雪降る街に繰り返される恋
 みしみしと、雪を踏む音だけが鼓膜を摩る。革の長いブーツを履いているのに、冷気で足がかじかんでゆく。早く帰りたい。音もなく、雪が舞っているなかを、歩き続けて何時間になるか。道の奥は灰色に曇っていて、その先は見えない。深く、重苦しい、吹雪。分厚く着込んだセーターと、フライトジャケットの下は、むしろ汗だくで、深い雪の中を歩き続けることの激しい徒労を物語っている。おかげで凍えることはないが、足だけはなぜか冷たい。それが苦痛だ。目もろくに開けられない。だんだん、自分がどういう状態か分からなくなってくる。暑いのか、寒いのか、歩いていたいのか、立ち止まってしまいたいのか。立ち止まってもどうにもならないから、歩いているのだが。雪に歩かされているというほうが近い。
 車が真横をすり抜けて、遠ざかり、消えていった。そんな気がする。視界が悪すぎて、通り過ぎたのが車かどうかも、ほとんど音で判断している。確かに家路を歩いているはずなのだが。不安がよぎる。見回すこともままならない、吹雪の中で、正しい道から外れていはしないかと。知らずのうちに車道を歩いていて、後ろからひき殺されても、不思議はない。街の中で遭難しても不思議はない。建物は左手にずっと続いているが、見覚えがあるような、ないような。とにかく歩き続けるほかはなかった。いつから歩いているのか、思い出すことも出来ない。
 右手に赤い光が見える。信号だろう。何の目印にもならない。前を歩く人でもいれば少しは安心するのだが。
 それから数十分か、あるいは何時間か、どちらともつかないが、相当な距離を歩いたところで、馬鹿馬鹿しさがこみ上げてきた。景色が変わらないのである。車はいくつか通り過ぎた。同じような速度で、同じような音を立て、雪を撒き散らしていった。人は見当たらず、建物は繰り返し現れては消える。いよいよ、本当に迷ってしまったのではあるまいか。家までたどり着けば、こんな吹雪の中でもいくらなんでも、分るだろう。それとも寒さで気がふれたか。というほど体が弱っている感じもないのだが。
 左手に表れては消える建物がずっと気になっていた。同じ建物ではないかと、何とはなしに気付き始めているが、信じたくはない。色と、大きさぐらいしか分らない。三階建ての、灰色の鉄筋アパートである。人がいないのが、心細い。いっそ、このアパートのドアをどれでもいいから叩いて休ませてもらおうかと思うくらいだ。そう思うやいなや、そうすることしか考えられなくなった。私はアパートの敷地に足を踏み入れた。そして、一番近いドアから、拳でたたいていった。
 三階の一番端の部屋で、ようやく応答があった。あとは空き部屋か、さもなくば居留守を使われたようだ。中から若い女の声がした。私は美しい女性の姿を想像して心が躍るのを感じた。
「あまりにも雪が深くて、道に迷ってしまいました。ここはどのあたりでしょう。家に帰りたいのですが」
 私はドア越しに、訊ねた。できる限り丁寧な言葉遣いを心がけた。相手に警戒されたくない。若い女性であればなおさらだ。
 ドアが開いた。色白の、鼻の高い若い女が、細く空いた戸口から顔をのぞかせていた。大きな目をしていて、とても可愛らしかった。見た感じの年のころは二十代が妥当かもしれないが、三十に届いていそうな、どことなく落ち着いた雰囲気もあった。私は思わず微笑んだ。想像通り、出てきた女性が美しかったからである。
 女は私の頭から足の先まで眺めたあと、私の顔をじっと見て、ドアをますます大きく開けた。無用心ですらあったが、私は、警戒されずに済んだのだと思った。女は言った。
「寒いからとにかく中に入ってください。話はそのあと聞きますから」
 私は玄関に通された。中は暖房が効いていてとても温かかった。芳香剤が漂っているのか、いいにおいもした。ラベンダーだろうか。歩き続けて高ぶっていた心が、ふんわりと落ち着く。私は一度に疲れを覚えて、どっと玄関の扉に背をもたせ掛けた。女はそんな私の様子を見て、微笑んだ。
「こんなに寒いのに汗までかいて。よっぽどたくさん歩いたんですね」
「そうです。家に帰るつもりが何時間歩いても、景色が変わらないものだから、嫌になって道の真ん中で寝転がってしまおうかと思っていたところでした」
「そんなことをしたら、本当に凍え死んでしまいますよ」
「助かりました。あなたのおかげで一息つくことができます。すぐ出て行きますから」
「そうおっしゃらずに、少しあがっていってくださいな。ちょうどお茶を入れていたところでしたから」
 そういって女は部屋の奥へ入っていってしまった。不思議だ。古くからの友人を迎え入れるかのような親しげな応対だった。私も、どことなく懐かしさを覚えている。ブーツを脱いで、奥へ入ってゆくことに、あまり抵抗を感じない。
 六畳ぐらいの、一人で暮らすのが手一杯の部屋の真ん中で、女が正座をして、私を待っている。コタツがおいてあり、その上にお茶の入ったポットと、一対のマグカップが用意されている。
「男の方だから、紅茶が好きかわからないけれど」
「いや、何でも好きです。温かければ」
 私は少々おどけて見せた。女は黙ってコタツに入るように私に促した。足がすっかり冷え切っていたので、願ってもない待遇だ。熱を浴びて足の先がぴりぴりと心地よく、ほぐれていくのを感じる。
「そんなに外はひどい吹雪ですか」
 女が静かな声で聞いた。鈴の鳴るような、少しかすれた可憐な声だ。雪の軋む音にも似ている気がした。私は嬉しくなって、上機嫌な口調で答えた。
「それはもう。人っ子一人見当たらないし、あまりの豪雪で世界が破滅したのかと思いました」
