メジロ
 私は八年程前から腎臓を患い、一昨年の春に都心から逃れる様に故郷へと帰って来ていたのです。今と成っては看病してくれる母も居ない家なのですが、私にとっては心と体を癒してくれる何よりの居場所に思えたのでした。
 実家は緩やかな斜面の山間に在り、冬場には陽が落ちるのも早く何かと心細くも感じるのですが、見える場所には叔母の家も在りますし、週に一度は移動販売車も訪ねて来ますので、日々不足無く送れているのです。
 腎臓病はサイレントキラーとも云われ、気付いた時には腎臓機能の低下が進み、人工透析へと移る人も少なく無いそうです。当時私の腎機能は40%とも云われ、透析治療に入る前の保存期、とゆう状態だったそうです。症状としては、蛋白尿と血尿、浮腫、高血圧等上げると切りが無いのですが、医師からは、腎機能が30%以下に低下すれば、透析治療を開始すると告げられ、安静と食事療法を最優先に入院治療を開始したのでした。
 入院生活は五ヶ月にも渡り、当初は体調が悪くベッドで横たわるだけの辛い毎日でしたが、三ヶ月も過ぎた頃から、重く感じていた体も日増しに軽く成り始めると、生活制限も軽減され、暗く感じていた日常風景も明るく感じられる様に成って来たのでした。
 看護師さん達からも顔色が良く成ったと声をかけられる事が多く成った頃、主治医から退院を告げられ、予後の為にも腎生検を受ける事を奨められました。この腎生検とは、腰の後ろ側から細い針を刺して腎臓組織の一部を採取し、光学顕微鏡で糸球体の状態を確認する事で、診断と治療とを的確にする事に有るのだそうです。私は数日悩みましたが、医師から手渡された手術の同意書に署名捺印をして、准夜の看護師さんに手渡したのでした。
 翌月腎生検は行われたのですが、局部麻酔だった事もあり医師の会話が今も耳に残っていて、辛い入院生活が今も思い出されます。術後は抗生物質と止血剤を生理食塩水に加え点滴を受けましたが、絶対安静と排泄には大変辛い思いを致しました。三日後排出される尿から鮮血は消え失せましたが、腰の痛みと眩暈には数日悩まされました。
 一週間後、医師から検査結果を告げられ、腎細胞には変形が多く見られ、腎不全へと移行するタイプの慢性糸球体腎炎、と改めて診断を下されたのでした。その後医師から伝えられた治療指針は三つ有り、一つは今までの保存療法の継続。二つ目は、副腎皮質ホルモンの投与で腎機能の回復を診る。三つ目は、腎不全に備えて腎臓移植も視野に入れる。と言い放たれた医師の言葉に、儚い夢はズタズタに打ち砕かれたのでした。
 重篤な病は、身直にでも患った人がいない限り、その症状を知る機会は余り有りません。健康を失い初めて死を突き付けられた時、人は初めて気付かされるのです。健康に勝る幸せは無かったのだ、と。
 
 退院後、社会保障を受けながら自宅療養を続けるのですが、ある日故郷での療養なら症状も改善するのではないか、と何の保証も根拠無い気持ちに駆られて、実家へと帰って来たのでした。日々の生活は、南に面した囲炉裏端に床を取り、気分の良い日等は縁側や庭先で時を忘れ、時たま現れる小動物や周りの緑に、身も心も癒してもらっているのです。
 
「洋ちゃん、具合はどう。」
 体を起こし南側の障子を開けると、籠に一杯の野菜と果物を持っ 
た叔母が立っていた。
「叔母さん。」
「いつもありがとう」
 叔母は月に一度は必ず訪ねて来てくれて、たわいない話の中にもこんな私を勇気付けてくれているのです。
 「じゃぁ洋ちゃん、寒くなる様だから大事にねぇ」
 「ありがとう。叔母さんも気をつけて」
 
 それから数日後、見える風景はモノクロの世界へと変わり、生活空間も囲炉裏端で過ごす事が多く成ったのでした。
 雪は例年に比べると長く深く続き、食料も底が見え始めた頃、漸く雪は降り止んだのでした。三日後、移動販売の岳さんが雪深い中を徒歩で宅配してくれたのですが、安堵したのも束の間、叔母の訃報も知る事と成ったのでした。
 葬儀には体調上参列だけは致しましたが、叔母に対しての不義理な身の上を呪い涙も尽き果てたのでした。
 
 寒さも厳しく成った年末頃から乾咳が続き始めると、正月早々臥せる事と成ってしまったのです。三ヶ日が終わった昼過ぎから、身体はガタガタと震え始め、薬箱からやっとの思いで取出した体温計を脇に挟み、水で冷やしたタオルを額の上に置いたのでした。体温計は38.5℃を示し、腎機能に良く無い状態だとは分かっているのですが、このまま天に委ねた方が幸せではないかと思えるのでした。

 五日目、酷い頭痛と朦朧とする意識で目を覚ましたのですが、腎臓機能の目安となる尿意もやはり催していませんでした。以前医師から聞いた話からすると、急性腎不全による尿毒症に陥っていると容易に判断できるのです。
 
 それからどれくらいの時間が過ぎたでしょうか、東の小窓側から微かな物音が聞こえ始め、視界を移すと一羽のメジロが椿の梢で戯れているのでした。



・・・・帰って来て良かった・・・・



 小枝を揺らしメジロが飛び立つと、見える光も小さく成って行っ・・・・。
入谷緋色
2016年06月10日(金) 11時00分48秒 公開
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