憑キ物落トシ |
――ああ、まただ。動かない。全く。 私は唯一自由の届く瞼をきつく閉じ、それがおさまるのをただひたすらに待ち続けた。1時間? それとも3時間? はかれない時の経過を、闇の景色の中でわずかでも加速することを祈る。 「ア……アア」 来た。 来てしまった。 「…………ぁアぁぁヴァ」 加速する鼓動に触発されるように、込み上げる恐怖は私を犯していく。空気が変わった。『アレ』が、すぐ側にいる。不意に質の違う、冷たいような生あたたかいような、そんな淀んだ粘着質の風が、私の前髪をわずかばかり動かした。……肉の焼けた臭いがする。本能的に、アレの吐息だと理解した。額にのっぺりと、湿った髪が数本垂れかかる。 厭な圧力が、私の顔面に押し寄せた。 私は全力で目を開けない努力をした。故に、視界は全くの闇。で、あるにも関わらずその闇のずっと遠くから、厄介な想像力が、拒絶する存在を透写し始めてしまう。それは本当に、本当に、厭なものだった。まるで見えているかのように存在感があり、生々しく、本当に、そこに――……。目の前ににいるかのようだった。 私は気が触れるという感覚を瞬間的に理解した。 「いや……厭厭厭厭厭厭」 動かぬ口に代わって、脳内で機械のように同じ言葉を連呼する。 処刑間近の死刑囚ような心地だった。 そして新しく理解する。 想像の作り出したはずのモノの髪が私の目に触れ、反射的に瞬きをしてしまったのだ。 ――待って。 ――なぜ、触れる? こんなにも見ない努力をしているというのに。 ――答えは、ひとつだ。 ずっと、私は目を開けていたのだ。……いや、それも少し違う。 体温の無い、奴のどす黒い指が、力ずくで私の瞼を抉じ開けていたのだ。ずっと、ずっと前から――――。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 怜二の唾が喉を通り抜ける音が、私の耳に届いた。 「笑えないね」 「……うん」 「それが昨日のこと?」 「でも、もっと前からこういうのはよくあって……」 「なんでもっと早くから言わなかったんだよ」 「だって、怜二に嫌われちゃうかなって思って」 「夕浬、今すぐにでもお寺とか、そういう所でお祓い受けてみよう」 「え、でも3限目の授業は」 「心理学だろ? あんなのは関係ないよ、それよりこっちだ」 金縛りにあったり、道端で『変なモノ』を見たり。そんなことは今まで何度もあった。 しかし、その時の友人は誰も信じてくれなかったし、目に見えて気持ち悪く思う人もいた。それでも、事態が事態なだけに吐き出さずにはいられなかった。昨日の様子だと次には私がどうなるか考えただけでも震えてしまう。 怜二が理解してくれる人で、素直に嬉しかった。 「……ほら、近くに厄除けとかお祓いでちょっと有名な寺があるだろ?」 「ああ、環流寺! あそこ前に都内の廃墟ビルのお払い成功したとかで話題になってたね」 「あんまり距離もないし、そこでお願いしてみよう」 私は、都内の賃貸マンションで一人暮らしをしている。見た目がシックで好みだったので、少し背伸びをして選んだ住まいだった。母からの仕送りと週四日のバイトでなんとか切り盛りしているわけで、いますぐに場所を移すなんてことはできない。大学もあと二年も通い続けなければならない。一刻も早く解決してしまいたい。――あんなのは、もう二度とごめんだ。 私は、怜二の車に乗り、シートベルトをつける。怜二は神妙な面持ちで、黒染めしたばかりの、無造作な髪を少し掻くと、キーを回しエンジンをかけた。 「俺は大丈夫だからさ、ちゃんと相談しろって」 「うん、ごめん」 怜二は大学のひとつ上の秀才で、映像研究サークルで知り合った。怜二は付き合った当初から私のことを妹のようだと言っていて、些細なことであっても、何かあるとすぐに相談に乗ってくれた。それでもいきなり話すのには抵抗があったし、本当はまず友人の柚子に相談しようと思っていた。しかし、こういうときに限って都合が合わず、今日は大学には来ていなかった。 以前、柚子に知り合いに「そういうもの」関係の仕事をしている人がいると聞いていたのだが、正直どこで受けるべきなのかとか、私にはそういう専門的な判断は出来ないし、そもそも人に打ち明けたいことがなかった。 キャンパスを出てから、30分くらい走ったところで、目的の寺に到着した。 「ここか」 「なんていうか――とにかくすごい歴史あります、って感じだね」 「ああ、とりあえず境内に入るか」 私達は近くの道路に車を停めると、苔の生えた石の階段を登り、境内へと入る。ところどころに今にも崩れそうな小さいお地蔵さんが点々と列をなし、その全てが私達を見ているかのような錯覚に陥る。 境内への扉は開いており、もう大晦日の準備を始めているのか、おみくじやお参りのお店らしきものがちらほら出来ていた。広さはざっと小さい野球グラウンドくらいはあるだろうか。 「お参りですか?」 バイトの人だろうか、若い巫女さんが私達に声をかける。 「あ、いや、ちょっと、住職さんに相談したいことがありまして……」 「……はい。承りました。では、こちらで少々お待ちください」 巫女さんは視線をやや下げながら私達を一瞥すると、丁寧に私達を奥へ導く。 「なんか、慣れてる感じだね……」 「そうだな」 靴を脱ぎ、紫色の座布団に腰を下ろす。 縁側に似た廊下で待っていると、5分程でそれらしい人が現れた。 「……環流寺住職の安田弥太郎と申します」 体格がよく、太っているというよりはがっしりしている。眼鏡をかけたなんとも貫禄のあるお坊さんだった。線香のほのかな香りと、紫の衣を身に纏っている。おもわず私は、その雰囲気だけで救われたような気分になってしまう。 「して、どのようなご用件で? ……だいたいは察しがついておりますが」 「はい、その、お祓いを頼みたくて」 怜二がなんとも切り出しにくそうにそう言うと、安田さんは静かにうなずきはじめる。 「……………………うん、うん」 「はい?」 「そちらのお嬢さん、だいぶ絞り取られていますなぁ……。あんまり長く放っておくと危ないかもしれませんね」 「え……あ、はいっ、そうなんです。 実は私のマンションで……」 「まぁ、どうぞお座りになってください」 図星を突かれ、私はおもわず体を起こしてしまっていた。 「すみません」 「……では、私への依頼は『仏滅』でよろしいですね?」 「ぶつめつ?」 「ええ、人に仇なすモノを祓い、滅し、浄土へ導く。それが仏滅です」 「はい、どうかよろしくお願いします……」 「御代などはお気持ちの程で結構です。お金の為にやっている仕事ではありませんので」 「あ、いえ、そんな。ありがとうございます」 「……では、今から少しそのお部屋を見せていただいてもよろしいですかな?」 「はい」 「少々支度がありますので、お待ちください」 笑顔で去る安田さんからは、安堵という名の光が凛々と差し込んでいる。私は胸を撫で下ろすと、内につかていた不安が少しずつ解けていくのを感じた。 しかし。車を降り、マンションを見上げる。するとそれまでの安らいだ心がみるみる霧散していくのが自覚できた。胸が騒ぎ始める。鼠が叫びながら皮膚を掻き毟っているかのような、そんな痛い心のひしめき。全力でここに近づくのを拒絶しているようだった。 「……ここですか」 「ええ」 安田さんも、それまでの笑顔はもうなく、真剣な、強張った表情となっていた。手には数珠を持ち、筆や墨といった持参してきた荷物も車から取り出す。 「参りましょうか」 「はい……」 私は、すっかり重くなった足で歩き出す。無言の怜二の腕にしがみつきながら、すでに凍えるように震える。フロントを通りエレベーターに乗ると、4Fのボタンを押した。 「おい、大丈夫かよ」 「う、うん」 「けどたしかに、なんか異様に寒いよな」 「無理しないで車で待っていますか?」 「だ、大丈夫です」 言葉に甘えても良かったが、依頼主が居なくては状況の説明もできないし、ここまで来て引きかえすのもなんだか情けない。私はやせ我慢して安田さんについていくことにした。 「407、ここです」 「では、少し中を見てきます。ここで待っていてください」 そう言い放つと、安田さんは一人ドアノブを捻り中へ入っていく。 「……やっぱり、本物の人は実際頼りになるよなぁ」 「うん。私、なんとなくわかるよ。安田さんは『本物』で、本当に修行を積んだんだと思う。なんだか、存在に頼もしい重さがあるよ。よくお気楽なテレビ番組とかに出てる人とは随分と違う感じ」 「うん、夕浬がいうと説得力あるな」 数分程経つと、額に汗を浮かびあがらせながら、安田さんが戻ってきた。 「ど、どうでしたか!?」 「……結構、酷いですね。この部屋はね、物の配置がまず悪い。鏡の角度と水道の位置。そこが彼らの通り道になっているんです」 「って、夕浬の部屋には何人もいるのかよ」 「……鏡を倒して、水道の下の管に御札を貼っておきました。余計かもですが、ベランダとトイレには私の直筆の経文を施して、最後には般若心経と、錠全経を唱えてきました」 「……はい、でも、あの」 「ただ、暫くはこの部屋には来ないほうがいい。そうですね、二週間程してから戻ってみてください」 「良かったな、夕浬」 「……………」 「夕浬?」 なんだろう? なんでだろう? なんで、まだこんなに不安なんだろう? 確認しなくちゃいけないことが、……ある。 「……あの、安田さん」 「なんですか?」 「その、たくさん……いたんですよね?」 「ええ……4人いました」 「その人達の特徴教えてくれませんか?」 「小学生くらいの男の子、中年の男性に、同じく中年の女性、そして、――老婆」 「たしかに、ここに越してから、その人達を見かけたことはあります。……でも、違うんです。その人達はただ、『見かけた』だけなんです」 「……違う?」 「……違うんです、合わせると全部で5人なんです。あと、一人。若い女がいるはずです」 「女……?」 「そういやお前、女って言ってたな」 「まさか………!?」 目を見開いて、安田さんは急いで私の部屋に戻る。 「安田さん!?」 私達も思わずその後を追いかけて中に入る。 「最初は、多数の霊しか見えなかったが……この者達は、引力で引き寄せられただけなのか」 「……引力?」 「とある霊が一箇所に留まると、やがて土地との因果から強力な思念を持つ。これが地縛霊。その陰の気には浮遊している者達が引き寄せられるものなんです」 「じゃあ……」 「――ええ、まだどこかに、彼女はいます」 私は息を飲んだ。 ああ――ほんとうだ。 いる――視てる。私を………視てる。 「ベッドの……し、下……………」 「……えっ」 困惑する私と状況を理解できていない怜二を他所に、安田さんは一人、経を唱え始める。 「危害を加えないとも限らない! 二人は外に出ていてください!」 怜二に連れられて、私は外へ出る。怜二が必死に青ざめた私に何か言っているが、駄目だ。何も聞こえてこない。あの、禍々しい視線が、私の網膜に焼き付いて離れないのだ。 「――黒かった」 「え?」 「なんで……あんなに黒いの!?」 「どうしたんだよ! 大丈夫かよ……夕浬!」 「……何か、呟いてたの」 「……何をだよ」 聞こえたわけじゃない。でも、口が動いて、それで私をじっと見ていて。そう。こう言った。 「『逃がさない』」 「――マジかよ」 「……怜二、私もう厭だ怖い……怖いよ」 「……大丈夫だ。暫くは俺が一緒に居てやるから。それにほら、今安田さんが頑張ってくれてるじゃないか」 そう怜二が言った瞬間だった。 「……ァァァぁエああぁああ!!」 私の部屋の無機質なドアの奥から、男性の悲痛な叫びが耳をつんざく。やがてドアが開き、人が出てきた。 「……え?」 「許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ許してくれ」 「やす……だ、さん?」 信じられない、非現実的な光景が、そこにあった。ついさっきまで温情にあふれる僧侶の男性であった人が、今は壊れたラジオのように、ただひたすらに音を反芻するのみの……何か、違うモノになっていた。両の目はそれぞれあらぬ方向を向き、足取りはおぼつかず、口は同じ動きを繰り返す。感電したように痙攣を始める。 私達は唖然としていると、魂が抜けたかのように、突如安田さんの体が崩れ、前のめりに顔を地面に押し付ける。――失禁していた。 「なん、だよ、これ」 「………あ……あ」 その時、私の部屋の中で、黒く、たたずむ何かが、薄くのっぺりと微笑むと、勝手に、勢いよくドアが閉まる。 「ちくしょぉぉおおお!!」 怜二が魚のように痙攣している安田さんと、硬直している私を引っ張るようにしてその場を後にする。……頭と心の中では、あの女の髪のように、淀んだ何かが絶えず渦巻いている。――なぜだろう。命を強制的に諦めさせられた気がした。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 翌日、柚子の家に泊まっていた私に安田さんからお詫びの連絡が入った。