午前3時のプロポーズ |
うっすら白みはじめた夜空に、ぽつりぽつりと淡い金色の星が浮かんでいる。ほのかな月明かりが見下ろす公園には、一組のカップル以外誰もいない。 無言で向かい合う二人を、ライトアップされた噴水が静かに見守っている。聞こえるのは、心地良いBGMのような水音と、時折風に揺れる樹々の葉のざわめきだけ。 「ぼ、ぼ、僕は君を……」 青年のかすれた声は、またしてもそこで途切れた。テストで赤点を取った高校生のように、青年は俯いて髪をかきむしる。それから、恥ずかしさを取り繕うようにスーツの皺を懸命にのばした。片方の手に握られているのは、かわいそうなくらいにしおれたカスミソウ。 二人の間を、やけにひんやりとした夜風が吹き抜ける。 「ぼ、僕は君と……」 喉に何かがつかえたのか、彼は大きな咳払いをした。肝心なタイミングを逃してばかりの彼に、彼女は思わず、心の中で舌打ちをする。まったく、いつまで待たせるのよ……。 「僕は君と、けっ、けっ、け……」 ゴールまであとひと息という時、樹々の中からカラスが鳴いた。緊張感などまるでお構いなしの、間の抜けた部外者。彼のほうは笑う余裕すらないらしく、続けるべき言葉を無理矢理飲み込んで、またもや沈黙モードに入る。 彼女の視界は、目に溜まった透明な涙のせいでぼんやりとかすんでいた。といっても、人生で二度とないであろう運命の瞬間に感動しているわけではない。 ただ単に、眠いのだ。といって、さすがに彼の目の前で大あくびをするわけにもいかず、数分おきに込み上げるあくびを必死にこらえているうちに、目が涙でうるんできてしまったのだ。 もしもこれが、誰もが寝静まった真夜中、それも午前3時などという非常識な時間でなかったら、彼女だって感動的な気分でこの瞬間をむかえられただろう。 けれど、午前3時である。しかも、彼女はもう五時間以上も前からこの公園でずっと待たされているのだ。つまり、彼女は昨日から一分たりとも寝ていないことになる。目の前で自分を見失いかけている気弱な青年のおかげで、寝るタイミングを奪われてしまったのだ。買ったばかりで体に馴染んでいないワンピースのあちこちにシワができている。慣れないハイヒールを長時間履きつづけたせいで、足の先がジンジンと痛む。正直、立っているだけでもかなり辛い。 ……こんなはずじゃなかった。テレビでよく見るプロポーズはもっとオシャレで、もっと気がきいていた。空港でいきなり「愛してるぜ!」なんて叫んだり、真っ暗な夜道でいきなりトラックの前に飛び出したりして。 ドラマと現実は違う。そんなことは、言われなくてもわかってる。でもこれじゃあ、いくらなんでも寂しすぎる。一生に一度しかないんだから(たぶん)、せめて、こっちがすんなりハイと言えるぐらいはスムーズにプロポーズしてほしかったのに。借金取りから逃げまくったあとみたいにシワだらけになったスーツ、ブルブル震える手足、だらだらと流れる汗にべったりと張りつく前髪……今の彼にそんなスマートさを期待するのは、最初から無理な話だ。足元の革靴だって、ドロドロに汚れてるじゃない。もともと薄茶だった靴のあちこちに茶色の泥がついてるから、どこまでが靴なのかよくわからない。まさか、泥だらけの山道を全速力で走ってきたんじゃないかしら。 そもそも、何でカスミソウなのよ。しかも、力いっぱい長い時間握りしめるから、ほとんどしおれちゃってるし。まさか、それをそのまま渡すつもり? そんなものもらっても、うれしくもなんともないんだけど。 明日は平日。この分だと、最悪の場合は直接出社するということもあり得る。いや、せめてメイクはいったん落として、新しい顔で出勤したい。化粧品会社の美容部員がメイクをおざなりにしたのでは、社内中から笑われてしまう。そうなるとこれからタクシーを使ってでも家に帰って……でも、財布にお金あるかしら? けれど彼女は、このまま彼を置いて帰る気にはなれなかった。何となく、はっきりとした理由はないけれど……ここで彼の想いを拒絶してしまったら、一生後悔するような気がする。本当に、それがどうしてなのかはわからないけれど。 もう、後戻りはできない。だって、五時間以上も待ちつづけたんだから。 公園の砂を見つめていた彼が、覚悟を決めたように深く頷いて、顔を上げた。 「ぼ、僕は、き、君と……」 「……結婚、したいんでしょ?」 「……うん」 青年は、こっくりと頷いた。 主婦にとって、朝は戦争である。午前中の間にどれだけの仕事をこなせるかで、一日の気分が決まってしまう。十時までの二時間は専業主婦にとって誰にも邪魔されたくない(ゴールデンタイム)なのだ。それは子どものいない家でも、のんびりとした休日であっても変わらない。 「起きなさいよ、早く」 井崎美智子は感情をおさえた声で言うと、毛布をかぶっている照之の肩を軽く揺すった。照之は(うーん、もう少しだけ……)と毛布の中でゴニョゴニョと言うと、美智子の声を避けるように反対方向へ寝返りをうった。 だが、これであっさり引き下がる美智子ではない。彼女はこれでもかとばかりに掃除機のパワーをMAXまで引き上げると、もう片方の手で照之のシーツをがっしりとつかんだ。そう広くもない寝室に、掃除機の爆音が充満する。 「起きなさいってば!」 掃除機にも負けないぐらいの怒鳴り声とともに、美智子はシーツを力まかせに引きはがした。中年男のだらしないパジャマ姿があらわになる。シーツを奪われてもなお抱き枕を離さずに体を丸めるその姿は、まるで脱皮を繰り返すイモムシのよう。 「もう、とっくに朝なんだから!」 とどめの一発とばかりに、カーテンを思いきり開け、窓も全開にする。夏真っ盛りの遠慮のない陽射しが寝室にたっぷりと降り注ぐ。 照之はさすがにまぶしそうに目を細めて、 「もうちょっとだけ寝させてくれよ。今日はせっかくの休みなんだから」 「さっさと起きてくれないと、家の仕事がちっとも片付かないんだから。主婦に休みはないの!」 「うーん……」 またしても寝返りをうち、シーツを頭からすっぽりかぶる照之を見て、美智子は心からの溜め息をついた。嫌がらせのつもりで、ベッドの上から部屋の隅々まで、わざと乱暴に掃除機をかけてやったが、それでも起きる気配はない。美智子はあきらめて、重い掃除機を片手にリビングに降りた。照之が起きてくる前に、リビングと和室を掃除しなければ。 この十七年間、休日の度に同じような(争い)が繰り返されている。いつになったらこっちのペースを理解してくれるのよ……掃除機をかける手に、思わず力がこもる。 照之が起きてこないうちは、洗濯機がまわせない。二度手間になるからだ。それに、水のムダでもある。 風呂掃除を手際よくすませ、キッチンで朝食用のコーヒーを淹れていると、ようやく二階から照之が起きだしてきた。ただ今の時刻、九時三十五分。美智子の手荒いモーニングコールから、三十分以上が経っている。 シワだらけでよれよれのパジャマ、寝ぐせだらけのボサボサ頭、トノサマガエルの王様のような三段腹、それに、遠慮のかけらもない大あくび……どこからどう見ても、典型的な中年オヤジだ。 「食パンでいい?」 返事もなく、照之はダイニングテーブルに置かれた朝刊を手に取ると、そのままトイレに入っていった。 コーヒーの沸騰に合わせるように、美智子のイライラも限界に達する。 ちょっと、何で無視するのよ。眠気がまだ残っていて、こっちの声が聞こえなかったとか。それとももしかして、無理矢理起こそうとしたことを怒ってるのかしら。まあ、どっちでもいいんだけど。 一瞬迷った末、美智子はトーストを二枚焼いた。本当は自分の分だけ用意しようかとも思ったのだが、それはあまりにもかわいそうだ。いくら倦怠期真っ只中とはいえ、夫婦としての愛情はかろうじて残っている。 二人分の朝食をダイニングテーブルに並べ終えた頃に、照之がトイレから出てきた。 「ミルクは自分で入れてね」 「……朝飯はいらない」 朝刊に視線を落としたまま、照之はぽつりと呟く。 「どういうこと?」 「言わなかったっけ」 照之ははじめて新聞から顔を上げて、 「今日は、これからゴルフなんだよ」 「ゴルフ……」 反射的に、美智子はコーヒーを照之に思いきりかけてやりたくなった。その衝動をかろうじて思いとどまったのは、理性のおかげではない。コーヒーがまだ熱いままで、美智子自身が持てなかったのである。これがアイスコーヒーだったなら、照之のパジャマはたちまちのうちに、濃い茶色に染まっていただろう。 「でも、パンを食べる時間ぐらい……」 「ごめん、もう時間がないんだ」 壁掛け時計に目をやると、照之は新聞を椅子の背もたれにかけてそそくさと二階へ上がっていく。美智子の存在自体を避けるようなその態度に、美智子は無性に腹が立った。 気分を少しでも落ち着かせようと、さっきよりはぬるくなりかけたコーヒーを啜っていると、五分も経たないうちに照之が降りてきた。お気に入りのゴルフウェアにバッチリ着替えて、肩からはゴルフクラブを大事そうにさげている。 何よ、そのスピーディな動きは。たったの五分で着替えられるぐらいなら、さっさと起きてくればいいじゃないの。 「私、聞いてないからね」 これ見よがしに荷物のチェックをする照之に、美智子は言ってやった。 「今日がゴルフだってこと、あなた一言も言ってなかったじゃない」 「俺はちゃんと言ったよ。そっちが聞き逃しただけだろ」 「予定、キャンセルできないの。せっかくの休みなんだし」 「仕方ないだろ。接待なんだから」 荷物を詰める手をとめることなく、面倒くさそうに照之は言う。 「せっかくの休日なのに、ゴルフに呼ばれればホイホイとついていくんだ」 「やめろよ、そんな嫌味は」 うっとうしげな舌打ちを残して、照之は玄関へと歩いていく。美智子は苛立ちのピークだったが、追いかける気にはなれなかった。 「帰りが遅くなるかもしれないから、夕飯はいいぞ」 言われなくても、夕飯なんか作ってやるもんか……鼻歌まじりで靴を履く照之の背中に、美智子は心の中でそっと毒づく。むきだしの本音を心の奥底にしまっておけるだけの理性は、まだ何とか残っていた。 美智子は、本当に一人きりになった。さっきまでのざわつきがあっという間に消えて、リビング全体がしぼんで見える。溜め息をついても、誰にも聞こえない。 トーストの皿にラップをかけて、美智子はシンクへと運んだ。今日はなぜか朝食を食べる気にもなれない。コーヒーもさっきよりもぬるく、しかもいつもより苦くなっている。ミルクは普段通り、たっぷり入れたはずなのに。 それもこれもみんな、アイツのせいだ。 ゴルフならゴルフで、ちゃんと前もって言ってくれればいいのに。いや、きちんと申告すればすんなり許すかというとそういう問題でもないのだが、事前に報告があるのとないのとでは、受けとめ方がまるで違う。お互いの予定を最大限に尊重する。それが夫婦としての礼儀だろう。 美智子がなぜ、ここまで照之に腹を立てているのか。それは、今日が七月三日だからだ。 スマホを手に取って、カレンダーを表示させてみる。七月三日、つまり今日の欄に、かわいらしい天使のアイコンが貼りつけてある。もちろん、美智子の趣味だ。本当は思い切ってハートにしたいところだが、いくらなんでもそれは恥ずかしい。 本当に、照之は忘れているのだろうか。夫婦にとって何よりも大切な、忘れてはいけないイベントを……。 きっと、そうなのだ。その証拠に、リビングの壁にかけられた夫婦共用のカレンダーには、何のスケジュールも書き込まれていない。ビジネス手帳にこっそりと? いや、まさかね。そんなことあるわけがない。そのぐらいの器用さがある人ならとっくに気のきいたプレゼントを用意してくれているだろうし、それ以前に、こんな大事な日に接待の予定を入れたりはしないだろう。そんな予定、休日だからと断ればすむことだ。けれど、あの人はそれをしなかった。 もともと、不器用な人だった。十七年前のあの日から、二人の歯車は狂ったままなのかもしれない。 だいたいどこの世界に、恋人を真夜中の公園でさんざん待たせた挙句、午前3時なんていうムチャクチャな時間にプロポーズする男がいるのよ。まあ、そんなプロポーズを受け入れるほうも悪いんだけど、それにしてもムードなさすぎ。あの人の不器用さは、その時からちっとも変わってない。こっちもあの時はもういい加減待ちくたびれて、ほとんど思考停止になってたのよね。許されることなら、人生やり直したいぐらいだわ。 照之のパジャマのシワを大ざっぱにのばし、あるいは窓ガラスを少し乱暴に拭いてみたところで、美智子のストレスは解消しなかった。スマホでラジオを流している間も、照之への怒りが頭にこびりついて離れない。 子どもがいないせいかしらと、時々思うことがある。子どもというちょうどいいクッションが二人の間にあれば会話も適度にはずみ、照之のもっと違う表情も引き出せたかもしれない。 違う、それはただの言い訳よ……もう一人の美智子が、冷静にささやく。 子どもがいるかどうかなんて、それは夫婦にとってそんなに大きな問題じゃない。要は、二人のコミュニケーションが足りないのよ。近所の田所さんなんて、子どもがいないまま銀婚式をむかえたらしいけど、お互い仲良く話してるじゃない。きっと、二人とも少しずつ努力してるんだわ。 リビングに掃除機をかけ、溜まった洗濯物を干しおえたところで、ようやくひと息つく。普段ならここでコーヒーブレイクの時間だが、今日はなぜか気分が乗らない。美智子の内心に重いモヤモヤを残したまま、時間だけが過ぎ去っていく。 洗面台の整理をしていると、顔を上げた拍子に、鏡に映る自分の顔が目に入る。ところどころにしわの寄った中年女が、そこにはいた。 42歳3カ月。自分では、まだまだ充分いけると思っている、ほうれい線も見苦しいほど目立ってはいないし、顎まわりも歳のわりにはほっそりとしている。それに、バストだって垂れていない。これでも大学時代は、同じ大学の男子からひっきりなしに食事に誘われた時期もあった。その頃の面影は、まだまだ失われていないはずだ。 ふと思い立って、美智子は寝室へ上がる。化粧ダンスの引き出しを開け、その奥から一枚の写真を取り出す。心のもやもやがどうしても拭い去れなかった時にだけ手に取る、想い出の写真……。 化粧品会社の販売員時代に社員旅行で当時の同僚たちと撮った、最初で最後の集合写真。温泉宿の玄関をバックに、十人あまりの社員が思い思いのポーズで映っている。どの顔も、みんな笑顔だ。もちろん、美智子自身も。前列の中央に立っている佐々木係長だけが、女性陣にかこまれて、バツが悪そうにひきつった笑みを浮かべている。女の花園といわれた第一企画課では、三人しかいない男性陣は体のいいからかいの的であり、いざという時には貴重な戦力でもあった。 後列のほぼ真ん中。やはり女性陣に埋もれるようにして、井崎照之は立っていた。体型は今よりもずっとスリムだが、何かにつけてオドオドする性格は当時からそのままで、リーダー的存在だった神崎瑠璃子からはよく泣かされていたらしい。そんなさえない男とわずか2年後に結婚することになるのだから、人生とは不思議なものだ。 美智子の視線は照之をあっけなく通り過ぎ、後列の左端、グループから少し間を空けるようにして立っている長身のイケメンでとまった。 小石川俊介。