闇夜の転校生
   闇夜の転校生           飛鋭78式改

午前二時。
神田神社。
昼間は参拝客で賑わう神田神社も、この時間となれば、辺りには人の気配が全くなく、満月だけが煌々と光っている。
そう、彼らの気配以外は……

月島(つきしま)闇夜(あんや)はこの世のものではない存在と戦っていた。
漆黒の髪の毛を肩までざんばらと伸ばし、瞳は黒く大きくあるものの切れ長で、いかにもクールな印象を与える。精悍な顔立ちに屈強な体躯。身長は180センチを超える。欠点といえば、左足が不自由で、左手で杖をついているところくらいだ。そして幾分時代遅れの黒い外套を羽織っている。全身黒ずくめ。それが月島(つきしま)闇夜(あんや)の姿だった。
向こうにいるのはこの世のものではない存在。
白装束に憤怒の形相。顔はクシャっと折り曲げたように不自然に歪んでいる。よだれを垂らしなにかブツブツとつぶやいている。念仏などではない。この世のすべてのものに対する恨み事をつぶやいているのである。
そう、これは霊界から呼び寄せられた怨霊が明確に視覚化され顕現したものである。
闇夜(あんや)がこのような名状しがたきものと対峙するのはこれがはじめてではない。はっきり言って慣れていると言っても過言ではない。そう、怨霊を調伏するのが彼の仕事なのだ。しかし毎回このような存在と戦うときには、背筋に悪寒が走るのを禁じ得ない。いつもとって食われてしまう危険と隣合わせなのだから。
幸いこの神田神社という場所は闇夜に優位に働いていた。ここは大己(おおな)貴(むちの)命(みこと)(俗にいう大黒様)、少彦名(すくなひこなの)命(みこと)(俗にいう恵比寿様)、そして平将門といった、三柱もの強力な神々の加護を受けることができるからである。その場所に強い神様がいればいるほど心強いのである。
『怨霊』はおもむろに大量のどす黒い血反吐をビシャっと吐いて、闇夜の方に飛ばしてきた。
闇夜はすかさず、左足を支えていた、カフグリップ付きの杖で五芒星を描いた。杖で描いた軌跡が青く光り、闇夜を包み隠すほどの大きな光る五芒星ができる。
『怨霊』が吐き出した血反吐は、大きな五芒星に阻まれて闇夜のところまでは到達せず、ビシャッと五芒星の壁を汚した。五芒星からそれた血反吐が地面に落ちると、ジュウ、というシズル音を立てて煙が上がる。まるで硝酸が鉄を溶かすかのように。
「うわっ、あっぶねーな。」
闇夜はこの危機的状況にも余裕綽々であるかのように振舞った。
闇夜は、コホン、とひとまず咳払いをしてから、おもむろに人差し指と中指を合わせてから構え、とりあえず基本的なところからはじめることにした。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・烈(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)!!」
と唱える。一文字唱えるごとに、横・縦・横・縦・横・縦・横・縦・横、と指先で空を切った。いわゆる『九字』を切るというやつだ。『九字切り』は怨霊調伏の基本。
最後の一文字を切ったあと、すかさず指先を『怨霊』に向ける。すると指先から赤い雷撃がものすごい音を立てて『怨霊』に襲いかかる。
直撃だ。
雷撃は『怨霊』の右肩に命中し、まるでショットガンで撃ちぬかれたかのごとく右腕が吹っ飛んだ。吹っ飛んだ右腕は地面に落ちながらも、ピクピクと手のひらを握ったり開いたりをしばらく繰り返している。まるで鯛の活造りが口をパクパクするがごとく。
大きなダメージを与えた、と思われたが、その『怨霊』は、先ほどと相も変わらず、恨み事をブツブツとつぶやきながらこちらに向かってよろよろと歩いてきている。
「あっちゃー、これじゃだめか?」
闇夜は、余裕を見せつつ、わざとふざけた口調で誤魔化してみるものの、冷や汗が首筋を伝っていくのを感じていた。
『怨霊』はゆらりと抜け落ちた右腕を拾うと、右肩にくっつけた。元通りだ。
「やっぱあいつがいないとだめだな。」
と、闇夜は懐から、五芒星が描かれ、人の形をした白い紙切れを取り出す。息をフッと吹きかけて、それを風まかせに地面に落とした。すると紙切れが落ちた地面に、ボヤーッと直径三メーターほどの五芒星が青白く浮かび上がり、その中心に一人の人影が現れる。
 その人物は、ホワイトアッシュの髪の毛にシャギーカットが施されてふんわりとしたヘアスタイルだった。肌は雪のように白く、薄紅色の唇を持ち、その唇の左下に小さなほくろがある。ブカブカのキャスケット、七分丈のニッカボッカにサスペンダーという出で立ちは、まるで五十年代のアメリカの新聞記者のようだ。小柄で、一見ボーイッシュで華奢な女の子然としているが、実はれっきとした男の子である。
 その人物こそ、闇夜が最も信頼をおいている識(しき)神(がみ)、青沼スケキヨである。
 「あんや! 呼ぶの遅いよ!」
 スケキヨは頬をふくらませて不満気だ。だが闇夜に呼び出されたのがよほど嬉しいのか、目は爛々と輝いている。
 「わりーな。一人で片付けられると思ったんだけどよ。」
 闇夜は後頭部を掻きながらばつが悪そうにしている。
 「そんじゃあまぁちゃっちゃと終わらせようや。そうだな。パガニーニのカプリース二十四番でどうだい?」
 「えー?パガニーニか……あんまし得意じゃないけど……あんやがやれって言うならそうするよ! 」
 スケキヨがヴァイオリンを構えるポーズをすると、どこからともなく光り輝くヴァイオリンがスケキヨの手に納まった。
 「そんじゃ、あんや、パガニーニの24のカプリース24番イ短調、はじめるよ。」
 スケキヨは一度深呼吸して気持ちを落ちつけた。そしてヴァイオリンの指板に左手の指を押し当て、右手で弓を弦にあてがう。
 流麗なメロディーが次から次へとヴァイオリンのfホールから流れ出てくる。そのメロディーはオレンジ色の暖かな光を伴う明確なヴィジョンとなって、闇夜を包み込む。
 闇夜はオレンジ色の光りに包まれ、周囲には無数のりんごが、闇夜を中心として円を描いている。りんごは聖なる加護の象徴なのだ。
 闇夜の怨霊調伏方法は他とはちょっと変わっていた。識神に楽器を演奏させて、その音楽を触媒にして、自らの霊力や儀式や言霊の力を何百倍にもするというユニークな方法だった。識神の奏でる音楽が広がる一帯には、強烈なパワーフィールドが発生するのである。
 このようなパワーフィールドに於いては、闇夜の左足の不具も開放される。そして左手に持ったカフグリップ付きの杖も、抜けば玉散る氷の刃と化す。
 闇夜は走る。不具を持つ日常の恨みを晴らさんばかりに走る。切っ先を定め、異形の者へと一心不乱に走る。
 まず闇夜の上段蹴りが『怨霊』の顎を砕いた。そして三往復ほど右足で頭を蹴りつけた。闇夜は飛び上がり二閃、太刀を浴びせかけ、『怨霊』を飛び越える。闇夜の後ろで『怨霊』の両腕がボトッと切り落とされ、肩口から鮮血が噴き出している。すぐさま闇夜は振り返り左手から赤い衝撃波を放った。切り落とした両腕が木端微塵に弾け飛び、再生不可能なほど細切れになり、消滅した。
 スケキヨのヴァイオリンは流麗なメロディーから、悪魔のような早い旋律を奏ではじめた。人間業を凌駕したオクターヴ奏法、頭が痛くなるような左手のピチカート。これだからパガニーニは恐ろしい。パガニーニを選んだ闇夜の猟奇趣味が垣間見える一端だ。
 曲調が変わるのと同時にパワーフィールドにも変化が訪れ、刃はショットガンに変形した。クルッと回転させて弾丸を装填する、ウィンチェスター1887という変わったショットガンである。闇夜は、ズタボロになっている『怨霊』のところにゆっくりと歩きながら銃口を向ける。
 「あんたにはこれっぽっちも恨みは無いんだけどな。」
 闇夜は、一発『怨霊』の土手っ腹にショットガンを撃ちこむ。グシャっという音と同時に『怨霊』の胴体に直径30センチの風穴が開く。向こう側がよく見える。
 「まあこれが俺達の仕事だからな。」
 闇夜はゆっくりと歩き、ショットガンをクルッと回転させ次弾を装填する。そして『怨霊』の左足にショットガンを打ち込む。『怨霊』の左足は吹っ飛び、バランスを崩し倒れこむ。
 「人を呪うためにあんたを呼び出したやつは呪い返しにあって、悲惨な死に方をするだろうな。まあ自業自得ってやつだ。」
 闇夜はなおも歩みを進め、ショットガンを回し装填する。今度は『怨霊』の右足を撃ちぬいた。もはや『怨霊』は達磨と化した。闇夜はなおも歩みを進め、手足を奪われた『怨霊』を見下ろし、ショットガンを装填し、『怨霊』の頭に銃口を向ける。
 「ハスタラヴィスタ、ベイビー。」
 ダン!!!
 
御神木をねぐらにしていたカラスが一斉に飛び立つ。『怨霊』はもはや血まみれのミンチと化した。そしてみるみるうちにその破片は光に飲まれ地面に染みこむように消えていった。
スケキヨの奏でるパガニーニが最後の音符を終える。辺りを覆っていたパワーフィールドが包む世界から、日常へと還っていく。
 「ふう。調伏完了!」
 闇夜はカフグリップ付きの杖を左手で拾い上げ立ち上がり、右腕で顔の汗を拭った。全身返り血で真っ赤だ。
 「あんや―――!!」
 スケキヨが走りよって抱きついてくる。闇夜はこの手のスキンシップが大の苦手なのである。
 顔を見上げるスケキヨ。やけにいい匂いがする。上目遣いで目は少し潤んでいて、頬はかすかに紅潮している。これでもかというばかりの笑顔だ。なんて色っぽいんだ。
(落ち着け、闇夜。こいつはこう見えても男なんだ!)
 闇夜は自分に言い聞かせる。そして平静を装いつつスケキヨの頭を撫でてやる。はっきり言って闇夜にとっては、怨霊を調伏するより、こんな時に平静を装うほうがよっぽど苦労する。
「よ、よくやったな、スケキヨ。助かったぜ。」
闇夜はなんとか体裁を繕った。
「ニシシ、あんやのためだったら何だってするんだから!」
スケキヨの最大限の笑顔というのがどの程度なのか未だにわからない。いつも笑顔のたびに記録を更新しているのだから。
闇夜は早くシャワーを浴びたい気持ちを抑えつつ、懐からスマートフォンを取り出し、電話をかける。15コール目でようやく繋がる。
 「あ、おやっさん? まだ起きてたの? 仕事熱心だねぇ。」
 「ばかやろ! 今叩き起こされたんだよ! 何時だと思ってんだよ!? それに『おやっさん』はやめろって何度言ったらわかるんだ! 俺を呼ぶときは、『文部科学省高等教育局特務課別室室長』と呼べ! おやっさんと呼ばれるほど歳はとっちゃいないぞ!」
 で、叩き起こされ不機嫌レベル全開のこの男は、後藤権兵衛(ごんのひょうえ)だ。闇夜の上司にして、育ての親である。
 「そんな長ったらしい名前呼べるかってんだ。あんたはどこからどう見ても“おやっさん”だよ。まあそんなことより、たった今、秀明学園連続呪殺事件の怨霊、調伏してやったぜ。」
 闇夜はあくまで余裕綽々のポーズは崩さない。それが彼の美学なのだ。
 「そ、そうか、それはご苦労だったな。ゆっくり休め。」
 後藤は先程の不機嫌をかき消してねぎらいの言葉をかけた。しかしその声はどうもばつが悪いような感じだった。
 「……んー、前言撤回。まあゆっくり休んで欲しいのはやまやまなのだが、実はもう既に案件が来ててなぁ……」
 後藤は申し訳なさそうに言った。
 「ちょっ! マジかよ?! このところ内偵とかで徹夜続きだったんだぜ? かんべんしてくれよ。」
 闇夜の心からの叫びだった。
 「申し訳ない。メンゴメンゴ。」
 後藤としては最大限の謝罪のつもりだったのだが、闇夜はこの加齢臭満開のオジサンを本気で殴りたくならずにはいられなかった。
 「まあ機嫌直してくれよ。場所は杉並区東高円寺の蚕糸の森高等学校。このところ呪術としか思えない不審死や事故が多発しててな。発生源もなかなか特定できないのだよ。闇夜にはそこに潜り込んで調べて欲しいんだ。詳しいことは後でメールで知らせる。引越しの手続きとかはこっちでやっとくから。なるはやでシクヨロ! それじゃ、バイビー。」
ツー、ツー
 闇夜はスマートフォンを握りつぶしたくなった。
 満月は沈みかけ、夜が白み始めた。闇夜はようやく辺りが平和になったのを自覚した。闇夜はこの時間が一番好きだ。風が気持ちいい。鳥のさえずりが心地いい。

 「また転校か……」
 

* * * * *
 

平安時代と同じように頻繁にに呪術が横行している20XX年の東京。その余波は教育現場にも影を落としていた。特に問題となっていたのが高校生による呪殺事件の数々であった。インターネットを中心とした情報社会の中、呪術に関する情報が簡単に手に入れられるようになり、高校生も手軽に呪術ができるようになったことの裏返しである。
 政府は事態を重く受け止め、文部科学省高等教育局に特務課別室を設け、各方面から霊能エージェントを集め、問題のある学校に彼らを送り込み、事態の収拾を計った。
 月島闇夜も特務課別室に所属する霊能エージェントのひとりであり、数々の高校を転校しては仕事をこなし、そしてまた転校していく、といった、旅役者のような生活を送っていたのであった。

* * *


 桜が既に散ってしまった五月。ピンク色の花雲が一気に花弁の雨を降らせると、瑞々しい青葉の季節をもたらしてくれる。ごく平均的な日本人に、日本のどこが好きか? と問うたならば、真っ先にそれは、「四季があること」と答えられるだろう。しかし、厳密に言うと日本の季節は決して「四つ」ではない。限りなく“夏”に近い“春”、“夏”と“秋”の丁度真ん中、“秋”から一歩飛び出した“冬”、“春”になりたくて仕方がない“冬”等等……五月とはそんな曖昧で、名前が付けられない季節の一つなのだろう。
 東京メトロ丸ノ内線東高円寺駅の南側に広がる蚕糸の森公園にも、瑞々しい五月が来ていた。花を落とした緑の桜は言わずもがな、色とりどりに咲き出したつつじ、棚から薄紫の花を垂らす藤などが見受けられ、その木々の間には人工の小川や滝が流れている。
 そんな蚕糸の森公園の奥に都立蚕糸の森高等学校がある。
 二年四組の教室からはガヤガヤとした喋り声が聞こえる。丁度休み時間だ。一時限目の世界史でのギリシャ人の名前が覚えにくいだの、昨日の夕食何食べただの、隣のクラスの沙都子とうちのクラスの雄輔が付き合ってるのってありえねーんじゃねーの? だのといった、他愛もない会話がランダムに連なっている。それを廊下で聞いている人物は、このクラスは割と良さそうなクラスだな、と勝手に合点している。その人物のとなりには、このクラスの担任の日本史教師、佐藤繁子(三十四歳独身)が付き添っている。ホームルームの時間を告げるチャイムの音がなるかならないかのタイミングで繁子(三十四歳独身)はクラスのドアを開ける。繁子(三十四歳独身)は授業を始めるのも終わらせるのもどんなに中途半端でも必ずオンタイムなのだ。どうやら彼女の中の体内時計はコンマ一秒の間隔で正確なようだ。彼女(三十四歳独身)はつかつかと教室に入り教壇に立つ。教卓を台帳でバンバンっと二回叩き、クラスに静寂を与える。繁子(三十四歳独身)は教卓の真ん前に座っているクラス委員長の生上院(きじょういん)瑠(る)璃(り)香(か)に目配せをする。

きりーつ。れーい。ちゃくせーき。

 クラスにオーダーが戻る。
 「えー、今日から転校生が来ます。紹介しましょう。入ってください。」
 繁子(三十四歳独身)はクラスに語りかけたあと、ドアの方にも語りかける。
 すると全身黒ずくめの生徒が入ってくる。五月で少々汗ばむ季節だというのに黒い外套を羽織っている。ブレザーの上から外套を羽織っているので非常に不自然だが、別に先生に注意されたわけではないので校則違反ではないのだろう。髪は真っ黒で肩までざんばらと伸ばしている。これも校則違反ではないらしい。目は黒く大きく切れ長で、身長は180センチ以上ある。大きく四角い眼鏡をかけている。左足が不自由なのか、左手でカフグリップ付きの杖をついている。目立つ。クラスは少し色めき立ち、誰が言ったのか、「金色夜叉かよ?」というセリフにクスクス笑っている生徒も何人かいる。その人物はそんな嘲笑には眉一つピクリともさせずに、第一声を放った。
 「はじめまして。月島(つきしま)闇夜(あんや)と申します。この度、この蚕糸の森高等学校に転校して参りました。ご覧のとおり左足に不具を抱えておりますゆえ体育は見学とさせていただきます。趣味は食べ歩きで御座います。どうぞよろしく御願い仕り候。」
 一瞬静寂が戻るもつかの間、すぐにクラスは色を取り戻す。
「『仕り候』って……」
「あのこ、かわいくない?」
「えー?そーお?」
「おもしろそうなやつだな。」
「でもちょっと暗そう…」
「是非とも我が時代劇研究会に入って貰いたいものだな。」
「うちの野球部、マネージャー募集してなかったっけ?」

 バンバン!!
 佐藤繁子(三十四歳独身)の台帳叩きが再び響き渡ると、クラスのカオスも元に戻る。すると誰からともなく、「よろしくー!」との声がかかり、さざなみのように『よろしく』コールがこだまする。そして拍手と歓声が沸き起こる。どうやら闇夜は思ったよりも歓迎されているようだ。転校する度、毎回この瞬間が一番緊張するのだ。闇夜は深々と一礼する。
「それじゃあ、月島くんには窓際の後ろから二番目の席に座ってもらいますね。」
繁子(三十四歳独身)が促すと、闇夜は先生(三十四歳独身)にも一礼して、指定された席へ杖をつきながらつかつかと向かう。
その闇夜の歩く姿に向けられる、一際熱い視線があった。その視線をたどると、一人の女の子がいた。その娘は、赤いフレームの眼鏡に、栗毛のショートボブで、幼い顔立ちをしていて、それに見合わないような大きな胸をふくらませていた。生天目(なばため)裕子(ゆうこ)であった。
「あの人……すてき……」
裕子の心の声が思わず現実世界の空気の振動となって現れていた。
「まーた生天目の眼鏡男子萌えがはじまったよ。」
裕子の右隣に座る、海江田魚々子(かいえだななこ)がからかうように言った。
「え? 今わたしなんか言った??」
頭のなかがお花畑になっていた裕子が、その声を聞いてハッとして、パニクりながら隣の魚々子に言った。
「あんた気づいてないの? 思考ダダ漏れよ。あんた絶対ウソとかつけないわよねー。」
「えーーー?? うそーー?? どうしようー??」
裕子は顔から火が出て、学校中の火災報知機が全部鳴りそうだった。真っ赤になった裕子を見て、魚々子は更にケラケラと笑うのであった。
裕子からの熱い視線に気づいていない闇夜は、キョロキョロしながら、窓側の、後ろから二番目で、裕子の左隣の席を目指した。ほんの30メーターほどの距離でも、杖をついて歩くと思いの外時間と体力を使うのであった。
「よっこいしょういち。」
闇夜は安心するとたまにこんな死語をつぶやく癖がある。明らかに後藤の影響だろう。そんな独り言に周りの生徒達はクスクス笑う。すると後ろからちょいちょいとシャーペンで突かれる。
「おい、おまえおっさんか?」
闇夜が後ろを振り返ると、そこには白い歯をキラキラと輝かせた、百万ドルのえびす顔の坊主頭の少年がいた。
「これは失礼仕り候。」
闇夜は真顔で答える。
「今度は時代劇かよ! まあいいや。俺っちは中村(なかむら)達(たつ)俊(とし)。野球部でキャッチャーやってんだ。これでも学校では色んな所に顔が利く方なんだよ。まあわからないことがあったらなんでも聞いてくんな。ただし、数学と英語以外な。」
達俊はまた白い歯を輝かせる。
「これはかたじけない。以後よろしゅう。」
闇夜は早速この学校の情報屋を見つけて幸先が良いと思いながら返事をした。だがそれ以上のことは言わなかった。この稼業は付かず離れずが良しとされるからだ。
とりあえず闇夜はクラスを見回してみる。この席はクラスを観察するには調度良い席だった。一番後ろの列から真ん中あたり、ついで廊下側の席、一番前の列、と視線を動かしていき、視線を戻すときに、廊下側の一番前の席の所で視線が止まる。一際目を引く生徒がいた。黒い髪を腰まで伸ばし、前髪は切り揃えてあり、病弱とも思えるほど白い肌をして、憂いを秘めた眼差しをしている。まるで日本人形のような、怪しくも美しい姿をした少女だった。そう、彼女は美しかった。不健康な美しさがあった。闇夜はしばらく見とれていた。それがどれだけの時間かわからなかったが、端から見れば、充分に「見とれてた」と認識されるほどの長さだったのだろう。すると後ろからえびす顔の少年の声がする。
「なかなかお目が高いな。」
闇夜はハッとして、後ろを振り向く。その少年は白い歯を見せながら続けた。
「だけどあの娘はやめたほうがいいぜ。あいつは山(やま)の辺(べ)深雪(みゆき)。俺っちはなあ、あいつが話しているところを見たことがないんだよな。誰とも話しをないんだ。でもってあいつのことを悪く言ったり、噂したり、あいつに告白したり、関わったりするだけで、そいつに不幸な出来事が起こるんだ。まああのなりだからやたらと告(コク)られるらしい。フラれるってだけでも不幸なのに更に事故に巻き込まれたりするのはかなわないよな。泣きっ面に蜂ってやつだ。ほら、某漫画家に関わると祟りがあるってジンクス聞いたことないか? それと一緒だな。だからあいつのことを、誰からともなく、『鳥居』って呼ぶようになっちまったくらいだ。祟りがあるからな。おっと、こんな話をしてる俺っちもアブナイな。わりぃ、忘れてくれ。」
闇夜は彼の話に相槌を打つわけでもなく、その話を終わらせた。その話しぶりは、あまり客観的とは言えず、まるで当事者になったことがあるかのようではあったが、武士の情けで、闇夜は敢えてそこにはツッコまずにしておいた。しかしその話は闇夜にとってはすごく興味深い話だった。闇夜は、彼女のことを深く調べる必要があると感じた。しかし、一見仲良しクラスに見えるこのクラスにも、そういうはみ出し者というか、スクールカーストというか、ハイエラキーじみたものが存在するのだな、と複雑な感情にもなった。いくつもの学校を渡り歩いているのにもかかわらず、この手の感情には毎回違和感を感じる闇夜だった。
(山の辺深雪か……覚えておこう)
その日は右隣の裕子からの熱いの視線に気づくわけでもなく、深雪のことを考えるだけで一日が終わってしまった。


* * *


闇夜の今回の仮住まいは学校からそう離れてはいなかった。学校から蚕糸の森公園を通りぬけ、青梅街道をわたって、東高円寺商店街のニコニコロード通り過ぎ、大久保通りを越して少し行ったところにあるデザイナーズマンションだった。ニコニコロードには、大きなスーパーがあり、八百屋や魚屋や駄菓子屋もあり、買い物やみちくさには困らなかった。いくら国から予算が出るとはいえ、一介の高校生ごときを家賃二十万円で3LDKの豪華なマンションに住まわせるのもいかがなものかと思われるが、そうあてがわれてしまったのだから仕方がない。そのおかげでピアノまで置けるのだから闇夜は感謝していた。
「ただいま。」
闇夜がタルそうに帰宅を告げると、いきなり轟音を伴って接近してくる物体が……
 「あんや! おかえりーーー!!!!」
 スケキヨが猛ダッシュで抱きついてきた。闇夜の首にぶら下がって、三回転くらいグルグル回ったので頸動脈が圧迫されて目眩がした。
そして人との密着が闇夜をまごつかせる。
「よ、よう、スケキヨ……た、ただいま……」
「ただいまのチューは??」
目を潤ませて上目づかいで見つめてくるチワワのようなスケキヨ。ここはビシッと言ってやらねば……
「な、何言ってんだよ、す、スケキヨ……男同士でキ、キスしてどうすんだよ……あはは……」
「そんなのどうだっていいじゃん。だって僕はあんやの彼氏なんだもん! ニシシ!」
「ば、バカの事言ってないで……着替えるから……」
闇夜はぎこちなく、かつ無理矢理にスケキヨを体から引き離す。スケキヨは、もう、と頬をふくらませている。闇夜は奥の自分の部屋へ入っていく。扉を開けて閉める直前に、
「覗くなよ。」
と釘を刺す。スケキヨは更にふてくされる。
闇夜は黄土色のブレザーを脱ぎながら、
「まったくあいつはなんでこんなことに……」
とひとりごちた。
 (そういえばあいつとももう十六年の付き合いになるか……)
 闇夜は遠い目で、着流し姿に着替えながら回想した。


* * *


 闇夜とスケキヨとの出会いは闇夜が五歳の時まで遡ることになる。
 呪術の修行をしながら日本中を旅していた時、岡山県の山間部の小さな村に滞在中に、闇夜はスケキヨの御霊と出会った。陰陽道の師匠である、田山伊右衛門がいる山小屋での修行が終わった帰り道に、村の大きな旧家の前で、闇夜はスケキヨを見つけた。
 髪の毛はホワイトアッシュで、ざっくりとすいてあり、ふんわりしている。雪のように白い肌で薄紅色の唇、そしてその口の左下にはほくろ。目は碧眼。華奢で小柄なので、ズボンを履いてなければ女の子と見間違えてしまうような美少年だった。
 彼はその近くを人が通るたびにその人を眺めていた。
 闇夜は修行で滝に打たれたり、難しい呪文を何度も唱えさせられたりする毎日に疲れながらも、その家の前にいるスケキヨをじっと見ていた。そして目があった。それが何回か繰り返されると、その少年はいきなり声をかけてきた。
 「君!」
 闇夜はどぎまぎしながら答えた。
 「オ、オレのこと?」
 「うん。」
 「なーに?」
 「君は僕のことが見えるの?」
 「うん。見えるよ。他の人は君のこと見えないの?」
 「うん。僕のこと見える人は他にはいないみたい。君、名前は?」
 「闇夜。月島闇夜。君は?」
 「スケキヨ。青沼スケキヨ。もともとこの家の九人兄弟の末っ子だったんだ。でも十五歳の時に結核で死んじゃってね。」
 「そうなんだ。オレはお父さんもお母さんも知らないんだ。何人兄弟かも知らない。どこで生まれたかも知らない。ゴトーっていうおじちゃんと、シショーしか知ってる人がいないんだ。毎日毎日ここの山小屋でシュギョーしてんだ。何のシュギョーなんだかよくわからないんだけど……」
 「ふうん。そうなんだ。」
 そんな感じで闇夜とスケキヨは出会った。そして山小屋での修行を終えた帰り道で闇夜はスケキヨと毎日話しをするようになった。
 「スケキヨは何が好きなの?」
 「僕はヴァイオリンとピアノが好き。おとうさまが買ってくれたんだ。それを上手に演奏するとおかあさまが喜んでくれるの。」
 「ばいおりん?ぴあの?なにそれ?」
 「楽器だよ。音が出るんだよ。それでいろんな音楽が弾けるの。あんやは何が好きなの?」
 「うんとねー、わかんない。あ、食べることが好きかな。美味しいものを食べるのが好き。色んな所を旅行してるの。それでそこで美味しいものを食べるのが好き。でも虫は怖くて食べられない。」
 各地を転々としている闇夜に、はじめて友だちができた。毎日が楽しくなった。自分が生きている、という感覚をはじめて感じた。
 「あんや、色んなところ旅行してるってどんな感じ?」
 「うーん、自分のおうちがないみたい。でもいろんな場所で美味しいものを食べられるのは楽しいよ。」
 「そうか。いいなあ。僕ずっとここから動けないんだ。だから他の場所がどんなところなのかわからないんだ。うらやましいなぁ。」
 「ふーん。そっか。スケキヨも色んな所行けるといいのにね。」

 闇夜はスケキヨのことを師匠の伊右衛門に話してみることにした。闇夜は伊右衛門にスケキヨとの出会いや、その場から動けないということを話した。
 すると伊右衛門はあごひげを手でひねりながら闇夜に答えた。
 「ふーむ。そうじゃな。そいつは自縛霊というやつだな。」
 「ジバクレイ?」
 「そうじゃ。この世に未練を残した霊がその場所に縛り付けてられてしまっている状態のことじゃ。」
 「スケキヨは他の場所に行けないの?」
 「そういうことになるな。でも他の場所に行く方法は二つある。一つは供養してやって成仏させてやることじゃ。」
 「そうすると他の場所にいけるの?」
 「うーむ、正確にはそうではないのう。成仏すると天国か地獄に行ってしまう。そうするともう会えなくなる。まあそれが一番その霊に良い事なのじゃよ。」
 「……。そっかぁ。ジョーブツってのしちゃうともう会えないのか……。もう一つは?」
 「ふむ。もう一つはじゃな……これは陰陽道を学ぶものには絶対必要なことなのじゃが……闇夜には色々教えてきたが……そろそろお前も識神を持ったらどうじゃろうか?」
 「シキガミ?」
 「識神というのはじゃな、自分を助けてくれる霊的存在、つまり言うことを聞いてくれる仲間みたいなものじゃ。霊じゃからこの世の存在では無いがのう。そのスケキヨとやらを識神にしてしまえば、呼びたいときに呼べるし、いつも一緒にいることができるぞ。」
 伊右衛門は珍しく目を細めて言った。
 「そうなの?! それはいいかもしれない!」
 闇夜は目を輝かせて言った。しかし伊右衛門はこうも続けた。
 「じゃが、問題なのは闇夜の力がスケキヨとやらを識神にするほどまで及んでるかどうかじゃ。闇夜の力がそこまで及んでないのに識神にしたら、逆に闇夜が識神に支配されてしまう。そうなると厄介じゃからな。」
 闇夜は臆することなく言った。
 「わかった。オレがんばる! 頑張ってスケキヨを識神にする!」

 闇夜は生まれてはじめて生きる目標ができた。それまではまわりから言われたようにただただ漫然と修行していたのが、一つの目標を得て、頑張ることでみるみるうちに力をつけていった。そして修行の帰りには毎日スケキヨと話をした。
 「ふーん、識神っていうのになると、いつもあんやと一緒にいられるんだ!」
 「そうなんだよ。でもまだオレの力じゃシキガミを使えないんだって。だからいっぱい頑張ってるんだ。」
 「そっかぁ。早く僕を識神にして欲しいな。だって僕らもう友だちだよね?」
 「トモダチ……そうだよな! オレ頑張るよ!」
 「うん。応援してるよ。」

