エゴノア

 束縛からの解放を知らせる福音。ため息。セットするイヤホン。いつもの動作だ。足早に教室から出ていく。ぞろぞろと人が群がる中、売店で弁当と飲み物を買う。
 そこで俺はいつものように、なるべくきれいに食べることが出来そうな弁当を選ぶ。つまり、マヨネーズが端から揚げ物に付いているものは自然に選抜の候補から外される。その禁忌を犯していなければ、どの弁当も等しく俺に食される資格がある。
 ただ、お供のお茶の種類は変わらない。何故か?
 かっこいい名前だからだ。何より美味い。
 そこからサークルの部室へ向かう。空を見上げると、目を細めてしまうほど眩しく、そして暑い。夏季限定コンサートが盛り上がるのも道理だ。周りの木々を見渡す。
「がんばれ」と呟き、足を速める。暑い。
 扉を左にスライドさせる。少し間延びした「お疲れさま」を言うと椅子にすわりレジ袋から弁当を、ヒレカツ弁当を取り出す。あと、綾鷹。ふたを開ける前に、箱を包んであるビニールを破る。毎度のことなのだが、なかなかスムーズにいかずイライラする。
 関門を突破し、カツにかけるソースの小さなボトルに目をやると、かわいらしいイラストが描かれてある。
 当然のように二足歩行のブタが首にナプキンを巻き、両手にそれぞれナイフとフォークを手にして笑っている。仲間を食われるというのに笑っている。なんなのだ。仲間が殺されたショックで精神的に重傷を負ってしまったのか、悲しみに堪えての営業スマイルなのか。おそらく後者だ。達観した奴だ。受け入れているのか……。
「どしたの、ソースかけないの?」
 一つ上の女の先輩が声をかける。
「かけますっ。かけますよ」
「あ、そのブタかわい〜」見せて、と言われたのでボトルを彼女に渡す。
「目もとがめちゃかわい〜よ、ほらぁ」
「そうですね」ものの数秒でボトルをひったくる。ムッとした先輩をよそにソースをカツとキャベツにかける。
「いただきます」

 人間が、嫌いだった。この自分も含めて。
 自分たち以外の動物を、殺して殺して殺して、食って食って食う。居場所という居場所を奪う。クソ数多の犠牲のうえに、生きている。それが許せなかった。かと言って自分は死ねるのか、と問われると、答えはノーだった。そんな自分にも、反吐が出る。人が死ぬニュースを見ても、「ドンマイ」の一言で片づけるのだが、犬や猫が殺されるか、或いは不法に埋められるというのを聞くと、身体が怒りで熱くなる。フツフツと、ドロッとしたものが湧いてくる。いつか世界中の動物たちが、人間たちに報復に来ないだろうか。密かにそれを夢見ている。たっぷりと食い散らかしてほしい。

「はじめくん!」
 大学の教室棟を出て家路に向かう足を止める。数センチ足が浮いた気がした。振り返ると自分の名前を呼んだ涼子が走ってくるのが見えた。
「今日も暑いね」と笑いかけてくる彼女にいつも通り数秒見とれて言葉が出なかったが、やっとの思いで「暑いのはその長い黒髪のせいじゃないのか」という趣旨の発言を、した。
 涼子とは去年の入学当初、少人数で受ける講義で席が隣だった縁で友人になってから、事あるごとに一緒に行動している。周りの人間からは何度か「付き合っているのか?」と訊かれたが、その段階には発展していない。俺自身が臆病だから、ということに他ならない。
「ね、民法のレポートってあさって提出だったよね?」そう言って涼子は手提げの鞄からペットボトルのお茶を取り出した。偶然にも、綾鷹だった。
「おお!」
 こんな些細なことで一喜一憂するのは正直とても疲れるが、勝手に反応してしまうからしょうがない。
「どうしたの?」
「え、いや?そうだな、あさってあさって」
「私明日は休みだから、一気に追い込みかけないとなぁ」そう言って彼女は一気にお茶を飲み干した。
「ちぇ、いいよな、俺は明日もコーギあんのに……」その姿を横目に愚痴る。
「徹夜だな、少年」と涼子は俺の肩を叩き、底抜けに明るい笑顔を見せた。
 涼子が他人を悪く言うところを一切聞いたことが無い。それは、それを聞いて悲しくなる人間がいるという事実をきちんと理解しているからなのだと思う。何より、人を罵る姿ははた目から見ると、冷たく醜い。そのような負の部分を見ていない分、余計に笑顔が眩しいのかもしれない。多少ひいき目の補正がかかっているせいも、あるかもしれない。

