猫殺し
 住人たちの飼い猫が、つぎつぎに殺されている――僕の住むアパートでそんな物騒な話を聞くようになったのは、この五月に入ってからのことだった。
「やれやれ」
 会社帰り、僕はいつもどおりアパート前で溜息をひとつ吐いた。アパート入り口前には大きな鉢植えが置かれており、その枝がちょうどじぶんの顔の高さに伸びているのだ。
 お辞儀をするようにそれをかわし、錆びた鉄の階段を昇る。すると、二階廊下に隣人の楢山さんが立っていた――まるで亡霊のような蒼白な顔で。
楢山さんは、僕のような愛想のない若者にも見かけるたび挨拶をしてくれる、よき隣人だ。縮れた白髪を後ろで結び、装いは地味な老婦人だが、性格は至って明朗で、けっして悪い人ではない。いつも愛猫をわが子のように抱いていて、僕にも撫でるよう笑顔で勧めてくれたりするのだ。
 だけど、その日の楢山さんは、いつもとは雰囲気がまるで違っていた。僕は息を呑んだ。彼女の眼つきはひどくうつろだった。子供のように小柄な楢山さんの両手には、いつもどおり、愛猫が大事そうに抱かれている。ただ、いつもとちがうのは、その猫が何者かに首を折られて殺されている、ということだった。
「楢山さんもやられたんですか!」思わず、義憤が咽喉を貫いた。僕はじぶんの声が震えるのを止めることができなかった。「ひどい。いったいだれが、こんなことを……」
 ペット可を謳うアパートである。住人の多くが動物好きだったし、僕自身も例外ではなかった。とりわけ、楢山さんはすでに旦那さんを失くした独り暮らしの老婦人だ。近所で子供に石を投げられ苛められていた黒猫を助け、「ポー」と名づけてわが子のように可愛がっていた。彼女にとって、愛描ポーが、どれほど大切な心の支えだったかは想像に難くない。
 近頃、アパートで起こる連続ペット殺し。しかもそのどれもが、「首をへし折る」という惨たらしい手口ときている。たかが動物と、警察はまともに動いてくれない。だけど、僕ら住人にとって、これほど恐怖と憤りを覚える事件はなかった。
「犯人の心当たりなら、あるのよ……」
 ふだんは朗らかによく笑う楢山さんだったが、いまの表情はこちらがゾッとするほど冷たく凍りついていた。頬や眉間の皺が、みるみる深くなっていく。
「本当ですか」僕は唾を飲みこんだ。「だったら早く、大家さんに相談を……」
 大家さんは、一階の一〇一号室に住んでいる。言えば、それなりの対応をしてくれるはずだ。
「それがねえ……、犯人の心当たりっていうのは」楢山さんは沈んだ声でひとりごちるように言葉をつぐ。「大家さんとこの、息子さんなのよ……」
「大家さんの……息子……?」
 名まえさえ知らないが、大家さんにひとり息子がいる、という話は僕も聞いたことがあった。数年前に鬱病だか神経症だかで医大を中退したという話で、その後、だれとも顔を合わせず、だれとも口を利かず、ずっと自室に閉じこもって暮らしているという。
 溜め込んでいたものを吐き出すように、楢山さんは声を荒げた。
「引きこもり……っていうのかしらね? もう二十六になるのに働きもせず、部屋に閉じこもって。蒼白い顔で、髪も伸び放題。眼つきも暗くて、見かけても挨拶さえしやしない。いったいなにを考えているんだか、近所の野良猫を殺すようすを撮影して、インターネットに流していたこともあるって噂よ。ああいやだいやだ、薄ッ気味悪い」
 メンゲレ博士、だ――僕の胸のなかに、ドス黒いものが渦巻いた。その猫殺しの動画なら、何年か前に、テレビのニュースにもなったことがある。投稿主のハンドル・ネームはその名も忌まわしい「メンゲレ博士」。実験の名のもとに、多くのユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツの医学博士の名だ。
 件の動画はい出すだけでも吐き気がする。冒頭で「猫は並外れたバランス感覚を持つといいます」とテロップが流れ、画面が切り替わって舞台は風が吹きすさぶビル屋上、泣き叫ぶ仔猫をそこから投げ落とし、アスファルトに向かって断末魔とともに急速落下していくようすを淡々と撮影し、「さて、仔猫はぶじ着地できたでしょうか?」というテロップで締めるという、徹底的な悪趣味ぶりだった。当然、サイトのコメント欄には視聴者からの罵倒や悲鳴が溢れて炎上、テレビや雑誌にも取り上げられたが、ついに犯人は見つからなかったという。
「でも、そんな噂話だけで、今回の事件の犯人と疑うのは……」
「疑ってるんじゃないわ。確信しているのよ」断言する楢山さんの声は、冷えきった怒りと深い悔しさに震えている。「一階の麻原さん、知ってる? あの人もこないだ、飼ってたオウムをやっぱり首を折られて殺されたんだけど。それがね、留守中、部屋に鍵をかけていたにも拘わらず、何者かが侵入してオウムを殺したらしくって」
「密室殺人……」僕は言い終えるより先に、冗談にもならないじぶんの言葉にうんざりした。
「そんな難しい話じゃあないわよ。大家さんの息子なら、合鍵を持ち出すなんて、わけないんだから。物盗りの形跡もなかったらしいし、空き巣やなんかのしわざじゃない。大家んとこのバカ息子以外に、考えられないでしょう」
「たしかに……」頷きながら、僕は背すじを震わせた。人の噂をどこまで真に受けるべきかはともかく、もし噂がほんとうだったら、そんな危険人物が合鍵を簡単に持ち出せる立場にあるというのは、アパートの住人として、けっして気分のいいものではない。
「だけど、なんでこんな酷いことを……」
「腹いせだわ」楢山さんは吐き捨てるように言う。「一階の大家の部屋の前に、大きな鉢植えがあるでしょう? 観葉植物ともいえないような小汚い木が生えている、あれ。なんでも、大家の息子が大事に育てていた鉢植えだそうでね。一週間ぐらい前かしらね、あれの枝がだれかに折られたらしくて。大家の息子、アパートの住人のしわざにちがいないって、血眼で犯人探しをしたらしいのよ。きっとそれじゃあ埒が開かないんで、アパートの住人たちに無差別に仕返しを始めたんだわ。大事な木の枝を折られた仕返しに、住人たちの大事なペットの首を折ってまわってるのよ。一階の住人たちが、まず順番にやられた。一〇二、一〇三、一〇五、って部屋の番号順にね。ゆっくり不安を煽る、いやらしい手口だわ。そしてとうとうあたしたちが住む二階にも、魔の手を伸ばしてきたってわけ……」
