『人生は待ってくれない』
 ひらかれた窓
 赤いビニール紐

 我に返ったときには、青年は急な斜面をとてつもない勢いで転がり落ちていた。ごつごつした岩肌が砂でおおわれているそこは坂というには生易しい、ほとんど切り立った崖のような傾斜だった。
 斜面の周囲は墨をそそいだような暗闇に包まれ判然としない。それどころか空も、着実に向かいつつある谷底までもが黒く染まっている。せわしなく回転する視界の中で、青年はようやくそれだけ知ることができた。自分がなぜここにいるのかはもちろんのこと、ここがどこなのか――ここの所在はもちろんのこと、ここが頂上からどれだけ斜面を転がり落ちたところで、底まではあとどれぐらいあるのか――疑問はいくつも頭の中をよぎっていった。
 とにかく止まらなければ。
 青年はこの勢いを殺そうと、とっさに片腕を斜面の進行方向に伸ばした。だが岩肌は予想以上に険しく、なにかをつかもうとした青年の手は落下の速度と斜面の硬さの前に弾かれてしまった。いきおい、反動で青年の身体が斜面から宙へと投げ出される。あわや真っ逆さまかと思われたが、幸運なことに青年が落下していくさきに、斜面から突き出した岩棚が待ち構えていた。右腕から岩棚に叩きつけられた青年の身体は激しくバウンドすると、ふたたび滑落をはじめた。すくなくとも空中をもがいて、なすすべもなく谷底に叩きつけられるのは避けることができたわけだが、やはり斜面を滑る勢いは止められない。
いったい、おれはどこまでこうして落ちていけばいいのだろう
「止まるまで落ちていくのですよ」
 はじめ青年はその言葉を幻聴だと結論づけたが、すぐに思い直した。むしろ、およそ現実的でないいまの状況なら、幻聴はかえって親しみやすいくらいだ。彼は少しでも事態を詳しく見てとろうと、どうにかこうにか横向きに転がる姿勢を座るようなものに正した(途中何度か、ふたたび宙に投げ飛ばれそうになるあの恐るべき危機に瀕したものの、彼はじっくりと時間をかけてこれをどうにかやり遂げた)。
 速度は相変わらず緩まることなく、尻を岩肌にこすりつけるようになったものの、青年は坂に面した空中を見ることができ、なおかつそこに一人の天使が飛んでいるのを見てとった。