 闇夜は無我夢中で修行に打ち込んだ。そしてあっという間に一ヶ月が経った。すると伊右衛門はある日闇夜にこう告げた。
 「うむ。闇夜もよく頑張ってきたな。そろそろ識神の作り方を教えよう。」
 「ほんと? やったー!!」
 闇夜は心の底から喜んだ。伊右衛門はこう続けた。
 「明日は朝、これから教える識神を作る儀式をやってからここに識神を連れて来なさい。闇夜の識神がどんなものか見てみたいからのう。」
 「わかった! そうする!」
 その後、闇夜は伊右衛門から識神を作る儀式を教わりいつもと違う道を通ってスケキヨに会わないようにして帰り、早めに就寝した。

 明くる朝、闇夜はまず滝に打たれて、禊ぎをした。そしてスケキヨのいる旧家の前まで行った。するとそこには果たしてスケキヨがいた。
 スケキヨのいるところまで行くと、闇夜はスケキヨの挨拶には答えず、無言で石を使ってスケキヨの周りを五芒星で囲んだ。そしていつもと違うテンションでこう唱えた。
 「急急如(きゅうきゅうにょ)律令(りつりょう)。」
 すると朝日で覆われていた一帯が一転暗くなった。スケキヨは少し不安げな顔色になる。
 今度は闇夜は懐から人型の半紙を取り出し、自分の指先を噛み切って、しみだした血で五芒星を半紙に描いた。それを地面に置き、こう続けた。
 「宿りし者の力と念を、わが元においてこの元へと移す。天霊霊地霊霊十二神将、急急如律令。我が力に従いて、その力、ここに聞こし召し給え。急急如律令。」
 するとスケキヨを囲む五芒星が青く光りだす。その光はどんどん強くなり、スケキヨを飲み込んでいく。そしてその光は、地面においた人型の半紙に吸い込まれていく。全部の光が半紙に吸い込まれると、光は無くなり、一瞬辺りは真っ暗になる。するとつかの間、人型の半紙はまた青白い光を放ち大きくなっていく。光はどんどん強くなり、真っ暗だった辺りをどんどん飲み込んでいき、闇夜もその眩しさに目をつむり、いつの間にか気を失った。
 どれくらいの時間が経ったのかわからないが、闇夜とスケキヨは気がつくと倒れていた。
 辺りは先ほどの朝の風景に戻り、小鳥のさえずりが聞こえた。
 闇夜とスケキヨはゆっくりと立ち上がった。
 「僕はこれで識神になれた……のかな?」
 「わかんない。」
 闇夜は頭を叩きながら正気を取り戻す。
 「試しに紙に戻してみるね。」
 闇夜はこう続ける。
 「オン・ウカヤボダヤダルマシキビヤク・ソワカ」
 するとスケキヨは黄色い光りに包まれ、一瞬で人型の半紙に姿を変えた。
 「おおう!!」
 闇夜の驚きは声に漏れた。そしてその紙を拾い、息を吹きかけ、地面に落とすと、地面に直径三メーターほどの五芒星が青白く光を放ちながら現れ、その真ん中にスケキヨがまた現れた。
 「すごい! 識神になってるよ! あはは! すごいすごい!」
 二人は手を取り合ってはしゃいでジャンプした。
 「これでいつもあんやと一緒にいられるんだね!」
 「そうだよ。いつも一緒だよ! スケキヨ!」
 本当の友だちを得ることができた闇夜は喜びを隠し得ない。
 「それじゃあシショーのところに一緒に行こう!」
 二人は手をつないで山道を登った。十五歳の少年と五歳の幼児が手をつなぎ、朝もやの中歩いて行く姿はまるで兄弟のようだった。道すがら闇夜はスケキヨに尋ねた。
 「そういえば、スケキヨはジバクレイっていう幽霊だったんだって。シショーが言ってた。この世に未練を残した霊なんだって。スケキヨは何を後悔してたの?」
 スケキヨは少し目をつむりうつむいたあと、闇夜を見下ろしこう告げた。
 「そうだね。確かに僕はこの世に未練があった。それはね……僕友だちが欲しかったんだ。僕は体が弱くて全然学校に行けなくてね。いっつも家にいた。一人で本を読んだり、ピアノを弾いたり、ヴァイオリンを弾いたり、絵を描いたり。でもそれを見せたり聴かせたり教えたりする人がいなかったんだ。おとうさまやおかあさま以外は。お兄さまたちはみんな戦争に行って帰って来なかった。さみしかったんだ。」
 「そうだったんだ。僕も友だちがいなかった。いつも一人だった。」
 闇夜は目に暗い影を落とした。すると「でもね」とスケキヨが続ける。
 「でもね、今は違う。友だちが出来たから! 僕にも喜びを分かち合える友だちができたんだ!」
 二人は握っている手を更に強く握り、にっこりと微笑みあった。

 二人が山小屋へ到着すると、伊右衛門がニコニコしながら迎えてくれた。
 「よく来たね。スケキヨ君。話は聞いてるよ。」
 「はじめまして。青沼スケキヨです。」
 初対面同士が挨拶をすると、伊右衛門は庵に二人を招き入れた。
 四畳半くらいの庵にはお茶が三つ並べてあった。伊右衛門が好きな普洱(プーアル)茶(ちゃ)だ。
 三人はお茶をすすりながら鳥の声を聞いていた。
 「スケキヨ君。ここまではっきりと具現化された識神は見たことがない。これも君の想いと闇夜の力のおかげかもしれない。君にはこれから闇夜を色々と手助けして欲しい。闇夜は今は陰陽道を学んでいるが、これから修験道、古神道、密教やエクソシズムまで色々学ばせることになると思う。その折々で彼を助けてやってくれ。彼には家族がいない。だから、スケキヨ君が彼の家族になって欲しい。父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だちである……そんな存在になって欲しい。」
 伊右衛門はひとしきり喋ると普洱茶をすすった。闇夜は伊右衛門の口からそんな言葉が出るとは思いもしなかった。そしてそれに戸惑いを見せた。それに対し、スケキヨはしばらく考えこんでから、伊右衛門の方を向き、こう答えた。
 「分かりました。僕は彼の父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だちであり……そして彼の『彼氏』になります!」
 
その言葉に伊右衛門はお茶を吹いた。闇夜には何が起こったのかわからなかった。ひとしきり咳き込んだ伊右衛門が平静を取り戻すと、
 「そ、そうか……まあ人それぞれやりようがあるからな……まあ程々にしといてくれ。」
 「はい! 程々に頑張ります!」
 スケキヨはニコニコしながら言った。
 『彼氏』というのがどういう意味なのか、それを知るのには、闇夜が小学五年生になるまで待たねばならなかった。


* * *


 闇夜は濃い緑色の着物に着替えた。そして格子柄で白を基調とした袖付き羽織を羽織った。長めの髪は後ろで束ねていて、まるで素浪人のような出で立ちだ。眼鏡も外し、部屋を出てリヴィンウルームに向かう。
 その姿を見つけたスケキヨは目をハートマークにしてすり寄ってくる。
 「あんやかっこいい〜〜!! 惚れなおしたよ! 丁度近くに呉服屋があったから買ってきたんだけど……。さすが僕の見立て通り!」
 「そ、そうかぁ? まあ和服の方が落ち着くしな。丁度持ってた和服もボロボロになっていたからな。それより今日の夕飯はなんだ?」
 「ニシシ。今日はあんやの好きなミートローフとガーリックライスだよ。」
 闇夜は思わず顔がほころんだ。
 「そうか。それは楽しみだな。」
 そう言って、闇夜はリヴィングのステレオの方に向かう。レコード棚をしばらくあさり、一枚のレコードを引っ張り出してきた。そのレコードをプレイヤーに載せ、針を落とす。ブツッという音がしばらくして、いきなりバシっというスラップ音が鳴ると共に軽やかなメロディーが流れてくる。その様は天真爛漫、百花繚乱という感じだ。と、スケキヨが声を上げる。
 「ラヴェルのピアノ協奏曲!」
 「そうだ。ピアノがサンソン・フランソワで、オケがパリ音楽院管弦楽団、指揮はアンドレ・クリュイタンスのやつだ。僕はこの演奏がラヴェルの協奏曲の中でも一番好きだ。こんな日にはぴったりな曲だろ?」
 気まぐれに連なるピアノの調べは、まるでマリオネットがピアノの鍵盤上でバレエを踊っているかのようだ。
 それに合わせてスケキヨはしばらく台所で鼻歌混じりにステップを踏んで料理の続きをしている。
 そしてラヴェルピアノ協奏曲の第一楽章が終わりかけた頃に、スケキヨが台所から呼んだ。
 「できたよー。あんや。」
 テーブルには大きな皿に盛りつけられたミートローフと小さい皿にガーリックライスが。ミートローフはマッシュポテトで覆われていて、ところどころに焦げ目がついているのが食欲をそそられる。
 スケキヨはミートローフを切り分ける。ナイフをミートローフに入れると、肉汁が溢れ出てくる。それを見て闇夜は思わず嘆息を漏らす。
 「グレイヴィーソースは?」
 「はいはい。」
 と、スケキヨはソースポットに入ったグレイヴィーソースを差し出した。グレイヴィーソースというのはミートローフを焼く際に出た肉汁を集めて醤油や塩コショウその他スパイスで味を整えたものだ。ミートローフにはこれが無くてはならない。無論、ガーリックライスもグレイヴィーソースで味付けしたものだ。
 闇夜はグレイヴィーソースをミートローフにかけて一口食べる。マッシュポテトで包んでいるため肉汁や旨味が閉じ込められていて、芳醇な肉汁の旨味が口の中いっぱいにあふれる。牛と豚の合挽きだが、両方の肉の香りが渾然一体となって口腔から鼻に抜ける。ハンバーグも嫌いではないが、挽き肉はミートローフにして食べるのが一番だと闇夜は思っていた。醤油ベースのグレイヴィーだとどうしても味が濃くなってしまうが、それはマッシュポテトがうまく緩和してくれた。
 ガーリックライスの方は、グレイヴィーの旨味、焦げたにんにくの香りがたまらない。そしてジャマイカ産の唐辛子、スコッチボネットが独特のアクセントになっている。
 闇夜ががっついていると、それをじーっとスケキヨが見ている。そして聞いた。
 「あんや、どうかな?」
 「……見てわからんか?」
 「ちゃんと言って!」
 スケキヨは真剣な眼差しをこちらに向ける。
 「…………わーったよ。旨いよサイコー。」
 「ほんと?! わーいわーい!」
 スケキヨはエプロン姿のまま飛び跳ねて喜ぶ。
 「ニシシ。デザートもあるよ?」
 「ほう。なんだ?」
 「チェリーパイだよ。」
 スケキヨは笑顔で答えた。
 「ほう、そいつはすごい。」
 闇夜はミートローフとガーリックライスをたいらげながら感嘆の声と隠し得ない。
 「チェリーパイだが…………。」
 「温めてアイスクリームをのっけるのでしょ?」
 「わかってるじゃねえか。」
 闇夜は満足気な顔をする。チェリーパイを温める電子レンジの音がする。すると、湯気の立ち上る、ホールから六分の一に切り分けられたチェリーパイが、これでもかと言わんばかりにたっぷりとヴァニラアイスクリームがトッピングされて出てくる。アイスクリームはヴァニラビーンズの黒いつぶつぶが混じっている本格的なものだった。スケキヨが自作したものなのだろうか?
 「どれどれ?」
 闇夜はフォークを手に取る。さっくりとしたパイ生地の下には赤黒いチェリーが見える。アイスクリームは溶けかかっていて、クリーム状になった部分がチェリーパイをまんべんなく覆っている。闇夜は溶けていない部分のアイスクリームを取りながらチェリーパイを口いっぱいに頬張る。熱いチェリーパイと冷たいアイスクリームが不離一体となって闇夜の口腔内に広がる。チェリーパイの酸味とアイスクリームの甘みが調度良いバランスだ。チェリーパイに入っているシナモンがよいアクセントとなっている。
 「スケキヨの作るチェリーパイは最高だな。」
 闇夜の賛辞を聞くまでもなく、チェリーパイを貪る闇夜に向けられるスケキヨのニコニコ顔は終始続く。至福の時間だった。

 ひとしきり食べた後、闇夜はスケキヨが淹れてくれたチャイをすすっている。非常に甘いがスパイスのせいかそれほど気にならない。
 「スケキヨ、このチャイどうやって作ってるんだ?」
 「えっとね、まず水にアッサム茶葉とシナモンとカルダモン、クローブ、そして生姜のすりおろしを入れて煮込むでしょう? まあ煮込む間に香りが結構飛んじゃうから茶葉はそんな上等じゃなくていいんだけど。それでから低温殺菌のノンケ牛乳を入れて沸騰しないように弱火で煮込む。あとは茶こししながらコップに注ぐだけ。白砂糖じゃなくて、はちみつを使うのがポイントだね。白砂糖を使うとどうしてもエグみが出ちゃうから。」
 スケキヨはニコニコしながら熱心に語った。
 「ノンケ牛乳?」
 「ああ、ホモ牛乳じゃないってこと。まあ普通の牛乳のことだね。ホモ牛乳はお腹をこわさないけど、味がうすいんだよね。」
 「ノンケ牛乳ね……なんつうか、ものは言い様だな。ところでお前ってホモなの?」
 「何言ってるんだよ! 僕が好きなのはあんやだけだよ!」
 よくそんなこっ恥ずかしいことを平然と言えるな、と闇夜は他人事ながら思った。それにしても闇夜は、どこでそんな言葉を覚えたのか気になったが、問いただそうとは思わなかった。
 「ところであんや。今日は学校どうだったの?」
 「うーん、まあ歓迎はされたけど、まだ『仕事』に関しては手がかりはそれほどつかめていない。疑わしい人物は見つけたんだがまだ確信は持てない……しかしまあこの稼業はいちいち制服が変わって面倒くさいと毎回思うよ。」
 「ふーん。」
 スケキヨはスプーンを鼻と唇の間にはさみながら答えた。
 「それでスケキヨにちょっと頼みがあるんだ。」
 「なーに?」
 「山の辺深雪という女の子のことをちょっと調べて欲しい。どうやら彼女の周辺で良くないことが起こってるらしいんだ。だから俺が学校行ってる間、彼女の周辺を内偵して欲しい。できるよな?」
 スケキヨはジト目でこう答えた。
 「できるけど……まさかあんやその山の辺深雪という女の子に気があるってわけじゃないよね?」
 「バカ言うな。俺がこの稼業で守っていることがあるってことは知ってるだろ? 俺はどこに転校しようと友だちは作らない。どうせ『仕事』が終わったら転校しなきゃならん。そうしたら友だちとは別れなきゃならない。それがたまらなく苦しい。それならいっそ最初から友だちを作らなきゃいい。」
 闇夜は半ば吐き捨てるように言った。
 「でもあんやはそれで辛くない? 僕はあんやさえいてくれればそれでいいけど……でも友だちはたくさんいて困ることはないと思うよ? ……転校しても連絡取り合うくらい造作も無いことじゃないのかな?」
 スケキヨは心配そうに言う。
 スケキヨは昔から十五歳のままだ。昔は闇夜にとってスケキヨは年上だった。だから兄のようなことを言ったりすることがある。今は闇夜の年下に当たるので弟みたいな存在だが。
 「だめだ。この『仕事』は他の人に知られちゃいかん。付き合いが深くなればこの『仕事』がいずれ知られることになる。それはなんとしても避けたい。だから友だちは……作らない……いや、『作れない』んだ。」
 闇夜は目を伏せた。
 「でも……」
 「だめだったらだめだ! もうこの話は終わりだ。もう寝る……」
 闇夜は席を立つ。
 「あ、その前に今週はアンチエイジングのアンプルを注射しなきゃ。」
 「……そうだったな。……たのむわ。」
 スケキヨは薬箱からアンプルを取り出し、蓋をパキッと割り注射器に注入する。このアンプルの中にどんな薬品が入ってるのかは闇夜は知らないし後藤に深く追求する気はなかった。まあ特別生活に支障をきたすことはなかったので聞こうとはしなかったのだろう。この注射は闇夜が十七歳の時から打っている。現在闇夜は二十一歳。この『仕事』を続けるにはいつまでも高校生のような外見でいる必要があったのだ。実際闇夜はその注射のおかげか、髭が濃くなったりすることはなかった。
闇夜は袖をまくり左腕にその注射器で筋肉注射してもらう。いつものことで慣れているが、ちょっとイライラしていた闇夜にはその注射はいつもより痛い気がした。
闇夜は自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。仰向けになり、暗くなった部屋の中で天井を見上げる。
(俺ってなんでこんな仕事してるんだろう? いつまで続けるのだろう?)
そんなことを考えながら知らないうちに眠りに落ち、夢をみることもなく次の朝が来た。


* * *


 その日の学校では特別なことが起こるわけでもなく、闇夜は一日中深雪を見て過ごした。相変わらず隣の生天目裕子からの熱い視線に気づくこともなく。
 だが、最後の時限が終わったあとちょっとしたことが起こった。
 授業が終わり、ガヤガヤとした教室内で突如静寂が訪れた。クラス委員長の生(き)上院(じょういん)瑠璃(るり)香(か)とその取り巻きの島田かほり、そして海江田魚々子(かいえだななこ)があろうことか、帰り支度をしている山の辺深雪に詰め寄っていた。
 「ちょっと、山の辺さん、進路希望表の提出、まだなの?」
 生上院瑠璃香が山の辺深雪にイライラしながら尋ねた。
 彼女は長い髪をポニーテールにしていて、目がつり上がっていて、真面目で、いかにも『委員長』という感じのタイプの生徒だった。
 「……」
 深雪は無言だった。
 「ちょっと。黙ってたらわからないでしょ? あなたが進路希望のプリント提出しないと、なぜか瑠璃香があの三十四歳独身に怒られることになるのよ。聞いてるの?」
 島田かほりが続ける。肌は少し褐色がかっていて一見健康的だが、髪の毛は脱色して長く垂らしていて、高校生にして入念なネイルアートとメイクが施されていて、いかにもギャル予備軍という感じだった。
 「……」
 深雪の目は虚ろだった。
 「あんたデューク東郷のつもり?『……』で会話が成り立つと思ってるの? 話しなきゃ事情があったってわからないでしょ? 何とか言いなさいよ?」
 瑠璃香は幾分譲歩しながらもたたみかける。
 「……」
 深雪に変化はない。
 クラスの他の生徒は音も立てずに誰もが視線を瑠璃香達に向ける。
 瑠璃香のイライラは頂点に達し、
 「ふざけないで!」
 と座っている深雪の机をバンっと両手で叩いた。
 「これは言わないでおこうと思ったのだけど、この際言っておくわ。あんたに関わると祟りがあるらしいわね。あんた、周りからなんて呼ばれているのか知ってるの? 『鳥居』よ? でもあたしはそんな祟りなんか信じないから。あんたに関わって祟りがあって怖がるとでも思ってるの? あたしはやるべきことをやってるだけにすぎないから、あんたに恨まれる筋合いは無いからね。」
 瑠璃香の目は一層つり上がった。
 「そうよ。あんたの力がどんなもんか知らないけどあたしはそんなこと気にしないから。分かってるの? 『鳥居みゆき』さん?」
 かほりは長い髪の毛を手でねじりながら蔑みの目を向け攻撃する。
 そこで端からオロオロしながら見ていた魚々子が口を挟む。
 「ちょ、ちょっと二人とも。そ、そこまで言うことないじゃない? 山の辺さんだって事情があるかもしれないじゃない? 冷静に。冷静にね。」
 魚々子は震えながら二人をなだめる。魚々子はサイドテールのリボンを何気なく外し、目は少し潤んでいた。そして深雪に恐る恐る言った。
 「山の辺さん。あなたもご家庭の事情があるのよね? でも明日までに進路希望表出してくれないかな? そうすればみ……」
 と言いかけたところで、虚無だった深雪の瞳が鋭い眼光を瑠璃香、かほり、魚々子の順に発射した。
 時間が止まった。
 四人を見守っていたクラスのみんなも全て凍りついた。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。時間停止を全身全霊をこめて瑠璃香が破った。
 「な、何よその目……」
 深雪の瞳から発せられる光線が瑠璃香に向けられる。
 「と、とにかく明日までに出してちょうだい。」
 瑠璃香は明らかにビビっていた。
 「そ、そうよ。いい気にならないでよね。」
 かほりは顔をひきつらせながら言った。
 「み、みんな悪気はないのよ。明日必ず進路希望表提出してね。」
 魚々子は誰の目から見ても震えていた。
 瑠璃香が深雪を一べつしたあと、三人は逃げるように教室を出た。しばらくして深雪も帰り支度を済ませ、教室を出て行った。
 クラス中から嘆息が漏れる。ようやく時間が動き始めた。
 「ふう。息が詰まるな。窒息して死ぬかと思ったぜ。」
 闇夜の後ろの達俊もこの時ばかりはえびす顔ではなかった。
 「何事も起きなければいいけど……」
 達俊は闇夜に尋ねるともなしに言った。
 「……そうで御座いますな。」
 闇夜は達俊の方を向くでもなしに深雪の席を向きながら答えた。そして黒い外套を羽織り、カフグリップ付きの杖に手をかけ教室を出て行った。


* * *


ピンポーン
「どちら様ですか?」
「ごめんください。突然失礼致します。実は今日、あなたに聖書から素晴らしい言葉をお伝えしたくてお伺いしたのですが……」
「そ、そうですか。残念ですが、興味ありませんので失礼致します。」
「さようでございますか。それではその聖書の良い言葉の書いてある冊子をポストに入れておきますのでお時間のあるときに読んでいただければと思います。ごめんくださいませ。」
「は、はあ……」

ツカツカツカ
ピンポーン
「はい。」
「ごめんください。突然失礼致します。実は今日、あなたに聖書から素晴らしい言葉をお伝えしたくて……」
「またあなたですか……もう来ないでくださいとお伝えしたでしょう。二度と来ないでください。ごめんくださいませ。」
「ですがあの……」
ブツ

ツカツカツカ
ピンポーン

ピンポーン
「お待たせしました。どちら様でしょう?」
「ごめんください。突然失礼致します。実は今日、あなたに聖書から……」
「うるせぇ! 何度言ったらわかるんだ? 二度と来んな! 通報するぞ!」
ブツ
「…………」


東高円寺駅から青梅街道沿いに歩き、環七を超えたところにある昼下がりの団地。一人の中年女性が団地のドアからドアへと次々に呼び鈴を鳴らしている。彼女は山の辺瑞(みず)歩(ほ)。本当は四十三歳だが、髪の毛は白髪まみれでボサボサで、顔もシワが目立ち、見方によっては六十代に見える。長いスカートを履き、季節外れのグレーのストールをまとっている。声は酒やけしており、老婆のようにしわがれている。決して魅力的な声とは言えないだろう。片手には冊子の一杯はいった紙袋をぶら下げている。十階建てで、ワンフロアに十室ある団地で片っ端から呼び鈴を鳴らしているが、一向に冊子が減る様子もない。団地の住人には彼女からの切なる声は届かない。人を訪ねては罵倒され、蔑まれ、瑞歩の心はすっかりやさぐれていた。夫にも逃げられた瑞歩には信仰と娘しか残されていなかった。こと信仰に関しては偏執狂的であった。信仰を深めればいつか自分は救われる、そう彼女は信じて疑わなかった。いくら世間から冷たい目で見られようが、寄付金が高かろうが、いつか救われる。そう信じることでなんとか『生』にしがみつくことができるギリギリの状態であった。
その様子を一人の少年が物陰からじっと見ている。キャスケットを目深に被り、七分丈のニッカボッカをサスペンダーで吊り下げている少年は青沼スケキヨであった。彼はその老女の行動をつぶさに見て取り、ポケットから取り出したメモに筆を走らせている。神聖なる『訪問』に勤しんでいる瑞歩はあまりにも集中しているため彼に気が付かない。
ひと通り団地を回り尽くし、彼女は車の往来が激しい環七通りに出てきた。一息ついて、ポケットからスキットルを取り出し、ドライジンを目一杯あおった。松の匂いが口いっぱいに広がり、飲み込むと同時に喉に熱い感覚が通り抜けた。彼女は団地を見上げ、目を細めながらひとりごちた。
「主よ、彼(か)の人々を呪い給え。」

そうして彼女は帰途につく。青梅街道を戻り、東高円寺駅北口の裏手にある高円寺東児童館の目の前にある古びれた一戸建てが瑞歩の家だった。いかにも日本家屋という感じだが、ざっと見たところ築五十年はくだらないと見え、今にも屋根が崩れそうだった。家の前には数々の植木が並んでいるが、あまり手入れがなされていない。それどころか屋根を覆っている蔦が植木の上にまで伸び覆いかぶさっており、日当たりが非常に悪い。
スケキヨは人差指と中指を眉間にかざすと、その姿は毛並の良い黒猫へと変化した。
瑞歩が自宅に入ると、ドアが閉まる直前に黒猫も音も立てずにするりと家の中に入っていった。
すでに瑞歩の娘の深雪が帰宅していた。深雪は自分の部屋で英語の勉強をしていた。深雪の部屋は蛍光灯の機嫌が悪く、パチパチと点いたり消えたりするので敢えて消してあり、机の上の裸電球だけが点いている。本棚にはマンガや小説といった類いのものは全く無く、教科書と参考書、そして分厚い聖書だけがあった。壁にはポスターといったものも無ければぬいぐるみの一つも無く、がらんとしており、殺風景で、おおよそ女子高生の部屋とは思えない地味さが漂っていた。
不意にノックもなく瑞歩が深雪の部屋のドアをバタンと開けた。ボンベイ・サファイアのジンの瓶を片手にぐびっと飲んでから深雪を睨む。
「深雪、今日学校どうだった?」
その声には感情がこもっていなかった。深雪はゆっくり瑞歩の方を向いて答えた。
「……別に……」
瑞歩は更にキツい目つきになって加える。
「誰かと話ししなかったでしょうね?」
深雪はその目つきにビクッとして答えた。
「誰ともおはなししてないわ。お母さん。」
瑞歩は冷たい目つきで突き放すように言った。
「いい? 深雪。世の中は悪意で満ちてるの。世の中に良い人なんてほとんどいないわ。教会に通ってる人でさえ悪意に満ちている人はいっぱいいるわ。みんな深雪を騙そうとしているの。みんな深雪の悪口を言ってるの。唯一信用できるのは、『灯台の光』の仲間だけなの。あなたも十八になったら洗礼を受けさせるわ。そうすれば『灯台の光』の中でお友だちもできるでしょう。でもそれまではあなたが信じることができるのはお母さんだけなの。」
そこまで息継ぎせず言い切ると、ボンベイ・サファイアの瓶をぐびっとやった。
 「お母さん。そんなにお酒飲んだら体に毒よ。」
 深雪が心配そうな眼差しを向ける。すると瑞歩はツカツカ深雪の元へ歩いて行き、おもいっきり平手で深雪の頬を殴った。
「そんな目で私を見ないで! あなたの意見なんて聞いてないの! いい? 絶対に友だちなんて作っちゃだめよ。話してもだめ。特に男の人とは絶対口を聞いてはだめ。男はね、恐ろしいの。男の頭の中はいやらしいことでいっぱいなの。汚らわしいことしか考えていないの。あんたのお父さんだってそうだった。男なんて信じちゃだめよ。あいつらは地獄の業火で永遠に焼かれるのよ。」
そう言い終えてまたジンを一口飲む。
「あなたにふさわしい聖書の言葉を教えるわ。いい? あとから続けて唱えるのよ?」
瑞歩はそう言うと聖書を取り出し、テサロニケの信徒への手紙の第五章を開いた。
「兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱いものたちを助けなさい。すべての人たちに対して忍耐強く接しなさい。」
「……」
深雪は叩かれた頬を押さえながらも、既に泣いていて声が出ない。すると瑞歩は深雪の腕に掴みかかり強引に自分の方に顔を向けさせ言った。
「ちゃんと唱えなさい!! それがあなたのためなのよ!」
深雪は嗚咽を漏らしながら声を振り絞った。
「き、兄弟たち、あなた方に勧めます。ヒック……怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。……ヒック……弱い者たちを助けなさい。すべての人たちに対して忍耐強く接しなさい。」
瑞歩が続ける。
「だれも、悪を持って悪に報いることがないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。」
 深雪も後に続く。
「だ、だれも、悪を持って悪に報いることがないように気をつけなさい。お、お互いの間でも、すべての人に対して、いつも善を行うように、つ、努めなさい。」
瑞歩は深雪の腕を掴みながらも聖書から目を離さない。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、イエス・キリストにおいて、神があなたがたに望んでおられことです。」
深雪はもう目を開けていられないがなんとか声に出す。
「い、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。ど、どんなことにも感謝しなさい。こ、これこそイエス・キリストにおいて、か、神があなたがたに、の、望んでおられること……です。」
すると瑞歩は深雪をゆっくりと抱きしめた。深雪は声を上げて泣きだした。瑞歩は深雪の頭を撫でながら言った。
「お母さんだけがあなたの味方ですからね……あなたが信じることができるのはお母さんだけよ…………お母さんはこれから仕事に行くからね。鍵をちゃんと閉めておきなさい。学校の勉強はもういいから、聖書を読みなさい。わかったわね?」
深雪は瑞歩の腕の中でゆっくりコクンと頷いた。しかしその瞳にはある種の悪意がたたえられていた。この世のすべてを呪わんばかりの目つきだった。そのことに、この時点では誰も気が付かなかった。
一部始終を見ていた黒猫は音もなくその家から出て行った。