 涼子とバス乗り場で別れた後、大学を出る。門の前の信号を渡り、すぐの公園を突っ切る。そうしていると自宅にたどり着く。その日だって、普通にそうなるはずだった。突拍子もない事など、そうそう起こらない。だから日常はある程度平和で、ある程度退屈なのだ。敬愛しているバンドの曲に耳を傾けながら歩く。公園の中を通るといっても、遊具などは目につかない。いや、確かにあるのだが、自分がいつも通る道はちょっとした林の様な散歩道だった。とにかく、サビにさしかかろうという時に、そいつは来た。
 黒いシルクハット、黒いタキシード。それにステッキを持っていた。取っ手がカーブしている。それも黒だ。ひげは無かった。目の色はグレーのように見えた。
 男が片手を挙げて何か言っている。後ろを振り返る。誰もいない。ああ、俺に言ったのか。イヤホンを外し前を向くと、
「そうだよ、俺は君に言ったの」
と、微笑んでいる。歳は若そうだ。二十代前半だろう。背が高い気がする。そもそも自分は百五十センチしかないため誰もかれも背が高く見えるのだが、それにしても高い。百八十後半だろうか。それと今気づいたが、髪が赤い。真っ赤だ。これに気付かなかった自分に焦る。この奇妙な男を無視して前方にダッシュすべきか、逆走し遠回りすべきか。どちらにせよ足が動かない。
「落ち着いてよ、何も襲いかかるとかしないからさ」
どうやら俺は完全に動揺しきっているようだ。初対面の男に「冷静になれ」と言われるとは。
「早速だけど、君さ、人間キライだろ」
何がおかしいのか、さっきから目の前の男はずっと笑みを浮かべている。こんな人間は漫画でしか見たことが無い。
「急になんだ」
「いや、違うならいいんだ。ただ俺、職業柄そういう雰囲気に敏感だから」
「死神か、何かか?」
何だ、この間の抜けた台詞は。
「漫画の読みすぎだよ」
ここで相手は笑みを解いた。
「で、どうなの?」
 唾を飲む。嫌な汗が、出る。背中を伝うのを感じる。
「き、らい……だな。何のアンケートだ?」
「もしよかったら、手伝ってほしいんだよ。掃除」
 最後の言葉が脳内で変換される。指摘されるまでもない。自分は漫画の読みすぎだ。
「殲滅、か?」おそるおそる、口に出してみる。
「やっぱり読みすぎだよ、君。でも正解。どう?お金は入んないけど」

 かれこれ三十分ものあいだ、ベッドに仰向けになって手のひらを眺め続けている。握っては開き握っては開き。自分に起こった出来事を信じられなかった。零との一時間前の会話を思い出す。
「ん……」
「おや、案外乗り気じゃないのかな?」
赤髪は本当に残念そうな顔をした。子供みたいだ。
「違う、あんたの話が信じられないだけだ。人間の、殲滅?漫画じゃあるまいし……。」
「証明しようか?」平然と言った。不気味さは微塵も感じなかった。ただ、自分の言っていることが信じてもらえないことに多少拗ねているようだった。
「お、俺でか?」逃げたい。ただ、一歩後ずさるので精いっぱいだった。
「君消したら感想もらえないだろ。そうだな……あれなんかどうだ」そう言って赤髪は俺の後方をステッキで指し示した。カラスでもいるのかと思ったが、違った。人だった。
 いつも夕方になるとランニングしている、小学校低学年くらいの男の子だった。いつも決まった時間に、同じコースをずっと走っている。こんな年齢で自分でストイックにメニューを決めて継続しているその子に感服した。
「ちょうど、よかった」その子が通り過ぎるのを横目に赤髪が呟いた。「次にあの子がこっち来たら、殺しちゃおう」
 ちょうどその子はその男の後ろの、公園の林側の出入り口を出て、反対側のゲートがある左の方に走って行った。恐らく十分ほどで一周してくるだろう。
「どうやって殺すんだ?」
「難しくないよ、至極簡単。脆いもんだよヒトなんて」という赤髪の言葉は人間を蔑むというよりかはむしろ哀れんでいるものに聞こえた。
「お、そうだ、俺、レイっていう名前なの。字は数字の零を使うんだけど。君はなんて名前なの?」まるで転校してきたクラスメートに対する様な口ぶりだ。
「……」
「ほらぁ、俺が自己紹介してんだからそっちも言う!」
「一之瀬、はじめ。名前は数字の一を使う」
「渋々な割に案外ちゃんと自己紹介してくれるのね。てか、凄くない?一に始まり一に終わるって。それに俺ら零と一じゃん。運命感じちゃうよね」
「お喋りな奴だな」と内心に呟く。そして不思議と、この幼く飄々とした男に対して興味が湧いた。どんなトリックを使うのかは知らないが、手頃なものなら教えてもらっておいて損は無いだろう。今なら落ち着きを取り戻している。首にかけたイヤホンからシャンシャンと音が漏れている。
「あ、来たかな?」と零が声を弾ませる。心待ちにしていたおもちゃが届いたかの様だ。実はこの男、本当は幼児ではないかと疑いたくなる。「見ててごらん。一瞬だから」