「それは言い過ぎでしょう」
「いや、これが一週間続けば、人は生活できなくなりますよ。まったく異常な天気です」
「そうね。この雪もいつから降っていたかしら」
 女が独り言のようにこぼしたその一言に、私は逡巡するが、まだ頭がはっきりしないのか、いつから降り始めた雪だったか思い出すことができない。
「ずいぶん長いですよ」
 思い出すことができないくらいだから、と、私は適当な返事をして誤魔化した。
「お茶、どうぞ」
 カップを差し出された。受け取ると、紅茶の香りが湯気と共に鼻をついた。顔に水蒸気が広がるのが、心地よい。一口すすると、全身の血の巡りがはっきり感じられるほどにあったまる。
「うまい」
 思わず口にすると、女は嬉しそうに笑った。その表情を見て、私はいとおしささえ覚えるのだった。まるで胸を締め付けられるかのような、すぐにでも抱きしめてしまいたいような気持ちがした。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことはありませんか」
 と言ってしまってから、まるで安っぽいナンパの手口のような気がして私はすぐさま恥じ入った。とはいえ、初めて会う女性に対して抱く感情にしてはわれながら度を越している。それとも、私は長く歩いているうちに寂しさにさいなまれていたのだろうか。確かに心細かった。永遠に続くような雪道の途中で、彼女は救いの女神であるかのように思えた。つまり、感謝と、喜びと、女性の美しさとが、私に恋にも似た気持ちを抱かせたのかも知れぬ。女性はしばし首をかしげている。が、いきなりぽつんと、
「ずっとあなたをお待ちしていたような気がします」
 と予想だにもしなかった答えを口にした。私の心臓は高鳴った。潤したばかりの喉がいちどに渇きを覚えるようだった。女の言葉に、涙がこぼれそうですらあった。
「なんだか私も、ずっと、あなたにお会いしたくて、歩いていたような気がします」
 掠れた声で、ようやくそう答えると、あとは沈黙が続いた。窓の外は何の音も聞こえない。私たちは、何か申し合わせたわけでもないのに、二人して、同じものを待つような心持ちでいた。お茶は時間が経つにつれ冷めていくが、心臓の高鳴りと体の火照りはそれに反して、ふつふつと強まってゆく。私はこの名も知らぬ女に、はっきりと恋をしていた。そう心のうちで確信してしまった。すると、私は女の気持ちを確認しないではいられない衝動に駆られた。といっても、それを問うだけの言葉も思いつかず、静かに座っている女のか弱い姿に、ただじりじりと、抗いがたい引力を感じるばかりであった。
 コタツの中で、不意に女のひざが私の足に触れた。私は女を見た。女も私を見ていた。そこで抑えが利かなくなり、私は身を乗り出して、あっという間に女の体を抱いていた。女の反応は一瞬固かったが、だんだん細い腕が私の背中に伸びて絡みつき、強くしがみついてくるのだった。耳にかかる女の息が、熱い情欲に燃えていた。か細い喘ぎにも似た吐息が、私の胸を締め付ける。
「あなたは誰ですか」
 と私は訊いた。女は掠れた声で、
「私は、出会うはずだったあなたの恋人です」
 と答えた。私は体を離して女の顔を眺めた。その大きな眼は涙に潤み、口元は今にも噛み付いてきそうなほどの力を秘めて、可憐にゆがんでいた。私はその唇をむさぼるように吸った。滑らかな、舌の触れ合う感触が、女の背中の緊張をほどいた。腕に重みが増し、女は私のひざの上にくず折れた。
「出会うはずだった、って、どういう意味ですか。私たちはいまこうして出会ったじゃありませんか」
 すると女は私の腹の辺りに顔を埋めて泣き出した。
「そうです。いま私たちはこうして出会うことができた。でも、生きている間にこうしたかった」
 私はぎょっとして、身を竦めた。もし言葉通りに受け取るならば、この女はもう死んでいるというわけだ。私は歩いている間に道を誤って、現世とは異なる次元へ飛躍してしまったとでもいうのか。あるいは深い雪の中でいつしか意識を失い、生死のはざまをさまよった挙句、亡者の世界にたどり着いてしまったとでもいうのか。そういえば、どこをどう歩いていたものか、判然としないし、記憶もあいまいだ。ただ帰りたいという漠然とした希求のほかは、もともと何の目的があって、いつから雪の中を歩いていたのか、どんなに頭を絞っても、思い出すことができないのは、さっきまでと同じであった。私の思考はあっという間に、始まりもなく、解き明かすこともできない謎の中に、閉じ込められてしまった。そして私がいま、この腕に抱いている女は、果たしていかなる世界に属する存在であるのか。
 女は、白い顔を向けて、私を見つめた。黒い、大きな瞳が、真夜中の空のように奥深く、とめどなく光を放っている。この世のものとは思えない美しさ。その下に血が通っているとは信じられないほど、白く、透き通った肌。私は女の得体の知れなさを恐れながら、その美しさに恋することを抑えられずにいる。もし私がこのまま死ぬのだとしても、この女と一緒であるならば、思い残すことはないとさえ思った。
 私は言った。
「あなたがどんな存在であれ、こうしてそばにいられるのならば、私はそれを望みます。あなたが許してくれるなら、決して離しはしません」
 私の言葉を聞き、女はむせび泣いた。涙を流しながら途切れ途切れに、言葉をつむぐ。
「ええ、そうしたいのは、私も、やまやまなのだけれど」
 その先を女は続けることができなかった。嗚咽に阻まれて、女の想いが言葉になることはなかった。私は黙り込んで、ただ女を強く抱きしめた。そして、目を閉じた。

