそうになったが、すんでのところで堪える。
 だが、ここで見ていることしかできないのか。西川原は行く手を阻まれ、じりじりと後ずさりをする。やがて、この家に向かって駆け出すのが見えた。
 だが、秋川らがいるこの家に入ることはできない。おれは窓枠に飛び乗った。そして、地面を見る。ロープなしでも、ここから飛び降りることはできるだろう。足を捻挫するぐらいで済むだろうか、しかし……。目を前方にやると、西川原がこちらに駆けてくるのが見える。おれはどうしようもなくなり、窓から飛び降りようとした。
 だが、地面を見て、足がすくんだ。ここから飛び降りて、足を怪我したとして、それで西川原を助けることができるだろうか。おれは少し冷静になって窓から降りた。部屋の中を見回す。何か、使えるものはないだろうか。
 部屋の中には日用品ぐらいしかないから、何か武器になるようなものがあるとは思えないが、押し入れの中には他に何かあるかもしれない。そう考えて、押し入れを開けた。押し入れの中はやはり暗くてよくわからないが、箪笥と、布団が入っている。おれは布団を引っ張り出そうとして、それに触れたとき、なんだかゴムのような感触を感じた。何か弾力のある、それでいて硬いものが、布団に包まれているのだ。
 おれは布団を担いで、外に出そうとしたが、重くて出せない。そのとき、おれの脳裏にあるイメージが浮かんだ。これは、死体ではないのか。大きさや重さからみて、これは人間の大きさのように思えた。思わず手を離したが、しかし同時に、この中身を確かめなければならない、その考えも浮かんだ。
 おれは布団を縛っている紐を解いた。そして、ゆっくりと中を開けた。それは、確かに人間だった。だいたい自分と同じぐらいの大きさだろうか。布団を開けてみると、その人間の背中が見えて、おれは悲鳴をあげそうになった。
 おれはその人間を顔を確認する。工藤だった。
「工藤!」
 思わず声が出た。工藤はじっと目を瞑ったままだ。死んでいるのだろうか、とおれは思った。工藤の身体を押し入れから出し、身体を広げさせた。工藤の身体は温かく、体温がまだあることが確認できた。生きている、とおれは思った。
 おれは工藤の名前を呼びながら、必死で肩を揺さぶった。工藤は眠っているのか、気を失っているのか、目を開けない。おれは焦れて、工藤の頬を思い切り張った。
「なんだ? ……清水か? ここは……」
 寝ぼけた声で工藤は言った。工藤はわけがわからない、といった顔で周囲を見渡す。それでも、状況が全く理解できないようだった。
「説明は後だ、西川原が」
 おれはそう言って、工藤を立たせ、窓際に連れていく。
「な、なんだよ、あれ」
 工藤がそれを見て、目を丸くする。
「説明はあとだ。西川原が襲われてる。おれは助けにいくから、手伝ってくれ」
 おれはそう言うと、さっきのロープの一端を工藤に持たせた。もう迷っている暇はない。しっかりつかんでろよ、とおれは叫ぶと、窓枠から外に飛び出した。さっきまで暗かった視界が、月明かりの世界に飛び出して、急に広くなった。窓から飛び降りるのは想像以上に怖く、おれは西川原がさっき平然とここを飛び降りたのを思い出し、あらためてすごいと思った。タオルでできたやわなロープは、窓枠のサッシに引っかかってはいるが、いまにもちぎれそうで、頼りない。
 おれはロープを下にたぐりながら、地面に降り立った。顔をあげると、西川原がすぐそこまで迫っていた。
「どうやってきたの?」
 西川原が叫ぶ。
「工藤だ! 工藤が部屋にいたんだ。あいつに降ろしてもらった」
 おれも叫びながら西川原の近くへ駆け寄った。おれはあらためて、西川原が対峙している前方の人たちを見た。どこにでもいそうな特徴のない人々で、表情に生気がなく、虚ろな目をしてこちらにゆっくりと歩いてくる。
「西川原、なんだ、こいつら」
「あたしがわかるわけないでしょ」
「おい、止まれ!」
 おれは人々に向かって叫んだが、一向に止まる気配はない。歩く速度は非常にゆっくりだが、何かに操られているように、まっすぐにこちらに向かってくる。おれはあたりを見回し、何か武器になりそうなものを探した。家の裏の庭に小さな家庭菜園があり、フェンスに鍬が立てかけてあるのが見えた。おれはその鍬を手に取って構えると、その人々に向き合った。こちらがあきらかに凶器を手にしているのに、それでも人々は止まろうとしない。おれは、その人々にまったく生気を感じなかった。こちらの持っているものに対して、何の感情も抱いていないようだった。
「止まれ!」
 おれは叫びながら、近づいてくる男を鍬の先で小突いた。そのとき、違和感に気づいた。向かってくるその人間に、全く、重みを感じなかったのだ。まるで、ペラペラの段ボールを小突いたような、そんな感触だった。おれは覚悟を決め、もう一度強く突いた。その男は紙のように吹っ飛び、そして、ゆっくりと立ち上がる。
 気付くと、あたりは人間だらけだった。明らかにさっきよりも数が増えている。いつの間にか、西川原はおれの背後にまわっていた。おれは鍬を振り上げ、一息に一番近い人に振り下ろした。紙を裂くような感触があり、目の前の人が倒れた。よく、小売店の店頭に置いてあるような、等身大のポップがあるが、それを殴ったような感じだった。
 とりあえず、それを殴った感触が人を殴ったものと全く違うということにおれは安堵した。人を殴っているような感触があったら、どんな気持ちになったか、わかったものではない。おれは勢いづいて、さらに鍬を振り回し、近づいてくる人を片っ端から殴っていった。どの人も、やはり段ボールを殴りつけたような、薄っぺらい感触だった。倒れた人は、そのまま動かなくなる。状況は一切、わからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
 ふと顔をあげると、無数の人たちがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。こいつらの正体がなんなのかはわからないが、人ではないことは確かだ。しかし、キリがない。おれはすでに肩で息をしていた。
 西川原が、おれの斜め前で、倒れた人の肩をつまみ上げていた。まるで、実験室のマウスをつまみあげるような、そんな仕草だった。
「何してんだよ、西川原」
「これ、人じゃないよ」
「そんなことは、わかってんだよ」
「じゃあ、なんだと思ったの?」
「知るかよ。どんどん湧いてきてるから、片っ端から倒していくしかないだろ」
「これ、紙だよ」
 西川原は手近にいた人の一部分を、えい、とちぎりとって、おれに見せた。ちぎられた部分をみると、真っ白な、紙だった。厚紙のようなものといってもいいかもしれない。しかし、歩いて来る人々は、一見しただけでは普通の人間に見える。
「紙だから、どうした! こいつらが、こうやって向かってきてるんだから、なんとかしなきゃいけないのは、同じことだろ」
 西川原は近くにあった庭バサミを持って来ると、おれと同じように、向かって来る人に対してそれを振り下ろしていた。叩かれた人は、文字通り紙くずのようになって、おれたちの前に積み重なっていく。
 どうすればいいのだろう、とおれは鍬を振り下ろしながら考えた。向かってくるこの人たちは非常にペースは遅いが、しかし確実にこちらに向かって進んでくる。やがておれたちは追い詰められた。見渡す限りの人、人、人。いったい、どれだけの人をおれは殴りつけたのだろうか。それが本物の人間ではないとわかってはいても、気分が悪かった。そして何より、もう腕があがらなくなっていた。
 一人がおれの腕をつかんだ。そして、その隙に、脇からもう一人がおれの喉をがっしりと掴む。思い切り力を出せば振り払うことはできるのだろうが、もうその力が残っていない。服を着たまま水の中に入ったような感じに似ている。水がべっとりと全身に張り付いて、身体が重く、徐々に身動きがとれなくなるような感じ。人々の手が何重にも折り重なって、少しずつ、自分の喉を締めつめてきている。
 どうする? とおれは自問自答した。秋川の家の中に逃げ込めば、こいつらをやり過ごすことができるかもしれない。しかし、秋川たちにばれたら……。いや、とっくに秋川たちは気付いているのかもしれない。何しろ、これだけ大勢の人が、この家の前にやってきているのだから。むしろ、気付いていないほうが不自然だろう。
 おれはやっとのことで首にまとわりついた手を振り払い、横にいるはずの西川原を見ると、何重にも人々が彼女に覆いかぶさっていて、手と足の一部しかもう見えなかった。
「西川原!」
 おれは全力で叫んだ。もうどうにでもなれ、と思った。どのみち、この状況では、おれたちは死ぬのだ。


   十


 ふと、自分たちに襲いかかっていた紙人間が動きを止めた。自分にかかる力が急になくなったので、すぐにわかった。紙で出来た人間が、静電気のように自分たちに張り付いているが、簡単にはがすことができた。紙の服を脱いでいるようなイメージだ。
 おれは自分についている紙をあらかたはがすと、隣にいる西川原と目があった。おれたちは自分の身に何が起きているのかまるでわかっていない。西川原の顔を見るに、彼女も同じようだった。そして、家のほうを振り返って気付いた。秋川が、そこに立っていたのだ。
 秋川は、右手を前に突き出し、じっと中空を見つめている。おれは、彼が何をやっているのか、わからなかった。
「どうやって部屋から抜け出した?」
 秋川はゆっくりと口を開いた。そして、手を元に戻すと、こちらに向かって歩いてくる。おれはとっさに、持っている鍬を構えた。それでも秋川は顔色ひとつ変えない。家の外まで出て来ると、秋川は上を見あげ、おれたちが出てきた部屋の窓を見た。
「あそこから出てきたのか。もしかして、飛び降りたのか? ずいぶんと無茶をしたな」
「突然襲われて、手足も縛られて、それで大人しくしてろっていうほうが無理だろ」
「まあ、それはもっともだな。しかし、どの道君たちはここから出ることはできないんだよ。さっき、あの道を行ってみてわかったろう。ここは、通り道なんだ。向こうからこちらに来ることはできても、こちらから向こうに戻ることはできない。お前たちは、ここに居続けるしかないんだよ」
「だったら、口でそう説明すればいいはず。なぜ私たちを縛ったのか、よくわからないわ」
 おれの背後で西川原がそう言った。それは確かにそうだ。
「じゃあ、説明しよう」と秋川は言った。ドアががちゃりと開き、背後に佳恵が立っているのが見えた。相変わらず、表情が読めない。
「さっきまで君たちが相手にしていたのは、ただの紙だ。ただの紙だが、人魂が乗り移っている」
「人魂か?」
「さっきからそこらじゅうをウロついてた魂があっただろう? あれが紙に宿ったのさ。陰陽道で、『式神』と言う。狙いは、私と、佳恵だ。私と佳恵は、ずいぶん長くここに留まり続けている。『あの世』からの使いみたいなものだ。お迎えがきた、という言い方が正しいかもしれないな」
 秋川はそう言うと、まくっていたシャツの袖を戻し、ボタンをはめ直しはじめた。
「ずっとここにいるから時間の流れを感じることはできないが、もうずいぶん経ったんだろう? 私たちがいなくなってから」
「三年ぐらいね」と西川原が言った。「崖が崩れて、土砂崩れがあったときに飲み込まれた、秋川夫妻。新聞に載ってたわ。死んだ、とはどこにも書いてなかったけれど。行方不明になったって」
「そうか」と秋川は言った。「ここで巡り会ったのも、何かの縁だな」
「なんの縁?」
「なんの縁でもないさ。君たちは、たまたまここに迷い込んだんだろう? おれたちは、偶然ここで出会ったってわけだ。ただの偶然。だが、偶然とはいえ、何かの縁がおれたちをここで引き合わせた」
「何が言いたいの?」
「正直に言う。私たちはもう、本当に限界なんだ。このままでは、あの川の上で揺れていた魂たちと同じになって、やがて本当にあの世に行ってしまうだろう。お前たちの肉体が必要だ。お前のたちの身体を、私たちに、くれ」
「何言ってるの?」
