純潔なる屍
 地方都市のスーパー、総菜売り場のポテトサラダの前で、男は立ち尽くしていた。
 おもむろにポテトサラダのパックを手に取った男は、裏の成分表示を嘗め回すように一つ一つ確認していく。
「人参…ジャガイモ…乳化剤…ああ、ダメか…」
 男は落胆した様子でパックを元の棚に戻す。その右手は白く、痩せ細っていた。

 数十分後、手ぶらでスーパーを後にした男は国道沿いの歩道をとぼとぼと歩いている。目の動きは落ち着かず、口元には水で濡れたマスクを付けている。
「…大気…PM2・5…ダイオキシン…」
 ブツブツと独り言を続ける男に周囲の通行人は奇異の目を向けるが、当人はそんなことに全く気が付かない様子で歩き続ける。
「ちょっとすいません!」
「…はい?」
 鋭い声を聴いた男が振り返ると、背後には制服の警官が笑みを張り付けて立っていた。
「お手間取らせてすいません。住所と氏名、ご職業を教えていただけますか」
「…職務質問ですか」
 男は面倒臭そうに情報を口から機械的に吐き出していく。その口ぶりから、こういう事には慣れているのであろうことを若い警官は感じ取った。
「…ありがとうございました。では」
「はい…」
 独り言と暗い雰囲気以外、特に危険を感じさせる要素はない。警官は書類を仕舞うと交番に戻っていった。

「…ただいま」
 古びたアパートの2階にある自宅のドアを開け、男はため息をひとつ吐く。
 部屋には誰もいない。人間どころか動物もこの部屋からは排している。昆虫などもってのほかだと男は思っていた。
 爪の先から肘まで、薬用石鹸で念入りに時間をかけて洗った後、うがい薬をかなりの濃さで希釈してこれまた念入りにうがいを行った男は、外出中に部屋に繁殖したであろう雑菌の可能性を考慮し、アルコール消毒スプレーをそこら中に吹き付けていく。
「……こんなものか」
 結局、男は部屋と自分の洗浄に15分以上を費やした。アルコール液特有の残り香に包まれた部屋の中央に仰向きになり、男は天井の木目を見つめる。もちろん天井にもしっかりと消毒は施してある。
「…ふう…。ああ、…ああ」
 男は目をゆっくりと閉じると、噛み締めるように唇を動かした。
「お母さん…幸せです…」
 そう呟くと、男はもう何十回と脳内でリピートしてきた自分の半生をもう一度脳裏に投影し始める。

 男が自分の人生に関してまず最初に思い出すことは、妙に綺麗好きだった母の手だった。
 母はよく手を洗い、家を掃除していた。洗剤と水に晒された母の手は子供心にも荒れていると感じていたが、男は母の荒れた手がこの上なく好きだった。
 身の回りの物はいつも綺麗にしていなさい――母はよく男にそう言い聞かせていた。裕福な家庭では決してなかったが、小さな家の中はいつも綺麗だった。
 その次に思い出すのは、苦くて暗い父の思い出だ。薄給の仕事をし、自分よりも年下の上司に怒鳴られた腹いせによく母を虐げ、幼い頃の男を殴った。母が耐えかねて家を飛び出したのが、男が小学6年の頃だった。
「お母さん…」
 そこまで思い出し、男の目から涙が零れ落ちる。今まで何十回と繰り返されてきた、思い出を紐解くための通過儀礼。
 …父の下を飛び出してから、母は変わってしまった。食い扶持を稼ぐために夜遅くまで仕事をし、疲れて帰るとそのまま食事をして寝入る。母の好きだったはずの掃除は全く行われなくなった。汚い部屋は更に母の精神を壊し、母は狂っていった。
 ガリガリに痩せ細り、もうどこを見ているのか解らない虚ろな目をしながら、精神病院のベッドの上で母は死んだ。男は17歳で社会に放り出され、生活保護を受けながらこの古アパートに転がり込む羽目になった。
「お母さんは死んだんだ…汚くなったから死んだんだ。」
 男は自分の体を何かから守るように抱きしめる。母親が子供を抱擁するように優しく。
 この部屋を、この体を綺麗にしている間だけが、男が安らぎを覚える瞬間だった。

「……」
 体を抱きしめたまま、男はゆっくりと目を開ける。小さな古びた、しかし最高の部屋を満ち満ちた幸福感の中で見回す。
 だが、男の幸せな感情は一瞬にして絶望に変わった。目の端に捉えた、黒くて小さい影によって。それを認識した瞬間、男はごく小さな、しかし本人にとっては最大級の恐怖を内包した悲鳴を上げた。
「嘘だろ…嘘だ、うそだ、いやだ、いるわけないそんなの」
 男の次の動作は素早かった。台所下の収納から新品の殺虫剤を取り出し外装を破り捨てる。その脳内は闘志に満ち溢れていた。
 部屋の中にはほとんど家具という家具がなかった。生活保護の制限に引っかかるからではなく、男自身が物を置きたがらないのだ。物を置けば埃や雑菌がより溜まりやすくなる。男はそんな初歩的な対策を怠るほど生半可ではなかった。押入れの中、数少ない衣服の間、唯一の娯楽であるテレビの裏、台所下ももちろん調べつくした。
 だが、あの影の主は見つからない。どこにもいない。