企画課きっての花形で、当時から女子社員たちの注目の的だった。細い筆なら一筆書きができそうなくらいシャープな顎のライン、きれいな二等辺三角形を形作る整った鼻筋、一本一本を高級な絹糸で紡いだかのような黒髪のサラサラヘアー……容姿は完璧、おまけに仕事もバリバリこなすとあっては、独身女子ならずとも見逃すはずがない。入社式の翌日には早くも彼のデスクに女性陣からの熱烈なプレゼントがうずたかく積み上げられていたと、企画課では伝説のように語り継がれている。 美智子も、その中の一人だった。さすがにプレゼントは贈らなかったけれど、22歳のうぶな乙女の当然の心理として、俊介のようなハンサムボーイ(当時はそれが流行語だった)と付き合えたらどんなに幸せだろうという淡い期待は持っていた。 彼は今、何をしているのだろう。同い年で同期入社だったから、今年で42歳のはずだ。今でもあの洗練されたスタイルのまま、何十人もの部下を抱えるエリートビジネスマンとして、忙しく働いているだろうか。それとも、年相応に年齢を重ね、照之と変わらないぐらいのオジサンになっているだろうか……。 あの時、ほんの少しの勇気を出して、俊介にアプローチしていれば……いや、ダメダメ。そんなの、ただの妄想よ。ないものねだりを続けていても、むなしくなるだけだわ。 自分に言い聞かせるようにして、美智子は写真を引き出しにしまった。 ひとりでに、溜め息が口からこぼれ出た。 十時半。気分転換に、美智子は買い物に出た。昼食の準備をするにはちょうどよい時間だったし、午前中に少しだけ外の空気に触れておきたかった。あれ以上あのよどんだ空気の中にいたら、ますます気分がめいってしまう。 だが美智子は、一つ目の角を曲がらないうちに家に引き返す羽目になった。肝心の財布を忘れてしまったのである。決してしっかり者とは言えない美智子でも、ここまでのミスはめったにない。というより、一度もない。今日はやっぱり良くない日なのかしら。美智子の心に、一片の不安がよぎる。 家に戻ると、郵便受けに一通の封筒が入っていた。文通相手がいるわけでもないから、ビラやチラシ以外の郵便物が入ってくるのはめずらしい。 ――どうせ、ダイレクトメールか何かだろう―― たいして期待もせずに取り出してみると、封筒の下隅に、(幸せになりたいあなたへ) という文字がちいさくプリントしてあった。 何これ、気持ち悪い。何かの宗教かしら。 封筒を開けて、中の紙を読んでみる。 (当センターでは、日々悩みを抱えながら生きる皆様のために、まったく新しい手法によるカウンセリングを行っております。誰にも打ち明けることができない悩みや苦しみを受けとめるのが私たちの仕事です。心に溜まった鬱憤を遠慮なく吐き出して、時計の針を巻き戻してみませんか?) 文面は、ごくごく簡素なものだった。しかも、どことなくうさんくさい。 文章の最後には、センターの住所が書かれていた。東京都○○区××……ここからなら、歩いて行けない距離ではない。 でも、何かねえ……手紙を封筒に入れて、美智子はもう一度溜め息をつく。もともと、カウンセリングというものにあまり賛成ではない。初対面の相手に悩みを打ち明けてスッキリすることもあるだろうけれど、心のどこかに抵抗がある。それに、うちの場合はどんなに腕のいいプロの先生でも、うまいアドバイスができないような気がする。何しろ、美智子自身が今、何に対して悩んでいるのか、自分が本当に幸せなのかどうか今ひとつわかっていないのだから……。 この手のダイレクトメールの場合、たいていはすぐさまリビングのゴミ箱に放り込まれる運命なのだが、今回にかぎってそうならなかったのは、この素っ気ない文面に、根拠のない好奇心をそそられたからだった。特に最後の一行、 (時計の針を巻き戻してみませんか?) というところに、普通のDMにはない詩的なセンスを感じる。もちろん、タイムトリップなんて小説やドラマだけの話で、本当に時間を取り戻せるわけはないのだろうけれど、悩みを打ち明けて気分をリセットするのは、ある意味で時計の針を巻き戻すことと同じなのかもしれない。 時計を見ると、ちょうど十一時。美智子は、いつしか封筒を強く握りしめていた。 二十分後、美智子は駅前の路地を抜けた先の、さびれたシャッター街に立っていた。真っ昼間だというのに、人の通る気配はない。時折ひんやりとした風がじわりと吹き抜けるだけで、あとは無音の時間が続く。マンホールから下水の臭いが込み上げてきて、美智子は顔をしかめた。 一体どこにあるのよ……時間を無駄に使ってしまった苛立ちを通り越して、美智子の胸には灰色の不安が広がっていた。迷子のようにキョロキョロとあたりを見回してみるが、どこまでいっても同じようなシャッター商店街の風景が続くだけで、それらしい建物は見あたらない。カウンセリングセンターだっていうから、オシャレな高層ビルを想像していたのに、これではまったくの期待はずれ。やっぱり引き返したほうがいいのかしら。だいたい、こんな駅前にシャッター街なんてあったっけ? 片道二十分使って何の収穫もなく引き返すのは悔しい。半ば意地になってあてもなく歩きつづけていると、ひときわ背の高いビルが目についた。高層ビルには間違いないが、オシャレというには程遠い、あちこちに亀裂の入った古びたビルだ。入口の石段の隅には、犬のおしっこらしき丸いシミができている。テナントを示す看板もない。 美智子はもう一度、DMに書かれたセンターの住所を確認する。それを信用するならば、確かにこのあたりであっているはずだ。 ――やっぱり、イタズラに引っかかったのか―― それでもあきらめきれずにビルの奥のほうまで観察していると、静けさがにわかに打ち破られ、硬質な靴音がすぐ背後まで忍び寄ってきた。 気配に振り返ろうとしたが、遅かった。警戒心がはたらくより前に、視界にスーツを着た太い腕が映り込んできた。声をあげる余裕もなく、美智子の口にはその分厚い手によって白いハンカチがあてがわれ、全身の力を奪われる。 美智子は、その場にくずおれた。しかし、アスファルトに倒れ込むことはなかった。二本のたくましい腕によって体が支えられている感覚だけが、朦朧とする意識にかろうじてとらえられる。 「大丈夫ですよ」 機械的な低い声が、美智子の頭の中でぼんやりと反響した。 どこかで、声がする。低く、なめらかな声だ。すぐ近くで聞こえるような気がするし、ずっと遠くのほうからぼんやりと響いているような気もする。まるで、プールの奥底に沈んでいるような、不思議な感覚……。 恐る恐る、ゆっくりと目を開けてみる。その途端に、淡いブルーライトによって視界が覆われた。体のあちこちが痛い。肩や手足をほんの少し動かしただけでも、ベッドの固さがもろに全身に伝わる。どう考えても、ここは自分の家じゃない。 「気が付きましたか」 なめらかな声とともに、男の顔が視界に映り込んできた。糊のきいた白衣を着ている。その下はノータイに薄いシャツ。見た感じは、三十代後半。全体的にのっぺりした(しょうゆ顔)だけど、よく見ると鼻筋が通っていたりして、イケメンと言えなくもない。 「クスリがちょっと効きすぎたかな」 ……クスリ? 早速飛び出した不穏なワードに、美智子はさらに敏感になる。 壁際に並んだガラスケースには、美智子にはよくわからない、あやしげな器具がいくつもしまいこまれている。きっと、何かの実験に使うのだろう。ケースの下の引き出しには、ネズミの死体が詰まっていたりして……。 ガラスケースとは反対側、つまり美智子の左側のテーブルにはノートパソコンが何台も置かれていて、画面には赤や黄色のうねうねしたグラフのようなものが表示されている。 手術室みたいなこの部屋で、これから一体、何が起こるのだろう。しょうゆ顔のあいつに体じゅうを切り刻まれて、内臓をごっそりと取り去られるのだろうか。逃げたくても、手足が動かない。闇の研究所、モルモット、人体実験……。不吉な連想ばかりが頭に浮かび、美智子はもう少しで理性を失いそうだった。 「驚かせてしまってすみませんね、井崎美智子さん」 名前を呼ばれて、美智子はさらに体を固くした。 男は、植木の様子を確かめるような動作で美智子の顔を覗き込んで、 「ほう、どうやら問題はなさそうですね」 「何が問題なしよ!」 この時とばかりに、美智子は声を張り上げた。 「何の罪もない一般市民をあんな安っぽいダイレクトメールでおびき寄せてこんなところまで連れてくるなんて、立派な犯罪行為じゃないの。あの郵便、あんたが送りつけたんでしょ」 「ああ、やっぱり御覧になったのですか」 慌てる様子もなく、涼しい顔で彼は言う。美智子の闘争心が、ますます燃え盛った。 ポーカーフェイスも今のうちよ。これからあっという間にあんたの化けの皮をはいで、腹黒い本性をあばきだしてやるんだから。 「ふふっ、思った通りだわ。あんたが闇の組織の親玉で、今回の首謀者ってわけね」 「そういうわけでは……」 と言いながら、男は言葉の最後でクククッと笑った。こらえきれずにどうしても出てしまう、くぐもった笑いのようだった。 美智子は興奮した。悪党め、とうとう本性を表すのか? 「……いや、失礼しました」 おかしすぎて涙まで出てしまったのか、男は目尻を指でさっと拭いながら、 「首謀者といい闇の組織といい、一昔前のSF映画みたいだったものですから……」 「何よ、それ」 さっきまでとは違う種類の怒りが、美智子の胸に込み上げてきた。会ったばかりの男から、完全にバカにされている。そもそも、一昔前、というのがどのくらい前のことを意味しているのか……それについて深く考えるとかえって自分が傷つきそうなので、今はやめておいた。 「とにかく、あんたたちは一般市民を苦しめる悪党なんでしょ」 「悪党なんてとんでもない。我々はあなたの味方ですよ」 「何が味方よ。信じられないわ!」 もうこれ以上、こいつらの茶番に付き合ってはいられない。若干の痛みをこらえながら、美智子はベッドから半身を起こし、床に足をつけた。大丈夫、頭はとっくに冴えている。 「こんな研究所なんか……」 自分では何の問題もなく立ち上がって、ドアを蹴破って部屋から脱出するつもりだった。けれど、右足に体重をかけた途端に体全体がよろめいて、美智子は前のめりに倒れ込んでしまったのである。 「大丈夫ですか?」 あやうく床に顔面をうちつけるところだった美智子を、男が素早い身のこなしで支える。美智子の上半身を支えるその腕は思いのほか筋肉質で、たくましかった。それに……すぐ近くで見る彼の顔は引き締まっており、どこまでも涼やかだった。思ったよりもイケメンなのね……心までよろめきそうになるのを、美智子はかろうじてこらえた。 「無理は禁物ですよ。まだ、クスリの影響が残っているんですから」 美智子をベッドに座らせると、男は安心させるように微笑んだ。 「自己紹介が遅れましたね。私は、こういう者です」 男は慣れた手つきで白衣のポケットから名刺を取り出し、美智子に差し出した。 名刺というのは普通、差し出した当人の地位や職業をわかりやすく伝えるためにあるはずだ。しかし、男から手渡された名刺を見ても、美智子は、目の前で穏やかに微笑している中年男が一体何者で、結局のところ何をしているのか、いっこうにわからなかった。 (時空パトロールセンター所長・ドクター西園寺) 白無地のその名刺には、機械的な黒い文字でそう記されていた。それ以外の情報は、この紙切れからは読み取れない。 「我々の任務について、少し説明が必要みたいですね」 講義に入る前の大学教授のように、西園寺はわざとらしく咳払いをした。 「タイムスリップというのは、御存知ですよね」 「知ってるわよ、それぐらい」 バカにしないでよね。四十過ぎのオバサンだからって、その程度の常識は持ってるんだから。 「何かヘンな機械に乗って、過去とか未来とかを冒険するんでしょ?」 大げさに息巻いたわりにものすごく大ざっぱなワードしか出てこない自分が、少しだけ悲しかった。 美智子の内心を察したのかどうか。西園寺は例のポーカーフェイスで(御名答でございます)と言い、薄く微笑んだ。 「時空パトロールセンターでは、タイムスリップサービスを行っているというわけでございます」 「えっ?」 「まあ、日常的な業務としては時空間に歪みが生じていないかどうかをチェックするタイムパトロールがメインなのですが、せっかく培った技術を寝かせておくのももったいないということで、時々一般のお客様を招待するかたちでタイムスリップサービスを……」 「ちょっ、ちょっと待ってよ」 「どうかなさいましたか」 口上をさえぎられたのが心外なのだろうか。不満顔ともとれる表情で、西園寺は言葉を切った。 「タイムパトロールについて、もう少し説明が必要でしょうか」 「そうじゃなくて、その手前の話よ」 頭を必死に整理しながら、美智子は言った。 「現実の世界でタイムスリップするなんて、いくらなんでもあり得ないわ。からかうのもいい加減にしてよ」 「私は別に、あなたをからかうつもりは……」 「もう結構よ!」 投げつけるように言うと、美智子は先ほどよりも強い力で両足に体重をかけた。もう、よろめくことはなかった。クスリが切れているらしい。 「覚悟してなさいね。すぐに警察がここまで押しかけてくるんだから。タイムスリップなんて、そんなの嘘っぱちよ」 「今朝、御主人……井崎照之さんとケンカをしたんですね」 ドアのほうに歩きかける足をとめ、美智子は思わず振り返った。西園寺はこちらの心理をすべて見透かしているかのように、回転椅子にゆったりと腰掛けながら、例によって落ち着いた微笑を浮かべている。 「あなたは、心の奥底で期待していたのではありませんか。誰かに悩みを打ち明けることで、御主人との関係を少しでも変えられるだろうかと、自分自身に向き合うことで、時計の針を巻き戻すことはできないだろうかと……」 (時計の針を巻き戻してみませんか?) DMの最後の一行が、美智子の脳裏によみがえる。 あれは、こういうことだったのか。ただの比喩ではなく本当の意味で……つまり過去の世界にタイムスリップすることによって時計の針を巻き戻す。 「真夜中の海浜公園で、あなたは御主人にプロポーズされた」 「どうしてそれを……」 美智子の問いかけにはこたえずに、西園寺はただ、穏やかな笑みだけを返した。 「御主人としては、それが今の自分にできる精一杯のプロポーズだったのかもしれません。でも、あなたはそうは思わなかった。わざわざ午前3時にプロポーズするなんて、デリカシーのない最低な男……長い年月とともに心の奥深くにしまいこんだはずの不満が、ささいなケンカをきっかけにふきだしてくる。時計の針を巻き戻して、あのプロポーズをなかったことにできたなら……そんな願いを胸に、あなたはあのシャッター通りを訪れたのではありませんか。人生をもう一度やり直したいという、ささやかな希望を託して」 何もかも、彼の言う通りだった。自分のすべてを見透かされたようで背筋がうそ寒くなる一方、少しずつ心の鍵が開けられていくような感覚に、美智子はとらわれていた。西園寺の飄々とした、つかみどころのない柔らかな物腰が、こちらの警戒心を解きほぐしているのかもしれない。 「小石川俊介さんのことを、まだどこかで引きずっているのですね」 何の脈絡もなく現れた(彼)の残像に胸をくすぐられ、美智子は返すべき言葉を見失った。