 気がつくと、私は雪の中を歩いていた。ついさっきまで、誰かがそばにいたような気がする。柔らかいぬくもりと、穏やかな感情の記憶が、体のあちこちにかすかに残っている。それが何によってもたらされたのか、どうしても思い出すことができない。しかし、はっきりしているのは、それは天にも昇るような歓喜だったろう、あるいは愛に溢れた家に帰りついたときのような安堵だったろう、ということだ。そして私は家に帰って、再びその喜びに浸るのだ、という激しい渇望を思い起こす。
 五メートル先は何も見えないほどの、猛烈な吹雪の中を、懸命に足を上げて進んでいく。歩を進めるたびに雪に埋もれる足はだんだんと冷えてゆき、それとは裏腹に、困難な道のりを歩いていくがゆえに、体はだんだんと熱を帯びていく。いったいどこから歩いてきたのか、どれだけの時間を歩き続けているのか、判然としない。ただ、この道を辿れば、私の行くべき場所へいつか辿り着くことができると、単純に信じているだけだった。すぐ脇の車道を、何台かの車が通り過ぎていった。といっても、あまりに視界が悪く、音でそれを判断しているに過ぎない。前を歩く人もなく、だんだん心細くなっていく。ここはいったいどこだろう、と疑問が不意に頭をもたげる。ゆっくりゆっくり、足を勧めているうちに建物が目の前に近づいてきた。三階建ての小さな鉄筋アパートだった。私は歩き続ける不安に耐えかねて、ここに住んでいる誰か、誰でもいいから、助けて欲しいと、念じながらひとつひとつの部屋の戸を叩いた。しかし、どの部屋からも人の出てくる気配はない。私は三階の一番端の部屋に最後の望みを託しながら、戸を叩いた。すると応答があった。中から掠れた若い女の声が聞こえる。鈴の音色のようなその声の可憐さに、どことなく懐かしさを覚え、ふつふつと喜びがこみ上げてくる。出てくるのはきっと、とても美しい人に違いない。
 ドアが開いた。中から女が顔をのぞかせる。まるで待ち受けていたかのように……。
枯木
2013年02月18日(月) 00時07分50秒 公開
■この作品の著作権は枯木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして。枯木(♂)と申します。
このたび投稿したのは、雪女の怪談をイメージした短い怪奇恋愛小説……のつもりです。
あえていろいろな部分をあいまいにしています。主人公と女の関係とか、主人公と女の住む世界とか。
セリフが若干古臭いきらいがあるかもしれません。
少しでも上達したいので、批評のほどをよろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  卯月 燐太郎  評価:30点  ■2013-03-23 10:07  ID:dEezOAm9gyQ
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「雪降る街に繰り返される恋」読みました。