依頼が果たせなかったことで謝るのかと思いきや、彼はもう自分に依頼をしないで欲しいと、息を荒くして懇願していた。 せめてもの配慮として、安田さんが知る限り最上位の僧侶の方に視察に出向いてもらったらしい。……だが、さらに2日後、その僧侶の人からも、依頼撤回の申し出がだされた。 ――何が、いるというのか。 ――何が、私に憑いているというのか。 しかし、なぜだろう。あの黒くて冷たい女の視線に貫かれてから、もう、抗う意志を折られてしまった。確信がある。逃げられない。いずれ、そう遠くないうちにまた私の前に現れて、私はアレに塗り潰される。 この柚子の家にいるのも、迷惑になるのかもしれない。 「ユーリちゃーん……。やつれてるよ……。ゴハン、食べよ?」 「うん……。ありがと」 「明後日、私大学休むからさ、一緒にお台場行こうよ! ね!」 「ありがとう、柚子」 「私も佳樹呼ぶからさ、ユーリも怜二先輩呼びなよ」 「うん……」 中学生のような可愛い笑顔。今は柚子のそんな明るさが、私を繋ぎとめてくれているような気がした。 「ん、着信」 「誰から?」 ディスプレイには、『怜二』と表示されていた。 あれから、ほとんど連絡はなかった。……やはり、事態が事態だけに、引いてしまったのだろうか……。 「出てみなって」 「え、うん……」 私は恐る恐る通話ボタンに手を伸ばす。 「もしもし――」 「夕浬、ごめんな? ――少し、調べものしててさ」 「調べ物?」 「ああ、お前のとこの例の黒い女。なんとかできる霊媒師をだよ」 「え、……でもほら、もうさんざん断られたし……」 「なにもしないよりはいいだろ? その人は前に言ってた柚子の知り合いの人なんだけど、まだ無名に近いけど、いままでに解決できなかった事件はないそうなんだ」 「でも」 「柚子が言うにはちょっと変わり者みたいだけど、頼りにはなりそうだぞ」 「……怜二」 「俺は大丈夫っつっただろ? ……力になるから、お前もまだ諦めるなよ」 「……うん、わかった」 「じゃあ、後で向かえに行くから、少し待っててくれ」 「紹介するのはいいんだけどさ。その人、お兄ちゃんの友達の知り合いで、少し交流があったんだけど……お兄ちゃん自身が最近縁切っちゃったみたいで。結構〜クセがあるみたいよ?」 柚子が後部座席でバックミラー越しに苦笑いする。 「仕方ないさ、たとえどんな人でも今は藁にもすがりたいんだ」 「柚子、ごめんね」 「私は大丈夫! ちょっち、気まずいけどまぁ平気」 「でも調べた限りじゃ腕は確かみたいだぞ。最近ネット上ではいくらか話題になってるみたいで、なんでもこのテの業界じゃ新人だけど、請け負った依頼は必ず果たす。それも一人で」 ――ひとり? 「……その人、大丈夫なのかな」 「え?」 「ううん、なんでもない」 車を走らせること約1時間。怜二は、西新宿のとある路地に遠慮しがちに佇む小振りのビルの前で車を停めた。なんとも年季の入ったビルだった。 「ここだな」 「そう、ここの5階に事務所があるよ」 「行くか」 特に会話もないまま建物の中に入り、階段を上がっていく。ところどころ黒ずみの目立つ少々埃っぽい屋内からは、憂鬱な雨の日のような匂いが漂っていた。外の看板に「5F該当なし」とあった。その他の階には、小さな保険関係の事務所や不動産屋などの物件が入っているようだが、この建物から察するに、繁盛している様は想像できない。 故障しているエレベーターを素通りし、私達は階段をゆっくり上がっていく。ビルとは思えない窮屈さで、安い賃貸アパートのような奥行きだと感じた。こんなところに事務所を構えて、しかも一人で。それを職にできるのだろうか。いささか疑問だった。5階のフロアにたどり着いたところで、3人揃って足を止めた。 ――踊り場に、殺風景な扉が一つ、重々しく口を閉じている。 「じゃあ、柚子からうまく紹介してもらえるか?」 「わかった」 柚子が頷くと扉を数回ノックし、「宮本柚子です、お話があるのですが」と扉に向かって声を張り上げる。数秒の沈黙の後、くぐもった声が這うように扉から伝導してきた。 「……構いません。入ってもいいです」 穏やかなような、無気力なような。そんな体温のない声が私達の耳に届く。 「失礼します」 柚子がドアノブを捻り、開く。 ――なぜだろうか。空気の質が、少し変わった気がした。 ここにきて、不意に気になる。 この先にいる人は、『どんな』人なんだろう。 開かれた扉の先に目を向け、私は何かに吸い込まれるかのように足を踏み出したのだった――。 ――結論から言うと、変人であり、変態……であり、『灰』のような人だった。 意味がわからない? すぐにわかるはず。 灰のようなのだ。その名前の通り。抽象的だが、その捉え難い特徴をうまいこと形容できているような気がする。 巡り会いや、宿命。または運命? そのような何か絶対的なものの悪戯があるのだとしたら、私と彼との出会いは、まさに螺旋の中心点。渦巻くものは、ここから私達を巻き込んでいくのだろう。 聞こえは、いいのかもしれない。 実際にいいのかどうか、まだわかってはいない。 私に、憑いているモノ。 彼に出会ったこと。 ――今、行っていること。 ――これは、運命だと思う。 2014年3月18日現在の私の考えだ―――――……。 「――どうも、はじめまして。僕は、灰川倫介といいます」 事務所というからにはやはりスーツなのかと考えていたのだが、なんということはない。黒いジーンズに、白いワイシャツ。線の細い体の一番上には、波の様なクセを見せる繊細な『海洋植物』が乗っかっていた。顔立ちは整っているようなのだが、理由のわからない近寄り難さがそこにはあった。伊達なのか判別できない眼鏡に触れながら、少し気だるそうに会釈をかわす。 「どうぞ? おかけになってください」 「あ、ハイ」 私達は数箇所ほど、小さな裂傷が見当たる黒いソファーに腰をかけた。 「それで? 柚子さん、お話とは?」 「実は、お仕事の依頼なんです」 「……。一応、聞いておこう。被害者はどなたでしょう?」 「私、です」 私が、声に出した瞬間――。 目の前の、それまでは無関心にさえ見えた灰川さんの視線が痛いくらいに鋭いものとなった。私は思わず息をのんでしまう。 「あなたのお名前は?」 「瑞町夕浬です」 「……そうですか。なるほど。ふーん。あー。……では、そちらの方は?」 「俺は岡田怜二です。夕浬の彼氏で、実際にその、現場に立ち会いまして」 「僕への依頼は、『仏滅』ですか?」 「あ、はい。そうです」 「残念ですが、僕には『仏滅』はできません」 「はい?」 何を言い出すのかと、怜二がトーンの外れた声をあげる。 「あれは頭丸めて、難しい経文読まないといけないんです。嫌なんです、そういうの」 「えっと」 「僕には、そういうことが出来るような特殊な力はないです、……できるのは、ただ『はらう』ことだけですかね」 「祓う?」 「違いますね、岡田さん、今『お祓い』の方の漢字を考えたでしょう」 灰川さんはおもむろに胸ポケットから手帳を取り出すと、ボールペンで『掃除』と書き始めた。……掃除? 「こっちです」 ――掃う……? 「は、はぁ」 「しかし、まぁ、うん。これは細かいことです。アプローチの仕方は違っても、実際には大差ないかもしれませんね。恐らく私の方法のほうが有効でしょうが」 眠たそうな目を天井に向けながら、それがさも当然のことであるかのように、彼はさらりと口にする。根拠の感じられない自信と、そう思わざるを得ない。私達は実際にアレを見ている。彼の言う事には信憑性が感じられなかった。 それに、この人――……。 「……失礼ですが、本当に大丈夫なんでしょうね?」 怜二が苦笑いしながら灰川さんに尋ねる。 その苦笑に応えるように、彼は微笑する。 「あー、現段階ではなんとも言えません。ですが、何件か仕事をこなしてきて、それなりの自信は獲得しました。僕のやり方は通用するんです。僕が知っています」 「あの、本当に危険なモノかもしれないんです。……生半可でしたら、受けないほうがいいかと思います」 私は、思わず口に出してしまう。安田さんを始めとする高名な霊媒師達が揃って浮かべた絶望の表情が、半ばトラウマのようになっているのだろうか。 「でしょうね、好奇心とは言いません。これは探究心です。つまり本気です。しかし、どうやら頼りなく見えているようです。依頼を撤回しますか?」 私は、もはやそうしたほうが良いように思えてきたのだが、私を遮り、怜二が答えた。 「……いや、実は他の霊媒師は皆この依頼から逃げてしまっていて、他に当てがないんです。……お願いします」 「わかりました、やってみます」 ………。 でも。 いや、気のせいなのだろうか。しかし、確かめなくては最悪、この人の命に関わることかもしれない。 「あの、ひとつ、質問してもいいですか」 「……瑞町さん、でしたね。なんですか」 「あなたには、その、霊感っていうかそういうものが――ありますか? ……別に、何も感じないわけじゃないんです。ただ、その、違う……っていうか……」 「霊感ですか? 無いですね」 『え?』私達全員の口からおもわず声が漏れてしまう。無いって……。 「それより、事件の詳細をお聞かせ願いたいんですが」 それがなんでもないことであるかのように、彼はそう続ける。引きつった表情を浮かべながら怜二が説明を始めるが、私と柚子は唖然としたままだ。 ――大丈夫なのだろうか? いや、駄目なんじゃないだろうか……? 印象や発言と、聞いていた彼の経歴との食い違いが、私の頭を混乱させる。 霊感が、無い。でも、ならどうして? それに、この人に会った時に感じた、吸い寄せられるかのような、変な感覚。あれもなんだったんだろうか。 わからない。 わかるのは、どうなってしまうのか、誰にも予想すらできないということだけだった。 「ふーん。なるほど、だいたいの経緯は理解しました。大変でしたね」 「……ええ」 「しかし、いつからです?」 「いつから?」 「はい。いつからその黒い女は瑞町さんに纏わり憑くようになったんですか」 いつ? いつから? そういえば、そうだ。いつからだろう? 厭な汗がうなじを湿らせる。私は私の中にアレが初めて現れた時の記憶が抜け落ちていることに、今更ながら気付いた。なぜ、違和感も覚えずにいたのだろう? ここ最近になってから特に私に迫ってくるのだが、具体的にいつからなのか、わからない。 「……わからない。……最初の記憶が、ない」 「――そうですか、では考えられるのは2つですね。『最近あなたに憑いたものなのか』もしくは、『ずっと前からあなたに憑いていたものなのか』」 「……………」 息を飲む私を中心に、沈黙が辺りを覆いつくす。 「もし、このままあの女が夕浬に纏わり憑いていたら……夕浬は、どうなってしまうんだ?」 「死にます」 なんの迷いも無い即答。……わかっていたことなのだが、心臓が跳ね上がってしまうのは、どうしようもなく恐怖を感じているからなのだろう。 「正確には、奪われます」 「奪われる?」 「はい。瑞町さんの精神と人格を破壊し、新しく瑞町さんの中に住みます。多分、そういうタイプです」 「な、なんとかしてくれ! 頼む、あんたしか今は頼れないんだ」 「わかっています。しかし、私が『掃う』にあたって、注意点があります」 「注意点?」 「はい。守らなければ、死ぬと考えてください。関わってしまった、あなた方も」 全員の表情が強張り、固くなった体からは、冷たい汗が染み出した。 「原則として、僕の言うとおりに行動すること。各々の勝手な判断で動かないでください」 「それは私達全員に言ってるんですか?」 「ええ、恐らく今回は僕一人じゃ少し大変なので、ここにいる者の協力が必要です」 「怜二、柚子。危ないと思ったら無理しないでいいからね?」 「俺は大丈夫だ。今更退いてたまるかよ」 「……わ、私も平気! 親友の一大事だもん、力になるよ!」 「では、実際に掃うのは2日後です。その時にまたこの時間にここに来てください。そして、瑞町さん。あなたは今日と明日、少し準備を手伝ってもらいます」 「準備、ですか?」 「なら、俺も手伝います。車も出せるし、力になれることがあったら言ってください」 「わかりました。しかし、準備にもそれなりの危険がありますので、覚悟しておいてください」 玲二が頷くと、灰川さんはボリボリと頭部を引っ掻きながらまたも天井を見上げた。 「……では、まず、現場にいきましょうか」 「え」 「何固まってるんですか、早くいきます」 「……わ、わかりました」 あの環流寺の安田さんが気を失い、命乞いをしてしまう程の化け物が、あそこにはいる。それをこの人はわかっているのだろうか。――少なくとも、なんの準備もしていない今、あそこに行って何になるというのだろうか。 灰川さんは、私達と一緒に事務所を出ると、鍵をかけ、特に何も持たずにそのまま同行する。途中、さすがにこれ以上迷惑はかけられないので柚子を自宅に戻し、私のマンションへと車を走らせる。