「お前たちの新鮮な肉体と魂、それがあれば、まだしばらくはここに居られる。くれといっても、お前たちの意識がなくなるわけじゃない。私たちと同化するだけだ。お前たちの意識や記憶はそのままに、私たちと同化するだけだ」
「冗談じゃない。それに、信用できるか」おれは言い放った。
「何度も言うが、どのみち、お前たちは元の世界には戻れない。私たちと同じように、放っておけばこの場所にすらいられなくなって、肉体は朽ちて魂だけが残り、やがてあの世に行くだけだ。何にそんな抵抗感を感じているのか、よくわからないけどね」
「抵抗を感じるってわかってたからこそ、そんなことを言い出したんだろ?」とおれは言った。「確かにな」秋川は微笑んだ。まるで、悪戯をする子どもに微笑みかけるような、優しい笑顔で。「ずいぶん長いあいだここにいると、いろんなことがあったんだよ。やはり、力づくで言うことを聞いてもらうしかないようだな、お前たちには」
 おれは鍬を構えた。秋川は玄関の階段をゆっくりと降りてくる。あまりにも堂々とした動きなので、おれは戸惑った。気付くと、秋川が目の前に迫っていた。おれは反射的に後ろに飛び退いたが、足元にある紙の残骸に足を滑らせた。秋川はおれの袖口を掴み、思い切り引っ張った。そして、おれの胸ぐらを左手で掴む。
 一瞬、目の前が真っ暗になり、火花が飛び散った。思い切り殴られたのだ、と少し遅れて気付いた。おれは他人と喧嘩などしたことがない。親にも殴られた経験はない。それは、痛みというよりは、重みと、痺れだった。自転車から思い切り落ちて、頭を強打したことがあるが、それに近い感覚だ。何が起きたのか、とっさには理解できない。
 一瞬気を失ったが、すぐに気を取り直し、胸ぐらを掴んでいる秋川の手を振りほどく。振りほどくときに、指に突き指したような鈍い痛みが走ったが、構わなかった。アドレナリンというのだろうか。脳内から何か強烈な物質が分泌されていて、痛みを痛みとして実感できなかった。
 おれは秋川と少し距離をとり、鍬を剣道の竹刀のように、自分の前に構えた。
「剣道でもやっていたのか? いや、とてもそんな風には見えないな」秋川は言い、さっきと同じように一瞬で間合いを詰めてきた。ほとんど瞬間移動と同じだった。おれはまた殴られる。今度は、胸ぐらを掴まれることは避けられた。口の中がジャリジャリして、鉄くさい感じがする。口の中が切れたのだろうか。
「どうした、殴りかかってきてもいいんだぞ」
 秋川は挑発的に言う。秋川は、さっきまで自分が殴り倒していた紙人間とは明らかに違う。質量がある。拳に重みがあった。秋川の服装は最初に会ったときから変わっていない。いくらなんでも、こんな普通の服装をした、普通の人間を、凶器で殴りつけることなんて、おれにはできなかった。
 おれは背後にいる西川原のことを考えた。彼女なら、あるいは、眉ひとつ動かさず、この秋川を殴り倒すことができるかもしれない。いや、おれはバカだ、何を考えているんだ、まさか、こんな女子に、人を殴り倒す役割を押し付けるなんて。そんなことがあってはならない。おれは一瞬で、自分が思いついたことを打ち消した。そして、秋川のことを、さっきまで自分が殴り倒していた式神と同質の存在だと思い込もうとした。
 野球だと思えばいい。ボールを打ち返すのに躊躇う人間はいない。目の前のこの男を、野球のボールだと思って、思い切り打ち返せばいいのだ。アアアア、と声にならない声をあげ、おれは鍬を思い切り振り上げた。これを振り下ろせば、すべては終わるのだろうか。秋川は、ポケットに手を突っ込み、こう言った。
「私たちのことが哀れだと思わないか。私たちを殺すことが、そんなにお前たちが望んでいることなのか。私たちは、たったついさっき、初めて会ったばかりだというのに」
「なに?」
「どうせ放っておいても私たちの肉体は朽ち、そこらへんを浮遊している魂と同じものになる。そして、それは君たちだって同じだ。放っておけば、みんなそうなるんだ。君たちよりも、たった十年ぐらい長く生きただけの私たちを、殺すことが、君たちの望んでいることなのか?」
「あなたたちが襲ってくるから、抵抗してるんじゃない。正当防衛だわ」西川原が背後から言った。確かにその通りだ。おれたちだって、何も自分から望んで秋川を攻撃しようとしているわけじゃない。
「さっきも説明したが、何も君たちの、今の意識が失われるわけじゃない。私たちと同化するんだ。君たちの記憶や意識は、完全とはいかないが、残るだろう。君たちの中に、私たちの人格が入り込むような感覚だ。共生のようなものと考えてもらってもいいかもしれない」
「……さっき、坂で別れるときに、私たちに言ったこと。これまで、ここで見送ったのが十人は下らない、って言ったのは、あなたたちが、こんな風に、乗っ取った人々の数なのね。元の世界に戻ったというのも、はじめから嘘だったのね」
 秋川は笑った。心底面白い、と感じているように、白い歯を見せて、にこりと笑った。
「察しがいいね。君たち、勘が鋭いし、頭の回転も悪くない。気に入ったよ。ここまできたら隠したってしょうがないよな。そう、これまでいろんな人を見送った、なんてのは嘘だよ。誰もここにきてから元の世界になんて戻ってない。紅茶には、本当になんの仕掛けもしてなかったんだよ。あの道を行っても元の世界には帰れない、それが真実。工藤くんは、ひとりだったから、紅茶に睡眠薬を混ぜておねんねしてもらってたんだがね」
「なんでそんなまわりくどいことをする必要があるの?」
「絶望してもらうためさ。生きていれば元の世界に戻れる、死んでいれば、元の世界には戻れない。そういう情報を事前に与えられて、実際に歩いていってみれば、自分が死んだか、はたまた生きているのか、しっかりと解らせることができるだろう? 絶望した人間のほうがコントロールしやすい。生きているという希望をもって、この世界を逃げ回られて、隠れられでもしたら、こっちとしても手の打ちようがないからね。確実に絶望してもらって、コントロールしやすい状況にしておいてから、身体を乗っ取るのがいつものパターンだ」
「その今の姿も、乗っ取ったものなのね?」
「もちろん。僕たちが秋川だというのは本当だ。だが、この身体はしばらく前に、この世界にやってきた夫婦から乗っ取ったものだ。次は、君たちの身体を借りることになるだろうね。高校生がこんな一軒家に、二人で暮らしてるなんてのは、さすがにちょっと不自然かな」
 秋川はまた声を出して笑った。
「まあ、そんなことはどうだっていい。なんとでも言うことはできるからね。いずれにせよ、ここまで話してしまった以上、君たちを逃すわけにはいかない。どんな手を使ってでも、乗っ取ってやる」
 西川原は手にしていたハサミを下げ、自然体に近い格好になった。どうするのだろうか、とおれは思った。
「じゃあ、あたしの父のことも、最初から知っていたのね」西川原は静かに言った。
 秋川は頷き、そうだよ、というように、片手を広げた。「君のお父さん、つまり西川原孝一は、少し前にここにやってきた。だが、彼は君と同じで、とても用心深くてね。結局、おれたちは彼を乗っ取ることはできなかった。いまも、この世界をさまよっているか、とっくにあの世に行ってしまったか……」
「違うわ。父は、生き返ったの。生き返って、私たちのところに帰ってきたのよ」
「なに?」
 そのとき、おれは秋川の背後で佳恵が動くのを目の端で捉えた。本能的に、やばい、と感じた。一瞬遅れて、佳恵が素早い動作で何かを投げた。
「西川原!」
 おれは叫ぶと右手を広げて、西川原のほうに向かってダイブした。その瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。ナイフのようなものを佳恵が投げたのだ、と気付いた。清水くん、と西川原が大声で叫ぶのが聞こえる。視界が歪んだあと、首に何かが引っかかるのを感じた。秋川がおれを羽交い締めにしていて、首を締め付けているのだ。
「油断大敵だよ、清水くん」
 ギリギリと首を締め付けながら秋川は言う。おれは首に絡みつく秋川の腕をほどこうとするが、全く歯が立たない。秋川は左手を使って、ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。おれの目の前でそれを広げてみせる。
「これを飲むんだ」
 秋川はナイフを、おれの首に絡みついている、自らの腕に突き立て、ぐいと横に引いた。鮮血が穴のあいだ水道管のように流れだしてくる。秋川の血だ。おれは口を閉じ、目も閉じたが、血が自分のほうに流れ込んでくるのを感じる。秋川は左手を使って、おれの口を開けようとしてくる。
 おれは目を見開いた。そして、自分の頭上、家の二階に、何か黒い、四角い物体があるのを発見した。
「頭を伏せろ、清水!」
 大きな声が聞こえた。おれは薄れゆく意識の中で、その声に反応するように、全身全霊の力をこめて秋川の腕を振りほどき、地面に伏せた。その一瞬後、ものすごい鈍い音がして、おれの意識も一瞬飛んだ。視界が真っ暗になる。すぐに自分の腕が強い力で引かれるのがわかった。何がなんだかわからないまま、そこから這い出た。目の前に西川原がいる。
 西川原が、そこで少しだけ笑い、「大丈夫? 清水くん」と言った。
「何が起きた?」
 おれはチカチカする目で西川原に聞いた。西川原は黙って、頭上を指差す。窓から、工藤が手を振っているのが見えた。そして、地面を見る。何が起きたのかわかった。工藤が、窓から鉄製のキャビネットを放り投げたのだ。


   十一


 鉄製のキャビネットが直撃した秋川は完全に気を失っていた。一見しただけではわからないが、骨が折れているのかもしれない。おれは自分の服についた秋川の血が不快だったが、いまはそれどころではない。おれの身体についた泥を、西川原が払い落としてくれた。
 おれはすぐに玄関のほうを振り返った。さっきそこにいたはずの佳恵は、もういない。玄関に向かって歩こうとしたが、全身が痛くてまともに歩くこともできなかった。佳恵が投げたナイフがおれの脇をかすめたことを思い出した。手でそのあたりを触ってみると、激痛が走った。いくらか切れているらしい。家の中に入れば救急用具はあるだろうが、それを使って、本当に元の世界に帰れなくなる、ということはないだろうか。
 秋川を倒したものの、状況は全く好転しておらず、何かが解決したわけでもない。ただ、最悪の状況を回避できた、それだけのことだ。
「佳恵さんは? 彼女を探さないと」
「どこかに逃げて行ったみたい。少なくとも、家の中じゃないわ。彼女を探す前に、この人をなんとかしないと」
 足元で完全に気絶している秋川を見下ろして、西川原はつぶやいた。
「おれは工藤を助けに行ってくる。西川原は、この人を縛るものを探してきてくれるか」
「大丈夫? そんなに怪我してるのに」
「平気、たぶん」
 おれはヨロヨロと歩いて家の中に入った。この家に入るのはこれで何回目だろうか。おれは一段ずつゆっくりと階段をあがり、二階へあがった。廊下の突き当たりに、テーブルや本棚を積み重ねたバリケードのようなものが見えた。これで、部屋から出られないようにしていたのだろう。おれはそれらを脇にどかして、部屋のドアを開けた。
「よう」
 工藤は反対側の壁に背をつけながら、片手を挙げてそう言った。
 おれが何も言わないでいると、工藤はおれの脇の傷を指差し、「大丈夫か、その傷」と言った。
「なんとかな」
「消毒とかしないでいいのか」
「こっちの世界のものを自分の身体に使うと、元の世界に帰れなくなるかも、って西川原がちょっと言ってたからな。まあ、元の世界に戻れる保証なんてないし、なんならもう手遅れかもしれないけど」
「手遅れってなんだよ」
「もうやられてんの、佳恵って人に」おれは頬の傷を指さした。
「そうか」と工藤は言った。「じゃあ、この新築一軒家はお前のものだな。嫁さんでも迷い込んでくるのを待つか?」
 そう言うので、二人で少し笑った。なぜかはわからないが、工藤といると深刻な事態がちっとも深刻に感じなかった。
