鳴ル女
 私の工房に花房真由美という女が訪ねてきたのは、今から半年ほど前の話になる。真由美は、痩せ気味の女で、肌が病的に白く、眼の下には隈があり、どこか思い詰めた顔をしていた。
 職業柄、ほとんど決まった人間以外と会うことはないので、彼女の訪問にはかなり驚いた。そもそも、どうやってこの場所を知ったのだろうか。問い質してみると、彼女がとある富豪の愛人であり、且つ有名なオペラ歌手だということが判明した。音楽に疎い私でも名前を聞いたことがあるくらいの、名の知れた歌手である。ここのことは富豪から聞いたらしい。恐らくは、私の作品の所有者なのだろう。
 真由美は頭を深く下げると、「先生にお願いがあるのです」と言った。血走った両目で私を見つめながら、「私はもうすぐ死にます」「脳に悪性の腫瘍があるのです」「何もかも諦めましたが、一つだけ諦め切れないものがあります」「何か解りますか?」と一気にまくし立て、こちらの反応を窺うように少し間を置いた。答えようがないので沈黙していると、彼女は噛み締めた唇から白い歯をゆっくり離し、喘ぐように「歌うことです」と言った。
 花房真由美の存在意義は「歌」うことであり、「歌う」ことが出来なくなった時点で彼女は彼女として成り立たない。逆説的に言えば「歌う」ことさえ出来るなら、彼女は彼女であり続けるということだ。例えどんなに姿形が変わったとしても。
 真由美は床に置いていたアタッシュケースを私に差し出した。中には福沢諭吉が奴隷船の奴隷の如く隙間無く敷き詰められていた。代金ということだろう。特に断る理由もないので、二つ返事でこの仕事を引き受けることにした。むしろ喜んですらいた。彼女のプロフェッショナルとしての矜恃に深く感銘を受けたからだ。彼女の誇り高さは何物にも代え難いものだ。こちらも一切手を抜くことなく、持ちうる全技巧を駆使して最高の物を作り上げると約束した。彼女は何度も礼を言い、リクエストに応えて歌まで歌ってくれた。そして、その天上の響きが記憶から零れぬうちにと、私はすぐに仕事を開始した。
 そして今、眼前のテレビには一人の男がバイオリンを弾く様子が映し出されている。それは天上の調べだった。小指の骨で出来た力木が低音を安定させ、背骨の魂柱は深い音色を響かせ、肉を溶かして作ったニスは赤黒く輝き、咽の筋を使った弦は誇らしげに震えている。
 花房真由美が確かにそこで歌っていた。


志保龍彦
2011年02月20日(日) 20時04分25秒 公開
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1000字小説です。感想など頂けたら幸いです。

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No.8  志保龍彦  評価:0点  ■2011-04-09 17:55  ID:Nb1BJUSELNo
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OKさん、G3さん返信が遅れてしまい申し訳ありませんでした。

≫OKさん
感想ありがとうございます。
御推察の通り、主人公は人間を使って家具や楽器を作る職人という設定です。
ですので、本来は楽器以外の物も作ります。ヴァイオリンを作る人間でありながら、音楽関係の知識に疎いという矛盾が生まれてしまったのには、主人公が音楽(楽器)だけの専門家ではないというイメージが強かったからというのもあります。ただ、矛盾は矛盾ですので、今後このようなことがないように気をつけます。


≫G3さん
感想ありがとうございます。
上手く落とせるかどうかがショートショートの肝だと思いますので、そう言って頂けて嬉しく思います。1000字制限ゆえに描写や説明を削らねばならず、強引になってしまった部分もあるかと思います。より精進して、面白く精錬された小説が書けるよう頑張ります。

また、文学フリマでは私達の同人誌をお買い上げ下さり、ありがとうございます。楽しんで頂けたなら幸いです。今後も余裕があれば文学フリマには参加するつもりですので、その時はどうぞよろしくお願いします。それと、次回は是非声をおかけ下さい。喜びますので(笑)
No.7  G3  評価:40点  ■2011-03-25 00:14  ID:wfVGn00IRSE
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読ませて頂きました。面白かったです。短い中ですっきりキレイに落ちていて気持ちが良かった。ただ、その職人でその職業の人を知らないとか、疎いとかはサラッと流すにはちと強引な気がしました。(1000文字制約で削ったのかもしれませんが)欲を言えば最後の部分にどの様に的な表現があるともっとイメージが膨らんで良かったかなぁと思います。1000文字の制約が無い版も読んでみたいですね。PS昨年末の文学フリマでコッソリと本を買わせて頂きました。(確か志保さんのだった)なかなか面白かったです。
No.6  OK  評価:40点  ■2011-03-13 19:29  ID:adO5.HSCNMY
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短い文章で読みやすく、まとまっていて、引き込まれました。この職人さんは「人」を材料にしたものばかり作ってるのかな……?と怖くなりました。
No.5  志保龍彦  評価:0点  ■2011-03-07 23:23  ID:TU0eNux.FhI
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≫ねじさん
感想ありがとうございます。