灰川さんは後部座席で頬杖をつきながら窓の外を見つめている。その顔は何を考えているのかわからない、読み取りづらい表情をしている。ただ、わかるのは、マンションに着き、あの重苦しい空気が漂う中でさえその表情を崩さないあたり、冷静なままでいるということだけだ。 「大丈夫か?」 「……うん」 「つらいかもしれませんが、来てもらいます」 彼の視線は私を向いてはいない。すでにその目標へと、温度の感じられない眼差しを向けている。――なぜだろう。……なぜ、この人はこの重々しい泥沼のような空気の中をたやすく進んでいけるのだろう。 「……行こう」 怜二に肩を借り、あの陰湿なエレベーターに乗り、廊下に出る。一歩一歩、足に何かが纏わりついているかのように、その重みは増す。それは、あの部屋に奴がいることを何よりも如実に物語っている。 「ここです。……ここに、います」 「そうですか。つらいですか?」 「はい……。今もここから逃げ出したいのを必死に抑えています」 「そうですか」 そう言うと、彼はなんの躊躇いも無しにドアノブに手をかけ、扉を開く。 ――気のせいだろうか。部屋の中を見た彼の表情に、三日月のような笑みがこぼれたように感じたのは。 私はなんとか怜二にしがみつき、中へ入る灰川さんの後を追う。……だが、限界だった。中の空気を吸い込んだ瞬間、私は嘔吐し、重力が増したように、体を地面に叩きつけた。眼球が勝手に不規則に動き回っている。息ができない。――意識が、遠のいていく。怜二の叫ぶ声も、すぐに聞こえなくなった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー。 ――私の実家は、富山の山荘にある。しかし、実際に育ったのは埼玉で、家には今の母と、昔からの父。その、『今の母』に特に憎しみを抱いているわけではないが、3回に渡り妻を入れ替えてきた父にはほとほと嫌気が差している。 私の本当の地元には、一度だけ訪れたことがある。母の墓参りをするために、中学2年生の時に初めて富山に足を伸ばした。父は母の死以来、一度もここを訪れようとは思わなかったようで、私も来るのは初めてだった。 もはや単なる苔の塊にすら見える墓標を、丁寧に布で拭い、水をかけた。花と線香を添えると、辺りを見渡した。……田舎だなぁ、と思い切り息を吸い込む。透き通った水のように、冷えた空気が肺に入り込む。 「……会いにくるの、遅くなっちゃったね」 手を合わせ、俯きながらぼそりと呟いた。 母は、全身を火に炙られて死んだ。それこそ炭のようになるまでもがきながらだ。父に伏せられていた事実を、私は14歳になった昨日、祖母から打ち明けられた。 「――私が、お母さんを殺したのかな。……でも、感謝、しているんだよ」 母は当時私を身ごもっており、出産予定日はとっくに過ぎ去っていたそうだ。ギリギリまで妊娠の事実さえ拒絶していた母は、病院にも通わずにいた。そうまでして、私を否定したかったのだろう。そんな寒い冬の日。除夜の鐘が響く中、私はこの世に生を受けようと、母の胎盤を叩いた。母が置かれている状況を知らずに。 その日、台所で調理をしていた母は、突然の陣痛に倒れてしまう。あまりの激痛、目眩、嘔吐。立ち上がることもできない程の症状。父は何も告げずに家を出てからすでに3日。病院に連絡してくれる人は誰もいなかった。更にコンロから非情の追い討ち。火の手が上がった。煙を立ち上らせ、火がアパートを包む頃、パチンコに行っていた父と近くに住んでいた祖母が駆けつけた。消防作業が進む中、祖母は母の声を聞いたのだという。 ――聞こえるはずのない声を。 しかし、頭の中に直接、声が届く。 『たすけて』『生まれそうでうごけない』『許せない』『なんで』。 声は、怖気が立つほど低いものだった。祖母は考えるよりも先に、消防士を振り切って母の元へと急いだ。そして、燃え盛る部屋に飛び込むと、風呂場で既に黒い塊となっていた母が手を伸ばしていた。 「たず……げデ」 祖母は原形を保っていない母に駆け寄ると、その瞬間に母は白目を向き意識を失った。いや、死んでしまった。祖母は喉が裂ける程に叫んだ。しかし、絶命したはずの母の下で何かが蠢いているのを見た。『私』だった。 母は、自分で出ようと、強引に生まれてきてしまった私のせいで胎盤と子宮を破裂させ、体の自由を奪われていた。私は、まだ火の届いていない母の体の中で、消え入りそうな命を繋いでいた。祖母は炎の中で私を取り上げた。消防士が突入し、祖母と抱きかかえている私を救出した。へその緒は、すでに焼ききられていた。 祖母は、事実を語った。私に罪悪感を生まないように、細心の注意を払ったのだろう。普通ならば私にそのような感情は生じない。しかし、なぜなのか、祖母が語る過去のシーンが、まるで古いフィルム映画のように、掠れながらもそのイメージが鮮明に浮かび上がってきてしまうのだ。 私は、不真面目な父と母の間に生まれたとされているが、実際のところは、母も同じように遊んでいたらしく、私は実際のところ、誰の子なのか断定できないらしい。……そんな母が私を身ごもった時、泣きそうな顔をしたのだと、問い詰めた父からはそう聞いた。父は、今もまだ最低の人間で、開き直って私に真実を伝えた。 私は、高校を卒業すると同時に家を飛び出た。 自分の居場所なんて最初からなかった。実家には悲しみが。家庭には憎しみが。だから、ここから先は私独りでも生きていく。強くならくちゃいけない。例え、私が望まれずして生まれ、母を殺したのだとしても、生き抜かなくてはならない。 『今の母』は、恐らく私への同情から金銭の援助をしてくれているのだろう。愛を知らない私も、大学に入って怜二と出会えた。私を気遣い、思いやる怜二に頼れる私は、落ち着いてきた証拠だろう。その分、私は弱くなったのかもしれない。でも、怜二の隣にいれて、柚子と笑うことができて。そんな今の暮らしが、何よりも大切だ。何も失わずにいたい。失うのならば、せめて。せめて罪深い私の命だけにして欲しい。 ――記憶。 私の、記憶。 今までどこかにしまわれていた、私の過去。失ったはずの意識は、そこまで過去を振り返ったところで、少しずつ戻り始めた。瞑っていた目を開ける。細い視界は、瞬く間に一気に広がった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ――気を失う程の圧力があるものなのか。 生憎、僕は特に突出した感覚を持ち合わせていない。そのような威嚇は無意味だと知るべきだ。 わかるか。僕のような、まさに『矛盾』の塊がお前達の天敵なのだということを。 お前達は、存在そのものが、矛盾している。だから、それに対抗するには、常識を捨て、自分も矛盾を受け入れなくてはならない。そうして初めて、お前達と同じ場所に立てる。 「大丈夫ですか」 「大丈夫なわけねぇだろ! 俺は夕浬を連れて戻る!」 「岡田さん、落ち着いてください」 「落ち着けだと!?」 「彼女がここにいなければ、意味がありません」 どこだ。どこにいる? 僕の存在を理解したのならば、さっさと姿を現せばいいだろう。 「……説明不足かもしれませんね」 「ああ、あんたははじめからそうだ! 俺らにはどうするつもりなのかも全くわからない!」 「僕は、この仕事を始める前までは大学院で心理学を学んでいました」 「心理学?」 「はい、人の心の変動を知る学問です」 「あんなもん学んで何になるってんだ!」 「そうですね、僕のような考えに至る人は極わずかでしょうね。――僕は、霊の心理を読む」 「霊の心理?」 「はい、彼らは実体のないもの。しかし、その行動には必ず理由があり、人に影響を及ぼす。彼らは思念の塊。だから、『行動理由』が『存在理由』」 「一体、どうするってんだよ」 「霊とはその形態に過ぎない。元は人なんです。ならば、通用するでしょう。単純なことです。『存在理由』を失った霊は、この世にはいられない。わかりやすい法則です」 「たしかに、わかりやすいけど……」 「僕は、それを壊す」 ――僕は、あの時からこの世界に入ると決めた。その時見つけたこの理論は、僕の信念。自信を持てる。これは、絶対的なものであると。 最初は、全くわからなかった。しかし、こんな不可思議の結晶のような存在にさえ、法則は存在する。それを導き出し、アクを取り除く。 「そんな方法で、本当に大丈夫なのかよ……」 「大丈夫です」 「この前ここに来たお坊さんは、『力』を持っていた。なのに、簡単に……」 「その力というのは、人が唯一魂に触れる為のもの。確かに、強力で、その力というものも存在します。しかし、その『力』を駆使する方法は、もう古いんです」 「ふ、ふるい?」 「はい。経文というのは、『文字と声』の力。そして、実際に読み上げる『人』による説得です。人の情に訴えかけ、導くもの。似ていますが、僕のとは違います。『経文』は強引なんです。去れ、と言われて素直に去るチンピラなんて、今の御時世いないでしょう?」 「なんていう、偏った考えなんだ。そもそも、あんたには『力』がないんだろ。いくら口でうまく言っても……」 「そうでもないですよ。事象で言うなら、言葉で十分」 僕は鈍感な肌を研ぎ澄ませた。こんな僕でも、場数を踏むと『勘』というやつなのかわからないが、存在くらいはなんとかわかるようになってきた。……近くで、見ている。 僕は口元に小さく笑みを浮かべると、話を続けた。もう少しかもしれない。 「人を殺すのに、ナイフや銃は入りません。口で十分」 「そんなわけねぇだろ」 「あるクラスの一人の少年が、普段通り登校し、親友に挨拶をした。「おはよう」。友人は「死ね」といった。理由もわからないまま他の友達、先生、親、全ての人間にも「死ね」と言われた。行われる会話は、「死ね」の一方通行。この少年は3日と持たず死にますよ」 「あんた……」 「悪質な霊は、まさにこの少年と同じような精神状態をつくり、目標を衰弱させ、やがては自分から命を絶たせる」 「じゃあ夕浬も」 「少しずつ、削られていくでしょう」 「ならなんで、こんなとこに連れてきたんだ!」 「――この為ですよ」 「え?」 来た。 今までとは違うモノ。 異質なモノ。 そんなものを初めて目にした時、人は恐怖し、動揺する。そこから綻びが生まれる。お前も元は人間だったんだ。怯える者にとってのそれが異質なら、逆に霊にとっての僕もまた異質。わかるだろう。記憶に関わるモノなら、僕のしてきたこと、しようとすることもわかるはずだ。 「……始めようか。これから僕は『君』の心理を読む」 聞いているのだろう? ――ベッドの下の黒い影。 「僕は、これから徹底的に君を調べ上げ、全てを知る。明後日だ。ここから君は動けない。その時、君はもうこっち側にはいられない」 動揺するがいい。……その綻びを、開いていく。 影が、もぞもぞと動き出す。濃度が変化するように、点滅するかのように。 「灰川さん、あんた何を」 「静かに」 触れることも。聞くことも。今の僕には不可能だ。しかし、こうして『伝える』だけで、切り崩すためのきっかけは作れる。 奴は僕の行動に対して何らかの動きを起こす。その全てが、これからの武器になる。 「う……ん……」 目を固定していた僕の耳に、瑞町夕浬の呻き声が届いた。意識を取り戻したようだが――それよりも今は。僕は集中をベッドの下に戻す。いよいよ立場が危うくなってきたのか、黒い影はその濃さを増しながらも、危うげに息を荒げている。 「夕浬!!」 叫ぶ岡田怜二とは対照的に、僕は口を結んだ。 「――抜けたか」 もうそこには陽炎のような黒い影の存在を認知することはできなかった。かわりに、白木の箱がひとつ、ぽつりと置かれていた。 ――これは、どういうことだ? 『媒体』を、捨ててまで……。 地縛霊にとってその場所に『留まる』ための特別な物、人、現象。それが『媒体』であり、奴そのもののルーツ。これを切り離すということは、心臓を放置していくことに等しい。――なるほど。留まるのはやめ、待つだけでなく奴も動くというわけか。 ……僕は眠れる獅子を起こしてしまったのかもしれないが、同時に、この媒体は大きな手がかりとなるはず。この箱は奴と瑞町夕浬との因果をあらわすもの。命の標的が恐らく僕にも移ったこと以外は、今のところ収穫だ。 「……灰川、さん。何が……」 「事情はあとで説明します」 「あの……」 「なんです?」 虚ろな瞳を床に向けながら、彼女は消え入りそうな小さな声で話しだす。 「夢を――見たんです。……今、気を失っている時に。昔の、哀しい夢」 僕はその言葉に過敏に反応し、目を見開く。 ――やはり、収穫は大きい。 「教えてください、その夢の内容。少しも漏らすことなく全てを、ね」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 高速道路を降りて一般道を進むうちに、みるみる人気がなくなっていくのがよくわかる。窓にゴツゴツと、大きな雨粒が矢のように突き刺さっている。