 さっきの少年が走ってくるのが見えた。息は乱していなかったが多量の汗をかいている。そのせいで彼の服は青と言うよりも紺に近い。
「男が二人で何をいつまで話すことがあるのか」と訝しんだ顔で俺と零を見ながら通り過ぎるとき、零は振り返りもせずその子の右肩を突き飛ばした。男の子はバランスを崩しうつ伏せに道に倒れた。その時に頭部をぶつけたのか鈍い「ゴンッ」という音が聞こえたが、人が転んだ時に聞く様な音ではなかった。普通は反射的に手を前に出して自身を防御しまうものだが、今の彼は腕をだらんとしたままピクリとも動かない。
「な、簡単だろ」隣の俺に向かって得意げに笑う。後ろには気にも留めてない。
「突き飛ばして、頭に衝撃を与えて殺すのか?」そんな馬鹿なことがある筈無いと思いながらも別の、他のもっと馬鹿みたいな方法があるという確信を潰したくて、訊いた。
「何それ野蛮。それに突き飛ばしたりしてないって。触っただけだよ。」
「触っただけ?」俺は零の右手を見た。すらっとした、白く細い指に目が行った。手のひらに何か怪しげな紋章が書かれてあるわけでもない。「どういう原理だ?」
「とりあえず、これ、運ばないと。後々めんどくさくなるよな」

 公園にあるなだらかな丘陵、その上にあるベンチに二人で腰掛けた。その斜面では若い夫婦がゴールデンレトトリーバーを走らせている。ピンク色のフリスビーを投げると、それに引っ張られるような勢いで追いかけていく。二人で黙ってそれを眺めていたが、五回目のスローイングの時に右側の零が口を開いた。
「なんか、さっきより落ち着いてるね」
「ああ、あんたのペースにハマった感じだよ。俺はやっぱり普通の人間と感覚がズレてんだな。人が一人目の前で死んだのにこの落ち着きようだ」
 あの子供の死体は、殺した場所より更にうっそうとした林に捨てに行った。
「こういう場合、埋めるもんじゃないのか?」たった今地面に落とされた身体を見下ろして零に訊いた。
「さあ?めんどくさいよ肉体労働なんて。それに見つかったところで……」
「ところで?」
「原因不明の変死体だよ」そう言って俺に手で合図して来た道を戻りだした。
「で、もう一回訊くけど、死因は何だよ」フリスビーの一行が去ってしまい、急に公園は静かになった。
「そればっかり」
「まだ二回目だ」
「息の根を止めるんだ」
「は?」それはただの慣用句だ。
「文字通りだよ。ん、窒息死になるのかな?よく知らないけど」
「なんで自分の能力知り尽くしてないんだよ。で、窒息死?でもあれは呼吸困難になってから死ぬまで十五分ほどかかるんだぞ。あれはホント触れたと同時に死んでたじゃないか」
「ああもう!うるさいうるさい!」零は左手で払いのける動作をした。「君が納得できるように説明したんじゃないか。この際言うよ。この世にはまだ科学とかそんなので解明出来ないようなことが山盛りあるんだよ」この男に対する恐怖心はもはや無くなっていたが、反対に憤りが強くなってきた。友人にはなりたくない。
「いや、それでも……。漫画や小説なんかじゃ特異な能力手に入れた主人公は自分の武器のスペックはきちんと把握するもんだ」そう言った後で、深呼吸をする。相手を自分と同年、または年上と思うから腹が立つに違いない。自分より年下だと思って接すれば、多少怒りも和らぐ。
「いいよ俺は。面倒だし。スペックの把握とやらは自分でしたらいいじゃない」零はそう言うとよいしょっと立ち上がり背もたれに引っ掛けてあったステッキを取り、俺の前に立った。
「やるでしょ?」ステッキの先を俺の左胸に押しつける。
「さっきも言ったが」
「ん?」
「俺は人間が大嫌いなんだ。醜すぎる。いっそ全滅すりゃいい。だが今さら大洪水なんか起きない。だからせめて、俺の周りから人間を消していく」
「同族嫌悪?」零が上からせせら笑う。
「そうだ悪いか」
「いいや、分かるよ。君みたいな奴は、世界中にわんさかいるだろうな。とりあえず君は手始めだ。チカラをあげるよ」
「ああ」頷くと同時に左胸に熱を感じた。「熱い」よりも「温かい」感覚がそこから全身に広がった。
「はい、おしまい。簡単だろう?」そう言って零はステッキを後ろ手に隠した。
 なんて簡単に、苦痛も無くあっけなく、世界を変えるチカラを手にしてしまった。

 時計の針は午後十一時を指している中、パソコンのディスプレイを見つめている。ただ、一向に作業が進まない。今日、明日で民法の講義のレポートを仕上げなくてはならないのに、気がつくと零に言われたことを反芻していた。