* * *


スケキヨが家に戻ると既に闇夜は着流し姿になって、リヴィングルームでくつろいでいた。闇夜はスケキヨに尋ねた。
「山の辺深雪の件だが、なにかわかったか?」
スケキヨはすこしつかれた様子で語り出した。
「あの家はちょっとやばいよ。まず、山の辺深雪の母親、山の辺瑞歩がちょっとまずい。彼女はキリスト教系新興宗教、『灯台の光』の狂信的な信者なんだよ。それはもう酷い感じ。団地で片っ端から布教活動しては追い返されていて酷いストレスを背負ってる。あまりに酷く偏執狂的な瑞歩に愛想を尽かしたのか、夫は逃げちゃったみたい。まあ夫の行方も調べなきゃならないかもしれないけど。それはいいとして、そのせいなのか、或いはその前からなのかもしれないけど、重度のアルコール依存症になってる。彼女の世の中に対する恨み辛みはすべて信仰に向けられている。そのせいで娘である深雪に対する教育は著しく偏っている。深雪が学校で誰とも口を聞かないのは母親が原因みたい。娘に暴力も振るっていたしね。このままでは娘の深雪の心は壊れてしまうか、いずれ外側に向けて攻撃することになるよ。何とかしないと。」
静かに聞いていた闇夜はアスピリンを一錠口に放り込み、言った。
「そうか。しかし攻撃はもう始まっているのかもしれないな。既に『鳥居』なんてアダ名が定着しているし。学校の生徒は明らかに彼女を避けている。彼女が何らかの呪術を使っているのは間違いないだろうな。」
闇夜は頭を抱え、しばらくして頭をあげてスケキヨに言った。
「ふーむ。とりあえずもう少しスケキヨには張り付いてもらえないかな? 特に夜中の深雪の動向を掴んで欲しい。もし彼女が呪術を使っているなら、ここから一番近い高円寺天祖神社に行って丑の刻参りをするか、自分の部屋で黒魔術の儀式をやるはずだ。犠牲者が出る前に何とか止めたいところだけど、確証が得られない限り対処のしようがない。どんな呪術を使ってるかわからないからな。」
闇夜を心配そうに見つめるスケキヨは言った。
「それは造作も無いことだけど……あ、ごめんね。お茶でも淹れるよ。」
台所に向かうスケキヨに闇夜は声をかけた。
「それと気が滅入るから何か音楽でもかけてくれ。」
スケキヨはレコード棚からグレン・グールドのバッハ平均律クラヴィーア曲集を取り出し、レコード針を落とした。整然としながらも、情感のこもった、グレン・グールドのピアノが、どよーんとした部屋の空気を幾分ましにさせた。その足で台所に行き、リラクゼーション効果のある、翠(すい)玉(ぎょく)茶(ちゃ)を淹れ、リヴィングルームまで運んできた。
闇夜が翠玉茶を一口飲むとジンジャーの花のような、清々しい甘い香りが口に広がり、昂ぶっていた神経を優しく撫でていった。
するとスケキヨが切り出した。
「闇夜、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
「なんだ?」
「前から疑問に思ってたことなんだけど……なんであんやは怨霊調伏の時に音楽を使うの? 音楽ってそんなすごい力があるの? 音楽って世界を変えるだけの力があるの?」
闇夜は目を閉じ、しばらく思案してから答えた。
「スケキヨ。夢を壊すようで申し訳ないのだが……はっきり言って音楽に世界を変える力なんか無い。音楽は単なる音楽だ。音楽だけでは話にならない。」
スケキヨは目をパチクリさせる。
「スケキヨ。フィンランディアって知ってるか?」
スケキヨは目を大きく見開いて答えた。
「もちろん知ってるよ。ジャン・シベリウスが1899年に作った曲でしょ?」
闇夜は指を組んで肘をテーブルにのせ、続けた。
「そう。あの曲が作られなければフィンランドっていう国は今頃存在しなかったって言われているというやつだ。あの曲ができた当時、フィンランドはロシア帝国の支配下にあって、その圧政に苦しんでいた。ところがジャン・シベリウスがあの曲を書いて、それを聴いてフィンランド人は独立の志を強めた。それを察知した帝政ロシアは演奏を禁止したりして弾圧したんだ。しかし、第一次大戦のどさくさでロシア革命が起きた時、フィンランド人も立ち上がり、自分たちの国を作った。」
スケキヨは頷きながら聞いていた。
「そうでしょ? フィンランディアがなかったらフィンランド人は立ち上がらなかったんだよね? それだったら、音楽にも世界を変える力があるんじゃないの?」
闇夜はうつむきながらも目線はスケキヨに向けこう付け足した。
「しかしこの話には裏があってね。……ジャン・シベリウスは魔術をつかったとも言われているんだ。」
スケキヨは首を傾げた。どうも納得がいってないようだ。
「シベリウスはキングソロモンが残した魔術書『レメゲトン』を読んで、七十二柱の悪魔を召喚したんだ。そして極秘裏に演奏できる場所をおさえて、真夜中に悪魔たちにフィンランディアを演奏させたんだ。そしてその結果シベリウスは世界の理(ことわり)を書き換えてしまった、という話があるんだ。つまりシベリウスは悪魔を使ってフィンランドを作ったっていう話だ。」
スケキヨの顔からは驚愕の色を隠せない。
「魔術や呪術といったものは、つまるところ人間の『想い』のエネルギーを具現化させたものなんだ。しかしそれ単体では、余程の天才的な魔術師や呪術師でない限りその力は微々たるものだ。裏を返せば『想い』が絶対的に強力ならば、それだけで魔術的、或いは呪術的な現象が起きてしまうとも言えるのだけどね。それはそうと、魔術や呪術単体では力があまりない。一方で音楽自体にも力はない。でも魔術や呪術を音楽という触媒を通して施すとその効果は果てしないものになる。どういう原理でそういうことになっているのかはわからないけどね。とにかく、音楽と、呪術や魔術が組み合わさると、その効果は何倍、何十倍、何百倍、何千倍へと跳ね上がる。その力を使わないでおく理由はないだろ? だから俺は音楽を使ってるんだ。俺らの仕事っていうのは相手に付け入る隙を与えないで、絶対的な力を誇示する必要があるからな。圧倒的な力が必要なんだ。無論、俺が音楽が好きだってのもあるけどね。」
一通り闇夜が喋ると翠玉茶を口に含む。スケキヨはようやく合点が行ったようだ。
「そうだったんだ。ようやく長年の謎が解けたよ。」
スケキヨも翠玉茶を一口飲む。そして続ける。
「で、どうするの? これから。」
「そうだな。とりあえず学校での深雪の様子は俺が見ておく。スケキヨは山の辺瑞歩と夜中の山の辺深雪を見張っててくれ。きっと誰かがそのうちボロを出すに違いない。さて、相手はどう出てくるか……」
闇夜とスケキヨのアフタヌーンティーは思いの外ヘヴィだった。


* * *


 明くる日、深雪は進路希望表を学校に持ってきた。授業が始まる前に深雪は教卓の目の前にある瑠璃香の席のそばに立つ。
 「……」
 「な、なによ?」
 瑠璃香はいぶかしげに深雪に聞く。
 「……」
 深雪は無言で進路希望表を瑠璃香に突き出す。
 「なんだ。やれば出来るじゃない。」
 瑠璃香が言い終わる前に深雪は踵を返す。そのとき深雪の表情にはニヤリとした不敵な笑みが少し含まれていたことに誰も気が付かなかった。

 昼休み。
 生天目裕子はそわそわしていた。どうやったら闇夜に近づけるかどうかばかり考えていた。手っ取り早く仲良くなるには、お弁当を一緒に食べるのが一番かと思っていたが、いきなりそれはハードルが高い。しかしなかなか仲良くなる糸口を見つけられないまま、じっと闇夜の方を見ているだけではなんの進展もないことくらいは自分でも認識していた。それに彼をじっと見ることで学んだのは、闇夜が山の辺深雪の方ばかり見ていることだった。すでに彼の心には彼女のことしか頭にないのかもしれないという懸念もあった。でもここで起死回生の逆転満塁ホームランを打たなければ闇夜を彼女にとられてしまう。だがしかし闇夜が転校してきてからまだ三日目だ。チャンスはある。ここはなんとしても行動を起こさなければならない。裕子は幼い顔立ちには到底見合わないその大きな胸を押さえて精神集中する。「よし!」と心に決めた裕子は自分の頬を両手で二回叩いて、思い切って結腸の奥底から声を振り絞って、闇夜に声をかけた。
 「あ、あの!」
 やばい。声が裏返った。裕子の目には涙がほんの少しだけ湧いていた。
 「つ、月島くん! お、お弁当一緒に、食べませんか?」
 裕子は目をつぶりながら叫んだ。闇夜はそのテンションに少しビビッたあと、首を傾げて答えた。
「拙者とお弁当でござるか? 奇特なお方ですな。拙者とともにお弁当の箸を突いても何も面白いことなどござらんよ?」
裕子は首をブンブン横に振りながら言った。
「そ、そんなことないよ! 月島くんかっこいいし、魅力的だと思うよ。私、もっと月島くんのこと知りたいの。って私何言ってるんだろう?」
裕子は顔の方にカアーっと血液が上ってくるのを感じた。
闇夜はその迫力に負けて、
「さようでございますか。そこまでおっしゃるなら、ご相伴に与りたいと存じます。」
と了承した。すると裕子の顔にはぱあーっと表情が戻っていった。
闇夜は学校では友だちは作らないと決めていたが、それくらいなら構わないだろうと思った。しかし正直、だれかと弁当を一緒に食べるなどといったことは今までの彼にとっては皆無だった。だから勝手がわからない。一つの机に弁当を並べて、黙々と弁当を食べていてはしょうがないことくらいは闇夜は理解していた。何を話しながら食べればいいのか? そんな簡単なことすら彼には理解できなかった。しかし、一緒に弁当を食べることを了承した手前、断るわけにもいかなかった。
二人は一緒の机に対面に座り弁当を用意した。
しかしここで問題が発生した。
スケキヨが作った弁当の蓋を開けた瞬間、そこには、『ここ』にはあってはならないものがあった。
 弁当にはおかずとして、唐揚げ、チーズオムレツ、プチトマト、鯖の味噌煮が入っていた。それは問題なかった。しかし、ごはんを見ると、海苔で大きく『ダイスキ』という文字が描かれていた。蓋を開けた瞬間、カパッと蓋を戻した。
(まずい。非常にまずい。何とかせねば。こののり弁はぐちゃぐちゃっとかき混ぜればなんとかごまかせるかもしれない。でもアイツの事だ。第二、第三の地雷を仕掛けているに違いない。そんなものをクラスの人間に見られたらどう言い訳すればいいんだ? 新婚のサラリーマンだったら、ただの愛妻弁当とかいってからかわれるだけで済むが、アイツとの関係は非常に複雑だ。口で説明しおおせる自信がない。ここはもうこれしかないな。三十六計逃げるに如かず!)
「生天目殿、大変申し訳ござらん。今日ちょっと先生から呼び出しを受けていたことを忘れておりました。また別の機会に。」
「えー? そんなー……ちょっと……」
闇夜は裕子に一べつするのでもなく、弁当を持って杖をつきながら教室を急いで出て行った。
「もう。まったく。ついてないなー。それにしても先生に呼び出されたからってなんでお弁当まで持っていくのかしら?」
裕子は頬を膨らました。

闇夜は杖をついて息を切らせながら屋上へと向かった。螺旋状に続く階段は、永遠に続きいつまでたっても終わりが見えないように感じ、軽い目眩が起こっていた。長かった階段をようやく登り終え、屋上にたどり着くと、果たしてそこには誰もいなかった。闇屋は胸をなでおろして、改めて弁当を広げた。
「味は完璧なんだけどなぁ……」
闇夜は眼下に広がる蚕糸の森公園を見ながら弁当に箸をつける。
しかし、そんなことがあった間、見逃すべきではない兆候が教室で起こっていたのを、闇夜は知らsなかった。

 昼休みの教室。
 教卓の一番前の席に座っている生上院瑠璃香は隣の席の島田かほりと談笑しながら一緒に弁当を食べていた。すると瑠璃香はいきなり奥歯の痛みに襲われた。
「イタ!」
かほりが尋ねる。
「どうしたの?」
「急に奥歯が痛み出して……ちゃんと毎日三回歯を磨いてるのに。」
かほりが心配そうに言う。
「早く歯医者行ったほうがいいよ? 多分これからどんどん痛みが強くなってくるから。」
「そうよね。今日学校の帰りに歯医者行ってみるわ。でもこの辺の歯医者って轟歯科医院しか無いのよね。あそこなんか古臭くて嫌なのよね。」
瑠璃香は渋い顔をした。するとかほりは笑顔で答える。
「安心して。骨はあたしが拾ってあげるから。」
かほりはケタケタ笑っている。
「もう。こっちは大変なんだからね。よくそんな冗談言えるわね。」
瑠璃香は目を吊り上げる。


* * *


直接陽の光が射さない部屋。電気も消えている。
東高円寺商店街のニコニコロードから少しわきに入ったところにある轟歯科医院には、受付嬢もいなければ看護婦もおらず、歯科医の轟源三郎一人しかいない。彼は先程から何やら熱心に打ち込んでいる。患者はここ一週間訪れていない。
轟はジッパー付きの小さなビニール袋に入っているアンフェタミンの白い粉を丁寧に取り出し、水に溶かし撹拌し、それを注射器で吸い取る。そして右腕にゴムを巻いて血管を浮き立たせて、その血管にむけてその注射器で静脈注射する。すると血管内に冷たい感覚が走る。しばらくしてから、
「ああああああああああああ。」
と嘆息に似た声を上げる。
「来た来た来た!!!!はあああああ!!!!」
轟は空虚な病室で一人興奮している。
すると不意にドアチャイムが鳴る。久しぶりの患者だった。
轟は自分の大切な時間を邪魔されて少しむっとしたが、患者が来なければこの快感も得られなくなると思い、散らかったものを片付ける。
轟は出来る限り平静を装って受付に出る。
「こんにちは。今日はどうされましたか?」
「急に奥歯が痛み出して……」
「保険証はありますか? はあはあ。生上院瑠璃香さんね。それじゃさっそく診察室に入ってください。」
轟は奥に引っ込んだ。瑠璃香は黄ばんだ壁をキョロキョロ見ながら、恐る恐る診察室に入っていった。消毒液の臭いがする。申し訳程度にケニー・Gのソプラノサックスが響き渡る。歯医者というのはなんでケニー・GなんかBGMにするのだろうか? ただでさえ恐怖を覚える歯医者なのに、ケニー・Gのソプラノサックスの、取ってつけたような爽やかさはかえって逆効果だ。今ではすっかりケニー・Gを聞くだけで条件反射で歯医者のドリル音が簡単に想起される、と瑠璃香は思った。
 待合室の黄ばんだ壁だけでなく、診察室もなんだか古臭かった。テーブルに並んだエアタービンの替刃や薬。そして電気椅子か精神病患者用の拘束椅子を想起させる、緑とも黄色とも言えない古びた椅子。瑠璃香は、そこに座ることすら拒絶したくなる。
瑠璃香がしぶしぶ椅子に座ると、別室から出てきた轟は帽子を被り、マスクをして、ゴム手袋をはめている。すると不意に轟に語りかける声がする。

「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。」

轟はかぶりを降る。しかし声は鳴り止まない。

「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。」

轟の息遣いは荒くなり、額から嫌な汗が流れ落ちてくる。瞳孔が開いてくる。瑠璃香は轟の異常に気が付き、声をかける。
「先生、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。安心してください。」
轟の目はすわっていた。
「それじゃあ、お口を開けてください。」
瑠璃香が口を開けると、轟は医療用の小さなミラーを口の中に突っ込んで、どこが痛みの原因かを探った。
「ああ、これは親知らずですね。親知らずが横向きに生えてます。抜かないと痛みは取れません。どうしますか?」
瑠璃香は眉をひそめる。
「でも抜くのってすごく痛いんじゃ……」
「大丈夫です。笑気ガスで麻酔しますから痛くないですよ。」
轟はマスクの下で口を歪めてニヤリと笑った。
轟は笑気ガスを吸入するマスクを瑠璃香に強引にかけた。そして笑気ガスが発生する装置のスイッチを入れた。ブルンブルンという音とともに笑気ガスがマスクに流れてくる。瑠璃香は呼吸するたびに意識が遠のいた。まるで自分の体がグルングルンと回って、自分の足が自分の頭のあたりにあるような感覚がした。しばらくして瑠璃香は意識を失った。



瑠璃香が正気を取り戻すと、なにか体の自由が利かない感覚がした。それもそのはず、瑠璃香の頭、腕、足は椅子に粘着テープでぐるぐる巻きにされガッチリと固定されていた。
そこには目つきが常人と明らかに違う轟の姿があった。
「ヒヒヒ。それじゃあ、治療しましょうね。ヒヒヒ。」
轟の瞳孔は完全に開いていた。
「きゃああああああ。何これ????? 外してーーー!!!!」
「だめですよ。ヒヒヒ。これからちゃんと治してあげますからね。ヒヒヒ。」
瑠璃香はジタバタして必死に抵抗したが、体が全く動かない。
「親知らずを抜く前に、まず虫歯を削んないとだめですね。ヒヒヒ。でも虫歯の数が多すぎる。ちゃんと毎日歯磨きしてますか? 見たところ、そうですね、ヒヒヒ、全部虫歯です。それじゃあ、全部削りましょうねー。ヒヒヒ。」
笑気ガスの麻酔などとっくに切れているのにもかかわらず、轟はエアタービンを強引に瑠璃香の口にねじ込む。
ギュイーーーーーーーン
エアタービンが健康な歯を全く遠慮もせずにガリガリと削っていく。嫌な振動が瑠璃香の脳天に響く。歯を削りすぎて神経が剥き出しになったにも関わらず、エアタービンは咆哮をあげる。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ。」
むき出しの神経を削られる痛みは尋常ではなかった。
「大丈夫ですよ。この部屋は精神衛生上、完全防音になっていますのでどんなに騒いでも構いませんよ。」
轟はニヤニヤしながら言う。しかし瞳孔は開いたままだ。
瑠璃香は必死に体を動かそうとするが、まったく動けない。瑠璃香は半狂乱になりながら叫ぶ。
「やめれーーーられからるけれーーーー!!!!!」
神経から何もかも歯が削られてしまい、歯茎まで削り赤い血が染み出してくる。
「よし。これでこの歯は大丈夫。ヒヒヒ。次は他の歯を削りましょうねー。」
ギュイーーーーーーーン
瑠璃香は汗と涙と鼻汁まみれになって叫ぶ。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ。」

そんな地獄の時間が二時間ばかり続いた。瑠璃香は、襲いかかる異常な痛覚によってとっくに精神は破壊され、向こう側の人間になってしまった。残っていた歯はわずか十本ばかり。口の中には血がたまり、鉄の味がした。
「うーん。このベロが邪魔で奥歯がなかなか見えないなぁ。じゃあこのベロもとっちゃいましょうかね? あははははははははは。」
轟はエアタービンの刃を変えると、またもや瑠璃香の口の中にねじ込む。瑠璃香は抵抗する力もない。轟はエアタービンの刃を瑠璃香の舌の端に当てて回転させる。この時ばかりは瑠璃香もさすがに耐えられない。
「おごごごごごごごごごごごごごご」
瑠璃香の口から鮮血がほとばしる。轟の白衣は血まみれで真っ赤になっている。
エアタービンは瑠璃香の舌を端っこからゆっくりと削っていき、真ん中辺りまで達した。
「あと半分くらいですよー。もうちょっと頑張ってみましょうねー。」
轟は幼稚園児をあやすように言った。
瑠璃香は血液の飲み過ぎで胃腸がおかしくなり、嘔吐した。
「おろろろろろろろろろろろろ」
吐瀉物が口から吹き出し、轟の顔を汚した。口の中では血の味だけではなく、胃酸の味までもが溢れている。
轟は怒りに震えながらタオルで顔を拭った。
「いけない子だね。こういういけない子にはお仕置きをしないとね。ヒヒヒ。」
轟はテーブルについているガスバーナーを取り外した。ガスバーナーを点火し、それを瑠璃香の右手の甲にあてた。ガスバーナーは気味の悪い轟音を立てながら瑠璃香の皮膚を焼いていく。
「ぎいいいいいいいいいいいいいいいいい」
瑠璃香はあまりの熱さに身をよじった。それは、残り少ない歯を噛み締めながら痛みに耐え、そこから漏れる声だった。
皮膚は焼けただれ、ぷちっと弾ける。肉の焦げる臭いがする。皮下脂肪が溶かされ、油分がしたたりおちる。
轟はそのあと五ヶ所ほどガスバーナーでこんがり焼いた。瑠璃香には一生消えない傷が残った。
「さあ、それじゃ治療を再開しましょうねー。」
轟は再びエアタービンを手にする。半分ちぎれた舌の切れ目にエアタービンを差し込み、舌を切り取る作業を再開した。再び鮮血がほとばしる。
瑠璃香の瞳はすっかりそれぞれ別の方向むいてしまっている。目の光も失われている。
「ギュギュギュギュギュギュギュギュ」
血液と唾液と空気が混ざる音がする。
「もうすぐで終わりますからねー。」
轟の声のトーンは明るい。舌は徐々にちぎれて、ついに全部切り取られた。轟は切り落とされた舌を取り出そうとするが、つるりと手から滑り落ち、瑠璃香の喉の奥に落ちる。
「ガボガボガボブボボブボボベボベボ……」
血液と唾液と切り落とされた舌が気道に紛れ込む。最初は呼吸音が聞こえたが、やがて呼吸ができなくなる。その苦しさで瑠璃香は体躯を縮めたり伸ばしたりする。粘着テープでがっちり結び付けられた彼女の可動範囲は限りなく狭いが、それでも精一杯動いた。が、やがて動きが止まる。そしてその体はぐったりとしてしまった。
轟は瑠璃香の脈をみる。血液の動きは全くない。そして轟は瑠璃香の口元に手をかざす。呼吸している様子はない。轟は瑠璃香の死を確信する。そして喜びに打ち震えた。
「やった! ついにやったぞ! 殺したぞ! 俺はやったんだ! 俺はナポレオンだ! 俺はナポレオンになれたんだ! あははははははははは。ぎゃははははははははは!!!」
虚ろな診察室では、もはや少女の悲鳴は聞こえず、轟の高らかな笑いと、さわやかなケニー・Gのソプラノサックスだけが響きわたっていた。

轟はひとしきり笑ったあと、瑠璃香の亡骸を見つめた。
「ふーむ、とりあえず目的は達したが、『コレ』はどうしたものだ? 財布からは診察料は頂いておこう。しかし、それ以外は『ゴミ』ですね。こんだけ大きいと粗大ゴミになるのかな? しかし粗大ゴミは出すと金をとられるかな。燃えるゴミで出したほうがいいかな? ヒヒヒ。あ、そうだ! 燃えるゴミの日は明日だった! 早くしないと!」
轟は椅子から粘着テープを剥がし、瑠璃香の死体を床においた。
「これだけ大きいとゴミ袋に入らないな。バラすか……」
轟は奥に引っ込み糸ノコを取り出してきた。
「なるべく小さく切ろうか。」
轟はまず、目を見開いたままの瑠璃香の鼻の下と上唇の間に糸ノコをあて、ギゴギゴとすり切り出す。一往復するたびにぐじゅぐじゅという音を立てて血が噴き出してくる。
「まったく。手間がかかる患者さんだ。ヒヒヒ。」
轟の地獄のような診察は夜まで続いた。


事件はものすごい早さで解決した。
その日、なかなか自宅に帰ってこない瑠璃香は、家族から捜索届けが出され、島田かほりの証言によって、瑠璃香が轟歯科医院に行ったことがわかった。警察が轟歯科医院に踏み込むと、大小三十数個に切り分けられた瑠璃香の死体が発見され、床は血の海となっていた。
轟源三郎は、殺人、死体損壊、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕された。


* * *


 闇夜が瑠璃香の死を知ったのは次の日のホームルームでの事だった。
休み時間でガヤガヤとしている教室。ホームルームの時刻を告げるチャイムが鳴るかならないかのタイミングで、佐藤繁子(三十四歳独身)がドアを開けた。彼女(三十四歳独身)が教室に入ると同時に、自然と教室に静寂が戻った。繁子(三十四歳独身)は本来ならば、教卓の真ん前にある席に座っている瑠璃香に号令を促すのだが、あいにくその席には瑠璃香はいなかった。隣の席の島田かほりはなぜかうつむいて、涙すら浮かべていた。繁子(三十四歳独身)は号令もなくいきなり切り出した。
「えー、皆さんには大変残念なお知らせがあります。クラス委員長の生上院瑠璃香さんが昨日お亡くなりになりました。」
その言葉に教室中が固まるがしばらくしてさざめきだした。いろんな憶測が飛んでいる。そしてその中から一人の生徒が質問した。
 「先生、生上院さんはなんで亡くなってしまったのですか?」
 その質問に繁子(三十四歳独身)はうつむき、困った表情をしばらくしていたが、なんとか前を向いて答えた。
 「彼女は殺されました。しかしそれ以上のことは言えません。あまりに残酷な殺され方だったもので……」
 島田かほりは状況を知っているらしく、唇を噛み締めた。生天目裕子の右隣に座っている、海江田魚々子はなぜかブルブルと震えていた。
 山の辺深雪の目は相変わらず虚ろで、クラスメイトが殺されたというのにもかかわらず、その表情に変化はなかった。
闇夜は机を右拳で叩いた。
(くそ! 手遅れだったか……)
机を叩く闇夜を見て、裕子はビクッとした。
「つ、月島くん? どうしたの?」
裕子が語りかけた。
「い、いや、なんでも御座いませぬ。」
 闇夜はなんとか体裁を作りなおす。
 「月島くん、何か知ってるの?」
 裕子は頬を少し紅潮させ、聞いてくる。
 「いや、生上院殿のことは何も存じ上げませぬ。」
 「まさか山の辺さんの祟りとか……」
 闇夜は繕っていた体裁をかなぐり捨てて一喝した。
 「バカな! そんなことあるわけがない!!」
 裕子はその迫力にビクッとして、すこし涙を浮かべる。頭に血が上っていた闇夜は彼女の表情の変化にハッとして我に返った。
 「ごめん……怒鳴ったりして……」
 闇夜は裕子に謝った。裕子は赤いフレームの眼鏡を外し、少し溜まった涙を拭いて言った。
 「ううん。大丈夫。私も軽率だった。ごめんなさい。」
 闇夜は笑顔を浮かべ、裕子に言った。
 「一ついいかな? このことはもう詮索しないほうがいいよ?」
 裕子は、明らかに闇夜がこのことについて何か知ってると気付いたが、闇夜に嫌われたくなかったので、この場は一旦、素直に言うことを聞いた。
 闇夜は裕子をなだめたあと、かほりのほうに視線を向けた。今日の彼女はメイクに気合が入っていない。まるで普段と別人のようだった。健康的な肌は変わっていなかったが、眼の下に大きなくまができていた。ネイルアートも、ワンタッチネイルだったのだろうか、今日は外してあった。目も虚ろだった。おそらく生上院瑠璃香の死のことを詳しく知っているようだった。そして山の辺深雪の『祟り』について怯えているようだった。
 不意に彼女の右隣の女生徒が彼女に話しかける。
 「大丈夫?」
 かほりは我に返り、気丈に振舞った。
 「え? な、なんの事かな? 私は全然大丈夫よ。はははは。」
 これが今の彼女にできる精一杯のことなのだろう。そこにはいつもの高飛車な態度のかほりはいなかった。
 山の辺深雪はずっと虚ろな表情で前を向いていた。しかし不意に虚空を見上げると、周りに気づかれるか気づかれないかの按配でニヤリと口を歪めた。


* * *


 放課後。闇夜は体育館にいた。体育館の隅で女子の器械体操部の練習を見学していた。中村達俊の情報によると、島田かほりは器械体操部に所属していて、今日が練習の日だった。かほりは今日部活だったため、ネイルを外していたのだと合点がいった。
 かほりは長い髪を左右にお団子にまとめ、なぜか体操部に似つかわしくない、白いシャツにネクタイにパンツという姿だった。彼女が主に取り組んでいるのは床の演技のようだ。普段はあんなかっこうをしているかほりだったが、部活には熱心に取り組んでるらしく、インターハイの出場もかかっているらしい。今日はナチュラルメイクなので、お団子のかほりは、わりと闇夜の好みのタイプに近い感じだった。
 インターハイ出場がかかっている程の腕前なので、かほりは後輩から慕われているようだった。かほりは後輩たちが床で飛んだり跳ねたりしているのを見ながら、ウォーミングアップのストレッチをしていた。
 今日はどうも、エキシヴィジョン用の演目の練習をするらしい。闇夜はフィギュアスケートや体操は好きではなかったが、エキシヴィジョンと言う名がつくものはたいてい好きだったのでちょっとワクワクした。
 かほりはチューリップ帽を被り、スタンバイする。後輩たちが小道具を用意している。
 音楽がかかる。闇夜はこの曲に聞き覚えがあった。映画「雨に唄えば」の中に登場する、「Make‘em Laugh(笑わせろ)」だった。この場面はドナルド・オコナーがコミカルなダンスをする名シーンだ。それを完全再現するつもりなのだろうか?
 かほりは音楽に合わせてコミカルにステップを踏む。歌は口パクだが、見事にリップシンクしている。後輩が二人で長い板を運んでくる。そこにかほりが乗っかり、泳ぐ真似をする。反対側からソファーを運んでくる後輩たちがいる。かほりはそれをくぐる。ソファーには布でできた人形が載っており、かほりがソファーに座り、その人形相手に一芝居打つ。この演目はダンスの技術も必要だが、演劇的要素も必要だ。かほりはそのどちらも兼ね備えているので、この演目を見事に演じている。
 やがて演目は後半に差し掛かる。かほりは床を転げまわる。その滑稽さに思わず、闇夜も手を叩いて笑った。体育館にいるものみんながそれに見入り、笑い声が聞こえた。かほりにこんな一面があったとは闇夜も気が付かなかった。
 やがて最後の見せ場である、壁を蹴り登り、バク転する場面が近づいた。後輩たちが壁を用意する。闇夜の記憶では、壁を蹴り登るのは二回あるはずだった。
 かほりはドラムロールとともに一つ目の壁に向かって走りだす。そして見事に壁を登り、クルッと一回転した。これくらい彼女にとっては造作も無いことなのだろう。
そして、もう一つの壁に向かってかほりは走りだした。壁を蹴り登るところまでは良かった。しかし、蹴り登るのが一歩足りなかったのか、かほりは頭から真っ逆さまに落っこちてしまった。
かほりはぐったりして動かない。周りが一気に色めき立つ。かほりに駆け寄る部員たちや顧問の先生。必死に声をかけるが反応がない。幸い息はしているようだった。
やがて救急車が来た。彼女は担架に乗せられ、ものすごい手際の良さで病院に担ぎ込まれた。幸い、軽い脳震盪を起こしただけだったが、なかなか意識が戻らない。


暗い部屋に生上院瑠璃香がいた。彼女は血まみれだった。
彼女はかほりに語りかける。
「なんで私がこんなことにならなきゃいけないの?」
頭から血まみれの瑠璃香はかほりの右腕をすごい力で掴んで迫った。
「見てよ……」
瑠璃香は口を開け、それをかほりに見せた。歯が殆ど無い。そして血がよだれと混ざり、ダラダラと顎を伝ってしたたりおちる。
「こっちも見て。」
 瑠璃香がそう言うと、瑠璃香の顔の鼻の下と上唇の間にギザギザの切れ目が生じ、鼻の下から上がボロっと落ちる。その後体中がバラバラに崩れ落ちていく。それでも瑠璃香の声がする。
 「どうして……どうして……どうして……」
 瑠璃香の『破片』がかほりの方にゴロゴロと転がってくる。

 「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
 かほりは大声を上げた。気がつくと病院のベッドの上だった。
 (わたし、生きてる?)
 かほりは体中を見回した。すると右腕には真っ赤な血でできた誰かの手のひらの跡が残っていた。
 「ひっ!!」
 悲鳴を聞いて看護婦が駆けつけてきた。
 「島田さん、大丈夫ですか?」
 かほりは血の手形を隠した。はあはあと息遣いが荒かった。
 「あなたは軽い脳震盪を起こしました。今日はそのまま帰っても大丈夫ですが、一応後日検査に来てください。」
 「……はあ……」
 かほりはタクシーで帰ることにした。隠していた右腕を恐る恐るみてみると、手形はなくなっていた。