視界の悪い林道を通りながら、幾度も蛇行し、点々と続く外灯の頼りない明かりにそって進んでいく。 「行動理由が存在理由。それがなくなれば、留まることができなくなる」。灰川さんは私にあの黒い女への対処方法を話してくれた。 マンションで私が覚醒し、みた夢の内容をそのまま灰川さんに伝えると、彼は一言「繋がりはじめたな」と呟いた。そしておもむろに私のベッドの下に手を伸ばした。 「この木箱に見覚えは?」 彼がベッドの下から、あの女のいた場所から取り出したのは白木の、小さな箱だった。免許証がやっと入るくらいの、長方形の箱。年季が入っているのか、汚れの目立つそれは、異様に重く私の手にのしかかった。金属か何かでもはいっているのだろうか? 「瑞町さんが開けてください」 「……は、はい」 私はゆっくりと蓋を外し中を開ける。気のせいか、その瞬間に陽炎のような歪みが見えた気がした。 「これは……なんなんだ?」 玲二が不安気に中身を覗きこむ。 中には、正体不明の黒い塊が二つ入っていた。小さな、塊。二つあるが、破損して割れたのだろうか? 歪でそれもわからない。恐ろしくて触る気になれない、真っ黒な、なにか。表面は少し凸凹で、厭な光沢があるもの、人の皮膚のような質感を感じさせる。 「なんですか……これ」 「瑞町さんにわからないのなら、わかりません」 灰川さんはさらりと言いながら、指を下唇に添える。 「……が、それとなく察しはつきます」 「どういうことですか?」 「これは『媒体』と言って、あの霊がここに留まる為に必要な因果の起源を象徴するものなんです。奴のルーツと言い換えてもいい。この黒いなにかは、間違いなく今回の事件の鍵になる」 「『媒体』……。それで、灰川さんなりの見当はついているんですね?」 「ええ、しかし、憶測の域を出ない。やはり瑞町さん自身との因果関係を知る必要がある。先ほど話して頂いた、実母の死に際の夢。やはり無関係とは考えにくい」 彼は話しながら私への視線を切り、再びあのベッドの下へと移す。振りむきこちらを見るとそのまま言った。「今から瑞町さんの実家へ向かいます」。 ――もう、日も沈み夕闇が辺りを包み込んでいた。 富山の片田舎。山と山に挟まれた小さな集落に、私の実家はある。ようやく林道を抜けると整備の行き届いていない砂利の混じった道に出る。見覚えのある景色だった。冬の雨に濡れている田畑が車のライトに照らされていた。 「ここです」 しばらく道なりに進むと、目的地に到着した。懐かしい、今はただ一人祖母の住む家。なんのことはない、ありふれた日本式の瓦屋根を持つ古い民家だ。 私達は車を降り、玄関へと向かう。 「では、僕はこのまま山の先の墓地へ行ってきます。一旦手分けしたほうが効率がいいでしょう」 「え? 一緒に祖母に会わないんですか?」 「今回の『媒体』に関してその正体を掴む為には他にも必要な要素があるんです。岡田さんと瑞町さんは実家で真実と『媒体』について探ってください。僕は話に聞いた瑞町さん実母のお墓を見ておきたい。どのくらい時間が残っているのかもわかりませんし」 「え?」 「正直、奴が「『媒体』を捨てるのは予想外でした。自ら僕達に自身の弱点をさらけ出したわけですからね。しかも地縛霊が因果のない空間をそう長く浮遊していられるものではない。時が経てば自然に奴は無に還るでしょう」 「消える? それなら……」 「しかし、それは逆に奴が背水の陣を敷いてきたとも捉えられる。短い猶予の中で、確実に瑞町夕浬を殺しにくるでしょう。こんなケースは初めてだ。実に興味深い。が、向こう以上にこちらにも余裕がない」 切迫している状況なのに、どうして薄く笑みを浮かべているのですか……? 「だ、大丈夫なんですか……?」 「早急に真実に迫るしかありません。今、奴の敵意は恐らく僕に向いている。近いうちに必ずもう一度瑞町さんの前に現れますが、その前にこちらの準備を整え、迎え撃ちます。そのためにも今はリスクを犯してでも別行動にするべきと判断しました」 この人は、そんな危険な現状においても尚、当初からの平静を保っている。いや、それどころか……。どういう精神構造をしているのだろう。その冷静さは、およそ通常の『人』からはかけ離れている。異常、異端、異質――。もっともそうでなければ立ち向かうことも敵わないのだろうが、拒絶を起こす程に、嫌悪感にも似た驚きを隠せずにいた。 「わ、わかった。灰川さんも気をつけてな」 「まぁ……もし、なにか非常事態が起きたら連絡してください。引き返します」 「わかりました……」 心配だが、これが彼の判断ならば、従うしかないだろう。灰川さんのやり方は『調査』が主軸となっている。彼個人に特別な法力のようなものはない。あの黒い女と対峙するその時までに、集めなくてはならない真実があるのだ。それが揃っていなければ打ち勝つことができない。私は死ぬ。いや、私だけ……じゃない。恐らく敵視している灰川さんも。もしかしたら玲二も柚子も……? い、いやだ。それだけは絶対に――。 「おい、いくぞ、夕浬。……どうした?」 「玲二……本当に、本当に……ごめんね……」 玲二は震える私の頭に、ポン、と優しく手をおく。 「今更気にするなって! 俺は大丈夫だよ、やられたりしないし絶対にお前を離さない。二人でまたいつもの日常に戻るんだ」 「玲二……。うん……そうだね、ありがとう」 心の堰を越えて溢れ出そうになる感情と嗚咽を、ギリギリのところで飲み込む。 私は死の恐怖に今にも潰されそうで。大切な人を危険にさらしているこの状況に葛藤していて。灰川さんの様に、とても平静を保ってはいられない。そんな不安定な今でも、やらなきゃいけないことは常に立ち塞がっている。 私は玄関まで進み、呼び鈴を鳴らす。しばらくすると奥からゆっくりと足音が聞こえてくる。見覚えのあるシルエットが、すりガラスの向こう側に映る。 「おやまぁ〜、夕浬ちゃん! こんな遠くまでよくきてくれたねぇ……」 「お祖母ちゃん、急にごめんね……」 「急に電話あったから驚いちゃったけどねえ! いいんだよ、寒いだろう、さあ入んな……。――そちらは?」 「はじめまして、岡田玲二です。その、夕浬さんと……」 「あら! まさか婚約者かい? こいつはめでたいねぇ、そうとわかっていればもっと準備したのに――」 「あの、違うの、お祖母ちゃん、いや、違わないんだけど……その、今はいろんな事情があって――」 「まぁとにかく中に入んなさいな」 『浅神友江』。私の祖母で、焼死した私の母、『浅神箕輪』の最後を看取った人物だ。愛嬌のある小柄な体躯に、切れ長の目。老いても未だに整った顔立ちだ。昔は引く手数多のべっぴんだったのだと、よく当の本人から聞かされていた。急角度に曲がった腰を数分単位で直そうと背を伸ばすも、疲れてはすぐに元に戻り、それでも諦めずに果敢に矯正を繰り返すのが癖だ。そのせいでせわしなく動く変な人だと近所に誤解されていたが、実際には明るく友好的な性格で、私が今まで屈折して来なかったのは間違いなく祖母のおかげだ。挫けそうなときには、いつも祖母がいてくれた。 苗字が私と違うのは戸籍上父の『瑞町』を名乗っているからで、本来の母方の性は『浅神』である。 懐かしい匂いの立ち込める居間に玲二と座りながら、お祖母ちゃんのいれてくれたお茶を飲む。玲二は落ち着かない面持ちで座布団の上に正座していた。 「それで? どうしたんだい? なにか良くないことが起きてるってことはアタシにもわかるけど」 皺の並ぶ細い目が、静かに私を向く。 浅神では女系血統の特質なのか、私に劣らずお祖母ちゃんも、いわゆる『そっちの』感覚が強い。死に際の母の声を聞いているし、昔からこの世にいるべきでないモノを見かけてきたようだった。 勘の鋭い祖母に、遠回しに説明しても茶を濁すだけだろう。 「単刀直入に聞くね、お祖母ちゃん。この中のものが何なのか、知ってる?」 私はバッグから何重にも紙で包んだあの箱を取り出す。相変わらず常識外の重さだ。取り出しただけで、明らかに空気の質が変化する。 「その箱……」 私は静かに白木の箱を開ける。中のあの黒い塊が顔を覗かせた瞬間、ビクッと、お祖母ちゃんの体が揺れた。細い目を大きく見開いて凝視すると、そのまま凍りついたように静止した。眼球は血走り、髪は逆立つかのようにいきり立っている。 「――ああ……。なんて事だい……」 やがて力なくうなだれると、お祖母ちゃんの頬を涙が伝った。 「お、お祖母ちゃん、『これ』がなんだかわかるの……?」 お祖母ちゃんは、小さく痙攣するように震えながら目を閉じた。なにかを伝えようと口を開くものの、喉まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込む。しかし、暫時の沈黙の後、閉じていた目を開き、悲痛なほど哀しげな視線を私に向けると、深く息を吐き出しながらたしかに、こう言った。 「夕浬ちゃん……あんた、今夜死ぬことになるよ」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 奈落の底でさえ、こうも救いのない黒ではないだろう。闇の上に幾重もの闇を延々とのせていけば、今の景色に勝る暗さに到達できるだろうか。 時刻は午前2時半を回っていた。……あの男からの連絡はない。こちらから連絡をこころみたものの、通話することはできなかった。なんとか夕浬のお祖母さんから知り得た真実を、メールで伝えることしか、今の俺にできることはなかった。事態は想像をはるかに超えて、深刻だ。 「まだ……灰川さんには繋がらないの?」 「ああ、駄目だ。完全に二手に別れたことが裏目に出た。すぐにお祖母さんから核心を聞きだせるなんて思ってもなかったからな……一体この後どうしたらいいって言うんだ!」 「ねぇ……」 「どうした?」 「……きた」 その瞬間、俺は今まで経験したことのない程の悪寒に見舞われた。こんな、単なる一般人にすぎない俺でさえ奴の危険性を身をもって理解することができる。それは同時に、俺にも殺意が向けられているということなのだろう。 吐き気を催す、肉の焦げた臭いが鼻をつく。それは確実に俺たちに近づいてきている。灼け尽くされるかのような、悍ましい悪意の吹雪。気が触れて、どうにかなってしまいそうだった。 俺は震えの止まらない体で夕浬を抱きしめる。大丈夫、大丈夫だからと、情けない掠れ声で囁くことしかできない。 恐ろしい。 くるな。くるなくるなくるなくるな。 逃げ出してしまいたい。泣きわめいて、失禁して、胃の中のものを全て吐き出して、狂ったように叫びながらここから離れたい。迫りくる絶望が孕むその悪意は、死よりも深い苦しみを自分たちに与えるであろうことは想像に難くない。 ――でも。 駄目なんだ。こいつをおいてはいけない。 離したくない。離せない。 死ぬことより。死よりも悍ましい恐怖に直面することより。 こいつを、夕浬を失うことの方が俺には耐えられない。 「夕浬、外の様子を見てくる」 「え? だめだよ、お祖母ちゃんは絶対ここから出るなって……」 「わかるだろ……? ここにいても安全じゃない。絶対に破られる。ならここから少しでも離れ――」 「……玲二、やっぱり、もうだめだよ」 「……え」 「――もう、アレがこの部屋のすぐ外にたってる……」 -------------------------------------------………。 「今夜私が死ぬって、え? どういうこと……?」 「…………」 「ねぇ、お祖母ちゃん!!」 「――ここ数日前からアタシは決まった夢を見るんだ……。まるでお告げのように毎回ね。あの、火事の日、遺体の中から黒い影が抜けだして、赤ん坊の夕浬ちゃんの中に入り込む。そのまま影は夕浬ちゃんの中に潜みながら大きくなっていくんだ。そうして夕浬ちゃんの中に入りきらなくなった影は、夕浬ちゃんから抜け出し、今度は夕浬ちゃんを自分の影に取り込もうとする」 「……影って」 「……抽象的でごめんよ。決まってその夢の最後はあんたが黒い影の中で、焼けただれて……もがき苦しみながら死んでいくんだ。……支離滅裂な夢だから気にしていなかった。けど、消えたはずの『それ』と、今のあんたの事情を察して、確信に変わった。もうすぐ側まで危険が迫っているんだろう?」 「……ちょっと、待ってよお祖母ちゃん、確信に変わったって……? いくら不思議な力のあるお祖母ちゃんでも、夢だけじゃそんなことわからないでしょう?」 「……あんたには、その箱の中の黒いモノが何なのか、わからないかい?」 「……わからないよ! いったいなんなの……!?」 「あんたが一番感じるところがあるはずなんだ。それは、あんたの……。あんたと箕輪の体の一部だよ」 「まさか」 「……ああ、それは、あんたの『臍の緒』さ」 ―――――――――――――――――――――――――――――……。 俺はドアノブから手を話し、足元の覚束無い情けない足取りで後退する。夕浬の手を握り、出来る限りドアから離れた。鼓動が酷く激しい。