 相手に触れて殺す際には、普通に触れるだけでは殺せない。手のひらに意識を集中させる必要がある。そうすることで少しそこが熱を帯びてくる。それから触れなければ意味がない。
 肌に触れなくても問題無い事は分かった。
 あと、手に集めたチカラは放出できない。つまり遠くにいる人間は殺せない、というわけだ。そして零の最後の言葉。
 俺がチカラを使うとき、すなわち手に熱を帯びさせると、零と視覚聴覚を共有でき、脳内での意思疎通が可能になる。一種のテレパシーだ。
「な、なんでそんなことする必要があるんだよ」注意事項を伝え、じゃっ、と帰ろうとする零を慌てて呼び止める。
「監視というか、さ。きちんと仕事するかなぁって」
「当たり前だ」
「じゃあ良いじゃん。あーっ!」
「まだ何かあるのか……」今日蓄積した疲労の大半はこの男のせいだ、という確信を得た。
「これ結構重要なことだった。危ない危ない。うん。もしね、一回でも殺す事ためらったら……」
「ためらったら?」
「死んでね?」「今度ランチ奢りね?」と同じ軽さだ。
「あ、ああ、分かった」多少驚いたが気にはならなかった。俺に限って人間を殺すことに躊躇しないはずがない。
「ま、君に限ってそんなことは無いと思うけど、釘さしておかないとね。人を哀れむのは良いけど、慈悲は要らない。情けをかける奴も、要らない」そう言い放った零の表情は、その日一番冷たかった。
「いかん、作業が……」寝ぼけ眼をこすりながら、意識をワードの方に戻す。

「じゃあ、行ってくる」そう言って、玄関のドアを開け放ち颯爽と、朝の日の光を浴びて駆けだした。なんということはまるで無く、曇り空の下、若干前のめりになりながらとぼとぼと歩く俺は「颯爽」という言葉とは程遠かった。レポートが終わったのは先ほど。それでも仕上がったのは全体の約半分。自分の効率の悪さに絶望する。今晩の睡魔との第二ラウンドは免れない。
 疲れからくる負のオーラを辺りにまき散らしながら、昨日のことを思い出す。そもそもあの優男はどこから来たのだろう?案外この界隈に住んでいるのだろうか?そしてひっそり何人も消してきたのかもしれない。いや、さすがにそれは無い。「I市民の神隠し、これで二十四人目」などのニュースも聞いたことが無い。
 気がつくと、昨日零に出会った雑木林を歩いていた。暗闇の中、急に視界が開けたように唐突だった。瞬間移動・ワープ等はこのような感覚だろうか。それにしても、よく轢かれなかったものだ。
 そういえば人が見当たらない。ここでの「人」とは警察官のことなのだが。けたたましい音も聞こえてくる気配は無い。あの子どもの親は届を出していないのだろうか。死体が横たわっているであろう茂みを眺める。嗅覚を研ぎ澄ます。まだ腐敗臭はしていないのか。帰宅する時にはもう少し人がいるだろうな。そう思い、再び歩き始めた。体は依然、重いままだ。
 大学の長い坂を上る。車道を挟んで二つの歩道があり、その途中のスクールバスの停留所辺りでは、年配の守衛が二、三人で学生を誘導している。
「はい、バス来るからちょっと待ってね。……はい、オッケーでーす!」恐らく相手は笑顔で仕事をしているのだろうが、視線を合わすこと無く道を渡る。
 車道を渡って教室棟へと向かう。九時前ということもあり学生の数はまばらだ。人の少ないうちにチカラを試した方がいいだろう。だが、殺すペースはどうする?一度に人を殺しすぎるとさすがに世間にも騒がれるだろう。おまけに死んでいくのはここの大学の人間だ。今後活動し辛くなる。
 舌打ちをする。相手の名前を思い浮かべただけで殺せる術であるとか、対象に手をかざし、一生別の空間に幽閉する事が出来るなら、いくらか事は楽に済むのだが……。零から受け継いだこの能力は、いささか使い勝手が悪いように思えた。ため息とともに教室の重い扉を引く。
 おや、早く来た甲斐があった。二百人ほどが入る大教室に自分を含め三人しかいなかった。最前列に女が一人、最後列の左隅に机に伏して寝ている男が一人。好都合だ。閑散としている中、前の席の女性が鞄から物を取り出す音が聞こえる。俺はそれを一瞥すると、ゆっくり、ゆっくりと男の方へ歩いた。なるべく気づかれないよう、教室の真ん中から回り込む形で近づく。なだらかな斜面を、じれったく感じるほどの速度で移動する。心臓の刻むリズムが、じわじわと早まるのを感じる。
 つま先立ちの状態から、ゆっくりと息を吐き出しながら踵をフロアにつける。今や俺とそいつとの距離は、腕を伸ばせばデニムの肩に触れることが出来るほどだった。ふぅ、さて、やるぞ!そう思い、手のひらを見つめようとしたが、フと気付いた。
 見られてないよな?
