トライアングルハーツ |
そこは狭間の世界……。 音も無く、光も無く、何も無い世界。 暗くて、寒くて、形あるものが無い世界。 ――そんな世界にボクはいた。 ひとりぽつんと、闇の場所に、たったひとりで、いた。 その場所には外の世界を見れる穴があった。 穴を覗き見ると、明るい世界の一部が映し出される。 通学途中で友人と馬鹿やっている者。 食事の席で家族と談笑している者。 幸福な顔で心地よさそうに寝ているもの。 楽しそうで、眩しくて、精一杯生きている者たち……。 ボクも、ボクもその場所に行きたい。 ボクもその場所で人の優しさに触れてみたい。 だから……ボクは……。 ――手を伸ばした。 届かないとわかっていても、叶わないと知っていても……。 手を伸ばして光に触れてみたかった。 だから……ボクは……。 ボクの世界を両手一杯に広げたんだ。 第一章 「ある春、風が強い日」 季節は春。 僕はそのCDを聴いて、衝撃を受けた。 「オレの名前は吉村勇作。お前の、体の、本当の持ち主だ」 その言葉を聴いた瞬間、脳や心臓が一瞬にして止まりそうになったのを今でも覚えている。 そのCDを僕が聴くことになった場所――それは高校のパソコン教室の片隅でだった。僕こと吉村勇作は高校の選択授業である情報技術という科目を履修していた。情報技術の授業ではパソコンの基本的な使い方や、インターネットの活用法、パソコン用語などを教える内容になっている。最初の授業では皆、講師が板書していくホワイトボードに目を向け、黙々と自分たちのノートに授業内容を書き写していた。だが、次の授業、また次の授業、そのまた次の授業と回を重ねるにつれて、聴くものはいなくなっていた。それは当たり前のことだろう。だって僕たちは世に言う「現代っ子」で、パソコンは使い方なんて殆どの生徒たちが使っているのだから知っている。今さら知っていることをまた知ろうとするのは、よっぽどの物好きか、ただの馬鹿に違いない。そしたら当然、興味の対象は変わる。そう――インターネットだ。 生徒たちは皆、講師の目を盗みながら(講師の先生は学校外部の臨時講師だったので僕たちを注意することは無かったが)各々が興味を持ったサイトを検索し閲覧する。 ある女生徒はお菓子作りが趣味で、スフレやクッキー、季節に合わせた苺のショートケーキの作り方など色とりどりのサイトを見る。 ある男子生徒は部活動で野球部に所属しており、「注目の高校球児」という名のサイトをじっくりと見ている。 皆、それぞれ楽しいひと時を過ごしている。学校という隔絶さてた空間の中で自分の時間を持つことは限られてくる。授業の合間にある十分間の小休憩や昼休みを入れてもまだ少ない。 この情報技術という授業はある意味、貴重な時間だと僕は思っていた。 さて、僕はこの一種の休み時間をどのように過ごしているのか……答えは簡単明白。 ひたすら、寝る。これに尽きる。 この行動はある意味仕方の無いことだと思うんだ。僕は講師の教えているパソコンの知識はある程度の範囲ならば知っているし、それを踏まえて発展的な学習に取り組む気力も、もちろん無い。みんなが夢中になってしているインターネットにも、特別に調べたい情報がある訳でもない。興味が無いことに時間と労力を使うことはどれだけ無駄なことだろうか。 だから、寝る。寝ることがこの授業を受ける僕にとって、有意義なものであると信じているから。寝る子は育つって言うしね。 そんなへんてこりんな事を考えつつ、惰眠を貪っていた、そんなある日。 山田耕平と知り合った。 「ピュ―」 窓硝子が震える。 「……風が強いな」 僕は自分が在籍している二年四組の教室から二階の渡り廊下を通り情報技術が行われるパソコン教室までの道程を歩きながら、独り言を愚痴った。違うな……独り言を言った。花粉症である僕にとって、この季節はあまり好きになれない四季の一つであった。 最近買ったばかりの腕時計で現在の時刻を確認。うん、まだまだ時間は余裕だ。 真っ白な廊下を黙々と進む。下を見ながら歩いていると廊下の白さは一層際立って見えるのがわかり、この学校が新しく出来たばかりなのだと思い知らされる。 ――県立時折高等学校。全校生徒千二十六人。敷地面積二千八百七平方メートル。閑静な住宅街が立ち並ぶ中その学校は存在している。つい先日、創立五周年を迎えたばかりの新米校だ。 元々は打ちっ放しのゴルフ場を建設予定だったらしいけれど、ゴルフ場のオーナーになる筈だった人が他界し、建設は中止になった。そのまま取り壊しになるのかと思いきや、オーナーの家族達が広大な土地をインターネットオークションを使い破格の値段で売りに出た。家族曰く「あんなだだっ広い土地があっても使わない」との事だったらしい。破格の土地に飛びついたのが、当時、高等学校建設を計画していた県の学校教育機関で、売買契約は瞬く間に結ばれた。そして、出来たのかこの県立時折高等学校、僕が在籍している学校である。 その話を僕が聞いたのは去年の今頃だったな。体育館で校長先生が恥ずかしながら力説していたのは面白かった。 ペタンペタンと乾いたスリッパの音だけが辺りに響く。窓のほうをチラリと見ると、クラスメート達が仲良く談笑している姿が目に飛び込んできた。 二年生になって早々、うちのクラスはもう仲良しグループが出来上がっている。あの人たちもきっとそうなのだろう。 「楽しそうだな……」 不意にそんな一言を漏らしてしまう。 「僕も……」 言わない。次に出てくる言葉を僕は言わない。それを言ってしまうと僕の中で何かが壊れてしまうかもしれないから……だから僕は誰にもその言葉を言わない。 ――――友達がほしい――――なんて言わない。 ぺキッ――――。 「えっ」 何の音だろうか。クエスチョンマークを頭に思い浮かべたのは、コンマ二秒ぐらいだ。すぐに答えは出る。僕の右足が黒いCD‐ROM用のプラスチックケースを踏みつけていたのだ。 「何だこれ?」 おもむろにそれを持ち上げてみる。それにはさっき僕が踏んでしまった時だろう、大きな傷が出来ていた。その傷跡は窓の外で爛々と輝く太陽の光に反射されて、まるでナイフのように鋭く光っていた。 ――僕にはその光が希望の光なのか、絶望への入り口なのか、その時はまだ判断できなかった。 「なに、それ?」 突然、後ろから声が聞こえた。僕は反射的に、傷がついた黒いCDケースを制服の懐に忍び込ませる。 「ねえ、さっきの黒い物なに?」 