胸の奥にしまいこんだはずの、甘くてほろ苦い記憶……。 「あなた、一体何者なの? 主人の名前だけでなく、昔の同僚まで調べ上げているなんて……」 「あなたは思っているはずです。十七年前、照之さんではなく小石川俊介さんと結ばれていたら、ほんの少しの勇気を出して、もう一度だけ人生をやり直すことができたなら……。重苦しい後悔がずっと心を支配していたのではありませんか。だからこそ、あなたはここにきた」 「私はそんな……」 反論したくても、否定の言葉が見つからなかった。なぜなら、西園寺の言葉は冷静かつ的確に、美智子の本心を射抜いていたのだから。 「あなたのその願い、このドクター西園寺ならば叶えられるかもしれません。もちろん、すべてはあなたの自由です。プロポーズをなかったことにして、自分の思い通りの人生を生き直すのか。それとも、このままここから立ち去り、不満を押し隠しながら退屈な毎日を過ごすのか……」 西園寺は鋭い眼差しで、美智子を正面から見据えた。こちらのこたえをすでに読み切ったうえで最後の決断を促すような、静かで力のある眼差し。 美智子はいったん、唾を飲み込んだ。肝心な決断はせめて、しっかりした声で伝えたい。 答えは、もう決まっているのだから。 照之からプロポーズを受けたその現場にタイムスリップして、25歳だった自分にプロポーズを断らせる。 それが、今回の計画のようだった。時計の針を巻き戻す……言葉として聞いた時には何となくロマンがあって胸がときめいたけれど、いざ実際にタイムスリップするとなると、やはり不安が残る。 「今回のトリップポイントは、1996年の7月3日でよろしいですね」 料理のオーダーを確認するようなさらりとした口調で言うと、西園寺は慣れた手つきでパソコンのキーボードに素早く何かを打ち込んだ。タイムスリップする日付だろうか。 「タイムゾーンは良好だな」 「ずいぶんハイテクな機械なのね」 「安い中古品ですよ」 西園寺はわずかに頬を緩め、美智子に画面が見えやすいように軽く椅子を引いた。 「薄い緑の円で表示されているのが完了状態にあるタイムワールド、つまり過去の世界です。そして、その円から青い線でつながっているのが現在の地点、それからさらにのびる黄色い円が未来の世界ですね」 わりと丁寧な説明だったが、美智子にはさっぱり理解できなかった。現在・過去・未来と、単純な世界を表現しているにしては、画面ではグニャグニャした線がいろいろな方向に絡まりあっていて、グラフが複雑すぎる。 「緑の線は過去なのよね? そこからまたいくつも線がのびていて青い線とつながってるみたいだけど、あれは何なの」 「この世界には、無数の時間軸があります。ひとりの人間が複数の選択肢から何かを選び取るたびに、それと同じ数だけ時間軸が生成されるのです。簡単な言葉で言えば、ここではない別の人生といったところでしょうか」 「別の人生……」 「別の時空間上のどこかには、化粧品会社に勤めず、まったく別の人生を歩んでいる井崎美智子という女性がいるかもしれません。いや、その場合は旧姓の川端美智子さんですね」 この男は一体、こっちの情報をどこまで調べているのだろう。飄々とした甘いマスクの裏にはとてつもなくどす黒い本性が隠されているのかもしれないと、今さらながらに深読みしたくなる。 「タイムスリップをする前に、美智子さんには変身してもらわなければなりません」 「変身?」 思わず、素っ頓狂な声になってしまった。理解を超えるワードが次々に出てきて、今度こそパニックになりそうだ。 「これからタイムスリップして会いに行くのは、過去の美智子さん自身です。同一の時空平面上に時間軸をまたいだ同じ人物が存在することになるわけで……」 「わかった、わかったから」 西園寺の物理講釈を、美智子は強引にさえぎった。 「今の私がそのままの姿で過去の自分に会うわけにはいかないから、別の人間に変身する必要がある。わかりやすく言えば、アバターってわけね」 「ブラーボ!」 唐突すぎる大声に、美智子は背筋をふるわせた。西園寺は大げさに手をたたいて、満足げに微笑んでいる。そもそも、なぜにイタリア風? 「さすがは人生のベテラン。頭の回転が速い!」 「バカにしてるでしょ、絶対」 「えっと、美智子さんに似合いそうなアバターは……」 美智子のツッコミを無視して、西園寺はパソコンを操作し、グラフだらけの画面を切り替える。 かわりに表示されたのは、何人かの女性のイラストだった。横一列に並んでいて、中央のイラストはスポットライトがあたったように明るくフォーカスされている。今風の若い子もいれば、美智子よりずっと年上の老婦人もいる。この中から一人を選べ、ということなのだろう。 「今の美智子さんに極力近いのを選ぶとすれば……」 西園寺がフォーカスしたのは、地味なワンピースを着た中年の女だった。 「ダメよ、こんなの」 無意識のうちに、声が強くなってしまう。 「お気に召しませんか?」 「だって、ただのオバサンじゃない」 「洋服はあとで自由に選んでいただいて構いませんが」 「嫌なものは嫌なの」 どこかで見下されているような気がして、美智子は腹が立った。だいたい、このアバターはいくつの設定なのよ。 「もっとマシなやつにしてちょうだい」 「じゃあ、こんなのは」 次にフォーカスされたのは、幼稚園の制服を着て黄色い帽子をかぶった、かわいらしい女の子だった。あら、ありがとう。希望にこたえて若い女の子を選んでくれたのね……って、バカ! 「明らかに若すぎるでしょうよ!」 「これもダメですか?」 「当り前じゃないの」 なぜか不服そうに、西園寺は女の子のアバターを引っ込める。 「思い切って男性という手もありますが……」 「ダメに決まってるでしょ」 「女性も男性もダメとなると、あとはイヌやネコぐらいしか……」 「何でそうなるのよ。ほら、ちゃんとあるじゃないの。女の子のとなりに、私にぴったりのアバターが」 「これですか?」 画面には白髪のおばあちゃん。 「そっちじゃない。女の子の右隣!」 「……これ、でしょうか」 「そうそう、それよ」 美智子の指示で、ピンク色の派手なワンピースを着た女のアバターがフォーカスされる。ミニスカートからのびるすらりとした脚が挑発的だ。さりげなく年齢をチェックすると……27歳。 「本当に、これでいいんですか」 「何よ、その不満そうな顔は」 「不満などはございません。ただ、なるべく今の自分に近いアバターがいいとおっしゃっていたものですから……」 「だからこそこのアバターなの!」 ……もう、本格的にイライラしてきた。27歳になりきることに多少の無理があることは、自分でも薄々わかっている。けれど、この一点だけはどうしても譲れない。インチキ科学者にどんなにバカにされたとしても。 「一度決めたアバターはどんなことがあっても変えられません。決して後悔はしませんね?」 「もちろんよ」 決戦前の勇者のように、美智子は力強く頷いた。パソコン画面を切り替えて、西園寺は神妙に立ち上がる。 「では、タイムゾーンに参りましょう」 細く薄暗い通路をひたすら歩かされた。途中にはライトがひとつもないので、前を歩く西園寺の持つランプだけが頼りだ。不気味な通路に、今にも消えそうなランプ……。シチュエーションがいちいち古めかしいので、タイムスリップどころか、魔物の棲む迷宮に向かうような錯覚におちいってしまう。 「この先がワームホールです」 「ワームホール?」 またしても新しい用語が飛び出した。そんな小難しい言葉、さっきの説明では出てこなかったじゃない。 「時々、かけ離れた時空間同士が何かの拍子でつながってしまうことがあるんです。そんな時、そのふたつの時空間を結ぶ道のことをワームホールと呼んでいます。簡単に言えば、時空の裂け目ですね」 ちっとも簡単になっていないんだけど。まあ要するに、そのワームホールってやつを通れば1996年の東京にたどり着けるってわけね。 通路のさらに奥のほう……美智子たちが進んでいる方向から、ゴォーッという、何かが強い力で吸い込まれていくような音が聞こえる。掃除機のパワーをMAXにしてまわりの空気を思いっきり吸引したような……いや、違う。それよりももっと切迫していて、得体の知れない力だ。もしかして、獣のうなり声? 「この音は……?」 「時流音というやつです」 細長い通路に、西園寺の声が反響する。 「気圧という言葉は御存知ですよね。空気は、気圧の高いほうから低いほうへと流れるでしょう。時流もそれと同じで、圧力の高低差によって微妙に流れが変化するんです。今は、現在よりも過去のほうが時流的に低い位置にある。だから、圧力の高い現在から過去の方向にむかって、時空の風が吹き抜けているのです」 「時空の風……」 聞いただけでも心地の良い言葉だと、美智子は思った。映画のタイトルにでもなりそうな、さわやかな匂いのする言葉だ。 足もともおぼつかない薄闇から、突然、一気に視界が開け、目の前が少しだけ明るくなった。 「これがワームホールです」 ランプの灯りが、ぼんやりと(それ)を照らす。 無機質な壁に、暗い穴がぽっかりと空いている。その気になれば何人もの人間をあっけなく飲み込んでしまいそうなほど、どす黒くて底知れぬ穴。 「もっと近づいてみてください。大丈夫、吸い込まれたりはしませんから」 西園寺に促されるまま、恐る恐る、ワームホールに一歩近づいてみる。その途端、目に見えない気流のようなものによって、踏み出したほうの足が前へと引き込まれる感覚にとらわれた。このまま暗闇の奥底へと引きずられていきそうで、美智子は反射的に足を引っ込める。 「思ったよりも、中は深くて暗いのね。何だかこわくなってきたわ」 「皆さん、最初はそうおっしゃいます。ですが、じきに慣れるものですよ。このワームホールに飛びこむ以外、タイムスリップをする方法はないのですから」 「えっ? ちょっと待ってよ」 美智子は語気を強めた。怒鳴るつもりはなかったが、空間全体に充満する時流音を押しのけて言葉を伝えるためには、多少なりとも声を張り上げる必要があった。 「タイムマシンに乗るんじゃないの?」 「あいにく、そのような高級なマシンを開発する予算がなくて……。ご安心ください。ワームホールはただのだだっ広い空洞になっているだけですので、生身のまま飛び込んでも何の危険もございません。その点は、私がしっかり保証いたします」 あんたに保証されてもね。時流音が幾分弱まってきたので、思い切ってぎりぎりまで近づいて、中を覗き込んでみる。どこか、マンホールを上から見下ろした感覚に似ている。 おーい。暗闇の奥深くにむかって呼びかけてみる。けれど、返事がくる気配などはもちろんなくて、美智子自身の間の抜けた声がぼんやりと反響するだけ。何の手ごたえもない。 「タイムスリップの前に、いくつか渡しておかなければいけないものがあります。まずは……これ」 西園寺があらたまった表情でポケットから取り出したのは、不思議なデザインのカードだった。しかも、なぜか懐かしさを誘われる。 「もしかしてこれって……」 「そう、テレフォンカードです」 秘密を共有した子どものように、西園寺はニヤリと笑った。 「基本的な仕様は通常のテレカと同じです。ただし、このカードではこちらへの直通電話にしかつながらないようになっています。度数は確か、80の設定になっているはずです」 「それを使い切ったら?」 「残念ですが、それ以外の通信手段はありません。ポケベルだと数字によるコミュニケーションしかできませんし、初期の携帯電話は重くてかさばりますから」 「それなら今あるケータイを持っていけば……って、あっそうか」 言っている途中で、自分で気がついた。 「その時代にあるものしか持ち込んじゃいけないんだ。つまりその……時空をゆがめることになるから」 「ブラーボ!」 時流音にも負けない声で西園寺は叫ぶと、同時に大きく拍手をした。 「理解力バツグンじゃないですか。それから……」 西園寺はカードが入っていたのとは反対側のポケットをとまさぐると、袋につつまれたアメを取り出した。 「何よ、それ」 何かの冗談かと思った。不安になった時に口の中でころがして、気分を落ち着かせろってこと? ちょっと、からかうのもいい加減にしてよね。 「美智子さんが食べるのではありませんよ」 こちらの内心を先読みするように、西園寺はフッと微笑して言った。 「作戦がすべて終了してこちらの世界に戻る前に、必ず、このアメをむこうの世界の川端美智子に食べさせてください。そうすることによって、現在の美智子さんに関する彼女の記憶は、きれいさっぱり消え去ります」 「記憶がなくなる……」 なるほど、そういうことか。未来の自分が過去の自分に接触するのは本来あるはずがないし、あってはいけないことだ。だから、多少無理矢理にでも彼女の記憶を消して、帳尻を合わせる必要がある。 「とにかく、最後にこのアメを彼女に食べさせればいいのね」 アメをウエストポーチにしまって、美智子は言った。 「私からの説明は、もうこれで以上です。では、早速ワームホールの入口に立っていただいて……」 「ねえ、ちょっと待って」 「何でしょうか」 腕時計をちらっと見て、西園寺は言った。 タイムリミットが迫っているのだろうか。美智子だって、ここまできたからには一秒でも早くむこうの世界に行って、人生をやり直したい。けれど、心の奥にしつこく沈澱している疑問はやはり、吐き出さないわけにはいかなかった。 「作戦が成功して、プロポーズをなかったことにできたとするわよね。そうなったら、今の私はどうなるの。あっちの世界に取り残されて、そのまま消えてなくなっちゃうの?」 「ご安心ください」 想定内の質問だったのだろうか。西園寺は余裕たっぷりの微笑を浮かべて、 「作戦が成功した場合、その時に出現するワームホールは今の御主人と結婚していない、新しい世界へとつながります。あなたはそこで、誰にも気がねすることなく、第二の人生を送ることができるのですよ」 新しい世界、第二の人生……美智子はいつしか、催眠術にかけられたような気分になっていた。西園寺のやさしげな、それでいてどこか妙に説得力のある語り口のせいか。あるいは、非日常的な空間に置かれているという高揚感のせいなのだろうか。 「万が一失敗したら、またこっちの世界に戻ってくればいいだけだものね」 「マイナス思考は、今はやめておきましょう」 西園寺の力強い眼差しのおかげで、美智子の胸から不安が完全になくなった。 「決心がついたら、ワームホールに飛び込んでください」 「あなたは行かないの?」 「私はこちらでの任務がありますので」 「無責任なのね」 不思議と、腹は立たなかった。いざという時は、あのテレフォンカードがある。それに、知らない世界に行くのでもない。むしろ、一人のほうが気が楽だ。 穴の入口に立って、中を見下ろす。どんなに目を凝らしても、底は見えない。うなり声にも似た時流音が、マグマのようにこちらへと噴き上げてくる。早く行きたい、早く行かなければと思うけれど、あと少しのところで踏ん切りがつかない。 ダメじゃないの、美智子。心の中の自分が、そっと囁きかける。何もないマンホールに飛び込むようなものじゃない。その向こうには人生を劇的に変えてくれる、ステキな世界が待ってるのよ。