 首の筋を痛めてもおかしくない速度で、右を向く。そこから起こる空気の振動で男を起こしてしまうかもしれない、と錯覚てしまうほどだった。
 幸い、目が合うことは無く、俺の視界に入ったのは女のブラウンの後頭部だった。安堵すると同時に教室の左手の扉が開いた。
寝ている男から席二つ離れた隣の机にゆっくりとショルダーバッグを置く。虚を突かれたにしては落ち着いているじゃないか、と自分に感心した。
入ってきた女二人はヒヤヒヤさせるほど大きな声で喋っていてこちらには目もくれない。黄色と茶色の中間のような髪の色は、今の彼女たちと同様艶が無かった。
 とりあえず鞄を置いた場所に座るため、席は全て並んで固定されているので端まで行き、机と椅子の狭い間を横歩きで移動し、着席する。またげばいいだけの話だが、俺は足が短い。本日二回目の、ため息。
気を取り直し、もう一度右手に意識を集中するが「まてよ」と集中を切らす。何も訊き腕で殺す必要は無い。自分より左側にいる相手にわざわざ右手で触れてやることは無い。チラッと左を見る。起きる気配は無い。俺より先に誰かに触られたのではないかと思うほど、動きが無い。
 ひとつ、ふたつ。席を詰める。相手の黒髪のパーマが間近に迫った。今度こそ……。
集中しやすい様に手のひらを見つめる。膝の上に手を置いているためそれほど距離は近くない。だが、そこからでも、手に描かれたしわを目に刻み込む勢いで眺める。するとじんわりと、熱が手のひらから広がっていくのを感じる。
「おす」
ビクッとする。零が鍾乳洞の奥から呼んでいる。反響している。こういう仕様なのか。
「これ、どうにかならないのか?」
「独り言になってるよ。怪しい奴みたいだ」と零のクスクス笑いが頭に響く。「いつもみたいにさ、うん、心の中で言いたいことを呟く要領で。腹減ったな、講義めんどいな、ムラムラするな、とかみたいに」零は自分の発した言葉のリズムを楽しんでいる様だった。
 言い返そうとするが慌てて口を閉じる。口に出さなくてもいいんだったな。つまり……。
「最後のは、遺憾だ。実に遺憾だ」無言で、脳内の零に訴える。
「別に恥ずかしがらなくても……」
「いつもムラムラしてるわけじゃ」
「たぁとぉえだろぉ!早く隣の奴でもやっちゃえよもう」
「そうだ、俺が言いたいのは」
「あぁ、それならムダムダ、俺の声は反響しっぱなしだからさ。直しようが無いよ」
 疲れた。さっさと消そう。うつむく視線の先に、自分よりも細く、長い脚があった。黒のパンツを穿いているせいかもしれないな、と思いながら、その脚に触れてみる。
 すると相手の身体がわずかに動いた。さすがに起きてしまったのか。いや、それよりも、「触れた瞬間死ぬ」のではなかったのか。怪訝な顔をされる前に離れた方が良さそうだ。
「ああ、焦んなくていいよ。もう死んでるからさ」零がこともなげに言う。「今のはさ、痙攣みたいなものなんだって。ん?へぇ……痙攣するの……覚えとこ。でももう死んでるからご心配なく」
 やっぱり、こいつの短慮っぷりは本物だ。こんなのでよく……よく?
