病棟ミッドナイト
 病棟307号室。
 そこに一人の若い女性が、か細い呼吸を繰り返しながら寝ていました。手足は信じられないほどに細くなっていて、目は朝のまどろみのように虚ろに開かれていました。呼吸器が微かに曇ったり晴れたりしていることや、横に置かれた四角い機械が心拍を刻んでいることから、まだ女性が生きていることがわかりました。
 307号室の前の廊下を、白衣の医師や看護師がばたばたと通り過ぎていきます。両手にいろんな医療器具やカルテを抱えて、307号室などには目もくれず、走っていくのでした。
 307号室の隣の病室に入っていくのでした。

 307号室の隣、病棟308号室。
 そこに一人の中年男性が、か細い呼吸を繰り返しながら寝ていました。手足はしっかりと太さがあって、目は夜の眠りのように安らかに閉じられていました。呼吸器が微かに曇ったり晴れたりしていることや、横に置かれた四角い機械が心拍を刻んでいることから、まだ男性が生きていることがわかりました。
 308号室の中には、たくさんの人達が心配そうな顔をして立っています。ある人はすすり泣き、ある人は祈り、ある人はじっと黙っていました。医師や看護師が懸命に処置をしているお陰で、男性は何とか死ぬことを免れようとしていました。
 大富豪の男性は、何とか生き延びようとしていました。

 誰一人いないナースステーションで、307号室のランプが点いていました。
 誰一人307号室に気付かないで、少しだけ早くに点いていた308号室に行っていました。

 深い深い夜が、病棟を包んでいました。窓硝子から見える藍色の空では白い三日月が、病棟を見下ろしていました。

「貴女は、この運命を呪うかい?」
 病棟307号室に、静かな声が響きました。
 女性は少しだけ体を震わせて、声のした方を見ました。
 藍色の空を背に、誰かが窓辺に腰かけていました。細い月光が、痩せたシルエットと繊細な色の髪を浮かび上がらせていますが、部屋の電気が消えているので、暗くて顔は見えません。
 女性は声の主――恐らく若い男でしょう――を見つめて、それから微かに首を振りました。
「貴方が今、生死の境を越えようとしている間にも、理不尽な延命を受けている人がいる。貴女も受けるべきであろう処置を、完全に放棄している人がいる。それでも?」
 女性は頷きました。
 隣の部屋からは相変わらず、忙しく人が出入りしています。
「あの男は近所でも業界でも家庭でも、忌み嫌われている人物だ。不親切、無愛想、おまけに傲慢。そんな世の中から弾き出されても何ら悲しむ理由の無い男のために、貴女は死のうとしている」
 それを聞くと女性は、小さく微笑んで頷きました。
 青年は問いました。
「けれど、貴女にも思い残したことはあるのだろう?」
 ――女性はわずかに考えて、頷きました。
 そして自分の薬指にはまっている、銀色の指輪を見ました。

『いつかこんな日が来ることを待ち望んでいたわ』
『ボクもだよ。君とこれからを歩んでいける日を』
『ごめんね、お父さんったらあんなこと言って』
『いいんだ。君といられるなら』
『幸せだなぁ』
『これからもっと幸せになるさ』

 薬指にはまっている、婚約指輪を見ました。

「生きていたいとは、思わないのかい?」
 青年の言葉に、女性はただ、微笑んだだけでした。否定も肯定もしませんでした。
 藍色の空と白い三日月と、痩せた人間の影を見上げて、小さく、息をしました。
 何か伝えたげに、瞬きをしました。
「僕では延命できない」
 青年は呟きました。
「だから、延命を望まない貴女に問おう」
 同じ調子で訊ねました。
「貴女は僕に、何を望む?」
 ――女性は答えを口にしませんでした。いいえ、あまりに衰弱しきっていたため、もう声を出すこともできなくなっていたのでした。
 代わりにちょっとだけ指を動かして、自分の腕に付いている点滴のチューブを引っ張りました。
 それだけで青年は、女性が自分に何を望んだのかわかったようでした。
「……本当に?」
 女性は頷きました。今にも途切れそうな、掠れきった息を吐きました。
「後悔しない?」
 また女性は頷きました。横の四角い機械が、その乱れた脈を刻んでいます。
 青年はひどく無表情に笑いました。
 そしてそっと、女性の口を覆っている、透明な呼吸器を外しました。
 女性の体に酸素を運ぶ機械を外して、枕の横に置いたのでした。

 女性は満足そうに笑いました。
 それは、窓から降り注ぐ三日月の光のように淡い、本当に美しい笑顔でした。

 青年は女性の傍らに立つと、静かに言いました。
 それは、夜闇に瞬く星の煌めきのように繊細な、本当に静かな声でした。

「『今までありがとう。さようなら、ボクの愛した人』」

 耳障りな、それでいて一定な電子音が響きました。
 女性は、呼吸することをやめていました。
 淡く微笑んだまま、生きることをやめたのでした。


 廊下をせわしない足音がいくつも通り過ぎていきます。
 病棟307号室。
 何人もの看護師と一人の医師が、必死に女性を蘇生させようとしていました。その後ろで、何人かの人々が驚きと悲しみに目を見開いて立っていました。それは先ほど、308号室にいた人達でした。
 そしてその人達のさらに後ろに、一人の若い男性が立っていました。背の高い、ちょうど今蘇生を受けている女性と同い年くらいの男性が、廊下から愕然と、病室の中を見ていました。
 薬指には銀色の、女性がしていたのと同じデザインの指輪をしていました。