再度、声が僕に問いかける。後ろを振り向いてみると一人の少女が立っていた。顔に見覚えがある女の子だった。僕は平静を装って彼女の問いに答える。 「音楽のCDだよ、米田さん」 なぜか嘘をついた。同じクラスメートで僕の学校内唯一の話相手である女生徒、米田千尋さんに。 「音楽のCD?」 フフッと米田さんは笑う。その笑い方は他人から見たら綺麗な女の子が可憐に微笑んでいるように見えただろう。でも、短いながら彼女と話してきた僕にはわかる。彼女は僕を馬鹿にしているのだ。 「僕、面白いこと言ったっけ?」 少しムッとしながら米田さんに問う。 「嘘が下手ね。吉村君」 米田さんは微笑みを崩さない。もしかして拾うところを見られたかもしれない。しかし、今更言ってしまった言葉を引っ込める訳にもいかず、苦し紛れにまた嘘をつく。 「嘘なんてついてないよ。このCDは僕の家から持ってきたものだよ。情報技術の授業で聞こうと思ってたんだ……」 あった。お目当ての物は制服の内ポケット、さっき黒いCDケース入れたもう一方のポケットにあった。 「こいつでね」 お目当ての物、MDプレイヤーから抜き取ったばかりのイヤホンを米田さんの眼前に披露する。どこかの大学の教授が言うには、人っていう生き物は窮地に立ったら頭の回転が速くなるらしい。僕はそれを身をもって実感した。自分が言った言い訳に少し惚れ惚れしてしまう。さあ、どうだだろう。納得してくれたかな。 「ふ〜〜ん」 米田さんは僕の言い訳を楽しそうに聞いている。どうやら納得してくれなかったみたいだ。焦った挙句……。 「だから、えっと……そう! 早く聴いてみたいから僕急ぐね。このアーティストさんの新曲、なかなか出ないからずっと楽しみにしてたんだよね」 僕は米田さんを振り切ることにした。黒いCDケースを自分の所有物と言い切った事への罪悪感からだろうか、今ここに居るのは居心地が悪かった。それに米田さんとこれ以上話していたら嘘がばれるかもしれない。 しかし、そうは問屋が卸さなかった。僕が「じゃあっ」と手を振って立ち去ろうとしたら、背中から声が降りかかる。 「今あなたが制服に入れているCD、私のなんだけど」 「…………はい?」 なんだって? 僕は体の向きを百八十度回転させる。 「さっきの黒いCDケース、私のなの。昨日の放課後、学校で落としちゃったみたい。遅くまでずっと探していたのよ」 重くて硬い鈍器で殴られる衝撃を受ける。それと同時に、米田さんの所有物を盗んだことによる羞恥の波が僕を襲ってきた。 「返してくれる?」 ニッコリと笑う米田さんに逃れる術なんてもちろんなく……内ポケットから黒いCDケースを取り出す。それを米田さんの細くて白い手に差し出した。 「ありがと」 ニッコリと米田さんは微笑む。 「あの、ええと……」 何か言い訳をしようと慌てふためいた。米田さんのCDケースに大きな傷を付けたこと、咄嗟に盗んだこと、自分の物だと頓珍漢な空言を吐いたこと。なにから説明したらいいものか。 (はあ……) 心の中で溜め息を吐く。 そして、僕は決心する。男らしく自分の所業を詫びよう。僕は非礼の言葉を米田さんに告げるため、重たくなった口を無理矢理こじ開けた。 「ごめ……」 「嘘よ」 「……んね、……え?」 咄嗟の事に思考が追いつかない。「嘘よ」と米田さんは言った。つまり、この黒いCDは米田さんのものではないということ。 「嘘も方便とはこのことね。こんな真っ黒なCDケース、私の物の訳ないでしょ。悪趣味で気持ち悪いわ」 米田さんはそう言うとCDケースの中身を空ける。 「それに、このCDの名前見て……」 そう言うとCDを僕の見えやすい角度へと移してくれる。 ――『妹とのラブラブ生活』白いCDには黒いマジックでそう書かれていた。 「今時、妹って……キモッ」 米田さんはCDを押し付けると何も言わずに歩いていった。 尋ねずにはいられなかった。米田さんの背中に疑問を投げかける。 「なんで嘘なんてついたの」 彼女はクルリッと顔だけ僕のほうに向けてくる。そして少し考える仕草をして僕にこう言った。 「吉村君に嘘のつき方を教えたくなったの。嘘をつくときはね。本当のことも少しだけ混ぜておくのよ。そしたら現実味を帯びてくるの。参考にしてね」 米田さんは今度こそ迷いのない足取りで前へ前へと進んでいく。 後に残るのは僕の呆然とした顔と、手に握られた黒いCDケースだけ。 ――キーンコーンカーンコーン。その姿を嘲笑うかのように授業開始のチャイムが無情にも鳴り響いた。 (ハアハア) 速く走らなければ。 (ヒイヒイ) もっともっと速く。 (ウッッッッ) メロスよ、僕に力を。 僕は走った。ええ、そりゃもう全力で。空気の壁を音速で超え、慣性の法則を無視した肉体は悲鳴を上げる。しかし、人っていう生き物は不思議なもので急ぐときは火事場の糞力が自動的に発動するらしい。現在、僕はその糞力の効力もあってかとても速かった……と思う。 (つ、着いたぁ) さっきまで米田さんと(楽しく?)談笑していた場所から全力で走ってきた僕はパソコン教室の前で安堵の心地に着く。ガヤガヤと中からクラスメートの声が聞こえてきた。教室に入ろうとしてドアノブに手を掛けるが、ある事に気付く。 自分が遅刻した事に。 生まれて此の方遅刻なんてものをした事が無い僕にとってそれは衝撃の事実だった。咄嗟に自分の左腕に付けた腕時計で時刻を確認する。十一時四十八分。授業は四十五分から始まるので三分の遅刻だ。この場合はどう対処すべきか重い悩む。そこで僕は三つの対処法を即興で考えついた。 ――対処法一『遅刻届けを職員室までとりに行き遅れたことを謝罪する』 この方法は自分の非礼な振る舞いを反省できるし相手にとっても対応し易い一般的な方法だろう。 ――対処法二『急いできたことをアピールして、教室に入る』 この方法を取ることで、相手の同情を誘う事が出来て無条件で入れさせてくれるかもしれない。……たぶん。 ――対処法三『サボる』 ……いやいや、ありえない。 さて、対処法三は論外としてどうしたものか。無難に一の方法を取ろうか、それとも二の方法で……。 ええい、悩んでいても仕方が無い。事は一刻を争うんだ。考えている間にも時計の針は進んでいく。さあ、開けてみよう。僕がノブに手を掛けた時だった。 「ああ、ごめんごめん。遅刻しちゃったよ。悪かったね」 現れたのは僕ら二年四組の情報技術を教えている先生だった。