「おい」
 気がつくと教室は入った時よりも騒がしくなっていた。ぼうっと座っているのも怪しいのでとりあえず授業の用意をしながら零に声をかける。
「ん?」
「今まで何人くらい殺してきたんだ?」こんな調子で今まできちんと数をこなしてきているのか疑問だった。多くても十人程度な気がした。
「忘れた」即答だった。
「おい、まじめに答えろよ」
「ホントだって。いちいち死んでく人間の数なんて覚えてなんかいられないよメンドくさい……」声が不機嫌だったためそれ以上何も訊かなかった。
 授業開始のチャイムが鳴る。
「じゃあ、この手の集中解くわ」ただでさえ九十分間も退屈な講義に束縛される上に零の話に付き合うつもりは毛頭ない。
「えー。愛想無いなぁ……まぁいいけど。それにこいつ、どうすんの?」左にいる男を眺める。当たり前だが、顔は分からない。
「知らん。このまま放置だ。どうせ気づかれるのは俺がいなくなった後だ。じゃあな」淡々と脳内通信を切る。手のひらの熱が引いていく。心なしか頭が熟睡後の様にすっきりする。もしかすると、このチカラは人体に何かしらの悪影響があるんじゃなかろうか。それも踏まえ、今日はあと何人消そうか。
 消す場所も考えないといけない。トイレの個室にでもこもって、一人、また一人と引きずり込んで消すか。トイレの個室に死体が重なりあい、天井にまで届く山になる。
「ふふふっ」思わず吹き出す。無いな。ふざけたイメージを払拭する。こんな調子では零を追い出さないのと変わらない。どうせこの講義を受ければ今日は終わる。たまには、まじめに聞いてみるか。

 今、俺は根性で瞼を持ち上げている。まだ夕方の六時だというのにこの眠気は何なのだ。思い当たる節が全く、いや、今、思い当たった。液晶画面を凝視する。次の狙いはあの教授にしてやろうか。舟漕ぎとレポートの両立は困難を極めていた。
 結局その日は誰も消さずに帰路についた。いざ人を消そうとしても大学内の人間の数が多すぎるため、どこにいても誰かの目に留まってしまう。一度大学内を徘徊し、人を消すのに適したポイント・時間帯を確認する必要があると痛感した。不完全燃焼な感が否めないが仕方ない。
 それ以外で気になることがあるとすれば、十二時ごろに自室で聞いたドップラー効果だ。案外早く気づかれたな。サイレンが遠ざかるのを聞きながらボンヤリ思う。こうも高を括っていられるのは、なんだかんだ言っても人間離れしたSFチックなチカラのおかげだな。これからこれを有効活用する術を探していき、ここから、掃除を始めよう。零はあの様子だとたいしてこのチカラを把握しきれていないから、期待はしていない。役立つとして、眠気覚ましの雑談相手だ。
 零を呼ぼうとしたが、その前に自分が呼ばれた。母だ。
「ちょっと、トー大で人が死んでるって!」自室から下りてきた俺に母の困憊した顔が言う。ブラウン管の方を見ると、見慣れたキャンパスと共に、「桃園大学生徒・変死」と隅に表示されている。
「あんたこんな事なってるって知ってた?」
「いや……」
「変な人とか見かけたりは――」
「してない。死因何だって?」
「検証するって。ただ外傷は無くて――」
「それなら勝手に死んだんだろ。じゃ。あーうるせ……」なおもまだ喋る母をよそに自室に戻る。
 自室のドアを閉め、奴を呼び出す。
「お、どしたの?」
「呼び出すのにも、反響にも慣れたよ」ベッドに跳びのり、壁にもたれる。すると、爛々と急かしてくる画面が目に付き、嫌々応じる。
「今日何人消した?」喜々として訊いてくる。
「一人だけ」
「すくな!やる気あんのかよ……」ブスッとした声が返ってくる。
「ビギナーは大目に見ろよ」パチン、パチンとキーを叩いていく。
「ビギナーねぇ」
「それに、消すときはお前と視界共有してんだから……」
「あ、そうだっけか」
「なぁ」あきれる適当さに突っ込む気力をレポートの追い込みにつぎ込む。
「ん」
「なんでお前はこんなことしてんだよ」
 この男は本当に、真っ当な目的をもって人を消してるのか、ただの気まぐれ・暇つぶしで行っているのか、もう一度確かめておきたかった。半端な奴なら手を組むつもりはサラサラ無い。
「お前が呼んだからだろ」
「え?」
「俺も暇じゃないんだ。それなのに話し相手が欲しいからって理由で―――」
「真面目に聞けって!」右拳で机を殴る。思わず声に出して怒鳴ってしまった。こいつの場合は天然だろうが、どうしてもはぐらかされている様に感じる。
「何怒ってんの?……あぁ、ハイハイ。俺が何で……ってか、してなかったか、この話」
「してない。お前が人間嫌いなのは、なんとなく分かるけど」打ちつけた拳をさする。「確認したいんだ、改めて。ただの愉快犯なら、お前とは組みたくないからな」
 また気分を害すか、と身構えたが、今の発言は癇に障らなかったらしい。普通の返事が返ってきた。
「あら心外……俺も本気で人間嫌ってんのに。うーん、理由はお前と似たり寄ったりだな。改めて言うようなもんでもない。あまりに人間が好き勝手するからさ」