こわがることは何もないわ。さあ、プールの飛び込みを思い出して、一、二……三! 穴に向かって一歩足を踏み出した途端に、足の根元から見えない力で強く引っ張られた。息を飲み込むひまもなく、体全体が穴の奥へと吸い込まれる。 ――ゴオーッ、ガアーッ―― 時流音の分厚い壁をとてつもない重力とともに打ち破っていくようだった。耳をふさごうにも、手足が自由に動かない。遠くはるかな一点にむかって突き進んでいるのだろうか。美智子の意志とは関係なく、引き込まれるスピードはどんどん上がっていく。上半身だけに異常な負荷がかかり、腰から下がちぎれそうだ。 ――やっぱり、タイムスリップなんかするんじゃなかった―― 遅すぎる後悔が芽生えはじめた時、美智子の向かう先にちいさな光の点が見えた。暗闇にぽつりと浮かんでいるだけのその点は、見る見るうちに大きくなり、美智子の目の前に迫ってきた。美智子の体が、今度はその、白くて何もない空間へと同化していく。そして……。 「ヴォン・ヴォヤージュ!」 西園寺の陽気な声が、すぐそばで聞こえたような気がした。 目の前に、暗闇が広がる。すぐ向こうにほの白い光が待ちうける、希望を感じさせる暗闇。 ごつごつとした感触が、背中を通して伝わる。生ぬるい風が気まぐれに肌をなでていく。外にいるのだということは、何となくわかった。高いところからセミの鳴き声や木々の葉が揺れる音、それからカラスのだみ声も聞こえる。遠くのほうから聞こえるのは、道行く人の靴音だろうか。けれど、すべての音に薄いもやがかかっていて、ここがどこなのかはわからない。 恐る恐る、目を開けてみる。雲がひとつもみあたらない、すっきりとした青い空。やけに張り切った太陽の陽射しが、アスファルトを濃いオレンジに染め上げている。 ポチョン……。 耳のすぐそばで硬い音がした。 「げっ!」 思わず、美智子は跳ね起きた。美智子の肩の位置スレスレのところに、鳥のフンが落ちてきたのである。頭上を見上げると、電線にとまったカラスがこちらを小馬鹿にしたように(カアッ!)とひと鳴きして、青い空の向こうに飛び立っていった。 「もう!」 聞こえるはずのない文句を投げつけて、美智子はワンピースの肩口の部分を確認する。そして、ふと気がついた。 着ているものが、全然違う。クリーム色のブラウスにグレーのパンツスタイルと、どちらかといえば地味な服装で家を出てきたはずなのに、今のファッションはそれとは完全に真逆。やけに肩幅が広いピンクのワンピースに、太ももまで露出するようなミニスカート。それから、真っ赤なハイヒール……。こんな派手な服、クローゼットにも入ってない。そして美智子は、あることを思い出した。 これは、アバターだ。今の自分は、井崎美智子ではない。例の研究所で選んだ、若い女の子のアバターだ。あらためて、まわりを見まわしてみる。 細い路地だった。背の高い両側の壁が圧迫感を与える。知らない場所のようだけれど、どこか見覚えがあるような気がする。この状況はつまり……。 私、タイムスリップできたかもしれない。 路地の先のほうから、なつかしいメロディが聞こえる。 (通りゃんせ、通りゃんせ〜) メロディに誘われるように路地を抜けると、大通りに出た。ビルにかこまれたスクランブル交差点を、人の波が入り乱れるようにして渡っている。男女を問わず、スーツ姿がやけに多い。ということは、今は平日の昼間なのだろうか。 人混みに追い立てられるようにして、美智子はオフィス街を大通りに沿って歩いた。信号機のメロディと言い街行く人のファッションと言い、やはりどことなく古くさい。一見普通のワンピースを着ている女性も、よく見るとアイシャドーがやけに濃かったり、眉毛が不自然なほどに太かったりして、時代というものを感じさせる。 街並に対して違和感を覚える理由は、他にもあった。スタバやユニクロなど、2013年の日本には当り前のようにある店が、いっこうに見あたらないのだ。見慣れた店の名前が見えないというだけで、とんでもない田舎町にきてしまったような錯覚にとらわれてしまう。 ドンッ、という背後からの強い衝撃に押されて、美智子はあやうく前につんのめりそうになった。 「ごめんなさい」 ぶつかってきたのは、スーツを着込んだサラリーマン。聞こえるか聞こえないかぐらいの声で短く謝ると、小走りよりも少し速いぐらいのスピードで美智子の脇をすり抜けていく。よほど仕事に追われているのだろう。 そのサラリーマンの行方を見るともなく見届けて、美智子は思わず、そっと苦笑した。 山一証券。 彼が汗だくで駆けこんだビルの看板には、はっきりとそう書かれていた。若い頃からニュースに弱く、おまけに記憶力が鈍ってきた美智子にもわかる。この会社はもう、2013年には存在しない。確か90年代の中盤、つまり今からそう遠くないうちに倒産してしまうはずだ。それなのに、背広の彼は自分の運命も知らずに暑い中仕事に追われて……所詮他人事ながら、何の関係もない彼の将来が少しだけ心配になるのだった。 サラリーマンにぶつかられたせいで、人混みから少しはずれるかたちになってしまった。ふと横を見ると、洒落たデザインのイタリアンレストランがあった。メニューサンプルが並んだガラスケースに、名前もわからない見知らぬ女が立っていた。 派手なワンピースに身を包んだ、背の高い若い女。ガラスケースに向かって微笑みかけると、向こうの彼女もぎこちなく微笑み返す。これが本当に、今の自分なのだろうか。美智子はまだ、信じられなかった。モデル並みとまではいかないけどスタイルもそこそこだし、顔だってそんなに悪くない。間違ってもおばあさんのアバターを選ばなくてよかったと、美智子は心から思った。それに、今日一日だけは若さを手に入れられるのだと思うと、自然に気分が上向きになり、口もとが勝手にゆるんでくるのだった。 ガラスケースの美智子も、遠慮がちに微笑んでいる。 「……すみませーん!」 雑踏をすり抜けるような大声で呼ばれて、美智子は振り返った。 濃紺のスーツ姿で汗だくになりながら、一人の若い女の子が立っていた。その顔には、はっきりと見覚えがある。なぜなら彼女こそが、OL時代の美智子自身なのだから。 「今、新作化粧品の割引キャンペーンをやっているので、よろしくお願いします!」 ひと息にそれだけ言うと、彼女はピョコンと可愛らしく頭を下げ、美智子に一枚のクーポン券を差し出した。これを店に持っていけば、新作の化粧品が半額で買えるのだろう。おなじみの販売手法だ。 「暑い中大変ね」 クーポン券を受け取って、美智子は言った。彼女の名前を確認したいところだが、あいにく名札をつけていない。 でも、大丈夫だ……美智子には、妙な確信があった。目の前の仕事をがむしゃらにこなそうとする、不器用なやる気。そのくせ、何かにつけてオドオドした態度……。目の前の彼女は間違いなく川端美智子、昔の自分自身だ。 「夕方までに、このクーポンをみんな配らないといけないんです」 額から汗のしずくをいくつも垂らして、ミチコは言った。スーツのところどころに、濃い汗じみができている。 「すみませーん!」 ミチコは少し離れたところで、またクーポンを配りはじめた。けれど、受け取る人はほとんどいない。 「新商品のクーポンでーす!」 それでも、ミチコはあきらめない。流れる汗を拭こうともせず、ただひたむきに声を張り上げる彼女の姿に、ふと、懐かしい記憶がよみがえってきた。勤めていた頃はよく、街中でクーポン券やら、宣伝用のポケットティッシュやらを配らされた。こういうのは大抵新人の仕事で、会社にしてみれば雑用と変わらない。それでも若手の頃は、与えられた仕事をこなそうと必死だった。一日ごとのノルマをこなすだけで精一杯だった。ミチコの苦しみは、誰よりもよくわかる……って、当たり前か。目の前の彼女は、美智子自身なのだから。 やみくもに通行人へ声をかけるばかりで、手もとのクーポンさえ減らすことができないミチコを見ているうちに、美智子はだんだんにイライラしてきた。 ――むやみに配り歩くだけじゃ、ちっとも効率上がらないじゃないの―― 美智子はダンボールに詰め込まれたクーポン券を両手に抱えられるだけで抱え込んだ。 「これを配るんでしょ」 「そうですけど、でも……」 「私が手伝ってあげる」 「ダメですよ、そんなの……」 彼女の返事もろくに聞かずに、美智子はてきぱきとクーポンを配りはじめた。コツは、いやというほど心得ている。手当たり次第に声をかけても疲れるだけだ。経験を積んだ女性を対象にした化粧品なのだから、中学生以下の女子は最初から除外。ただし、高校生や大学生は別だ。そう遠くないうちに、うちの会社の大事な顧客になってくれるかもしれないのだから。 「新商品のクーポンです。よろしくお願いします」 あえて声は張り上げない。相手の目を一瞬見て軽く会釈をし、淡々とクーポンを渡していく。OLの三人連れがきた時は、最大のチャンスだ。これでクーポンが一気にさばける……いつしか美智子には、販売員時代のカンが戻っていた。 ものの三十分ほどで、ダンボールは空になった。それほどの重労働でもないというのに、美智子はすでに汗だくだ。 「すっごーい。もう全部配っちゃった」 クローズアップ・マジックを見せられた子どものように、ミチコは目を丸くした。 「あ、あの、本当にありがとうございました」 ミチコはまた、ピョコンと頭を下げた。大学を出たばかりの幼さが、動作のひとつひとつに残っている。いや、希望に裏打ちされた若さというべきか。 「よかったら、お名前を伺っても……」 「名前?」 そういえば、忘れていた。アバターの外見に気を取られて、まだ、名前を考えていなかった。とっさに適当な名前を思い浮かべろと言われても、意外に難しいものがある。かといって、まさか、本当の名前を名乗るわけにもいかない。いきなりの大ピンチ。何とか適当にごまかして、この場を切り抜けることはできないものか。 「……林原、琴美」 仕方なく、美智子はありあわせの名前を口にした。林原は、ついさっき見た(山一証券)からの連想。琴美は、もしも自分に女の子が生まれたらつけようと思っていた名前だ。結婚してすぐ、照之に冗談めかしてそのことを打ち明けたら、古くさい名前だと軽く笑われた。 「琴美さんですか。ステキな名前ですね」 両目を細めるようにして、ミチコは笑う。心の芯の部分がこそばゆくなったような気がして、美智子もぎこちなく微笑する。 「琴美さんがクーポン配りを手伝ってくださったことは、部長にもちゃんと伝えておきます。それでは、私はこのへんで……」 「ちょっと待ってよ」 折り畳んだダンボールを小脇に抱え、人混みの中へ歩きだそうとするミチコを、美智子は呼びとめた。 「これから、もう仕事ないんでしょ」 あれだけ元気よく照りつけていた太陽もだいぶん西に傾き、アスファルトの色も淡いオレンジに変わっている。 「少しだけ、どこかで休んでいかない?」 「でも、いったん会社に戻らないと佐々木部長が……」 「大丈夫よ、そんなの」 と、美智子は顔の前で軽く手を振って、 「そんなことでゴチャゴチャ言う部長じゃないだろうから」 「うちの会社、知ってるんですか?」 「あっ、それはまあ……」 しまった。またしても余計なことを言ってしまった。何かうまい言い訳は……暑さの中、猛スピードで頭を回転させる。 「少し前まで、私もそこに勤めてたのよ」 よし、我ながら上出来だ。 「これから会社に戻っても、帰り支度をするだけでしょ。それに、あなた汗だくじゃない。コーヒー一杯飲んで帰ったって、バチはあたらないわ」 「でも、部長に何て言えば……」 こんな新人でも一応、上司には気を遣っているらしい。美智子の人生の中で、そんな純粋だった時代があったのだろうか。頭を回転させてみても、そんな記憶は出てこない。 「平気よ。そこまで心の狭い人じゃないわ。それに、万一何か言われたら、若い女の子を暑い中に放り出すほうが悪いんだって、堂々と言い返してやればいいじゃないの。化粧品会社なんて、どうせ女子のほうが強いんだから」 「……そうですね」 思い当たるふしがあるのだろう。ミチコは楽しげにニヤリと笑った。屈託のないその笑顔を見て、美智子ははっきりと自信を持った。 ――今日一日、林原琴美になれそうな気がする―― 十分後、二人は会社近くの公園のベンチに並んで座っていた。琴美としてはどこか涼しい喫茶店とかのほうがよかったのだけれど、それはあえて言わずにおくことにした。 ミチコがなぜこの公園を選んだのかは、すぐにわかった。昼休みや会社帰りなど、とにかく少しでも時間の空いた時にはこの公園にきて、ぼんやりと一人であれこれ考え事をするのだ。そして、照之からプロポーズをされたのも……。 「今日は本当に、ありがとうございました」 ようやく落ち着いてきた額の汗をハンカチで拭いながら、ミチコは言う。 「これ、開けていいですか」 「ええ、いいわよ」 琴美が頷くと、ミチコは握りしめていた缶コーヒーを開け、ぐびぐびと喉に流し込んだ。ここにくる途中、琴美が自販機で買ってあげたものだ。よほど喉がかわいていたのだろう。遠慮や恥じらいのないその清々しい仕種に、懐かしささえ込み上げる。 「私も飲んじゃうわね」 あまり意味のない断りを入れて、琴美も缶コーヒーを開けた。ミチコはミルク入りだが、こっちはブラックだ。決して短くはない時間を重ねると、人の好みはこんなにも変わるものなのか。 コーヒーを一口、喉の奥まで流し込む。心地良い清涼感とともに、舌を刺激する苦味が胃袋を駆けめぐる。この一瞬だけで、昼間のクーポン配りの疲れがすべて報われる。 「私って、OLに向いてないんですかねえ」 冷たいコーヒーを飲んで気分が落ち着いたのだろうか。同僚にしゃべりかけるようなトーンになって、ミチコは呟く。 「まわりよりも仕事のペースが遅くて、クーポン配りみたいな単純作業もまともにこなせなくて……こんな人間、どこから見てもダメ人間ですよね」 「そんなことはないわ」 ごく自然に、口調が強くなった。目の前のミチコを否定することはそのまま、現在の自分自身を否定することにつながる。そんな思いも、もちろんあった。けれど、そうした理屈とはまた別に、今、すぐそばにいる若い女子を、一人の先輩として少しでも勇気づけたいという気持ちがあった。劣等感を抱いている彼女にとって、そんなものは気休めにさえならないかもしれないけれど。 「今日のあなたは、よく頑張ったわよ。季節は真夏で、これだけの炎天下なんだし。集中力がなくなるのも無理はないわ」 「でも、朝から半日同じ場所でねばって、たったの二枚しか配れなかったんですよ。琴美さんが私の上司でも、同じように慰めてくれますか」 「それは……」 琴美は言葉に詰まった。動揺を悟られまいとする努力すらできなかった。上司の立場だったら、まず間違いなくミチコを叱るだろう。そのことだけで彼女の能力を見限ることはないにしても、イヤミのひとつぐらいはぶつけるに違いない。むしろ、そっちのほうが自然だ。 「それに、私が仕事に集中できないのは、暑さのせいばかりではないんです……」 しょんぼりと肩をすくめて、伏し目がちにミチコは言う。部長から叱られる時も、きっと同じような表情を浮かべるのだろう。 「……明日、プロポーズされるんです」 ぽつりと呟いてから、こらえきれなくなったように、ミチコはふっと、唇の端から微笑を洩らす。 