 その話を聞いて、僕は言葉を失った。じぶんの顔からみるみる血の気が引いていくのがわかる。
「僕のせいです」
 唇を噛んで、眼を伏せた。言わないほうが賢明だ、とは思った。だけど、懺悔せずにはいられなかった。
「すみません、楢山さん。あの鉢植えの木の枝を折ったの、僕なんです。あの鉢植え、通路を遮るように枝が生えていたでしょう? その上、背丈がちょうど人間の顔の位置ぐらいあって。通り道があそこしかないので、いつもじゃまだなって思ってたんです。先週、会社でいやなことがあって、いらいらしてて、悪いことに雨も降ってて、あの鉢植えの前を通ろうとしたら濡れた枝から水がかかってスーツがずぶ濡れになってしまって。それでむしゃくしゃして……僕、枝を折ってしまったんです。最低だ。大家さんの息子が怒るのもむりはない。僕だって、ペットを飼ってるのに。動物だろうが植物だろうが、だれかが育てているものなら、それはきっとだれかの心の支えになってるものなんだって、なんであのときわからなかったんだろう。みなさんの大事なペットが殺されてしまったのは、原因を辿ればぜんぶ僕が……」
「あら、まあ」楢山さんは頓狂な声を上げた。「あなたのせいなんかじゃないわよ。たしかにあの鉢植え、通るのに邪魔だったもの。住人全員、疎ましく思ってたのよ。それに枝を折ったからってペットを殺してまわるなんて仕返しは、やっぱり常軌を逸してるわよ。悪いのはぜんぶ、大家んとこのバカ息子よ」
 気に病まないでね、気に病まないでね、楢山さんは、うなだれる僕を何度も何度もそう慰めてくれた。
「あんたの猫は、無事で済むといいけれど」
 そしてそう言い遺して、埋葬してやるためだろう、愛猫の亡骸を抱えたまま、階段を降りて歩き去ってしまった。
 深い溜息を吐く。ひどく憂鬱な気分だった。だけど、懺悔しなければ、いまよりもっと憂鬱だったにちがいない。
 自室ドアに鍵を差しながら、僕はじぶんに必死に言い聞かせる。
 楢山さんの言うとおりだ。僕にもたしかに非はあった。でも、悪いのは大家さんの息子のほうだ。木の枝を折られたからって、合鍵で部屋に侵入して住人たちのペットを殺しまわっていいわけがない。そんなの、頭がどうかしてるとしか思えない。楢山さんの、あの悲痛な表情を思い出すだけで心が痛む。多くのペットにとっては、飼い主の存在だけが全世界だろう――だけど、その逆だって珍しい話ではないんじゃないか? ペットの存在だけが全世界だっていう寂しい人間だって、世の中にはいくらでもいるんじゃあないか?
「なあ、きみもそう思うだろ?」
 ドアの鍵を閉め、チェーンを下ろし、廊下の先に向かって僕は呼びかけた。
 リビングの薄闇のなか――ドア陰にへたりこむ少女が、やつれた蒼白な顔をそっとこちらに上げた。
 少女は一糸纏わぬその姿態に、鋲つきのレザー首輪だけを巻いていた。折れそうなほど華奢な四肢に、じわりと緊張が走るのが見てとれた。繋がれた鎖がちゃらちゃらと、力ない金属音を響かせる。少女のうつろな眼差しは、恐怖に慄えているようにも、官能に潤んでいるようにも見える。
 出会ったときは、醜く肥え太っていて、とても見られたものではない女だった。だけどいまではすっかり僕好みのやつれかたをしている。折れそうなほど細く、透き通りそうなほど白い。その躰に湛える、無数の痣と生傷。長い栗色の髪は乱れ、メイクは涙で剥がれ、その表情はひきつるように歪んでいる。だけど、だからこそ、少女は僕好みに綺麗だった。
 少女の乱れるかすかな吐息が、カーテンを閉め切った部屋のなかで重苦しく響く。彼女の髪に、手を伸ばす。彼女は血走った眼を大きく見開いて息を呑んだ。だけど逃げようとはしなかった。僕は嬉しくなって、彼女のばさばさの髪を撫でながら、声を上げてすこしだけ笑った。
 少し前までは、大声を出さないようボール・ギャグを噛ませなければならなかった。だけどいまではそんなわずらわしいものは必要ない。躾のためにニッパーで指を何本か切断してやってから、彼女は心を入れ替えたように従順になってくれた。僕を主人と認めてくれたのだ。僕は、彼女を、世界のだれよりも信頼している。彼女は、絶対に、僕を裏切ったりしないだろう。
「ねえ、なにを怯えてんだい? 僕の帰りが遅いんで心配してくれていたのかい? だいじょうぶ、きみを見捨てるわけないだろ……きみには僕しかいないように、僕にもきみしかいないんだよ」
 もちろん、彼女はなにも答えない。ただ無言で震えているだけだ。いとおしい、僕の可愛い仔猫。僕の、僕だけの。要らないことは、ただのひとことも喋らない。喋らなくていい。女の子が口を開くと、たいてい幻滅しなくちゃならない。傷つけられなくちゃならない。恋人も家族も要らない。僕に必要なのは、彼女だけなのだ。
 だけど、もし、大家の息子が合鍵を使って僕の秘密のペットを見てしまいでもしたら……。
「この罪に関しちゃ、懺悔するつもりはない。もし、見なくていいものをわざわざ見ようってんなら」ネクタイを緩めながら、ふん、と僕は鼻で嗤う。「気の毒だけど、もう、大好きなじぶんのお部屋に帰すわけにはいかないなァ……」
 不意に背後で玄関のドアが激しい音を立てはじめた。
床に転がる血に濡れたニッパーを拾い上げ、僕はゆっくりと振り返る。
 まともな来客でないことは、すぐにわかった。鍵と錠がぶつかり合う、その金属音は――冷たい怒りと、血みどろの苛立ちと、これからかならず起こるであろう惨劇の気配に満ちていた。(了)
D坂ノボル
http://homepage3.nifty.com/decadence21/
2011年05月19日(木) 21時51分35秒 公開
■この作品の著作権はD坂ノボルさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
引越し記念