鼓膜のすぐ隣にまで、心臓が近寄ってきたかのようだ。厭な汗が首筋を伝う。暗闇で静寂と拍動が入り乱れるなか、ついにその時は来てしまった。 「ろっろろロロロろろろろろろろろろろろロ」 声にならない聲が、ドアの向こう側から伝わってくる。奴には、声帯がないのだろう。全身を満遍なく焼き尽くされ、黒炭になってしまったから。 灰川の言っていた『媒体』は『夕浬の臍の緒』だった。『母と子を繋ぐもの』。つまりはこの黒い女は、自分を極限の苦しみの中で死に追いやった夕浬を恨む、夕浬の母の霊なのだ。 夕浬の夢の話を聞いてから、なんとなくその母親が関連しているのではないかとは思っていた。しかし、母が子にこれほどの憎しみを抱くはずがないと俺はその考えを捨てていた。だがどうだ。……今扉を開け、こちらをのっぺりとした厭らしい笑みで見下ろすドス黒いこいつは、そんな情なんてとうの昔に炎の中に失ってしまったのだろう。こいつは……もはや悪意の塊でしかない。 「……玲二……。私、怖いけど、もういいの。玲二だけでも早く逃げて」 「そんなことできるわけないだろ!」 「だって、アレは……あの黒い化け物は……私の、私が殺した私のお母さんなんだよ……もう、そんなの、どうしようもないんだよ……」 かつて浅神箕輪だった黒いモノは、ゆっくりと、こちらに近づいてくる。泥のような髪を垂らしながら、黒曜石のように真っ黒な、何もない顔で、ニタニタ嘲笑いながら。 一歩、また一歩、距離が縮まる。 近づくほどに、異様な焦げた肉の臭いと、腐敗臭が濃度を増す。蛇の前の蛙なんて生やさしいものじゃない。その禍々しい圧力に当てられて、気づけば俺はあまりの恐怖に失禁し、情けない虫のような声を上げながら地面にひれ伏していた。開いたままの口から、唾液が床に流れ出る。 気を失いそうな俺の耳に、夕浬の悲鳴が聞こえてきた。 「熱い! アアアアアアアアアアアアアアアアァ!!」 俺は反転した景色の中に夕浬に覆いかぶさる黒いモノを見た。――夕浬が、焼かれていた。俺は気が触れたように叫びながら、無我夢中で夕浬から黒いモノを引き剥がす。 「夕浬! 夕浬! 大丈夫か!」 「……ア…ア…ア」 夕浬は、岸に打ち上げられた魚のようにビクビクと痙攣しながら白目を向いていた。顔面から肩、上半身の殆どの衣服が焼け焦げ、体には黒いアザができていた。普通の火傷なんかじゃないと、すぐに理解できた。露出する頭皮が、硫酸に灼かれたようにただれている。そして、このアザからは、アイツと同じ臭いがする。 「ろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」 この恐怖を前に、今にも霧散しそうな頼りない敵意を、無我夢中で奴に向ける。 ……絶対に、許さない。 それだけは、絶対にだめだ。夕浬をお前には渡すことだけは、許さない。 無理なことも、無謀なことも、理解している。 俺なんかにこんな途方も無い化け物をどうにかできるわけがない。ヒトとしての矜持など切り捨てて、今すぐにでも逃げ出せと、本能が俺に訴えてくる。 でも。 それでも。 ――俺は、夕浬が好きだから。 今、こいつの為に全部を投げ出さずにはいられない。 俺は喉から血飛沫を飛ばしながら、――叫ぶ。ただ、叫ぶ。そうして体の硬直を取ると、そのまま一直線にアイツに突っ込んでいく。砕け散る自分が容易に想像できた。 ――夕浬、さようなら――……。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――……。 富山に向かう道中。 連日の疲れからか、夕浬は助手席で寝息を立てていた。あと数時間で夕浬の故郷に到着する。今は少しでも体を休めてほしい。 俺はパーキングエリアで車を止めると外の自販機でコーヒーを2つ買う。無糖のコーヒーを、後部座席に手渡した。 「……僕は甘いのが好きなんですが」 「悪いな、俺は断然無糖派でね。……なぁ、灰川さん、あんたどうしてこの業界に入ろうと思ったんだ?」 「……なんですか急に」 「いや、あんたには特別な力はないんだろ。なら普通はこんな仕事しようとしないだろ」 「……奴らを相手にするには、『異質』になるのが一番手っ取り早く、確実だ。たまたま僕はうってつけの『異質者』、要は変態だったってだけですよ」 「よくわからないが、じゃあ『異質』ってのになれば俺にも対抗できるのか? 夕浬を狙う女の霊に」 「なろうと思ってなれれば、苦労しないですよ」 「……なにか、こんな車の運転以外にも力になりたいんだよ、俺は。なんでもいい、やれることがあるなら教えてくれよ」 「奴らにとっての異質な者とは、常に自身に向きあおうとするもの。『全て』を知ろうとするもの。真相の探求者です。この異質は僕の持つ資質です。恐らくは多くの障害――例えば感情や拒絶反応から普通の人間は持ち合わせていないものです」 「まぁ、たしかに俺は灰川さんのように自分から進んで赤の他人の心霊問題に突っ込もうとはしないしな……」 「しかし、どんな人間にも個性がある限りは『異質』を内包しているものです。僕のような常時異質であるという事ではなく、瞬間的に、爆発的に、その時だけの限定的なものですが」 「それって例えばどういうものなんだ?」 「例を挙げるなら『突発的な殺人衝動』や『異常性癖の開放』ですかね」 「聞いた俺が馬鹿だった」 「冗談ですよ。岡田さんに当てはめるならきっと『自己犠牲』ですか。無論、程度によりますが」 「自己犠牲って、俺にはあんたのがよっぽどそう見えるけどな」 「対抗しうる存在かどうか、というのはその霊の『存在理由』に起因します。岡田さんのもつその強い感情が今回の相手に当てはまるのなら、自然に事象が導くはずです」 魂には魂でしか、干渉することはできないってことか……。 「…………そういうものなのか」 「……コーヒー、ごちそうさまでした」 -------------------------------------------――――――――――――――――――……。 「ろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」 飛びかかった俺を、奴が突き飛ばす。俺は壁に背中を打ち付ける。もう、なにがなんだかわからなくなっている自分と、なにがなんでも夕浬を守り通す、という自分がいる。 動揺と混乱の中に、確かに揺るがない決意があった。 「ここから消えろ! ……消えないなら、殺してやる!」 俺は、友江さんの家の台所から拝借してきた果物ナイフを取り出し、奴に突きつける。とんだお笑い種だろう……。こんなもの、コイツに通じるわけがないんだ。それでも、俺は内からこみ上げる衝動のままに、再度黒い化け物の懐に飛び込んでく。そのまま奴の腹部に、勢い良くナイフを突き立てた。 「ろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろっろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」 ナイフは踊るように折れ曲がり、彼方へと弾き飛ばされる。 しかし、奴の腹部の刺し傷からは、原油のようなドロドロとした液体が吹き出し、掠れた声を上げながらのたうち回っている。何が起きているんだ? 効いている? あんなナイフの一刺しが? 『「対抗しうる存在というのは、その霊の『存在理由』に起因します。岡田さんの持つその強い感情が今回の相手に当てはまるのなら、自然に事象が導くはずです」』 あいつの言葉が、頭の中に浮上する。今の俺の行動理由が……この化け物の対になるものだというのか……? さっきの無我の激情が、そのまま奴にとっての理解不能な異端だったのか……? しかし、それは――。 あまりにも……。 俺は床に寝転がる無残な姿へと変わり果てた夕浬を見た。まだ息こそあるが、瀕死の重症なのは疑いようもない。 俺はきつく歯を噛み締め、もがき苦しむ化け物を見た。 コイツは夕浬の母親なんだろ!? ……わかってる。もうそんな人間としての理屈が通じないことくらい。それでも、こんな悲劇を招いた全ての因果に、かつてないほどの怒りがこみ上げる。どんなことがあっても、どんなに苦しくても、道理が歪曲している。不条理だ! 絶対におかしい! そんな憤怒が、無意識のうちに俺を叫ばせていた。言葉にならない咆哮をあげ、訴える。 「前は……本当に母親なのかよ!!」 顔の無い黒い化け物は、苦しむのをやめてこちらを向く。 「それでも……それでも本当にお前は夕浬の母親かよ!! 糞野郎が!!」 目を見開いて叫んだ俺の視界が、一瞬にして閉ざされた。 何事かと飛び退くと、すぐ目の前に化け物の焼けただれて原形のない顔面があった。その顔がニタリと歪んだところで、俺の景色が上下反転した。感覚的に理解した。首を、『拗られた』と。 糸の切れた人形のように、力なく地面に倒れこむと、不思議とまだ感覚の残っている肉体が燃えているのが見えた。否。アイツに、焼かれていた。気が狂いそうな苦痛が全身を蝕む。俺は感覚が残っていることを憎悪した。溶岩が全身の血管を駆け巡っているかのようだった。こんなもの、正常な精神で耐えられるものではない。精神崩壊は必然だった。俺は意味もわからずケラケラと笑いながら自分が燃えていくのを、破裂した眼球で眺めている。 熱い。熱い! 熱い。熱い。熱い。そして、どうしようもなく――途方もなく、凍てついている。 生きながらにして、すでに地獄を体験した事になるだろう。全身を奴の業火が蹂躙し尽くすまで、俺は死ぬことすらできなかった。 もう不思議と、感情が湧き上がることがなかった。心さえ、焼かれてしまった。 その上から、アイツの禍々しい念がのしかかってくる。しかしそれと同時に理解する。 ――そうか。 ようやく、全ての謎が解けた。 コイツの……正体。――違ったんだ。俺達は、とんでもない勘違いをしてしまった……。20年前の事件から因果は絡まって――絡まって、ついに逃げられないように運命を掌握するまでに至った。 つたえな……きゃ……。コイツは、最悪だ。止められなくなる。 気づいてくれ。 頼む――。 ――しかし、灰が風に舞うように少しずつ、ゆっくりと意識が消失していく。 なにもかもが、無情だった。 ああ、消えるんだな。こうなるとやっぱり、怖い。恐ろしくてたまらない。 ――死にたくない。 生きたいたい。 『無』に侵食されていくのがわかる。 俺は、なくなっちゃうんだ……。 もう、考えることもできない。 最後に、見えたのは――。 ……夕浬……。 お前は、生きて――。 あ……。して……。る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 事態は、最悪の方向へと向かっている。 どうか、間に合ってくれ。今回の対象は、考えていたよりも遥かに強力で厄介なモノだった。方法も、選択も、何一つ間違ってはいない。それを全て上から、奴の存在が踏み潰しにかかってきた。高名な霊媒師の数々がこの依頼を拒絶したのも、なるほど頷ける。 ――もはや、これは『災害』だ。 三時間程前に、岡田玲二からのメールが届いた。電波の不具合で通話ができないためだろう。こちらの携帯は送信もままならない状態だ。『媒体の正体がわかった。あれは「夕浬の臍の緒」だった。あの黒い女は焼け死んだ夕浬の母親だ。俺達は今北西の沼の近くにある廃寺に向かっている。このメールを読んだならすぐに連絡をくれ』。 廃寺。恐らくは場所の性質として奴に見つかりにくい地を選んで隠れるつもりなのだろう。たしかに、そうすればいくらかの時間は稼げるかもしれない。瑞町夕浬の祖母の入れ知恵だろうか。『媒体』は恐らく実家に置き、ダミーにしているはずだ。 メールを受けてから急いで引き返し、北西の寺へと向っているが、『妨害』に遭い、膨大な時間がかかってしまった。雨が弱まっていることだけが不幸中の幸いだ。 ------------------------------------------------。 あの時、二手に別れてから僕は麓の墓地を目指し、山道を一時間程かけて進みその中から瑞町――いや、浅神夕浬の母、浅神箕輪の墓の前までやってきた。 およそ普通の人間にとって、最後にこの世に所縁を残す場所は自身の『墓標』。一般的な火葬の場合は自身の肉体だったモノ。『骨』がこの場合の『媒体』だろう。偏見を恐れずに僕に言わせるなら、留まってこそいなくてもそこに本体とは別に思念は残り、小さな地縛霊となる。善意、悪意に関係なく、それが『墓』の意義でありあちら側とこちら側を繋ぐものだ。つまり、その者の墓が墓としての役割を全うしていないなら、こちら側へと、そして思念の執着する場所へと向かってしまうわけだ。これを確かめる為に、僕は浅神箕輪の墓に訪れたのだ。 「いよいよもって、真相まであとひと押しか」 この墓は、墓として機能している。 干渉することこそできなくても、その場にそれがいるのかどうか、くらいはわかる。