「特に根拠はないけれど、何だかそんな気がするんです。プロポーズされるなら、明日しかないだろうなって……」 「その彼って、もしかして……」 琴美は慎重に間を置いてから、 「あなたと同じ会社の人?」 「よくわかりましたね」 わかりやすく、ミチコは目を丸くした。こういう素直さは、若さの特権だ。 「ひょっとして琴美さんも経験アリとか……」 「ち、違うわよ」 不意に話の矛先を向けられて、琴美はわけもなく焦った。暑さのせいばかりではなく、顔がやけに火照ってくる。あながち間違っているわけではないのだから、ムキになって否定することもないのだが、自分自身にからかわれているのかと思うと、あまり良い気分ではない。 「いい人なんですよね、彼。照之さんっていうんですけど……」 今は自分の幸せで精一杯なのか、ミチコは缶コーヒーを両手に握りしめて、うっとりと妄想モードに入った。 「彼は基本的に不器用なんですけど、どこかにさりげない優しさがあって……」 あの頃の自分は、確かに幸せだった……照之の優しさについてとろけるような笑顔で語るミチコを見るうちに、心の奥に鍵をかけてしまいこんだはずの甘酸っぱい記憶が、ふとよみがえる。彼女のその後の人生を知っている琴美には、はっきりと断言できる。 ミチコは今、幸せのピークなのだ。たいした苦労もせずに入った化粧品会社で生涯のパートナーと出会い、普段から慣れ親しんだ公園でプロポーズされ、そのまま結婚……いや、待てよ。ミチコの話は、何かがおかしい。どこかが微妙にずれている。プロポーズは確か……えっ、明日? 「彼、ミルクをたっぷり入れたコーヒーが好きで……」 「ねえ、ちょっと待って」 「はい?」 せっかくのノロケ話を強引にさえぎられたのが不満なのか。あるいは琴美の顔がよほどこわかったのか。ミチコは泣きそうな顔で向き直った。 「今日って、何日?」 「今日、ですか」 ミチコは一瞬、キョトンとした表情になって、 「今日は確か、7月2日のはずですけど」 「7月2日?」 素っ頓狂な声で、琴美は聞き返した。その勢いであやうくベンチから立ち上がりそうになるほどだった。 「ってことは、今は7月2日の……」 「午後四時四十五分ですね」 琴美の聞きたいことを察したのだろう。ミチコは腕時計をちらっと確認して、言った。 「あの野郎ォ……!」 「どうかされたんですか」 いよいよ怯えた顔になって、ミチコは琴美をじっと見つめる。押し殺したはずの心の声が聞こえてしまったらしい。 「あなたには関係ないことなんだけど……あの、ちょっと待っててくれる?」 取り繕うように笑うと、琴美はベンチからぎこちなく腰を浮かした。 「用事があるなら、会社に戻ってもいいから」 早口にそれだけ言うと、琴美は公園を出た。 目指すは、公衆電話だ。溜まりに溜まった鬱憤を、あのエセ科学者に思いきりぶちまけてやらなければ。西園寺とかいうあの男は、人生の救世主などではなかった。他人の時間を好きなようにもてあそぶ、ろくでなしのペテン師だ。 電話ボックスは、すぐに見つかった。公園にくるまでにも、片手で数え切れないぐらいは電話ボックスを見たような気がする。時代の違いは、いたるところに詰まっているのだ。 テレフォンカードを投入口に差し入れ、受話器を耳にあてる。 (80) カードの度数が赤い文字で表示される。まったく、どうしてこんな中途半端な度数なのよ。科学の力を駆使すれば、無制限に使えるテレカぐらい、簡単につくれるでしょうに――西園寺への不満が、とめどなく込み上げてくる。いったんは信じかけた分だけ、その恨みは強い。 番号は押さなくてもいい……西園寺の言う通り、すぐに通話音が聞こえてきた。 「はい、もしもし」 エセ科学者の妙に間延びした声が、受話器を通して伝わる。こちらの危機感などお構いなしの能天気さに、余計にストレスが増幅する。 「ちょっと、どういうことよ」 くどくど説明するのも面倒なので、必要最低限の言葉だけを発することにした。それだけで、すべての状況が伝わるはずだった。 「どういうことって……もしかして、タイムスリップができなかったのですか」 「タイムスリップはできたわよ。1996年の、7月2日にね」 「1996年、7月2日……」 西園寺はもう一度、噛みしめるように繰り返した。それからカタカタという、キーボードをたたくような音が薄く聞こえてきた。パソコンをいじって、自分のミスを確認しているのだろうか。 そのカタカタが鳴りやんだ頃、西園寺がちいさく、なるほど、と呟いた。 「ちょっとだけ、ずれたんですね」 「ずれたって、何が」 「ワープポイントですよ」 落ち着き払ったトーンで、西園寺は言う。 「本来目的としていたタイムゾーンよりも、実際の着地点がずれてしまったんです。時流の関係でしょうかね」 「だから、どうしてくれるのよ」 まわりくどい物理講釈なんか、もううんざりだ。そんなことはどうでもいいから、さっさともとの世界に戻してほしい。 「私、言ったわよね。プロポーズされたのは7月4日の午前3時だって。ってことは、3日の夜11時ぐらいにタイムワープすれば充分じゃないの。こんなに早くからこっちの世界でウロウロしたって、どうしろっていうのよ」 「川端美智子さんには、もう会えたのですか」 「一応、会えたわよ」 「ということは、ワープポイントのずれは日付だけで、場所に関しては正確だったわけですね。そういうことでしたら、特に心配はありません。タイムワープにおいては、よくあることです」 「よくあることって、あんたねえ……」 「今から別の任務がありますので、このへんで失礼します。あまりむやみに電話をかけると、あっという間に度数がなくなりますよ」 「西園寺ィ!」 最後の怒声はおそらく、むこうには届かなかっただろう。琴美が息を吐きだそうとするのと同時に、受話器から無機質な機械音が流れていたのだから。 度数表示は、(30)になっていた。腹立たしさを通り越して、無色透明の疲労感が琴美の全身を駆けめぐる。 受話器を戻すと、投入口からテレカが戻されてくる。もう一度かけ直してやろうかと思ったが、やめておいた。そんなことをしても、度数の無駄遣いになるだけだ。 テレカをポシェットにしまい、外に出ようとすると、ドアのすぐ前でミチコが立っていた。 「ずっとここで待ってたの?」 琴美が驚きを隠す余裕もなく尋ねると、ミチコは例によってペコンと頷いて、 「今から会社に戻ってささっと着替えてくるんで、それまで待っててもらえませんか。琴美さんにはもう少しだけ、話を聞いてもらいたくて」 「ええ、それはいいんだけど……」 願ってもない展開に内心でガッツポーズをとりながらも、琴美は一番気がかりなことを思い切って確認してみることにした。 「あなた……今の話、聞こえてなかったわよね?」 「はい!」 何の疑いもなく、ミチコは頷いた。 川端美智子の勤め先……「東和化粧品」は、琴美の記憶の中と同じ場所にあった。 けれど、微妙に雰囲気が違う。勤めていた頃はまわりもそれなりにオシャレで、そこそこのビルだと思っていたのに、よく見るとあちこちに亀裂が入っている。うちの会社って、こんなにボロかったっけ? 「帰り支度をすませてくるので、ここでちょっと待っててくださいね」 琴美をビルの前で待たせて、ミチコはいそいそと中へ入っていく。日暮れが近いとはいえ、まだまだ陽射しはきつい。物陰に入っても、額や首筋からは絶えず大粒の汗がふき出してくる。せっかくのワンピースも、襟元までぐっしょりだ。ジャージでも何でもいいから、早く楽な服装に着替えたかった。 オフィス街の人混みに、見覚えのある顔が紛れている。 いや、それどころではない。長身でサラサラヘアーの、どこまでもスキのイケメン。どれほどの時を重ねても決して記憶から消え去ることはないであろう、ほのかな想いを寄せた男……。 間違うはずがない。あれは確かに、小石川俊介だ。 仕事帰りなのだろうか。分厚いシステム手帳を片手に、どこか疲れた表情で雑踏に飲み込まれるようにして歩いている。右肩から重そうにさげているのは、当時少しだけ流行していたショルダーホン。これを持てば一人前の社会人になれるような気がして、誰にも内緒でコツコツ百円玉貯金をしてたっけ。結局、千円も貯まらないうちにPHSの時代がきて、貯金箱もいつの間にかどこかに消えてしまったけれど。 俊介は着実にビルに向かって、つまりは琴美のほうへと近づいてくる。別に何の関係もないとわかっていながらも、琴美はわけもなく胸が高鳴った。ワンピースの上からそっと両手をあてると、年甲斐もなく鼓動が速まっているのを感じる。これって、中年特有の動悸じゃないわよね。だって今は、二十代の体なんだもの。 俊介が、さらに近づいてくる。呼びとめれば、振り向いてくれそうな距離だ。 けれど琴美は、声をかけることができなかった。恥ずかしいわけではなかった。というよりもむしろ、諦めに近いのかもしれない。今さら勇気を振り絞ったところで、何も変わるはずないじゃないの。奇跡なんか起こるわけがない。少女マンガじゃあるまいし。 俊介はもう、そこにはいなかった。ビルの中に入ったのだろう。チャンスを逃した寂しさと同時に、どこかホッとする気持ちが胸に残る。交差点の角に、公衆電話があった。ケータイがないかわりに、この時代は電話ボックスには事欠かない。数少ないテレカの度数を費やして、もう一度西園寺に文句をぶつけてやろうかと思ったその時、ミチコがビルから出てきた。だが、彼女一人ではなかった。 ミチコの隣には、スーツ姿の中年オヤジが連れ立って歩いていた。その顔にも見覚えがあった。当たり前だ。OL時代にはほぼ毎日顔を突き合わせていた、佐々木部長なのだから。 「これがうちの部長です」 ミチコは簡潔に、佐々木部長を紹介した。 「おいおい、これって何だよ」 怒っているんだか困っているんだかわからないようなトーンで、部長は弱々しくツッコミを入れる。管理職らしからぬ威厳のないその態度も、今となっては懐かしい。 「昼間は、川端のクーポン配りを手伝ってくださったそうですね。本当にありがとうございます」 部長は丁寧過ぎるほど深くお辞儀をした。 「今日のこと、部長に全部話したんですよ」 「はあ……」 返すべき言葉が見つからず、琴美はただただ戸惑った。 「百枚以上もあるクーポンを、たったの三十分であっという間に配り終えてしまったそうですね。その手際はたいしたものだ。そこで、私のほうからひとつ御相談なのですが……」 部長はヒュッと、鼻をすすりあげるような仕種をした。面倒な雑用を部下に押しつける時のクセだ。 「明日も、クーポン配りを手伝っていただけませんでしょうか」 「えっ?」 琴美とミチコが、同時に声を上げた。けれど、部長は一人冷静に、 「こんなことを無関係の方にお願いするのは筋違いだと、我々ももちろん承知しております。ですから、いかがでしょう。明日一日だけ、臨時職員というかたちで協力していただくというのは……」 「もちろん、お引き受けいたします」 お断りさせていただきます……頭に浮かんだのと裏腹の言葉を、琴美は口にしていた。どうせ、明日(正確にはあさっての早朝)まではこの世界から出られないのだ。それまではどんな雑用だろうと、ヒマつぶしに何でもこなしてやる。 それに、琴美の脳裏には、あるひとつの作戦がひらめいていた。ミチコと小石川俊介をくっつける、効果的な作戦。そのためには、琴美自身が会社の内部に入り込むのが一番だ。 「本当によろしいのですか。うちからは謝礼もそれほど出せませんが……」 「ええ、まかせてください!」 根拠のない優越感を胸に、琴美は笑顔で頷いた。 部長の隣では、ミチコがなぜか不安そうな、困ったような顔をしていた。 ミチコの家もまた、琴美の記憶通りの場所にあった。地下鉄の駅から中途半端に距離の離れた、1Kしかない安アパート。油断しているとすぐにゴキブリが出て、つねにフマキラーが手放せなかった。そんなボロ家でも、十七年ぶりにきてみると、不思議な懐かしさがよみがえってくる。 「本当によかったんですかぁ?」 キッチンで来客用のコーヒーを淹れながら、ミチコが言う。佐々木部長の話をしているのだ。 「断りきれなくて仕方なく引き受けちゃったんだったら、別にいいんですよ。部長には、私のほうから伝えておきますから」 「いいのよ、気にしなくて」 それは本心だった。琴美自身、ひさしぶりに古巣の会社に足を踏み入れるのが楽しみでもあった。それに……琴美には胸に秘めたる、壮大な作戦があった。そのチャンスを見す見す潰されるわけにはいかない。 「ごめんなさいね、何から何まで」 「いいんですよ。これは私のお礼ですから」 ふたつのコーヒーカップをテーブルに置きながら、ミチコは落ち着いた微笑を返す。昼間はどこかあどけなさを感じたその笑顔も、今はやけに大人びて見える。 「これにケーキでもあればいいんですけどね」 「ここにくる途中に、どこかで買ってくればよかったわね」 「今から買ってきましょうか?」 「いいのよ、別に」 立ち上がりかけるミチコに、琴美は顔の前で手をひらひらと振った。ほぼ半日炎天下で動きまわったせいか、空腹感があまりわいてこない。それに、もうすぐ夕食の時間だ。 「あなたの上司、佐々木さんって言ったかしら。やさしそうな部長さんじゃない」 「そういう風に見えますか?」 ミチコはケラケラと笑って、コーヒーにミルクを入れる。 「悪い人じゃないんですけど、肝心なところでイマイチ頼りがいがないっていうか、リーダーシップに欠けるっていうか……」 ミチコのグチめいた話を聞いていて、琴美はあやうく吹き出しそうになった。琴美が当時佐々木に対して抱いていたイメージとぴったり重なっていたからだ。ミチコは琴美自身なのだから当然といえば当然なのだが、こうしてあらためて部長のイメージを聞くと、どうしてもおかしさがたえられない。 「確かに、そういうところはありそうね」 とりあえず、ミチコに同調しておくことにした。彼女のグチをもっと引き出したいという好奇心が、琴美から疲れを消し去っていた。十七年の時空を超えた、二人きりのガールズ・トーク。 「琴美さんになら、何でも話せそうな気がする……」 その言葉通り、ミチコは仕事のグチからプライベートな話、恋愛での悩み事まで、ぽつりぽつりと、溜まっていたものをひとつずつ吐き出すように話しはじめた。琴美はもともと、他人のグチや悩み事を聞くのは苦手なタイプだったが、ミチコとのガールズ・トークはそれほど負担にならず、なぜだか気分が安らいだ。 「あら。もう、こんな時間だわ」 窓の外に目をやって、ミチコは苦笑まじりに言う。 すっかり、夜になっていた。濃紺の空には夕陽のかわりにほの白い三日月が浮かび、遠くに見える高層マンションには灯りがついている。 「よかったら夕御飯にしませんか。私、料理には自信あるんです」 「あなたが作るの?」 とっさに、言葉が口からこぼれ出てしまった。琴美の頭の中に、黄色い注意ランプが点滅する。 これは琴美自身がよく知っていることなのだが……当時のミチコは、恐ろしく下手なのである。お世辞にも料理上手とは言えない。何せ、玉子焼きさえ満足に作れず、照之から毎日のように呆れられたのだから。十七年経っても料理は得意とは言えないが、目の前のミチコよりは上達していると思う。 「気持ちはうれしいのよ。