先生はドアノブに手を掛けている僕を見て何を勘違いしたのか納得した顔でこう言った。 「遅いから職員室まで呼びにこようとしてくれたのか。心配掛けちゃったね。ありがとう」 「えっ……あー……はい……」 先生はもう一度「悪いね」と言うとさっさと自分だけ教室に入っていった。僕は暫く呆然としたが急いで中に入る。クラスメートの騒然とした間をそさくさと通り片隅の自分の席へ座る。そして、僕は知った。 ――対処法四『先生の勘違い』が発生したことを。 授業は今日も快調に進んでいく。先生はいつものようにホワイトボードに無駄なパソコン知識を書き連ね、生徒達は聴く耳持たずでインターネットのサイトを閲覧する。何も変わらない授業内容、何も変わらない時間。時計の秒針は刻々と過ぎていく。いつもの僕ならまず、キーボードをディスプレイの隣に追いやり、双方の腕を枕にして眠りの世界にはばたくのだが、今日は違う。今日、僕にはこの黒いCDケースがあった。そしてその中には『妹とのラブラブ生活』と明記されたふざけたCD。このCDの名前で大抵の人はエロい内容の物だと思うだろう。でも僕の直感ではこのCD……『何か』ある。 授業開始から時計の針が十回ほど回り、皆の意識が完全に緩みきったとき僕は動き出した。 まず初めに、制服の内ポケットから黒いCDケースとイヤホンを取り出し机に置く。何食わぬ顔でドライブのスイッチを押し投入口を出す。その中に黒いケースから取り出したばかりの『妹とのラブラブ生活』と書かれたCDを入れる。そして、ディスプレイに付いているイヤホンの差込口にイヤホンのコードを挿入した。一連の動作は時間に表すと僅か十秒。自分でも感服するほどの早業だ。 まあそもそも、音楽のCDを家から持ってきて、ここで聴いている生徒もちらほらと居る訳なので、僕の行動も堂々としていいのだけど……念には念をだ。 ディスプレイに『妹とのラブラブ生活』が表示される。どうやら音楽CDのようだ。先ほど、僕が米田さんについた嘘が現実の物になってしまった訳だ。本当に音楽のCDだったらどうしようか。少し不安な気持ちになったが、なけなしの勇気を奮い絞ってそのCDを再生するためカーソルを『妹とのラブラブ生活』と明記されたファイルにもって行き人差し指に力を込めた。 ――カチカチッ。 『妹とのラブラブ生活』が再生された。 『……………………』 再生された? 「…………ん? あれ、おかしいな?」 そのCDは再生されているはずなのに、待てども待てども、一向に音が流れ出すことは無かった。そして何も音を発さないまま再生時間(五分)が終わってしまった。いともあっさり呆気なく。 「………………」 はっ……ははは……何を期待してたんだろう僕は。なにかが少しでも変わると信じていたのだろうか。何も変化は無かった。アニメやゲームや小説のような夢物語がもしかしたら僕の身にも起こるかもしれないと期待した。でも、結局は裏切られた。これが現実なんだ。変わり映えしない日常がいつまでも続き、それを黙って受け入れるしかない。人の世は無常だと偉い人は言ったけれど、まさにその通りだよ。 僕は何の感情も無いままドライブのスイッチを押し、忌々しい『妹とのラブラブ生活』を取り出す。それを、黒いCDケースに入れ込もうとした。しかし……手が止まる。 「あれ? これ……」 違和感を覚える。僕の右手に。いや、正確に言うならば、僕の右手の人差し指を挟んでいる『妹とのラブラブ生活』のCDにだ。そう……なんだかこのCD…… 「重いような……気がする……」 普通のCDーROMに比べて重い気がするのだ。ドライブに入れた時は重さなんて気にしている余裕は無かったので気付かなかった。試しに上下に振ってみる。やはり・・・・・・ほんの少しだけ重い。何か原因があるのかな? 僕は『妹とのラブラブ生活』を改めて観察する。CDにはでかく少し丸っこい字で『妹とのラブラブ生活』と書かれているだけ。視覚的な特徴と言えばこれぐらいしかない。では、触覚的にはどうだろうか? CDの表面を指でなぞってみる。ざらついた感触が親指を刺激する。なにも異常は見当たらないな。何かあるのかと思ったけど気のせいかな。諦め切れない僕は今度は強く擦ってみる。すると……。 ――ペラッ 「おっ!」 なんと表面を覆っていたと思われる紙が剥れたのだ。少しずつ慎重に剥がしていくと、現れたのは眩い光を放ったレーザースポットを当てる読み取り部分。つまりディスクの裏側だ。 「これは、つまり、リバーシブルディスクってこと?」 本来、CD(コンパクトディスク)には片面部分だけにしかデータを保存する事ができない。片面部分だけの記憶域も相当なものだが、もっと大量に一枚のCDにデータを保存することは出来ないものか。と専門家達が悩んで考えた挙句に出来たのが、このリバーシブルディスクだ。リバーシブルディスクは普通のCDに比べて重量が少しあるが、保存できる容量が二倍に増えたこともあり、年々使用者が増えている。このCDがリバーシブルディスクなら……。 再び『妹とのラブラブ生活』をドライブに入れる。もちろんさっきとは逆向きでだ。CDが回転する音が聞こえ、やがて止まる。ディスプレイに映し出されたのは……。 『真実』と書かれた音楽ファイルだった。僕は興奮した気持ちを抑えてファイルを急いでダブルクリックした。そして、ゆっくりと音が流れ出す。 そして僕は驚くことになる。 『真実』と書かれたファイルに録音されていた音声は……。 『オレの名前は吉村勇作。お前の、体の、本当の持ち主だ』 ――自分の声だったんだ。 『突然こんなことを言って驚いたか? 驚くよなあ。もしもオレがお前の立場なら絶対信じねえもん。でもな……お前が吉村勇作本人でないのは間違いない事実なんだ。お前は自分自身を吉村勇作だと認識していると思うが、それは違う。今、お前が聴いている声。つまりはオレだな。オレが本物の、正真正銘、吉村勇作その人なんだ」 普通なら驚くところなのだろう。でも、何故だか僕は……感動していた。 このCDはこの僕を題材に作られたものだったのだ。たとえ誰かの嫌がらせや悪戯心で作られた物だとしてもとても憎めない。いや、それどころかとてもうれしかったのだ。だってこの僕がだよ? クラスで友達と呼べる人なんかいないこの僕が。イジメや嫌がらせも受けず、ただ無視される存在だったこの僕が。この人(この人達かもしれない)は認識してくれたんだ。僕の声そっくりに似せた声で作った手の込んだCDだけど、不快感なんて毛ほどにない。