「貴方の大切な人が、亡くなったようだ」
 病棟308号室。
 誰もいない病室に、静かな声が言いました。それは少し前に、隣の307号室で、女性に話しかけていた青年の声でした。
「貴方のためならと、彼女は自ら生きることを手放しました。貴方を呼び戻す作業を中断させないために、藻掻くことをやめました。……貴方のために」
 青年が話しかけているのは、308号室で蘇生を受けていたあの男性でした。今は安定した呼吸を繰り返していて、すっかり落ち着いたまま眠っているようでした。
「貴方の大切な人――貴方の娘さんが」
 男性は何も反応しませんでした。
 ただ目を閉じて、呼吸をしていました。
「彼女が貴方に結婚の許しを乞うた時、貴方は婚約者を追い返し、お見合いを拒んだ彼女までも、怒りに任せて勘当してしまった」
 男性は黙っています。
「愛娘を、どうにかして幸せにしてやりたかった我が子を、貴方は自ら、幸せの絶頂から突き落としてしまった」
 否定も肯定も、しませんでした。
 青年は薄く笑んで、言いました。
「……娘さんに、貴方のことをわざと悪く形容して訊きました。……彼女は、それでもいいと、……親切で明るくて、皆から尊敬される貴方のことを、恨むことも無く、ただ、愛していた。恋人と結婚式を挙げることを夢見て、けれど大した延命もできないと悟っていた彼女は、貴方を生かすことにしたんです」
 優しい声で、囁きました。
「『親不孝な娘を、どうか許してね』……と」

 男性は、応えませんでした。
 青年は笑み浮かべたまま、足音も立てずに部屋をあとにしました。
 青年がいなくなってすぐに、ベッドの上から、誰かの泣き声が聞こえてきました。
「……ごめんな、ごめんな……こんな父親で……ごめんな……」
 男性は、枕に涙を零し続けました。

 廊下に出て少し行ったところで、青年は誰かに呼び止められました。
「あのっ……」
 薬指に銀色の指輪をはめた、背の高い若い男性――息を引き取った307号室の女性の婚約者でした。
「ちょっと伺いたいんですけど……」
「はい、何でしょう?」
「さっき308号室で、隣の部屋の患者が死んだって、話してましたよね?」
「ええ」
「……ボクの恋人なんですけど……自分から死んだって、どういうことですか」
 青年は特に戸惑ったりはしませんでした。
 無表情に笑んで、こう言いました。
「まったくその通りなだけですよ。彼女は自ら生きることをやめた」
「……隣室の男のために?」
「はい。だってあの人は、彼女の実父ですから」
 男性は一瞬驚いて、病室を振り返りました。
 しかしすぐに、厳しい顔と口調で、
「……そうですか。……お答えいただき、ありがとうございました」
 言って、踵を返そうとして、
「あぁそうだ……貴方に言わなければならないことがある」
 青年の声に、やめました。
「何ですか?」
「彼女の死の手伝いを、僕はしました」
 ――男性の手が、青年の襟首を掴んで締め上げていました。
 が、青年は、怒る男性に臆すること無く、淡々と言いました。
「……彼女は苦しんでいたんですよ。いつ治るかもわからない、延命もろくにできない自分の治療費を必死で集める貴方に、感謝と罪悪感を感じていた」
「だからって……だからって……」
「これ以上の延命は無意味だと、彼女は思ったんです。それで僕に、頼んだんです」
「……何で……」
 肩を震わせ、涙ぐむ男性に、青年は「これは彼女からの伝言です」

「『今までありがとう。結婚できなくてごめんなさい。貴方に愛されて、幸せだった。私は本当に幸福だった。だから、自分や誰かを責めないで。泣かないで、前を向いて、どうか私の分まで生きてください。そしてこんな身勝手な私を、いつか許してください』」

 ――廊下に誰かが崩れ落ちる音がしました。床を掻き毟って、嗚咽するのが聞こえました。
「僕は神様ではありませんから、偉そうなことは言えませんが……」
 ひどく、優しい声音で。
「……この理不尽な運命を、呪うこと無く受け入れて、生きてください」
 青年はそう呟くや、廊下を歩き出しました。
 泣き声の反響する廊下を、何ごとも無かったかのように、軽い足取りで歩き出しました。
 泣き声は延々、響き渡っていました。

 窓硝子の、白い三日月。
 静寂。
 無音。
 病棟を包む、藍色の空。

 深い夜に紛れ、青年は、死神のように微笑みました。


  (END)
時雨ノ宮 蜉蝣丸
2013年08月17日(土) 03時08分06秒 公開
■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初作品、よろしくお願いします。

夜の病棟の静けさや雰囲気が伝わってくだされば幸いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.6  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2013-09-26 23:25  ID:SXfzpuOBPCw
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高尾 椿  様