 赤い部屋
 赤いビニール紐
 閉ざされた扉

 天使、とはいっても、それはどちらかといえばギリシア神話に出てくるキューピッドのような見た目だった。生後まもない赤ん坊のような姿で、丸い目と柔らかな巻き毛が可愛らしい。裸の背中には申し訳ばかりの羽がついている。天使はその場を漂うようにして青年の目の前の宙に浮かんでいた。
なんなんだ
 青年はそう声に出して言おうとしたが、話そうと口をひらいても声は出ず、それどころかはずみで喉が焼けるように痛んだ。
「あなたにこの世界をご案内させていただきます」
 少年とも少女ともつかない声で、天使はささやいた。愛くるしく小首を傾げるその姿に、青年は軽い既視感を覚えた。この天使の姿を、以前どこかで見たような気がする。しかし思い出そうとしても、彼の記憶はもやがかったようにはっきりとしなかった。
ここはどこだ? こいつは誰なんだ?$コを出せないのももどかしく、青年はそのことを考えた。
「ここは今際の世界です。わたしは案内人です。あなたにこの世界をご案内させていただきます」さきほどの言葉を、天使はふたたび繰り返す。
 これは奇妙な感覚だった。こちらの声が出ていないにもかかわらず、この天使はこちらの思考を読みとって、慇懃な態度で質問に答えてくる。
今際の世界?$ツ年は試しに頭の中でたずねてみた。
「今際の世界でございます」
 目論見どおりに天使が答えた。しかしそれ以上は、待てど暮らせどなにも答えてくれない。
それはなんなんだ?
「すべての人が人生の最後に見る光景です。燃え尽きる命がこのような世界を人に見せるのです」
 どうやらひとつの質問をしても最小限の答えしかくれないようだ。
この世界に呼ばれるのか?
「正確には呼ばれるのではありません」
じゃあどういうことだ?
「今際の世界は誰も意識しないだけで、普段から人々の人生の裏側にあるのです」
裏にある?
「今際の世界も人生と同じく歩みを進めているのです」
わかりやすく説明してくれ
「二十四かける三百六十五かける百です」
なんだって?
「この計算式の答えは八十七万六千です」
それがなんなんだ?
「かりに人がぴったり百歳まで生きるとして、それを時間に換算したものです。人は限られた時間のなかで生きているのにもかかわらず、普段はそのことをまったく意識してはいません」
 燃え尽きる命。限られた人生の時間――つまり制限時間。
ひょっとして、人生のタイムリミットが迫ると一緒に見えるのが、この世界だって言うのか?
「その通りです」
 青年は直感的に導き出した自分の答えと、それを肯定する天使に背筋が寒くなった。つまりこの世界が見えたということは、死が自分のすぐ隣にあるということだ。
おれはもうすぐ死ぬのか?
 青年の問いかけに天使は笑みを浮かべると、ちいさく頷いた。その無邪気な表情には、なにか底知れぬ不気味さがあった。
「ごらんください」
 天使が青年を通りこした、すこし上のほうをゆびさす。振りかえると、そこには一人の女性がやはり彼と同じように斜面を転がり落ちていた。その速さたるや、後にもうもうとした砂煙をしたがえて斜面をぐんぐん下っていく。女性はまたたく間に青年を追いこすと、耳をつんざく悲鳴を残して進行方向の闇へと飲まれるように沈んでいった。
 青年が固唾を飲んで見守ると、やがて大地を震わせるような地響きが、あたり一面にとどろいた。
「ああ、死んだ」天使がにべもなく呟く。
 巨獣の唸るような、あるいは近づきつつある嵐にひそむ遠雷のような地響きに、青年はいよいよ恐れおののいた。その不吉な音の鳴りかたにも恐怖を覚えたが、彼の肝を何よりも冷やしたのは、女性が二人を追い越した直後に、地響きがとどろいたことだった――谷底は、いよいよ青年のそばにまで近づいていた。
おれはあとどれだけ生きていられるのか
 青年は死にものぐるいで思考をめぐらせた。建物の屋上から落とされたコインは、秒速何キロメートルで落下するのか、むかし本かなにかで得た知識を探りながら、反面、思考の別の部分ではこれが走馬灯というやつなのか≠ニ意外に冷静な考え事もしていた。
「お答えします」機会をうかがっていた天使が答えた。「あなたが谷底にたどりつくのは、やはりあなたの行動しだいです。ごらんください」
 天使はふたたび坂の上をゆびさした。そこにはやはり同じく斜面を落ちる男がいる。男はヘルメットをかぶり、手には突撃銃を握りしめている。
「あの兵隊さんの肉体はいま戦場の真っ只中にいます。意識がこの今際の世界にあるということは、彼はいま、死と隣り合わせにいるのです。彼が生きるためには、やはり彼自身がこの世界から逃れて、人生を勝ち取らなければならないのです」
 天使の説明の終わりで、青年は思わずあっと声をあげようとした(だがやはり彼の喉は震えず、先ほどと同じように焼くような痛みを味合っただけで終わった)。彼らの前で兵士が斜面から弾き飛ばされ、宙を舞ったのである。兵士は二人の上を飛び越えていくと、手足で空中をもがきながら闇へと落ちていった。
 ふたたびあの絶望的な音が谷底から響いてくる。音はさきほどの女性のときよりもずっと大きくなっていた。
「ほら、死んだ」
 その恐ろしさにいよいよ正気を失いかけた青年は身体を反転させると、斜面を這い登らんとしてがむしゃらに岩肌をつかもうと両腕を振りまわした。恐怖が彼を満たしていた。闇の向こうには、あの谷底にはいったいなにがあるのか、想像するだけで理性が失われ、悲鳴にも似た狂った笑い声が漏れ出しそうになる。もちろん相変わらず声は出ず、彼はよだれと涙に顔をまみれさせ、歯を食いしばりながら岩肌に手をのばし続けた。
「そんなことをしても無駄ですよ。この斜面は言わば人生の残り時間です。時間を戻せる人間などいはしません」
 精根尽き果てた青年はふたたび斜面に尻をつける姿勢に戻った。彼が先の兵士のように宙に身を躍らせずに済んだのは、ひとえに持ち前の強運のためにほかならなかった。
死にたくない!
「多くの人は誰しもそう思っているものです」
助けてくれ!
「わたしはあなたを助けることはできません」
 またこの一問一答だ! そうしているあいだにも時間は迫りつつある。青年は耐え難いもどかしさと高まりつつある焦燥感に身を焼かれる思いだった。
どうしておれがこんな目に合わなきゃいけないんだ!
「それは……」
 そこから次の言葉まではじりじりするような間があった。なぜなら天使が、ゆっくりと宙に浮きながらこちらを正面から見据えたからだ。その目を見て、青年はいまの自分がおかれた状況すら忘れるほど戦慄した。その穏やかな口調、愛らしい姿に対して、その目が空虚そのものだったからだ。
 天使の目には、光源の乏しい闇の中わずかな明るさを反射している以外に、およそ生気のようなものは存在していなかった――まるでつくりもののようだ。
 やがて天使はそのぷっくりとした唇を動かして、
「あなたに死が迫っているからです」