でも、知り合ったばかりの人に料理を作ってもらうっていうのはちょっと……あっ、そうだ」 しどろもどろになるうちに、アイディアがひらめいた。歳をとるということは、急場しのぎがうまくなることでもある。 「何か簡単に、レンジでチンするだけで食べれるようなものがあるといいんだけど……たとえば、ピザとか」 琴美は、すべてを見越していた。会社員時代は、仕事で帰りが遅くなった時のために、冷凍ピザを何枚か冷蔵庫に常備しておいたのだ。 「ピザなら、ありますよ」 ビンゴ! 琴美の記憶は、ここでも正しかった。 「2枚で足りますかね?」 冷蔵庫を開けて、ミチコが聞く。 「3枚開けちゃえば?」 すっかりくつろいだ気分になって、琴美はこたえる。本当は2枚で充分な気がしたのだが、ミチコは今日一日立ちっぱなしだったので、お腹が空いているかもしれない。 「足りなかったら言ってくださいね」 ピッ、というレンジの音が聞こえた。 知らないうちに、汗をかいていた。熱いコーヒーを飲んだせいだろうか。 クーラーのリモコンに手をのばして、琴美はここが自分の家ではないことを思い出した。確かに住み慣れた部屋ではあるが、今はミチコの部屋だ。 けれど、もうどうでもよくなっていた。そんな理屈はどうでもいい。何よりも先に、暑いのだ。ここまできたらもう、この部屋は我が家同然だ。 「あーっ、ちょっと!」 クーラーをつけた瞬間、ミチコが必死の形相でキッチンから飛んできた。彼女は琴美からリモコンをひったくると、つけたばかりのクーラーを切って、(ふう、あぶなかった)と言った。 「この家、アンペア数が低いんです。だから、クーラーとレンジを同時につけると、あっという間にブレーカーが落ちちゃうんです」 言われてはじめて、思い出した。この家は家賃が高いわりにアンペア数が極端に低く、少しでも油断するとブレーカーが容赦なく落ちてしまうのだ。こんなアパートでよく苦情が出ないよなと、他に行くところもない自分を棚に上げて不思議に思ったものだ。しまいにはブレーカーが落ちるのを恐れて風呂上がりに真っ暗な中でドライヤーをかけていたという怪談じみた苦労話も、今となってはいい思い出である。 ブレーカー騒動の間にピザが焼け、ふたりはちいさいテーブルをかこんだ。 「今日は本当に、ありがとうございました」 美智子は律儀にも、もう一度きちんと頭を下げた。琴美のほうが申し訳ないと恐縮してしまうくらいに。 「たいしたことないわよ、あれくらい」 それは、琴美の本心だった。新商品のクーポン配りぐらい、新人時代にはそれこそうんざりするほどやらされたから、コツは充分すぎるほど心得ている。それに、多少辛い思いをして美智子に恩を売っておいたほうが、後々のためでもあるのだ。 「でも、炎天下のクーポン配りは、若い女の子にはちょっときついかもね。あんなこと、毎日やらされてるの?」 「(新人時代の苦労は貴重な財産だ!)っていうのが、係長の口癖なんですよ。毎日じゃないんですけど、本当なら先輩たちがやるべきような仕事も、押しつけられたりするんです」 「あら、それは大変ね」 仕事のほうに話題を持っていくと、美智子はすごく楽しそうに、リズムよく話しはじめた。琴美としての本題は別のところにあるのだけれど、それは後の楽しみにとっておく。まあ、今は助走段階だ。 「いい人そうじゃない、あの係長さん」 「セクハラとかもありませんし、悪い人じゃないんですけど、時々やる気が空回りするようなところがあって……」 アルコールがまわってきたのか、ミチコは大分饒舌になっている。 係長の人物評価については、琴美も同意するところだ。琴美の中の彼は、女たちの花園にぽつりと放り込まれて、ただひたすら肩身がせまそうにデスクにへばりついているイメージしかない。照之と二人して身を縮こませている姿が頭に浮かび、琴美は思わず、飲んでいたビールを吹き出しそうになった。 それから二人はピザを食べながら、当たり障りのないことで盛り上がった。仕事のこと、プライベートのこと、将来について……美智子の話に相槌をうっているうちにあっという間に時間が過ぎて、ビールを四本も空けてしまった。内容も目的もない会話をこれだけ続けたのは何年ぶりだろう。ただ話をするだけでもそれなりのエネルギーがいるということを、琴美はあらためて知った。アバターを借りたことで、体だけでなく、心まで若返ったのかもしれない。 「……会社で、誰か気になってる人はいるの?」 キッチンへ新しいビールを取りに行く美智子の背中に、琴美は聞いてみた。本題に踏み込むなら今しかない。窓の外はもうすっかり暗くなり、まばらな街灯の灯りだけがアスファルトをそっと照らしている。 「気になってる人、ですかぁ?」 六本の缶ビールを両手に抱えながら、おどけた調子で美智子は言う。 「ビール、このくらいで足りるかな」 「もう充分でしょ」 テーブルには空になったビールと、美智子が冷蔵庫から持ってきた新しいビールが置かれている。ガールズトークに夢中になっているうちに、二人でこれだけ飲んだのか。っていうか、美智子のほうが一本多い? 「それで、どうなのよ。20代の若い女の子だから、恋心のひとつやふたつはあるでしょうよ」 冷やかしまじりに促すと、美智子はわかりやすくモジモジして、両方の頬を赤らめた。自分にもこんなに純情可憐な時代があったのだと思うと、琴美の胸にどこかやるせない思いが広がる。 ビールが、やけに苦く感じた。 「気になってる人っていうか、あの……その……」 いかに酔った勢いといえども、さすがに本命の男を打ち明けるのは抵抗があるのだろう。目の前にいるのは一応、初対面の相手なのだから。 美智子のバリアをさらに破るために、琴美はあえて、核心的な質問をぶつけることにした。 「夕方、あなたはあの公園で、(明日、プロポーズされるような気がする)って言ったわよね。あれ、どういう意味だったの?」 「そんなこと、本当に聞きたいんですか」 美智子の声のトーンがほんの少しだけ硬くなったように、琴美には感じられた。焦りすぎて、逆に警戒心を抱かせてしまったのかもしれない。 けれど、美智子はすぐに(プロポーズかあ)と、遠い目つきをして表情をやわらげると、 「実は、会社の中に一人だけ、私に対してやけに優しくしてくれる人がいるんです。井崎照之さん、っていうんですけど……」 「その人から明日、プロポーズされそうな予感がするわけね」 「……まあ、そういうことになりますかね」 何だか、聞いている琴美のほうまで気恥ずかしくなってしまいそうな雰囲気だった。顔の火照りをおさえようと、まだ空いていないビールを一気飲みする。すっかり、ぬるくなっていた。 「その照之って人とは、何度かデートとかしたの」 「デートっていうか、三回ぐらい食事に誘われただけなんですけど……」 美智子はそれから、照之との出会いから現在にいたるいきさつについて、時折はにかみながら話しはじめた。知っている話を長々と聞かされるのは正直かったるかったが、黙って聞いているより仕方がない。それに、照之について頬を染めながら話して聞かせる美智子は初々しく、ほんの少しだけ、懐かしくもあった。 「それで、明日の夜、照之さんからあの公園に呼び出されてるんです」 「あの公園って、夕方二人で寄った公園ね」 そうです……美智子はこくりとうなずいた。 「やっぱり、緊張しちゃいますよね。明日の今頃はプロポーズされてるんだって思うと、何だか仕事が手につかなくなって……」 「ねえ、ちょっと待って」 夢見心地の美智子の話を、琴美は強引にさえぎった。美智子はピザをかじりながら、 「何ですか」 「照之とは、たったの三回食事に行っただけでしょ。それなのに、どうしてプロポーズされるってわかるのよ」 「だって、わざわざ仕事帰りに夜の公園に呼び出すんですよ。しかも二人きりで。どう考えても、これはプロポーズ以外にあり得ないじゃないですか」 「そりゃあ……まあね」 一点の曇りもないまっすぐな瞳で見つめられて、琴美はどぎまぎしてしまった。照之も、この純粋な瞳に惹かれたのだろうか。だとしたら、ちょっとだけうれしい。 「それから、照之さんのことを呼び捨てにしないでください。会ったこともないのに失礼ですよ」 「あっ、ごめんなさい」 しまった。つい、普段のクセが出てしまった。取り繕うように、琴美はビールを飲みほす。 「照之さんって、カッコイイの?」 「いや……正直、顔のほうは並ぐらいだと思います」 なぜか、琴美は安心した。ここでもし、(照之さんは最高にイケメンです!)なんて言おうものなら、今すぐにその赤く染まった頬をひっぱたいて、夢の世界からすくいだしてあげるところだった。いくら恋の熱に浮かされていても、最低限の冷静さはかろうじて残っているらしい。 「でも、ものすごく優しいんですよね。私がティッシュ配りで汗だくになって帰ってくると、さりげなく(暑かったね)って声をかけてくれたり、仕事でミスをして係長から怒られてる時も、私だけが悪いわけじゃないからって、一緒に責任を取ってくれたり……」 また、変なスイッチが入ってしまった。いったんこのモードに突入すると、しばらくはもとに戻せない。 「……ねっ、とっても優しい人でしょ?」 ひとしきりしゃべりまくって気がすんだのか、美智子は同意を求めてきた。話の半分以上は聞き流していたのだが、琴美はとりあえず、そうねと頷いておくことにした。 「それにしても、たった三回食事に行っただけでプロポーズしようなんて、ちょっと強引よね」 それは、琴美自身の不満でもあった。照之と食事に行ったのは、本当にその三回だけ。それも、高級レストランやオシャレなイタリアンなどではない。比較的仕事の少ない昼休みに、会社のすぐそばのファミレスでランチメニューを食べた。本当に、たったそれだけのこと。世間の常識では、それはデートとは呼ばない。つまり、照之とは実質的な交際期間がないまま、夫婦としての生活に突入したことになる。それなのになぜ、琴美があの夜プロポーズを受けたのか……それがわからないから、今こうしてタイムスリップをしているのである。 「それだけ誠実な人なんですよ、照之さんは」 「誠実ねえ……」 そこには大いなる誤解があると琴美は言いたかったが、ここは言葉を飲み込むことにした。幸せ絶頂の気分に、いたずらに水を差したくはない。 「他にいないの? あなたが心ひかれるような男子は。たとえば……仕事もバリバリこなす長身のイケメンとか」 美智子の目つきが、にわかに険しくなった。まずい、今度こそ本当に怒らせてしまった……。 「……イケメンって、どういう意味ですか」 「ああ、そういうことね」 またしてもケアレスミス。ここは1996年の東京。イケメンなんて言葉が通じるわけがない。 「要するに、ハンサムってことよ。ほら、一人ぐらいいるでしょ。それとも、あなたの部署は、男が二人しかいないの?」 「係長と照之さんのほかにもう一人、小石川さんって人がいるんですけど……」 そうそう、それよ! 思わず身を乗り出しそうになるのを、琴美は寸前のところでこらえた。 「あの人のことは、よくわかりません。確かに仕事はできるみたいですけど、何となく近寄りがたい感じがして。それに、私、顔で男性を判断しませんから」 「なるほど……」 あまりの模範解答に、返す言葉がなかった。彼女の心は、完全に、照之のほうに向いているのだろう。 だが、まだ希望はある。明日のクーポン配りで小石川俊介にうまいこと協力させ、二人をいい感じに近づければ、美智子の気持ちも変わるかもしれない。というより、ここまできたらやるしかないのだ。 琴美にもかなり、酔いがまわってきたらしい。うっすら感じる眠気の中で、ぼんやりと壁の時計を見上げる。 あと五分で、日付が変わる。タイムスリップも、いよいよ二日目というわけか。こっちにきてまだ半日しか経っていないというのに、その間にいろいろなことが起こりすぎて、十年分ぐらいの疲れが全身に溜まっている。今日は一晩、こっちの世界で夜を明かすことになる……。 ……待てよ。琴美の頭を、恐ろしい現実がよぎった。それは、缶ビール六本分の酔いをあっけなく消し去ってしまうほど強烈で、なおかつとんでもなく残酷な結論であった。 いや、そんなはずはない。若い女性を見知らぬ世界で野宿させるなんてことは、あの男が考えるわけがない。きっと、何か手立てがあるはずだ。最新の科学技術を駆使した、野宿を避けるためのうまい方法が……。 ほろ酔い気分はどこへやら。未だ夢見心地の美智子をよそに、琴美は勢いよく立ち上がった。 「琴美さん?」 「ちょっと用事を思い出したの!」 スカートの裾が乱れるのもお構いなしに、琴美はまっすぐ玄関へ。 勝手にドアを開け、外に出る。 「すぐに戻ってくるから……たぶん!」 一方的に言い置いて、琴美はマンションの通路をダッシュする。ハイヒールなんか、選ぶんじゃなかった。 向かう先は決まっている。琴美が頼れるのは、あいつしかいない。それはもう、屈辱的にくやしいけれど。 目的の電話ボックスは、すぐに見つかった。この時代の便利なところは、(公衆電話がどこにでもある)ことだ。 テレカを電話に差し込む前に、さりげなく度数を確認する。残りは、ちょうど30。油断していると、あっという間に使いきってしまう。少なくとも、長電話はできないだろう。 テレカが電話に飲み込まれて、琴美は受話器を耳にあてる。無意識のうちにダイヤルボタンに伸ばしかけた指を、短い苦笑とともに引っ込めた。番号なんか押さなくても、勝手につながるんだったわ……。 「何かトラブルでしょうか」 けっこうな長さの呼び出し音の後、あいつの声が聞こえた。 「私は、どこで寝ればいいのよ!」 琴美は、力のかぎりに怒鳴りつけた。その一言ですべてが通じるはずだった。 「タイムワープしたのが昼過ぎですから、そちらの世界ではもう、真夜中になっているはずですよね。っていうか、まだ起きてるんですか」 「起きてるに決まってるじゃないの!」 西園寺ののんきなトーンに、琴美のストレスはピークに達した。この男には、まわりをいらつかせる天性の才能があるのかもしれない。 「終電も過ぎちゃったし、タクシーを拾うお金もないわ。そもそも、今の私には帰れる場所なんてないのよ。まさか、この格好で野宿でもしろっていうわけ?」 「野宿なんかしなくても、泊まれる場所はすぐ近くにあるじゃないですか」 「はあっ? あんた、何言ってんのよ!」 琴美の頭に、あるひとつの単語が浮かんだ。カタカナ5文字の、ものすごくいかがわしい場所。 「20代の若い女が、一人でそんなところに泊まれるわけないじゃないのっ!」 20代という部分をやけに強調して、琴美はまくしたてた。誰が何と言おうと、この世界では若さ全開のOLなのだから。 「美智子さんが何を想像していらっしゃるのか、よくわからないのですが……」 「とにかく、泊まるところはあんたが何とかしてくれるんでしょうね。いったんそっちの世界に帰って、明日あらためてタイムスリップするとか」 「最初に御説明した通り、一度別の世界にタイムワープしたら、任務が終了するまで新たなワームホールは現れません。美智子さんには御主人のプロポーズを見届けるまで、そちらの世界で過ごしていただくことになります」 「ちょっと待ってよ……」 丁寧な言葉遣いで理路整然と説明されると、つい弱気になってしまう。 