* * *

 闇夜は、かほりの演技の失敗を見た後、家に帰った。
 彼はただいまの挨拶もせずに、ドアをバタンと開けて、ずかずかと家に入り、カバンやら外套を撒き散らし、スケキヨに詰め寄った。
 「スケキヨ! どういうことだ!」
 スケキヨは闇夜の剣幕にビビりながらもなだめるように言った。
 「あんや、落ち着いて。昨日は山の辺親子にちゃんと張り付いていたんだ。でも瑞歩は相変わらずだったし、深雪も帰ってから全く外に出てなかったんだ。念のため黒猫になって深雪の部屋に入って観察していたのだけど、教科書と聖書を読んでるだけだったんだ。とにかく落ち着いて。」
 闇夜は、事態を把握するとようやく落ち着いた。そしてアスピリンを一錠かんでから言った。
 「そうか……そうだったのか……わりぃ……大人気ないことをしたな。」
 闇夜はようやく平静を取り戻したが、今までの状況をかんがみて、納得がいってないようだった。
 「しかし、どうも変だな。瑠璃香が死ぬとしたら、真っ先に思い浮かぶのは、深雪による呪術のはずなのだが。あれは単なる事故なのか? スケキヨ、瑠璃香がどういうふうに殺されてるかわかるか?」
 「それがさ、酷いんだよ。僕が警察に放った使い魔によると、彼女は、覚醒剤常習の歯科医の轟源三郎に、ほとんどの歯を削り取られ、舌まで切り取られ、その切り取られた舌が気道に入って窒息死したらしいんだ。それで遺体を処理するために轟は彼女をバラバラに切り刻んでたみたい。警察が踏み込んだ時は、まさに轟が遺体を刻んでた最中で、床は血の海だったらしいよ。」
 スケキヨの話を聞いていた闇夜は顎をさすりながら言った。
 「ふーむ、確かに尋常じゃないな、その殺され方は。単なる殺人事件じゃすまないだろうな。やっぱり何らかの呪術や魔術が関連しているのだろうか?」
 スケキヨも同意した。
 「僕も多分そう思う……とりあえず着替えてきたら? お茶淹れるから。」
 「ああ、そうだな。」
 闇夜はぶちまけた外套やらカバンを拾い上げ、自分の部屋に引っ込んだ。
 闇夜が着替えている間、スケキヨは番茶とうさぎやのどら焼きを用意した。そしてレコード棚からブラームスの交響曲第一番を取り出し、プレイヤーに乗せた。重厚で少しゆったりとしたティンパニの音と、それを盛り上げる弦楽器の音が響き渡る。
 闇夜は長い髪を後ろで結わえ、メガネを外し、着流し姿になって部屋から出てきた。
 闇夜はうさぎやのどら焼きをひとつまみ頬張って、番茶で流し込んで切り出した。
 「もし山の辺深雪絡みで呪殺が行われているとしたら、今のところ危ないのは、島田かほりと海江田魚々子だ。先日深雪に詰め寄っていたのは、瑠璃香、かほり、そして魚々子の三人だった。その内瑠璃香は殺されてしまった。今日の様子を見る限り、かほりは、瑠璃香の死について警察に聞かれたのか、顛末を知っている様子だった。」
 闇夜はそこまで言うと、またどら焼きを一かみして、番茶をすする。
 「かほりの様子がおかしかったので、放課後彼女をつけてみたんだ。彼女は器械体操部に所属していて、床の演目をやっていた。その演目をじっと観ていたが大したもんだったよ。しかし最後の最後で簡単なミスをして、頭をしたたか打ってしまった。まあ軽い脳震盪で済んだらしいのだが、もし狙われるとしたら、次は彼女じゃないかと思う。」
 スケキヨは両手でどら焼きを掴んで、ハムスターのように食んでいた。
 「そうなると僕だけではどうしょうもないな。使い魔も一度にそんなにたくさん使いこなせないし……。」
 「そうなったらあれだな。俺が識神を何人か呼べばいい話だ。」
 「あんやが僕以外の識神を呼ぶのはなんだかしゃくだけどこの際仕方ないね。」
 「とりあえずあの三人に来てもらおうかな?」
 と、闇夜は懐から三枚の、人の形をしている半紙を取り出し、フッと息をかけ床に落とした。すると三つの五芒星が床に現れ、そこから三人の識神が現れた。
 一人は背がすごく小さくて、やたら髪の長い女の子だった。彼女は長い髪を上に縛った変形ポニーテールをしていた。身長を伸ばしているつもりなのだろうか? 髪の色は燃えるような赤だった。眼の色はブラウン。ちょっと恥ずかしがりやなのか、もじもじしている。彼女の名はアンディ。
 一人は闇夜と同じくらいの背の高さの女の子だった。ミディアムボブでカールしている。眼の色は青く、すこしタレ目だった。大リーグの選手みたいにくちゃくちゃチューイングガムを噛んでいた。見るからにお調子者と言った感じだった。彼女の名はスチュワート。
 もう一人はスケキヨと同じくらいの背の高さの女の子だった。パンキッシュなベリーショートで、アニメでしかお目にかかれないようなピンクの髪の色をしていた。カラーコンタクトでもはめているような鮮やかな赤い目をしていた。目付きが鋭く、三人の中では一番落ち着きが見られる。彼女の名前はゴードン。
 「あ、あの……呼んでくれてありがとうございます。」
 アンディが頬を赤らめながら言った。
 「俺らのことならもっと気軽に呼んでくれたっていーんだぜ?」
 スチュワートは男のような口の聞き方をする。
 「我々が呼ばれた、ということは、ただならない状況に置かれている、ということですね?」
 ゴードンが落ち着きを払って言う。するとスチュワートがゴードンに言った。
 「そう固くなるなよ、スティング。」
 するとゴードンの目つきが一層鋭くなる。
 「私のことをその名で呼ぶな!」
 スチュワートが、やれやれだぜ、と言った感じで肩をすくめる。
 「みんな落ち着いて。仲良くやろうよ。」
 スケキヨが仲裁に入る。そして闇夜に目配せをする。
 闇夜は、コホンと咳払いをして切り出す。
 「アンディ、スチュワート、ゴードン、来てくれてありがとう。ゴードンの言うよう、今我々は困った状況にある。既に呪殺と思しき殺され方で一人が死んでいる。そしてマークしなければいけない対象がたくさんいて、俺とスケキヨだけではさばききれない状態だ。そんな訳で君達を召喚した。」
 闇夜はそこまで言うと番茶をすすった。そして意を決したように立ち上がる。
 「アンディ、君は島田かほりをマークしていてくれ。授業中、学校外に関わらずだ。もちろん護衛もな。」
 「わかりました。任せてください。」
 アンディは小さい胸を張る。そして早速風の様に消え去る。
 「スチュワート、君は海江田魚々子をマークしていてくれ。逐一レポート頼む。護衛も頼むぞ。」
 「いいぜ。何とかやってみせる。」
 スチュワートはガムをくちゃくちゃ噛みながら答える。そしてアンディに続き消え失せる。
 「ゴードン、君には山の辺深雪に張り付いていて欲しい。昼も夜も。彼女が呪術や魔術を使ってないか突き止めて欲しい。」
 「了解した。そちらも気をつけてな。」
 ゴードンの話し方は肩肘張っているように聞こえるが、信頼に足る人物であると闇夜は知っていた。彼女もあっという間に姿を消した。
 スケキヨは呆気にとられていた。
 「あんや? 僕は? やること無いの?」
 「スケキヨは山の辺瑞歩だな。あとは俺の身の回りの世話だ。頼むぜ。」
 闇夜は笑顔で答えた。スケキヨの表情はパーッと明るくなった。
 「これだけ網を張ったのだからなんとか防げると思うのだが……しかしもしかしたら相手は想像をはるかに超えたものなのかもしれないからなぁ……そうだったらどうすべきか……」
 闇夜は残りの番茶を飲み干した。

 「それはそうと、スケキヨ。お前に一つ問いただしたことがあるのだが……」
 スケキヨは満面の笑みで答える。
 「なーに?」
 闇夜は瞳を閉じ怒りで腕をプルプル震わせながら吠えた。
 「あの弁当は一体何だ?! 嫌がらせか?! あんなもの他の生徒に見られたらどうすんだ?!」
「え? なんのこと? ……ああ! あれか! いいでしょ〜僕の愛妻弁当。頑張ってる闇夜を想う気持ちが表現されて、思わず食べるのももったいないってなっちゃったのかな? やだ〜いいんだよ〜普通に食べて。ニシシ。」
 「違う! そうじゃない! あんな弁当他の生徒に見られたらどう説明すりゃいいんだよ?!」
 スケキヨは悪びれもせず答えた。
 「え? 彼氏に作ってもらったって言えばいいんじゃないの?」
 「バカヤロー!!」
 スケキヨはふてくされながら言う。
 「いいじゃん、減るもんじゃないし……」
 「減るんだよ! 俺の寿命がな! ……と、とにかく、普通の弁当にしてくれ。頼むから。」
 闇夜は息を切らせながら言う。スケキヨは頬をふくらませ言った。
 「チェッ。残念だなぁ。でもお弁当自体は美味しかったでしょ?」
 「ん? ……ま、まーな。」
 「ほら! やっぱり! あんやだーいすき!」
 スケキヨは闇夜に抱きつく。
 「こら! く、くっつくな! はーなーれーろー!」
 「やだやだ! スケキヨはあんやから離れません! 僕は闇夜の父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だちであり、彼氏なんだから!」
 「だー、彼氏は余計だーーーーーーー! ったく暑苦しい! 助けてーーー!!」

 こんなやり取りができるのも、つかの間の平和だったからかもしれない。それかずっと続く緊張感を和らげるために敢えて彼らがやっていることなのかもしれない。
 その後二週間ほど何も起きなかった。島田かほりについて以外は……


* * *


 島田かほりは明らかに衰弱していた。それは学校で顔を合わせる程度の闇夜にもわかった。日毎にメイクののりが悪くなり、授業中居眠りすることも増えた。
 原因は睡眠不足によるものだった。彼女は毎晩眠れずにいた。眠れば『ヤツ』が出てくる。
 脳震盪を起こしてから直ぐに『ヤツ』は夢に出てくるようになった。非業の死を遂げた生上院瑠璃香が。

 かほりが眠りにつくと、かほりは自分が狭い部屋に閉じ込められているのに気がつく。窓や扉などどこにもなく、非常に圧迫感のある部屋だ。後ろに人の気配がする。振り向くとそこには血まみれの瑠璃香がいる。瑠璃香の目は虚ろだった。しかし、かほりが向いているのに気がつくと、キッと目を吊り上げてこちらを睨んでくる。そして瑠璃香はかほりの右腕をものすごい力で掴んでくる。
 「どうして私はこんな死に方しなきゃなんないの?」
 瑠璃香がかほりに詰め寄ってくる。
 「知らない……知らない……知らない知らない!」
 かほりは首を横にブンブン振る。
 「見てよ……こんなになっちゃった……」
 瑠璃香が口を開けて見せつけてくる。歯がほとんど無く、舌も切り取られている。開けた口から真っ赤な血とよだれがだらだらとこぼれ落ちてくる。かほりは口の中を正視できない。
 「それでね、こんなになっちゃった……」
 瑠璃香が不自然な切れ目で、まるで積み木を崩すようにボロボロと崩れてくる。ボロボロと崩れたあと、かほりの右腕には瑠璃香の、血で真っ赤に染まった左手だけが強く握られている。
 「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
 かほりは気がつくと自分の部屋のベッドにいた。毎夜こんな夢にうなされる。汗びっしょりで息が上がっている。かほりがバッと掛け布団をはねのけ右腕を見る。すると、赤い血の手形がついている。
 「いやあああああああ!!」
 かほりはその血の跡をティッシュで拭き取ろうとするが一向に血の跡が取れない。
 かほりは部屋を出て洗面所に向かう。お湯を出して右腕をこする。
 「取れない……」
 お湯を出しながら、スポンジにボディソープをかけ、泡立てて右腕をこする。
 「取れない……」
 かほりは今度はワイヤーブラシで右腕をこする。
 「取れない取れない取れない取れない取れない!!!」
 ワイヤーブラシでこすられた部分は皮膚が削れ、肉も削れ、血がドクドクと噴き出してくる。
 夜中の異常を察知したかほりの母親は洗面所で異常な行為に走っているかほりを見つける。
 「ちょっと! なにやってるのよ?! かほり! 血だらけじゃない!!」
 「取れないのよ! 血が取れないのよ! 助けてー!!」
 かほりの母親はかほりの頬を平手打ちして、少し怯んだ隙に左手に持っていたワイヤーブラシを取り上げ、かほりを洗面所から引き剥がす。かほりは母親に抱きつく。
 「わあああああああああああああああん! 助けて!!!!!!」
 母親は泣きわめくかほりを抱きしめ頭を撫でてやる。
 「かほり、あなた病気なのよ。明日お医者さんに行きましょうね。」
 かほりは『医者』という言葉に反応した。
 「いやああああ!! お医者さんはいやああああ!!」
 「大丈夫。ちゃんと信用できるお医者さんのところにするから。」
 かほりの母親はなんとかかほりをなだめることができた。
 その様子を見つめる白いフェレットがいた。アンディだった。
 それ以後かほりは、学校へは通うものの、部活は休むようになり、大学病院の精神科に通うようになった。医師の診断によると軽いノイローゼだった。しかし医者は精神安定剤と睡眠導入剤を与える以上の事はしなかった。いや、できなかったのだ。


* * *


 瑠璃香が死んでから二週間が過ぎた。その間もアンディ、スチュワート、ゴードン、そしてスケキヨによる内偵は続いていた。しかし、悪夢に苦しむかほりのこと以外には変化はなかった。


 六月六日の事だった。
 闇夜が学校から家に帰ると、いきなりクラッカーの音と紙吹雪の嵐が待っていた。
 「あんや、お誕生日おめでとう!」
 スケキヨが笑顔で迎えた。しかし、当の闇夜はというと、なんだか白けている。
 「あ……あ、そうか。俺の誕生日か……誕生日ね……」
 スケキヨは肩透かしを食らったようだった。
 「あんや? ……ええと、誕生日嬉しくないの?」
 「ふーむ、嬉しい、というか、六月六日が誕生日っての実は違うかもしれないんだよね。言わなかったっけ?」
 スケキヨは首を傾げる。
 「俺の名前とかの由来も話さなかったっけ?」
 「そういえば聞いたことないかもしれない。」
 スケキヨはちょっとばつが悪そうにしている。
 「俺には親も兄弟もいないってのは知ってるよな? 正確には『知らない』んだ。」
 闇夜は続けた。
 「俺は孤児だったんだ。赤ん坊の俺は、六月六日の月のない闇夜(やみよ)の晩に月島仲町商店街――ほら、もんじゃ焼き屋がたくさんある――の一角にに捨てられているのを拾われたんだ。だから生まれたのはそれより前かもしれないんだ。その時から左足を怪我していたらしい。月島で拾われたから苗字が月島、月のない闇夜(やみよ)だったから名前は闇夜(あんや)。なんて安直な名前なんだろうな。はは。」
 闇夜は自嘲気味に笑った。
 「そんでもって、俺みたいな拾われた子供ってのはよく実験とかに使われるらしい。赤ん坊の頃だから覚えちゃいないが、おれもあちこち体をいじくりまわされたらしい。あんまり後藤のおやっさんは教えてくれねえんだけどな。そんで、俺は呪術師になるための霊能力だのといった能力値が遺伝子レベルで高かったらしい。だからまあその霊能力のお陰でスケキヨとも出会えたわけなんだが。とにかくそういう素質があったから、陰陽道から始まり、修験道、密教、古神道、黒魔術、白魔術、エクソシズムまで叩きこまれた。小さくて一人で生きる力がない俺はそれにしたがって生きていくしかなかった。だから今やってるようなことって俺が自分でやりたくてやってることじゃないんだよな。」
 スケキヨはなぜか悲しそうな顔をしている。
 「今までいろんな学校を転々としてきて思ったのだけど、いろんな奴がそれぞれいろんな夢に向かって頑張ってる。何かに打ち込んでいる。スポーツだったり、勉強だったり、映画作ったり、マンガ書いたり、小説書いたり、音楽やったり。そういうの見て思うんだ。俺って一体何がやりたかったんだろうなって。俺っていつまでこんなことやり続けるんだろうって。」
 スケキヨは更に悲しそうな顔をした。
 「あんや。もしかして今の仕事好きじゃないの? 他にやりたいことがあるの? 今は楽しくないの?」
 闇夜はしばらく考えこんでから、スケキヨに答えた。
 「うーん、今が楽しくないかと聞かれれば、楽しいと答えるよ。特別にやりたいことがあるというわけでもないし。もし、やりたいことがあるとすればそうだな……普通に高校生やりたいな。そしてそこでやりたいことを見つける。そのやりたいことが大学にあるとしたら、大学受験に向けて勉強もする。」
 スケキヨは恐る恐る聞いた。
 「もしあんやが普通に高校生やることになったら、僕とはもう会えないのかな?」
 そんな不安そうなスケキヨの表情を見て闇夜は一喝した。
 「ばーか。お前も一緒に決まってるじゃないか。お前は俺の一番の友だちじゃないか。お前と出会って無ければ音楽との出会いもなかったかもしれない。お前の料理やケーキも食べたいしな。なんだかんだ言ってお前にはかなわないからな。」
 闇夜が言い終えてからスケキヨを見ると、彼はボロボロと涙を流していた。闇夜は焦って取り繕おうとした。
 「ば、バカだな……スケキヨ……こんな事で泣くなんて……い、言っとくけど、か、彼氏にはならんぞ?」
 スケキヨは涙を拭いながら言った。
 「……うんうん……そうだよね……僕ってバカだよね? 彼氏についてはね……今はこのままでもいい……ただあんやがそばに居てくれればそれでいい……」
 スケキヨはようやく笑顔を取り戻した。
 「お前は俺の父であり、母であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、友だち……なんだろ?」
 「そうだよ。僕はそんな存在を目指してるよ。……さあ、今日は、あんやの本当の誕生日じゃないかもしれないけど、ニューヨークチーズケーキ作ったんだ。食べてよ。」
 美味しいものに目がない闇夜の目は輝きを取り戻す。
 「ほう、そいつは楽しみだな。」
 「今日のは自信作なんだから。待ってね。コーヒーも淹れるから。」
 スケキヨは冷蔵庫から少し桃色がかったニューヨークチーズケーキを取り出した。
 「デンマーク産のクリームチーズをたっぷり使って、サワークリームとかと混ぜて、砕いたビスケットで作った生地に塗り固めてただ冷やしただけなんだけどね。」
 「なんでピンク色なんだ?」
 「ニシシ。これはね、いちごの果汁を少し入れてみたの。チーズといちごの香りが結構合うんだよね。」
 スケキヨは、エッヘンと得意げに言った。
 「それとニューヨークチーズケーキにはアメリカンコーヒーが合うんだよね。グリーンマウンテンコーヒーのブレックファストブレンドって豆をネットで注文したんだ。」
 闇夜はよだれを垂らさんばかりにスケキヨのうんちくに付き合っていた。そしてひとしきり講義が終わったあと、待ってましたとばかりにフォークをアメリカンチーズケーキに入れる。闇夜は濃厚なクリームチーズの滑らかさに舌鼓をうった。普通ニューヨークチーズケーキにはブルーベリーソースをかけたりするが、いちごもなかなか捨てがたい。ビスケット生地の食感も心地よい。やや酸味のあるアメリカンコーヒーが濃厚なチーズケーキの後味をさっぱりとさせる。
 スケキヨは少し不安げに聞いた。
 「どう?」
 闇夜はニコッと笑い答えた。
 「全くお前ってやつは……こんなうまいもんばっか食わせんじゃねーよ。俺を太らせて食うつもりか?」
 闇夜がスケキヨの頭をチョップで小突く。
 スケキヨの笑顔新記録がまた更新された。


* * *


 朝。
 憔悴しきった島田かほりが学校への道をゆらゆらと歩いていた。
 後ろからは赤毛の背の小さい女の子がついてきている。アンディだった。
 かほりはアンディがつけていることに気がついていない。それどころか、自分がどこをどういう風に歩いているかもよくわかっていないようだった。ただ惰性で毎日通っている道を体が覚えていてその通りに歩いているようだった。
 彼女は明らかにやつれていた。毎夜見る悪夢に疲れ果てていた。

 「上野発のふふふふふふふふふふふふふーん」
 かほりが歩いている歩道の隣の車道でゴミ収集車が並走しており、中年の清掃員が間抜けな鼻歌を歌いながら路上においてあるゴミ袋を掴んでは回収車に投げ込んでいる。
 「先輩、なんすかその歌?」
 もう一人の若い清掃員がゴミ袋を投げ込みながら、中年の清掃員に聞く。
 「ばかやろう。そんな有名な曲も知らねぇのか。全く最近の若い奴は……この歌はだな、ええと……なんて歌だっけ?」
 「知りませんよ! なんだ、先輩だってダメダメじゃないっすか!」
 中年の清掃員と若い清掃員がそんな他愛もない話をしながらゴミをさばいていく。
 そんな朝の日常などかほりには目が届かなかった。
その時不意に声が聞こえてきた。

 「死ね。」

 その声は聞き覚えがあったが誰の声か思い出せなかった。最初は空耳だと思ったがその声はまた聞こえてきた。

 「死ね!」

 かほりは辺りを見回した。アンディは咄嗟に物陰に隠れた。かほりの周りには、清掃員達しかいなかった。また声が聞こえる。今度ははっきりと。
 「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」
 かほりは耳を塞いだ。しかしその声は止まない。
 「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」
 かほりは泣きながら叫ぶ。
 「やめて! お願いだからやめて!」
 かほりの心からの叫びは声の主に届かない。
 「死ねば死ぬ時死ななきゃ死にたい死ななければ死ななくはない死死死死死死死死死!!」
 かほりは首をブンブン横に振って駆け出そうとした。その刹那、横で工事をやっていたビルの屋上から鉄材が落ちてきた。
 それをすぐさま察知したアンディは咄嗟に叫ぶ。
 「あぶない!」
 かほりはその声を聞き、上を見上げる。危機が迫ってることを察知したかほりは持ち前の運動神経の良さで、とんぼ返りをして直撃を避けた。
 ガシャーンというものすごい音を立てて鉄材が地面に落ちた。間一髪でかほりは鉄材の落下から逃れることができた。
しかしその直ぐ後、車道に飛び出していたかほりにダンプカーが近づいていた。ダンプカーは急ブレーキをかけた。危ない所で止まった。しかしかほりは軽くダンプカーに押された。
ダンプカーに軽く押されたかほりはバランスを崩し、前のめりに片足でとんとんとんと進みそのまま勢いが止まらず、前にあったゴミ収集車のゴミ投入口に頭から突っ込んだ。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ゴミ収集車のプレス機が回転する中でかほりの叫び声が聞こえる。
「おい! 緊急停止ボタンだ!」
中年の清掃員が若い清掃員に命令する。若い清掃員は緊急停止ボタンをすぐさま押す。しかしどういうわけか止まらない。
「先輩! 止まりませんんん!」
「何だって?!」
中年の清掃員も緊急停止ボタンを押してみる。しかし止まらない。何度も押してみるが止まる様子がない。
中年の清掃員はゴミ収集車の運転手に叫ぶ。
「おい! エンジンを切れ!」
運転手がエンジンキーをひねった。しかしなぜかエンジンが止まらない。
「エンジンが切れません!!」
「何だって?!」
中年の清掃員がそういう間にも緊急停止ボタンを押し続けるが無駄だった。
アンディは手印を結び、破魔のマントラを唱えた。
「オンデイバ・ヤシヤ・バンダバンダ・カカカカカ・ソワカ!」
これでゴミ収集車の電気系統が焼き切れて止まるはず。そう思ったアンディであったが、マントラを唱え終える前に、そのマントラの響きが何か鏡のようなものにカキーンと阻まれたと思った束の間、天地が逆転し、アンディは虚空から地面に落っこちて、地面に倒れてしまった。すると恐ろしいほどの重力がのしかかり、体が地面に張り付いて身動きがとれなくなった。マントラを唱えようにも、強力な重力で押さえつけられ、呼吸ができない。
ゴミ収集車からは鈍い破裂音が聞こえてくる。

バキバキバキミシミシミシ

「ぎゃあああああああああ!!!助けて!!!」
かほりが叫びながら、ゴミ収集車からはみ出ている手足をバタバタさせる。その間にも鈍い破裂音のような音がする。
そして、ゴミ投入口からはどす黒い血がドクドクと溢れ出てくる。
「おい! 引っ張れ!」
中年の清掃員が若い清掃員に促すと、二人はかほりの足を片足ずつ掴み、おもいっきり引っ張った。しかしどんどんかほりは中に引き込まれていく。
「だずげでーー!! ばぶべべ!!」
かほりの言葉がどんどんおかしくなっていく。
そしてバキバキっという破裂音がやがて、グチョグチョっという、汁気の混じったかき混ぜるような音になっていく。その頃にはもうかほりの叫び声は聞こえない。
かほりの体はどんどんゴミ収集車の中に引きこまれていき、外側に出ている部分は腿から下の部分だけになった。それでも二人の清掃員は引っ張った。力の限り引っ張った。その甲斐あってか、二人の清掃員は少女をようやくゴミ収集車から引き離す事ができた。
「やった!」
しかし、二人の清掃員の腕に握られていたのは少女の膝から下の部分だけだった。
「ぎゃあああああああああ!!!」
二人の清掃員の叫び声が辺りに響き渡った。
アンディはその頃ようやく強烈な重力から開放された。


* * *


その日の学校の三時限目。科目は日本史。
生天目裕子の右隣に座っている海江田魚々子は子猫のように震えていた。
魚々子はとても地味な女の子だった。特徴的なのはサイドテールにしたミディアムヘアだけで、それ以外これと言って特徴が無く、黒くつぶらな瞳も、周りの喧騒にかき消される程度の存在感しかなかった。所属する生物部ではプラナリアの再生能力について研究していた。
その日の朝、かほりが惨死したことを知り、それ以降震えが止まらなかった。
(ああ……どうしよう……この前山の辺さんに詰め寄ってたのは私と生上院瑠璃香さんと島田かほりさん。そのうち瑠璃香さんは殺され、かほりさんは今朝事故死……次は私なのかな……どうしようどうしよう……死にたくない死にたくない死にたくない……怖い! ……どうすれば死ななくて済むんだろう? ……やっぱり山の辺さんが呪いをかけてるのかしら? ……山の辺さんに謝れば死なずに済むのかしら? ……でも今更どうしようっていうの? ……今更謝って済む問題なの? …………そもそも私悪いことなんてしたのかしら? ……どうしようどうしよう……)
キーンコーンカーンコーン
「この時河村瑞賢が東回り航路と西回り航路を作り、米の流通が……もう時間ですね。それでは次回はそのあたりから。ではさようなら。」
学校のチャイムが鳴るか鳴らないかのタイミングで佐藤繁子(三十四歳独身)が授業を終える。
次の化学の授業は理科室で実験をやるので教室移動がある。
山の辺深雪は化学の教科書とノートと筆記用具をまとめて胸に抱いて、席を立ち廊下に出る。長い黒髪を風に揺らしながら。
その後ろから海江田魚々子が駆け寄ってくる。
「山の辺さん! 山の辺さん待って!」
「……」
深雪は立ち止まらず歩いて行く。
魚々子は深雪に追いつき、並んで話しかける。
「あ、あのね、この前のことだけどね。」
「……」
「あのね、すごく申し訳ないなって思ってるの。」
「……」
「だからね、もし……恨んでたりしたら、ごめんね……」
「……」
深雪は魚々子をちらりとも見ず、歩いて行く。
「あのね、山の辺さん。もしかして……呪い……かけたり……とかってしてないよね?」
「……」
「どうなの? やってるの? やってないの?」
「……」
魚々子は体からぞわわわっと嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。呼吸も荒くなってきた。彼女は意を決したように深雪の目の前に立ちはだかる。そして彼女に向かって土下座した。冷たくて汚い廊下の床に額を擦り付けた。
「山の辺さん、お願い! お願いだから私を殺さないで!!! まだ死にたくないの!! お願い!! 私を生上院さんや島田さんみたいにしないで!!」
深雪はようやく立ち止まった。そして虚空を見つめていた目線を、土下座している魚々子に落とした。廊下で土下座する魚々子を見て、何事か? と立ち止まる生徒達の視線が痛い。魚々子は既に泣いていた。人目もはばからず、泣きながら命乞いをしていた。それに対し、深雪は困った顔をしていた。まるで私が何をしたの? と言わんばかりだった。なぜ自分が土下座されているかわからないといった具合だ。
やがて深雪は土下座している魚々子を無視して、避けるように歩いて行った。
魚々子は泣きながらなおも命乞いをしていた。
「お願い……お願い……お願い……お願いだから……」
そこに生天目裕子が近づいてくる。
「ちょっと、魚々子、何やってるの?!」
そう言って泣きながら土下座している魚々子の手を掴んで、立ち上がらせる。
魚々子は立ち上がると裕子の大きな胸に跳びかかるように頭を埋めた。
「怖いよーーー!! 死にたくないよーーー!! 助けて!!!」
「なんで魚々子が死ななきゃならないのよ?」
「うわあああああん!!」
魚々子は問いに答えなかったが、おもいっきり泣いた。それに対し、裕子は問いたださず、ただただ魚々子の頭を撫でてあげてなだめてあげた。
依然として廊下では奇異の視線が彼女たちに向けられていた。


* * *


その日の昼休み。
闇夜はある人物と体育館裏で話をしていた。
背は低いが、髪は膝くらいまであり、燃えるように赤く、真上に向けて髪を縛った変形ポニーテール。目はブラウン。青いチュニックにベージュのカーディガンというかっこうだ。アンディだった。
アンディは頬を少し紅潮させ、目を潤ませ、闇夜を見上げた。
「ご、ごめんなさい。僕のせいで……」
闇夜は少し困った顔をして言った。
「アンディ、いったいどういう状況だったんだ?」
「かほりがゴミ収集車に飛び込んだ後、緊急停止ボタンを押してもエンジンを切っても、プレス機が止まらなかったんです。それで僕は法力を使おうとマントラを唱えたんです。そうしたらマントラを唱え終わる前に邪魔されたんです。」
「邪魔?」
「そうです。自分の声が鏡のようなものに跳ね返されたと思ったら、地面と空が逆さまになって、僕は地面に落ちたんです。そうしたらものすごい重力で押しつぶされそうになって息が苦しくなって、マントラが唱えられない状態になって……それが解放されたのが、かほりが完全に潰された後だったんです。」
闇夜は顎をさすりながら言った。
「ふーむ……どういうことなのかな……」

昼休み時間というのもあってか、体育館裏でもがやがやと生徒たちの声が聞こえる。
生天目裕子は茶道部の部室に行こうと渡り廊下を歩いていた。その時ちょうど体育館裏で話をしている闇夜とアンディの姿を見てしまった。
(月島くんだ! もう一人はだれ? 月島くんがだれかと一緒にいるの見たことないけど……それに相手は制服着てない……先生かな? でもあんな小さい先生見たことないし……うちの学校の人じゃない? 誰だろう? う〜ん話し声が聞こえないから気になるなぁ……)

闇夜は落ち込んでいるアンディをなだめた。
「アンディ、そういうことだったら仕方ない。お前のせいじゃないよ。相手は多分もっと強力な存在。一人じゃ無理だったんだ。あとでみんなで相談しよう。気にすんな。」
アンディはしばらく考えこんでコクンと頷いた。そして一閃の光りを放ち、たちまち小さな人型の半紙に姿を変えた。闇夜はそれを拾って懐にしまい、何事もなかったように歩いて行った。

(消えた!)
裕子は渡り廊下の柱の影に隠れながらその一部始終を見ていた。
(なんだったんだろう? あれ……人が消えちゃった! 月島くん……いったいどんな人なんだろう? ますます気になる……)
ちょうどいい頃合いに始業のチャイムが鳴り、廊下では人の流れが慌ただしくなった。