 赤い窓
 赤い部屋
 赤い世界

 青年の脳裏にある光景が浮かんでいた。
 ひらかれた窓には風がはいりこみ、レースのカーテンを揺らしている。
 背後のドアはかたく閉ざされている。その理由は……。
 ビニール紐はぴんと張られている。まるでなにかがそれを引いているように。そしてそれは赤かった。
 いや、ビニール紐だけではない。窓も、ドアも、部屋のすべてが半透明のフィルターごしに映したように赤く染まっていた。
 その一瞬の回想ののち、青年の意識はふたたび死の刻限がせまるあの恐るべき世界に叩き返された。
「少し思い出したされたようですね」
 天使が優しげに告げた。その口ぶりさえ、青年には待ち受ける死の大きさにすら思えてならない。理由は判然としなかったが、彼は谷底にいたるまでもうあまり時間が残されていないことを直感していた。
「なぜあなたが、斜面をこんなに速く落ちているのか分かりますか?」
知るもんか!$ツ年はなかば捨て鉢になって心の中で叫んだ。
 その瞬間、天使の額に鋭くひびがはいる。突然のことに驚く青年の見る前で、その切れ目は眉間を割って鼻の横を通っていくと、天使のくちびるを二つに裂いた。
いったいどうしたんだ? なにが起きた?
「あなたが答えに近づきつつあるのです」
 自らの身に起きた異変を意に介した様子もなく、天使は相変わらずの鷹揚さで答えた。
答え? おれが何を思い出したっていうんだ?
「答えとは真実のことです」
 また一問一答だ。青年は歯噛みしたい気持ちともどかしさで、いよいよ気が狂いそうになった。
おれが何を思い出した! 言え!
「あなたが死にそうにあるという事実です」
 青年は天使の言葉に続きがないかどうかしばらく待った。そのあいだにも、取り返しのつかない時間を浪費していることに、彼は戦慄した。天使の言葉がそれ以上無いことをみてとって、青年は死に物狂いに考えをめぐらせた。
 天使が割れたのは、この世界に「落ちて」以来、最も大きな変化と言ってよかった。だがまだ決定的なものではない、これは兆しだ。このかすかな望みを自分はつながなくてはならないのだ。自分はいま死に瀕している。それは感覚で理解できた。あの谷底に落ちれば、自分は永遠に続く死の中へと閉じ込められるだろう。天使は聞いたことに答えてはくれるものの、確かな回答は与えてくれない。では、あの兆しはどうして起きたのか。自分は無意識のうちに、いままでとは違うことをしたのではないか。
 そのとき、青年の頭に突如ひらめきが走った。同時に老人がひとり、彼の横すれすれを谷底に落ちていった。老人が暗黒に飲み込まれるが早いか、ふたたび地獄の釜を打ち鳴らすような音が響いた。
 もう時間がない。これは時間だ、これは人生なのだ。そしてこうして目の当たりにしてみると、人生は無慈悲なまでに人を待ってはくれない。青年は意を決して、天使を見据えた。
さっきのおまえの質問に答えていなかったな。いやそれだけじゃない、おれは聞くばっかりで少しもおまえに答えを与えていなかった。答えてやろう、どうしておれがこの坂をこんなに速く落ちているのか。さっきも言ったように、答えは、真実はまだはっきりとはわからない。でも少し思い出したんだよ。赤い部屋だ。おれは……、いや、おれの肉体はそっちにある。いまそっちで死にそうになってるんだ!
 聞くだけでは駄目だ。こちらから答えを出さなくては、なにもできないで終わってしまう。終わりとは、つまり死ぬということだ。崖っぷちのなか、青年はそうした結論を出していた。
 バガンッ。と突然の鋭い音とともに、天使の頭がスイカのごとく二つに割れた――顔に入ったひびが、今度は後頭部を通ってうなじのほうまで走っていったのだ。まるで気味の悪い新種の植物のような顔で、天使ははなればなれになった両目で青年を見つめ、かろうじて残った口を器用に開いた。
「お見せしましょう」
 天使の頭から赤い光が照らしだされる。それはもやのようにあたりを停滞すると、やがてひとつの形をつくりだした。
 スクリーンだ。青年はそう結論づけた。彼の目の前、霧に投影したように空中で輪郭のはっきりとしない形がかたどられる。はたして青年の考えどおり、もやの中からあの赤い部屋が映像としてあらわれた。
 いや、これは青年の視界だ。彼の視界の右半分が赤い部屋を見ている。その瞬間、彼の首が万力のような強さで締めあげられると、名状し難い苦しさが襲いかかってきた。