むしろ、誰かに逆の意味合いだったとしても『認められる』とはこれほどまでにうれしい物なんだなとわかった。僕は今まで腐らずに生きていて本気で良かったと思った。はっ! 感動し過ぎて思わず涙が……自制しなくちゃ。目から流れ出てきた涙を拭き取るためにポケットからブルーのハンカチを取り出す。CDの声はなおも続く。 『つってもまだ信じねえよなあ。困ったもんだ。どうしたら信じてくれるかな。いきなり直球ストレートはまずかったかな……。う〜む、じゃあ正攻法は止めて変化球を多用していくか。うん、そうしよう。昔の戦国大名たちも城を攻め落とす時は外堀から落とすと聞いたことがある。じゃあ、まずはそうだな……吉村勇作がどういう人物か、オレ自身が説明しよう。なんだか照れくさいな。ええと、吉村勇作はな……甘いものが苦手だな』 「へえ」 思わず感嘆の呟きを漏らす。このCDを作った人、すごいな。僕が甘いものはあまり好まないって事を知ってるのだもの。そう、甘いものを僕は嗜好としない。子供の時からケーキやチョコレート、ガムやキャンディ、なんと新鮮なフルーツに至るまで、とにかく苦手だ。吐くまでとはいかないけれど、自ら進んで食べることはまずない。 だから、僕はこの製作者の人は正直にすごいと思った。なんで判ったのだろう。学校の自動販売機で毎回無糖のコーヒーを買うことを知っているのだろうか? う〜む、謎だ。 『どうだ? 当たってるだろ? オレは昔から甘いものを食べると、この世の物とは思えない不快感を味わっていたよ。ま、その話は置いといて次に行こう。次は、そうだな……。吉村勇作は……早寝早起きが出来ないな』 ……そのとおりだ。僕は朝早く起きる事も、夜早く寝ることも出来ない。遅寝遅起と言うやつだ。昔から血糖値が常人より低いためか、目覚まし時計を二台使わないと起きれないし、早く寝ようと思ってベッドに潜り込んでも目はパッチリと開いたまま……なんて状況が頻繁に繰り返される。体に悪影響を及ぼす睡眠薬も稀に使うほどだ。 甘党であるかないかは僕を観察していたらある程度の予測は立つと思うが、安眠できるかできないかは判断が難しいと言うより、まず気付かない。 僕はこのCDが少し気味悪く思えてきた。 『快適な睡眠が出来ないのは辛いよな。この体って不便だなと常々思うよ。さてさて、現段階でようやく不審がってきたとこか? それとも、まだ誰かの子供騙しだと思うか? まあ、どっちでもいいんだがな。次言うことがオレにとっての核心的な一言だからよく聞いとけ。あ〜いざ言うとなると緊張するな。でも、言わないと……な……』 ――何かイヤな事が起きる。直感でそう感じたが僕の手は動かなかった。 『吉村勇作は――』 ――――同性愛者である。 時が止まった気がした。今までうっすらと浮かべていた笑みが一瞬で、凍りつく。額に冷たい汗が流れて、さっき取り出したブルーのハンカチに一滴落ちる。一点だけが黒く染まる。 ――は? はは、この人何言ってるの。冗談言わないでよ。 『まあ、世間一般で言うホモってやつだな。この事実はオレしか知らない。母さんや父さん達ももちろん知らない。小学校の友達だった歩君も知らない。ああ、一応お前は知ってる事になるか。じゃあ俺とお前の二人だけしか知らないことだ。二人だけの秘密って訳だ』 僕と同じ声の人はそこまで言うと笑った。楽しそうにせせら笑った。何がそんなに面白いのだろうか。僕にとってその事実は、同性愛者という事実は永遠に隠すつもりだったのに。なぜ、この人は僕が同性愛者だって知っているんだ。だんだんと暗闇が僕を支配する。なぜ、歩君のことを知っている。何かに押さえつけられている感覚。小刻みに体が震える。様々なWhy(何故)が僕を混乱させる。そのとき心の声が聞こえた。 ――なんで知っているのか、それは……。 ――彼が本当の『吉村勇作』当人だから……。 ――彼が『本物』で僕が『偽者』。ただそれだけ。それだけの話。 ボクは、オレは、ダレ、なんだ。 声はいつの間にか聞こえなくなった。僕は全身を支えていた筋肉の力が不意に抜けるのを感じた。 ――あ、倒れる。 瞬間的にそう思った。 ――ガンッ。 「む?」 隣で大きな音がした。驚いて頬杖をついていた首をその音がした方向へ向ける。男が寝ていた。そいつはいつもこの授業中寝て過ごすような奴なので寝ているだけなら気になりはしないのだが、寝方が妙だ。腕を机に置くのではなく垂れ流し顔がキーボードに突っ込んでいる。さっきの音、この有様、導き出される答えは一目瞭然。男は寝ているのではなくて、机にぶっ倒れたのだな。 「……」 いやいや、それしかないだろう。自分に突っ込みを入れて俺は椅子を引いて立ち上がる。先程の大きな音が聞こえたからだろうか、クラスの殆どがこちらを見ていた。中には立ち上がり様子を窺う者もいる。 「今さっきの音、なんなの?」「なんかあいつ気絶してね」「えっ大丈夫かよ」「おいおい……」数多の声が囁き交わされる中、俺はその男の左肩を揺すった。 「おい、大丈夫か」 ――ドサッ。 強く揺すり過ぎたせいかもしれない。予想以上に男の体が華奢だったせいかもしれない。そもそも、男の倒れた位置が悪かったからかもしれない。結果的に言うと男は倒れた。机の更に下。そう、床いっぱいに絨毯の敷いてある地べたへと。 クラスの連中はさらに騒然とした声を上げ、担当教師はおどおどと、どうしたら良いのか分からない面持ちだ。俺は辺りを見渡しこう思う。 ――本当にこいつ等つまらないな、と。 クラスメートの一人が倒れたのに何故誰もこいつを助けようとしないのだ。何故誰もこいつと関わろうとしないのだ。 俺は下で倒れているこいつを無理やり起こし、俺の背中に乗せた。そしてパソコン教室から悠然と出て行く。後からがやがやと五月蝿い声が聞こえてくるが無視しよう。 保健室へと続く渡り廊下を歩いていてある事に気づく。俺がおぶっている男の名前が思い出せないのだ。出席番号は俺より後の筈だから、『ゆ』か『よ』から始まる苗字の筈だ。記憶の泉から情報を手繰り寄せて思案するが、答えは出ない。まあ、どうでもいいか。そう思い、保健室への道を黙々と歩いている俺がいた。 目を開けたら天井が写った。真っ白な色の天井にに夕暮れの光がカーテンの隙間から射しているのが見える。 「ここは……?」 薬剤が立ち並ぶ棚、体重計、視力測定器。うん、間違いない。ここは保健室だ。でも、何で僕はここにいるのだろうか。