「押入れの中で何やってたんだ、お前は」と聞くと、工藤は立ち上がり、カーテンをさらに開け放った。「さあな。寝てただけだよ」
「その前は?」
「最初から話したほうがいいか?」
「ああ」
 工藤から手短に聞いた話をまとめると、以下の通りになる。
 工藤は、おれたちと神社で参拝をすませた後、崖のところにいた子どもを発見した。おれと西川原は目撃していないが、確かに工藤はそんな子どもがいるようなことを言っていた。
 その子はひどく不安定な岩場に立っていた。工藤はその子がずっとこちらを見ているので、きっと助けを呼んでいるのだろうと思い、そばに寄ろうとした。
 そして、崖からその岩場に向かってジャンプすると、その岩場はどこにも存在しなくて、どこまでも下に落ちていった。さすがに、そのときは死を覚悟した。だが、気付くと谷底のようなところに寝ていて、近くにやはりその子どもがいた。近くでみると、四、五歳ぐらいの、男の子だった。子どもとはいえ、言葉が話せないわけはないだろうと、色々話しかけたが、その男の子からの返事はない。ただ、こちらが言っていることはどうやら通じているようで、ときどき、小さく頷いたり、首を横に振ったりした。
 よく見ると、胸のところにバッヂをつけているので、見ると、「あきかわ ゆうじ」という名前がひらがなで書いてあり、裏をめくると、「秋川 裕二」漢字で書いてあった。ともあれ、ここから脱出しなくてはならないので、一緒に行くことにした。
 工藤らがいたのは谷底のようなところだったが、とにかくここから出ることを考えなければならない。あたりは鬱蒼と生い茂った雑草と木々で覆われていて、どこか霧もかかっている。裕二が先導して進んでいったが、どういうわけか道に地蔵が置かれているところがあり、そこから先は進めないようになっている道があった。
 地蔵はおれたちをとおせんぼしているのか? と裕二に聞くと、そうだというように、頷いた。
 邪魔しているのか? と聞くと、首をかしげる。
 もしかして、危ないところに行かせないようにしているのか? と聞くと、首を縦に振る。
 地蔵はおれたちの味方なのか? と聞くと、大きく頷いた。
 工藤は意味はわからなかったが、とりあえず地蔵は自分たちの味方なんだと思い、先に進んでいった。時おり、道が木や岩でふさがっていて、先に進めないところがあったので、裕二を抱きかかえたり、先に行って引っ張り上げたりしながら、先に進んでいった。
 やがて、この家がある開けた場所に出てきた。裕二は、あきらかにここに来ると様子が変わって、家に向かって走り出していった。だが、家の前で止まってしまった。ここが自分の家なのか?  と聞くと、少し間があいて、裕二は頷いた。
 表札を見ると、確かに「秋川」の表札が出ている。じゃあなぜ家に入ろうとしないのだろうかと不思議に思っていると、裕二は家の中を指差した。家には二人の男女がいた。ひょっとして、自分の親ではない人間が家にいるのか? と聞くと、裕二はまた大きく頷いた。
 工藤は状況がわからなかったが、裕二をこのままこの家に入れるのは危険だと判断した。まさかこんなに堂々と家の中でくつろいでいる強盗がいるはずもないが、とりあえず自分が先に入って、話を聞いたほうがよさそうだ。工藤は裕二を家の影に隠し、いざとなれば近くの川の岩場に隠れるように指示して、秋川の家のインターホンを押した。
 突然やってきた工藤に対し、秋川の家に居た住人(つまり、おれが会っている秋川と佳恵)はごく自然に応対してくれた。そこで、工藤はおれと西川原のことを話した。出された紅茶には睡眠薬が入っていて、工藤は気を失った。
 だいぶ駆け足で、あらましを聞くと、おそらく、この家にあった玩具や子ども用の絵本などは、その「裕二」という子どものものなんだろう、とおれは思った。
「その子がどこに行ったのか、探さなくていいのか?」おれが聞くと、「もちろん、探すさ。でも、あれからどれだけ時間が経ってるのかわからんが、どこにいるのか……」と工藤は言った。
「お前が言ったとおり、川のほうにいるのかもしれない。探してみるか」
 工藤は頷いて立ち上がり、部屋を出て行った。おれもその後を追って部屋を出る。見たところ、工藤はどこも外傷は負っていないようだ。
「気をつけろよ、佳恵さんが、どこにいるかもわからないんだから……」
「あの投げナイフの達人な」
「家の中にはいないと思うけど」
 二人でリビングまできたが、もぬけの空だった。西川原の姿も見えない。
 玄関から外に出ると、秋川は縛られたまま、気絶していた。紐は、さっきおれたちを縛っていた、荷造り用のビニール紐だ。西川原がやったのだろう。手伝うべきだったと思ったが、ここまで手際よくやられていたら、そもそもおれの出る幕はなかっただろう。
「この人が秋川さんか。本当に良かったのか、これで」工藤は言った。
「何が?」
「これ、傷害罪とかに問われないの? 殺人未遂とか」
「やってることは殺人未遂どころじゃないけどな。だけど、先に手を出したのは向こうだからな」
 おれは自分の脇の血をあらためて見せた。白いシャツは汚れと血で元の色がなんだったのかわからないほど変色している。工藤はそれを見て、露骨に顔をしかめた。
「おい、見ろ、やばいぞ、これ」工藤が秋川を指差した。秋川の顔が崩れ、まるで腐った果物のようにひしゃげている。みるみるうちに腕が黒ずみ、地面に落ちた。身体全体が液体化しているのだ。おれと工藤はそれを見て、絶句した。
 じっとみていると、胸の中から、何か光るものが出て来た。携帯のライトのような、青白い、安っぽい光だ。じっと見ていると、それは宙に浮かび、夏の虫のように飛び立っていった。あれが、人魂が生まれる瞬間なのだろうか。見ると、秋川の身体は原型がなくなっていて、ドロドロになった服だけが残されていた。
 これが、この世界での、人間の最後だというのか? おれも最終的には、ああなるのだろうか? 今は混乱して何も考えられなかったが、思っていたよりは、綺麗な死に方だな、とおれは思った。綺麗? あれが? 自分で自分の感想に苦笑する。だが、あのぐらい潔く原型がなくなるのならば、確かに綺麗といえば綺麗だろう。
「西川原は大丈夫なんだろうな?  どこへ行った?」工藤が聞いた。
「さあ、そこらへんにいると思うけど。西川原に限っていえば、まあ、大丈夫だと思う」
「なんで。か弱い女子を一人にして良いってことはないだろ」
「お前はここまでの経緯を知らないだろうけど、おれらよりずっと用心深くて、強いからな、あいつ」
「わかってないのはお前だ」工藤が吐き捨てるように言った。
 おれもさすがに少し心配になって、家の外に出た。相変わらずあたりは静かで、人の気配もろくにないが、そのことが逆におれを不安にさせる。
 工藤と二人で歩きながら川のほうへ向かった。川は学校を流れてる川と同じで、支流のわりに川幅がある。護岸壁はなく、こちら側の岸は岩の目立つ河原になっていて、向こう側には雑木林がある。河原は、おれたちがいま立っている場所からは少し土手を降りていったところにある。
「お前、この川に来たことある?」工藤が言った。
「ん?」とおれは返す。
「おれはある。もっとも、この、わけのわかんない世界に来てから、ということじゃなくて、おれたちの学校のそばを流れてた川だけどな。なんつうか、おれはよく来てたから知ってる。見覚えがある」
「見覚えがある?」
「ああ、このあたりは、現実世界、というか、おれがもともと居た川とほんとに、同じだ。特にこう、川が流れる感じというか、なんというか……」
 工藤がそう言うのなら、そうなのかもしれない。ただ、この川の上を無数に浮遊している人魂は、現実世界ではもちろん見られないはずだ。
「おい、あそこ」
 工藤が川上のほうを指差した。そちらに目を向けると、西川原が大きな岩の上に立っているのが見えた。川の中をじっと見つめている。その視線の先を見ると、川の中に子どもがいるのが見えた。
「あれが、裕二か?」
 そう工藤に話しかけると、「しっ」と工藤は口の前に人差し指を置き、おれを黙らせた。真っ暗な月夜で、そこらじゅうに蛍のように人魂が飛んでいるが、それでも暗く、あたりの地形も、水の流れも、だんだん時間をかけてハッキリと見えるようになってきた。
 西川原が立っている位置より十メートルほど奥、岩の下あたりに、もう一人、人間がいるのが見えた。肩口で綺麗に切り揃えられた髪の女。言うまでもなく、佳恵だった。佳恵は膝まで川に入っている。
 おれと工藤は音を立てずに西川原に近づいた。近くに来ると、西川原はじっとこちらを見て、「静かにして」と囁いた。佳恵は大きな声で川の中にいる裕二に向かって何か話しかけている。裕二はお腹のところまで水に浸かっている。いくら水の流れが穏やかだといっても、あれ以上深いところに行くのは危険だろう。佳恵は何かを話し続けているが、佳恵も動かないし、川の中の裕二も動こうとしない。
「さっきまでは、二人とも、川岸にいたのよ」
 西川原は岩場の影におれたちを引っ張っていき、小声でそう言った。
「あの子は、秋川の子どもだと思う」とおれは言った。「工藤が連れてきたんだ」
 西川原は工藤をみて、軽く頷いた。それが西川原の挨拶のようだった。
「工藤くん、本当に無事だったんだ」
「いや、無事かどうかはよくわからないけど、とりあえずは生きてるみたいだ」
「何してるんだ、あの二人は」おれは岩の向こうにいる、佳恵と裕二のことについて、西川原に尋ねた。
「さあ。川の音でよく聞こえないけれど、さっきは、あの子の名前を呼んでいたみたい。でも、あの子は逃げ続けていて……、川の中に入っちゃったってわけ。あれ以上近づいたら、あの子はさらに逃げて川のもっと深いところに行っちゃうかもしれない。いまは膠着状態ってわけ」西川原はそう説明した。
「まあ、そりゃ姿が変わってれば、わからないよな」おれは言った。
「そういうもの? 姿が変わってても、自分の親だったら気付くと思うけれど」と西川原は言った。
「無茶言うなよ」とおれは返す。
「あたしは、逆だったから。自分の親の姿なのに、まるで別のものが入っているような、そんな感覚になったから……」
 おれは黙った。どちらが正解なのかは、おれにはわからなかった。
「で、どうするんだ? このまま黙って見てるだけか?」工藤が言った。「助けに行かなくていいのか」
「助けに行きたいの?」
「当たり前だろ」
 ちょっと怒った感じで工藤は言った。
「さっき、そこで清水と、見たんだよ」
「何を?」
「秋川さんが、死ぬとこ」
「ほんと?」
 西川原は少し大きめの声で聞き返した。
「そんなことで嘘言うかよ」と工藤は言った。
 そのとき、おれたちの前に黒い影が列になって覆いかぶさった。月明かりが遮断されて、真っ黒な暗闇があたりを包んだ。月に、雲でもかかったのだろうか。おれは振り返り、空を見上げると、背後に大勢の人が並び立っているのが見えた。さっき、おれたちを取り囲んでいた式神たちだろう。これはまた別の連中、ということになるのだろうか。今度はおれと西川原だけでなく、工藤もいるが、おれたちは武器になるようなものは何も持っていない。
「どうする……やばいだろ」
 おれは起き上がった。西川原と目配せする。もう、隠れる意味もない。三人で、岩の影から河原のほうまで駆けた。佳恵が膝まで水に浸かったまま、こちらを見る。
 川の中にいる裕二が、工藤の姿を見ると、そちらに向かってゆっくりと川の中を歩き出した。工藤も川の中に入って行く。やがて工藤は裕二のところに追いつくと、裕二を抱きかかえた。
「裕二!」と佳恵は叫んだ。「なんでその人のところに行くの。お母さんだよ! どうしてわからないの!」
 佳恵は工藤を睨みつけている。その形相は、さっきまでの彼女とは、まるで別人だった。
「あれがお前の母さんだとよ。わかるか?」
 工藤は裕二を川の中に下ろし、両脇を掴んだまま佳恵のほうへと向かせる。裕二はしばらく佳恵を凝視していたが、少し間があって、首を横に振った。おれは工藤のほうへ川の中を歩いていこうとしたが、進もうとするおれの肩を西川原が引っ張った。西川原の目は佳恵から離れない。佳恵は顔を両手で覆い、膝から崩れ落ち、川の中に身の半分以上を浸しているが、次に何をしだすかは全く予想がつかない。