「あぁ」
「てめえらの暇つぶしのために無理やり動物に曲芸覚えさせたり……自分らが食うためにせっせと作った巣を叩き落とすんだぜ?」
「ツバメだろ?あれは良いんだ」
「あ、そなの?」零の拍子抜けした声が聞こえる。
「ナントカツバメって奴の巣なんだけど、あれは雛が巣立ったらもう同じ巣を使わないらしいんだ。だから俺らが食う巣ってのは、ツバメが廃棄した巣なんだ」
「へぇ、物知り」
「俺もお前とおんなじ疑問をもった時期があって、その時に調べて知ったんだ」
「どうせ検索した時一番初めに表示されるページをちょろっと見ただけだろ」
なるほど、俺が自分より博識だったのが気に食わなかったのか。慌てて話を戻す。
「ま、まあ、何にしても、増えすぎたんだよな、人間は、な?」
「他の動物は増えすぎたら駆除するくせにな。知ってるか?カンガルーの―――」
「人道的な殺し方」零の台詞を引き継ぐ。豪州で何年前かに出された指針で、繁殖しすぎたカンガルーを減らすためのものだった。
「あれ酷いよな。カンガルーの子ども至近距離から散弾銃でぶっ殺すんだっけか……。ふざけてるな」感情的になってきているのか、零の声のボリュームが次第に大きくなってくる。
「『殺したカンガルーの袋ん中に子どもを確認したら、すぐさま殺しましょう』」
「どこが人道的なんだ」
「楽に死なせてあげられるように急所を的確に記述した殺しの手引もあるそうだ。あー、だから人道的なのか」
「てめふざけんなよ!」
「うるさいな!ただでさえお前の声反響してだるいんだから……。それに俺に言うな」
 それからはお互い黙りこんでしまい、こちらから通信を切断して終わった。一つ分かったことは、奴はただの愉快犯では無いな、ということだった。少なくとも、俺の様に人間の横暴さに嫌気がさしている。不必要に呼ばなければ、なんとか付き合っていけそうだ。
 その日の深夜、俺は無事、レポートを終えた。
10
 デジャブ?
 昨日よりかはまだマシだったが、徹夜のダメージはそれなりに効いていた。脳みそが痺れている感覚……今日こそはグッスリ眠ろう。決意を固め、大学へと向かう。
 途中、レポートの入ったUSBメモリをポーチに入れていない事に気づき、取りに戻る。案外頭はしっかりしているのかもしれない。
 いつもなら十五分ほどでキャンパスに着くのだが、倍の時間歩いてきたのではないかと錯覚するぐらいの疲労感だ。百十円を取り出す準備をして売店に向かい、いつも通り綾鷹を買う。少しばかり飲んで、スイッチを切り替える。いつまでもフラフラしていられない。
 教室棟は、入るといくつかの机とイスが置いてあり、談笑や飲食ができるロビーの様になっている。そこで今一人、男が座っている。「館内禁煙」の看板が読めないからか、タバコを平然とふかしている。丁度いい。本日の記念すべき第一号だ。持っていたペットボトルを、バッグの専用ポケットに入れる。
「おす」早速零が声をかけてきた。「仕事が早いね。結構結構」
「仕事じゃない」義務とか、そんなのじゃない。零の言葉を一蹴し、男に近づく。
 案の定、男は目つきの悪い目で睨んできたが、あいにくこちらは日本人に生まれてきたのに日本語が理解できない男を哀れんでいたため、彼の威嚇効果は皆無だった。
「んだコラ」と挨拶してくれているのをヨソに、右手で相手の腕を掴む。その瞬間、相手は目を見開き、軽い痙攣の後に息絶えた。そっとバランスを崩さないよう、イスにもたれかけさせる。「粋がるなよなー」という零に適当に相槌を打っていると、後ろから声が聞こえた。
「はじめ君おはよー」
 思ったとおり、涼子だった。一昨日は「暑い」とか何とか言っていた人間が今日は赤いストールを巻いている。そうまでして服に気を遣いたいか。いや、そんな事は今どうでもいい。
「お、連チャンいっとくか」
「え?」
「え?じゃないよ。二人目いっとこうよ」零が淡々と言う。「要らないんだろう?人間なんて。消そうよ」
「黙ってろ」チカラを解こうとするが、手の熱が引く気配が無い。むしろ更に温度が上昇した。「おい、なんだこれ。早くどっか行けよ!」
「勘違いしてるみたいだけど、この通信の主導権は俺が握ってるから。で、何?この女見逃すの?」
「どうしたの?黙り込んじゃって……」涼子が俺の顔を覗き込んでくる。「機嫌悪いの?」
「あ、別にそんなことは――」声が震えそうになる。「お前こそどうしたの?こんなとこで……」
「どうしたの?じゃないでしょぉ?おんなじ民法じゃなぁい」その時の涼子の顔は怪訝そのものだった。「何なら先行っとこうか?取り込んでる風には見えないけど……」
「あ、あぁ、悪い」苦笑いして追い返す。階段を上がって教室に向かった彼女を見届け安堵する。
「おいおいおいおい……ウソでしょ?」零が力無く、ため息交じりにそう言った。
11
「どうゆう事なの?」
 俺たちは、一昨日初めて会った散歩道に立っていた。他の人間がやってくる気配が無いのは、俺たちの放つ雰囲気が人を知らず知らずのうちに拒絶しているのではないかと思えた。