 赤い部屋
 死の闇

 血液ごと呼吸を止められるような苦しさと同時にやってきたのは、自分自身の肉体の重みと、充血した瞳に映されて赤く染まった部屋にいるという実感だった。
ああ、目に血がたまっているんだ
 やけに強く、心臓の音が鼓膜にはねかえるのを聞きながら、青年は意識のすみで意外にも冷静なことを考えていた。もっともこの状態は本人の度胸が据わっているからではなく、単に事態を把握できていない呆けたような落ち着きに由来していた。はたしてその冷静さは、彼が何の気なしに伸ばした手――その動作も緩慢で、腕は鉛のように重く感じられた――が触れたもののまえに、たやすく吹き飛ばされていった。
 青年が触れたのはビニール紐だった――いまその恐るべき凶器は青年の首筋にがっちりと食い込んでいた。締め上げられている部分の首は、本来の太さの半分近くまでに細まっているのではないかと思われる。食道と気管ごと、頚椎をへし折られそうな力に感じた。
 この事実を突きつけられた青年の手は直後に緊張で強張り、掴んだロープを狂ったようにたどっていった。その拍子に首をさらにきつく締め上げてしまい、いよいよ彼の視界は真っ赤に染まったまま、意識は思わず断ち切られそうになった。
 ロープの終点ではじめに触れたのはひんやりとした金属の表面だった。
ドアノブだ
 ノブは真鍮製で、その根元に何重にも巻かれたロープはひとつの輪を作っている。人ひとりの頭が通りそうな大きさの輪を……。青年にはそれが分かっていた。なぜなら輪を作って、みずから輪に首をかけたのは他でもない彼自身だからだ。
 即座に青年の両足が必死に床のうえをもがく。だが板張りの滑らかな表面の床の上で、足はむなしい抵抗を見せるだけだった。統制を欠いた彼の全身が、支離滅裂の狂った動きをする。彼の目の前で唯一、窓のカーテンだけが事の重大さを意に介さぬように、風を受けてゆっくりとゆれていた。
 狂気に侵された、しかし極限まで研ぎ澄まされていた青年の感覚がさらに恐ろしいことを本人に伝えてきた――青年は失禁していたのだ。
いやだ$ツ年は絶望を感じた。いやだ、こんな死に方したくない
 青年の死に様を見るひとは何を思うだろうか、おそらくは彼を待ち構えていた死の惨めさと壮絶さをその死体から読み取ることだろう。
 生きるものすべての本能がそうさせるのか、青年は首のビニール紐を解こうと指をかけようとした。だが、紐は解けるどころか首の肉にくらいついてすこしも離れない。
 青年は必死になって記憶を掘り起こした。ドアノブにくくりつけてられるビニール紐はどういう状態だったのか。
 ビニール紐は近所で買ってきた。短く筒状にしたボール紙の芯に、毛糸球のように何重にも巻かれていたものを切りとったのだ。何を使って切りとったのか、そしてどこで切りとったのか……。
 首から両手を離すと(その拍子にさらに首が絞まったように思えた)青年は床の上のそこかしこをまさぐった。はたして、右手が一本のカッターナイフに触れた。これもビニール紐と一緒に買ったものだった――どちらも自殺するための道具として。
 考える間もあらばこそ、青年はカッターナイフを拾い上げた。薄い刃とプラスチック製の部品で作られたそのわずか数グラムの道具が、青年にははるかに重く感じられた。
命の重みだ$ツ年は思った。これは自分の命の重さなんだ
 震える手で何度も取り落としそうになりながらも、青年はカッターナイフを持ち上げた。そしてそれを首の後ろ、ビニール紐の輪がぴんと張られているであろうところめがけて振り下ろした。が、手ごたえがない。
 ふらふらと腕を上下させる青年の脳裏に、ある絶望的な記憶がよみがえった。彼はカッターナイフの刃を丁寧にも本体の中にしまっていたのだ。いま切っ先にあるのは、カッターナイフを収める金属製の先端だけだ。青年はビニール紐を必要な分だけのばすと、その先を切り、几帳面に刃をおさめてしまった――まったくお笑いぐさだ! これから自殺しようとする人間が、こともあろうに刃物で怪我をしないように気をつけていたとは!
 すべてを諦めかけたそのとき、思い出されたように視界の左半分があの死の谷を滑落する様子をまざまざとよみがえらせた。奇妙な光景だった。左目ではこの世のものとは思えない陰惨な雰囲気のある世界を映し、右目では自殺の最中であるということ意外は何の変哲もない、のどかな昼下がりをおくるマンションの一室を映している。全身の感覚が狂いそうな視界の中、左半分の視界で青年の身体が崖からはじかれ、空中へと投げ出された。数秒後にはあの恐ろしい音とともに、青年の命が地獄に砕けるだろう。
 青年は最期の力を振り絞り、刃の出ていないカッターナイフをビニール紐に走らせた。
 何度も、何度も、何度も。青年の手がビニール紐の表面をむなしく滑っていく。
 そしてとうとう、青年は谷底の光景を見た。