仕事を通して培われた主観による感覚的な判断になるが、ここには浅神箕輪がたしかに祀られていて、地縛している。だが、その在り方はいささか妙だと感じた。いかに無残な死を迎えたとは言ってもここにいる以上は悪意はない。いや、それどころか……。 「なんだ……?」 墓の前の錆の目立つ花瓶がゴトリ、と静かに倒れた。僕はその花瓶を元に立て直し、腰を落として墓を見つめる。何か、僕に伝えることがあるのだろうか? 一般人でも、イタコのような交信する能力はなくても、霊自身が伝える気があるのなら、例えそれが多少強引な手段になってしまったとしても受け取ることはできる。僕は手を合わせ、体の力を抜いた。 一瞬だが、強い風の中に、線香の臭いを感じた。すると、ピタリと風が止まり、雨足も弱まる。擬似的な無音の世界が訪れた。 それは一瞬だった。 「『ffffクfff………フタ……・・・・リヲ、タスケテ……Ehァ¶……g∉tィ』」 耳元で、しゃがれた声がつぶやく。 僕の力では、中の一言を聞き取るので精一杯だった。僕自身ではかなわなくても、向こうから歩み寄ってくれれば、一般人でも声を感じることぐらいはなんとかできる。 『二人を助けて』? その真意を紐解こうと、今有している全ての事実を整理しようとした瞬間だった。 携帯の着信音が鳴り響く。いままでジャミングされているかのように全く使い物にならなかったというのに、いきなりどうしたというのか。 しかし岡田玲二からの切迫した内容のメールを見て、僕はすぐさま走りだす。 明らかに、瑞町夕浬と岡田玲二に危険が迫っている。……この二人への危険を知らせてくれたというわけか。根本的な解決の糸口にはなっていない、が、今はこの協力に感謝して北西の寺に急ぐしかない。こうなってしまった以上、時間を稼ぎ、今は奴から逃げるしかないのだ。今は不利な条件が多い。あとひとつ。なにかひとつ。ピースが揃えば全貌が見えてくるはずなのだが。『媒体』を捨ててまで標的そのものに執着するこの怨念は、酷く理知的に、しかも存在の全てかけて殺戮にきている。ここまで強大なヒトの思念は経験したことがない。この状況でもしも奴に見つかったら、不利な条件が多すぎる。 ――そのときは、死ぬな。 まあ、いい。そんなことよりも真相だ。それさえわかれば打開できる。互いに存在をかけているんだ。リスクよりリターンを考えるできだろう。 「……やってくれるな」 元来た道が、消えていた。大量の土砂が、鯨の群れのように道を塞いでいる。タイミングが良すぎる。明らかに意図的に細工を施したな。よく見ると何本か、燃えた跡のある木々が倒れている。この雨の中、この燃え方。大木ごと焼いて崩壊させてこの道を崩したのか。もはや『人間』というものから派生した存在とは思えない。 ――奴の存在そのものが『災害』だ。 「しかし、いよいよやばいな」 僕達は奴から隠れなくてはならない、が、どうやらこの土地に訪れた時からずっと監視されていたのだろう。こうして考えてみると、『媒体』を捨て行動範囲を広げたのも、正体不明の僕という脅威を標的から分断させやすくするため。焦りを誘い、切迫させることで行動を限定させる。その上で、確実に標的を襲うという寸法なのだろう。こいつはチェスも相当に強そうだ。 僕は土砂を迂回しながら道を下っていく。今はただ急ぐしかない。そうしながら、同時進行で考え続けるしか道はないのだ。途中何度か足を踏み外し、背中と腕を打撲したようだったが、転げ落ちた分、距離を短縮できたということにしておく。こんな痛みなど気にしていられない。二人に今迫っている危険は史上類をみないほどに深い絶望なのだ。今は、何をおおいても逃げるしか生き延びる方法はない。 ――しかし、飛び込んできた光景に絶句を余儀なくされた。 廃寺から、火の手が上がっているのだ。真っ黒な炎と、血潮のように緋い炎が絡み合いながら寺を蝕んでいる。やられたか。遅かったようだ。 そう諦めかけた僕の耳に、男の雄叫びが聞こえてきた。まだ、中で二人は生きている。僕は考えるよりも先に燃え盛る寺の中へと駆け込み、突き当りの小部屋へと直進した。そこから、狂ったような男の咆哮が響いてくる。明らかに常軌を逸しているが、岡田玲二の声に違いない。急げ、この先だ。扉に手をかけ、一気に開く。 「それでも……それでも本当にお前は夕浬の母親かよ!! 糞野郎が!!」 蹲り、のたうち回っているあの黒い化物に、岡田が叫ぶ。その声を聞いた瞬間だった。化物は苦しむのをやめ、素早く立ち上がると、目にも止まらぬ速さで地面を四足獣のように這い進む。岡田に密着すると、一気にその首を玩具のように捩じ切った。スプリンクラーのように、鮮血が床に歪な円を描く。岡田の首は、コロコロと地面を転がると、だんだん声を弱めていった。 僕は肉体の力が抜けていくのを感じた。炎上する屋内で、酸欠になったからではない。凄惨な『死』の瞬間を目撃してしまったからである。その劇薬のような光景は、過去の……忌まわしい記憶を呼び起こす。忘れたくても忘れられない、地獄の記憶を――。 間に合わなかった。黒く、焼けただれた肉塊へと、岡田が変わり果てていくまで、そう時間はかからなかった。助けることが、できなかった……。化物は、岡田を焼きつくすと、こちらを向く。 ――もはやここまでか。僕は覚悟を決めた。もとよりこうなる可能性も考慮してはいた。コイツが『媒体』を捨てた時から、命がけの戦いは始まっていたのだ。普通の地縛霊はこんな行動はしない。……こいつは異常のなかの異常。死をまき散らす狂った化物だったのだ。力及ばず、か。それも仕方ないだろう。もう少しだったのだが。コイツのほうが上手だった。そういうことだ。 「ろろろろっろおろろろろろ」 しかし、なぜか化物はこちらに来ない。むしろ後退している。何がおきているのだろうか。……いや、待て。奴の腹部に、傷がある。僕は辺りを見渡す。隅に、歪曲したナイフが落ちている……。これは、まさか、岡田が? 『異質』……。そうか、さきほどコイツが苦しんでいたのは岡田に手傷を負わせられたから。……こいつは今、岡田のように手の内が読めない僕に『脅威』を感じているのか。 ――覚悟を決め、潔く地獄の苦しみを受け入れる僕は、わけのわからない変態に映るというわけか。……しかしこんな程度ではハッタリにもなっていないだろう。現に岡田は屠られてしまった。なら、なぜ。なぜそこまで。 ――まさか、すでに僕は奴の正体を暴くためのピースを全て持っているのか……? 「ウ…アァ……ア」 奥から呻き声が聞こえてくる。視界の悪い屋内だが、『風』で炎が揺らいだ瞬間、その奥に瑞町夕浬が横たわっているのを視認できた。 「瑞町さん」 僕はその方向へとかけていく。奴は相変わらず僕から距離をとり、様子を伺っているようだった。僕は白目を向き、痙攣している、変わり果てた姿の瑞町夕浬に駆け寄る。全身が焼けただれ、常人なら目を背けたくなるほどに酷い状態だった。すぐにでも病院へ運ばなくてはならない。 しかし。 「ろろろろっろおろろろろろろろ……」 コイツの出方がわからない。もし真実を掴んでいるのだとしても、ハッタリがバレたらどう出るかわからない。しかしこのままではすぐ全焼してこの建物は崩壊するだろう。それが狙いなのか? ……とにかく今はここから出なくては。僕が動き出そうとした瞬間だった。 「ロロロロロロロロロロロロロ」 岡田を襲った時のように、化物は再び獣ような姿勢で僕と瑞町の元へと這いよってくる。瞬きの刹那、もう僕のすぐ目の前には、奴の焼けただれて何もない肉塊だけの顔面がこちらを見つめていた。それが三日月のような笑みを浮かべたかと思うと、僕の左腕を掴み叫ぶ。途端に腕からは火が上がる。黒と緋の交じる禍々しい炎だった。 「うっ……ぁぁああああああああああああ」 痛覚を通して、魂そのものまでもが焼かれているかのようだった。みるみる炎は広がり、腕から肩まで登ってくる。 ――その瞬間、屋内を、またも一陣の突風が駆け抜ける。 あの時と同じ、『風』。 ほのかに香る線香の臭い。 あの墓の前で聞いたよりも、鮮明にその声は僕の耳に届いた。その言霊は、 僕の脳内に電流のような閃きをもたらした。 「『二人を助けて。私にはこのくらいしかできないから』」 ――風が、腕を纏う炎を鎮火させていた。 浅神箕輪はその声と風と共に、去っていってしまう。ここは彼女の眠る土地。しかし死後墓の下に押さえつけられてきた彼女には、それしかできないのだ。この化物を前にしてできることは少ない。それでも、助かった。この僅かな時間が、活路を開いてくれた。 きっかけは――まさに今の一言。 そう……ようやく、わかってきたのだ。僕としたことがパニックになってしまっていたようだ。 痛みが脳天を貫いているせいか、先程よりも思考回路がスッキリしている。まんまとこの化物に一杯食わされたというわけか。僕は真相にだけ進路をとっていればよかったのだ。そうして真実を求めること以外、なにもできない、無能の出来損ないなのだから。 「わかったよ、お前の正体。存在の理由が」 言い放つ僕に、奴は真っ黒な歯をむき、獣ように低く唸り声を上げながら距離をとる。 ……もう、完全に『ヒト』としての原形を失っている。化物に成り果ててしまったのか。『媒体』を切り離してしまえば、徐々に崩壊していく自我を止めることはできない。この状態になることも受け入れていたのだろうが……。 「――本当の名前も、わかっている」 こいつの正体を導き出すためのピースは『抜け落ちた記憶』、『臍の緒という媒体の本質』、『浅神箕輪の真実』。そして『岡田玲二』という異質者がいなければたどり着くことができなかった。 こいつの正体、こいつの存在理由。それを全て理解した今、あとはもうそれを壊すだけでいい。 「お前は……『―― ― ――』――だ」 その名を口にした瞬間、獣と成り果てたソレは、自らの耳に指を突き刺す。鼓膜を破壊し、悲痛な雄叫びを上げながら、獣は事実を否定する。耳から、黒い液体が頬を伝う。そんなことをしても、意味がないというのに。 「諦めて、もう消えろ。お前の存在は、もう害しか産まないんだ」 「ろろろガガガがガアgろろろっろろ」 鞭で打たれたかのように、激しくのた打ち回ると、黒く醜い肉塊をボロボロと落としながら、寺を飛び出し、外へと駆けていく。正視に耐えない。狂気だけが奴の四肢を支えているのだろう。僕もその後を追おうと、瑞町夕浬を抱え、なんとか外へ運び出す。……しかし、もうそこに奴の姿はなかった。奴の場合、逃げようにも逃げる場所なんて、もうこの世にはないというのに――。 辺りからは、サイレンの音が鳴り響いていた。誰かが通報したのだろう。こんな田舎でもきちんと救急車は駆けつけてくれるようだ。なんとかこのまま病院に直行することができれば、あるいは――。 「……ん……グ……う」 けたましくこだまするサイレンの音に反応したのか、瑞町夕浬が薄く、その瞼を開いた。 「灰、川……さん」 「……すまない。奴は追い詰めたが、君にも、岡田さんにも被害を与えてしまった」 「……ア……ァ……玲二は……? ……どこ?」 「岡田さんは――」 言いかけて、彼女は再び意識を失った。 ――今回、僕は大きな責任、罪を背負ってしまった。いくら相手が常識を遥かに超える怪物だったとはいっても、途中まで、僕のやり方は通用しなかったといえる。僕の掲げる理論はまだまだ、この世界では未完成な――欠陥品だったということだ。それは嬉しいことでもあるのだが。……そのせいで犠牲を出してしまったことは、悔やんでも悔みきれない事実だ。岡田玲二、そして瑞町夕浬にはいくら謝罪しても許してはくれないだろう。 しかし、後のことは奴を掃ってから考えよう。まだ完全に終わったわけではないのだ。追い払ったにすぎない。この件には、僕の矜持の全てをかけて完全な決着をつける必要がある。 ――最後の、仕上げに取り掛かろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ---------------------。 ――夕浬。 お前は生きてくれ。 それが叶うのなら、俺の命にも相応の意味があったってことなんだ。 この地獄を生き延びて、どうか幸せになってほしい。 ……悲しいけど、もう一緒にはいられない。 俺はもう、長くこの場に留まっていることは許されないようだ。 そろそろ、行くよ。 いままで、ありがとうな。 またいつか、輪廻をこえてお前に巡り会えることを。 今はただ強く信じてるよ。 それじゃあ、またな。 さようなら、愛してる――……。 -----------------------。 優しく囁くその声は、やわらかな風とともに遠くへ去っていく。私が目を覚ました時、声の主の存在は、もうそこにはなかった。 無意識にぽとぽとと、頬を伝っては落ちていく涙を止める術が見つかない。もう、それだけで私には全てを理解することができた。何よりも大切な人を失ってしまったのだと。私のせいで、彼を死なせてしまったのだと。 「――瑞町さんに、責任はありません」 不意に、私の耳に静かな声が届いた。 