* * +


東高円寺一帯は古くからの住人が多いせいか、古い作りの家が多い。
しかしご多分に漏れず、この辺りにも新興住宅地化の波は押し寄せていた。
そんな東高円寺の南側に三年前にできた新しい西洋風邸宅。それが海江田魚々子の家だった。大きな二階建ての洋館。魚々子と姉の也哉子の部屋は二階、父と母の寝室とリヴィングとダイニングとシャワールームは一階にあった。
その家では今ちょっとした問題が浮上していた。
魚々子の母親が家の門のところで隣の家の奥さんと話をしていた。
「あら? あんなところにあんな大きな蜂の巣が……」
「そうなんですよ、奥さん。シャワールームの軒下に大きなスズメバチの巣がができてしまって困ってるんですよ。」
魚々子の母親がそう答えた。
シャワールームの窓の真上に直径四〇センチほどの縞模様の蜂の巣があった。時々巣穴から、オオスズメバチがブンブン音を立てながら出入りしている。
「保健所には届けたんですか?」
「もちろん届けましたわ。……でもね、お役所仕事っていうか、なかなか駆除してもらえませんの。」
「そうなんですか。でもちゃんとした人に早く駆除してもらったほうがいいですよ。お役所がだめなら民間の駆除会社にでも。でないと蜂の巣泥棒に狙われますよ。」
「蜂の巣泥棒?」
「そうですの。蜂の巣って、害虫みたいな扱いですけど、愛好家とかいるんですって。蜂の成虫や幼虫は食用にして、巣は美術品や縁起物として飾る人もいれば、漢方薬の原料にしたりするんですって。だから高値で取引されるから、蜂の巣を専門に狙った泥棒もいるらしいですよ。そういう泥棒の中にはちゃんとした駆除方法を知らずに取ろうとする輩もいるので被害が出たりするらしいですよ。だからちゃんとした保健所や業者に安全に駆除してもらったほうがいいですよ。」
「まあ恐ろしい。」
隣の奥さんは、魚々子の母親に親切そうに助言していたが、隣家としては、自分の家にも被害が出ることを恐れての助言であった。
その二人が話している数メーター離れた所で、灰色のつなぎの作業服を着て帽子を目深に被った男が二人、蜂の巣を見ていた。
「おい、あれなら三万はカタイな。」
「そうだな。駆除会社に先を越される前に取っちまおう。」
二人はコソコソ話し合いながら、直ぐにその場を立ち去った。
しばらくしてから魚々子が帰ってきた。目は赤く泣き腫らしていて虚ろだった。登校時とは全く違う表情に母親は直ぐ気づき、声をかけた。
「おかえりなさい。どうしたの?」
「……なんでもない。」
玄関先に母親と一緒にいた隣の奥さんに挨拶するわけでもなく、魚々子はそそくさと家に入っていった。
魚々子は家に入り、リヴィングの冷蔵庫から麦茶の入った大きい瓶を取り出し、コップに注がず、ラッパ飲みして三分の一ほどゴクゴクと飲み干すと、瓶を冷蔵庫に戻し、階段で二階に上がった。自分の部屋のドアを開けると、とるものもとりあえずベッドに飛び込んだ。
うつ伏せのまま魚々子は思う。
(私も生上院さんや島田さんみたいに酷い死に方するのかしら? ……そんなの絶対やだ!……なんとしても生きてやる! ……意地でも生きてやる! ……)

「あなたも同じよ!」

不意に声がした。魚々子ガバっとベッドから起き上がる。辺りを見回してみるが誰もいない。

「あなたも私達と同じように死ぬのよ!」

魚々子は耳をふさぐ。
「あなたも私達の仲間よ!」
魚々子がふと窓を見ると、血まみれの生上院瑠璃香と島田かほりがベターっと張り付いていて、目を見開いてこちらを見ている。
「いやああああああああ!!!!!!」
魚々子は叫び、カーテンを閉める。しかしカーテンを閉めても隙間からこちらを覗いてくる。カーテンの隙間からこちらをギョロっと睨む二人の目玉が見える。魚々子は、一階に走り降り、新聞紙の束を手に取ると、自分の部屋へ戻り、新聞紙を窓に隙間なくびっしりと貼り付けた。そして掛ふとんを頭から被りブルブルと震えている。しかし耳をふさいでも声が聞こえる。
「あなたは死ぬのよ!」
「どういう酷い死に方をするんでしょうね?」
「あなたもあたしたちの仲間なの。」
「いつ死ぬのかな?」
「どうやって死ぬのかな?」
魚々子は耳をふさぎながら叫ぶ。
「いやああああああああ!!!!!! やめてやめてやめてやめて!!!!!!!」
なおも声は続く。
「これは既に決定事項なの。」
「私達が死んであなたが死なないはずないわ。」
「あなたも死ぬのよ!!!」
魚々子は震えるしかなかった。

魚々子は結局家から出ることもできなくなり、学校も休むことになった。彼女は精神科に行くことになり、その幻聴や妄想、睡眠障害などから、統合失調症と診断され、副作用の強くて精神的にしずめるような薬を多く処方された。


* * *


闇夜の家ではちょっとした集会が行われていた。そこには闇夜、スケキヨの他に、アンディ、スチュワート、ゴードンの全部で五人いた。
闇夜がまず口火を切った。
「島田かほりが死んでしまった今、もう一刻も猶予がなくなっている。スチュワート、最後に残ってる、海江田菜々子についてはどうだ?」
スチュワートはくちゃくちゃとチューインガムを噛みながら答えた。
「そうだな。怯えに怯えまくってるようだな。どうも、この前死んだ島田かほりと生上院瑠璃香の声や姿が見えるらしい。これは明らかな呪術だ。一刻も早く呪いの発生源と思われる、山の辺深雪をヤる、ってのが俺の意見だぜ。」
アンディも続ける。
「島田かほりが死ぬ時も、何か強い力が働いて、僕に法力を使わせてもらえなかった。何らかの呪いが働いているのは間違いないです。」
それに対して冷静沈着なゴードンが口を挟む。
「いや、それは時期尚早かと思われる。現に私は山の辺深雪を二十四時間監視しているが、呪術的行為は一切していない。」
闇夜は少し考えこんで言った。
「スケキヨ。瑞歩はどうだ?」
スケキヨが答える。
「昼間は相変わらず、毎日布教活動か、『灯台の光』の集会にって感じだね。でも日毎に深雪に対するプレッシャーが強くなっている感じがするよ。そうだよね? ゴードン。」
ゴードンは少し答えづらそうだった。
「……ふーむ……確かにそうかもしれない……」
闇夜はまた思案してから言った。
「そうだな。じゃあ決まりだ。今夜、山の辺深雪を対象として、怨霊調伏の儀式を行おう。しかしアンディの話を聞くと、相手は手強そうだ。そして山の辺深雪が呪術行為をおこなっていないというのも腑に落ちない点だ。だからもう一人くらい識神がいると助かるのだが……」
と、闇夜はゴードンの方を見る。
「ヘンリーはどうだろう?」
ゴードンはスチュワートを見ながら言う。
するとアンディがゴードンに聞いた。
「ヘンリーって誰ですか?」
「私とスチュワートがあなたと組む前に組んでいたストリングス使いです。しばらく三人で組んでいたのですが、ちょっとした行き違いがあって、彼が抜け、あなたが入ってきたわけです。少し見知った識神の方が一緒にやりやすいと思うので……」
闇夜はアンディ、スチュワート、ゴードン、スケキヨの顔を見回してから、パチンと手を叩いて言った。
「よし。じゃあ決まりだな。識神はその五人で行こう。」
その場にいる者達は全員頷いた。

スケキヨはその晩、みんなに麻辣火鍋を振舞った。
「人が多いから鍋がいいよね。それに火鍋は体力つくし。ニシシ。」
スケキヨがいろいろ美味しいものを作って食べているのに慣れているとはいえ、「識神が美味しいご飯とか健康に良いもの食べたりして変化とかあるのだろうか? まあ気分の問題なんだろうな」と闇夜は思った。
闇夜は予めヘンリーも召喚しておいた。闇夜より背が高く、無精髭を生やした男だった。髪の毛は真っ白で眠そうな目をしている寡黙な男だった。
「火鍋は鍋を二つにしきって、辛い鍋底と白湯スープの鍋底を入れておくんだ。辛いスープは豆板醤ベースで、食べるラー油、にんにく、ネギ、草果、八角、中国山椒等を入れて煮込むんだ。白湯スープは鶏ガラスープベースで、牛乳、ゼラチン、にんにく、ネギ、クコの実、草果、ナツメ等を入れて煮込む。」
一同はスケキヨのうんちくを聞きながら、既に臨戦態勢は整っていた。みんな口に唾液を溜め、箸を手に鍋に飛びつかんばかりだった。
「具材はラム肉、エビ、イカ、春菊、白菜、焼き豆腐、豆苗、シャンツァイ等等。さあ召し上がれ!」
一同
「いっただっきまーす!」
都合六人分の箸が鍋の上に舞った。大人数で食べるには鍋が良いとはいえ、六人も人がいると、この鍋は少々小さいように感じられた。
「ゴードン、それ俺のイカじゃねーか! よこせ!」
スチュワートがゴードンに噛み付く。
「こういうものは早い者勝ちと相場が決まっているのじゃないのかね? そんなに言うならプリンのように名前でも書いて冷蔵庫にしまっておいてくれ。」
ゴードンが目をつぶりながら冷静にイカを口に運ぶ。
「クソ。ってヘンリー! 言ってる隙にエビとってんじゃねー!」
スチュワートは他の人に文句を言ってるだけなので全然食べられない。ヘンリーは我関せずと言った具合で黙ってエビを食べる。
闇夜はそんな熾烈な鍋争奪戦でかろうじて勝ち取ったラム肉を、辛いスープの方に入れてみる。しゃぶしゃぶ用に薄く切ってあるので、すこしくぐらせるだけで火が通る。口に運ぶと、唐辛子の熱い辛さと、山椒の痺れるような辛さ口に広がったあと、八角の清々しい香りとともにラム肉独特の旨味を感じた。今度はシャンツァイを白湯スープに泳がせてみた。タイではパクチーと呼ばれ、苦手な人も多いらしいが、闇夜はこの独特の清涼感が好きでたまらなかった。
スチュワートも何とか食べることができて余裕ができたのか、アンディに余計なことを言っている。
「あれ? お前、白湯スープしか使ってないじゃないか?」
アンディはもじもじしながら答えた。
「……えっと、僕……辛いのだめなんです……炭酸も飲めないし……」
「へへ。お前、見た目通り味覚もおこちゃまなんだな。」
スチュワートはからかうように言った。それに対してアンディはむっとした。
「おこちゃまなんて言われたくありません! そういうスチュワートだって辛い方しか食べてないじゃありませんか? 味覚が死んでる証拠ですわ。」
アンディは鼻でせせら笑った。
「なんだと?!」
ゴードンが割って入る。
「お前たち、それくらいにしとけ。これから仕事があるっていうのにそんなんじゃいかんだろ?」
「そうだよ。みんななかよく食べようよ。まだまだ具はいっぱいあるからね。あ、スープが減ってきたから足そう。」
スケキヨがコンロにおいてある二つの鍋を持ってきてスープを注ぎ足す。

なんだかんだ言って具もスープもみんな残らず平らげてしまった。唐辛子やにんにくのおかげかお腹の中から全身まで温まっている。
これから迎える死闘を前にした、つかの間の晩餐だった。


* * *


午前二時。
高円寺天祖神社。
ここは青梅街道から大久保通りに続く坂道を下ったところにある小さな神社だ。
大通りから外れているので、普段から人があまり来ないところだが、この時間ともなると、さらに物悲しい雰囲気がある。
『天祖神社』という名称の神社は全国各地にあるが、どれも、天照大神(あまてらすおおみかみ)を主祭神とする、伊勢神宮を総本山とする神社で、天照大神の御分霊が祀られていて、高円寺天祖神社も例外ではなかった。日本最強の太陽神、天照大神を味方につけることができるこの場所は怨霊調伏にはうってつけだった。
闇夜は神社に入る前に拝殿の方に一礼してから鳥居をくぐった。そして手水舎(ちょうずや)で口と両手を清めた。なるべく神社の端っこを歩いて拝殿に向かう。そして二拝二拍手一拝で祈念する。
闇夜は神社の敷地に五芒星を描くような場所に、赤い五芒星の描かれた護符を五ヶ所に貼りつけた。これで結界ができた。神社敷地内から発せられる音は外に漏れることもないし、人払いの効果もある。結界を作ったおかげで空が赤黒くなった。
闇夜は神社の入り口近くまで行くと、懐から赤い五芒星の描かれた人型の半紙を五枚取り出し、息をフッと吹きかけて、ばら撒いた。半紙が地面に落ちると、五つの直径三メーターほどの円が青白く浮かび上がり、五人の識神が現れた。スケキヨ、アンディ、スチュワート、ゴードン、ヘンリーの五人だ。皆蝶ネクタイにタキシードを着ている。スケキヨはヴァイオリン、アンディはヴァイオリン、スチュワートはヴィオラ、ゴードンはチェロ、ヘンリーはコントラバスをそれぞれ手にしている。
闇夜は識神五重奏を背にして、祝詞を唱える。
「掛けまくる畏(かしこ)き伊邪那(いざな)岐(ぎの)大神(おおかみ)筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿(あ)波(わ)岐(ぎ)原(はら)に御(み)禊(そぎ)祓え給いし時に生(な)り坐(ま)せる祓(はらえ)戸(ど)の大神等(たち)諸(もろもろ)の禍事(まがごと)、罪穢(けがれ)有らむをば祓え給い清め給えと白(もう)す事を聞(きこ)食(しめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)みを白(もう)す。」
すると闇夜の十メーターほど前に制服姿の山の辺深雪のヴィジョンが現れた。白黒で、昔のブラウン管テレビのように横線のノイズがしばしば入った。深雪はどこを見るともなく虚ろな表情をしながらゆらゆら揺れている。腰まで伸ばした黒髪。前髪は切りそろえてある。不気味ながらも美しい日本人形のような姿。病弱なまでに白い肌は、映しだされた霊のヴィジョンのせいか、一層白く感じられる。こちら側はどうも見えている様子がない。
闇夜は識神五重奏を背にタクトを振り上げた。そして振り下ろすと、識神たちが弦楽器を奏ではじめた。その曲は、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』だった。
『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は四つの楽章から成るセレナーデで、モーツァルトの書いたセレナーデとしては十三番目に当たる。日本語では『小夜曲』と訳される。弦楽合奏、または弦楽四重奏にコントラバスを加えた弦楽五重奏で演奏される。
アイネ・クライネ・ナハトムジーク ウォルフガング・アマデウス・モーツアルト
第一楽章
まるで花が咲くような明るく朗らかな旋律が流れる。高音部が明るい旋律を奏でつつ、低音部はリズムを刻み彩りを加える。
五つの弦楽器から奏でられる音楽はオレンジ色の光となって闇夜を包み込み、パワーフィールドを作りだす。闇夜は杖を捨てる。そして両手にそれぞれ一本ずつ刃わたりニメーターほどの日本刀を握る。
パワーフィールドが発生したおかげで、左足の不具を克服した闇夜は、日本刀を逆手に握りながら、深雪のヴィジョンに向かって走りだす。そして深雪の頭めがけて二段蹴りを食らわせようとした。深雪の目の前で飛び上がり、左足で一段目の蹴りを放ち、右足で頭を蹴りあげて後方に一回転する。そして逆手に持った日本刀でXの字を描くように二閃切りつける。そして横に二回転して日本刀で乱れ切る。
しかし、深雪に何か攻撃が当たると、カキンという音を立てて弾き返される。日本刀で切りつけても深雪から血が吹き出す、というようなこともない。
(おかしい。手応えがない。)
メロディーが緩やかになる。リズムに合わせて一、二、三、四、右、左、右、左と切りつける。再び細かい刻みになると同時に飛び上がり深雪を踏み台にして背中側に回る。そのまま後ろを向かずグサグサグサっと右手左手の日本刀を交互に突き立てる。そして振り向きざまに回し蹴りを入れると共に左、右と切りつける。
(やっぱり手応えがないな。効いてないのか?)
そのまま飛び上がり前に三回転すると共に刀で斬りつけつつ深雪を飛び越える。
その時虚ろだった深雪の瞳がこちらをギロッと向く。それを察した闇夜はバッと後ろに飛び退く。ゆらゆらしている深雪が右腕を上げ、手のひらを開くと同時に赤黒い閃光がこちらに飛んでくる。閃光は二発放たれた。咄嗟に闇夜は左手をかざす。すると丸い魔法陣が現れ、閃光をさえぎった。一つ目の閃光は魔法陣に阻まれ止まる。もう一つは右に大きく反れ、手水舎の隣にある樫の木に当たった。まるで雷が当たったかのような衝撃音が起こると共に、樫の木を真っ二つに破壊した。当たったところからはシューっと煙が上がっている。
「あっぶね〜!」
闇夜は識神たちを振り返ったが、誰にも被害は出ていなかった。彼らは演奏に集中していた。識神たちの奏でる音楽によって、闇夜の力は跳ね上がるが、一方で彼らに被害が出ないように、彼らを守ることも考えないと戦えないのだ。
深雪は無抵抗かと思っていたが、予想と反して高い攻撃力を持っていたので、闇夜は少し焦っていた。
続いて深雪の目が光を放った。闇夜は刀をバッテンに構える。すると更に大きな魔法陣が現れた。深雪の目から放たれた閃光は右から左へとレーザー光線のように物体を薙ぎ払った。闇夜の放った魔法陣の影になるところ、つまり識神達のいるところを除いてカッと光り、炎が線状に上がった。
(く、押されてる!)
闇夜はバッテンに構えた刀の先から光を放った。その光は一直線に深雪の方向へ向かった。しかしその光が深雪に当たると、カキンと上に反れてしまった。
(一方向からの攻撃では効かないのか?)
そう考えているうちに第一楽章が終わった。

第二楽章 
第二楽章はゆったりとしてなめらかな曲調だった。このようにゆっくり流れるメロディーの続く緩徐楽章では闇夜は時間をも支配できる。そして豊かなハーモニーが攻撃力を多層構造にする。
闇夜はこのゆったりとした楽章の中で、両手の日本刀を空中に放り投げた。放り投げた日本刀は空中で拳銃に姿を変えて、天に向かって伸ばした両手に収まった。ベレッタPx4自動拳銃だ。
闇夜は深雪に向かって走りながら二挺拳銃を右、左と交互に撃ちまくった。弾丸が放たれると、その速度は非常にゆっくりとなった。そして走っている闇夜がその弾丸を追い越す。そして深雪を飛び越え今度は反対側から銃弾を撃ちまくる。ゆらゆらしていた深雪の動きもスローモーションになっていた。深雪は前後から弾丸に挟まれている。弾丸はゆっくりと深雪に近づきつつあった。
しかし、もう少しで着弾、というところで、スローモーションだった深雪の動きがいきなり早送りになり、迫っていた弾丸をヒュンヒュンと正確な動きで避けてしまった。
今度は闇夜は深雪の目の前で弾丸を放ち、直ぐに後ろにまわり、弾丸を発射し、次に深雪の右側に回りこみ撃ちまくり、そのまま深雪を飛び越し、両手のトリガーを引いた。つまり深雪は四方向から撃たれていることになる。
しかしこれもまた着弾直前にスローモーションから早送りになり、紙一重の隙間をひらひらと移動し避けてしまった。
闇夜は埒があかないと思い、両手に持っていたベレッタを空中に放り投げた。ベレッタは空中で∪ZI短機関銃に変化した。
次に二挺のUZIで連射しながら深雪の回りをグルグル回った。深雪を中心にして、弾丸の束が二重、三重と取り囲んだ。ゆっくりと動く弾丸の雨あられ。闇夜は飛び退き後ろに下がった。そして手を上にかざした。するとゆっくりだった時間が実時間に戻り、深雪を取り囲んでいた銃弾が一気に降り注いだ。しかし、深雪は全ての銃弾を見切り、残像を残しながら、ものすごいスピードで動いて避け切った。
(くそ! どうなってるんだ?!)
ここまで来ると闇夜も焦りを隠し得ない。次にどういう行動に出ようかと思案していると、ゆっくりと流れていた時間に割り込んで、深雪が手のひらから赤い衝撃波を放ってきた。
闇夜は腕をクロスさせ、防御の魔法陣を発生させる。魔法陣はかろうじて衝撃波を受け止めたが、空気の振動が闇夜の頬を撫でた。衝撃波を受け止めた闇夜が攻勢に転じようとすると、深雪は再び赤い衝撃波を放った。闇夜は攻勢に転じることができない。
深雪は右、左と、衝撃波を交互に放ってくる。やがてそのスパンはどんどん短くなってくる。そしてその衝撃は段々大きくなってくる。
闇夜はかろうじて魔法陣で衝撃波を防いでいた。しかし、次第に衝撃波の空気圧で後ろに押されてきた。魔法陣より大きくなった衝撃波は、魔法陣で防ぎきれない部分が後ろに届き、端っこでコントラバスを奏でていたヘンリーの頬を切った。
やがてパリンという音とともに魔法陣にヒビが入ってきた。もう防ぎ切れそうにない。
闇夜は最後の手段に出た。手印を結びマントラを唱えた。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラマニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」
神社に呼び出していた深雪の霊を元の状態に戻し、深雪のヴィジョンはかき消えた。
闇夜は識神たちに演奏をやめさせた。
「調伏は……失敗だ!」
辺りは赤黒い静寂に包まれた。


* * *


家に戻った闇夜はスケキヨと話をしていた。
「なぜ識神五人も使って倒せないんだ?!」
闇夜が唇を噛んだ。
「もしかしたら……」
「なんだ? スケキヨ。」
「もしかしたら、さっきの深雪は自動的に動いてたのかもしれない。」
「どういうことだ?」
「本体は別にいて、自己防衛用のプログラムだけが動いていたんじゃないのかな?」
「バカな。俺はちゃんと深雪の霊を呼び出したはずだぞ?」
闇夜がテーブルを叩いた。スケキヨは冷静に反論する。
「でも、さっきの戦いを思い出してみてよ。あんやが攻撃するまでは深雪はあんやを認識していなかった感じだったよ?」
闇夜は振り返る。
(確かにそうだった。それにこちらの攻撃は全く通用していなかった。)
スケキヨは続ける。
「あんやが攻撃して、それではじめて深雪はあんやを認識して、攻撃元であるあんやを自動的に追尾していたように思うんだ。」
闇夜は首をかしげる。
「要するに本体は別にいて、さっき俺たちが戦っていたのはダミーロボットだったというわけなのか?」
「多分そうだと思う。さっきのダミーロボットはただ自動的に反撃するだけで、それ自体にダメージを与えても本体にはそのダメージは届かないんだ。」
闇夜は頭をかきむしった。
「くわー、そうするとそのあたりのメカニズムも解明しないと調伏出来ないということか。頭痛いわ。」
「だからもう少し深雪周辺を調べないとだめなのかもしれない。」
闇夜はひとつ思い出した。
「そういえば、深雪は瑞歩に『友だちをつくるな』って言われてたんだよな?」
「そうだよ。」
「そのあたりのことが深雪の心を抑圧しているってことはないかな?」
「それはあるかもしれないね。瑞歩の著しく偏った教育が深雪の心を大きくねじ曲げていて、あんなとんでもない自己防衛システムを作り出してるっていう可能性はあるよ。」
闇夜は顎をさすりながら言った。
「なるほど。深雪に友だちを作ってあげれば、深雪が抱えている心の歪みも解消され、あの自己防衛システムも消せるかもしれないな。」
「そうだね。あんやが友だちになってあげればいいんじゃないかな?」
「馬鹿言え。それは無理だろ? 俺達は友だちは作っちゃいけないんだって前に言ったろ? どうせ問題が解決すれば転校して別れる間柄なんだから……」
闇夜はうつむいた。しかし気を取り直して言った。
「要は深雪に俺以外の友だちを作れば良いってことだろ?」
「そんなことできるの?」
「難しいな。もともと『鳥居』なんてアダ名付けられるくらいだから、深雪に近づこうとするやつなんていないだろうな。それに加えて今回の事件だ。ますます回りからハブられているだろうな。」
「なんとか深雪に友だちを作らせることが出来れば随分楽になるんだけどね。」
「……」


* * *


 それから一週間が経った。
 海江田魚々子はずっと学校を休んでいた。
 魚々子は、精神科に安定剤と睡眠薬を処方されていたものの、悪夢と幻聴に苦しめられていた。
 魚々子は自分の部屋で布団をかぶって震えていた。窓にびっしりと貼り付けられた新聞紙。原子爆弾の光さえ、彼女の部屋には差し込まないだろう。電気もつけていないので、部屋は真っ暗だ。
 彼女は寝るのが怖かった。眠れば『ヤツら』がやってくるからだ。しかし三日も寝ていないとさすがに気を張っていることができなくなっていた。彼女はうとうとと眠りはじめた。
 
 「ねえ、魚々子。」
 不意に魚々子を起こす声がする。魚々子が目を覚ますとそこには生上院瑠璃香と島田かほりがいた。
 「あなたも私達の仲間よね?」
 瑠璃香が笑顔で話しかける。
 「一緒に色々やったわよね?」
 かほりも笑顔だ。

 しかし二人とも急に表情が変わった。
 「じゃあ、私達と一緒に死んでくれないかな?」
 「そうよ。あなただけ生きているなんておかしいわ。」
 瑠璃香は魚々子の右腕を掴み言った。
 「私なんてこんなになっちゃったのよ?」
 瑠璃香は口を開けて魚々子に見せる。口の中には歯がほとんどなく、血とよだれがだらだら垂れてきた。魚々子は口の中を正視できない。瑠璃香が口を閉じると、瑠璃香の体や顔の不自然な場所に切れ目が入り、血を噴き出しながらボロボロと積み木が崩れるように、瑠璃香の破片がこぼれ落ちた。
 「私だってこんなよ。」
 かほりは魚々子の左腕を掴んだ。しかし、掴んだ腕はバキバキっと折れてひしゃげていった。ひしゃげていったのは腕だけではなく、足、腹、胸、肩、首とひしゃげていき、やがて顎が取れ、鼻が折れ、目玉が飛び出し、頭が潰れ脳漿が噴きだした。
 
 「いやああああああああ!!!!!!」
 魚々子は叫んだ。自分が自分の部屋にいることがわかった。腕をみてみると強く掴まれた跡が残っている。
 なにやらヒソヒソと声がする。声が沢山集まっているので何を言ってるかわからないが、非常に不快な響きだ。魚々子は耳を塞ぐ。
そのヒソヒソ声から不意に一際大きな声が聞こえる。
「あなたも早く死ぬといいわ!」
瑠璃香の声だった。
「あなただけ生きてるなんてズルいわ。」
かほりの声もする。
「死ぬのよ!」
魚々子は叫ぶ。
「やめて!」
「あなたも死ぬのよ!」
魚々子がどんなに耳を塞いでも声は消えない。
「やめてええ!!」
「死ぬのよ!」
「死ね!」
「死んでよ!」
魚々子は机にあった耳かきを咄嗟に掴んだ。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!」
魚々子は耳かきを左耳におもいっきり突き立てた。
ザク!ザク!
魚々子の耳には、耳かきをダイレクトに突き立てる音がしたが、やがて何も聞こえなくなった。
次に魚々子は右耳にも耳かきを突き立てた。
グサ!グサ!
魚々子は無我夢中で鼓膜を突き破り、自傷行為の痛みも忘れていた。魚々子の耳からはだらだらと赤黒い血が垂れていた。
魚々子を苦しめていた声は止まった。
「はあはあ……止ま……った。」
魚々子は両耳の鼓膜を耳かきで突き破り、耳が聞こえなくなった。しかし、無我夢中で突き刺したので、三半規管も傷つけてしまった。魚々子の頭はぐるんぐるんと回っている感じがした。そのままベッドに倒れ込んだ。机の上にある時計を見ると夜中の三時だった。
魚々子は久々におとずれた静寂を噛み締めていた。
(シャワーでも浴びてこようかな……)

魚々子の家の外では灰色のつなぎの作業服で目深に帽子をかぶった男が二人、なにやら作業していた。一人は三メーターくらいはあるアルミ製の棒の先にのこぎりの歯を取り付けていた。もう一人も三メーターほどのアルミ製の棒を持っていた。その先に、直径五十センチほどの鉄製の輪っかを取り付け、その輪っかにビニール袋をかぶせていた。
二人は魚々子の家のシャワールームの軒下にあるスズメバチの巣の前にいた。二人組のうち一人が対スズメバチ用防護服を着ながら言った。
「おい、殺虫剤は余り使うなよ。成虫も大事な商品だからな。」
もう一人が答える。
「わかってるって。はやくやっちまってさっさとずらかろうぜ。」
のこぎりがついている棒を持った男がスズメバチの巣の軒下にくっついている部分をギコギコと切り始め、その巣の下で、ビニール袋を取り付けた棒を持った男が受け止めようと棒を支えている。

魚々子はぐるんぐるん回る世界の中でふらふらしながら一階のシャワールームに向かった。パジャマと下着を脱ぐと魚々子はシャワールームに入った。
 魚々子の家の風呂場は西洋式の長細いバスタブがあって、壁にシャワーを固定する金具がついていた。シャワーの横には洗面台があり、洗面所とバスタブの間には半透明のビニール製のカーテンがあった。
 魚々子はシャワーのカーテンを開け、蛇口を捻った。シャワールームの窓は換気のため開いている。この時、外で蜂の巣を取り外そうとしている男たちが作業していたが、耳が聴こえない魚々子は気が付かなかった。
 魚々子は頭からシャワーを浴びた。耳の痛みはおさまっていたが、耳の所で固まっていた血が水に溶かされ、赤い水が、白いうなじを伝って、やがて排水口へ吸い込まれていった。久々の静寂の中、魚々子はシャワーで全てをリフレッシュさせていた。
 不意に後ろに気配を感じた。魚々子はバッと振り返る。しかし誰もいない。夜中にシャワーを浴びていると、なにもないのに正体不明の気配に怯えたりするものだと、魚々子は気持ちを落ち着かせた。
 
 その頃外では二人の男が蜂の巣をのこぎりで切り取っていた。
 九割ほど、蜂の巣が軒下から切り取られた頃、ビニール袋で受け取ろうとしていた男が思わずくしゃみをしてしまった。その時、棒で蜂の巣を叩いてしまった。その蜂の巣はボロっととれ、棒に当たり、シャワールームの窓から家の中に入ってしまった。
 「おい!何やってんだよ!」
 「やばい!逃げろ!」
 二人組は持ち物を残さず、塀を乗り越えて一目散に魚々子の家から逃げ出した。
 