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No.5  ゆうすけ  評価:30点  ■2011-05-28 17:18  ID:DAvaaUkXOeE
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拝読させていただきました。

面白かったです。
序盤からの恐怖の盛り上がりがスムーズで、読み進むほどに期待感が高まりました。
ただ、ラストがちょっと物足りなかったです。主人公の狂気が主題だと思うので、ここでさらに主人公の異常性を見せつけて欲しかったです。D坂さんの作品だということで勝手に期待してしまいますからね。
仔猫ちゃん……猫好きな私としては、大家の息子がやられるシーンまで見たかったな。猫を殺すとは許せん。
No.4  G3  評価:30点  ■2011-05-28 14:13  ID:E.rSGHVegM6
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読ませて頂きました。面白いと言って良いのか。。。良かったです。
ただ全体に文章量が少ないような気がしました。こういうのはもう少し積み上げた方が雰囲気が出るんじゃないかという気がします。
ところでラスト部分は楢山さんが息子氏にチクったので、っと事でしょうか? そのヘン明確にしてくれた方が私には親切でした。
 ところで、引越し記念なのは、そういう怪しいペットがばれて前のところを追い出された、とかじゃないですよね?
No.3  桜井隆弘  評価:30点  ■2011-05-24 22:50  ID:wlRylF.wTcM
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状況がわかり易くて、スラスラと読めました。