「僕の力が至らないばかりに、こんな結果になってしまった。本当に申し訳ない」 「灰川さん……そんなことはありません。責任は全て私にこそあります。全ての諸悪の根源は私自身の存在に関係している。そうなんでしょう?」 「瑞町さん、あなたは史上類をみない程に特別な意味をもつ存在なんです。この一連の事件は根深く全ての運命を巻き込んでいる。……もう、ここで断ち切りましょう。決着をつけるんです」 私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。 様々な感情が入り乱れ、うねりあげている。破裂しそうだ。半ば放心状態に近いのに、嵐のような激流を巻き起こす私の心が、打開できない絶望的な現状をなによりも物語っている。今はとにかく、胸の内を落ち着けるようにつとめる。そうしているうちに体の感覚が、少しづつ戻りはじめた。 「……体中が、いたい」 「かれこれ、もう丸一日ほど経っています」 私は病室のベッドの上で点滴に繋がれ、両手、両足、至る所に包帯が巻かれていた。顔や頭も例外ではない。皮膚の表面は、火山岩のように歪んでいた。はは……これじゃあの化物と変わらないじゃない。……これは罰なのだろう。罪深い私への、ごく自然なあたりまえの罰。 「その火傷は、普通のものではない。『呪い』です」 そう言いながら灰川さんも同じように、黒く醜く焼けただれている左腕をみせる。 「僕も奴に掴まれたときにその呪いを受けました。この火傷がある限り、僕たちはもうどこにいても奴に感知され、追い続けられる」 「もう、逃げられないんですね……」 「ええ」 「なら潔く呪われて、死にましょう。あんな途方も無い化物、どうすることもできないし……それにどのみち、私にはもう生きていく気力も、意味も、もう――」 「あなたは、岡田さんの最後の言葉をもう忘れたのですか?」 「……。でも、あいつからは……」 「逃げられない。でも、こちらも迎え撃つ準備はできています」 「え……?」 「むしろ、虫に息なのは奴のほうだ。消滅の運命を知っていても尚、ここにやってくるしかないのだから」 ボロボロに傷ついた体で、彼は自信に満ちていた。あの怪物をこの人も見たはずだ。あまつさえ、奴の呪いすらその身に受けているのだ。わかるでしょう? この傷を通して厭でも理解させられる。あの化物の底なしの悪意と、絶望を。それなのに、どうして……? ……最初から、最後まで、この地獄のような非常事態の中を、彼は平常運転で進んでいく。そうか。そうなのだ。この人だけは、最初から信念を貫いていた。自分を『異質』と解きながら。ただ、自分のすべきことを一直線に。 「もうすぐ、夜が最も濃くなる。丑三つ刻です。……きてます、もうすぐそこまで」 全身の真っ黒な火傷が、凍てつくように蠢き出す。病室が、地の底のような闇に包まれる。 ここで全てが終わるのだ。 想像もできないほどの最悪の苦痛とともに、奴に引きずり込まれるのか。 奴を、この世から消し去ることができるのか。 あの、薄気味悪い、獣の唸り声が徐々に迫り来る。 はじまる。 ――これが、私に憑く因果の怪物との、最後の邂逅だ。 「きゃっ……!」 地鳴りのような呻き声が響いたかと思うと、突如窓ガラスが破裂し、床に散らばる。花瓶や医療器具も、見えない力により派手に歪曲し、破裂する。 「うがっ……!」 竜巻のようなその衝撃に、灰川さんの体が勢い良く地面に叩きつけられる。そのまま、磁石のように、地に顔をつけたまま、起き上がれないでいる。 「kkkkkkgロロロロロロロロ……ゴポゴポ」 ――静かに、奴は扉を開けると、地をはうようにして、私たちのほうへ近づいてくる。その姿は、昨日、あの寺で見たものとはまるで違っていた。肉体が崩れ、半液状化し、およそ人とは言えない、ただの『塊』となっていた。 しかし、それでも、奴の内包する力だけは外見に反して増幅されているのをひしひしと肌で感じる。焼けただれた、奴と同じ、この肌で。 「ロ? ロロおっロロロ? ロ? ロロロ」 まるで蛭のように這いながらずるずると、黒い肉塊を引きずりながらこちらへと近づいてくる。奴の這った後の地面が、硫酸に灼かれたかのように溶かされていた。 全身火傷の後遺症なのか、この場の異様な重苦しさのせいなのか。私の体の自由は、完全に奪われていた。辛うじて小さく、小刻みに呼吸することで精一杯だ。灰川さんも同様に、この圧力を前に地面に吸い付くように押さえつけられていた。 ――直感的に、理解する こちらに這い寄ってくるこの化物に触れたら、その時点で『終わり』だと。 しかし、理解できていても、どうすることもできない。この圧力の前では動く事ができないのだ。それは灰川さんも同じだ。これでは……。このままでは……。 だめだ。もう、間に合わない。黒い肉塊が、目と鼻のさきにまで迫っている。……終わりだ。そう確信し、目を閉じた時だった。 「――やめるんだ。『浅神夕浬』」 「――え?」 灰川さん……? 「聞こえなかったのか? 止まるんだ、『浅神夕浬』!」 わけがわからず、私はゆっくりと目を開ける。 「あんぎゃややあああああああああああああああああああああああああああああああああ」 そこには、部屋の四方を狂ったように走り回りながら、大口を開けて黒い血液をまき散らす化物の姿があった。そのまま墨汁のような血を全て吐き出したかと思うと、今度は痙攣しながら力なくその場にへたりこんだ。 一体、なにがどうなっているの……? 気づけば、あの厭な圧力も消えていた。 息を切らし、ふらつきながらその体を起こす灰川さんが静かに言った。 「瑞町さん、あなたは『浅神夕浬』じゃない。この化物こそが、『浅神夕浬』なんですよ」 「どういうことなのか……きちんと説明してください」 「……まず、最初の誤解は『媒体』が『臍の緒』であることから、コイツの正体をあなたの母、『浅神箕輪』であると考えたことでした」 「夢の内容とも合致するし、他に考えられる対象なんていないじゃないですか!」 「『浅神箕輪』は、きちんと彼女の墓に祀られています。あなたに罪の意識があるせいで、その事実には気づくことができなかったのです」 「そんな……じゃあ、私を襲うコイツの正体はなんなの!? コイツは……一体なんなの!?」 「……瑞町さん、そいつの『媒体』である『臍の緒』とは、あなたとあなたの母を繋ぐもの。という解釈は間違っていたんです」 灰川さんは、静かに白木の箱を私に差し出すと、中の臍の緒を取り出す。 「『浅神箕輪』は、何度か瑞町さんを守ってくれました。あの寺で彼女から、僕は頼まれたのです『二人を助けて』と」 「『二人』……?」 私と、玲二を? いや、その時に玲二はもう……。じゃあ灰川さん? いや、それも違う。それじゃあ、まさか……。 「瑞町さんと……――『この化物』をです」 「……コイツを? なぜ……母が?」 「――母だからです。瑞町さん、『媒体』の臍の緒は、いくつありましたか?」 ふたつ。ふたつ、……あった。 『臍の緒』。『ふたつ』。『二人』。 ――そうか。 そういうことだったのか。 「この化物の正体って……私の……」 「さすが、肉親は理解が早いですね。そうです。この化物と瑞町さんは双子の姉妹。あなたの――『姉』なんですよ」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 僕は取り出した『媒体』を握りつぶした。 「アア嗚呼アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああ」 もう、人と呼ぶのことのできないモノへと成り果ててしまった『塊』が、肉片をまき散らしながらこの場離れようともがく。醜く、節足動物のように手足を動かしながら、苦悶の表情を浮かべている。 「……彼女は、生まれてまもなく焼死しました。しかし、母体と繋がっていた為、『生きたい』という魂の渇望が彼女をまだ息のあったあなたの中に入り込ませたのです。その時、彼女は母の体を通り、臍の緒を通り、死を前にした苦痛や悲しみといった負の感情に当てられてしまった。これがこの事件の発端です」 「……私は、それじゃあ、自分の『姉』にずっと命を付け狙われていたというの?」 「……僕達の常識は通じませんがね。なにせ、『それ』は瑞町さんの自我が芽生えるよりも更に以前からあなたの内部に寄生し、あなたと同様に成長してきたのです。ずっと、『負』の感情を吸収しながら、ね」 最初に想像を絶する母の焼死という心の痛みを。 そして、瑞町が幼い頃からずっと抱え込んでいた心の傷を――。この化物はその身に取り込みながら膨張していったのだろう。……でも、その行為そのものは……。 「……この『負』の感情を取り込むという行為は、瑞町さん、あなたの精神を守るために彼女がしたことだと、僕は考えています。そして、母、箕輪さんの死に際の怨恨の念を取り込んだことも、死後の箕輪さんを悪しきものに変えないために」 「じゃあ……この『姉』は私はたちのために犠牲になっただけ……?」 「……20年間、あなたと箕輪さんのためにずっと尽くしてきた彼女は、ある日、もう自分は必要ないと気づく。あなたには恋人ができ、友人に囲まれ、陰鬱な家族から離れて幸せな日常を送り始めた。その時、彼女はあなたという器の中から外へと飛び出した。……これが瑞町さんに彼女に関する記憶が抜け落ちていた理由でしょう」 推測が、やがて事実を紡ぎだし、多くの因果が、今、現在を織り成している。僕にできることは存在理由を理解し、それを対象から『掃う』ことで解決するということ。僕のこのやり方が今回のケースで通じないのは、この化物が『存在理由を奪われたがために現れた』例外中の例外であるからなのだ。 「悪意の塊。それしか持っていない彼女は、自然とその殺戮対象を瑞町さんと、その周囲の人物に設定してしまう。――そういう、破壊のプログラムしかされていないから。……これが今回の事件の全貌です」 瑞町は、呆然としながらももがき苦しむ化物に、哀しげな眼差しを送っている。やがて、決壊したかのように涙を滴らせる。僕では、とてもその胸中を理解することは敵わない。想像を遥かにこえて、悲しみ、愛、憎悪。それら多くの感情が渦を巻いて奔流していることだろう。 「私は……私はどうすれば、いいの……? どうすれば、この哀れな姉を救う事ができるの? 私はこの姉を、憎くて憎くて仕方ない。でも、それ以上に、そんな自分が憎くてたまらない! どうにもできないの!」 「今の彼女の行動理由とは『妹を取り込む』こと。しかし……この化物は、あなたの双子の姉ですが、元はひとつの存在だったものです。この『事実』を瑞町さんが理解した今、もう自然な形で瑞町さんを取り込み、彼女が主軸のひとつの存在になることは不可能となってしまった。じきにこの化物は消滅します」 「もう、なにも……できることはないの?」 「僕にはありません。この消滅はあくまでも彼女の中でのみ完結する事象なので、僕の力では何も届かない。しかし、瑞町さん、あなたにはまだやれることがある」 「……できることはなんでも、します」 「逆に、この化物をあなたが『取り込んで』ください。事実を理解した今、もともと繋がっていたあなたにはそれができるはずです」 「取り込む……? そうしたら、姉と、私はどうなってしまうの……?」 「ここまで弱まったこの化物は、あなたの中で増長することはないでしょう。意識こそないですが、無我のひとつとして、静かにあなたの中で存在できるかもしれません」 「……わかりました。――不思議と、その方法はわかります……」 瑞町は、涙を拭くと、まっすぐに蹲る肉塊を見下ろし、ゆっくりと近づいた。 この先は、姉妹で解決することだ。僕は、静かに病室を後にした。 通り抜ける風が、髪をゆらす。 ――本件で僕にできることはここまでだろう。 この哀しい姉妹の愛憎の物語はここでひとまずの幕を下ろす。奥底に隠された真実に辿り着くまでに、多くの犠牲を払ってしまった。このことを、忘れてはいけない。 願わくば、せめてごく普通の、ありふれた安息が彼女たちに訪れることを祈るとしよう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー それから、もう一度私が目を覚ますまで、一週間の時が流れていた。 病室のベッドの上で、祖母が泣きながら私を抱き寄せてくれたとき、全ての因縁から開放されたのだと、理解した。……いや、それは正確には少し違う。たしかに今までの因縁は断ち切られ、開放された。ただ、それと同時に新しい因果に、もう私は巻き込まれているのだ。 祖母は、あの夜に私と玲二を寺に隠すと、『媒体』を持ち、一人『囮』として実家に残った。そうまでして私を守ろうとしてくれたのだが、今回の件で私以上に酷く責任を感じてしまっていた。号泣しながらきつく私を抱きしめる祖母に、事の顛末を説明しても、優しい彼女は自分を責め続けていた。 体が完全に動くようになるまで、それから更に二週間の時間が必要だった。