 シャワーを浴びていた魚々子は、窓から直径四十センチほどの蜂の巣がゴロンと入ってきたことにすぐには気が付かなかった。シャワーを顔で受け止めていた魚々子は不意に足元に硬いものが当たるのを感じた。
 最初、魚々子は、足元に転がる茶色い縞模様の球状の物体が何なのかわからなかった。しかし、やがてその物体に数箇所ある穴から、体長四センチほどの、黄色と黒の縞模様のオオスズメバチが次々と出てきて、ブンブンと轟音をとどろかせた。シャワールームはあっという間にオオスズメバチが四十匹ほど飛び回る状態になった。魚々子はパニックに陥った。
 「きゃあああああ!!!!」
 魚々子はシャワーを振り回し、オオスズメバチを追い払おうとした。しかし、こういった虫は敵意を向ければ向けるだけ反攻してくるものである。
 オオスズメバチは一斉に魚々子に向かって行った。魚々子の体に取り付くと、その凶悪な毒針を次々と刺していった。
 「痛い!!! 痛い痛い!!」
 オオスズメバチはミツバチなどと違って、毒針が使い捨てでなく、何度も刺すことができる。また、オオスズメバチの攻撃方法は毒針だけではない。強力な顎で肉をえぐり、肉団子を作る事ができるのである。
 魚々子は蜂に刺されるだけではなく、噛み付かれて肉をえぐられたりした。魚々子の美しい白い肌はたちまち赤く腫れ上がったり、血がしたたり落ちたりして、陵辱が重ねられた。
 一匹のオオスズメバチが魚々子の顔に取り付いた。その蜂は魚々子の左の眼球に極悪な毒針を突き立てた。魚々子は激痛で思わず目をつぶった。
 「目が!!! 目がーーーー!!!」
 すっかりパニックに陥った魚々子はバタバタとシャワーを振り回して暴れた。水を振り回したおかげで羽を濡らされた蜂は飛ぶことができずにバスタブに溜まっていった。
 魚々子が暴れ続けたことはひとつ良い方向に向かった。それはシャワーを振り回すことによって蜂の猛攻をおさめさせたことである。しかし、ひとつ悪い方向に向かってしまった。暴れ続けたおかげで、洗面台の上に乗っかっていたドライヤーがバスタブの中に落ちてきたことである。
 運悪くドライヤーは洗面台のコンセントに差さっていた。ドライヤーが落下するときに、バスタブの縁で偶然スイッチが入った。
 ブホーっという音を立てて、ドライヤーはそのまま水の溜まったバスタブへと落下した。その刹那、青白い電撃がバチバチっと、まるでわたあめを作る機械の中のように、バスタブ内に走った。
 魚々子はビリビリっと頭の先からつま先まで激しく痙攣した。体中の蜂に付けられた傷跡から血が噴きだした。魚々子自身が穴を開けた耳からも血が噴水のように噴きだした。眼球は飛び出し、弾け飛び、黒い液体が顔を伝った。魚々子の体温は五十度まで上昇した。足元には黒い電流斑ができ、肉が壊死した。
 電撃はドライヤーが弾け飛んで壊れるまで続いた。電撃が止むと、魚々子の頭からは白い煙がシューシュー立ち上った。
 魚々子は首をうなだれて、立ったまま絶命した。シャワーの流れる音だけが虚しく流れていた。


* * *


 闇夜は部屋にいた。闇夜は部屋では小さいデスクライトしか点けないことにしていた。まわりが暗いほうが考えがまとまるからだ。これが中二病なら、『夜の眷属』だから、とかいうんだろうな、と自嘲気味に思った。
 闇夜は机においてあるスマートフォンを手に取り、電話をかけた。
 「もしもし? おやっさん?」
 闇夜の声は暗かった。
 「『おやっさん』じゃない!『室長』だ!」
 電話の向こうからは怒った後藤の声がする。
 「おやっさん……俺ドジっちまった……人が……人が三人も死んじまった。」
 「……そうか。」
 「……俺やっぱダメだ。こんな大仕事できないよ……」
 「……大丈夫だ。お前ならできる。お前にはそれだけの力がある。」
 「……でも……」
 「お前は一人じゃない。お前にはスケキヨがいるだろ?」
 「でも俺とスケキヨだけじゃ……」
 「大丈夫だ。ちゃんとスケキヨと力を合わせれば。お前は一人で抱え込まなくていい。困ったことがあったら俺でもいい。ちゃんと吐き出せ! スケキヨもちゃんと話せば力になってくれるはずだ。あれにはそれだけの力がある。」
 「……わかった。」
 「俺はお前を信じている。ずっとお前を見てきた俺ならわかる。お前ならできる。自信を持て。」
 闇夜は電話を切った。そしてデスクライトも消した。
 闇夜はベッドに寝転んだ。そして頭を抱え寝返りをうちそのまま寝てしまった。全ての悩みを明日に持ち越すように。


* * *


 海江田魚々子が死んだ次の日、学校では悶々としている一人の女生徒がいた。二時間目の数学では複素数平面における、複素数の掛け算のやり方について解説している。そんなことなどそっちのけで生天目裕子は考え込んでいた。
 (魚々子まで死んでしまった……瑠璃香、かほりに続いて三人目だ……どうなっているんだろう? ……みんなこの前、山の辺さんに詰め寄っていた人たちだ……やはり山の辺さんの呪いなのだろうか? ……山の辺さんに関わるのは怖い……それにしても月島くんは何か知ってるみたいだ……この前月島くんが会ってた人も気になるし……『これ以上関わるな』って言ってたけど、どういう意味だろう? ……やっぱり気になる……こうなったら月島くんをつけてみよう……)
 「よし!」
 裕子はまた思考がダダ漏れになっていた。そして気合を入れたせいか、何故か立ち上がってしまった。
 「なんだ? 生天目。この問題わかるのか?」
 数学教師が、いきなり立ち上がった女生徒に向かって問いを投げつける。
 「い、いや、なんでもないです……」
 裕子はこれ以上ないくらい赤面し席に着いた。闇夜は窓の外の、体育をやっている女子たちを眺めていたが、空気が変わった教室で、何事かと思い教室を見回した。
 六月だというのに既に梅雨はあけ、夏が始まろうとしていた。


* * *


 その日の放課後、生天目裕子は思い切って闇夜の後をつけて、真実に迫ろうとしていた。
 都立蚕糸の森高等学校は、青梅街道まで出れば開けているのだが、青梅街道まで出るまでは道が入り組んでいて人気がない細道しかなかった。
 部活に入っていない闇夜は、授業が終わるとまっすぐ家路についた。その後をつける女生徒の影一つ。
 闇夜は常に神経が張り詰めているので、尾行なんてちゃちな芸当は直ぐに見破ってしまう。というか、裕子の尾行が余りにも子供だましだったのもあった。
 (つけられているか……誰だ?)
 道の門にあるあるミラーをちらりと見ると、電信柱のかげから覗き込んでいる生天目裕子がいるのが見えた。
 (どうしたものかな? ……早めにバレてるってことを伝えるか……)
 闇夜は四ツ辻の所で右に入り、物陰に隠れた。闇夜のシナリオとしては、物陰に隠れ、裕子が四ツ辻を右に曲がった所で登場し、『尾行バレてますよ』と言ってやるはずだった。
 ところがいつになっても裕子は四ツ辻に現れなかった。やがて裕子の「きゃあ! やめて!」という悲鳴が聞こえた。何事か? と思って闇夜が四ツ辻から顔をのぞかせると、この暑い中、素肌に茶色のトレンチコートを羽織った男が、裕子の体をまさぐっていた。これは痴漢だ! と合点した闇夜は杖をつきつつ裕子の元へ向かった。
 闇夜は、カフグリップ付きの杖に電撃(スタン)銃(スティック)を仕込んでいたので、それで痴漢を殴りつけた。青白い閃光が走り、痴漢が電撃で体を反らせながら痙攣し、倒れこんだ。
 痴漢から解放された裕子は闇夜に抱きついてきた。
 「ふええん! こわかったよう!」
 裕子の大きな胸が闇夜の体に押し付けられる。
 (ううう……胸が!)
 闇夜のスキンシップの弱さは今に始まったものではないが、特にこの状況下では、彼を一層どぎまぎさせた。
 「だ、大丈夫ですか? 生天目さん……」
 「ふううん。ありがとう。ヒック。月島くん……」
 「ち、ちょっと、は、離れてもらえないかな?」
 「ダメ! もう少し……もう少しこのままでいさせて……」
 「……」
 闇夜は大きな胸を顔に押し当てられて、顔を真赤にしていたが、スケキヨにいつもしてあげているように頭を撫でてやった。
 一体どれくらい時間がたっただろう。三分? 三十分? 三時間? いや、実際には一分もかからなかった。ようやく落ち着きを取り戻した裕子が、闇夜の顔を胸に埋めたまま言った。
 「ごめんね。こんなことになっちゃって。」
 「……いや……いい……」
 闇夜の声は明らかに上ずっていた。すると裕子が上目遣いで言った。

 「お礼といってはあれだけど、その……あの……わたしと……『いいこと』しない?」
 「『いいこと』?」
 「そう。『いいこと』」
 闇夜の頬を冷や汗が伝った。
 「……『いいこと』って……何?」
 「『いいこと』は『いいこと』よ。」
 裕子が笑顔で答える。闇夜の鼓動は高まっていった。
 「ねぇ。『いいこと』しよ?」
 裕子は頬を少し紅潮させて、少し潤んだ目で上目遣いで聞いてきた。
 闇夜はゴクリと生唾を飲み込んだ。
 (『いいこと』ってまさか……)
 闇夜の鼓動は更に高まる。
 (そんなこといいのか? ……)
 裕子が「早く答えを聞かせて」と言っているかのような目で見つめてくる。
 闇夜はこんなこといいのかなぁ? という気もしたが、好奇心と若い欲望の方が勝ってしまい、静かにコクリと頷いた。すると裕子も笑顔で頷いた。


* * *


 「……」
 「……」
 「『いいこと』って………………これ?」
 「そう。『いいこと』よ。」
 二人は今、店のテーブル席に向かい合って座っている。
 その店というのは『麺屋えん寺』という中華そば屋だった。東高円寺駅の北側の東高円寺商店街ニコニコロードの入り口にあるこじんまりとした店だ。
 「あたしラーメンとかつけ麺が大好きなの。だから月島くんにはお礼として一杯おごっちゃおうかなって思って。ほら、月島くん転校してきた時の自己紹介で、『趣味は食べ歩き』って言ってたでしょ? だから月島くんも喜ぶんじゃないかと思って、ってどうしたの?」
 闇夜は顔を手で覆っていた。闇夜は自分の胸の高なりを後悔してた。あんなところであんなこと考える自分を激しく嫌悪していた。若干肩透かしを食らった感は否めないが、これはこれでなんとなく安心した。
 「いや、大したことではござりませぬ。」
 若干苦笑いしている闇夜を心配そうに見ていた裕子はなんとか納得したようで、自分の言いたいことを喋り始めた。
 「ここのおすすめはつけ麺ね。」
 「しかし生天目殿、拙者ラーメンは食べ慣れているのですが、つけ麺というのは食べたことがございませぬ。」
 「あんまり難しく考えないで。ほら、素麺とか日本そばとか食べる時、おつゆに付けて食べるでしょ? それの中華そばヴァージョンって感じ。つけ麺の場合、たれにこだわりがあって店によって違うし、麺も日本そばや素麺とかと比べ物にならないくらい太いのが多いわね。でも基本的に食べ方は一緒だよ。ここのお店は美味しいよ。都内のラーメンやつけ麺のお店は二百箇所くらい食べ歩いたけど、ここのはわたしの中でトップファイヴに入るくらいよ。」
 裕子はひとしきりまくし立て、水を一口飲んだ。
 「ここはね、中盛りまでが無料なの。あと、味付け玉子のトッピングは外せないわね。あと、タレが冷めないように熱盛りにしてもらうのがおすすめ。それから、麺は胚芽麺ともちもち麺が選べるけど、あたしは断然胚芽麺を推すわ。」
 この手の話が好きな人は、止めるまで延々と話し続ける。しかし、闇夜はそういう話を聞くことに苦痛を覚えるどころか、むしろそういう話をすすんで聞きたいと思っているので、裕子の話を遮ることはせず、頬杖をつきながら裕子を見つめ、静かに聞いていた。
 闇夜は裕子に、味玉入りつけ麺の中盛りの食券を券売機で買ってもらった。そして再びテーブル席に向かい合わせに座った。
 しばらくして店員が食券を回収しに来て、麺は胚芽麺で熱盛りと注文した。
 つけ麺が出てくる間、「それにしても」、と裕子が切り出した。
 「月島くんて強いのね。あんな痴漢一発で倒しちゃうなんて。」
 「ああ、それはですね、この杖はスタンガンが仕込まれているんですよ。」
 「うそー!! なんで?!」
 「まあ、なんというか、護身用というか……」
 闇夜は少しうつむきつつ、頬をポリポリと掻いた。
 「あたし前から思ってたんだけど、月島くんて、普通の高校生じゃないカンジがするのよね。なにか秘密を抱えてるというか、ミステリアスというか……」
 と話が核心にたどり着く前に、闇夜にとって都合のいいように、話を遮るようにつけ麺がテーブルにのせられた。
 「来た来た!」
 裕子は目を輝かせていた。どんぶりに山盛りの湯気を立てた茶色い太麺と、大きめのお茶碗くらいの器に入れられたタレが運ばれてきた。
 「食べるときのコツはね、タレにあまり麺をくぐらせないことね。この麺、結構タレが絡むからじゃぶじゃぶつけちゃうと最後の方でタレが足りなくなっちゃうの。」
 闇夜は裕子の食べ方を見よう見まねでやってみた。少し麺を箸で掴んで、さらりとタレにくぐらせる。そして一気にすすった。真っ先に口の中に広がったのは強烈な小麦の香りだった。
 「胚芽麺は、普通の小麦粉と違って、胚芽も含めた全粒粉からできてるの。だから茶色いのだけど、その分小麦のクセが強まって、どっしりとした味わいになるの。」
 闇夜は、へー、と相槌を打ち、もう一口食べる。今度はタレをしっかり味わった。魚介やとんこつの旨味とともにゆずの香りが絶妙にマッチする。そしてほのかで自然な甘みがある。
 「このタレの味の秘密はベジポタなのよ。ベジタブルポタージュ。つまり、いろんな野菜のペーストが入っているわけ。だから軽くて自然な甘みが生まれるの。」
 一口ごとにいろいろな味の要素が楽しめるので飽きることなく食べることが出来た。麺を半分くらい食べた頃合いに、タレの中に浮かんでいる柔らかい味付け玉子に箸をつけた。
 「あ、それ、すごいでしょ? 味付け玉子なのに半熟なのよね。まあ最近はそういう味付け玉子も増えてきたけど。それでもちゃんと味が染み込んでるからすごいのよね。」
 淡白で柔らかな白身と、濃厚で味の染みたトロトロの黄身が口の中で美味しいハーモニーを奏でる。
 そうこうしているうちに、どんぶりいっぱいに盛られた麺をあっという間に平らげてしてしまった。闇夜は裕子の忠告通りに食べたので、タレが足りなくなるということはなかった。むしろタレは余った。
 「ここで、残ったタレに、ポットに入ったスープを入れて飲むの。まあ日本そばで言うところの、そば湯でタレを薄めて飲むのと似てるかな? やってみてよ。」
 テーブルにはポットがおいてある。それにスープが入ってるらしい。ポットは保温機能がついているので、タレに混ぜると湯気が立った。程よく温まったスープをゴクゴクと飲み干す。闇夜はとんこつや魚介の旨味と野菜の甘味をおもいっきり堪能した。
 裕子は心配そうに闇夜を見つめた。
 「月島くん……ど、どうだった? ここのつけ麺。」
 すると闇夜は満面の笑みで答えた。
 「うむ。大変おいしゅうございました!」
 裕子の顔がぱあーっと明るくなった。


 つけ麺の余韻に浸りながら二人は水を飲んでいた。
 裕子はなぜかもじもじしている。何か言いたげである。
 すると裕子は意を決したように言い出した。
 「あの! 月島くん! ……お願いがあるんだけど?」
 闇夜は笑顔で答えた。
 「なんでございますか?」
 「あたしと……あたしと……お、お友だちになってくれませんか!?」
 闇夜はまさかそんなお願いが出てくるとは思いもよらず、しばらく考え込んだ。そして顔を上げてこう答えた。
 「生天目殿、それはできませぬ。残念ながら。」
 裕子は一気にしゅんとなってしまった。
 「どうして? ……どうして友だちになってもらえないの?」
 闇夜は裕子の目をまっすぐ見た。
 「生天目殿、友だちというのは、お願いしてなるものではないと思うのでございます。それに……自分の見えている世界というのは、世の中ではほんの少しだったりします。自分が納得の行かない事もたくさんあるのです。世界ではいろいろな力が働いております。自分の力だけではどうにもならないことだってあるのでございます。わかりにくい話で申し訳無いのですが……」
 「…………どうにもならない力が働いてるから友だちにはなれないと?」
 「……そう受け取ってもらって構いませぬ。」
 闇夜はせっかくつけ麺をごちそうになったのに、この仕打はさすがにかわいそうだと思った。しかし、闇夜は蚕糸の森高等学校での事件が解決すれば転校していく身。心の何処かで孤独を感じつつも、友だちは作れないというジレンマに毎回苦しめられる。友だちを作ってもすぐ転校で、別れなければならない。別れは辛い。だから最初から友だちは作らない。でもここではウソでもいいから、目の前にいる、がっかりしている少女を元気づけなければ、月島闇夜の男がすたるとも思った。
 「わかりました。条件をつけましょう。ってすごく上から目線で申し訳ないのですが……こちらからもお願いがございます。生天目殿、山の辺深雪殿の友だちになってはくれまいか? そうすれば拙者もあなたと友だちになる努力をいたしましょう。」
 裕子は少し考えこんで、何か合点がいったのか寂しげに話しだした。
 「そっか。やっぱり月島くん、山の辺さんのこと好きなんだ。」
 「……そういうわけではござりませぬ。ただ、クラスのことを考えた時、彼女があのままでいるのは不健康だと感じているのでございます。生天目殿のような明るい方なら彼女の力になってあげる事ができ、且つ、良いクラスにすることができると思うのでございます。これは拙者のような者ではできないことなのでございます。」
 「そっか。でも、山の辺さんって、関わると呪いがあるって話が……」
 闇夜は懐をゴソゴソと探り、人型の半紙を取り出した。その半紙には何やら不可思議な文様と難しい漢字が書いてあった。
 「これを持っていてくだされ。もし、呪いなどといったものがあるなら、これがその呪いからあなたを守ってくれるでしょう。」
 裕子はいきなり目の前に見せられた不可思議な物体に目を奪われ、思わず言った。
 「月島くん。あなた一体、何者なの?」
 「どこにでもいる普通の男子高校生でございますよ。」
 二人は少しの間見つめ合った。
 「生上院さんや、島田さん、そして魚々子が死んだのって、山の辺さんが関係しているの?」
 「それは現段階でお答えすることができません。拙者はただ一つのことを願います。クラスに、山の辺さんのような味噌っかすを作ってはいけないということです。どうか拙者のお願いを聞いていただけますか?」
 裕子はしばらくうつむいてから答えた。
 「わかった。わたしやるよ!」
 闇夜は笑顔で頷いた。そして二人は麺屋えん寺から出た。
 闇夜と裕子の家は反対方向にあった。
 「それでは拙者はこちらですので。道中を気をつけください。今日は美味しいものをごちそうしてくれてありがとうございます。」
 「こっちこそ、痴漢から助けてくれてありがとう。それじゃ、またね。」
 ふたりは別々の方向へ歩みを進めた。二十メーターほどお互いの距離が離れてから、裕子は闇夜の方へ振り返った。
 「月島くん! また一緒に食べ歩きしてくれないかな!?」
 闇夜は手を振って答えた。
 「いいですよ、それくらいなら。」
 闇夜も裕子も何故か心がホクホクしていた。


* * *


 闇夜が帰宅すると、スケキヨがリヴィングでロッシーニの序曲集をかけながらウーピーのぬいぐるみとじゃれていた。ウーピーというのは、八十年代にカップ焼きそばのCMで話題になったウーパールーパー(正式名称メキシコサラマンダー)という両生類をデフォルメ化したキャラクターである。スケキヨはウーピーが大好きなのである。
 「ただいま。」
 闇夜が帰宅の挨拶をするとダダダッといつものようにスケキヨが飛びついてくる。
 「おかえり〜あんや!」
 相変わらず顔が近い。これには闇夜も毎度のことながら慣れることができない。するとスケキヨがなにか感じたようだ。
 「あれ? クンクン。クンクン。」
 スケキヨは闇夜の口元の臭いを嗅いでいる。そしてジト目になって詰め寄った。
 「……あんや、どこかでなんか食べたでしょ?」
 闇夜はギクリとした。別にやましい訳ではないのだが、スケキヨにこうやって詰め寄られると、何かいけないことをしているかのような気分にさせられる。闇夜はスケキヨを体から引き離しながら開き直った。
 「……ああ、ちょっと近くでつけ麺をね。いけないか?」
 スケキヨは服の端っこを噛んで地団駄を踏みながら悔しがる。
 「キー―ッ!! なんで僕も誘ってくれないんだよ!」
 「今日はちょっと色々あったんだよ。……なんというか、行きがかり上、つけ麺を食べることになっちまって……」
 「その『行きがかり上』ってのを説明して貰いたいものだね。」
 「……面倒くさいから説明しない!」
 「……女の子でしょ?」
 こういう時、スケキヨは鋭い。闇夜は面倒くさいのでやはり開き直ることにした。
 「ああ、そうさ。それが何か?」
 「僕という彼氏がいながら女の子と食事行くなんて……」
 スケキヨはいじけた。しゅんとしたスケキヨがいたたまれなくなって、闇夜は結局顛末を話すことにした。
 「……あー、もうわーったよ。今日学校からの帰りに痴漢に襲われている娘がいたんだ。それを助けたら、なんだかわけがわからないけどお礼につけ麺をごちそうになったんだ。それだけだ。」
 「それだけ?」
 闇夜は、裕子に抱きつかれて動けなくなって、半ば強引に連れて行かれたわけだが、それを話すと話がややこしくなるので伏せておいた。
 「……それだけ。」
 「ほんとにそれだけ?」
 「ほんとにそれだけ。」
 「絶対の絶対?」
 「絶対の絶対。」
 「……じゃあいいよ……」
 闇夜は胸をなでおろした。
 「ところで、つけ麺……美味しかった?」
 「……ああ、旨かったよ。今度連れてってやるから。だから機嫌直せ。」
 「ほんと?」
 「嘘はつかん。」
 さっきまで泣きそうだったスケキヨに笑顔が戻る。
 「やったーー!!」
 スケキヨはウーピーのぬいぐるみをむぎゅーっと抱きしめる。
 単純な奴、と闇夜は、ニコニコしているスケキヨを見て思った。こんなことなら最初から正直に話せば七面倒臭いやり取りはなかった、と後悔した。しかし、こんなことが毎回あってはたまらない、とも思っていた。スケキヨがいる限り、闇夜の周囲には女の子が近づけないという状況をいずれは何とかしないといけない、と、闇夜はその問題を将来の自分に託した。


* * *


 次の日の朝、登校中、生天目裕子は山の辺深雪を探していた。校門へ続く坂道の途中で裕子は深雪を見つけた。
 「おはよう!」
 裕子は深雪のもとへ小走りしながら声をかける。
 「……」
 「今日も暑いね。」
 「……」
 「……ひょっとして私のこと知らない?」
 「……」
 「私、同じ二年四組の生天目裕子。よろしくね。」
 「……」
 「山の辺さん部活とか入ってないの? 私は茶道部に入ってるの。」
 「……」
 暖簾に腕押し、糠に釘状態だが、なぜ裕子が執拗に深雪に話しかけているかというと、闇夜と昨日約束したように、深雪と友だちになるためだった。しかしいくら裕子が深雪に話しかけても、深雪は裕子の方を見ることもなく、虚ろな表情を浮かべて、ふらふら歩いているだけだった。
 教室に入ってからも、裕子は深雪に話しかけていた。しかし、その様子を見ている他の生徒は気が気ではなかった。まるで裕子が気でも違ったかのように思われている視線が痛かったが、裕子はそれをやめようとはしなかった。闇夜に頼まれたということ、そしてお守りをもらったことで、裕子はなんとかその責務を果たそうとしていた。

 昼休み、裕子はめげずに深雪の元へ行った。
 「山の辺さん、一緒にお弁当食べない?」
 「……」
今まで無反応だった深雪は、その言葉に一瞬動きを止めた。普段の深雪に、動きなどは殆ど無いに等しいので、その微妙な変化に気づく人間など居なかった。
裕子は、深雪の無反応など想定していたことだったので構わず続けた。
「じゃあ、お弁当机に置かせてもらうね。」
「……」
一瞬動きを止めた深雪だったが、裕子を受け入れつつ、自分の弁当箱を机においた。裕子は終始にこやかにしつつ、自分の弁当箱を深雪の机に置き、蓋を開けた。弁当箱には、ミートボール、卵焼き、ゴーヤチャンプルーが入っており、ご飯には梅干しが一つ乗っかっていた。
深雪は思わず裕子の弁当箱を覗きこんだ。そしてまた動きが止まってしまった。自分の弁当箱の蓋を掴んだまま開けられずにいた。さすがにこのように不自然に止まった深雪の様子に裕子は気がついた。
「どうしたの? 食べないの?」
「……」
数秒固まっていた深雪であったがなんとか気を取り直して、弁当箱を開けた。そこには人工着色料まみれのピンク色の魚肉ソーセージがぞんざいにぶつ切りにされたものと白いご飯しかなかった。裕子はその弁当箱を見て思わず言葉を失った。自分の弁当を晒した深雪はうつむいた。しかし裕子はその粗末な弁当に奇異の目を向けること無く、優しく深雪に語りかけた。
「山の辺さん、この卵焼き食べてみない?」
裕子は三切れある玉子焼きのうちの一つを箸でつかみ、深雪の弁当箱においた。
「このお弁当、私が作ったんだけど、この卵焼きは自信があるんだよね〜へへ。これね、烏骨鶏の卵使ってるんだ。知ってる? 烏骨鶏って羽毛は真っ白なのに、地肌が黒いんだよ。変な鳥だよね? でも烏骨鶏の卵は普通の鶏の卵と比べて栄養価が高くって、味も濃いんだよ。卵自体の味を活かしたいから、お砂糖もあまり入れてないの。食べてみてよ。」
深雪は裕子の方は見ず、自分の弁当箱にのせられた、自然で鮮やかな黄色の卵焼きをしばらく見つめていた。そして恐る恐る、箸を震わせながら卵焼きをつまんだ。それをゆっくりと、その薄紅色の唇の、小さめの口に運んでいった。ひとかみすると、ジューシーな半熟卵が溢れ出てくる。ほのかな甘味の後に来る、その濃厚な卵本来の味わいに、深雪は閉じ気味だったまなこを思わず見張った。
「……しい……」
「え?」
「……おい……しい……」
深雪は思わず感嘆の声を漏らしていた。裕子は初めて深雪の声を聞いた。その声を聞くことができて裕子は嬉しかった。そして、その声を引き出したのが、自分の作った卵焼きだった、ということが誇らしかった。
「そ、そう。おいしかった?」
深雪は、今度は裕子の目を見て言った。
「おいしい……」
裕子の顔からは笑みがこぼれる。自分の産んだ赤ちゃんが初めて言葉を発したかのようなうれしさを感じた。
「そう! じゃ、じゃあ、この卵焼き、もう、ぜ、全部食べてもいいよ!」
深雪もつられて微笑んだ。深雪が家族以外に心を開いた初めての瞬間だった。
二人は心を通い合わせ、弁当をつつきあった。裕子にとっても、深雪にとっても、至福の時間が流れていった。深雪は「おいしい」以外に言葉を発することはなかったが、裕子は根気よく言葉をかけてあげた。

昼休みが終わり、五時限目の生物の授業中、不意に、「ビリッ」という、何か破れるような音を裕子は聞いた。
(ゲッ!制服破れたかな? やだな〜また胸が大きくなったのかな? ブラも変えないと……)
そんなことを考えていた裕子だったが、思わず内ポケットを探ってみると、闇夜にもらった、人型の半紙でできた、身代わりのお守りがあった。しかし、それを取り出してみると、半分に破れていた。裕子は思わずゾッとした。


* * *


すべての授業が終わり、多くの生徒が下校中だった。
この学校の校門手前には広場があって、噴水のある丸い池がある。闇夜はその池を左回りによけながら、杖をコツコツつきつつ校門に向かっていた。
すると池を右回りに走ってくる女生徒がいた。その少女は大きくてやわらかい胸を跳ねさせながら走ってくる。
「月島くーん!」
生天目裕子は闇夜を呼び止めた。裕子は息を整えながら、闇夜の歩みのスピードに合わせて、隣を校門へと歩いた。
「いかが致しました? 生天目殿。」
「ちょっと……ちょっと話があるの。」
二人は顔を見合わせる。
「今日ね、月島くんに言われたように、山の辺さんと友だちになれるようにがんばったの。朝からしつこく話しかけたりして。それでね、お弁当を一緒に食べたの。その時、あたしの卵焼きを食べてくれたの。でね、あの子、『おいしい』って言ってくれたの。あたし山の辺さんが喋ったの初めて聞いたわ。それでね、にこって笑ってくれたの。あたしあの人があんな表情するの初めて見たわ。それで、山の辺さんとは友だちになれそうな気がしたの。でもね……そしたらね……そしたらね……」
裕子は半分泣きそうになりながら、ポケットから、半分に破れた紙のお守りを取り出し、闇夜に見せた。
「!」
「気づいたら破れてたの。あたし山の辺さんに嫌われてるようには見えなかったのに……どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」
「そうでございましたか……なぜこんなことになったかはまだわかりませんが、よくやってくださいました。生天目殿は十分やってくださいましたよ。その破れたお守りをいただけますかな?」
裕子は破れたお守りを闇夜に渡した。代わりに闇夜は新しいお守りを懐から取り出し裕子に渡した。
「一応新しいお守りをお渡ししておきます。もしお気持ちが変わらなければ、引き続き、山の辺殿と友だちになっていただきたいのですが……もちろんまたお守りが破壊された時は直ぐに言ってくだされば新しいのを差し上げますので……いかがでしょうか?」
「……うん……あたし最初は不純な動機で山の辺さんと仲良くなろうと思ってた……山の辺さんと友だちになれば、月島くんとも友だちになれるって。……でもね、今日山の辺さんと触れ合ってみて、わかったの。あの子は友だちを必要としてるって。何か色々と抱え込んでいるみたい、あの子。あたし、あの子の力になってあげたい。」
「そうでございますか。ありがとうございます。」
裕子は少しうつむき、小声で言った。
「……も、もちろん、つ、月島くんとも友だちになりたいけど……」
闇夜は一抹の罪悪感を抱えつつ、それを表に出さずに笑顔を見せた。
二人は立ち止まり、しばらくの間、日が西に傾きつつある校門手前で見つめ合い、無言の会話をした。
すると校門の方から聞き慣れた声がする。
「あんやーーー!」
二人が校門の方を見ると、スケキヨが手を振って呼んでいた。
「あのバカ!」
闇夜は杖をついて校門の方へ急いで向かった。
 「おまえ! ここには来るなってあれほど言っただろ!?」
闇夜は出来る限り小声で、出来る限り声を荒げてスケキヨに抗議した。
すると後ろから裕子がついてきた。
「月島くん……こちらはどちら様?」
「ええと、つまり、その……」
「彼氏です!!」
(即答しやがった!?)
裕子は目を丸めて驚愕し、眼鏡がずり落ちた。しかし何を思いついたのか、赤いフレームの眼鏡を整えてから、にっこりして言った。
「ええと……どっちが受けでどっちが攻め?」
「はぁ!?」
闇夜は想定外の問いかけに耳を疑った。
するとスケキヨはなんの迷いもなく答えた。
「ええと、それはやっぱり、あんやはこういうキャラだから、あんやがツンデレ受けがテッパンでしょ!で、僕が……わっぷ。」
闇夜はこれ以上自体を悪化させないために、スケキヨの首の後から腕を回し口を塞いだ。
「い、いや、こいつは、その、ただの弟でございます! 弟の月島スケキヨです!」
闇夜は裕子の中での腐った妄想の連鎖を断ち切ろうと努力した。スケキヨは闇夜の腕の中でしばらくジタバタしていたが、なんとか落ち着き、闇夜の拘束から逃れることができた。そして改まって裕子に聞いた。
「それであなたはどちら様?」
急に振られた裕子はあたふたしながら答えた。
「は、はひ! 月島くんのクラスメイトの生天目裕子と申します! お、お兄さんとは友だちを前提にお付き合いさせていただいております!」
(この娘はこの娘でややこしいことを言ってるな……いろんな過程がめちゃくちゃだ!)
闇夜はもうこのちぐはぐなやり取りに耐えられなくなって、早めにこの場を切り上げようとした。
「生天目殿。拙者たちはちょっと用事があって急いでおります。それではまた学校で。ごきげんよう。」
闇夜はスケキヨの首根っこと猫でもつかむかのように引きずりながら、杖をつきつつ足早にその場を去った。