 おれも何が起きてもいいように身構えた。しばらく、誰も動かなかった。おれは周囲を見渡す。さっきまで、岩のあたりでおれたちを取り囲んでいた式神たちが河原まできている。だが、川の中までは入ってこられないようだ。水際で止まっている。紙人間は土手の向こうから続々とやってくる。川の中から見ていると、岸を取り囲む彼らはまるで壁のようだった。
「西川原、どうする」
 西川原は黙っておれを睨んだ。少しは自分で考えろということなのかもしれない。佳恵を、あの式神に引き渡せばいいのだろうか。秋川は、式神たちについて、狙いは自分たちだと言っていた。いや、この状況を客観的にみれば、彼らの狙いはおれたちでもあるのだろう。さっき、秋川の家の前で戦ったときも、彼らは秋川はもとより、おれたちも狙ってきたことから、それは明らかだろう。
 だが、さっきの秋川の最期の姿がおれの脳裏にこびりついていて、その映像を思い出すだけで足が震え、手が思うようにうごかせなくなった。たとえここが現実世界と違う、それこそ、黄泉の入り口であったとしても、人の形をしたものが、まるで腐った果実のように崩れていくさまを目の当たりにすることほど恐ろしいものはない。そしてその未来は、自分たちにもあてはまることだった。
 おれたちだって、立場としては全く同じなのだ、ということを再認識した。このまま放っておけば、彼らと同じように、肉体は朽ち果て、魂だけがこの世界をさまよい続ける。そして、他の人魂たちと同じように、時期がくれば、「あの世」に旅立っていくのだろう。おれはまた、気付くと西川原の手をぎゅっと握りしめていた。西川原の手は冷たい。川の中に入っているのだから、体温が下がって、さらに冷えているのだろう。だが、それでも温もりはある。おれはあまりにもか細く、頼りないそれを、自分の手に感じていた。
「西川原」
 おれは声を低くして言った。
「なに」西川原が口を開く。
「ひとつ提案がある」
「うん」
「佳恵の身体を乗っ取ることができるかもしれない。秋川が使っていた方法で」
「……あたしに、死ねってこと?」
 西川原は胡乱げな表情で睨みつけてくる。
「え?」
「だって、秋川さん、死んだんでしょ」
「いや、あれは……」
「あたしも具体的にどうすればこの世界で生き延びられるのかは知らない……。でも、あの秋川さんの行動はつまり、この世界で身体を交換するということなのよね。自分の血を相手に飲ませて、相手と同化する。それって、つまり、今のあたしに死ね、って言ってるのと同じことよ……。いまのあたしの身体を捨てて、あの佳恵さんと同化しろってこと……」
 おれは何も反論できなかった。
「それに……あなたの提案は、致命的な部分がもうひとつ。あの佳恵さんの肉体は、もう寿命っていうのかしら、とにかく、持ち時間が短いわけよね。ということは、あたしと交換するメリットはあまりないわ……」
「わかった、わかった。おれが間違ってた。ごめんなさい」
 西川原は握っていた手を離した。
「あたしのことを考えてくれていたのよね。ありがとう。でも、大丈夫だから」
「何が?」
「どんなことがあっても、あたしだけ先に帰ったりしない。さっき、自分一人だけで元の世界に戻ろうとして、清水くんを置いていこうとしたけれど、そうならなくて本当によかった。そんなことしていたら、これからの人生、ずっと後悔しそうだから。それは、死ぬよりつらいわ。何があっても、あたし、あなたたちと一緒にいる」
「何言ってんだよ」とおれは言った。帰るときは、三人一緒だ、とおれは強く思った。そのとき、佳恵が上体を起こした。そして、工藤と裕二のほうに向かって、少しずつ川の中を歩いていく。
「裕二……本当に……あたしが誰かわからないのね……」
 それを聞いた裕二はいやいやをするように身をよじり、工藤はそれに気付いて川の中に裕二を下ろした。川の水は裕二の胸のあたりまであった。
「……にせものだ……」
 裕二が口を開いた。口がきけたのか、とおれは思った。工藤の話でも、口はきかないということだったが、本当はしゃべれたのだろうか。
「……おかあさんは……そんな顔じゃない……」
「違うの、裕二、あなたを探して、私たち、いろんなひとの姿を借りてるの。この姿は、借りものなの。本当は、あなたの母さんなのよ」
 工藤は裕二の顔を覗きこみながら、「そうなのか?」と聞いた。裕二はぶんぶんと首を振る。「違うみたいだぞ」と工藤は言う。
 佳恵は構わずに裕二のほうへと川の中を進んでいく。
「工藤、逃げろ!」
 おれは叫んだ。あるいは、何が起きてでも佳恵を押さえつけるべきだろうか。おれが迷っていると、西川原が動いた。まっすぐに佳恵に向かって走っていき、やがて追いついた。西川原の動きが素早いので、佳恵は驚いて振り向く。振り向いたときに、隠し持っていたナイフを西川原に向かって振るったが、彼女はそれをかわし、逆に佳恵の手首を掴んだ。
「西川原!」
 おれは叫びながら西川原に追いつく。そして、佳恵の手からナイフを取り上げた。西川原はそれでも佳恵の手を離さず、腕を締め上げていく。佳恵は必死になって抵抗しているが、おれもようやく追いつき、加勢することができた。
「もう離して。もういいから」
 佳恵は叫んだ。西川原は佳恵の腕を極めたまま、彼女の見下ろして低い声で言った。「あなたが死のうがどうなろうが、あたしにはどうでもいい。ただ、話して。あたしの父のこと。そして、ここにいたらどうなるのか、っていうこと」
「あなたのお父さんのことなんて、何も知らないわよ。あなたたちと同じように、ある日突然ここにやってきた。で、ろくに話もしないまま、あたしたちが制止するのもきかず、家を出て行ったわ。そのあとどうなったのかはわからない。ただ、この世界からもとの世界に戻ることはできないんだから、きっと、今頃はもう、魂になってそのへんを彷徨っているはず。もしくは、もうとっくに『あの世』に行っちゃってるかも。その後どうなったかなんて、あたしにはわからないわ」
「本当に、それだけ?」
「あたしたちが知ってるのは、それだけ。そんなことでつまらない嘘なんて言うわけないでしょ」
 佳恵は激しく身をよじるが、おれがそれを押さえつける。だが、かなり力が強く、おれも、西川原も全身ずぶ濡れだった。このままだと、全員で川に流されていってしまうかもしれない。
「裕二!」と佳恵は叫んだ。「はやく、その人から離れて! 逃げなさい! 逃げて! お願い!」
 川に流されないように、工藤に肩を掴まれている裕二は、目を丸くして佳恵をほうを凝視している。佳恵は、逃げなさい、と半狂乱になりながら絶叫し続けている。
「お母さん?」
 裕二がそう言うのはおれの耳には届かなかったが、彼の口がその形に動くのを目の端で捉えた。
 佳恵はとうとう、おれと西川原を振り切って、工藤に向かって突進していった。工藤は裕二を抱きかかえて、反対側に向かって逃げた。裕二が激しくもがくのが見えた。
「お母さん!」
 裕二がそう叫ぶのをおれは聞いた。裕二は工藤の手を離れて、水の中に入る。佳恵は叫ぶことで最後の力を使い果たしたのか、水の中に崩れ落ちた。おれと西川原はすぐに追いつく。おれは佳恵の肩を掴んだ。
 そのとき、肩の骨にあたる部分が、妙に柔らかい、まるで水の入ったゴム風船のような感触だったことに驚いた。右手で掴んだ場所が指の形にへこみ、その形のまま元に戻らない。ゴム風船のようだと思ったが、そんなふうに可塑性があるのは、粘土のようだ、とも思った。佳恵の肩を掴んだおれの表情をみて、西川原は何かを察したようだった。
 やがて川底に手をついた佳恵は前のめりになって水の中へと沈んだ。あわてておれは引っ張ろうとしたが、もう遅かった。佳恵の肉体は崩れ始めていた。川の流れは緩やかだが、一度崩れた人間を流すのは容易い。佳恵の肉体はさきほど見た秋川と同じように肉塊となって崩れ去った。
 佳恵の肉体は水の中に溶け、バラバラになっていく。秋川が液体化したように、彼女の肉体も人としての形を保てなくなっている。次第に、川の中が黒ずみ、佳恵の原型はどこにもなくなった。おれと西川原は互いの顔を呆然と見つめていた。
 ふと川岸に目をやると、並び立つ式神の中から、一人の男が川の中へと入ってくるのが見えた。式神は川の中へは入って来れないんじゃなかったのか、とおれは思ったが、どうすることもできなかった。その式神は、長身で、グレーのスーツを着た三十絡みの男だった。裕二がそちらを振り向き、「お父さん」と言った。式神は何も言わず、ただ裕二を見下ろしている。おれは水の下に沈んでいる式神の足元を見ると、ゆっくりと足元から溶けていっているのが見えた。
 裕二はその式神のほうへと近づく。式神の下半身はみるみるうちに溶けて、やがて全身が水に浸かった。そして、すぐにバラバラになって、水の中に流れていった。あとには裕二と、おれたちだけが残された。工藤が水の中を音を立てながら走ってきて、裕二に近づき、抱き上げた。
「大丈夫か?」
「お父さんとお母さんが、消えた」
「うん、ずっとお前を探していたんだ」
 裕二はこくりと頷いた。急に裕二がぐったりとしたので、工藤があわてて抱き直した。裕二は工藤の腕の中でもがき、水の中に下ろして、と言った。工藤は言われたとおり、水の中に裕二を下ろす。
「立てるか?」
 工藤が裕二に話しかけるが、裕二は何も答えない。しばらく沈黙したのち、川下に向かって指差した。
「あっちに、お父さんとお母さんが、流れていったのかな」
 工藤も川下を見る。おれと西川原は、ゆっくりと歩いて裕二に近づいた。
「おねえさんたち、誰」
 西川原は戸惑ったような表情を見せ、少しだけ笑おうとしたようだったが、引きつった顔のまま、唇の端を少し歪めただけだった。おれも笑おうとして失敗した。お前たちの両親を殺した張本人だなんて、言えるわけがない。
「このお兄さんの、友達だよ」西川原は、やっとのことで、そう囁いた。
「なんで、さっき、あれが自分の母さんだって、わかったんだ?」
 工藤が裕二に訊いた。
「だって、逃げなさいって。逃げなさいって叫んでた、から」
「それでわかったのか?」
「うん、だって、それ、お母さんが……最後に言ってた言葉だから……」
 工藤は黙った。おれたちも何も言わなかった。
「おい、どこ行くんだ」
 工藤が慌てて止めかけると、「うん、だって、もう行かないと」と裕二は言った。
「行くって、どこへ」
「お母さんのところ」
 裕二はそう言った。次の瞬間、裕二の身体が次第に黒くなり、やがて動かなくなった。横を見ると、西川原が泣いていた。おれの視界も、いつのまにか溢れていた涙で歪んでいた。工藤は腕で顔を覆って、号泣していた。裕二の身体も、秋川や佳恵と同じように、黒ずんだあと、次第にボロボロとかけらに別れていき、最後はドロドロになって、川の中の染みとなって流れていった。あとには何もなくなった。おれたちはしばらく、自分たちが泣き止むのを待った。
「これで、終わったんだよな」とおれは言った。
「何が?」と西川原が言う。「特に何も、解決していないと思うけど」式神のほうを振り向いていった。
「水の中には入って来れないんだろ」とおれが言うと、馬鹿にしたように西川原は言った。
「じゃあ、一生、水の中にいるつもり?」


   十二


 結局、三人で歩いて川の中を移動し、中州にある岩場に登った。もちろん靴の中は完全にぐしょぐしょだし、服もシャツの上半分を除いてはすべて水に浸かっていたのでびしょ濡れだった。それは西川原も同じで、岩場に登ると、おれたちの見えないところでスカートの裾を絞っていた。
 全身がずぶ濡れだったが、不思議と寒くはなかった。ここの気温は、元いた世界とだいたい同じで、まだ夏の暑さを残している。
「どうするんだろうな、あいつら」
 おれと工藤は並んで岩に腰掛けながら、川辺に立っている式神を見つめた。水の中には入って来れないので、さきほどと同じように並んで突っ立っている。
「あ、ホラ、少しずつだけど、倒れていってるよ」
