街外れの家屋にて
 しばしもったいぶった間があって、ドアが開くと元船乗りの無愛想な面が現れた。奴は手製の紙巻きを吸っていて、右の白目が黄色く濁っていた。肝臓が悪いのだ、ということは一目で分かった。
「悪いな。この雨でさ。ちょっと泊めてくんねえか」
「別にいいが……」
 と、元船乗りはすこし語尾を濁した。奴の白目のように。
「いいが、なんだ」
「あんまりうるさくしないでくれ。この町の住人は皆まじめだし、お前はあまりに粗野すぎる」
 こいつがひどい酔い方をしてにぎやかに暴れ回る様は幾度となく見てきた。ずいぶん落ち着いたモンだな、と驚けば、元船乗りは数年ぶりに俺の目の前で笑った。

 その日の夜は飲み過ぎてあまり記憶がない。

 次の日も雨は降り続いていた。なかなかやみそうになかった。宿酔がひどく、俺はなにもかもが面倒だ。窓をあけると空気が底冷えしていて心地が良かった。潮が強く香る。風は粘ついて髪がごわごわする。
 奴はしきりに嘔吐していた。時には便所で力尽きて一時間も二時間もそのまま眠っていた。そうでないときは目には見えない誰かと忍び声でなにかささやき合っていた。俺は気付かないふりをした。
 元船乗りは明らかに狂っていた。生来から躁鬱気質でアルコールに溺れる癖があったが、隠遁をはじめてからはそれが一層際立っていた。紙巻の麻薬がその狂気を加速させていたし、またこの近くに集落をかまえる「深きもの」どもの唱える祝詞もよくないのだろう。あるいは狂うためにここで暮らしているのかもしれない。狂気が人を救うことは数多の魔術書が――特に名高い書ほどその傾向にある――証明している。
 掃除の行き届いていない荒れた家だった。蟹や船虫といった節足動物がそこかしこを這い回って、柱や床や食べ散らかしたパン屑、それに吐瀉物などを貪っていた。船乗り時代に手に入れたのだろう、売れば幾らかにはなりそうな舶来品が転がり放題で、万華鏡やガス・ランプ、ガラス製の食器、異国語で書かれた厳めしい装丁の書物、魚類や海獣類の剥製、南蛮葉巻、ピストル、それら貴重品に蜘蛛の生むあの美しい銀絹と鈍色の埃とが堆積し、暗い室内を重厚な油絵に仕立て上げていた。そしてそれらの中心に位置するのが『人魚』だった。それはどこかの狂人が少女とある南米産の淡水魚とを剥製にしつなぎ合わせた忌まわしい品物で、奴が船乗りをやめた直接の理由でもあった。――こんな空恐ろしいものを買った人間が、どうして無事に海を渡ることが出来るだろうか? 海の迷信がいつまでも忘れ去られることがないのは、それが真実であるからだ――。
 『人魚』は相変わらずの美しさで、特にその表情はあらゆる理性の外にある絶対の激情そのものだった。それは傲慢とさえ呼べるほど力強く、圧倒的で、一分たりとも目を合わせてはいられなかった。昨日の夜も、元船乗りはちらちらと彼女の顔に視線をやっては、すぐに戻す、というようなことを繰り返していた。あまりに過敏なその行動は、強迫症患者のそれを思わせた。奴は沈むように酒に溺れていったし、そんな奴を見るのがつらくて、俺も到底しらふではいられなかった。

 ようやく体調の戻ったときには、すでに日は暮れかけていた。まだ雨は降っていたが、遠くの空には晴れ間が差し込んでいる。奴は力尽きたのか、眠り込んだまま起き上がろうともしない。腐葉土の色をした蟹がその鼻先を歩いていた。キチン質の脚々がシステマティックに動いている。そこに有機物らしい柔らかさは一切認められない。俺は起き上がり、机の上で置き去りになっている燻製肉を鷲掴んだ。蠅の群れが飛び立っていった。一口かぶりつく。硬くてなかなか噛み切れない。格闘する。それから、ふと思い立って、奴の紙巻きを一本、拝借したが、こちらはキツすぎてすぐにむせてしまった。匂いも独特で肌に合わない。すぐに火をもみ消す。
「おい」
 と、いつのまに起きたのか、姿勢は寝たまま、目だけやたらと大きく開いて、奴がこちらを睨みつけていた。そうして、
「吸ったか」
 と、聞く。
「いや……」
 あまりの迫力に言葉を濁す。こうして凝視されると、黄色く濁った白目に尋常ではないものが宿る。
「吸ったか」
 と、ふたたび。
「きつくて吸えたモンじゃなかった」
 正直に告白した。奴は左の首元をがりがりと引っ掻いた。これは奴が安堵した時の癖だ。
「ならいいんだ」
 独りごちるように呟いて、そして再び寝入った。そそくさと逃げ出す蟹の姿が見えた。心配することはない、と努めて思考する。心配することはない、くりかえす。
 怖じ気づいて人魚を一瞥する。いつものまま変わることはない。相変わらず美しく、そして剥製らしく微動だにしない。時間ごと防腐処理を施されたあのときから、何ら変わらない。それがまた恐ろしい。
 ――心配することはない。
 埃にまみれた部屋の中で、人魚だけが唯一すみずみまで磨かれていた。
 奴が起きるまで本を読んで過ごし、それからすこしだけ酒を飲んで横になれば、気疲れからか、すぐに眠りに落ちていった。