闇夜とスケキヨはなんとか校門から離脱し、学校へ続く坂道を降りていた。闇夜はスケキヨに改めて聞いた。
「で、なんでお前はあんなところにいたんだ?」
「いやー、あんやは学校ではどんな感じなのかな―? って。ニシシ。」
「はあ……それだけかよ……やれやれだぜ。」
「でもね、新しいことがわかったんだよ。それで早くあんやに伝えようと思って。」
「なんだ?」
「山の辺深雪の父親の行方がわかったんだよ。」
「何!?」
「彼女の父親の名前は、立壁(たてかべ)十三(じゅうぞう)。深雪が小学六年生の時に、母親と別れている。でも未だに深雪と瑞穂に生活費を送っているみたい。ルポライターをやってるんだけど、例の、瑞歩がハマってるキリスト教系新興宗教、『灯台の光』の被害者の会の会長もやってる。これから深雪を取り戻そうと動き始めてるみたい。住んでるのは丸ノ内線で一駅隣りの新中野の鍋屋横丁。」
「そうか。それじゃあ近いうちに深雪と父親が接触する可能性もあるわけか。こっちも少しわかったことがあるんだ。深雪はどうやら自分の意図で呪いをかけているわけではないみたいだ。」
「どういうこと?」
「ほら、さっき会った、生天目裕子に、深雪と友達になって欲しいと頼んだのだよ。安全のためお守りを持たせてね。深雪が友だちを作ってはいけないと母親に強要されてるって話があっただろ? そこが呪いのカギになっている気がしてね。それで裕子と深雪は友だちになりかけたらしいのだけど、お守りが破壊されてしまったんだよ。深雪自身は友だちを作りたいと思っているのだけど、それを邪魔している力が働いているみたいだ。これはどういうことなのだろうか?」
スケキヨは少し考えこんで答えた。
「ふーむ、これはひょっとして無意識が関係しているんじゃないのかな?」
「無意識?」
「ほら、ジークムント・フロイトが精神分析学で提唱したやつさ。人間の心のなかで、意識として表面上にあらわれているものは氷山の一角で、ほとんどを無意識が占めている。瑞歩による偏った教育が深雪の表意識の中で消化されきれず、嫌なことは無意識に抑圧されていったんじゃないかな? そして抑圧された衝動が呪いとなって表面に現れているっていう……」
「なるほど。深雪の呪いのメカニズムが何となくわかってきたぞ。」
「あんや、他(た)心通(しんつう)で深雪の心を読んでみたら?」
「そうか、一応俺も密教は学んだからその手が使えるか。そうすればこの訳の分からない呪いへの対抗策がわかるかもしれないな。」
闇夜はスケキヨの頭を撫でてやった。スケキヨは猫のように喉を鳴らして喜んだ。しかしそれで調子に乗ったのか、また余計なことを言い出した。
「それで、あんやはあの娘のことどう思ってるの?」
「な、何言ってるんだよ?おまえは。」
「ちゃんと答えてよ!」
「べ、別に……なんでもいいじゃねぇか。」
「この前つけ麺食べに行ったのあの娘でしょ〜?」
「(チッ、鋭いやつだな……)そ、そうだよ。それが何か? あ、そうだ、これからそのつけ麺食べに行かねぇか?」
「ほんと? わーいわーい!」
スケキヨは子供のようにくるくるとまわって喜んだ。
(よかった……単純なやつで……段々コイツの扱い方がわかってきた気がする……)


* * *


山の辺深雪は、本当はせっかく近づくことができた生天目裕子と一緒に帰りたかったが、気がつくと裕子は学校から消えていた。仕方なくいつもどおり一人で家路についた。蚕糸の森公園を通りぬけ、青梅街道を渡り、大久保通りへと続く坂道を下りていた。この道もここ十年くらいでかなり変わった。変わってないのは高円寺東児童館と、通りの向かい側にある、野武士という居酒屋くらいなものだった。児童館の裏手には深雪の家があった。児童館の横を通るとキャッキャと子供たちが騒ぐ声が聞こえる。すると児童館の前にある電信柱の影から見覚えのある人物が現れた。身長は190センチはあるくらいの大男ではあるが極度に痩せており、威圧感はなかった。黒々とした髪は七三分けになっており、クシャっとひしゃげたタバコをくわえていた。
「深雪……」
深雪は思わず立ち止まった。
「……………………………………おとう……さん…………」
深雪が五年ぶりに再会した父、立壁十三は、五年の歳月の割にはあまり変化がなかった。だから深雪は容易に十三を父と認識した。
「深雪……大きくなったな。」
「……おとうさん。……会いたかった……」
深雪はカバンを投げ捨て十三の元へと駆け寄り、涙を流しながら抱きついた。
「深雪……ごめんな……放っておいて……」
「……待ってた! ……ずっと待ってた! どこにいたの? 何してたの?」
十三は深雪を抱きしめながら語りかけた。
「深雪を取り戻す準備をしていたんだ。そしてお母さんも。お母さんはあんな風になっちゃったから、家族が同じような事になってしまった人たちを集めていたんだ。いいかい? お母さんは病気なんだ。お母さんのお父さん、つまりおじいちゃんのしつけがすごく厳しくて、お母さんはすごく真面目なキリスト教徒に育ったんだよ。でもおじいちゃんが死んでしまってからお母さんは変わってしまった。お母さんの中で何かが壊れてしまった。お母さんはおじいちゃんを信じていた。お母さんの中でおじいちゃんは絶対的なものだった。それがなくなってしまって、お母さんはすがるものを私や深雪に求めず、信仰に求めてしまったんだ。それであんなことになってしまって……お前には辛い思いをさせてしまったね。」
「……お父さん。」
「私と深雪がお母さんを救ってあげなきゃならないんだ。」
「……うん……うん……」
二人はしばし無言で抱き合っていた。しかしそんなひとときを壊す声がした。
「ちょっと!」
山の辺瑞歩だった。彼女はスキットルを片手に握りしめ、紙袋に入っていた大量の冊子をぶちまけ、ツカツカと二人の元へ歩みを進めた。そして深雪の襟首を掴み、強引に十三から引き剥がした。
「二度と来るなと言っただろ!?」
瑞歩は十三を睨みつけながら言った。
「瑞歩、お前は疲れているんだ。一緒に……」
瑞歩はスキットルを投げ捨て、こぶしで十三を殴りつけた。投げ出されたスキットルから、ドライジンがどくどくとアスファルトにこぼれ落ちる。十三は唇を切り、血を流した。
「もうあんたの話は聞きたくないって言っただろ!? さっさと私の目の前から消えな!」
「お母さん! もうやめようよ! 三人で仲良く暮らそうよ!」
瑞歩は久々に口答えした深雪の髪の毛を掴み、引っ張っていった。
「痛い! 痛い!」
深雪は必死に抵抗した。勢い余って髪の毛の束がぶちっと抜けた。深雪の頭皮から血がにじむ。瑞歩は手に残った髪の毛をしばし見つめたあと、深雪の襟首を掴み、ものすごい力で深雪の背中側から引っ張った。深雪はバランスを崩し、瑞歩の思い通りに動いた。
「離して! 離して!」
瑞歩は深雪の言葉に耳を貸さず、そのまま家へと引っ張っていった。深雪の様子を黙ってみていることしかできない十三と、深雪との距離がどんどん広がっていく。
「深雪! また必ず迎えに来るからな!」
「お父さん! お父さん!」
深雪の声も虚しく、瑞歩は家の玄関の扉を乱暴にガラガラっと開き、深雪とともに入り、扉はピシャッと閉まった。辺りには静けさが戻った。
家に入った瑞歩は、深雪を家の内側へ引っ張り投げた。
「深雪……あんた……あんなのと喋っちゃダメだって言ったでしょ!?」
「……でも……あの人は……わたしの……おとう……さ……」
「うるさい! あれは悪魔よ! 深雪を地獄へ引きずり込もうとする悪魔よ! あんなのは地獄の業火で永遠に焼かれるのがふさわしいのよ!」
「もうやめようよ! こんなのおかしいよ!?」
瑞歩は深雪をおもいっきり平手打ちした。
「あんた……まさか、今日、学校で誰かと喋ったりしたんじゃないでしょうね?」
「……」
「喋ったの? 喋ったのね? 喋ったんだ!」
「だって……良い人もいるのよ? ……そんな人と友だちになるのがなぜいけないの?」
瑞歩は深雪をもう一度殴った。
「わからない子だね! そんなの私が認めない!」
瑞歩は深雪の襟首を掴み顔を近づけた。
「わかったわ……あなたはもう世間に毒されているのよ! ……お祈りをしなさい。そして自分のどこが悪いか反省しなさい!」
瑞歩はそのまま深雪を引きずり、階段の下にある物置部屋に放り込んだ。物置部屋には読まなくなった本や使い物にならなくなった電気機器が雑多においてあった。その一角にみかん箱がおいてあり、聖書とキリスト像が置いてあった。そしてその上に小さな裸電球が吊るしてあった。瑞歩は深雪を物置部屋に放り込むと、ドアをバタンと閉め、外側からカギをかけた。暗い部屋に閉じ込められた深雪は、発狂したかのごとく泣きわめいた。
「出して! ここから出して!!」
「いいや出さないよ! 深雪がちゃんとお祈りをして、ちゃんと反省するまでここから出さないわ!」
「助けて! お父さん助けて! 生天目さん助けて! だれでもいいから助けて! ここを開けて!」
深雪はドアを叩きまくった。そして大声を上げて泣いた。しかし分厚い扉はびくともしない。そしてその扉に深雪の泣き声は緩衝され、家の外には届かない。三十分ほど泣きわめいたあと、深雪は扉を叩くのをやめ、すすり泣いた。
「う……ううう……みんな……みんな……嫌いだ……みんな……」

「キライだ!!!!!」

深雪はその暗く狭い部屋で、夕ご飯も食べずすすり泣き、一晩を明かした。


* * *


明くる日、深雪は廊下側の一番前の自分の席に座っていた。休み時間に生天目裕子が話しかけるが、昨日のような反応が見られない。
「山の辺さん、どうしたの? 今日は様子がおかしいよ?」
「……」
「昨日何かあったの?」
「……」
(山の辺さん、顔にあざがあるし、目は泣き腫らしているし、くまがあるし、何があったんだろうか? 今日は少し距離をおいたほうがいいのかな?)
裕子は心配そうに深雪を見つめた。しかし、深雪は全く反応がなかった。

一方廊下のドアのそばには背の高い男の影が一つ。
闇夜は昨日のスケキヨの助言通り、他心通を試みることにした。他心通というのは仏教における神通力、つまり超人的な能力の一つで、他人の心を知る力のことである。
闇夜は暗い廊下のドア付近で目をつぶり、手印を結び、マントラを唱えた。
「オム・カアルムクベ・ヴィドゥジ・ハイ・オム・ハチェシュカアクジャプ・スワルー」

闇夜がカッと目を見開くと、赤や青や緑といったいろいろな色の光の洪水の中を流されている情景が写った。その中でいろいろな声がノイズとなって右耳と左耳を行ったり来たりした。その声は母親、瑞歩からの叱責であったり、クラスメイトからの蔑みの言葉だったりした。闇夜が悪夢のような声のなだれに苦しんでいると、一つ芯の通った深雪の声がした。闇夜は深雪の声に集中して耳をそばだてた。
「私を望む人なんて誰もいない。世の中は悪い人ばかりだとお母さんは言う。お父さんに会いたい。なぜ誰も私のことをいたわってくれないの? 私の居場所はどこにもないの? 友だちを作っちゃいけないの? 信じることが出来る人なんて誰もいない。ならば私はこの世の全てを呪ってやる。私に近づく人は全て呪ってやる。私から離れていく人は全て呪ってやる。キライ! キライ! 大っ嫌い! キライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライ!!!!!!!!!」

深雪の声だけで埋め尽くされた世界。
深雪の苦悩だけで埋め尽くされた世界。
深雪の煩悩だけで埋め尽くされた世界。
闇夜はその苦しいだけの世界を次々と通り抜けていった。深雪の心のなかにダイブしただけだというのに、体中に痛みさえ生じる。自分に浴びせられる言葉が体のあちこちに突き刺さる。自分の抱いた憎しみで体ががんじがらめになる。深雪は常にそのような心の状態であることがわかる。
光の洪水と声のなだれの中で、闇夜はそのヴィジョンの中にサブリミナルフィルムのように、ところどころにはめ込まれているコマがあることがわかった。そのコマが差し込まれる頻度が徐々に増えてゆく。そしてしまいにはそのコマだけで埋め尽くされる。そのコマは……

山の辺瑞歩!!

瑞歩の、憎しみで顔を歪めた表情。血が噴出さんばかりに噛み締めた唇。親の仇でも握っているかのように強く握りしめたスキットル。痛いくらいに突き刺さるような眼光を放つ目。
深雪の心の深いところは瑞歩で埋め尽くされていた。どこに行っても瑞歩の行き止まり。憎しみの伝染。
闇夜はもう耐えられなくなっていた。悪い夢を見た時に、早く目が覚めろ、目が覚めろと願うように、闇夜は念じ、早急にここから立ち去りたかった。それなのに瑞歩がどんどん近づいてくる。どんどん近づいてくる。耐えられない。早く。早く。やめろ。やめてくれ。闇夜はひたすら念じた。不意に強い光が飛び込んでくる。光はどんどん強くなり、ホワイトアウトした瞬間、闇夜は現実世界に戻ってくることができた。
「はあ、はあ、はあ……」
闇夜は汗だくになって立ち尽くしていた。
「そ、そうか。みず……ほ……」
闇夜はそのまま気を失い、廊下に倒れ込んだ。
遠くの方で「月島くん!? 月島くん!?」という裕子の声がする。その声はそのままフェードアウトした。


* * *


闇夜は気がつくとベッドに寝かされていた。保健室の白い天井が見える。蒼白になった闇夜の顔を生天目裕子が心配そうにのぞき込んでいる。
「月島くん? 気がついた?」
闇夜はしばらく自分がどういう状態なのか把握するために時間を費やした。そしてこの保健室に来る前に何をやっていたかを思い出した。
「瑞歩だ!」
「え? 何言ってるの? 月島くん?」
「瑞歩を何とかしないと!」
闇夜は心配する裕子をよそに、ガバっと起き上がった。そして杖を探した。ベッド脇に置いてあったカフグリップ付きの杖を見つけるとグワシっと掴み、立ち上がった。立ち上がりはしたのだが、頭がまだふらついていて、バランスを崩しかけ、裕子に支えてもらった。
「生天目殿。ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございまする。」
「大丈夫なの? まだ寝てたほうがいいんじゃないの?」
「いや、拙者、やらなければならないことがございます。一刻も早く目的地に向かわなければ……」
闇夜は杖をつき、おぼつかない足取りで保健室の扉へと向かう。闇夜が扉を開け、外に出ようとしたその時、裕子が声をかけた。
「月島くん!」
闇夜はしばし立ち止まる。
「月島くん……また……戻ってくるわよね?」
「……」
闇夜は答えなかった。
「月島くん。また戻ってきて、食べ歩き一緒にできるよね?」
裕子はなぜか闇夜がもう戻ってこないのではないかと心配した。闇夜は振り返り、にっこりとして答えた。
「生天目殿。大丈夫でございます。今度、またおいしいラーメン屋を教えてくだされ。」
闇夜はしばらく裕子を見つめた。そして意を決して保健室を出て行った。最後の戦いにむけて。
裕子は一人保健室に残され、どうしてそうなるか自分でもわからなかったが、なんとなく闇夜の無事を祈った。


* * *


 午前二時。
再び高円寺天祖神社。
闇夜は勢いで学校の保健室を飛び出したものの、夜にならないと手を出せないことを思い出し、イライラしたまま仮眠を取り、夜になるのを待った。そしてシャワーを浴び禊ぎを行った。午前二時頃、いわゆる『丑三つ時』はこの世と霊界の境が曖昧になる時間帯で、最も効率よく識神たちを働かせ、怨霊調伏をしやすくなる時間帯なのだ。
闇夜は杖をつきつつ神社まで歩き、調伏の準備をはじめた。神社で身を清めたあと、結界の護符を貼る。懐から護符の束を取り出し、息を吹きかけ、後ろに放った。紙は舞いながら地面に落ちると、次々と識神たちが現れ、各々が手にフルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルン、トランペット、ティンパニ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、といった楽器を手にしていた。そこには識神たちで構成されるオーケストラが現れた。彼らタキシードやドレスを身にまとっていた。その中にはアンディ、スチュワート、ゴードン、ヘンリーもいた。そして、そのオーケストラの一歩前に、スケキヨがヴァイオリンを持って立っていた。いつも、識神でオーケストラを編成する場合は、スケキヨはコンサートマスターになるのだが、今回はソリストの位置にいた。
闇夜は目を閉じ、手を合わせて経を誦文(ずもん)した。
「南無(なむ)久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)本(ぼん)師(し)釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)。南無(なむ)霊山(りょうぜん)会上(えじょう)、来集(らいじゅう)の分身(ふんしん)諸仏。南無(なむ)諸(しょ)大菩薩(だいぼさつ)。五番の善神。諸天等。特に鬼子母(きしも)大善(だいぜん)神(しん)。惣じては仏(ぶつ)眼(げん)所(しょ)照(しょう)の一切(いっさい)三宝(さんぽう)来臨(らいりん)影光(ようこう)。妙法(みょうほう)経力(きょうりき)、速(そく)得(とく)自在(じざい)、諸仏(しょぶつ)守護(しゅご)、増益(ぞうやく)寿命(じゅみょう)、心中(しんちゅう)所願(しょがん)、決定(けつじょう)成就(じょうじゅ)。」
闇夜が目を見開き、九字を切ると、十メーターほど前に、山の辺瑞歩の生霊が現れた。憤怒の形相で、頭には鉢巻がしてあり、二本のろうそくが火を灯して差さっていた。左手にはドライジンの入ったスキットルを握っていた。ゆらゆらと揺れながら、視線はどこを向いているのかよくわからない。しかし、しばらく虚ろだった視線は、こちらを認識し、鋭い眼光となって突き刺さしてきた。
闇夜は『弾き振り』をするため、右手を上げた。そしてゆっくりと下げ、また上げると、識神たちのオーケストラは演奏をはじめた。
闇夜がこの日のために選んだ曲は、ピョートル・チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』である。この曲は、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲と合わせて、『四大ヴァイオリン協奏曲』と称される。この曲は闇夜が特別好きというのもあったが、非常に完成度が高く、怨霊調伏にふさわしい曲だったのである。闇夜の調伏方法でポイントになるのが、使う識神の数と、曲の完成度である。識神の数が多ければ多いほど力は強くなるし、曲の完成度が高ければ高いほどまた然りなのである。

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 ピョートル・チャイコフスキー

第一楽章
弦楽の調べが静かにはじまる。そして徐々に楽器が重ねられ盛り上がっていく。その音の群れは、暖かな光となって、闇夜を中心に神社全体を覆い、パワーフィールドが発生させる。闇夜の左足の不具は回復し、彼はゆっくりと杖を手放す。
闇夜の右手には金具でチェーンソーが装着され、左手には銃身を切り詰めたウィンチェスター1887ショットガンを持っている。闇夜は左手でチェーンソーのリコイルスタータの紐を勢い良く引っ張り、チェーンソーのエンジンに火を入れる。ブルルン、ドッドッドと2ストロークエンジンのバイクのような音を立て、チェーンソーの刃は回りだし、本体からは白い煙を出しながら、グロテスクな咆哮をあげた。この装備は非常に攻撃力が高いのだが、近接戦闘型なので、瑞歩に近づかなければならなかった。闇夜はゆっくりと瑞歩の元へ歩みを進めた。
徐々に近づくにつれ、瑞歩も地面に踏ん張り、足をジリジリと押し付けた。瑞歩はスキットルのドライジンをぐびっと一口やると、辺り一面に紅蓮の炎を吐き出した。
闇夜は右手に装着されたチェーンソーに取り付けられたナックルガードで炎を防いだ。瑞歩から吐き出された炎は闇夜に防がれ、彼を中心に炎が球状に広がった。爆風が闇夜を後ろへと押し戻す。炎の勢いは非常に強く、身に着けていた外套に火が燃え移った。闇夜は直ぐに外套を脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てた外套はあっという間に炎に飲み込まれ、消し炭と化した。まずはあのドライジンの入ったスキットルを無力化させないと勝ち目はない。
スケキヨの独奏ヴァイオリンが甘美で雄大な主題(テーマ)を奏で、曲は盛り上がっていく。そしてそれの周りを取り囲むように管弦が沸き立ち、お互いに掛け合いを行う。曲が盛り上がるに連れて闇夜のパワーフィールドの勢いは強まり、強力な炎を吹き消した。
ひとたび炎が止むと、闇夜は勢い良く蹴り出し、一気に瑞歩との距離を詰める。そして右手のチェーンソーの柄にショットガンを押し当てて二発ショットシェルを放った。小さな散弾がたくさんばらまかれ、瑞歩を取り囲んだ。
しかし、瑞歩は身にまとったストールを大きくひるがえし強烈な風を起こした。すると勢い良く飛び出した散弾が風に押されて空中で固定されたように止まり、その後すぐバラバラと地面に落ちた。
闇夜は直ぐにショットガンをクルッと回し次弾を装填し、もう一発お見舞いした。その後直ぐに距離を詰め右手のチェーンソーで切りつけた。しかし瑞歩は予想外の跳躍で闇夜を飛び越し後ろに回り込んだ。闇夜の放った散弾は空を切り、チェーンソーはツバキの木を一瞬にしてなぎ倒した。闇夜は切り込んだチェーンソーの勢いのまま後ろを振り向き、右腕を一直線にして、チェーンソーで突いた。瑞歩は紙一重の間合いでチェーンソーを避けた。しかし、ひらひらとしたストールに穴を開けることができた。これで散弾をはねつける風を巻き起こすストールの力をある程度弱めることができただろう。
演奏はスケキヨの独奏ヴァイオリンのカデンツァに移行した。オーケストラは演奏を止め、スケキヨのヴァイオリンだけになった。スケキヨは複数弦を多用した技巧的な演奏で圧倒し、パワーフィールドをシャープにした。
闇夜はショットガンで牽制し、チェーンソーで決定打を与えるべく斬りかかった。瑞歩は、防御のカーテンであるストールをあまり使えなくなり、体躯をこれまで以上に素早く動かし、攻撃を避けた。ショットガンの爆音と、チェーンソーの轟音と、瑞歩が避けるときに発する衣擦れにも似た音が神社に響き渡った。
スケキヨのカデンツァが終わり、独奏ヴァイオリンを管弦が静かに絡めとる時間になった。
瑞歩は闇夜の猛攻から逃れ、距離を取ると、再びスキットルのドライジンを口に含み、赤黒い炎を吐き出した。闇夜はそれにぶつけるようにショットガンを放った。銃身を切り詰めたショットガンは、至近距離で爆風を発生させ、炎を切り裂いた。散弾は炎に溶かされ蒸発したが、爆風は炎への反作用として十分な効果があった。炎の切れ目から、闇夜は左手を右手に添え、チェーンソーを突撃させた。咄嗟の攻撃に身の危険を感じた瑞歩は、そのまま左に体をスライドさせたが、スキットルを引っ張る早さは一足遅く、スキットルはチェーンソーに直撃した。金属と金属が激しくこすれる、耳を覆いたくなるノイズが発生し、火花が散った。チェーンソーはしばらくスキットルをこすっていたがやがてそれを貫いた。二つに割れたスキットルが地面に落ち、中に入っていたドライジンが辺り一面にキラキラと弾け、地面に落下すると同時に土に吸い込まれた。
オーケストラは独奏ヴァイオリンと溶け込み、ティンパニが轟き、リズミカルに頂点へとのぼりつめた。

第二楽章 
フルートを除く木管が暗く重々しい旋律を奏でた。演奏はゆったりで、時間もゆっくりと流れた。このようなゆったりとゆっくりとした緩徐楽章の時、闇夜は時間を操ることができるようになる。
闇夜の次の目標は、瑞歩の防御のカーテンであるストールを完全に奪い去ることだった。闇夜は瑞歩に向けてショットガンを一発放った。そこで時間を止めた。空中に散弾の粒が散らばり、そのまま凍りついた。寒天のように固定された散弾の粒を見ながら闇夜は瑞歩の左側に回り込んだ。そしてまた一発ショットガンを発砲した。再びショットシェルの粒は空中に散らばり固定された。続いて闇夜は瑞歩の後ろ側に回りこみ、三度(みたび)ショットガンを発した。空中に固定された散弾の粒を見据えつつ、闇夜は瑞歩の右側に回り、ショット。散弾の粒に四方を取り囲まれた瑞歩。闇夜は右腕のチェーンソーのナックルガードを正面にして防御の体勢を取りながら、時を動かした。
四方から散弾の雨が降り注ぐ瑞歩。しかし瑞歩がストールを振り乱し高速回転すると、散弾が全て弾き飛ばされた。ストールの防御力はあまり下がっていなかった。
瑞歩は、こちらが攻撃していないのにストールを振り回した。すると大気のなかに真空の隙間が生まれ、かまいたちが発生した。かまいたちの無数の刃が闇夜を襲う。闇夜は飛翔してかまいたちをやり過ごすが、一太刀だけ左頬をかすった。かまいたちが当たった左頬から、たらっと血が一筋流れ出す。闇夜は左手で血を拭い、その血を舐めて気合を入れ直した。鉄の味がした。
闇夜は再びショットガンを一発放つと、そのまま距離を詰めていき、右腕のチェーンソーで突攻した。今度は散弾の粒が弾着する直前で時間を止めた。距離を詰めていき、チェーンソーの射程距離内まで到達すると、闇夜はチェーンソーをメッタメタに振り回した。瑞歩のストールに一筋、また一筋と切れ目が生まれる。一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が百二十八枚……ひたすらストールを切り裂いていった。もうこれ以上ないというくらいに切り裂いてから時を動かした。細切れになったストールに無数の散弾が弾着し、瑞歩の鋼鉄のストールは、シャボン玉がパチっと消えるように、綺麗サッパリ消滅した。

第三楽章
第二楽章が静寂に消えていくと同時に、突然管弦が踊りだす。そしてヴァイオリンが上下に暴れるように主題(テーマ)を奏で出す。
瑞歩の攻撃手段であるスキットルからの炎は破壊され、防御手段であるストールは消滅した今、瑞歩は丸裸も同然である。さあ、タコ殴りタイムの始まりだ。瑞歩の取る行動は、その素早い体捌きのみである。
スケキヨは独奏ヴァイオリンの役目も務めながら、前に出てきた。闇夜は右腕に装着しているチェーンソーを外し、ゴロッと地面に置き、左手に持ってるショットガンも投げ捨て、身軽な状態になった。二人は瑞歩を中心に対極的な位置を取り、瑞歩の衛星となって半径三メーターほどの円を描き出した。ふたりとも狩りをする目つきになっていた。血に飢えたライオンの目つきに。
スケキヨはヴァイオリンを弾きながら、リズムにのって踊っているようだった。闇夜もリズムに合わせてフットワークを使い出した。二人はぐるぐる瑞歩の回りを回り、次第にその円の半径を狭めていった。瑞歩はどちらを見て良いかわからず、キョロキョロとあたりを見廻している。曲が新しいパートになった瞬間、二人は、「やあーー!」という掛け声とともに瑞歩のもとへと駆け出し、挟み込んだ。
先に瑞歩のところに到達したのは闇夜だった。闇夜は中段突きの形で突っ込んでいった。瑞歩はそれをひょいと避ける。しかし避けた先にはスケキヨの回し蹴りが待っていた。スケキヨの回し蹴りをまともに顔面で受け止めた瑞歩はきりもみ状態になり、よろよろと倒れそうになった。そこに待っていたのは闇夜の右ショベルフックだった。ショベルフックをもろにみぞおちに受けた瑞歩は体躯を縮ませて動けなくなり、血反吐を吐き出した。そこに新たに闇夜の左アッパーが炸裂する。瑞歩は二十メーターばかり上空にふっ飛ばされた。しかし更に上空にスケキヨが空中で待機していた。瑞歩がふっ飛ばされる速度が減速する直前に、スケキヨはサマーソルトキックを頭頂部に食らわせた。ものすごい勢いで、まるでやぶ蚊をピシャリと叩き潰すかのように、瑞歩はビタンと地面に叩きつけられた。
ここからまた二人の猛攻は続く。地面に叩きつけられた瑞歩のもとに二人が近づく。瑞歩が立ち上がるのを確認すると、闇夜は右から足払い、スケキヨは左から頭を蹴り飛ばした。瑞歩に向けられた右回りの力は倍加され、クルッと地面に叩きつけられた。
曲は速度がどんどん上がっていき、刻むように駆け上るスケキヨの独奏ヴァイオリンの隙間を管弦が塗りつぶしていく。ヴァイオリンはきしむように奏でられる。終わりへのカウントダウンがはじまった。
ボロ雑巾のようになった瑞歩の生霊が立ち上がると、二人は今度は瑞歩の前に立ち、個々の部位を潰していくことにした。まず二人は瑞歩の右足を両側から蹴りつけた。ミシッボキッという鈍い音がして、瑞歩の右足のスネは折られた。瑞歩がバランスを崩し、倒れる寸前に、今度は二人で左足のスネを折った。瑞歩は膝をつき、動けなくなった。二人は少し後ろに下がって助走をつけ、正面を三回同時に蹴りつけたあと、瑞歩の頭を両側から蹴り飛ばした。瑞歩の頭は潰れ、脳漿が噴きだした。そして再び二人は両側から回し蹴りを入れる。二人の蹴りは瑞歩の首に食い込みそのまま蹴り抜け、瑞歩の首はちぎれて上空に飛び上がった。二人は蹴り抜けながら交差した。頭を失った瑞歩の首からはどす黒い血が噴水のように噴きだした。瑞歩はそのまま後ろに倒れた。そしてそのまま動かなくなった。
すると瑞歩の生霊の体は光に包まれ、やがてその体は光の粒に分解され、その全ての粒は上空に上がっていった。星の見えない東京で、星の夜空を見上げることができた。
曲もいよいよフィナーレでティンパニと管弦と独奏ヴァイオリンが掛け合い、どんどん上がっていき、頂点へとたどり着き、ヴァイオリン協奏曲の演奏は終わった。
これで瑞歩が抱えていた毒々しい執着や憎しみや心の歪は綺麗になった。
「調伏成功!」
これで山の辺深雪の関わってきた呪術的殺人事件は解決するはずだ。

しかし、その神社の裏門から忍び寄る一つの影があった。

山の辺深雪!