 いつのまにかおれたちの隣に来ていた西川原が川岸を指差しながら言った。見ると、ただ黙って突っ立っている式神たちの一部が、少しずつ倒れ、ただの白い紙切れへと変わって行く。その紙切れの中から、様々な色をした人魂が飛び出した。紙から抜け出した人魂は、ふたたび空中を虫のように浮遊し、川の水面へとおどり出る。
「たとえ紙とはいえ、質量があると飛べないんだな」工藤がしみじみと言った。
「なんだよ、それ」おれは思わず笑った。こんなところでする話だろうか。
「言葉の通りだよ。ただ、納得しただけだ」工藤は口を尖らせる。
 西川原はそんなおれたちのやり取りを無視して、じっと式神たちを眺めていた。どれぐらいそうしていただろうか。気付くと、川の対岸にいた式神たちは全員が抜け殻のようになり、対岸の地面に転がっていた。
「秋川さんたちも、こうしていればあいつらの襲撃をかわせたんじゃないのかな」とおれは言った。
「ずっとこんなところにいるわけにもいかないだろ、いくらなんでも。あと、式神たちは無限に湧いてくるんじゃないのか」
「無限には湧いてこないだろ。ここにいる魂にだって限界はあるわけで」
 そんなことを話していると、式神から離れた人魂たちは次々に浮遊して、こちらに向かってきた。あっという間におれたちは取り囲まれる。
「やばいんじゃないの、これ」
 工藤が言ったが、西川原は「じっとして。別に、騒がなければどうってことないわ。だって、あんな式神たちを使うってことは、この人魂単体では何もできない、ってことだと思うから」
 人魂たちはおれたちを中州ごと取り囲んでいたが、確かに、近づいてくるだけで何をするわけでもない。だが、この人魂それぞれは元々は人間で、まさにそれが先ほどまで目にしていた紙に乗り移った人魂なのだが、もちろん顔は全く見えないがもともとの人間だったときの表情が透けて見えるような気がした。ただの虫とは全然違う。まるで、自分の魂、自分の内側まで覗かれているような、そんな居心地の悪さ、気持ちの悪さを感じた。
「気にしないのが一番だな。おれはもう目をつぶる」
 工藤はそう言って、目を閉じた。おれもそれにならって、目を閉じる。視界が暗くなり、何も見えなくなった。川の流れる音が断続的に耳に届いて、心地良い。
 いつのまにか、おれと、工藤と、西川原は、三人で寄り添って、短い眠りについていた。意識のスイッチを不意に切られたような、唐突な眠りだった。
「おい、水量が増えてるぞ」
 工藤の声で目が覚めた。気付くと、中州の岩場がさっきよりもだいぶ小さくなっている。おれたちは立ち上がった。川の流れはさっきよりも強くなっている。
「向こう岸まで、渡るしかないよな」
「渡ってどうする?」
「戻るしかないだろ、秋川さんの家まで」
 おれはそう言い、真っ先に川に飛び込んだ。先ほどまでは膝上ぐらいまでしかなかった水量はいつの間にか増えて、腰の上ぐらいまであった。また、水の温度がさっきよりも明らかに冷たい。服が乾いて、熱を奪った身体にはかなり堪える寒さだった。
 おれはバシャバシャと音を立てながら川岸へと向かった。続いて、工藤、西川原が川をわたる音が聞こえた。
 おれたちが元々いた川岸につくと、あたりは式神たちの残骸が積み重なっていた。本当にただの紙にしか見えない。おれたちはそれらを踏みつけ、土手を登っていった。
 土手を登ると、すぐそこのところに秋川の家があるはずだった。土手を登ったところには、茫漠とした平地が広がっているだけで、そこには家など影も形もなかった。まるで、はじめからそこに何もなかったかのようだった。工藤が驚きの声を上げたが、おれと西川原は無言で秋川の家があった辺りに立っていた。
 なぜ家がなくなったのかはわからないが、これが、自然な形なのだろう。おそらくだが、秋川と佳恵が死んだことで、あの家はなくなったのだ。あるいは、あの家自体が幻のようなものだったのかもしれない。
「幻覚、だったのか、全部?」
 工藤が言った。西川原は首を振って、「もし、あの秋川さんがあの崖崩れで亡くなった家族の亡霊なんだとしたら、きっとあの家は、家の亡霊、だったのかもね」
「なんだそれ、聞いたこともないぞ」
「家の亡霊というか、地形がまるごと変わった感じだな」
 おれは家のあった場所に立ちながら言った。家から見えていた風景と、いま見える風景は、地形が少し違っていた。
「おれたちが来た道は、ここからだとそのままいけそうだな」とおれは言った。秋川の家があったときは、山に繋がる道は崖のようなところを登らなければ着かないようだったが、今は山に繋がる道が地続きになっている。
「どうする?」と西川原が言った。
「何が?」とおれは聞き返す。
「また、さっき帰ろうとするときに行った、あの坂を登ってみる? さんざん試して、全部ダメだったけど。今度は工藤くんもいるわけだし、やってみる?」
 おれは首を振った。
「あの坂は、元の世界には繋がってないんだろ? 秋川さんが言うには」
「状況が変わったわけだから、試す価値はあると思う」
「いずれにしても、帰れるとしたら、西川原、お前一人かもしれないぞ」
 西川原は黙って、おれを睨んだ。
「そうね、わかった。じゃあ、この話はもう、おしまい」
 そう言って、目の前で手をひらひらと振った。今度はおれが西川原を睨む。
「なんで行こうとしないんだよ」
「もう説明したでしょ」
「いいや、納得はしてない」
「なんであなたを納得させる必要があるの?」
 おれたちは黙った。完全な沈黙だった。おそらく、ほんの数分だったとは思うが、永遠の沈黙に感じた。
「完全な、八方塞がりだな」とおれは呟いた。「どうする? って、もう、どうしようもないな。このまま全員で、死ぬのを待つか」
 おれはその場に座り込んだ。もう一歩も歩きたくはなかった。それに、おれの中で深刻な問題が起こっていた。佳恵のナイフの傷が、おそろしく痛むのだ。じっとしていても痛いが、歩くと脳の芯にまで響くような激痛が走る。傷を受けてからなんの手当もしていないのだから当然だろう。流血だけで死ぬようなことはないはずだが、それにしても、これまで経験したことのない、重くて、それでいて鋭い痛みだ。痛みというよりも、焼け付くような熱さを感じた。
 工藤はポケットに手を突っ込んだまま、彼方を眺めている。西川原は手をお腹の前で組んでうつむき、何かを真剣に考え込んでいた。辺りには人工的な明かりがなく、満天の星空で、完璧な夜空だった。こんなシチュエーションじゃなかったなら、きっと最高の夜になっただろう。
 気を抜いていると意識が飛びそうになる。おれはその満天の星空を眺めることで、かろうじて自我を保っているような、ギリギリの状態だった。猛烈に水が飲みたくなった。そういえば、不思議なことがおれたちを襲ってからそれなりの時間と距離を歩いているが、おれはまだ一滴も水を飲んでいない。さっき、川の中に入った時にもしかしたらはずみでいくらか飲んでしまったかもしれないが、喉の渇きは本物だった。
 秋川はおれたちに本当のことを話していたわけではない。秋川たちが出した紅茶に仕掛けがしてあったのは別の意図があったにしても、この世界でものを食べたり飲んだりしても良い、ということにはならない。
「西川原」とおれは掠れた声で言う。「水が飲みたいんだけど」
 西川原は黙っている。そして、少し間があって、ゆっくりとこちらを向いた。おれは自分がそう言ってから、なんで西川原に許可を求めるようなことをしたんだろう、と思った。どうせおれは、元の世界に戻ることなどできないのだから、好きなだけ水を飲めばいいのだ。
「神社に、戻ってみましょうか」西川原は言った。「元来た道を通って、神社に戻ってみましょう。帰る糸口が見つかるかもしれない」
 おれは自分たちを取り囲んでいた地蔵のことを思い出した。またあんなものがいるところへ戻るなんて、正気の沙汰ではない。しかし、工藤が、裕二は地蔵は敵ではないと言っていたことを思い出す。しかし、肝心の裕二も、もういない。おれは立ち上がろうとしたが、頭がフラフラで、もう立ち上がることもできなかった。無理に立ち上がろうとしても、立ち上がることができない。
「歩けないの?」と西川原が言った。おれは意識も朦朧としてきて、何も答えられない。工藤に肩を借りて、やっとのことで立ち上がった。もう一歩も歩きたくはなかったが、西川原が神社に戻りたいと言った以上、それについていくしかなかった。ここで一人きりになれるほど、おれは強くはなかった。
「いい、ここから自分で歩く」
 工藤に肩を借りながら歩いていたが、しばらく歩くとおれは自分の力で歩き始めた。足を動かすたびに激痛が走り、傷口は熱を帯びてまるで火傷をしたみたいになっているが、途中からおれは覚悟を決めた。痛みも、熱も、すべてを受け入れることにしたのだ。どんな痛みでも、覚悟を決めて、それを受け入れると決めれば、痛みを少しだけ客観的に捉えることができるようになる。
 おれは意識的に思考のスイッチを切り、前に進むことだけに意識を集中させた。途中、崖のようになっているところを登るときだけ、工藤に手を貸してもらった。西川原は何かを求めるように、大股で歩いている。おれがついていくのに精一杯だということに気付いていないのだろうか。
 月夜に目が慣れてきているので、頭上に木々がかかっていても隙間から星空が覗き、その上をかぶせるように青白い月明かりが地面を優しく包み込んでいた。不意に、前を歩いていた西川原が止まった。おれたちの目の前には、巨大な壁があった。道が途中で終わっている。
 月明かりに浮かび上がったその壁は、よく見ると巨大な岩だった。あまりにも大きいので近くからだと壁にしか見えないが、確かに岩だった。地面を見ると、地割れのような亀裂や凹凸があり、これがどこか別の場所からここに落ちてきたものだと感じさせる痕跡があった。
 ここはもともとはただの道で、ここにこの巨大な岩が崖の上から、隕石のように落ちてきたのだろうか。おれは岩に近づき、触れてみた。氷を触っているように冷たい。
「この道も、ふさがってるんだな」とおれは言った。岩を見た瞬間は忘れていた痛みがふたたび津波のように襲いかかってくる。もはや脇のあかりには感覚がなくなっていて、痛みの信号は頭の中だけで発生しているようだった。ほとんどその痛みは頭痛に近かった。
 おれは立っていられなくなり、岩を背にしてその場に座り込んだ。二人の顔を見上げたが、どういう表情かはよくわからなかった。絶望しているようにも見えるし、ただ呆然としているだけのようにも見える。考える気力が湧かなくなってきた、というのが正直なところだろう。おれはふたりの後ろに人影を感じ、目を見開いた。西川原が俊敏に反応し、後ろを振り向く。工藤もつられて振り向いた。おれたちが歩いてきた道のすぐ脇は崖になっているが、その淵のところに人が立っていた。
「地蔵だ」と工藤は言った。よく目をこらすと、その人影は確かに地蔵のようだった。工藤は歩いていって、その地蔵に近づき、頭を撫でる。その地蔵はさっきまではなかったのかどうかはわからないが、とにかく、おれたちが神社で見たものと同じようだった。
「この、表面がざらざらしているところとか、この岩に似てるよな」
 おれは自分の背にある岩を撫でながら言った。西川原は地蔵のほうをちらっと見てから、岩に触れた。はじめはそっと指で触れただけだったが、触った瞬間、顔色が変わった。
「西川原?」
 おれが名前を呼ぶと、おれのほうを見たが、呼吸が荒くなっていた。再び西川原は岩と向き合い、今度は手のひら全体で岩に触れた。次の瞬間、西川原は大声で叫び出し、後ずさって、尻餅をついた。工藤が駆け寄ってきて、西川原を身体を支える。
「どうしたんだよ。おい、汗びっしょりだぞ」西川原の身体を支えながら、工藤が言った。西川原は呼吸が乱れて、まともに話もできない。おれも西川原の行動があまりにも異様なので立ち上がり、近寄った。彼女はしばらく動けないようだったので、そっと地面に座らせる。西川原の呼吸が落ち着くまでにはしばらくかかった。
「ごめん、驚かせた……」と彼女はやっとのことで言い、額の汗を拭った。