 物音がするので目を覚ます。ランプが灯っていて、生暖かい明かりがまぶたの血管を透かしてみせる。
 目を開くと奴の姿が見えた。こんな時間になにをしているのか、背筋を張り詰めて座って、なにかぶつぶつと呟いている。言葉はききとれない。奴の視線の先を目で追う。
 そこに人魚がいた。彼女はその美しい尾鰭をゆらゆらとゆらめかせる。その動きに沿って元船乗りが声の抑揚を変えていくのだ。まるで古い調整の狂った楽器だ。なにを呟いているのか不明瞭なまま、そこに自意識などかけらもなく、ただ人魚の動きにのみ意思を感じる。奴がひとしきり歌い終わると、満足したのか、人魚はあはあは、と笑った。元船乗りも追従するように笑った。しゃがれた、息のもれただけのような笑い方だった。人魚が右手をさしだすと、奴はそこに接吻した。それから左手。次に肩。頬。そして唇。貪るように。屍肉を漁る腐食生物のように。食欲にしか見えない。
 俺は顔をそむけた。夜は静かに研ぎ澄まされていて、水音が波紋状に広がっては消えていく。あるいは全て幻覚なのかもしれない。元船乗りの狂気にあてられたのか、俺は俺の正気を疑っている。同時に強く信じてもいる。……幻覚? 馬鹿な! ……混乱? そうかもしれない。俺は混乱している!
 人魚は確かに動いていた。いや、躍動していた。彼女の美しさは、周囲を含めた彼女自身の全てを彩り、引き立て、指一本の些細な動きですら興味を引かれてやまないものとした。それは俺に漠々とした海を連想させ、畏怖と歓喜とを与えた。ましてや接吻など……。接吻など! 俺が顔をそむけた理由に、嫉妬の感情が微塵とも含まれていなかったなどと言えることが出来るだろうか。果たしてこのまま、夜通し無関心を装い続けることがどれほどの苦行となろう。思考は濁流となり俺の制御下から離れつつあった。元来ものごとを考えるのは得意でない。混乱は焦燥を生み、いてもたってもいられなくなった。いっそこのまま立ち上がってしまえたら楽だろうに! 奴をはね飛ばし、人魚を押し倒し、そして……。そして。
 だが、そのような感情の氾濫、精神の脈動はすぐに終わった。というのも人魚との接吻を終えた元船乗りがその至福の表情を大きくゆがめると、嗚咽とともに無数の蟹や船虫、そしてなにやら得体の知れない不定形の粘性生物を口から産み落としたからで、人魚はそれきり剥製に戻ってしまった。甲殻類は夜明けよりも早い速度で物陰へと走り去っていき、後に残ったのは苦悶に喘ぐ元船乗りと、粘性生物とそれだけだった。しばらくのあいだ、苦しげに息を吸って吐いてする音が虚ろに響いていた。それから奴は立ち上がると、粘性生物を鷲づかみトイレへと入っていった。ランプの明かりが揺らぐ。俺は目を閉じ、明日にはここを発とう、と決めた。やんだ雨が再び降り出さないと助かるのだが。
 やがて水洗のレバーがひねられると、潮騒じみた音と共にこの夜に起こったなにもかもを流し去ってしまった。
弥田
2012年11月17日(土) 03時59分12秒 公開
■この作品の著作権は弥田さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
というわけで、クトゥルーです。ニャル子さんです。デモンベインです。
正直、思った以上にそれらしく仕上がらなかった感はあります。
でも言い切っておきます。クトゥルーです。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  ゆうすけ  評価:30点  ■2013-09-17 09:14  ID:1SHiiT1PETY
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拝読させていただきました。
青心社「クトゥルー」、創元「真ラブクラフト全集」や、真ク・リトル・リトル全集などを読みまくった学生時代を思い出しました。あれは、えーと、高校時代だから、二十年以上前だな。
狂気、おどろおどろしくジメジメした雰囲気、なんだかよくわからない感じ、そしてささやかなキーワード(今作ですと深きもの)、まさにクトゥルー神話の必須条件が全てあると思います。
クトゥルー神話の恐ろしさは、これを好きになってしまった作者の心に忍び込んでその作品に影を落とすことにあります。ついキーワードを混ぜてしまう……そしてごくわずかなマニアだけがこっそりと微笑む……そんなクトゥルー神話が私は大好きなんですが、これをテーマに書くとまず失敗し叱責を受けるのがオチなので怖いです。
No.6  枯木  評価:50点  ■2013-02-18 00:13  ID:n0S/iTqa5.6
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はじめまして。
台詞回しや、言葉の選び方が、とてもカッコいいと思いながら、一気に読んでしまいました。
クトゥルーは読んだことがありません。が、とても好きな雰囲気です。
楽しく読ませていただきました。
No.5  弥田  評価:--点  ■2012-11-24 02:24  ID:ic3DEXrcaRw
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>藤村さん
ありがとうございます!
どば、とぶち切って、よかったのか、わるかったのか、果たして前者だったようでよかったです。ありがとうございました。
No.4  弥田  評価:--点  ■2012-11-24 02:25  ID:ic3DEXrcaRw
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感想ありがとうございます!