「今日の朝の女さ、なんで見逃したのよ?」零の声にはあまり怒気を感じなかった。むしろ落胆の色が濃いように感じた。
「特別だからだ」迷い無く言った。「あいつは他の人間とは違うんだ」
「はぁぁぁぁ?!」この三日間で聞いたことの無い声の荒げようだった。「んなの関係ないだろ。そんな曖昧な理由が通ると思ってんの?」
 そうだ。こんなことは、以前の俺なら嫌悪すべき感情・理由だ。人間なんていうのは色んな汚れたものにまみれた生き物のくせに数だけは立派にいやがる。全滅、いや、せめて半分にまで数が減れば地球も、人間の社会も少しはマシになるだろう。そう思っていた。
 だが、そんな俺の世界も、たった一人の人間の存在で、この短期間で、幾分マシな、いや、イイものになった。そこまで思えるようにさせた人間を殺すのは、勿体無い。甘いな。やっぱり。
 殺したくない。
「俺は人間が嫌いだ。人が人を裁くことが、間違いだとは思わない。ただ、あの娘だけは、絶対に殺さない。特別なんだよ!」
「おおう。すげ勝手だな。それは餓鬼のわがままだよ」
「何とでも言えばいい。ただ、これは完全に俺の落ち度だし。失格だよな。お前に殺されても文句言えない」
 じっと零を見据えた。恐ろしくは無かった。初めて出会ったときの方がかなり動揺していた。あれは実は二日前なのだと思い出す。そして、今、その日ぶりに零の顔を見たのだと気づいた。つくづく短い付き合いだったな。
 小さくため息をつき、零が言った。「お前は、いい粛清者になると思ったんだけどな……」
 ステッキを振り下ろし、俺の心臓の前で止める。
 あ、これで徹夜分取り戻せるな……。
OK
2011年03月13日(日) 20時25分24秒 公開
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■作者からのメッセージ
初投稿です。処女作です。至らぬ点が多々ありますので、ご指摘ください。

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No.2  OK  評価:0点  ■2011-03-28 19:40  ID:ttMHYNvaXSo
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片桐秀和様へ。

返事が遅れてしまい申し訳ありません。
展開が単調な点は、少ない技量にしても、もう少し練られたなと反省してます。
零については、人外の者であるのか、生まれつき、あのようなチカラを持っている人間かを読者の人に考えてもらおうと詳細を明言しなかったのですが、逆に物足りない印象になってしまいましたね……。
読んでいただきありがとうございました。
勉強になりました!これからも拙いながらもがんばります。
No.1  片桐秀和  評価:20点  ■2011-03-24 20:09  ID:n6zPrmhGsPg
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読ませてもらいました。
作品テーマとしてかなり難しい問題を取り上げていますね。最後、彼女を殺さなかったことが、主人公の行動理念からするとエゴと見えるが、一方ではそれこそが人間の良さのようにも思える。タイトルに見合った作品だと思います。

この作品の弱いところは、主人公が人を殺しまわるほどに人間を憎んでいるといまいち感じられないところかもしれません。人間の利己性によって、同属嫌悪している面がある、というところまでは分かる。でも、そこから実際に人を殺すというまでには、相応の隔たりがあると思います。そこを飛ばして、動物を殺し、喰うから、さあ殺そう、という流れになっているのですけど、その隔たりが埋められてないからか、あくまで小説上のこととして、事態が進むと読めてしまいました。人間性そのものがテーマになっている作品としては、まだ踏み込みが甘いという印象です。
ついでキャラクター。語り部である主人公は普通の人として設定するのはありとして、零はもう少しインパクトが欲しかったかなと。あと、涼子のことももう少し書いた方が作品として面白くなりそうです。
文章は、処女作とのことですが、ちゃんと読めるものになっていると感じました。短いセンテンスで区切って、書きやすさを重視したのが、結果として読みやすさにも貢献しているといったところかなと。
最後に展開です。これは結末が読めてしまうのが少し残念。ミスリードまでさせる必要はないにしても、物語としては一ひねりあっても良かったかもです。

簡単に纏めると、踏み込みがまだ足りない部分はあったと思うものの、作品が書きたいことは(と僕が思うところは)伝わってきたし、処女作ということであれば、かなり上手くかけている作品だと思います。
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