 彼がいままで滑り落ちていたのは、谷底ではなく亀裂だった。それはまた同時に入り口でもあった。
地獄だ$ツ年は思った。
 入り口の奥には巨大な空洞が広がっている。まるで惑星の中身を丸ごとくり抜いたようで、その果てを見通すことはできそうにない。その空間にぽっかりと光がさすように、ひとつの球体が浮かんでいる。輪郭すら判然としない状態であったが、青年はしばしすべて(死の危機さえ)を忘れて、その球体に視線を奪われていた。その正体がなんなのかは分からなかったが、「なにかとてもよくないもの」だということは直感から理解できた――そしてこの直感こそが、この今際の世界ではもっとも信頼し、重んずるべきことなのだ。
 直後、青年の身体は亀裂の隙間へと吸い込まれるように落下、あるいは導かれていった。咄嗟にこの隙間の淵を掴もうという考えも浮かんだが、それが許されないほどに地獄の入り口は広かった。所詮この世界で青年は蟻一匹ほどに小さな存在だったのだ。それほどに今際の世界の奥はなにもかもが巨大だった。亀裂、空洞は言うに及ばず、正面に浮かぶ球体までもが想像を絶する大きさである――宙をもがくだけの青年は、その球体へとぐんぐん近づいていった。
 距離が縮まるにつれ、形がくっきりとしてゆき、無数のものがひとつに合わさって球体を成していることが分かった。それらは人間の死体だった。
 男が、女が、老人が、赤子が、両親が、兄弟が。ありとあらゆる人々の肉体がもつれ絡み合い、ひとつの巨大なうねりとなって形を作っている。それは髑髏の浮かべる残虐な笑みであり、苦悶する人々の像であった。
 疫病、災害、戦争――あらゆる死の体現の縮図としてひとつにまとまり、濃厚な凶事をかもし、それはいまにも世界へあふれ出そうとしている。
 谷に響いたあの轟音、あれ人の肉体が地面に衝突したから鳴ったのではない。生が死に叩きつけられ、命が砕かれる音だったのだ――その怨嗟、呪詛、遺恨のかたまりが爆発した叫びだったのだ。
 あの球体と同化してあとに残るのはなんなのだろうか。人としての最後の感傷だけか、それとも永遠に続く苦しみか。だがそれすらも大海の中に落ちた一滴の水のように無に等しく、ほとんど残るものではあるまい。宗教が教える天国も生まれ変わりもない。完全な無。あるいは全てにゆだねられる世界の一部分か。
いやだ$ツ年の心が叫ぶ。死にたくない
 だがその声なき声もむなしく、青年は巨大なうねりの中へと吸い込まれていった――球体の外側がひらき、飲み込むようにしてせまってくる。