もしかして誰かがここまで運んでくれたのだろうか。そう思うと口の端が少しだけ上がる。 「なんだか、うれしいな……」 独り言まで出てくる始末だ。自制しなければ。そう固く誓い僕はゆっくりと寝ている上体を起こした。 「おい、まで寝てろ。体に響くぞ」 突然後ろから声が聞こえた。急いで振り向くと、文庫本を手に持った男子生徒が椅子に座っていた。 「状況を説明するとだな。今は放課後で、お前は五時間目の『情報技術』の時間に倒れた。俺がお前をここまで運んで来た。保健室の先生は何処かに出払っているみたいで居ない。保険の先生にお前が倒れたことを伝えるために俺もここで待っている」 「えっ……いつからいたの?」 「最初からいたけど。お前が俺に気づかなかっただけだろ?」 確かに、僕は彼がいる場所を見ていなかった。でも……。 「まったく、気づかなかった……」 思わず本音がポロリと出てしまった。だって彼と僕の距離は全然開いていない。いくら鈍感な僕でも人の気配ぐらいは感じ取れる。腑に落ちない心境が顔に出たのだろう。彼は説明してくれた。 「ああ、俺の特技だから。『気配』を消すこと」 「気配を消す?」 「そっ。まあ一種の超能力みたいなもんだな」 彼はそう言うと、また文庫本の世界に浸ろうとする。 「え、えっと……」 彼の超能力(?)はとりあえず置いといて、僕は恐る恐る質問してみる。 「君は……誰……かな……?」 「む?」 読んでいた本から目を離し僕を見る目。疑問符が彼の頭に浮かんでいるようだった。僕、何か変なことを言ったかな。聞いたことを後悔するが、人間関係に置いて自己紹介と言うのは初対面の人に接するにあたり最も大事なことだろう。もしも初対面の人にいきなり「お前ぇ、ぶっ飛ばすぞ」と言おうものなら、間違いなく怒られる。そして、それがその筋の人なら命も危うい危険性がある。だからこの質問は間違っていない筈だ。 「お前……俺のこと知らないの?」 「恥ずかしながら……」 「かあ〜〜〜〜っ」 何故だろうか。彼は自分の短い頭を思いっきり頭を掻き毟っている。なかなかおもしろい人だ。 「俺は、お前の、クラスメートだ!」 「へ?」 「『へ?』じゃなくてだな……。はあ〜。ま、いいか。俺もお前の名前忘れたし、お互い自己紹介をしよう」 えっ、僕の名前を覚えていないのならお互い様なんじゃ……。僕の声真似が中々上手い彼に僕はツッコミを入れるべきか悩んだ。 彼は読んでいた本に栞を挟み、コホンっと咳払いを一つして自分の事を語りだした。 「俺の名前は山田耕平。血液型AB型。趣味は陶芸。部活動は料理研究部所属。……一応、副部長。好きな食べ物は和菓子。特に栗羊羹が好きだ。嫌いな食べ物はとにかく苦い物だ。コーヒーなんて論外。将来の夢はいつまでもぬるま湯のような生活が続くことを願っている。以上」 一息でそこまで言うと、彼は自分の手を僕に向ける。なるほど、次は僕の番か。彼に倣って僕も自己紹介を言った。 「えっと……僕の名前は吉村勇作です。血液型はA型です。趣味はゲームです。クラブは所属していません。好きな食べ物というか、飲み物は甘くないココアが好きです。嫌いな食べ物というか、苦手な食べ物は甘い物が……」 甘い物が……。何かが引っかかる。大事な事を忘れている気がする。僕は甘い物がどうだと言うのだ。 「おいおい、途中でやめるなよ。お前……じゃなくて、吉村は甘い物が……もしかして苦手なのか?」 甘い物が……苦手。 あまいものが……にがて。 アマイモノガ……ニガテ。 ――『吉村勇作は……甘い物が苦手だな』 フラッシュバック。深淵の記憶から僕は今日の出来事を思い出す。 ――『吉村勇作は……早寝早起きが出来ない』 ああ。何故僕はこんな重要なことを……。 ――『吉村勇作は……』 何故忘れていたのだろう。 ――同性愛者である。 「いやだぁぁぁぁぁぁああああああああ。言うなああああああ。止めろ止めろやめろよぉぉ」 ベッドから転げ回り、両腕を自分の爪で掻き毟る。掻き毟った傷痕からは赤い血が姿を現した。 「違う、違う、違うんだぁぁぁ。僕は汚れてなんかいない。穢れてなんかいない。僕は僕は僕はぁぁぁ」 「おい! 何してんだ!」 山田君が僕の腕を強く掴む。そして高く持ち上げる。これで腕を引っ掻くことは出来なくなった。焦点の定まらなくなった目は涙を流しながら質問するんだ。 僕は……僕は……。 「……僕は誰ですか?」 と。 突然だった。突然、吉村勇作と言う男は奇声を上げた。そしてベッドから飛び出し自分の腕を自分の爪で引っ掻き始めた。 意味不明。理解不能。未知数の領域。俺は頭の中で唸った。 確かに、確かに俺の人生経験(短い十七歳)で似たような奴は居た。普通の感覚からしたらどうでもいいことを考えるような奴だった。 ――雲は生きているのか、とか。 ――時間が止まったらいいのに、や。 ――一生を寝て過ごしたい、などなど。 弱い言葉や戯れ言をいつも言うような奴だったが、不思議と嫌いにはならなかった。周りの連中は一つでも多くの英単語や数式を覚えている最中なのにそいつだけはマイペースにポエムなんか作ってやがった。へらへらと笑いながら。 ――人間は弱い。 俺がこの短い人生の中で唯一発見した事。 小さな、ほんとに小さな、小石にも躓く奴は必ず出てくる。 そいつも躓いたんだろう。躓いて転んで歩くのが怖くなったんだ。歩けないと言い訳したんだ。 俺にも似たような経験があったから、そいつのことを他の連中みたいに馬鹿にすることはなかった。 だから俺は人が弱いことを知っている。いや、知っていたつもりだった……。 ……でも。 ――いくらなんでもこいつは弱すぎる。 俺は吉村の腕を高く上げた。この馬鹿が自分の腕を引っ掻く事を防ぐためだ。 「いい加減にしろ! 自分自身の腕を痛めつけてお前は何がしたいんだよ!」 接吻しそうな距離まで近づいて俺は怒鳴る。唾が飛ぶ? 知ったことか。 俺が怒鳴り散らしたからだろうか、吉村は暴れなくなった。しかし、ブツブツと「僕は僕は……」と言い出し始める。 途端に背筋が寒くなった。逃げ出したい。逃避願望が頭をよぎったが、こいつを今野放しにしておくことは危険だ。何を仕出かすかわかったものじゃない。 だから俺は堪える。堪えて吉村が冷静になるまで待つ。待ってやる。 ポロポロと涙まで流しだした吉村は「僕は僕は……」に続けて一言。こう言った。 「僕は誰ですか?」 勘弁してくれ。いや真面目に。 「僕は誰ですか?」 僕は同じ質問を山田君に尋ねる。