「いや、別にいいけど……。どうしたんだ……?」
「……お地蔵様はそこにいるの?」
 西川原は岩の方をじっと見つめたまま言う。おれと工藤は崖のところに立っている地蔵を見た。さっきまでは二体しかなかったのが、数が変わっていて、そこに六体ほどがいたが、すでにそんなことはあまり気にならなくなっていた。
「いるよ。それがどうかしたのか?」
 おれが聞くと、なんでもない、と西川原は言った。おれと工藤は状況が全くわからず、顔を見合わせる。そして、体育座りをして俯いている西川原が何かを言うのを待った。
「よくわからない、よくわからないけれど……」西川原は話し始めた。「ここでひどいことが起きていたのは確か、だと思う。たぶん、すごく昔のことだと思うんだけれど、岩に触れた瞬間、映像として、この土地で何が起きたのかが、私の中に流れ込んできたの」
「でも、西川原が岩に触っていたのって、ほんの一瞬だったぞ」
「私の感覚では、三十分ぐらいは『向こう』に行っていた気がする」
「『向こう』……?」
「……ここではない、どこか。でも、地理的には、確かに、ここだと思う。全然雰囲気が、違う、ところ」
「どんな感じだった?」
「地獄。地獄よ。そうとしか言えない……」
「地獄……?」
「この土地で死んだ人たちだと思う。さっきまで見ていた式神みたいに、並んで、ずっとこっちを見てるの。でも、式神よりもっとリアルで、もっとみんな恐ろしい状態で……。現代人みたいな人もいたけれど、もっともっと古い時代の人もいた。たぶん、江戸時代、いや、もっと古い時代みたいな人たちも。みんな、一斉に列にならんで、こっちを見ているの」
 西川原はそう言うと、口元を抑えて、道端に少し吐いた。工藤はポケットからハンカチを取り出して西川原に渡し、おれはそっと背中をさすってやった。
「大丈夫、大丈夫だから。少なくともここには、おれたちふたりがいる」
 西川原は小さく頷いた。
「こっちを見てる亡霊の中に、秋川さんもいたの」
「秋川って、おれたちが会った、あっちの秋川か?」
「両方。さっき、式神の姿でも見た、あの秋川さんもいたわ。隣に女の人がいたから、きっと佳恵さんなんだと思う。そして、裕二くんも、もちろん」
 そう言って、西川原は泣き始めた。
「大丈夫だから、なあ、西川原」
「違うの……父もいたのよ。その中に。やっぱり死んだんだわ、父は、ここで……」
「西川原、落ち着け。いまは何も話さなくていい。とにかくゆっくり休んで……」
 西川原は顔を覆うこともせず、声をあげて泣き始めた。顔を上に向け、怖いものをみたばかりの子どものように、声をあげて咽び泣いていた。おれと工藤は、そばに立っていることしかできなかった。
「大丈夫か、西川原」
 やっと泣き止んだ西川原におれは静かに声をかけた。西川原はしゃっくりで肩を震わせながら、またひとつ頷いた。
「怖かったし、ここに戻ってこれたことで安心はしたけれど……。でも、ここに居たって、何も解決しないのに、ね。さすがに、もう混乱して、わけがわからなくなりそう」
「ここを離れたほうがいいのか?」と工藤は言った。西川原は首を振る。「どうせここから先には行けないんだから、結局、同じことだと思う」
「どういうこと?」
「この岩はね、ご神体なの。この山のご神体。いままで、有史以来、あらゆる人がこの近辺で、いろんな災害で亡くなって、そのときの記憶をこの岩が持ってるの。亡くなった人の思念というか、メッセージが、この岩の中に蓄積されてるのよ。この山に来てから見えたり見えなくなったりしてるお地蔵様は、この岩の思念が形になったものなのかも……」
「おれが触っても、なんともないのにな。ただの岩にしか見えないけど……」
 触るどころか、さっきまで背中を岩につけていたのだ。おれはおそるおそる岩に触ってみたが、やはり何もない。ただ、冷たさを感じるだけだ。とてもじゃないが、西川原の話をもってしても、この岩の中に、そんな死者の怨念などは感じられなかった。
 西川原の顔を見ると、目の焦点が合っていない。首がすわっておらず、ゆらゆらと揺れている。そこから返答がなくなり、西川原はその場に倒れた。
「西川原!」
 そばにいた工藤が西川原の身体に触れたが、びくんと大きく身を震わせたきり、動かなくなった。気絶したのかもしれない。
「どうしよう、清水」
 工藤が泣きそうな顔でおれのほうを向く。まずいことに、おれ自身も意識が飛びそうなぐらい、傷の痛みが深刻になっていた。もう痛みが痛みとして感じられず、ただ意識が途切れそうになるぐらいの熱さを全身に感じるだけだった。
「悪い、工藤、おれ、もう限界だ」おれは呻くように言った。
「何言ってんだ?」
「悪い、もうやばいかもしんない。本当に、もう」
「しっかりしろ!」
 工藤は必死の形相でおれのそばに寄るが、それでも何も解決するわけではない。
「川まで歩けるか? 川まで行って、そこから何か考えよう」
「川まで行って、どうなるんだよ。どうせ元の世界には戻れないんだろ? もう、終わりなんだよ。ここが終着点だ」
「じゃあ、秋川さんみたいに、おれたちの次にやってきた人を乗っ取って、この世界でずっと生き続ければいい。あの人たちができたんだから、おれたちだって……」
「もういいよ、工藤」おれは息も切れ切れに、工藤に向かって言った。「そこまでして、生きたいとはおれは思えない。そうやって生きたところで、なんになるんだ? そもそも、ここに来た時点で、もう死んでるようなものなんだろ?」
「西川原は、どうするんだ!」
 工藤は叫んだ。
「西川原を助けるためにも、川に行かなきゃいけないだろ!」
 おれは傷口を抑えて、少しだけ笑った。くくく、と少しだけ声が漏れた。工藤は必死の形相で、泣きながらおれを睨みつけている。
「メチャクチャな論理だな……。わかったよ、死ぬ気で川まで行く」


    十三


 工藤にはそう言ったものの、川まで歩いてくのは本当に苦行だった。途中で何度も意識が飛びかけたが、なんとか持ちこたえた。西川原は気絶したまま目を覚まさない。工藤は西川原は背負っていて、さらにおれは工藤に寄りかかるようにして歩いていたから、相当な負担がかかっていたはずだった。
 だが、おれたちにはもう何も選択肢は残されていなかった。あとは、どこで死ぬかを選ぶぐらいしかない。おれは、薄れゆく意識の中で、死ぬなら山の中より、綺麗な川のほうがいいな、ということをぼんやりと考えていた。
 到底行けるわけがないと思っていたが、なんとか川にたどり着くことができた。信じられなかった。おれは川の水面にキラキラと反射している月明かりや、満点の星空、それに空中を浮遊する人魂たちを見ながら、人間の生命力というのは自分が限界だと思い込んでいるところよりもさらに遠くに行けるものなのかもしれないな、ということをぼんやりと考えていた。
 工藤は西川原を川べりの平らな石の上に寝かせ、手で水を汲んでくると口の中に含ませた。西川原が目を覚ましたのかどうかは、おれのところからは角度的に見えなかった。
 おれは痛みがどうこうというより、身体が炎で炙られているように熱く、身体を水の中にそのまま入れたかった。だが、いまの体力のままでは、そのまま川に流されていってしまうだろう。
 やがて工藤はおれのほうに寄って来て、水を飲むのを手伝ってくれた。信じがたいことだが、水を少し飲むと、身体全体に力がみなぎるのを感じた。
 おれはその場に倒れこみそうなぐらい疲弊していたが、岩の上に座れるぐらい、体力が回復していた。おれは顔も洗い、身体に溜まっていた熱をさました。落ち着くと、少し余裕をもってあたりを見渡すことができるようになった。
 振り向くと、西川原も起き上がっていた。黙って月を見上げている。
「起きたのか、西川原」
「ええ、もう大丈夫。心配かけて、ごめん」
 おれは何を言おうか、迷った。あの岩に触れて何が見えたのかをこちらから訊くことはできないし、かといって元の世界に戻るための有効な手段をおれたちは持っていない。現状は、川にたどり着いたことで、つかの間の安心感を手に入れることができただけだった。
 おれと工藤は西川原から目をそらし、何かを話すのをじっと待った。
「ごめん。あたしが見たこと、聞きたいよね。手がかりは、いま、それしかないものね」
 西川原は靴を脱いで、石の縁に腰掛けた。そして、素足を水の中に入れる。そして、小さい声で、気持ちいい、と言った。おれと工藤も西川原の近くの石の上に腰掛けた。
「清水くん、怪我は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」おれは嘘をついた。だが、他に説明できる言葉もなかった。
「さっき、私が見たものは、言葉では表現できないと思う。例えるなら、夢みたいなものだから。たぶんだけど、何百年、何千年っていうレベルの情報が、一気に私の中に流れ込んできたから。ああ、いま思い出しても怖い。トラウマになりそう」
 そう言って、足をバシャバシャとバタつかせた。だが、言葉とは裏腹に、さっきよりは気分は落ち着いているように見えた。確かに、何百年、何千年といった情報が自分の中に流れ込んでくるという状況は想像ができない。そもそも、それは映像なのだろうか。それとも、声のようなものなのだろうか。
「そうね、映像のようとも言えるし、声みたいだとも言える。人間の思考そのものと言ったほうがいいかも。あ、なんかいま、うまい表現が思いついたような……。そうだ、『感情』だ。あらゆる人の感情が、一緒くたになって、まとめてひとつになって、私の中に飛び込んでくるような感じ」
「西川原。思い出したくないんなら、無理しなくてもいい。別に、時間はいくらでもあるんだから」おれは言った。
「そうかな? 私は、もう案外、残された時間はそう多くはないんじゃないかな、って思ってる。この世界に来てから、私たち、ずいぶん動いてるし、相当体力を消耗してるよ。もう、なんだかんだいって、限界が近いんだよ、私たち」
「じゃあ、そんなに興奮するなよ。ゆっくり話してもらえたら、それでいいから」
「清水くん、そのシャツ、脱いでみて」
「え?」
「いいから」
 西川原は有無を言わさない口調でおれにそう告げた。じっとおれの目をみて、そらさない。工藤も黙っておれのほうを見ていた。おれは二人の前で服を脱ぐのは少しためらったが、時間をかけてシャツを脱いだ。
 おれは自分の脇を見て、言葉を失った。てっきり血で染まっているものだと思っていた自分の身体は、墨で塗ったように真っ黒になっていた。脇の部分だけでなく、おれの胸や腹、そして腕のところまで、墨を塗ったように真っ黒な痣が伸びていた。
 そして、おれは自分の脇の部分を見て目を疑った。自分の脇のところが、拳ひとつ分ほど、えぐれて、無くなっていたのだ。そこにぽっかりと、半円が空いている。川に来たぐらいのときから痛みが引いているような感じはしていたが、まさか自分の身体が欠けているとは想像していなかった。
「それでも、時間はたっぷりあるって言える?」
「これ、もしかしたら、秋川や佳恵の身体と……」
「たぶんね、ここにいる限り、もう元には戻らない。でも、まだ私たちはこの世界に来たばかりだから、体力はそこまで消費していない。だから、清水くんの身体は、全体としてはまだ形を保っているんだと思う。もうちょっと時間が経っていたら、ひょっとしたらもうとっくにバラバラになっていたかも」
 西川原は淡々とそう説明した。まるで、がんの告知をする医師のようだとおれは思った。
「怖い?」と西川原は言った。
 おれはその言葉を聞いた瞬間、ハンマーで頭を殴られたように視界がぐらついた。何かをしゃべろうと口を動かすが、まるで言葉にならない。まるで言葉にならない空気の振動が、電波の悪いラジオ番組のように、荒い音質としておれの耳に届いた。川の流れる水の音が、妙に大きな音としておれを包み込んでいた。
「西川原、何か、この状況をなんとかする方法を見てきたんだろ?」
 横から工藤が割り込んできて、西川原に言った。西川原は首を振る。「思えば、秋川さんも、合理的な行動を取った結果、ああいう生き方を選択したのかもね。だって、ここにいたら、もうできることなんて何もないもの。私と工藤くんも、たぶん時間の問題」