「ってことはやっぱり、私はこれから自力で泊まる場所を探さなきゃならないってわけ?」 「そういうことになりますね」 何という無責任。もとはと言えば、あんたがワープポイントを一日間違えたからこんなことになったんでしょうが。 「テレカの度数、大丈夫ですか」 「あっ……」 すっかり忘れていた。あわてて表示を確認すると、度数は今まさに10に切り替わるところだった。 「もういい。あんたにはこの先、何があっても頼らないから!」 ドラマばりに啖呵を切って、琴美は一方的に電話を切った。結局これといった進展はなく、度数の無駄遣いに終わってしまったことが、何とも腹立たしい。 もういい。こうなったら、自分で泊まるところを見つけてやるわ。今は真夏だから、いざとなったら野宿でも……。 電話ボックスの扉を開けようとして、琴美はちいさく、あっ、と叫んだ。 扉のすぐ前に、美智子が立っていたのである。 「どうしてここに……」 戸惑いがちに扉を開ける琴美に、美智子はにっこり微笑んで言った。 「琴美さん、シャワー、使いますよね?」 部屋に戻ると、琴美はたっぷり十五分かけてシャワーを浴びた。いくらなんでも図々しいのではという思いが一瞬よぎったが、昼間の汗を洗い流したいという誘惑には逆らえなかった。 脱衣場には、下着とパジャマが一組用意されていた。シャワーを浴びている間に、美智子が出しておいてくれたのだろう。 「本当に、泊まっちゃっていいの?」 電話ボックスから部屋までの道すがら、美智子はごく当たり前のように、 「今日、泊まっていってくれるんですよね?」 と琴美に聞いた。その時は冗談だろうと思ったのだが、こうして実際にパジャマまで用意されているということは、きっと本気なんだろう。 そう広くもない、いや、はっきり言えば窮屈なベッドに、琴美と美智子は並んで寝た。かつての自分と同じベッドで寝るのは不思議な気分だったが、昼間の疲れがどっと押し寄せたのだろう。美智子の寝息が聞こえる前に、琴美のほうが先に眠りに落ちた。 うすぼんやりとした暗闇の中で、琴美は目を覚ました。 ほんの一瞬だけ、ここがもとの、17年後の世界だったらと、琴美は期待した。けれど、見える景色は美智子の部屋そのもので、すぐ隣りからは彼女の静かな寝息が聞こえてくる。やっぱり、これは現実なのか。長い夢ではなかったのだ。 美智子を起こさないように注意しながら、琴美はトイレに行った。タイムスリップ先でトイレまで借りるのはさすがに図々しいような気もしたが、こればかりは我慢できない。 「うーん……」 トイレから戻ると、美智子が口もとをモゴモゴさせて、何かを呟いている。しまった、うっかり起こしちゃった? 「照之さん……」 何だ、まだ夢の中か。琴美は笑いをこらえるのに必死だった。寝ている時にまで照之のことを考えているのか。これは、相当重症だな。 琴美は幸せそうな微笑を時折浮かべながら、背中を丸めるようにして眠っている。 琴美も、いつしか笑顔になっていた。 昨日とまったく同じ場所で、クーポン配りは行われた。一晩寝たら記憶がリセットされてしまうのか、美智子は相変わらず、いや、昨日以上にたどたどしいペースでのんびりとクーポンを配っていった。 時折道行く人にぶつかり、持っているクーポンを地面にばらまいてしまう姿は何とももどかしいものだったが、琴美はあえて手を貸そうとはせず、自分のノルマをさっさとこなすことに専念した。ここですべてを手伝ってしまっては、それこそ作戦が台無しだ。 そのための伏線は、すでに張ってある。美智子に気づかれないうちに、さりげなく係長に頼んでおいたのだ。二人だけだとクーポン配りがはかどらないから、頃合いを見はからって応援をよこしてほしい、と。 女子社員は新商品のPRに駆り出される時間だろうから、応援となれば、必然的に男子社員ということになる。真昼の炎天下、小石川俊介と一緒になってクーポン配りをすれば自然に距離も縮まり、そのうちに恋心が芽生える……琴美は昔から、そういう計算には素早く頭がまわった。 交差点に立ちはじめてほぼ1時間。二人ともいい加減汗だくになってきた頃、ようやく応援がやってきた。これで作戦も次のステップに……琴美の内心のガッツポーズは、中途半端なかたちで終わった。 「やあやあ、遅くなってごめん」 現れたのは、照之だった。額の汗をハンカチで拭って、やる気満々といった様子で腕まくりまでしている。 「あっ、照之さん!」 照之を見て、美智子は途端に笑みを浮かべた。笑顔がはじける瞬間を、琴美は生まれてはじめて見たような気がした。 「応援にきてくれたのね。すごく助かるわ」 「とりあえず、何枚さばけばいい?」 「ちょっと……」 ダンボール箱からクーポンをごそっと取り出す照之のシャツの袖を、琴美は思わず軽くつかんだ。これでは、展開が違う。 「本当に、平気なんですか。お仕事、お忙しいんでしょう?」 「気にしないでください。ちょうど大きい商談がまとまって、一段落したところです。それに、これも仕事のうちですから」 照之は早くもクーポンをごっそり両手に抱えて、作業に取りかかっている。はつらつとしたその後ろ姿を見ながら、琴美はなおも首をかしげる。 (できれば、ハンサムな男子でお願いしますね) 応援を頼む時、係長に言い添えておいたのに。そう言っておけば当然、応援には小石川俊介のほうをよこすだろうと、琴美は計算していた。それなのに、この結果だ。係長が変に気をきかせて、あえて照之に応援を命じたとしか思えない。あるいは、係長から見れば本当に照之はイケメン……いや、その可能性はないだろうな。 照之の奮闘のおかげで、それから1時間ほどでクーポン配りは終わった。もっとも応援の意味はそれほどなく、クーポンの三分の二以上は琴美がさばいてしまったのだけれど。 「じゃあ、今夜九時にあの公園で」 別れ際に、照之は美智子に言った。美智子はほんのりと頬を染めて、(待ってます)とこたえる。 安っぽいトレンディドラマを見せられているようで、琴美は正直イライラした。今回は、思わぬ藪蛇になったかしら。だが、琴美はまだあきらめなかった。 まだ、最後の奥の手がある。 オフィスに戻ってからもまだ、美智子には一日の業務報告や書類整理が残っているようだったが、当人はまったくの上の空で、そのうちのどの作業にもまるで集中していなかった。その原因は、琴美にはわかる。いや、遠い目をして壁掛け時計ばかりを見つめ、十秒に一回の割合で夢見がちに溜め息をつく彼女を見れば、女心に鈍感な中年オヤジだって一瞬で気付くかもしれない。一方の照之に目をむけると、こっちはこっちで心ここにあらずといった具合らしく、書類に書き込んだ文字を何度も書き直したり、ペンや電卓を床に落としたりしている。 「今日は本当に、ありがとうございました!」 美智子を置いて、一人だけ部屋に帰るわけにはいかない。手持ち無沙汰なままオフィスをそれとなく観察していると、係長に強い力で両手を握りしめられた。背筋の曲がり具合は、きっかり45度。こういう律義さは、この人の美点である。 「うちの社員でもないのに、炎天下の中、クーポン配りを手伝っていただいて。あなたのおかげで、予定よりかなり早く配り終えたそうじゃないですか」 「いえ、たいしたことはしてませんから」 正真正銘の本音だった。炎天下でクーポンをさばくぐらい、琴美には何てこともない。それに、今回の協力には若干の下心があった。もっともそっちのほうは、美智子の純粋さによってあっけなく失敗に終わったけれど。 「できれば、ぜひ明日も……」 「それはお断りします」 琴美はきっぱりと言った。(作戦)が無事に成功したら、さっさともとの世界に戻るのだ。もしも万が一、照之のプロポーズをとめられなかったら? ……いや、今はそのことは考えないようにしよう。 そして、夜になった。 「彼、ちゃんときてくれるかな」 部屋に帰り、あざやかな花柄のワンピースに着替えて、不安げに美智子は言う。普段の生活では絶対に着ることのないであろう、よそ行きのワンピースだ。 「プロポーズ直前に不安になって、約束をすっぽかしたりして……」 「大丈夫よ、そんなことはないわ」 それだけは、はっきりと断言できる。何しろ琴美自身が、れっきとした歴史の証人なのだから。 「琴美さんに、お願いがあるんです」 と、美智子は急にあらたまった顔になって、 「プロポーズに付き添ってもらいたいんです」 「えっ?」 「その場にいてほしいとまでは言いません。それは照之さんも困るでしょうから。ただ、フェンスの向こう側とか、目立たない場所からそっと見守っていてほしいんです」 これはまたもや、予想外の展開だ。それも、琴美にとってはマイナスの意味で。 待ち合わせの前に照之を何とかしてつかまえ、今夜のプロポーズを思いとどまらせる。それが、琴美の(奥の手)であった。可能性がかぎりなくゼロに近いことは、琴美もわかっている。だが、ここまできてしまった以上、残された方法はこれしかないのだ。琴美は内心、覚悟を決めていた。 しかし、ここにきてこの展開である。琴美にずっとへばりついていたのでは、照之と接触するチャンスがないではないか。さて、どうするべきか……。 頭を瞬時に回転させて、琴美は決断した。 「わかった。あなたの言う通りにするわ。それで安心できるのなら」 「本当ですか!」 わかりやすく、美智子は目を輝かせた。こういう純粋さが、若さというものなのかもしれない。いや、美智子自身の美点というべきだろうか。 「じゃあ、今すぐ行きましょう!」 「えっ、今すぐに?」 素っ頓狂に聞き返す琴美をよそに、美智子は素早く部屋のカギをポーチにしまい、今にも飛び出ていきそうな勢い。 「だって、もう七時半ですよ!」 「いやいや、まだ七時半でしょうよ。約束の時間は九時だったわよね?」 ここから待ち合わせの公園は歩いて十分もかからない。十分前になってあわてて支度をしたとしても、ダッシュすれば間に合うはずだ。 「あなたは準備万端かもしれないけど、私はまだ着替えなきゃならないの。汗だくの服のままじゃ、気持ち悪いわ」 「それもそうですね」 美智子は一応こたえたが、心はもう完全に、プロポーズのほうに向いているのだろう。彼女はほんの数秒、考えるような仕種を見せて、 「じゃあ、先に公園へ向かってます。絶対に、ついてきてくださいね」 「はいはい、わかったわよ」 まったく、強引というか、心配性というか……。まあ、過去の自分なのだから、何も言えないのだけれど。 「本当に、ついてきてくださいね!」 念押しとばかりに言い置いて、美智子はバタンとドアを閉めて出ていった。ドタバタとした靴音が、廊下のかなり先のほうまで響いていた。 それから十分ほどかけて着替えをすませ、琴美は部屋を出た。本当は五分もしないうちに準備は終わっていたのだが、少しだけ美智子を突き放してみようという、意地悪な気持ちもはたらいていた。どうせ、しばらくは彼もこないのだ。 のんびりとした足取りで公園へと向かっていると、大きな道路をへだてた向こう側の歩道を、照之が走っていくのが見えた。 琴美は足をとめ、照之の姿を見つめた。なぜって、彼があせった表情で走る先は、公園とはまるで逆の方向だったのだから。 スーツの乱れも構わずに、ただ前方の一点だけを見つめて走りつづける照之を、琴美は追いかけた。これが、最後のチャンスかもしれない。もちろん、彼に気づかれないように。それだけは、注意しなければ。 金メダルを狙っているかのように全力で疾走する彼を追いかけるのは、琴美には至難の業だった。まして、今はハイヒールだ。あの人って、こんなに足が速かったっけ? それからさらに五分ばかり走りつづけた後、照之が吸い込まれるように入っていったのは、ごくありふれた花屋だった。 店の中までは入れないので、少し離れた物陰から様子を見ることにした。 十分、いや、十五分……待つのにもいい加減疲れてきた頃、ようやく照之が出てきた。店先まで見送りに出た店員に、浮かない表情でペコペコと頭を下げている。どうやら、さがしていた花がなかったらしい。 休む間もなく、照之は走りだした。もちろん、琴美も追いかける。 今度も、照之は花屋に入った。けれど、またしても目あての花が見つからないのか、しばらくすると何も持たずに店から出ていく。そして、休憩も取らずにまた走りだす……そんなことを繰り返すうちに、一時間が経った。照之のスーツは、すでにシワだらけ。琴美の体力も、もう限界だ。 それでも、琴美は走りつづけた。琴美だって、もういい加減に休みたい。けれど照之が立ちどまらないかぎり、休むわけにはいかないのだ。 なぜ、そこまでして照之を追いかけるのか。それは、自分でもわからない。ただ何となく、予感がするのだ。彼の向かう先には、何か大切なものが待っているような気がする。 だからこそ、琴美は走りつづけた。 夜も九時を過ぎると、あちこちの店が続々と店を閉めはじめる。シャッターが閉まるギリギリの花屋に駆けこんでは、店主に怒鳴られることもあった。 それでも、照之はあきらめない。 「彼女……美智子は、コスモスじゃないとダメなんだよぉ!」 店先で訴える照之の声が、物陰の琴美にも聞こえた。 そして、思い出した。 いつだったか、二人で昼食を食べた後、会社の植え込みのコスモスを見て、ぽつりと言ったのだ。 (大切な人からのプレゼントは、コスモスがいいなぁ) 特に、深い意味があったわけではない。けれど、照之はそれをずっと覚えていてくれたのだ。ミチコの何気ない一言を忘れないでいてくれて、そして、プロポーズの時にはコスモスをプレゼントしようと思って、こうして今、何軒もの花屋を駆けまわっているのだ。何もかも、ミチコのために。 今すぐにでも照之のもとに駆け寄って、(コスモスなんていらないよ)と、やさしく背中をさすってあげたかった。だが、そんなことをしても誰のためにもならない。はっきり言って、ただの自己満足だ。 最後まで、見届けよう。全身の疲れが心地良い充実感に変わっていくのを感じながら、琴美は思った。これから起こるすべてのことを、まっさらな気持ちで受け入れよう……。 それからも、照之は走りつづけた。ほとんどの花屋は、すでに閉まっていた。それでも、照之は汗だくになりながら、スーツのところどころをすりきれさせながら前に向かって走りつづけた。そもそも、こんな真夏にコスモスなんかをさがしまわるほうがおかしいかもしれない。けれど、照之のそんな的はずれな努力を笑う気持ちは、琴美にはなくなっていた。 不思議なことに、琴美は疲れを感じなくなっていた。ハイヒールはもう、とっくに脱ぎ捨てている。真夜中の大通りを裸足で疾走する女。はた目には妙に見えるかもしれないが、琴美は構わなかった。この期に及んで、まわりの視線を気にしている余裕はない。ブティックの中の時計をちらりと見ると、もう夜中の2時。かれこれ六時間近く、一輪のコスモスを求めて走りまわっていることになる。 照之の視線が、ふと上を向いた。その先をたどってみると、一軒の花屋があった。ちゃんと、明かりもついている。 照之は歩調を速めた。ぐんぐんスピードを上げて、花屋めがけて一直線に走っていく。琴美と照之の思いは、一致しているはずだった。 ――今度こそ、コスモスが手に入るかもしれない―― だが、花屋まで横断歩道を渡ればすぐというところまできた時、照之の足がとまった。表情に、落胆の色が浮かぶ。 