逃れぬ血脈(改稿)

「倉本君、今日はもう上がりたまえ」
「……分かりました。では、お言葉に甘えて失礼します」
 そんなに疲れた顔をしていただろうか。そんなふうに自身を振り返りながら、倉本は定時で帰宅しろという上司の指示通りに帰り支度を始めた。
 どこか悄然とした空気が社内にたちこめていた。倉本が周りを見渡す。すると目が合った同僚が、気の毒そうに軽く会釈を返す。どうやらこの雰囲気の発生元は倉本であるらしい。これが腫れ物を触るような空気というやつか。倉本はそんなことを考え内心で苦笑する。そういえば世間一般ではこうゆう扱いになるのが普通だったと思い起こす。先日、倉本の父親が他界したのだ。通夜に告別式と一通りの義務を終えて、一週間ぶりに倉本は出勤していた。
 それにしても定時で上がれとは。確かに身体に蓄積した疲労は消えているといえなかった。倉本はもうすぐ三十才になる。社会の中では青二才といえる年齢でも、本人からすれば若い頃の自分の肉体と比べてしまう。恐らく徹夜は一夜で限界。二徹三徹しても平気だった二十才前後と比較すれば衰えはあるだろう。 しかし、肉体に沈殿した疲れの重みと異なり、精神の方は沈んでいなかった。周りから愁傷されるほど倉本は悲しんでいない。何故ならば、倉本はあまり父親を好きではなかったからだ。

 社外に出て駅へと向かう。夜というにはまだ早く、しかし明るい日差しは地上に別れを告げている時間だ。ふと倉本の目に、子供を肩車している壮年の男が映った。恐らく親子だろう。子供を肩に乗せた父親は難儀そうにしている。子供の目はそんな父親に向いておらず、楽しそうに道行く人々を眺めていた。
 ――自分もあれぐらいの頃は親父を好きだっただろうか?
 倉本は過去を思い出そうとした。しかし脳裏に蘇るのは中学生以降の、母親が家を出ていった後の父親の姿だけだ。それというのも倉本の父親は、「私がいけなかったのだ。すべて悪いのは私なのだ」と、ことあるごとに打ちひしがれた言動を繰り返していたからだ。
 倉本に言わせてみれば、父親に悪いところは何ひとつ無かった。倉本の母親は夫そっちのけで、違う男に懸想を繰り返す女だったからだ。倉本は食事の支度ひとつして貰った記憶も無い。悪いのは母親であり、父親は一方的に裏切られ、捨てられただけ。大人に近づくたびに考えても、倉本には父親の悔恨の言が納得出来なかった。
 そのうち倉本は就職し家を出て、一人前の人間として歩き出した。たまに実家に帰ることはあっても、ぶつぶつと悔やみごとを繰り返しながら庭いじりする父親を横見するだけ。長居することはなく、自分の生活を作り上げていった。
 ――うん? そうか、今日からは実家だったな。
 以前の習慣で、上り電車のホームへと向かっていたことに気づく。すでに引き払ったアパートへの帰路を選択しようとしていた倉本は、慌てて反対側のホームへと足を向ける。今日から父親が残した実家へ帰宅するのだ。そういえば他にも幾ばくかの株券を遺産として受け取ったことを思い出す。自分に支払われる生命保険の手続きもまだ残っている。倉本は面倒そうに肩を回した。