医者の見立てでは、すぐに動けるように回復するはずだったのだが、傷の回復具合から判断してもこうまで障害が残るのはおかしいと話していた。その理由は、恐らく私自身が何よりも深く理解している。この体は、いままでの私のものではない。あの時、新しく生まれ変わっているのだから。 あの醜く黒々とした火傷の痕も、信じられないことにみるみるうちに薄くなり、今ではもうすっかり元の肌に戻っている。灰川さんはあの炎を『呪い』だと言っていた。つまりこれも、あの時、『姉』を私の中に受け入れた影響なのだろうか。 私には、どのようにしてあの『姉』をこの身に取り込んだのか、その記憶がない。それは恐らく、あのときの私と、今の私が同一の存在ではないからなのだろう。その事実だけは理解していても、実際の記憶が抜け落ちているのは、つまりそういうことだ。誰だって自分が生まれた時の記憶なんて持ちあわせていないのだから。この、私自身の起源については、深く詮索しないほうがいいのだろう。今の私が、今後『私たち』として生きていくためにも。 私は病院を出てから、まっすぐに母の墓へと向かう。今の自分達を、母に見せなくてはならない。そして謝罪と感謝を伝えなくてはならない。 木々の並ぶ山道を自然の声に耳を澄ましながら進んでいく。麓の墓地に入り浅神の墓へと向かうと、その墓標の前に花と線香を捧げる。事の顛末を話し、これからの生き方を母の前で誓う。母の言葉は、私の耳には届かなかった。それでも、肌に感じた心地の良い風が、全ての答えであるかのように思えた。 「またくるね、お母さん」 もう一つ、行かなくてはならないところがあった。 私は都内へと戻り、その場所へ向かう。途中、柚子と久々に再会を果たした。泣きながら私に抱きつき、無事を心から安堵してくれていた。柚子はずっと私の見舞いに来ようとしていたようだが、完全に解決するまでは待って欲しいと、私が柚子にそう話していたからだ。この日常に戻る前に、心の整理する時間が必要だった。 それができたから、今、私はここに来ることができた。 「……玲二」 岡田家の墓標の前に、私は花を手向ける。 「ありがとう……」 流れ落ちた涙が、花を濡らす。玲二のおかげで、今わたしは生きていられる。あなたがいてくれたから。前を、向いていられる。胸を締め付ける深い悲しみと、それを覆う感謝が、心を震わせて、震わせて震わせて――私を包み込んでいく。 生きていくっていうことはこういうことなのだと、新しく理解する。 何よりも大切なものを失い。絶望し、憎悪した。でも、誰もそのまま沈んでいくことを望んでなんかいない。前を向け。止まるなと、ただひたすらに激励してくれる。どんなに苦しくても内ばかりを見つめていてはいけない。 ――時は今も流れているのだ。流されるのではなく、進んでいくこと。そうして初めて、私は自分と向き合っていける。 ……あなたのことは、絶対に忘れない。この胸に灯して、決して絶やさず生きていく。 「……玲二、本当にありがとう」 そう呟き、立ち上がる。その時、踵を返す私の元へと、意外な人物が近づいてくる。 「……当然ですが、瑞町さんも来ていたんですね」 「灰川さん」 「なんですか? その意外そうな顔は。僕が友人の墓参りにくることになにか疑問でも?」 「いえ、そんなことないですよ」 私は微笑みながら、花を添え手を合わせる灰川さんを見つめた。 「……今回は、岡田さんの力がなければ解決することができなかった。……あの時、勇敢に立ち向かっていった彼の行動が、最後のピースを紡いでくれたんです」 「……なにをそんなに俯いているんですか?」 いつもの、掴みどころのない、灰のような彼ではない。飄々とした態度はなく、静かに決意に満ちた面持ちだった。 「今回の件で、僕は己の無力を痛感しました。これからどうしたものか。こうして彼という犠牲をはらってしまうなんて、心霊相談失格ですよ」 彼は拳を震わせながらそう零すように呟いた。彼の灼かれた左腕は、まだあの黒いアザが残ったままだ。もしかしたら、私と違って完治することはないのかもしれない。 ――この人もまた、私の知らないところで多くのものを背負っているのだろうか。私は結局、最初から最後まで、玲二とこの人に支えられっぱなしだった。 「……失ったものもあれば、守れたものもあったじゃないですか。灰川さんのせいではありません。思いつめないでください、そもそもこれは私の――」 彼はそっと私の口の前に手をかざす。 「――おっと、そこから先は言わないで。わかってますよ、これからどうするかが大事なんだってことはね」 そう言うと、彼はブラック無糖の缶コーヒーを墓前にポツリと置く。 すると彼は立ち上がりゆっくりと歩いていく。そのまま夕日に向かって彼がしばらく進んだところで、思い出したようにその場で立ち止まり、振り返りながら私に言った。 「――そうそう。まだひとつ伝えてないことがありました」 「え、なんですか?」 「あなたが寝たきりの時に、瑞町夕浬でもない、浅神夕浬でもない、あなたの本当の名前を箕輪さんから伝えてくれと頼まれていたんです」 私の、本当の名前? ――そうか、これまで私が本名だと思い込んでいたものは姉の名前で、私のものではないのだ。 「――『浅神小宵』」 浅神……小宵……。それが私の真名。 「それがあなたの本当の名前です。浅神箕輪の娘で、浅神夕浬の妹の。姉の『夕』と妹の『宵』。名前まで繋がっているなんてね。良い名前じゃないですか」 背中でそう言い残すと、彼は手を振り去っていく。帰るのだろう。彼の生きる場所であるあの、寂れたビルの事務所へと。 ――私は、この先をどう生きていけばいいのか、ずっと考えていた。考えて考えて、ようやく答えが見つかった。こうするべきなのだと、運命なのだと、私は確信をもって進むことができる。見ていて、お母さん。頑張るよ、玲二。――行くよ、お姉ちゃん。 「ちょっと、灰川さん! 待って!」 声をかけるが、彼は止まらない。聞こえているはずなのに。 「こら! 無視するな! 灰川倫介! このスカしたワカメ頭!」 「……なんですか。小宵さん、名誉毀損で起訴しますよ。これは断じてワカメじゃない。言いがかりはやめていただきたい」 「私、この数週間寝たきりだったじゃないですか……」 「ええ、それが?」 「だからバイト、クビになっちゃったんですよ、無断で休んだから。……困りました」 「……つまり?」 「――どこかいい働き口、紹介してくれませんか?」 私の目を見返して、彼は深くため息を吐き出しながら頭をぼりぼりとかく。きっと、先程私の声を無視した時からこうなる察しはついていたのだろう。お見通しだ、相変わらず。 でも、あなたならわかるでしょう。 こうするしかないってことも。こうするべきなんだってことも。 ――彼は、前を向き再び歩きだしながら、静かに背中越しで答えた。 「……まずは面接からだな」 ――夕暮れの中を。『夕』と『宵』のまじる中を。一陣の風が通りぬけていく。 この新しい運命の中を進んでいこう。その先になにがあっても。なにもなくても。 ――私達はもう、そう決めちゃったんだから。 『憑キ物落トシ・第一章〜怨炎繋系〜』 完 |
宵木 倫
2013年08月20日(火) 11時02分31秒 公開 ■この作品の著作権は宵木 倫さんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
この作品の感想をお寄せください。 | |||||
---|---|---|---|---|---|
No.6 宵木 倫 評価:--点 ■2013-09-09 06:12 ID:dWCf6tQFXa6 | |||||
お 様 丁寧なご指摘ありがとうございます。励みになります。 僕自身、読み返してみて己の未熟さを痛感しているところであります。構成力も、演出も、語彙力も、何もかもがまだまだだということがよくわかりました。ご指摘いただいた通り、掘り下げが甘すぎました。僕は感覚的に作品を勢いで書き上げてしまうきらいがあるようなので、次回からはきっちりと作品を仕上げるために客観的な推敲も実践していきたいと思います。 今回が初の投稿で、まだ創作になれていない面もあったのですが、本作を通してひとつ、学ぶことができました。本当にありがとうございました。 最後の一文、とても嬉しかったです。 |
|||||
No.5 お 評価:30点 ■2013-09-08 14:36 ID:wxwaeJFv2JA | |||||
読ませて頂きました。 面白かったです! エンターテイメントとして、わくわくしましたし、ドキドキしました。これ、一番重要なことだと思います。 さりとて。 高得点にしなかったのは、視点の切り替えが激しくて、今一つ入り込みづらかったこと、設定的に少々無理筋かなと思えること、そんなところがあったからです。 視点の切り替えについては、一人称でやるなら、主人公の女性目線だけでも良かったのではないかなと思いました。するとすればもう一人、彼氏目線かな。その場合でもきちんと計画性をもってバランスとか考えないといけない。展開上のシーンを対になるようにしてみたり、そういう意味では今回いくらか行き当たりばったりな感じは受けました。いずれにせよ、探偵目線は余計かなと思いました。これにより探偵のミステリアス感が薄れてしまいました。探偵目線をするなら、最初からメインの流れとして、時々別視点を挿入として入れ込むとかの方がしっくり来る気がします。 設定に関しては、うーん、一級の祓い師が逃げ出すほどの怪異が、ヒロインの○○なんていうのは、ちょっとどうなのかなぁ。うまれてたかだか20年の怪異、しかも、せいぜい当人入れても人三人分の怨嗟、特に血筋的な特異性もなく、となるといくぶん整合性に首を傾げたくなる。また、探偵さん、心理学うんたらという話しですが、今回、心理云々という展開ありました? ただ事実を積み重ねて正体を明かしただけです。心理関係なくね? と思いましたが。まぁ、この人、ちょっとキャラクター固まってないなぁという印象も受けました。もう少し、煮詰めていく必要があるのでしょうね。言葉による心理合戦というなら、法廷物を彷彿とさせるような言葉の応酬とかあると醍醐味だと思います。でなければ、催眠術、詐術、目くらまし、そういう類の現実と幻想を渾然とさせる言葉の技術とか。ま、それが出来ればプロ級だよね、て話しではありますが。 僕の中では期待の新星! という認識なので、投稿されるなら続きもまた、タイミングが合えば、読ませて頂きたいなと思う次第であります。 |
|||||
No.4 宵木 倫 評価:--点 ■2013-08-29 23:31 ID:dWCf6tQFXa6 | |||||
ヒロ 様 感想ありがとうございます(^_^) キャラの持ち味を活かすために、もっと『灰川倫介』をしっかり掘り下げていきたいと思います! ありがとうございました。精進致します。 |
|||||
No.3 宵木 倫 評価:--点 ■2013-08-29 23:26 ID:dWCf6tQFXa6 | |||||
時雨ノ宮 蜉蝣丸 様 貴重なアドバイスありがとうございます。 一人称については盲点でした。無意識にリアルタイムな心の動きを表現していこうとして今回は『僕』を使いましたが、キャラの持ち味をより活かしていくためには仰るとおり視点を有効に活用していくのも良いですよね。 続編に関しては今現在執筆中です(*^^*) 完成し次第、またここに投稿させていただきたいと考えています。 ありがとうございました。感想嬉しかったです。 |
|||||
No.2 ヒロ 評価:50点 ■2013-08-29 02:02 ID:E9SYKwqrXoM | |||||
クライマックスの疾走感はなかなかのもの ただ灰川さんが途中から突然人間くさくなるのに違和感… 全体的には楽しかったです。 |
|||||
No.1 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:40点 ■2013-08-28 00:38 ID:CIKAKR2gXJI | |||||
個人的に好きなテイストの話でした。普通に面白かったです。 灰色無気力ワカメのお兄さんがいい味醸し出してました。 ただ、これまた個人的な意見ですが、ワカメお兄さんの視点のところは、 「僕は〜……」の形ではなく 「灰川倫介は〜……」の形の方が、ワカメお兄さんのミステリアスな雰囲気が壊れにくいだろうと思いました。「僕は」で、えらく親近感が湧いてしまったので……。 もちろんそのつもりでこの形にしたのであれば、不躾・無粋な物言いですが……。 読んでいて楽しかったです。ぶっちゃけ続編があればそれも読みたいくらいです。 ありがとうございました、頑張ってください。 |
|||||
総レス数 6 合計 120点 |
E-Mail(任意) | |
メッセージ | |
評価(必須) | 削除用パス Cookie |