目の前が、工事中だった。花屋まで行きたければ、もうひとつ先の信号を渡って、ぐるっと迂回しなければならない。その距離、ざっと500m。 琴美がふたたび走る準備を整えはじめた時、信じられないことが目の前で起こった。 (工事中)の立て看板を強引に乗り越えて、照之が無理矢理横断歩道を渡ろうとしたのである。 「何をやってるんだ!」 当然、すんなりと渡らせてくれるはずもない。三人の屈強なオジサンからブロックされて、照之はあっけなくもといた歩道にはね返されてしまった。かわいそうに、スーツも靴も泥だらけ。 照之は、立ち上がろうとしなかった。あまりの疲れと絶望感に、ふたたび走りだす気力も萎えてしまったのかもしれない。 溜め息をひとつついて、琴美は照之に歩み寄った。ギリギリまで迷ったが、結局は足のほうが先に動いていた。 「もうダメだ……もうダメだ……」 アスファルトにうずくまりながら、照之は呪文のように、半泣きの声でぶつぶつと繰り返している。 「何がダメなのよ」 琴美がまわりこんで声をかけると、照之ははっとしたように顔を上げた。 「コスモスが……見つからないんです」 親にしかられた子どものように、照之はぼそぼそと言った。 「このままじゃ、彼女との約束が……」 「なに弱気になってるのよ」 琴美はあえて、明るく笑い飛ばした。しめっぽくなるのは、性に合わない。 「プロポーズなんて、気持ちさえあれば伝わるものよ。どうしてもプレゼントが必要だったら……」 しばし考えた挙句、琴美は道路脇の植え込みのカスミソウを一本引き抜いて、 「これを持っていきなさい」 「いいんですか、そんなことして……」 「わかりゃしないわよ」 琴美は軽く笑って、カスミソウを照之の手に握らせた。 「さあ、早く行ってあげなさいよ」 「どうせ待ってませんよ、僕のことなんか。約束の時間より、もう五時間以上も遅れてるんですから」 「なに言ってるのよ、意気地なし!」 疲れているというのに、大声が出てしまった。 「女はねえ、この人だと決めた相手のためなら、何時間だって待てるものなの。とにかく、今すぐ公園に行きなさい!」 照之の返事を待たずに、琴美はきた道を引き返した。やるべきことは、まだまだあるのだ。 「あの……ちょっと」 遠慮がちな照之の声が聞こえて、琴美は振り返る。 「元気づけてくださり、ありがとうございます。でもどうして、僕がこれからプロポーズをするってわかったのですか。それに、待ち合わせの場所が公園だってことも……」 「見りゃわかるわよ、そのくらい」 できるだけ早口で言って、琴美は照之とは逆の方向に走りだした。 これ以上話すと、ボロが出ちゃいそう。 公園に戻ってきた頃には、もう3時近くになっていた。空も、少しずつ白みはじめている。 美智子は律儀にも、まだ公園にいた。照之のことが気になって仕方がないのか、時折公園の柱時計に目をやって、噴水のまわりを意味もなくウロウロしている。 一歩踏み出す前に、琴美はそっと、息をととのえる。高校の持久走並には体力を使ったはずなのに、不思議と疲れてはいない。むしろ、笑えるぐらいにスッキリした気分だ。 「照之さん……照之さん……」 冗談ではなく、今は照之のことで頭がいっぱいなのだろう。琴美がすぐそばまで近づいても、しばらくは例の呪文をぶつぶつと繰り返したまま、同じ場所をぐるぐると歩きまわっていた。琴美がその軌道上に立つと、美智子は何のためらいもなく、琴美にぶつかってきた。 「照之さん……あっ!」 ぶつかったショックで、ようやく我に返ったらしい。 「琴美さん、遅かったじゃないですか!」 「ごめん、ごめん。ちょっと、用事を思い出してたから」 とりあえず、謝っておくことにした。もろにぶつかられたせいで、鎖骨のあたりが妙に痛い。 「こんな時に用事って何なんですかぁ」 「わかったから、とりあえずこっちにきて」 なおも文句を言いたげな美智子を、琴美は人目につかない草むらに連れていった。万一、こんなところを照之に見られたら、それこそすべてが終わってしまう。 「ちょっと、どこ行くんですか。もし今、照之さんがきたら……」 「彼、まだきてないわよね?」 琴美が確認すると、美智子はちらっと噴水のほうに目をやって、(そうなんですけど……)と肩をすぼませた。 「実を言うと、自分でも不安なんですよね」 「不安って、何が?」 「本当に、約束をすっぽかされたような気がするんです。このままずっと待ってても、あの人はきてくれないんじゃないかって。もしかしたら私は、彼のことを本気で好きじゃないんじゃないかって……」 「なに言ってんのよ」 数時間前の琴美なら、この状況をチャンスだととらえたかもしれない。美智子にプロポーズを断らせる、最後にして最大のチャンス。こうして二人の間を引き裂いておいて、未来に戻ってまったく新しい人生を楽しむ。それが琴美にとってのハッピーエンド……。 けれど、今は違う。井崎照之は、ただただ純朴で、心から恋人を大切にする青年だった。今の琴美なら、はっきりと断言できる。 プロポーズを受ければ、美智子は絶対に幸せになれる……。 「好きだから、待ってるんでしょ」 琴美の一言に、美智子ははっとしたように顔を上げた。不安に押しつぶされそうだった表情が、徐々に明るく変わっていく。くすぶっていた夜空に、朝の陽射しが射し込むように。 「そうですよね……。好きだから、待てるんですよね」 いつしか、美智子はいつもの笑顔になっていた。 「彼を、とことん信じてあげなさい。彼の服装がヨレヨレかもしれないけど、それも許してあげるのよ」 「何ですか、それ」 「まあ、もうすぐわかるわよ」 ごく自然に、二人は笑い合った。 「それから……最後にもう一つ」 琴美はポシェットから、アメ玉の袋を取り出した。 「彼がくる直前に、これを一つなめるの。そうすれば気分が落ち着いて、何もかもうまくいくから」 「……これを、なめればいいんですね」 渡されたアメ玉を、美智子はてのひらに大事そうに握りしめた。 「もう、そろそろかな」 琴美はもう一度、柱時計を見た。2時55分。これでもう本当に、琴美の役目は終わりだ。 「さあ、行ってらっしゃい!」 美智子の肩をたたいて、琴美は公園へと送り出した。 美智子は不安げに振り返って、 「ちゃんと、見ててくれるんですよね?」 「大丈夫。最後までしっかり見届けるから」 ウソだった。そもそも、その必要はないだろう。美智子は自分自身で人生を切り開くことのできる、自立した女性だ。第一、プロポーズが終わるころには、彼女は琴美のことを、きれいさっぱり忘れているのだろう。そうなったら、琴美のほうが悲しくなる。 少し離れた交差点から、照之が決死の形相で走ってくる。シャツはヨレヨレ、おまけに靴は泥だらけ。せっかくのプロポーズなのだから、少しぐらい身なりをととのえればいいのに。……まあ、そこがあの人のいいところなのだけれど。 もう、大丈夫だ。美智子に気づかれないように、琴美はそっと公園を出た。 向かうべきところが、もう一つだけある。 公衆電話にテレカを差し込み、受話器を耳にあてる。 六回目のコールで、あいつの声が聞こえた。 「……任務、無事に終わったわよ」 いたって簡潔に、琴美は伝えた。度数は残り、(10)なのだ。無駄話をしている時間はない。 西園寺は、くぐもった声で(そうですか……)と呟いた後、 「こちらのタイムグラフでは、特に何事もなく時間が過ぎているように見えますけれど」 「いいのよ、それで」 琴美は、きっぱりと言い切った。本当に優秀な科学者なら、それだけですべてを察してくれるはずだった。 「任務が終わったんだから、さっさと未来に戻してちょうだい」 「かしこまりました。井崎様がそうおっしゃるのなら、もう一度タイムワープの準備のほうを……」 「ねえ、ちょっと待って」 西園寺の言葉を、琴美はあわててさえぎった。未来に戻ってしまったら、この妙な科学者とも二度と会えなくなるかもしれない。その前に、どうしても聞いておきたいことがあった。 「最初から、全部わかってたんじゃないの? タイムワープしたら私の気持ちが変わって、結局プロポーズはとめられないってことも。プロポーズの前日にワープしたのも、本当はただのミスじゃなくて……」 「おっしゃっている意味が、よくわかりませんが」 あきれるぐらいに落ち着いたトーンで、西園寺は言った。 「だから、私が言いたいのは……」 「さあ、そろそろ時間ですよ」 琴美の言葉を、西園寺は強引にさえぎった。 まったく、こっちはまだしゃべってるっていうのに。最後の最後まで、自分勝手なやつなんだから。 「タイムワープの準備はよろしいですか」 「今からワープしちゃうの? でも、一体どうやって……」 「ご安心ください。美智子さんはそこでじっとしていれば……」 西園寺が言い終わらないうちに、電話ボックスの四方の壁が白っぽいベールに包まれはじめた。電話がガタガタと小刻みに音をたて、ゴォーッという鈍い轟音がボックスの中に充満する。もしかしてこれは……時流音? 電話ボックスと一緒に、琴美の視界も白いもやに包まれた。それと同時に、だんだんに意識が遠のいていって……。 気がつくと、琴美は薄闇の中にいた。ゆっくりと目を開けると、透明のガラスが目に映った。それに、頭のすぐ上には緑色の電話。つまり、ここは電話ボックスだ。 タイムワープなんか、してないじゃないの。電話ボックスのガラスにはがっかりした表情の疲れきったオバサンが……えっ、オバサン? もう一度、今度はよく目をこらして、ガラスにうっすらとうつる自分を観察する。時代遅れのソバージュに、日々の疲れが感じられるやや面長の顔。それに、年相応の目元のシワ……。今、目の前にいるのは間違いなく、井崎美智子そのものだ。 タイムワープ、できたんだ……白いもやが消えかかった頭で、美智子は喜びを噛みしめる。私、もとの世界に戻れたんだ! 服装も、あの日のまま。ちょっぴり季節はずれの、クリーム色の落ち着いたワンピース。束の間の若さを失ったのはくやしいけれど、やっぱり、この体が一番しっくりくる。 電話ボックスのドアを開けて、ふと不安がよぎる。 ここは一体、どこだろう。目の前にはありきたりの道路が続いているけれど、見覚えがない。電話ボックスのすぐ左には、何やら古めかしいレストラン。やっぱり、見覚えがない。西園寺のやつ、もしかしてまたワープポイントを間違えたとか? いや、ちょっと待って。ずっと昔、このあたりを歩いたような気もする。照之と出会ったばかりの、今よりももっと若かった頃……。 遠い薄闇の中に、静かな靴音が聞こえる。一歩一歩、足もとを確かめるような靴音。この歩き方はもしかして……。 ドンピシャリ! 美智子の思った通り、歩いてきたのは照之だった。でも……どうして? 「あなた……」 「ちゃんと、きてくれたんだね」 照れくささを無理矢理押し込めたような顔で、照之は言った。 「ケータイに留守電を入れておいたんだけど、きてくれるかどうか不安だったんだ」 やっと、思い出した。結婚してはじめての結婚記念日に、一度だけ、照之とこのレストランにきたことがある。今日と同じ、静かで落ち着いた夜だった。 「ここ、予約するの大変だったんだぞ」 「予約って……」 その一瞬で、美智子はすべてを理解した。 ちゃんと覚えていてくれたのだ。そのうえで、照之はあえて、素っ気ない態度を取っていたのだ。ゴルフに行くというのも、照之なりの精一杯の嘘なのだろう。その理由はただひとつ。不器用で、素直じゃない人だから。 「さあ、行こうか。予約時間が迫ってる」 「でも、大丈夫かしら。こんな恰好できちゃったけど……」 「大丈夫、すごく似合ってるよ」 「もう……」 いつもなら素っ気なくあしらうところだが、今はやめておくことにした。今日はもう少しだけ、タイムスリップをすることにしよう。お互いにまだ純粋だった新婚時代に。時計の針は、もう巻き戻っているのだから。 ほのかな月明かりの下、二人はそっと、手をつないで歩きだした。 |
家達写六
2014年02月13日(木) 13時56分47秒 公開 ■この作品の著作権は家達写六さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.5 青空 評価:50点 ■2016-01-19 23:05 ID:fH7ZN1q52oE | |||||
(−−;良い意味で、甘いスイートチョコレートを大量に食べてしまったような小説ですね。 プロポーズ前日大作戦というプロセスを通して、主人公の行動のイロハがどうなっていくのかが見所でした。世の人が見て、ちょっとしたパラレルワールドを堪能できるのではないかと思いました。 また、疲れたときに見ると爽快な気分になる小説だと思います。 |
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No.4 家達写六 評価:--点 ■2014-02-16 13:19 ID:0H/tY0Rvzkg | |||||
いきなりの最高得点! 本当にありがとうございます。読みやすさをほめていただけるのは、物書きとしてとてもうれしいことです。 | |||||
No.3 ムー 評価:50点 ■2014-02-15 21:28 ID:rXOqfmnYhQQ | |||||
初めまして。読ませて頂きました。 一文一文が丁度いい長さでとても読みやすかったです。各所に入る比喩も的確で、映像が浮かんでくるようでした。文章量は多いのに、楽々最後まで読み進めることが出来ました。文章力に敬服する思いです。 多分プロポーズはそのまま成功させることになるんだろうな、と思いつつも、最後の展開までは予想できませんでした。カスミソウの伏線に感動しました。 面白かったです。ありがとうございました。 |
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No.2 家達写六 評価:--点 ■2014-02-14 09:40 ID:0H/tY0Rvzkg | |||||
御感想、ありがとうございました。 主婦のタイムスリップだけじゃ、やっぱり、オリジナリティにはなりませんか。お恥ずかしいかぎりです。 次回作にご期待ください。 |
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No.1 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:30点 ■2014-02-13 22:50 ID:2yvcLrrqfRc | |||||
こんにちは。初めまして。読ませていただきました。 文全体の流れは自然で読みやすかったです。つっかえることも読み返し読み返しする必要もなく、すんなりいけました。 ただ、テーマがありふれすぎていたがためか、展開が先読みできてしまい、エンタテイメント性に欠ける印象です。ありふれたものを新鮮に感じさせることは、非常に難しいことです。テーマにオリジナリティを感じさせられれば、もっと素敵な作品になったんじゃあないかなと思いました。 次回作に期待を込めて。 すみません。ありがとうございました。 |
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