 倉本の実家は二十年ほど前に土地付きで建売りされた、都心郊外にあった。辺りの住宅地は住んでいる人間も疎らで、倉本が住む家も両隣は空家だ。それは閑静な、というより、沈静さの中に佇む家、といったほうが正しかった。
 倉本は家に近づくにつれて、表情に真剣という衣を装った。辺りに誰も歩いていないことを確認して、なおも奇異に見えぬ程度で視線を右、左と走らせる。どうやら数軒先の家の住人も留守らしく、倉本を認める者は誰もいない。門扉を開けて倉本は素早く家へと滑り込む。そして仏壇のある間へと入って、膝を畳むことなく父親の位牌を斜めから見下ろした。
『私がいけなかったのだ。悪いのは私なのだ』
「うるさいぞ、親父。いい加減語りかけてくるな」
 相変わらず脳裏に蘇ってくる亡き父親の声に、倉本は苛立つ。まったくいつまで耳にこびりついているのか。いや、それとも自分自身が父親のように悔やんでいるから聞こえる錯覚なのか。倉本は仏壇の間から浴室へと向かうあいだ、そんなふうに一瞬思ったものの、すぐに頭を振って偽悪的な笑みを浮かべた。
 ――違う。俺は悔やんでなどいない。俺はあんたと同じじゃないんだ。裏切ったおふくろの影に悔恨の情をぶつけて生きるような、俺はそんなあんたのような情けない男じゃないんだよ。だから消えてくれ。おふくろに逃げられたあんたと違って、俺の女だった冴子は"こうやって”ここにいるんだ。
 倉本の向けた冷たい視線の先、浴槽には一人の女が氷のうと共に、動かぬ骸となって沈んでいた。
 
 馬鹿な女だった。おふくろと同じで愚かな女だったと倉本は述懐する。
 冴子は、倉本が大学時代に出会った女だった。最初は一塊の男女のグループで交流していた。その頃から腰が軽い、金にだらしない女という噂は倉本も耳にしていた。だから異性として興味はなく、偶然にも同じ会社に冴子と属するようになっても、男女の関係となるには数年の流れを必要とした。
 きっかけは父親の入院だった。冴子は仕事に看病にと追われる倉本を、甲斐甲斐しく手助けしてきたのだ。最初は倉本も訝しんだ。一体なにが目的なのか、と。疑念を晴らさぬまま倉本は、しかし慢性的に足りない時間を埋めるため冴子の力を借りた。借りるしかなかった。時に職場で残業を。時にアパートに持ち帰った仕事を。時に一つ屋根の下に男女二人で。
 結局倉本もまだ若い男ゆえの情欲に勝てなかった。つい冴子と関係を持ってしまったのだ。一度始まれば男女の関係というものは否応なしに燃え上がる。元来冷めた性格の持ち主だった倉本も、少しづつ冴子への、身体以外への情を持ち始めた、それがつい最近、正確に言えば二日前までのことだ。
 
 ――まったく、本性を出さずにもう少しすれば、あるいは籍を入れるとこまではいったろうにな。
 倉本は煙草を一本取り出し、火を点けた。軽く吸い込み、肺に行き渡らせる。冴子は恨めしそうな目を浴槽から倉本に向けている。冴子は、知ってしまったのだ。倉本が相続した遺産を。望んでしまったのだ。それを自分の手元に置くことを。そして待ちきれないで馬脚を表し、倉本を見る目に光を失うこととなった。
 倉本は吸い終わった煙草を冴子に投げ入れた。ジュッ、という小さな音を耳にしながら倉本は考える。遺産は自分の物だ。いなくなったり、動かなくなったモノに必要なものじゃない。これから生きてる者にこそ活用を委ねられるものだろうと。
 冴子を殺害したからといって、警察に出頭したり捕まったり、まして父親のように悔やんで生きるつもりなど倉本には毛頭無い。ここまで思考したあと、次に考えたのは冴子の死体の処理だった。
 昨晩絞殺した冴子の肉体は、氷水に浸されたこともあってまだ腐敗は始まっていない。さりとて時間の問題。腐臭とて直に発生するだろう。いくらこの家の周りに人気がないからといっても、迅速な行動が求められるのは自明の理だった。
 倉本が最初に思いついたのは、家の基礎にでも穴を掘って埋めるということだった。しかしすぐに諦めた。これから長く住んでいく家なのだ。さすがに死体の上で暮らしていくのは気味が悪い。苦虫を噛み潰した結果、倉本が導き出した先は、庭に穴をを掘って埋めるというものだった。遺体さえ見つからなければ、冴子の生前の爛れた男関係もあって自分の身に疑いがかかることはないだろう。ましてこの家の敷地に埋まっているなど、誰にうかがい知れようか。倉本はそんなふうに推測を重ねて、シャベルを取りに納屋へと向かった。
 残念ながらシャベルは見つからず、それでも手頃なスコップを見つけて手に取る。倉本は埋める先を見定めるため、庭を見渡した。父親が入院してからというもの、整別する者がいなくなり雑草は生え放題。空になった培養液ボトルが何本も土に突き刺さっている。そんな中で倉本は、庭の一角に盛土してある場所を見つけて近づいた。