白いネグリジェを着た深雪が夢遊病状態でふらふらとこの神社まで入り込んでしまった。
山の辺深雪の抱えた黒い心の問題はまだ解決したわけではなかった。調伏は終わったわけではなかった。
闇夜は考えた。深雪自身の心の問題を解決させなければ、本当に調伏出来たとはいえない。しかし、今回は死霊でも生霊でもなく生身の人間である。下手をすれば深雪自身を傷つけてしまう。その辺りの加減が難しい。
「スケキヨ!お前はオケに戻ってコンマスやってくれ!」
スケキヨはうなずくと、オーケストラの方に戻り、第一ヴァイオリンの一番先端である、コンサートマスターの席に座った。
深雪はだんだんと近づいてくる。闇夜は懐から再び紙の束を取り出し、息を吹きかけ、ばら撒いた。するとオーケストラの後ろに合唱隊が現れ、オーケストラの一歩前に、ソプラノ、アルト、テノール、バリトンの四人の歌手が現れた。
闇夜が次に選んだ曲は、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『交響曲第九番ニ短調合唱付き』だった。ベートーヴェン最後の交響曲にして最高傑作。
闇夜はオーケストラの前まで戻り、手を挙げた。そしてその手をおろし、再び手を挙げるとオーケストラは演奏をはじめた。深雪はこちらを認識し、目を見開いた。

交響曲第九番ニ短調合唱付き ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン
第一楽章
管楽器が通奏音を鳴らしながら静かにはじまり、そこにやまびこのように弦楽器が覆いかぶさる。次第に音が大きくなってくるとティンパニが轟きを上げ、爆発するように主題(テーマ)がはじまる。
闇夜は深雪のもとに走る。とりあえず深雪を気絶させることを考え、武器は持たずに体のみで対抗しようとした。闇夜は手刀を瑞歩の後頭部に叩きこみ気絶させようとした。しかし、ふらふらしていた深雪は、闇夜の殺気を感じると目でキッと光を放ち、足を踏ん張り、闇夜の手刀を腕でガードした。闇夜はもう片方の手で手刀を繰り出すと、それもガッと防がれた。すかさず真正面にキックすると、深雪はスッと体を左にずらし避け、カウンターの左フックを放った。闇夜は前のめりに蹴り出したことで、深雪の左フックがよけきれず、そのまま顔面にカウンターを食らい、三メーター程後方に吹っ飛んだ。
闇夜は起き上がると、口の中で折れた歯をフッと吐き出した。接近戦では難しいと判断した。
闇夜はジリジリと少し後ろに下がり、右腕に精神を集中させ、手のひらから青い衝撃波を放った。衝撃波はまっすぐ深雪の方へ土煙を上げながら飛んでいった。直撃したように見えたが、深雪は微動だにしておらず、深雪の周りに現れたドーム状の透明なバリアが衝撃波を阻んでいた。闇夜は再び衝撃波を放ったが、またもバリアに阻まれた。闇夜はめげずに右手と左手を交互に出して衝撃波を連発した。舞い上がった土煙で辺りが全くわからなくなった。そこに一陣の風が吹いてきて、土煙を洗い流した。流された土煙は深雪のドーム状のバリアの輪郭を綺麗に示した。バリアは壊れてない。
ストリングスが駆け上がり、優しい木管楽器が包み込むようにかぶさってくる。うごめく低音部に管楽器がかぶさり、やがて高音部も重なり、主題へと戻った。
闇夜は右手を横に差し出すと、上からモロトフカクテルが落ちてきて、それを掴んだ。闇夜はモロトフカクテルの瓶の先に挿してある紙の部分に火をつけ、深雪に投げつけた。深雪は素早く右に体を跳躍させた。モロトフカクテルは地面に落ち、瓶が割れ、炎がぶわっと燃え上がった。闇夜は連続してモロトフカクテルに火を付けては投げつけた。連続モロトフカクテル攻撃に深雪の動きは追いつけなくなってきた。いよいよ深雪は追い込まれ、モロトフカクテルが当たったかに見えた。しかし、これも深雪のドーム状の透明バリアに阻まれた。瓶がバリアにぶつかり割れると綺麗な球状の線を中の液体が描き出し、炎が燃え広がった。闇夜は考えた。この深雪のバリアを破るには強烈な物理攻撃が必要だと。
闇夜は指を鳴らした。すると空中からRPG―7対戦車携行用ロケットランチャーが落ちてきた。闇夜はRPG―7を構え、深雪に向けて発射した。闇夜の後方に白い煙を上げて勢い良く弾頭が飛んでいく。深雪はあまりの早さに動けず、足を踏ん張り腕をクロスさせ防御の姿勢をとる。深雪に弾頭が弾着すると赤い炎を上げて大爆発した。爆風で闇夜の髪が乱れる。しばらく煙で辺りが見えなくなる。炎があたりの木々に燃え移る。木々がメラメラと燃えるなか、煙が引けてくる。深雪は無傷で防御姿勢を取ったまま立っている。深雪の前にあるドーム状のバリアは健在だ。だが、その刹那、バリアの小さな破片がポロッと落ちる。バリアにごく小さな穴ができた。闇夜は、これならいける、と思った。
闇夜の上からRPG―7が二つ落ちてくる。闇夜はRPG―7を二つ両肩に構えると、同時に二発射出した。発射された二発の弾頭は深雪を逃さなかった。神社の敷地内で二回の爆発が起こった。爆風は辺りの塵や芥を、深雪を爆心地にして放射状に吹き飛ばした。闇夜は弾頭を射出して、用済みとなったRPG―7の発射管を脇に放り出すとまた二本空中からRPG―7が落ちてきてそれをキャッチした。続けざまに二発発射する。そして弾頭を発射したあとのRPG―7の発射管を脇に捨ててはまた上から落ちてきてそれを掴んで発射する事を繰り返した。爆発の輪はどんどん大きくなり、闇夜の目の前まで迫っていた。限界になるまで闇夜は撃ち続けた。爆風と煙で闇夜は咳き込んだ。闇夜の両サイドにはRPG―7の発射管の山がうず高くつまれていた。闇夜の目の前の地面は削れ、深雪を中心としたクレーターのようになっていた。闇夜はちょっとやりすぎたかな?と反省した。煙は風でかき消さた。目の前には無傷の深雪が立っていた。しかし、ドーム状のバリアは徐々にパリ、パリっと崩れていき、ついにはバリアは粉々になりかき消えた。

第二楽章
突然弦楽器がアクセントの強いフレーズを弾くと、ティンパニがそれにこたえる。そして弦楽器が美しい三拍子の旋律を紡ぎだす。それは踊るのに最適な音楽だった。闇夜は深雪と踊ることで、内面に抱えたどす黒い執着を取り除こうと思った。
闇夜はゆっくりと深雪の方へ歩みを進めた。そして彼女の右手を取り、闇夜の右手で深雪の腰の後ろに手を添えた。闇夜は深雪と軽快で早い、ウィンナーワルツを踊った。
右回りにナチュラルターンしながら、それほど広くない神社の敷地を左回りにグルっと回り踊った。第九の第二楽章は、早いテンポのワルツであるウィンナーワルツでも、早すぎてて難しい曲だが、闇夜と深雪はなんとかついていっていた。
戦いのさなかとはいえ、体を密着させ、三拍子のリズムにのって優雅に踊る感覚に、闇夜はロマンティックな気持ちになった。先ほどドンパチとやっていたのと同じ場所とは思えないような、ゆったりとした趣のある神社の雰囲気となった。木々はかすかに揺れ、オーケストラと風の音が耳に心地よい。
右回りのナチュラルターンを止め、左回りのリバースターンになると、まわりにピンク色の花のイメージが生まれた。二人が通る道の木々には、既に散ってしまったはずの花が咲きこぼれていた。二人のダンスが生命力にあふれている証拠だ。二人はステップを止め花が開くように決めポーズを取ると、真夜中に、二人にしか見えない大輪の花火が上がった。花火の光に二人は赤々と照らされた。
一旦ナチュラルターンになってからリバースターンになると、二人は右回りに神社の敷地を回りだした。スキップのような早足のステップ。闇夜は左手を離し、右手の下で深雪を回した。するとどこからともなく歓声が沸き起こる。
第二楽章は静かに終わり、二人のダンスも終わり、再び二人は戦いの距離になった。

第三楽章
管楽器と弦楽器が厳かにゆっくりと静かにはじまる。この楽章は緩徐楽章なので闇夜は時間操作ができる。
闇夜はとりあえず、深雪の素早い動きを止めようと思った。止めるには足に攻撃をしなければならない。闇夜は深雪の元へ走って行き、射程範囲内に入った所で時間を止めた。はずだった。普段時間を止めた場合、時間を止めてもオーケストラの演奏と闇夜は動けて、その他のものは止まった状態になる。それが、今回時間を止めたら、力が不完全に働き、闇夜の動きがスローモーションになってしまった。さらに深雪もスローモーションだが動ける状態だった。ゆったりとした演奏の中で闇夜と深雪はスローな動きでの戦いとなった。
闇夜はまず足払いをして深雪を転ばせようとした。ゆっくりとした前掃腿。深雪の左足に当たる直前に、深雪はゆっくりと地面を蹴り、飛び上がった。動作がゆっくりとしているので深雪がどれくらいの高さまで飛ぶのかわからなかった。だから次にどういう行動を取ればいいか闇夜にはわからなかった。
その場に闇夜がとどまっていると、飛び上がった深雪の足が動き始め、ゆっくりと闇夜の顔の横を蹴りつけようとした。蹴りが放たれて、それが『蹴り』だと認識するのに時間がかかったため、闇夜はその蹴りを避けるタイミングを逸した。徐々に顔に近づいてくる深雪の細い足。闇夜はこれから直撃を喰らうという恐怖を感じながら、その飛び蹴りを待っていた。蹴りが闇夜の顔にぶち当たる。その振動がゆっくりと闇夜の頭蓋骨の中心へと伝わっていく。当たった顔の筋肉がゆっくりと波を立てて歪(ゆが)む。普通に殴られたり蹴られたりした場合、痛みは一瞬なのだが、このスローモーションの世界では一瞬がものすごく長い時間に感じられる。蹴りを顔面で受け止めて、その痛みが長い間続く。一瞬が永遠に続くように思われる。異常な痛覚が信じられない時間継続されて、闇夜は気も狂わんばかりだった。
やがて深雪の回し蹴りは、闇夜の顔を蹴り抜いた。すると闇夜はゆっくりと後ろにふっ飛ばされる。ゆっくりと空中に投げ出される闇夜。滞空時間が長く、そのまま永久に宙に浮いたままである錯覚さえ感じた。実時間でどれくらいの時間がかかったかどうか分からなかったが、ようやく闇夜の背中は地面に投げ出された。そして様々な痛覚の波に晒された闇夜はなんとか立ち上がることが出来るようになった。闇夜は接近戦は不利だと感じ、違う方法で足止めをすることを考えた。
両手からベレッタPx4自動拳銃を二丁取り出すと、深雪の足を狙って二発発射した。ゆっくりと射出された二つの弾丸は、銃口から火花を発し、空間を裂く白い弾道が二つの直線を描いた。すると深雪は信じられない身体能力で、地面すれすれまで体を後ろに倒し、二発の弾丸の白い弾道をやり過ごした。弾丸をやり過ごした深雪はそのまま手を地面に押し当て、後ろにとんぼ返りをして立ち上がった。
闇夜は二つのベレッタPx4を持ち、両手を広げ、一発は深雪の上半身、二発目は深雪の下半身を狙い撃った。弾丸の残像が白い弾道となって目に見える。これに合わせて深雪は一発目の上半身を狙った弾丸を避けようと体を後ろへそらした。しかし深雪は下半身に向けられた二発目の存在を忘れていた。一発目の弾丸は紙一重で避けることができたが、不自然な体勢からは二発目の弾丸は避けられなかった。二発目の弾丸は見事深雪の右腿に弾着した。弾着して、その弾丸は皮膚を破り、肉に穴を開け、骨をかすり、再び肉を破り、皮膚を破り、反対側に貫通していった。この行程は本来ならば一瞬だったのだが、この、全てのものがゆっくりと進んでいく世界では、皮膚を突き破る痛覚から、再び反対側の皮膚を突き破るまでの間が永遠と感じられるくらい長い時間がかかり、深雪には、今弾丸が自分の中のどの部分にあるか感じ取れるほどであり、弾丸が貫通するまでの長い間痛覚を感じ続けていた。右腿を撃ちぬかれたことと、長い間続く痛覚のショックで、深雪は右膝を地面についた。そこで第三楽章が終わった。

第四楽章
突然辺りには雷雲が立ち込めた。管楽器や弦楽器、そして打楽器が地面が揺れるほどのフレーズを叩きつけた。それとともに土砂降りの雨が降り始め、雷鳴が轟いた。
そして第一楽章と第二楽章の主題が再現された。するとチェロとコントラバスが第四楽章の主題とも言える「歓喜の歌」を奏ではじめた。
闇夜は考えた。この雷鳴を利用する事はできないかと。精神病の治療には電気けいれん療法というものがある。頭部に電極を取り付けて通電することで、強制的にてんかん発作を起こし、統合失調症、うつ病、躁うつ病などの精神疾患を治すというものだ。少々荒療治だが、効果が無いとはいえない。
闇夜は雷雲を呼び寄せると、避雷針のように右手を挙げた。雷撃が闇夜の右手に落ちると、そのまま右手から雷撃の方向を変えさせ、深雪に向かって放った。雷撃を受けた手からそのまま反射させて雷撃を放つので、闇夜は感電しなかった。雷撃を受けた深雪は、手で雷撃をパーンと殴り、右に方向を反らせた。闇夜は第三楽章で、深雪の足止めには成功したが、雷撃をも跳ねとばす深雪の力に戦慄を覚えた。闇夜はめげずに雷撃を深雪に向けて反射させた。またもや深雪は飛んでくる雷撃を、あたかも蚊を追い払うかのように、軽く手を振って雷撃を今度は左に逸らした。
闇夜は連続して雷撃を反射させた。ガシャーンという雷鳴の音と、ビリビリっという電撃の音が交互に絶え間なく鳴り響いた。無数の稲妻が深雪を襲う。しかし、どんなに雷撃の間隔を狭めても、深雪はその雷撃を次々とはねのける。
ここで闇夜は一つ重大なミスを犯していた。雷撃を連続して跳ね返し、その間隔を出来るだけ狭めればいずれ深雪に当たると確信し、防御のことを忘れ、攻撃に徹していたことだ。連続した攻撃がどんどん短い間隔で繰り返される。そしてこれなら深雪に当たるだろうという一撃が放たれた。雷撃はジグザグと曲がりながら深雪に迫っていく。しかし、その一撃は深雪の真正面に出された手のひらで闇夜の方に跳ね返された。闇夜はまさかこちらに跳ね返してくると思っていなかったので防御姿勢をとろうにも、それが間に合わなかった。雷撃をまともに体で受ければ感電してしまう。迫る雷撃。闇夜の髪を濡らす土砂降りの雨。ぬかるんだ地面。もはや絶望的だ。闇夜は目をつぶった。

バシッ!!!!

雷撃が直撃する音がした。しかし闇夜は無傷で立っていた。闇夜はゆっくりと目を開ける。すると、目の前で仁王立ちになって雷撃を受け止めている人物がいた。スケキヨだった。スケキヨの体からはシューシュー白い煙が上がっていた。スケキヨのうめき声が聞こえる。そのままスケキヨは崩れ落ちた。倒れる直前で闇夜がスケキヨの体を支えた。
「スケキヨ!」

突然バリトンが歌い始める。
 
 「スケキヨ! しっかりしろ! なんで演奏を止めてこっち来たんだ!?」
 「あんや……あんやは僕が……守る!」
 「スケキヨ!」
 スケキヨは闇夜の腕の中で気を失ってうなだれた。闇夜はスケキヨの体を静かに横たえた。闇夜はゆっくりと立ち上がり、深雪の方を睨みつけた。深雪に敵意を向けても意味が無い。そんなことは闇夜もわかっていたが、自分にとってかけがえのない存在、スケキヨを犠牲にした深雪に敵意を向けざるを得なかったし、ミスを犯した自分にもがっかりした。
 闇夜は懐から四枚の鏡を取り出した。それを空中に放り投げると、鏡は宙に浮かび深雪のまわりをヒュンヒュンと、まるで各々の鏡が意思を持っているかのように動きまわり、取り囲んだ。闇夜は右手を天に掲げた。闇夜の手に雷撃が落ちる。
 合唱隊とバリトン、テノール、アルト、ソプラノの歌手が『歓喜の歌』を歌い出した。

 闇夜に落ちた雷撃は手のひらで跳ね返され、深雪の方へ雷撃が飛んでいく。しかしその雷撃は深雪には届かず、違う方向へ向かっていた。深雪の回りでふわふわ浮いていた鏡の一つに雷撃が当たると、それは跳ね返され、また別の鏡に当たった。もう一度雷撃が鏡に当たるとそれは深雪の方に飛んでいった。雷撃は深雪をかすめ、深雪の足元に落ちた。ガンっという音とともに地面に穴ができた。闇夜はもう一度雷撃を受け跳ね返すと、それはまた鏡に当たった。四枚の鏡にピンボールのように跳ね返されると深雪の後方から雷撃が襲う。しかし深雪は運良く後ろに手を掲げて雷撃を跳ね返してしまった。
 闇夜はもう四枚鏡を取り出して空中に放り投げた。深雪は八枚の鏡に取り囲まれた。闇夜はまた雷撃を受けるとそれを地面に向かって跳ね返した。地面に跳ね返された雷撃は、地面に力を加えて波打たせた。その波が深雪のところに到達すると、深雪は体が宙に浮き、空中に放り投げられた。闇夜は両手を宙に掲げた。すると二本の雷が闇夜の両手に落ちた。両手に落ちた雷はそのまま跳ね返された。跳ね返された雷撃二本はそれぞれ八本ずつに枝分かれした。十六本の雷撃は深雪の周りに浮かんでいる鏡に当たった。鏡に当たった雷撃が一斉に深雪を襲う。オールレンジからの雷撃に、空中に浮かんでいる深雪は逃げ場を失い、十六本の雷撃が一斉に深雪に直撃する。深雪はものすごい破裂音とともに体を反らせて痙攣した。そして地面に崩れ落ちた。倒れた深雪からは白い煙が立ち上り、体にはミミズ腫れのような電流斑ができた。
 オーケストラはコンサートマスターを欠いた状態で演奏をしていた。合唱隊とともに曲は最高潮に達し、シンバルやトライアングルも混じえ第四楽章はフィナーレを迎え、演奏は終了した。するとなぜか、辺りに立ち込めていた雷雲が消え去り、土砂降りの雨もすっかりとやんで、辺りに静寂が戻った。
 闇夜はハアハアと息を切らしていた。目の前には深雪が横たわっていた。そこら中に穴や爆風の跡があり、戦いの激しさを物語っていた。闇夜は深雪の元へ歩いて行った。深雪の体からはまだ煙が立ち上っていたが、鼓動を感じることができ、息もしていた。
 闇夜は識神たちが見守る中、深雪に再び他心通を試みることにした。深雪のもとで手印を結び、他心通のマントラを唱えた。
 「オム・カアルムクベ・ヴィドゥジ・ハイ・オム・ハチェシュカアクジャプ・スワルー」

 闇夜は深雪の心のなかにダイブした。押し寄せる意識の波の中、闇夜は深雪の黒い感情を探した。深雪の心のなかは、以前ダイブしたような憎しみにあふれた苦しい場所ではなく、温かい色の重なる居心地の良い空間だった。深雪を取り巻く蔑みの声や敵意のノイズは消え失せていた。深雪の心のなかにいる瑞歩を探してみると、以前のような憤怒の形相の瑞歩ではなく、やわらかな笑顔をたたえている彼女がそこにはいた。
 闇夜は深雪の心の中から帰ってきた。以前の時のように、悪夢から必死になって抜け出す必要はなく、自分を意識しただけで簡単に他心通から戻ってくることができた。闇夜は調伏がうまくいったことを確信した。
 「……調伏……完了!」
 これで一連の呪殺事件は解決したわけだが、まだ全てが終わったわけではなかった。傷ついた深雪とスケキヨを助けなければならない。闇夜は呪術による治癒方法も習得していた。無論それも音楽によるものだった。
 闇夜はオーケストラと合唱隊から、アンディ、スチュワート、ゴードンを残し、他の識神は帰した。楽器類も消え失せた。代わりにエレクトリック・ギターとギターアンプ、エレクトリック・ベースとベースアンプ、ドラムセット、そしてスピーカー付きの、ローズ・スーツケースエレクトリック・ピアノが現れた。ギターにはアンディが、ベースにはゴードンが、ドラムセットにはスチュワートが、そしてエレクトリック・ピアノには闇夜がついた。この四人で回復の呪術の歌を歌おうとした。リード・ヴォーカルは闇夜で、あとの三人はコーラスである。トッド・ラングレンの“Hello It’s Me”に、闇夜が独自に歌詞をつけた『ともだち』という歌を歌おうとした。
 アウフタクトで一拍早くゴードンのグルーヴィなベースが入ると、趣きのあるエイトビートの曲がはじまる。このようないなたいエイトビートの曲はスチュワートが最も得意としているリズムだ。闇夜のエレクトリック・ピアノが正確にリズムを紡ぎだすと、アンディのギターが裏拍を意識したリズムで刻む。



ともだち
 
  ともだち 病めるときも健やかな時も
  一緒だよって言ってくれたよね
  枯れない花のように
  見つけ出して隠してね

  夕暮れの中で見つけ出した金星は
  饒舌な口をふさぐ
  負けない心強い心
  どこかで落とした忘れ物

  大事な言葉は ここにあるはずさ
  泣き虫な君でもわかるはずさ

  甘えてた 僕の弱い心には
  いつも君がいてくれた
  君はいつも僕を支えてくれたよね
でもね無理はしないでよね
 
やるべきことは わかってるけれど
どうしても勇気がでてこない

  はしゃいでる ララララ はしゃいでる君は好きだよと
言っても君は信じないだろう
僕の言葉じゃ足りないよ
かけがえのないともだち

ともだち
ともだち
ともだち
  ともだち……

 闇夜達が歌っていると、深雪とスケキヨは暖かいオレンジ色の光に包まれた。二人の傷口はみるみるうちにふさがっていき、出血は止まった。やけどや電流斑も消えていき二人の美しい肌は元に戻った。
 闇夜はスケキヨの近くに走り寄る。闇夜は倒れているスケキヨを抱き起こしゆすった。
 「スケキヨ! どうした? 目を開けろよ!」
 闇夜がいくらゆすって声をかけてもスケキヨは返事をしなかった。
 「スケキヨ! どうしたんだよ? 目を開けろよ! こんなの嘘だろ?」
 闇夜は目に涙をためながら叫んだ。
 「お前はさぁ……俺の父さんで、母さんで、兄さんで、姉さんで、弟で、妹で、友だちで……彼氏なんだろ? 目を開けてくれよ!お 前がいなくなったら……どうしたら良いんだよ? ……なぁ、こんなの冗談だろ? ……お前はいつだって、俺がいたらすぐ抱きついてくるだろ? ……なんで黙ってるんだよ? ……いつまで死んだふりしてるんだよ !答えろよ! ……スケ……キ……ヨ……スケキヨーーーーーーー!!!!!!」
 闇夜は人目もはばからず泣きじゃくり、スケキヨを抱きしめた。

 「ニシシ」
 闇夜がいくらゆすっても呼びかけなかったスケキヨの笑い声が聞こえた。その直後、スケキヨは、ガバっと闇夜の身を引き剥がし、その薄紅色で甘美な唇を、強引に闇夜の唇に押し付けた。そして舌を闇夜の口の中にねじ込み、闇夜の舌と絡めた。闇夜は一瞬うっとりしかけたが、急いでスケキヨの顔を強引にどけた。
 「ぷは!……はへ?」
 闇夜は何事が起こったかわからなかった。
 「あんやの初キス、ゲットだぜ!」
 スケキヨはニコニコしながら言った。闇夜もようやく何が起こったか理解できるようになった。
 「ちょ! ……おま! ……何すんだよ!」
 「あんやも僕が彼氏だってこと認めてくれたんだね。うんうん。」
 「ば、バカやろ! ……お前、な、なんてことしてくれたんだよ! 生きてるなら生きてるって早く教えろよ!」
 闇夜は顔を真赤にして、唇を袖で拭きながら言った。
 「やっぱり既成事実を作らないとね。ニシシ。」
 闇夜は目を三角にして怒っていたが、スケキヨが生きていたという事実を受け止め、やれやれ、と言った感じで笑顔になった。
 闇夜は後ろで呆気にとられていたゴードンたちに言った。
 「悪いけど、深雪を家に帰してやってくれないか?」
 「わ、わかった。」
 ゴードンはそう言うと、アンディとスチュワートを連れて深雪の元まで行き、その体を三人で担ぎ上げ、神社の外へと出て行った。
 闇夜はスマートフォンを取り出し、後藤に電話した。
 「もしもし?おやっさん?」
 「『おやっさん』じゃない! 『文部科学省高等教育局特務課別室室長』だ! で、こんな時間になんの用だ?」
 「はいはい、長い名前乙。蚕糸の森高等学校呪殺事件、解決したぜ。」
 「そうか。ご苦労。よくやったな。お前ならできるって信じてたぞ。だからそう言ったろ?お前なら出来るって。……で……悪いが……次の仕事だ。大久保の百人町高校に行ってくれ。すぐにだ。そこも原因不明の事故死が多発している。可及的速やかにこれを解決してくれ。もう住居の用意などは整っている。頼むぞ。」
 「そんなバカな! もう仕事があるのかよ! 少しは休ませてくれ!」
 「そう言うなよ。次の仕事が終わったら休みを申請してやる。休みが取れるように……えーと……ど、努力しよう。」
 「……はあ……さいですか……了解。」
 闇夜はスマートフォンを切る。そしてスケキヨの方に向き直る。
 「だとよ。」
 「しょうがないよ。あんや優秀だし。がんばろ。」
 闇夜はあくまで前向きなスケキヨに苦笑を隠し得ず、その自分の境遇を受け入れた。
 闇夜はカフグリップ付きの杖を拾い上げ、結界を作っている護符を剥がし、神社を元の状態に戻した。あちこちの木々が燃えて炭になり、穴ぼこだらけになった神社の敷地をどうするのかと、一瞬闇夜は考えたが、そういうことは後藤に任せることにした。
 闇夜とスケキヨは神社を一度見回してから、早速荷造りするために神社を後にして自宅へと戻っていった。


  * * *


 明くる朝、山の辺深雪は自分の部屋で目を覚ました。まるで長い悪い夢から目が覚めたように清々しい朝を迎えていた。昨日闇夜と戦った記憶があったが、彼女にしてみれば、それは夢の一部のような感覚だった。そしてその夢のなかで、山の辺瑞歩がいたぶられていたことを思い出した。深雪はベッドからガバっと起き上がると、母親を探した。
 瑞歩は台所で朝食と弁当の用意をしていた。
 「……お……かあ……さん……」
 「深雪。おはよう。」
 瑞歩には以前のような黒い執着や憤怒がその表情から消え、純然たる母の顔をしていた。深雪は母の表情から何かが変わったことを察し、瑞歩に抱きついた。
 「お母さん!」
 「深雪。今までごめんね。お母さんね、やっとわかったの。何が一番大事かって。深雪。あなたはもっと自由にしていいのよ。あなたの幸せが私の幸せなのだから。」
 「お母さん! ありがとう!」
 「お父さんとも仲直りしないとね。」
 「……うん……うん……」
 二人は時間が許す限り泣き、抱き合った。深雪の新しいスタートを示す朝となった。


* * *
 

 闇夜は自宅の荷造りを終わらせ、がらんとした部屋で立ち尽くしていた。荷造りは識神を使ったおかげですぐに出来た。しかし、短い間とはいえ、転校し、その地を離れるときまで暮らした部屋から何もなくなってしまう状態をみると、感傷的にならざるを得ない。
 「あんや、もう行くよ。」
 スケキヨが闇夜に声をかけると、闇夜は生返事を返して、その部屋を出て行く。玄関のドアがなんとも物悲しい音を立てて閉まる。


* * *


 朝。蚕糸の森高等学校二年四組の教室。
 生天目裕子は、隣の席の月島闇夜が来てないことに一抹の不安を覚えていた。昨日保健室に連れて行ってから、闇夜の様子がおかしかったし、なぜかもう会えないのではないか? という不安を感じたからである。それでも、やはり体調が良くないから今日はお休みするのでは? と無理に自分を安心させていた。
 ホームルームの時間になり、二年四組担任の日本史教師、佐藤繁子(三十四歳独身)が教室に入ってきた。少し神妙な面持ちをしている。
 「えー、皆さんに残念なお知らせがあります。月島闇夜くんがご家庭の事情により転校することになりました。」
 裕子は背中にゾクッとした気味の悪い感触を覚えた。先生の発した言葉がリフレインとなって裕子の鼓膜に響きわたっていた。
 「……うそ……うそだ……」
 「わずか一ヶ月と少しの短い間でしたが……ちょ、生天目さん!? ちょっと生天目さん!どこ行くの?」
 裕子は気がつくと立ち上がり、ホームルームの時間だというのに先生の呼びかけも無視して教室を抜け出し、走っていった。
 「月島くん! 月島くん!」
 どこにいけばよいかわからなかったが、とにかく走った。涙をいっぱい目に溜めながら。

 闇夜は東高円寺駅に向かっていた。杖をつきながらゆっくりと歩いていた。
 ふと横を見ると、裕子に連れて行ってもらった、つけ麺屋、麺屋えん寺があった。闇夜は立ち止まる。裕子に教えてもらった美味しいつけ麺。つけ麺を食べながら見せる、裕子の屈託のない笑顔。また一緒に食べ歩きしよう、という裕子との約束は果たせない。いろいろな想いが闇夜の頭のなかを駆け巡った。そして裕子に別れすら告げられず立ち去ることへの罪悪感を覚えた。そして気がついた。彼女は既に自分の友だちだったということを。そしてその別れを呪った。
 「……だから友だちなんて作りたくなかったんだ……」
 闇夜はそうつぶやくと、駅へと歩みを進めた。

裕子はとりあえず駅の方へ向かった。蚕糸の森公園を抜け、青梅街道を渡った。ふと麺屋えん寺の前で立ち止まり、闇夜との短い間の心のふれあいを思い出した。それが自分にとってかけがえのない思い出だということを再認識した。涙が堰を切ったように流れだした。
裕子は辺りを見回した。すると、杖をついて歩く、長身で黒髪の少年を見つけた。彼は地下鉄の駅の階段を降りようとしていた。裕子は急いでその少年を呼び止めようとした。
「月島くん!」
裕子は可能な限り大声をあげた。しかし往来の激しい車の音にその声はかき消された。横断歩道を渡ろうとするも、ダンプカーが連続して通り、信号無視もできない。巨大なトレーラーが通り過ぎたあとには闇夜の姿は消えていた。
「……月島くん……」
裕子はへたっとその場に座り込み、往来の人の目も気にせずワンワンと泣き続けた。


学校で不可解な事件が起こる時、文部科学省高等教育局特務課別室は、霊能エージェントを転校生として派遣する。月島闇夜もその霊能エージェントの一人だ。彼ら、闇夜(やみよ)の転校生の戦いは終わらない。この世に呪術を悪用する人間が消えない限り。
飛鋭78式改
http://iddy.jp/profile/hiei_type78m/
2013年08月04日(日) 12時01分14秒 公開
■この作品の著作権は飛鋭78式改さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
処女作です。
電撃小説大賞に応募しましたが一次選考で漏れてしまいました。
改稿を重ねて他の新人賞に応募したいので、ぜひ忌憚のないご意見をお聞かせください。

この作品の感想をお寄せください。
感想記事の投稿は現在ありません。

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除