尋ねずにはいられなかった。 「お前は……お前だろ……」 山田君はまるで自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。 「一体どうしたんだよ?」 山田君は心配そうに僕の様子を窺う。まるで道端で餌をねだっている子猫のように、そろそろと足音を忍ばせながら。僕はひどく、もどかしかった。 「違うんだ……違うんだよ……」 「はい? 何が違うんだよ?」 「僕は……吉村勇作なんかじゃないんだよ……」 「は?」 彼はさらに困惑した目を僕に向ける。僕は今日起こった不可解な出来事を大雑把に山田君に話していった。ぽつりぽつりと。 黒いCDケース。米田さんとの不可解な会話。『本当の吉村勇作』と名乗る謎の人物からの『真実』と言う名のメッセージ。 山田君は「妹とのラブラブ生活? 何だそりゃ?」「米田と話したのか? よく話せたな」「真実ねぇ」等の相槌を打ちながら最後まで僕の話を聞いてくれた。僕の小さくて覇気がない声を一言一句しっかりと受け止めてくれた。 「大筋の話は大体読めた。でもさ……」 聞きたいことは大体わかるよ、山田君。 「何でお前はその話を簡単に信じたんだ?」 僕は重大な事を君に話していない。それは……。 「もしも俺がお前の立場だとしたらそんな話は信じない。絶対に、だ。現実にありえる事じゃないからな。でも……」 「でも?」 「自分しかしらない情報を相手が知っていたのなら話は別だ」 「…………」 それは……馬鹿馬鹿しい話を信じたきっかけ……。 「お前の知られたくない秘密を先方は知っていた。そして気が動転したお前はパソコン教室で倒れる。保健室で目を覚まし、俺との自己紹介をしている時……『甘い物』と言うキーワードで、ふざけたCDの記憶を思い出した。当たってるか?」 この人、すごいな。推理小説の主人公みたいだ。山田君は椅子に腰を落とし僕を見上げた。 「お前は『甘いもの』で記憶を思い出した。そしておそらく、お前がパソコン教室でそのCD聞いている時、順々に質問されたんだろ? 好きな物はこれで、嫌いなものはあれ、性格はこんなのだろう。ってな感じで」 ほぼ合っている。 「でも、これだけじゃ足りない。これだけじゃ人を失神させるまでには至らない。自分自身しか知らない事。誰にも話した例が無い事をお前はその愉快犯に言われたんだ。そう、例えば……」 当てられるかもしれない、僕の秘密を。誰にも話した事が無いことを。彼は真剣な形相でこう言った。 「何処かの窓硝子を割ってしまった、とか」 「ぷっ」 「お、おい……笑うとこじゃないだろ……」 「ご、ごめん。でも、窓硝子割ったって……フフッ」 「そんなに例え方下手だったかな……」 山田君は少し照れくさそうにして、視線を明後日の方向に向けた。ポリポリと指で頬を掻いている。演技でやっているのではなく、これがこの人の素なんだろう。純粋にいい人なのだと思えてくる。僕の頓珍漢な話を聞いてくれて本当にいい人だ。 「で、何を言われたんだ?」 山田君は改めて僕に向き直った。真剣な表情で僕を見つめてくる。 「お前しか知らないようなことを言われたんだろう?」 「……山田君」 「もうこの際、乗り掛かった船だ。話してみろよ」 「僕は……まだ……」 「まだ?」 そう……まだ……なのだ。 「君を信用することはできないよ」 人を簡単に信用なんかできない。 目の前に大型ショッピングセンターが見える。俺の家はこのショッピングセンターから東に一キロ先のところにある。俺の親父の職業が建築家なので、俺の家も親父が設計した流行のデザイナーハウス仕様になっていて、外装部の黒を基調とした色合いはモダンな雰囲気でわりと気に入っている。まあ、家の中に鎖でぶら下げてあるハーレーなんかはちょっと、いや大分理解しがたいところはあるが……。 (はあ) 心の中での溜め息十二回目。ぐらいはしたと思う。 正直、面倒なことになった。 とろとろと両足を動かし、帰路についている最中に俺は自分の不運を嘆いていた。 面倒なことになった。 今日は真っ直ぐ家に帰ろうと思っていた。帰って好きな漫画を読むのも良し。音楽を聴きながら癒されるのも良し。テレビのバラエティ番組を眺めるのも……また良し。 でも、予定が狂った。いや狂わされたか。あの野郎、吉村勇作のせいで。 あの時、俺が吉村を担いで保健室に着いたとき、初めは長居するつもりは無かった。保健の先生に吉村を任せて教室に帰ろうと思っていたんだ。でも保健室に入ってみるとそこはもぬけの殻。当然いると思っていた先生当人がいなかった。俺はしばしの間迷った。吉村一人を残して去るべきか、最後まで付き添ってあげるべきなのかを。今思い返してみるとそこで判断を間違ったのだろう。結論を言うと俺は後者を選択したのだ。本来の俺ならまず間違いなく前者を選んで吉村のことなんか放って置いただろうに。クラスにあまり溶け込まず広く浅くの友達付き合いをモットーに生きている俺にとって自分の行動は不可解なものだった。 なぜあの時深く考えずに付き添いなんかしたんだ。他人に関わるとろくな事が無いと判っていたのに。あの時の俺はクラスの連中がムカついていて頭が上手く回らなかったに違いない。制服のポケットに読みかけの文庫本があったのも原因の一つだろう。 「はあ」 今度は心の中ではなく、本当に溜め息が出てしまった。これで通算十三回目だったか? まあどうでもいいや。 ショッピングセンターの巨大な看板は、昼間は爛々と輝く太陽の光によって真新しく見えるのだが、この時間帯になるとどこか物寂しげな表情を見せていた。俺はもう一度、さっき呟いた呪文のような言葉を口に出した。 「僕はまだ、君を信用することはできないよ……」 ――だから……。 「信用するために……僕の友達になってほしい……か」 歩を進めて行く内に、どこからか懐かしいメロディーが聞こえてきた。ラーメン屋の屋台で流れている、あの音楽だ。 俺はその音楽を聞きながら自問してみることにした。 「なあ俺? なんでお前は無責任にあいつの友達になることを了承したんだ?」 答えてくれるものは当然いない。でも心ではその答えは分かっていた。 俺の背中がまた一段と重くなったのはたぶん気のせいではないだろう。 外は夕暮れで日も幾ばくかしたら沈もうとしていた時間帯。もうとっくに下校時間だろう。でも、僕は山田君とは一緒に帰らずまだ学校に居た。そして早歩きである目的地に向かって歩いていた。