 暖かく包みこむような光のなか、青年はあの天使に笑いかけられたような気がした。

 気がつけば青年は、部屋で一人横たわっていた。しばらくそのまま、視線の先で揺れるレースのカーテンを見つめる。それから床に手をつくと、彼は静かに起き上がった。全身を強い倦怠感が包み、なにをするにも挙動のひとつひとつが億劫だった。
 むくり、と起き上がる青年はすべてを思い出していた。また同時に今際の世界で見てとったこともすべて覚えていた。ついさっきの気絶した一点を除いては、あらゆる記憶が地続きによみがえっていたのだ。
 あれが臨死体験というものか、独りごちようにも喉が焼けるように痛み、上手く声を出せない。それにしても随分な理由でとんでもない経験をしたものだ。振り返れば、日々の生活や人間関係にうまくいかなかったのが、自殺に思い至ったそもそもの原因ではなかったのだろうか。自分は些細なことの積み重ねがあったせいで、生きることから逃げ出してしまった。こんなに必死に、生きようとする人がたくさんいる世の中で、自分はなぜ自ら死ぬことを選んでしまったのか。
 では、どうして自分は助かったのだろう。記憶が正しければカッターの刃は出ていなかった。青年は振りかえり、床に落ちていたビニール紐をあらためた。
 輪を作っていたビニール紐は、細かく縦に裂かれ、端は引きちぎられたようにざんばらに散らばっていた。上滑りしたカッターナイフの先、刃を修める金属の部分がビニール紐を縦にいくつも裂いたのだろうか? 細かく分けられた紐それ自体は、果たして強度が落ちるものだろうか。
 青年は自分が助かる可能性は万にひとつも無いように思え、また同時に生き延びられる確立は無限にあるようにも思えた。
 しかし現にこうして、青年は生き延びることができた。あの文字通りの死の淵から逃げ延びることができたのだ。
生きるのが嫌で人生から逃げ出したのに、逃げ出した先からもまたこうして逃げ出したのだから、つくづく自分は中途半端な人間だな≠サう思い、青年は苦笑する。
 だが、死ぬことからも逃げ出すことができて、かえって良かったとも思った。少なくともそれで、自分はまだ生きていられるのだから。そして命を燃やして人生を進むかぎり、あの谷底はまた少しずつ自分に近づいてくる。結局、どんな人間もいずれは人生に終わりを迎えるのだ。そう考えると、青年は自分が自殺しようとした理由が、なんともちっぽけなものに思えた。
 あの巨大な死のうねりは、果たして現実のものだったのだろうか。いまとなってはそれを知るすべはない。ただ、部屋の調度品の上には陶器でできたキューピッドの人形が置かれていた。いま、その人形は棚のそばの床に落ちて顔の部分が割れている。部屋を吹き渡るそよ風が人形を落としたのだろうか、こんなに微かな風が、小さくとも陶器でできた人形を……。
 今際の世界の真偽と同じく、その答えも分からなかった。だが少なくとも、陶器のキューピッドはあの今際の世界で見た天使と顔がよく似ていた。
王捨文
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2012年07月22日(日) 15時22分38秒 公開
■この作品の著作権は王捨文さんにあります。無断転載は禁止です。
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作者からのメッセージはありません。

この作品の感想をお寄せください。
No.5  王捨文  評価:--点  ■2012-08-05 13:33  ID:zDw.Ei.W7Gs
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ゆうすけ様
ご感想ありがとうございます。