ご指摘の二点に関してですが、

>主人公が彼女の名前を知っているのに最初に彼女がやってきた段階で気付かないのは少し違和感がある
私の感覚ですと、人物の顔や名前を忘れていてすぐに思い出せないということは、そんなに珍しいことでもないのですが、人によっては違うのかもしれません。感覚的な問題かと思います。

>実際に病気である人物に対して「病的」と表現を使うのはめりはりがなくなってしまう
これは仰られる通りで、拙い表現を使ってしまいました。工夫が足りませんでした。

より良い小説が書けるよう精進します。


≫桜子さん
感想ありがとうございます。

>気になったのは、ところどころとっつきにくい文章や単語があることです。

御指摘の通り、これは推敲不足によるものです。気をつけるようにはしているのですが、どうも手を抜く癖があるので、注意します。

より良い小説が書けるよう精進します。


≫永本さん
感想ありがとうございます。
ショートショートでは短い中にどれだけ上手く纏められるか、或いは強烈なオチを持ってこれるかが重要だと考えています。今回は上手く纏められたことを評価して頂けたようで、嬉しく思います。これ以上長くても短くてもいけないというのは、ある意味最良のバランスだと言うことですので、これからも、この点に気をつけて、書いていきたいと思います。

より良い小説が書けるよう精進します。


≫ゆうすけさん
感想ありがとうございます。
ショートショートはどうしても、濃い話、深い話が書き辛く、それがパワー減少の原因ではないかと思われます。しかし、工夫次第で何とかなる問題だと思いますので、次回は話の密度や勢いにも気を使って書きます。

より良い小説が書けるよう精進します。
No.4  ゆうすけ  評価:30点  ■2011-03-06 14:29  ID:4Rz8S8oBpdY
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拝読させていただきました。

綺麗にまとまっていると思いました。バイオリンとなって歌う姿を想像できました。
しかし、やや物足りない気もします。以前読ませていただいたSF物の方が志保さんのパワーが伝わってきましたので。
No.3  永本  評価:40点  ■2011-02-27 13:51  ID:HLn.vwP7l/s
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いわゆるショートショートなのにも関わらず人物の描写が上手くこれだけ短いのに一つの読み物として非常に完成度の高い物になっているということに驚きました。正直言ってしまうとあまりにも短いアマチュア小説には読後感等抱いたことはなく、何故もっと長くしないのだろうもったいないと思うことばかりだったのですがこの作品に関してはこの1000字という長さで十分だと思いました。むしろこれ以上になってしまうとこの作品を包む静かな空気感が崩れてしまうのではないかと思うほどでした。
鳴ル女良作でした! 次回作も期待しています!
No.2  桜子  評価:10点  ■2011-02-23 18:12  ID:T2Ali//3h.g
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拝読いたしました。
起承転結がはっきりしていてテンポもよかったです。
最後の「そして今、」からのくだりは少し不気味で引き込まれるオチでした。なんの職人さんなんだろう? という期待感をすとんと解消してくれたので(文章のくどさもなく)読後感もすっきりしています。

気になったのは、ところどころとっつきにくい文章や単語があることです。
たとえば「ほとんど決まった人間以外と会うことはないので」は「決まった人間以外と会うことはほとんどないので」の方が読みやすいように思います。
また“判明した”“奴隷船の奴隷の如く”は絶対に使うなということではないですが、ライトノベルを読んでいるようなもやもや感と直結しがちです。
これらは推敲を重ねていけば対処できるはずなので、今後に活かしてみてください。

では、次回作もがんばってください。
No.1  ねじ  評価:40点  ■2011-02-20 23:18  ID:eFlDFqeitOQ
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読みました。

雰囲気も落ちも文章も全てバランスがよく、1000字という長さを十分に活かした作品だと思いました。

あら捜しのようなものですが、気になる点としては、主人公が彼女の名前を知っているのに最初に彼女がやってきた段階で気付かないのは少し違和感があるので、名前は知っているけれど顔は知らなかったか、あるいはうろ覚えの顔と余りに印象が違うというような文章が入っているとすんなり読めたかな、ということ。それと、実際に病気である人物に対して「病的」と表現を使うのはめりはりがなくなってしまうかな、ということです。

とても面白かったです。次作も期待しています。
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