 深夜2時。のしかかる様な星空の下で、男は立ち尽くしていた。家主の許可を得て部屋にバルサンを焚いている最中だ。もうあと数分経てば部屋に戻れるだろう。
 戻ったら靴を洗浄しなければならない、などと様々な事を考え、考え、考え尽した末に、男はある事を考え始めた。
――この世で最も清潔な場所は何処なのだろうか?――
 自分の部屋はもう清潔ではない。虫が出てバルサンを焚く始末だ。そんな事をしなくてもいい、完全に穢れなき場所。それは何処にあるのだろう?
――考える価値は十分にあるはずだ――男はそう確信した。

 予定の数分を大幅に過ぎ、バルサンの煙が完全に消えた深夜4時。男は古アパートの赤錆びた階段を、一段一段踏みしめながら登って行った。その顔には笑みが浮かんでいる。
 部屋に虫が出、完全だと思っていた自分の王国が穢され、靴の裏に雑菌だらけの土をたっぷりつけているにも拘らず、男は満ち足りた笑顔を湛えていた。その笑みの理由は、男がついさっき至った結論にあった。
 完全に穢れなき場所――その場所を男は見つけ出したのだ。ゆっくりと階段を上りながら、男の出した結論は男にとっての絶対へと変わっていく。
「そうだったんだ…お母さんはやっぱり凄いや…!お母さん、お母さんはあの男と離れて忙しくなった後も『掃除』をやり遂げていたんですね…!」
 煌々と照る星の下、墨を流したような夜の帳の中で、男は部屋のドアを開け、部屋の真ん中に歩を進めていった。
 数時間前の男自身がその様子を見ていたなら、おそらく発狂していたであろう。何故なら、男は完全除菌を施したはずの部屋の真ん中に土足で踏み入っていたからだ。
 だが今の男はそんな事は気にも留めない。部屋の中心で両手を広げ、幸せを胸いっぱいに吸い込んだ。

 3日後の午後3時。今まで一度も他人を入れたことの無い男の部屋は、人でごった返していた。
 その中の一人、若い警官がひたすら緊張しながら初老の男の質問に答えている。
「はい、…はい。確かに3日前に職質を掛けました。ですが特に異常は…。いえ、そんな畏れ多い…」
 警官に質問を終えた後部屋に入った初老の男は、部屋にぽつんと置かれているテレビの上の紙に目を落とす。そこには小奇麗な文字で少々の言葉が綴られていた。
「…意味が解らんなあ…」
 そう呟き、初老の男は踵を返して部屋を出た。その時の風で紙はテレビからひらひらと落ち、窓からの日光に照らされながらふわりと着地した。

「お母さん、僕はお母さんを今まで誤解していました。まずそれを許してください。そして、今からお詫びと感謝の言葉を伝えに行きます。待っていて下さい、穢れの無い場所で。もうすぐそこは僕と、お母さんの幸せな城になります。待っていて下さい。」

紙の落ちた位置から20センチほど離れた所に男はいた。梁から降ろされ、首に赤黒い輪を浮かび上がらせて。
 男は笑っていた。この上なく幸せそうに。まるで母に甘える子供の様に。
 だが、その笑みの理由を知る者はもういない。



 
関西電気保安協会ファン
2013年07月01日(月) 23時33分00秒 公開
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■作者からのメッセージ
初投稿作です。出来がどうなのかわからないので、感想が頂けると非常にありがたいです。よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  関西電気保安協会ファン  評価:0点  ■2013-11-21 00:36  ID:oKakSMXzE5g
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久し振りです。この文章作ったものです。
感想に対する返答をするのがマナーだと知らずに長い間このサイトから離れてしまっていました…申し訳ありません。
感想を下さった お さんと 桜井隆弘 さんには遅ればせながらお礼の言葉を書き込ませて頂きます。読んでくださり有難うございました。
指摘やアドバイスを頂けたので、それを吸収しつつまた近い内に短編でも投稿しようかなと思っております。
No.2  桜井隆弘  評価:40点  ■2013-08-03 18:31  ID:PZIOtt.fyBk
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関西電気保安協会ファンさん、はじめまして。

初投稿作ということで、おさん同様驚きました!
ただ感想返しや次の作品が無いのを見ると、他のサイトでも行っちゃったのかな……。

……読む前、間違って純潔なる『屁』だと思ってました。冒頭はポテサラだったし(笑)
テーマが一貫していて、主人公の常人ではない感じが、興味深くて引き込まれました。
オチまでの流れが自然で、綺麗にまとまっていますね。
ただ、お母さんが『掃除』をやり遂げていたことと男の結末の意味が、個人的にはちょっと不十分かなーと感じました。
何か男が理解するきっかけが知りたかったというか……それを描いてしまうのは、また野暮なのかもしれませんが。

次回作も、楽しみにしていますね。
No.1  お  評価:30点  ■2013-07-02 00:46  ID:.kbB.DhU4/c
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ども。
初投稿ていうのは、このサイトに限らず人生初てことでしょうか。
てことは、書き始めてまだ間もない?
とするならば、それでこの作風! すごいな。
文章もしっかりしてるし、言われなければそんな風には思えない。
展開は途中で読めるとはいえ、掌編としては良くまとまっていると思いました。
強いて言えば、これから会いに行くのに、手紙を残すかな? というところは疑問に思いましたが。
ネタもの掌編ではない小説の醍醐味としては、もっと話に膨らみを持たせて、文章に情感を持たせつつ、人の心を揺さぶるというのもあると思うので、僕としてはそういうものも良いんじゃないかなとは思いますし、それだけのチカラを持つ人じゃないかなと感じました。
総レス数 3  合計 70

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