この作品は寒さで亡くなっている主人公の青年が雪の中を迷いながら、恋人になるはずだった女性に逢ってしまう、それがループするという物語ですよね。
と書ければよいわけですが「私は、出会うはずだったあなたの恋人です」と彼女が言っているところをみると、彼女の方が亡くなっている、または生霊ということになりますかね。

文章はしっかりと書かれていましたし、描写もよかったと思います。
読んでいてイメージがわきました。

ところがこの作品は幻想的な仕掛けがしてあり、後半で作品が二重のドラマになっているようです。テープを一度ひねり、「わっか」にしてノリづけしたような感じですかね。
だから表を歩いていると思っているといつの間にか裏を歩いている。
それだから主人公は彼女に出会うことができるようです。
この主人公はすでに亡くなっていて裏の世界から表に行ったのか、逆に生きていて、表の世界から裏の世界に行ったのか……。
この辺りをあいまいに創っておられるようですね。

A>>「ずっとあなたをお待ちしていたような気がします」<<

B>>「私は、出会うはずだったあなたの恋人です」<<

彼女はAからBへと話の内容を変えています。
もちろん最初の出会いは全くの他人という感じで男は彼女の元に訪れています。


この作品はこれでも幻想的な感じで面白いのですが、「彼女と主人公に重なる場面を作っておけば」、もっとよくなると思います。

たとえばですね、主人公の青年に江戸時代とか鎌倉時代とかの記憶が頭の中をよぎるとしたらどうでしょう。
もちろん主人公は現代の人間ですが、吹雪に迷い幻想的であり、頭がおかしくなるほどの寒さで彼女と巡り合えば、彼女の温かい部屋で、彼女から遠い昔の男と女(恋人)たちの悲恋が語られる。
主人公の青年は、彼女の話を聴いているうちに、自分が生きていない時代のことが鮮明に頭の中にイメージされる。
500年とか800年とかの年月を経ての恋人たちの再会ということになる。
ところが、彼女か主人公どちらかに時の偉いお坊様のまじないがかけられており、それを解かなければ二人はすれ違いを繰り返す、という展開。
そして主人公は再び吹雪の中を寒さに震えながら、先ほどの彼女の記憶をなくし、歩き続ける。
そこに道の端にお地蔵様が雪に隠れてちらりと見える。
主人公が、お地蔵様に命乞いをしようと近寄ると、そのお地蔵様こそがお坊様がまじないをかけた石仏。
偶然主人公はすべてを悟り、彼女を助けるべき、または自分が助かるべきまじないを解く。
そして彼女を縛っていたものを解いたので、これで一緒になれると思い、彼女がいる部屋へと行こうとするが、吹雪なので、車にはねられて亡くなってしまいます。(または、寒さで倒れていまいます)
そこに妖力を解かれた彼女現れ、主人公のところにひざまずく。
彼女の妖力により、彼女が亡くなった主人公の元へ行く。
こうして二人は天に昇って行く。

即興で、話を創りましたが、いかがでしょうか。
あとは、練り上げれば、それなりの物語になると思います。

このサイトは「評価(必須)」を入れるのですね。
30点としていますが35点とします。
全体にうまくまとまっています。
作品の長さの関係で深みが気になりました。
No.3  ゆうすけ  評価:20点  ■2013-03-12 18:29  ID:1SHiiT1PETY
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拝読させていただきました。

ループものですね。パターン化した逃げられない輪の中にいる絶望感。底知れない恐怖感を感じましたが、私が明確なものを好むタイプなのでもやもや感の方が大きかったです。
出会うはずなのに出会わない。運命の赤い糸を有しながらもいずれかが死んでしまったのかな。では主人公は仮死状態となって冥界の彼女と出会ったと思わせておいて実は主人公が死んでいて魂だけが生きている彼女と出会っていたのかなと、思いながら読んでおりましたので。
No.2  http://  評価:0点  ■2013-02-20 14:14  ID:EbmcqtReAiA
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水樹様、ご批評ありがとうございます。
いろいろと曖昧すぎて、伝わらない部分が多かったかと思いますが、
何か感じていただけたようで嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。
No.1  水樹  評価:40点  ■2013-02-19 02:47  ID:r/5q0G/D.uk
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枯木様、拝読しました。
絶望的なループではなく、何故かホッとしますね。
だけど怖さが浮かんでくる。
作者様の手腕が窺えます。
総レス数 4  合計 90

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