 ――ここは親父がよくいた場所だな。
 入院前、まだ倉本がこの実家に住んでおらず、たまに顔を出した時に父親がいつも背中を丸めて嘆いていた場所だったと思い出す。
『私がいけなかったのだ。悪いのは私だ。許してくれ、私を許してくれ――』
「ちっ、俺はあんたと同じじゃないんだよっ!」
 呪詛のように耳にこびりつく父親の声を振り払うように、倉本は力強くスコップを盛土に突き刺した。そのままザクザクと勢いに任せて土を掘り返す。何度か掘り返したあと、キンという硬い手触りが倉本のスコップを握る手に届いた。
「くそ、石かよ。盛土してある意味ないじゃねえ、かよ」
 スコップの抵抗の先に、もう片方の手を突っ込む。
「あん? なんだ、こいつは」
 倉本は妙な感触を指先にとらえ、引き抜いた。
「これは、骨片? それにこいつは確かおふくろがよく着てた……」
 引き抜いた手にまとわりつくように絡んでいたオレンジ布の切れ端。それは、いなくなったはずの倉本の母親が家でよく身につけていたブラウスの切れ端だった。

『私がいけなかったのだ。許してくれ、悪かった私を――』

「はは、ははは、ははははは……」
 乾いた笑い声が倉本の耳朶を打つ。笑いながら倉本は、在りし日の父親から逃れるようにまぶたを閉じる。
 ――違う。でも俺はあんたとは違う。俺はあんたのように、悔やんだりはしないっ!
「ははは、はははは、あははははははははっーーーー!!」
 心の表面で懸命に紡いだ決意。しかしそれでも、それなのに、倉本は内から発生する自らの笑い声を止めることが出来なかった。
弥生 灯火
2015年11月17日(火) 23時55分01秒 公開
■この作品の著作権は弥生 灯火さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
以前投稿した作品を一から書き直した作品になります。
読んで下さった方、ありがとうございました。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  弥生 灯火  評価:--点  ■2015-11-18 19:56  ID:dPOM8su8lqs
PASS 編集 削除
通りすがりさんへ
改稿前の作品も読んで頂き、ありがとうございます。
説明が多いのは、悪いクセですね。時系列でいう過去は全て説明で終わらせましたが、その文量が多いのが印象を悪くしてるのかもしれません。
オチに関しては改稿前の方が気づかれにくかったかも。文章量を増やすと、それだけ難易度が上がるということですね。精進したいと思います。
No.1  通りすがりです  評価:30点  ■2015-11-18 16:39  ID:MKVN4HyVNcg
PASS 編集 削除
 改稿ということでしたので、改稿前の作品も読まさせてもらいました。
 改稿前よりも断然、こちらの方が良くなっていると思いました。
 ただ、私としてはちょっと説明過多かな、とも思えたのですが、たぶんこれは個人の好みの問題だと思います。
 どういう展開になるのかな、と思いながら読んだのですが、「庭の一角に盛土してある場所を見つけて」のところで、なんとなく最後は判ってしまいました。
 この部分はもっと後に出てきてもよかったのかな、と思いました(生意気な感想でごめんなさいです)。
 題名といい、皮肉な最後といい、きちんと計算していらっしゃるのだなと思えて、良かったです。
総レス数 2  合計 30

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除