「じゃあ、このまま、ただ死ぬのを待つっていうのか?」工藤が言った。工藤の顔面は蒼白で、表情は完全に無表情だった。
 おれは、本当に表情を失った人の顔を初めて見たような気がした。おれは工藤の様子を見て、逆に心が落ち着いたところがあった。それと同時に、もうこれ以上落ちるところがない、最下層に来たのだ、という感覚があり、ここが「底」なんだと思うと、精神が安定に向かうのを感じた。おそらく、死刑台に向かう死刑囚がこんな心境だろう。奇跡でも起こらない限り、おれたちが助かる見込みはない。見込みがないということは、これ以上努力をしなくても良い、ということだ。
 少し高い場所から落ちたら、助かる可能性があるので、とてつもない恐怖を感じるだろうが、例えば、飛んでいる飛行機から飛び降りたら、死ぬ以外の未来はないので、逆に心は落ち着くはずだ。選択肢がゼロになった瞬間、それはつまり、リスクも何もかもないという状態だ。あとはただ、安らかな死を受け入れればいい。
 おれがそういうことが考えながら、俯いて川の水面をじっと眺めていると、工藤が急にこちらに向かってくるのがわかった。工藤はものすごい勢いでおれの側まで寄ると、思い切り拳でおれの頬を殴りつけた。
 おれは吹っ飛び、川の浅瀬に吹っ飛んだ。一瞬、何が起きたか理解できず、目の前で花火でも起きたのかと思った。気づいたら、川の中にいた。おれが上半身を起きあげて、呆然としていると、「何考えてんだ、清水!」と工藤が叫んだ。おれはそれでも理解ができない。
「いや、何も言ってないけど」おれが言うと、「お前の考えてることぐらいわかるよ。どうせ、どうやったら楽に死ねるか、みたいなことを考えてたんだろ」工藤は絶叫した。
 おれは、小さな声で、「いや、ちょっと違うけど」と言うと、西川原が少し笑った。「何してんの、二人とも、信じられない、この状況で」
 西川原は楽しそうに笑っていた。おれと工藤は顔を見合わせたが、つられて、少しだけ笑った。三人で、大声で笑いはじめた。張り詰めていた糸が不意にちぎれたような感覚がした。
「考えよう」工藤は真面目な顔をして言った。「確かにおれたちに残された時間はわずかかもしれない。考える材料が不足している、というのもわかってる。でも、考えることしか、おれたちにできることはないと思う」
「考えるって、何を?」おれは言った。「かっこいい戒名でも考えるのか?」
「清水、おれはマジで話してるんだ」
「わかったよ」
 おれは立ち上がり、河原の石に座り直した。「なんかわかることがあるんなら、言ってみろよ」
 工藤は腕組みをして、川を眺めながら、少しずつ話し始めた。「まず、事実として、この世界から戻れた人間は、いない」
「秋川が確かそう言ってたな。十人ぐらい、見送ったと言っていたけれどあれは嘘で、本当は、ここにやってきた十人の人間の身体を乗っ取っていたんだ、と」
「じゃあ、元の身体は、どこに行ったんだ」
「元の身体は、全部、あの秋川たちみたいに、崩れたんじゃないのか。もし、川の中だったら、川下のほうに流れたいっただろうな。佳恵や裕二みたいに」
「じゃあ、魂は?」
「魂は、ここに残るのかもな。でも、たとえ魂だって、ずっとここにはいられないんだろ。ここは通り道だって、言ってたもんな。ここから、さらに奥深いところに、『あの世』があるわけだ」
「いや、そうじゃなくて、秋川に乗っ取られた、身体の持ち主の、魂だよ」
「秋川が、身体を乗っ取ったときに同化するとかなんとか、言ってたな。本当かどうかはわからないけど」
「魂と魂が同化するってことなのかな?」
「知らん。魂が合体してひとつになるところなんか、想像できないけどな」
「もし、秋川が、十人以上に渡って人間の身体を乗っ取り続けていたんだとしたら……」工藤はおれのほうを振り向いた。「もとの秋川の身体から、一人ずつ順番に、魂が乗り換えていった、というわけだ」
「うん」
「で、裕二が死ぬ直前に出て来た、秋川の式神。あれは、生前の秋川そっくりだったんだよな、西川原」今度は工藤は西川原のほうを見て言う。西川原は小さく頷く。
「それで?」おれが先を促すと、「つまり、秋川に身体を乗っ取られた魂は、まだ生きてるんじゃないのか? このへんをたくさん浮遊してる魂の中に、秋川に魂を乗っ取られた連中がいるかも」
 おれはあたりを見渡した。
「そんな都合よくいるもんかな」
「わからん。それに案外、そいつらはおれたちに恨みを持ってるかもしれない。だって、秋川が連綿と続けてきた、身体を乗っ取って魂を移すという作業を、おれたちが終わりにしたんだからな。秋川がおれたちの身体を乗っ取っていれば、もともと乗っ取られた魂は一緒におれたちの身体に来れたのかもしれないが、おれたちが反撃して秋川を殺してしまったから、それまで一緒にくっついてた魂が、宙ぶらりんになった可能性が……」
 おれは苦笑いしながら、「お前、よくそんなところまで頭がまわるな。それで?」
「そいつらを探そう」
「どうやって?」
「わからん」と工藤は言った。おれは苦笑する。だが、なんとなく工藤の言いたいことはわかった。要するに、秋川に身体を乗っ取られた連中を集めて、情報を得ようというわけだ。その考えに反対する理由はない。
 おれはそのへんを浮遊している無数の人魂を見やる。川上や、川下の遠くのほうまで見ると、おびただしい数の人魂が浮遊している。これは全部、この世界にやってきた人間のなれの果てなのだろうか。これでも、ほんの一部なのだろう。
「式神の紙の中に押し込めば、復活するんじゃないのか?」とおれは提案した。式神は、紙に魂を宿らせて操っていたわけだから、可能なはずだ。
 工藤は中州のあった辺りのところまで歩いていくと、地面に転がっている紙を拾い上げた。人ぐらいの大きさのその紙は、見る限りではただの紙にしか見えない。工藤は紙を広げたりして中に魂を宿らせられないか、試していたが、やがて諦めた。そんなに都合のいいものでもないようだ。
「だめみたいだ」工藤はこちらをみて、手を広げてみせる。おれはあたりを飛んでいる人魂をじっと観察した。おれたちに恨みを抱いているような人魂がもしいるのならば、おれたちの周囲を飛んでいる連中、ということになるのだろうか。しかし、似たような色のがいっぱいあるので、個体の識別はなかなかつかない。
 ぼーっと、川面と、川の上を蛍のように浮遊する人魂を見ていると、じっとそこに立っているだけのはずなのに自分自身が川を流されているかのような、そんな感覚になった。自分のまわりをすり抜けて、月夜に照らされた銀色の水が、自分のそばを後ろむきに流れていく。その上を飛んでいる人魂たちは、まるで川を遡っているかのようだ。
 そうだ、おれだって、川の流れから見れば、ただここに立っているだけで、川の流れに逆らっていることと、同じことなんだ。同じ場所に立っているだけのように思えても、自分の周りを別のものが後ろにすり抜けていくのだとしたら、それは、自分が前に進んでいることと同じではないだろうか。この人魂どもは、それがわかっているのだ。
 ただそこに浮遊しているだけではない。
 流れに抗っているのだ。
「そうか」
 おれは思わず声に出した。どうして、こんな単純なことに気がつかなかったのだろう。次の瞬間、おれの視界が滲み、気付くと、西川原と工藤がおれの半身を支えていた。
「大丈夫? 清水くん」西川原がおれの顔を覗き込みながらそう言う。彼女は、心配そうな顔はもはやしていなかった。ただ彼女の顔にあったのは、諦めだった。おれは頭を起こし、自分の脇を支えている西川原の手を見る。
 その手には、また一握りの黒いものが握られていた。おれの身体が欠けていっているのだ。もはや痛みはない。上半身を中心に、麻酔でもかけられたみたいに、痛覚が消失していた。虫歯で歯が取れるときみたいだな、とおれは思った。もうなくなってしまったものは、二度と戻らない。だが、なくなってしまえば、案外そんなものだ、とも思う。
 人生のあらゆるものは、不可逆なのだ。流れていきこそすれ、抗うことはとても難しい。
「大丈夫だよ」
 おれはそう言って、立ち上がった。そして、川上のほうを見つめる。川はまがりくねりながらもどこまでも続いている。続いて、川下のほうも見る。こちらもまがりくねりながら、どこまでも続いている。満身創痍のはずだったが、身体中に力がみなぎるのを感じた。
「なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろうな」とおれは言った。
「何?」と工藤は答える。
 西川原は黙っている。
「この川。川上から川下へと流れていくんだろ? この川で死んだ、佳恵、裕二、そして秋川の式神は、流れにのって、川下へと流れていった。つまり、川下に『あの世』があるんだ。時間の流れが止まっているようなこんな世界で、唯一動いているものが、この川だ。川は川上から川下へと流れる。ということは」とおれは川上に向かって指差した。「あっちの方向に行けば、元の世界に帰れる」
 しばらく工藤と西川原は黙っていた。魂は、目的もなく浮遊していたわけではなく、元の世界に戻るために、この川を遡ろうとしていたのだ。
「本気で言ってるの?」と西川原は言った。「無理よ、そんな身体で。川上に行けば行くほど、流れは激しくなるのに」
「ここでじっとしてたって同じだろ?」とおれは言った。「ここでこうして立ってるだけで、体力は消耗するんだ。そして、だいたいの場合は、それでいっぱいいっぱいなんだ。川上に向かって歩いていかないと」
「わかった。お前が流されそうになったらおれが支えてやるよ」と工藤は白い歯を出して笑った。


   十四


 川の水は冷たく、足の先が痺れてきている。おれは靴もすべて脱いで、裸足になった。西川原も工藤も、それぞれすでに靴を脱いでいる。おれは少しずつ足を動かして、前進しようとしたが、全然前に進まない。
 水の流れに抗うということが、これほど困難だとは思わなかった。さっき、中州から岸まで渡ったときとは全然違う。同時に、川上から風が吹いてきているのがわかった。人魂たちは宙に浮いているが、それでも前に進めないのは風が吹いているせいもあるのだろうか。
 おれたちは全員無言になった。おれは足を動かすたびに、どこに足をおろせばいいのかに迷い、足をしっかりと川底におろすことができても、不安定な石の上だったりして、まったく自分の思い通りにいかなかった。水の冷たさと、踏ん張らなければならない体力を消耗して、何度も気を失いそうになった。
 西川原と工藤はおれのすぐ前を歩いていた。おれは工藤のシャツの裾を掴み、半ば意識を失いながら、ついていくことしかできなかった。側からみればのどかな夏の風景なのかもしれないが、おれにとっては冬山を真っ裸で登山しているような、そんな感覚だった。
 朦朧とした意識で一歩を踏み出したとき、おれは足を踏み外し、深みにはまった。まずい、と思ったときにはすでにもう遅かった。奈落の底に吸い込まれるかのように、足を水中に持っていかれ、おれは頭の先まで水の中に浸かってしまった。
 おれは思わず叫んだが、目の前を泡が駆け抜けていき、おれはしまった、と思った。
 次の瞬間、水を思い切り吸い込んでしまい、おれはパニックになった。空気が欲しい。空気がどこにもない。必死でもがいたが、手には何も引っかからない。宇宙空間で溺れているようなものだった。
 工藤か、西川原が気づくことを願ったが、彼らは視界にはいない。必死で腕を動かしていると、手が動かなくなっていることに気が付いた。全身に感じる冷たさとは裏腹に、喉の奥が焼けるように熱い。手が痺れている。
 おれは信じられない光景を見た。
 自分の腕が、根本から取れて、目の前を流れている。
 まず右腕、そして左腕。
 腕から肘にかけてが真っ黒に変色している。
 もう身体が限界なんだ、とおれは悟った。
 しかし、こんな状態になっても意識は比較的ハッキリしているのが妙に可笑しい。