>HALさん
どんな駄作もHALさんの褒め上手にかかれば史上最高の傑作になるんじゃないか、と常々思っているのですが、読んでよい気分になれる、という点においてHALさんのコメントの右に出る者はいないんじゃないかと、少なくとも僕の中にはいないのだと、ここで高らかに宣言しようと思います。
今回はかなりエンタメ寄りというか、純粋な面白さとしてのファンタジーを目指したつもりだったので、よかったです。言えることが出来るだろうか、は確かに読みづらいですねw
ありがとうございました!

>水樹さん
それはクックドゥードゥルドゥーですw 正直、あんまり準拠できていないので、素のままの面白さだとおもいます。こんなもんです、ごめんなさい。
もっと精進します、ありがとうございました!
No.3  藤村  評価:50点  ■2012-11-24 00:25  ID:sg12n8JFuiY
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なんだかものすごくおもしろいものを読んだというふうにおもいます。
おもしろかったです。
発つ先がどういうところなのかちょっと想像するに戸惑うところなのですが、読みかえすうちにそれもまた怖さ見たさみたいなところへ落ちついてきたのでやはりおもしろかったです。
No.2  水樹  評価:40点  ■2012-11-18 22:22  ID:r/5q0G/D.uk
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弥田様、拝読しました。
鳥ですね、鶏の鳴き声ですね。ええ、クトゥルーは名前だけで、読んだ事がありません。なので面白さも半減したのかなと。
狂気なのか幻想なのか、紙一重の雰囲気が素敵です。
No.1  朝陽遥(HAL)  評価:40点  ■2012-11-18 22:15  ID:1Gnz683hsGA
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 拝読しました。
 クトゥルーはよくわからないのですが、あいかわらず文章や単語の選びが美しくて、読んでいて非常に目に楽しかったです。描かれている内容はグロテスクなんですけど、にもかかわらず、ほとんどうっとりしながら読みました。文章センスってちょっとやそっとのことでは身につかない部分ですし、ものすごく羨ましいです。

 葉巻(の中のクスリ)に秘密があるのかな。じかに書かれていない部分の色気と、克明に描写されている場面が持っているリアリティのバランスがよかったです。そうした部分で読み手の想像を喚起する力が強いのと、それから緊迫した場面に迫力がすごくあって、掌編だということをうっかり忘れるような、濃密な読書時間でした。

> 「きつくて吸えたモンじゃなかった」
>  正直に告白した。奴は左の首元をがりがりと引っ掻いた。これは奴が安堵した時の癖だ。
> 「ならいいんだ」
 ここのところがすごく好きでした。初読で、あくまで船乗りの、友情からの言動なのかなーと思っていたのですが、読み終えてみたら、どうかな、嫉妬というか、彼女に横恋慕されることを心配したのかな、それともやっぱり友情だったのかなと、色々想像したくなります。(意図されていないへんな読み方をしていたらすみません)

 あとなんかすごく勝手な感想かもしれないんですけど、不条理は不条理でも、なんといったらいいか、以前に読ませていただいた他の作品群よりも、ぐっと読者側に歩み寄ってこられたような、そんな印象がありました。作者様が意識されてのことかはわかりませんが、いままで拝読した中で、わたしは本作がいちばん好きかもしれないと思います。

 ところで読んでいて引っかかったところが二か所だけ、
> 俺はなにもかもが面倒だ。
 こっちはわざとされたのかなーという気もするのですが、なんとなく言い回しに違和感を覚えたので。それが狙いだったら申し訳ない……!
> 言えることが出来るだろうか。
 ここは「言うことが出来るだろうか」か「言えるだろうか」かなあと思ったので、念のため申し添えておきますね。

 楽しませていただきました。つたない感想どうかご容赦くださいますよう。
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