オチは意外でしたね。
D坂さんといえばコメディタッチが多かったので、今回もそういうテイストなのかなという先入観もあって。
「大家の息子、何やっとんじゃ、ボケー!」っていざ行動を起こしたら、実は犯人じゃなくて「ちゃうんかい〜」ってオチかなと想像してました(笑)

「ペット」という共通項で、綺麗に纏まってる印象は受けました。
欲を言えば、楢山ばあさんとの会話の中にオチを匂わせる伏線がもう少しあったら、もっと腑に落ちる感覚を持てたかなーなんて。
・・・えっらそうにすいません。

ブンガク死すとも、赤坂サカス!
No.2  白熊  評価:20点  ■2011-05-23 16:51  ID:26VugPo02oQ
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読了しました。
なかなか面白かったですよ。出だしの調子はよかったと思います。
ただ、中盤の猫殺しの犯人の件、終盤の仔猫のあたりがやや残念です。おばあさんとの会話の部分はやや間延びして感じられました。仔猫に話しかける間までの伏線も少ないように感じられました。
拉致、監禁とアパートはそもそも相性が悪いです。監禁することを現実的に考えるとプライバシーの薄いアパートは不向き。
しかも初犯でなく、幾度も繰り返しているとなると、音も漏れやすいアパートでよくそんなことができるなぁ・・・と。

一番物足りないのは狂気が足りない点です。拉致、監禁する以上はそれなりに狂ってるところを魅せつけて欲しいのですが、主人公の場合わりと凡庸。少女への愛情が足りないような気がします。
どうせならば、前半で「自分のペット」についての愛情を語ったり、他者のペットが殺されたことに対して強い義憤を示したり。
ラストでいえば「自分の犯罪を知られること」に対して武器を取りますが、ここは個人的には「自分のペットを殺されること」に対して武器を取ってほしかったです。
もちろん、少女を殺すほど大家の息子が狂人である理由はないのですが、その分別もつけずに“大事な大事なペットを守ろうとする飼い主”として自己を認識しているような狂人であって欲しかった。

また個人的に指を切断してることと「いくらでも換えが効く」と思ってる点もダメでした。飼い主だったらペットを大事にしろ主人公! と、ついつい。ペットを使い捨てのおもちゃ扱いとはダメな飼い主ですね。
この話のキモは「飼い猫」「少女」「観葉植物」と、みんな自分のペットに愛情があるということだと思います。もうちょっと狂おしいほどの愛が溢れる感じだとよりよかったです。
妙な注文ばかりになってしまいました。それではまたの機会に。
No.1  星野田  評価:20点  ■2011-05-22 21:48  ID:b58CEwXZkaY
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 こんにちは。ミステリーかと思ったらホラー。この「ミステリー・ホラー・SF板」という場所を利用した叙述トリック……!! ではないですね(ぇ。
 文章はさすが読みやすく、物語の書き出しや序盤の展開は引きこまれます。「猫が殺されて廻っている」という、悪く言えばよくありそうな話なのですが、うわさ話として描かれていたり、犯人が大家の息子というはなしなどが、おおこれは何か起こるなと予感させ、続きを読みたくなれたと思いました。
 しかし一方で、読み終わって、うーんとなってしまいました。物語の序盤の方では「何か起きるぞ」という期待感を煽ることに成功していると思うのですが、語り手が部屋に戻ったあたりからの展開が、唐突で急速で、「へ?」とおもっているうちに終わってしまったというか。
 こういうバックボーンを持った物語であるのならば、「猫殺しをしているのは大家の息子らしい」という出だしをこのままで、例えば「大家の息子が殺された」「なぜ殺されたのか、それに関する住民たちの憶測が飛び交う」というような展開をし、最後に「語り手の部屋には人に見られるわけにはいかない子猫がいる」というような終わり方にするとか。もっと、前振りから物語の収束までへの助走に時間をかけても良いのではないかと思いました。
 なんだか辛口になってしまい、失礼いたしました。
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