 おれは目の前を流れる自分の腕を見ると逆に冷静になり、本当がそれが自分の腕なのかを確かめようとした。
 目の前を流れていく自分の腕は、まるでマネキン人形か何かのようで、それが自分のものである感覚は全くしない。だが、自分の腕に力を込めることができないし、自分の肩を見ると、そこから先には何もなかった。
 おれは静かに目をつぶった。もう決定的だ。ここから、事態が好転することは、絶対にありえない。
 髪の毛が後ろに引っ張られるように、後ろ向きに誰かが思い切り頭を引っ張っているような感覚がした。果てしない底に向かって、落ちていく感覚。気を失って、眠るような感覚に似ている。目を開けようと思っても、まぶたさえ動かすことができない。苦しいという感覚も、もはや、ない。おれの全身を、水が駆け抜けていく。これが死ぬという感覚ならば、死ぬのも別に悪くないな、とおれはぼんやり考えた。
 その時、真っ暗だった視界が急にぱっと明るくなり、あたりが黄金色の光で包まれた。明るくなったからといって、それで何かが見えたわけではない。おれのまぶたは相変わらず閉じられたままだ。身体全体が熱くなるのを感じた。身体の外側から熱に晒されているわけではなく、自分の内側から熱を発しているのだ。身体を包んでいる水は氷水のように冷たいが、その冷たい水に浸している自分の身体が、その冷たさに打ち勝つように熱を発しているのだ、と思った。
 気付けばおれは泣いていた。いや、水の中にいるわけだから、自分が泣いているかどうかはわからない。しかし、喉の奥が痙攣し、目を閉じていられない。これから死ぬんだ、と自覚した瞬間、これまで自分が生きてきた世界が、急に温かいものに感じられた。
 境界線を超えつつあるんだ、とおれは思った。
 境界線を超えて、向こう側へ行こうとしているのだ。
 境界線を超えてしまえば、二度とこちら側へは戻って来られない。
 だから、おれは泣いているのだ。
 ゆっくりと目を開けると、身体が少しずつ浮かびあがるのがわかった。力を抜いて、流れに身を任せれば、身体は浮くのだろうか。水面まではあと少しで、水面の向こう側に、人魂がたくさん浮遊しているのが見えた。ただ浮遊しているだけだと思った人魂が、急に言葉をもって、何かを語りかけてくるような感覚がする。身体が少しずつ浮かびあがり、水面が少しずつ近づいてくる。それでもじっとしていると、やがて水面に顔を出すことができた。
 それと同時に、目の前に、蛍のように人魂が浮遊していて、とても綺麗だと思った。清水、と大きな声が聞こえたが、そちらを見ることもできない。工藤だろうか。実は、水中に潜っていたのは、ほんの数秒だったのではないだろうか、と思った。死を意識したことで、時間の感覚が何倍にも引き伸ばされたのだ。
 おれは西川原の父親のことを考えていた。西川原の父親も、いまのおれたちと同じように、この川を遡って、元の世界へ帰ろうとしたのだろうか。だが、彼の場合は、おれとは逆の結末が待っていた。彼は、体は元の世界に戻り、魂だけ入れ替わったのだ。おれの身体を工藤が支えているのが見える。
 おれは、自分の身体を客観的に、別の視点から見ていることに気が付いた。身体が水面から少し浮かび上がり、自分の身体を支えている工藤や、西川原を含め、それらの風景を、少し上の視点から眺めているのだった。きっと、おれは、気を失ったのだろう、とおれは思った。気を失って、これは、生と死の間の、走馬灯のようなものなのだろう。
 境界線の、こちら側に、来ることができた。
 自分の身体をよく見る。
 上半身は焦げたように真っ黒になっていて、腕もやはり、ついていない。
 あれは、たぶん、マネキン人形ではなく、本物だ。
 周りの世界がとても明るいことに気が付いた。
 月明かりのせいではない。
 昼間のように、あたりが明るい風景に包まれていた。
 川の上や、川岸に、たくさんの人の気配がした。
 いったん自分の身体から目をそらし、人の気配のほうに目をやると、川岸をや川の上には隙間もないほど人間が立って、こちらをじっと見ているのがわかった。
 式神だろうか。
 いや、違う、彼らはただ黙ってこちらを見ているだけだ。
 何もしてこない。
 表情はほぼ無表情で、何も読み取ることができない。
 人魂の姿が見えるようになったみたいだ、とおれは思った。
 自分自身が人魂になったのだ、と少し冷静にそう思った。
 西川原の父親はいないのだろうか、とあたりを見渡す。
 だが、もちろん、西川原の父親のことは何も知らないのだから、何もわかるはずがない。
 工藤が水面に飛び込むのが見えた。
 工藤も溺れたのだろうか、とおれは思った。
 しばらくすると、工藤がおれの腕を両方とも持った状態で、水面にあがってくる。
 西川原がおれの身体を支えている。
 工藤は取れたおれの腕、必死で肩のあたりに押し付けている。
 そんなことをしても何も変わらないのに、とおれは苦笑する。
 だが、自分の姿は自分で見ることはできない。
 あくまで、自分が苦笑したような感じがしただけだ。
 いまのおれは、自分の身体を持たないわけだから、何も制御はできない。
 次の瞬間、西川原がおれの身体に覆いかぶさった。
 何が起こったのだろうか。
 おれは自分自身が、自分の身体に引っ張られるように、強制的に、自分の身体の中に押し戻された。
 おれは今度は、自分の本当の目を見開く。
 目の前に、西川原の顔があった。
 おれは思い切り、身体の中にあった水を吐き出した。
 西川原の顔は、苦痛に歪んでいる。
 西川原の口から、赤い液体が出てきているのが見えた。
 血だろうか。
「清水くん、目を閉じて」
 西川原はそう言うと、おれに顔を近づける。
「目を閉じてって、言ってるでしょ」
 西川原がおれに唇を重ねた。
 ざらついた、鉄の味がした。


   十五


 遠くのほうでサイレンの音が聞こえた。あたりの空間にこだまするその音は、ふわふわして、幻聴のようで、ぜんぜん距離感が掴めなかった。近くで鳴っているようでもあるし、ずいぶん遠くで鳴っているような気もする。
 おれはゆっくりと目を開けようとするが、まぶたが何かで引っ付いているように全く開かない。接着剤で固められているようだ。
 目についているものを手で払いのけようとするが、まったく腕が動かない。そうか、おれの腕はもうないんだっけ、と他人事のように思い出す。西川原、と叫びたかったが、声も出ない。息も吸うことができない。
 おれは長い時間をかけて、少しずつ目を開ける。視界ははじめ、ぼんやりとしていたが、だんだん輪郭がはっきりしてくる。目の前には雑木林があった。ひどい頭痛がして、ものがまともに考えられない。おれは身を起こそうとしたが、当然ながら腹筋にも力は入らなかった。
 あきらめて、目だけで周囲の状況を確認しようとする。ぼやけた雑木林は、あの山のものだろうか。少しだけ、空が明るくなっているような気がする。
 サイレンの音はどこか遠くで鳴り響いている。少しだけ首が動かせるようになって、おれは自分の身体を見た。上半身は何も身にまとっておらず、全身を真っ黒の痣が覆っている。そして、肩からは、自分の腕がそこにあるのが見えた。暗いというのもあるが、少なくとも真っ黒で、感覚が一切通っていないから、動くのかどうかはよくわからない。
 そして、右腕の先には、一本の細い手が重なっていた。西川原だった。だが、真っ白だった西川原の腕も、自分ほどではないが、真っ黒な痣で覆われていた。よく見ると、自分の手と西川原の手は繋がっているが、肩から先の感覚は一切なく、繋いでいるという実感は一切ない。
 西川原は眠っているようだった。あるいは、全く動かないので、死んでいるのかもしれない。西川原、とおれは呼びかけたが、反応は何もない。身体が動かせないので、声だけだ。そして、自分の左には工藤も寝ているのが見えた。三人とも、地面に仰向けになって、寝ているのだ。
 サイレンの音が少しずつ近づいてくる。そのままじっとしていると、複数の足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。誰かはわからないが、大人たちのようだ。消防隊員のような制服を着ている。
「おい、生きてるぞ!」そのうちのまだ若い、二十代ぐらいの一人が叫んだ。大人たちが自分たちを取り囲む。
「おい、大丈夫か? 痛いか?」
 おれはとりあえず頷き、西川原に目をやった。別の大人が西川原の腕を手に取り、「なんだ、この痣は」と言いながら、身体に触れるのが見えた。「大丈夫だ、こっちも生きてる」
 さらに周囲に人が増え、おれたちは担架に載せられた。
 担架に寝そべったまま、周囲の様子を観察していると、とんでもない光景をおれは見た。おれたちがいたのは、確かに最初に登ろうとした山の山道のふもとだった。おれたちが登ってきたはずの、参道が、まるごと崖崩れのように崩れて、道が消滅していたのだ。土砂の隙間から、そこに参道があったという断片は見て取れる。そして、それを覆いかぶさるように、小さな地蔵がそこかしこに転がっていた。だが、おれたちが登った参道の山道は、さまざまな土砂や岩が覆い被さり、何もなくなっていた。
 そして、学校のあった方角を見て、おれは目を疑った。学校の周囲が、瓦礫の山で覆われていたのだ。木の破片があたり一面に折り重なるようにして散らばり、ボコボコになった車のシャーシが木造の建物に突き刺さっている。オレンジ色の服と、白いヘルメットをした男たちが、瓦礫をどけて、道を作ろうとしている。
「何があったんですか、これ」おれは救急隊員にそう言うと、若い隊員は、真剣な顔で一度だけ頷き、「今は何もしゃべるな」と言った。
 おれたちは車に載せられた。救急車か何かの車に載せられるのかと思っていたが、大きなバンのような車で、座席はすべて平らにされ、その中におれと西川原は運びこまれた。
 工藤は、スペースの都合で別の車になったようだ。しばらくするとドアが閉まり、車は発信した。おれは身体は全く動かすことができないが、頭は不思議なぐらいクリアになってきていた。
 そして、唯一自由に動かせる目で、西川原を見た。身体じゅうが泥だらけで、しかも肩から腕にかけては、おれと同じような真っ黒な痣に染まっていたが、それを除けば、綺麗な寝顔だった。車は、ゆっくりとだが発進し、時折思い出したように上下にはねる。しばらくじっと見つめていると、ゆっくりと西川原が目を開いた。
 おれと目が合っても、驚きもせず、とろんとしたような目つきをしている。意識が朦朧としているようだ。
「大丈夫か、西川原」
 おれがそう声をかけると、ほんのかすかに首を振ったような気がした。
「痛いか?」
 今度は、西川原は明確に頷いた。だが、そんなことは当たり前だ。おれたちは、『戻ってきた』のだ。多少の痛みぐらいは、どうということはないはずだった。
「あのさ」おれは西川原に話しかける。
「え?」
「この学校のさ、このあたりそのものがさ、境界線だったのかもしれないよな」
「……?」
「『こっち側』にいたから、おれたちは無事だった、だけだったりして」
 西川原はおれの目を見て、言った。「あなたは、大丈夫なの……?」
 おれは頷き、腕に力を入れようとして、だが全く力が入らず、芋虫みたいに身をよじらせた。
「腕の感覚がないけど、こんなの、大したことじゃないだろ、生きて、戻ってきたんだから……」
 西川原は、寝そべりながら、じっとこちらを見つめていた。
 瞬きもしない。
 こちらを見ているはずなのに、まるで別のものを見ているような目をしている。
 かすかな、怯え。
 おれが最初に、教室で話したときよりも、はるかに親しみのない視線だった。
「ところで、あなたは誰? ……わたくし、西川原なんていう名前では、ありませんけれど……」
 西川原は、どこかガラス玉のような、少し青みがかった瞳でこちらを見つめながら、そう言った。


(完)
やひろ
2018年06月10日(日) 10時35分21秒 公開
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