この物語では私個人の生死感というか、「死」という概念を表現してみました。そのため登場人物にはこれといって名前をつけず、主人公にも青年という必要最低限の情報だけ設定し、どこにでもいる、ある意味で端役のように扱いました。死は誰にでもいつかは訪れることだからです。
登場するビニール紐やカッターナイフなどのアイテムもどこにでも手に入るようなものを選びました(下書きの時点では、青年がこれをコンビニで買ったシーンもいれましたが、「なんか俗っぽいな」と思って削りました)。

また天使の像についても、多くの人々が持っているであろう人生における救いとしての位置づけのため、特に背景は紹介しませんでした。
これはそんな「その他大勢」を集めた物語なのです。

とはいえ、読んでいただいた方に「物足りない」と思わせてしまったのかもしれません。
より一層努力して作品づくりに取り組みたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
No.4  ゆうすけ  評価:30点  ■2012-07-29 18:26  ID:dZDA6s9Jnbw
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拝読させていただきました。
現状が分からない不安感溢れる冒頭から勢いのある展開で、読者を引き込む作品であると思いました。
人生は転がり落ちる坂であり、後戻りできないとする考え方が素晴らしく、ここにこの作品の恐怖の核があるように感じました。

このタイトルであるならば、もっと主人公に後悔と懺悔をさせた方がいいような気もします。自ら命を断とうとしたことを悔いて、なんとか生きようともがいて、苦しんで死んでしまうのもありかな。転がり落ちて行く途中で母親が助けてくれて生き返った瞬間にその死を知るとかもありかな。陶器のキューピッドは祖母の形見で、蘇生後に天使の顔が祖母の顔だったと思い出すのもありかな。
転がり落ちる=死に近づく=余命が減る、だとすぐに死にそうな気もします。

勝手な事ばかり書いてしまいましたが、色々と想起させてくれる面白い作品だということです。では、失礼しました。
No.3  王捨文  評価:--点  ■2012-07-24 21:54  ID:zDw.Ei.W7Gs
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脳舞様
ご感想ありがとうございます。
疾走感の喪失、ご指摘の通りですね。会話のやりとりでの焦燥感を演出したつもりですが、やはり自分でも書いていて動作が止まっている感は否めませんでした。ご指摘いただきありがとうございます。

山本鈴音様
ご感想ありがとうございます。
やはり不安であったラストのシーンが曖昧になってしまい、自分の描写力の不足を痛感しております。
にもかかわらず、お褒めの言葉をいただき、ありがとうございます。
No.2  山本鈴音  評価:40点  ■2012-07-24 20:49  ID:xTynl89qwNE
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世界観が独特で、ただのスプラッタに終わらないオドロオドロしさが感じ取れました。
地獄や天国といったステレオタイプに縛られない面白さですね。
たまに状況がイメージしきれない部分もありましたが(転がり落ちている他者との距離感など)
球体の表現など真に迫るものがあります。

最後、曖昧なまま話が終わりますが……
どうしても天使の意味合いが気になってしまいます。
もし「陶器の欠けた箇所で紐が切断された」のであれば、具体的にヒントとなる切り口を描写したら良いのでは?
特に意味が無いなら「微風で落ちた」説明を省いてもいいですし……
どちらかに決めた方が読み手の心には響くかもしれません。

静謐な場面で締めているのが、印象深い終わり方で素晴らしいと思いました。
No.1  脳舞  評価:40点  ■2012-07-22 21:32  ID:vbFRuyuhwTI
PASS 編集 削除
 読ませて頂きました。
 坂を転げ落ちるイメージへ変換した寿命の描写が上手く、文章自体も巧みなので思わず感心してしまいました。少し違和感があったのは、天使とのやり取りの最中だけ時間が止まっているかのような疾走感の喪失でしょうか。おそらくやり取りの前と転げ落ちる速度がそう変わっているわけではないと思うのですが、坂の途中で腰を据えて落ち着いてしまっているような印象が。時々、ふいに体に衝撃が走ったり、視界から天使がフレームアウトしたりすると良かったのではないかというのはおせっかいでしょうけれど。


(助からなかった方が面白いんじゃないか、と思うのは私の性格が悪いだけですね)
総レス数 5  合計 110

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