読んでいただけたことに、まず感謝を。

読み手の想像力というのは、人それぞれ個人差があります。故、未だに『いい塩梅』というものが見付けられずにいます。これはもう、経験で掴んでいくしかないな、と……過不足無く『想像力を掻き立てる』作品が書けるよう頑張ります。

長めの作品ですか……! 現在ここへの投稿を目標に執筆中であります!
投稿できた時は是非コメントをお願いします……!!
コメント、ありがとうございました。
No.5  高尾 椿  評価:30点  ■2013-09-26 10:06  ID:vA2NVC3mDuE
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拝読いたしました。
全体に流れるダークな背景。生を棄てる決意をする女性と真相を知らされた恋人の涙。それが闇に射す一筋の光の印象を受けました。
小説は漫画や映画とちがい、読み手に想像力が必要です。
どう受け取るのか、それこそ十人十色。
この物語はそんな読み手の想像力をかきたてる一方、それに頼ってしまって
いる部分があるな、と勝手に思いました。
ご納得のいく感想ではないことをお詫び申し上げます。
ながめの作品をぜひ拝読したいな、とお思います。
No.4  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2013-09-02 08:04  ID:g5E50hPemQ2
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坂倉圭一 様

ありがとうございます。雰囲気出てると言われてとても嬉しいです。

はい、自分自身もあとで読み返して「丸投げしすぎだろ」と思いました。おっしゃる通りです。精進します。
コメントしてくださってありがとうございました。
No.3  坂倉圭一  評価:30点  ■2013-09-01 21:41  ID:VXAdgm2cKp6
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読ませていただきました。

雰囲気は出ていましたよ。
ただ、読みながら、いろいろな謎(人物についてや、人と人の関係、繋がり、背景、病気など)を想像によって解決しようとする作業に追われてしまいました。読者に頭を使わさせ過ぎるという印象を持ちましたので、想像の余地を残させるにしても、もう少し情報を提示した方が良いかもしれません。

いずれにしましてもミステリーを感じさせる面白い作品でした。
ありがとうございました。
No.2  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2013-08-19 21:49  ID:WlfWMIqHymQ
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コメント誠にありがとうございます。

「〜ました」が多い、これはゆうすけさんのおっしゃる通り、雰囲気作りのためです。流れ悪くてすみません。
また、謎の青年が男性に「貴方のために〜」と言った場面。確かに過失は病院側にありますが、この中ではもう女性は「どんな処置をしても助からない」ことになっている(あくまでも延命は“権利”)ので、どちらかというとこれは青年の皮肉みたいなものです。
女性の心情を描かなかったのは、あえてです。後々青年がそれらしいことを言いますが、本当にそうなのか、青年の「こうだったらよかった」的な願望か、読者の方々の想像力に任せようと思ったからです。青年の背景も同様です。
病状などを詳しくしなかったことも、リアリティをわざと殺し、いろいろと妄想展開をしていただきたかったがためです。
そして、何故婚約者を部屋に呼ばなかったのか。これもできれば想像で楽しんでいただきたかったのですが、わかりづらかったようなので一応解説を。
女性が「死ぬ瞬間を見せないでくれ」と願ったのか、青年があえて呼ばなかったのか、あるいは両方か。本文中どこにも青年が「善人」とは書かれていないので、ひょっとしたらただ彼女らを弄んだだけかもしれないわけです。

長くなってしまいました、すみません。
コメント、参考にさせていただきます。

最後に訂正を。
「初作品」ではなく「初投稿」です。実際の小説歴は十年近くになります。
すみません、ありがとうございました。
No.1  ゆうすけ  評価:20点  ■2013-08-19 18:46  ID:1SHiiT1PETY
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拝読させていただきました。

とてもミステリアスな作品ですね。
謎の青年はいったい何者なのか? 死神のようにも感じますが実体があって会話もしている。
さてさて、初作品ということですが、気になったことを色々と書かせてもらいます。
まず、文章の流れが悪いです。語尾「〜ました」が多すぎです。雰囲気作りのためでしたら、私の見当違いな意見ですが。
特定の病室にかかりきりになって、放置されてしまう展開、ここにもちょっと無理を感じました。父親も容態急変しているはずですから、父親には責任がないですし、病院側のみの過失ですよね。
一切恨みを抱かずに従容と死んでいく女性の切ない心情、これをいかに効果的に見せるか? ここが今作の核だと思います。謎の青年に遺言を託して死んでしまうわけですが、いまいち盛り上がりません。
謎の青年のキャラを、もっと強化させるものいいかもしれません。かつて彼女を愛しながらも死んでしまった亡霊、あくまで彼女を大事に想い、その幸せを願う、彼女が死ねば一緒になれるけどそんな事は望まないような、彼氏の親友という設定も面白いかもしれませんね。彼氏に伝えるぐらいだったら、最初から病室に呼んでやれよと思ってしまいます。
私は病気マニアなので勝手な言い分なのですが、病名とか病状とかも言及した方がリアリティがあると思ってしまいます。

では、頑張ってくださいね。
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