なぜなら、パソコン教室で聴いたあのCDを取り出すためだ。そのために職員室で適当な理由をつけて特別にパソコン教室の鍵を借りて来た。たまたま職員室に居た『情報技術』の臨時の先生はしぶしぶ了承してくれた。 誰も居ない廊下を黙々と歩く。気持ちばかりが焦ってくる。 ――一刻も早くあのCDを取り出さなければ。 一種の義務感に僕は襲われていた。 扉は鍵を差し込むとすんなりと開いた。室内はカーテンにより薄暗くなっている。その不気味な薄暗さからか、今まで我慢していた恐怖が一気に体から現れた。電気を点けずに一目散に自分の席へと足を走らせる。そしてパソコンの起動スイッチを押した。その後ドライブの取り出し口のボタンを連打した。 「遅いよ。早くしてよ」 普段ならしない舌打ちをする。取り出し口が機械的に開いた。そして、そこには……。 「そんな……。ない……」 投入口には何も入ってはいなかった。僕はすぐさま教卓の上にいつも置いてある忘れ物ボックスへと足を急がせる。 しかし、ボックスのなかにも何もなかった……。 僕は絶望に打ちひしがれた。あのCDには僕の他人に言えない秘密があるのに。犯人が回収したのだろうか。それともクラスの誰かが……。 (そうだ!) 咄嗟に思いついた僕は来た道を逆走して職員室へと向かった。臨時の先生はまだ居た。 「あの、先生!」 「ああ、君か。早かったね。忘れ物はあったかな?」 僕は先生の質問を無視して単刀直入に聞いた。 「パソコンのドライブにCDを入れていたんですけど見ませんでしたか? あ、あと黒いCDケースも机の上に置いていたんですけど……」 「ああ。その二つならいつも置いているボックスまとめて置いたよ」 「えっ……そんな……」 「確かに入れたよ」 ボックスには何も入っていなかった。 「どうかした?」 あのCDには僕の秘密が入っているんです。とは言えずに「いえ……」と言葉を残してその場を去った。 帰るときはとっくに日が落ち真っ暗になっていた。 僕が倒れた日から一週間が過ぎた。 あの日、保健室で自虐行為を行った時の傷跡はまだ腕に残っており、風呂で体を洗う度にあの日起こった事は真実なのだと思い知らされた。 僕は自分の机に怪獣のような落書きを書きながら虚ろな瞳でぼんやりと考え事をしていた。 ――真実。あのファイルには確かにそう明記されていた。なぜ僕を名乗る謎の人物は僕の誰にも話した事がない秘密を知っていたのだろうか。それをひたすら考えていたのだ。本来ならありえない。他人に話した事が一度もないのだから。でも、同性愛者と言う僕の秘密を謎の人物は知っていた。いつも同性を見るときは目線を合わせないようにしてきたし、話さなければならない事は必要最低限に留めて来たつもりだったのに。何故バレたのか分からないことだらけだった。だからだろうか。最終的にはこの結論に至るのである。 ――本当に謎の人物が吉村勇作なのではないのか。と言う結論に。 そう、謎の人物の正体は僕自身なのではないのだろうか。もし仮に僕が二重人格障害を抱えているとしたら僕ではなくもう一方の人格が今回の犯人なのではないのだろうか。それならば全ての不明瞭な疑問に片が付くような気がする。 でも、そんなこと有り得るのだろうか。そんなことが……。 「――はいそれでは、吉村君。読んでください」 「へ?」 クラスのみんなが僕を見た。なんでだろう。 「吉村君、どうかしましたか?」 「あ、いえ……」 そうだった。今は現代文の授業中である事をすっかり忘れていた。授業なんて上の空で聞いていたからどこを読めばいいのかなんかわかる訳がない。 仕方なく先生にどこを読めばいいのか聞こうとしたが……。 「三十二ページ」 隣からボソリと呟く声が聞こえた。振り向くと山田君の退屈そうな顔が見える。 僕は元気に教科書に書かれている内容を読んだ。以前の僕では考えられないほどの声量が自然に出る。あまりの声のでかさに目を丸くする先生やクラスメート達。山田君も呆れた表情を僕に向ける。いいんだ、それでも。 あの日、確かに奇怪な事件は起こり僕は傷ついた。けれど。 ――僕には友達が出来た。 第零章 「夢」 「オレさ、大きくなったら写真家になるんだ」 少年は曇り一点もない瞳で堂々と言った。 少女は突然の告白に上手い相槌が思いつかない様子だった。 少年はまた言った。 「この世界を見て回りたいんだ。色々な場所に行って、色々な人と合って、色々な人の写真を撮ってみたいんだ」 少女はまたも上手い言葉が出てこなかった。 当然だった。 少女に「夢」と呼べる物は何一つ無かったからだ。 夢を持ったことが無い人間に共感なんて出来るはずがないのだから。 困った。 何をどう返せばいいのかわからなくなってしまった。 ――すごいね。賞賛の声を返せばいいのか。 ――絶対なれるよ。激励して背中を押せばいいのか。 ――私には無理だな。落胆して自分と相手の意識の違いを見せればいいのか。 どれなんだろうか。 答えは出ない。 一生出ないのかもしれない。 少年はまた言った。 「今度は――ちゃんの番だよ」 そうだった。 すっかり忘れていた。 今日、この場所、夕日が綺麗に見える灯台の下で会ったのは他でもない。 互いの夢を交換するためだった。 前々からの約束だった。 「――ちゃんは何になりたいの?」 先程よりもっと困ってしまった。 なりたいものなんかない、と正直に言えなかった。 何故言えないのだろう。 それはたぶん自分にも「夢」が欲しくなったからだ。 少年と同等の並び立つような「夢」が……。 無性に欲しくなったからだ。 ――内緒。 「そっか」 今は言えない。 でも、いつか言おう。 「夢」と呼べる物が出来たら。 いつか、必ず。 そう決心しながら私は夕日を眺め見た。 隣に居る少年の手を握り締めながら。 第二章 「三人目」 「いいか、吉村。タイミングが重要だ」 山田君は神妙な顔で呟く。 「俺が合図を送るから、絶対に見逃すなよ」 「う、うん」 人に頼み事をされた事のない僕にとってそれは喜ばしいことだった。 隣の席の山田君は教室に掲げれれている時計を食い入るように睨んでいる。 整った目鼻立ちをしている彼を眺めていると少しだけ……。 ――胸がざわめいた。 「吉村、十五秒前だ」 「う、うん」 「十二、十一、、十、九、八、おい椅子引いていつでも行ける準備しとけ。五、四、三、二、一、よし、行ってこい!」 彼の「行ってこい」を聞いて僕は脱兎の如く速さで教室を飛び出した。 ――キーンコーンカーンコーン。 それと同時に昼休みを告げるチャイムの音が校舎全体に響き渡る。僕が廊下を走っていると少し遅れてぞろぞろと生徒達が教室から出てきた。彼らは全力疾走している僕を見て驚いた顔や奇異の目線を投げかけてきたが、今は恥ずかしがっている場合じゃない。前方には僕と同じようにある方向へ向かって走っている生徒達がいるのだから。 ――負けてたまるか。 気持ちをさらに奮い立たせ、足に力を込める。短距離走は速いほうじゃないけれど、昼休み直後に教室を出ることが幸いしたのだろう、僕のように走っている生徒は今の所少ししかいない。 ――さあ、いざ行かん。購買部へ。 僕の(正確には山田君の)お目当ての品は『時折高校限定シュークリーム』と言う物だ。このシュークリームはその名の通り時折高校でしか販売していない限定シュークリームで、個数もなんと三十個しか販売していない。 でも、さすが限定三十個しか販売されていないだけあって、味は絶品らしい。外装部を覆っているシュー生地はさくっとした食感で中のクリームを優しく包んでいる。でもこのシュークリームで一番手の込んでいる部分は、中身のクリームだ。最高級の愛媛産の卵を使っていて、卵白は入れず黄身だけをふんだんに使用しているから濃厚で口当たりの良いクリームが仕上がっている。さらにその中にはメキシコ原産のバニラビーンズが入っていて風味のアクセントにもなっている。 なんでも作っている人は元々超高級洋菓子店に勤めていた有名パチィシエ職人だった人らしく、現在は引退して趣味としてお菓子作りをしているらしい。このシュークリームもその一環という訳だ。 そんな超絶品な限定シュークリームは時折高校の看板メニューな訳で……当然生徒達にとんでもない人気がある訳で……。 全力で走っています。そりゃあもう、メロスのように。 吉村が出て行ったのを見送って、俺は安堵の溜め息をついた。 「行ったか……」 あの野郎に限定シュークリームを買いに行かした目的は二つある。一つはもちろん食べたいからだ。あのシュークリームはここらの洋菓子店の中じゃ群を抜いている。それほどにおいしい物だし、限定品と言う言葉もあずかってか人気もかなり高い。 俺もそうだが日本人は限定と言う言葉に弱いのだ。 そしてもう一つの目的は……。 おもむろに立ち上がる。そして教室の窓際の方を向いて歩き出す。一番前の席にはうるさく話している女子生徒達の姿。真ん中の席には呑気に青い空なんかを眺めている趣き深い女子生徒。一番後ろの席では貧乏揺すりをしながら携帯ゲームをしていて、さらにランチを突っ突いている案外器用な男子生徒。 目的の人物の方まで近づいて声をかける。 「あのさ……」 赴き深い女子生徒はじーと何処かを見つめている。そいつの視線はあの青い空を見つめているのか、それともこの町全体を眺めているのかわからなかった。 「おい!」 少し大きな声を掛けてもそいつはこちらを見ようとしない。 言葉でこちらを振り向かないのなら……。 右手を出した。そいつの目の前に。 視界を遮られたからだろう。そいつはようやく俺を見た。目は少し不機嫌そうだ。そいつは少し鬱陶しそうな目をして俺に尋ねた。 「何か用?」 いらいらとした声が俺に向けられるが、気にせず行こう。 「少し付き合ってくれないか?」 「嫌よ」 即答。 「少しでいいんだ。時間は取らせないからさ。なっ?」 「私の言った言葉が聞こえなかったらしいわね。私は『嫌よ』って言った筈よ」 「いや、本当にすぐだからさ。――ここじゃまずいんだよ」 俺はそいつの耳元で囁いた。 「しつこい男は嫌われるよ」 「しつこくてもいいから……」 (ちっ) 心の中で舌打ちをする。穏便に進めたかったが仕方が無い。 少しだけ声の語調を上げるみる。 「ツラ貸せって言ってんだろ……」 周囲の連中は驚いた表情をしてこちらを振り向いてきた。 しかし……。 「きゃー、お、か、さ、れ、るー」 肝心の女はまったく動じないのである。それどころか呑気に欠伸まで出している始末。 大した女だ。 俺は潔く諦めることにした。周囲の目がこちらに集まって来ているからだ。目立ち過ぎるのはあまり得策ではないだろう。 「――邪魔したな」 俺は皮肉を込めながらそう言うと自分の席に帰るため方向転換をする。当初の予定していた計画は破綻し、少し意気消沈気味な俺だけど問題はないさ。だって俺には……。 「限定シュークリームがあるからな」 誰かに言った言葉ではない、いわゆる独り言を呟いた。その時……。 ――ギュッ。 「む?」 誰かに制服の裾を捕まれる。それも結構な力で。頭だけ振り向いてみると……そこにはさっきの女の姿が。 「そのシュークリームって、この学校の限定三十個のヤツ?」 何でだろう。嫌な予感がする。 「そうだけど……」 「付き合ってあげる」 「は?」 女は続けてにっこりと笑ってこう言った。 「そのかわり限定シュークリームと交換条件ね」 「は? いやそれは俺が……」 女は俺の返答を聞かないまま先陣を切って教室を出て行きドアの側でまた俺を見た。その目は早くしてよと言いたげだ。俺はシュークリームか女の持っている情報かを天秤にかけてみた。答えは割と早く出る。俺は女の元へと歩み寄った。女は満足そうにこちらを見て廊下を歩いていく。女は嫌いだ。自分の都合の言い様に物事を運ぶから。俺は眉間に縦皺を寄せながら女の後に続く。悠然と階段の側で待っていた女は片手を上に挙げるジェスチャーをとった。 『屋上で話を聞く』 と言う事なのだろう。女は学校の古臭く掃除をまったくしていないだろう階段を上へ、上へ、のぼって行った。 肉を切らせて骨を断つ。吉村に買いに行かせた目的の一つである限定シュークリームは失ったが……。 もう一つの目的……米田千尋を呼び出すのには成功したのだった。 混雑した購買部の人だかりを抜けて僕は安堵の心地に付いた。何故なら、両手には死闘を勝ち抜いた上で得られた戦利品があったからだ。手には限定シュークリームがあった。 額に付いた勝利の汗を拭いながら生徒達が行き交う購買部への道程を、今度は逆方向に進んで行く。 購買部へ立ち向かう生徒達と悠々と帰還する僕。なんだか比較してみると、笑ってしまった。 「山田君のおかげだな」 僕に心の余裕ができたのも堂々と前を見据えて歩くことができるのも全部彼のおかげだった。心に溜まっていた靄はとれて、肩に重くのしかかってくる嫌な感じも無くなっていた。後に残ったのは心の芯を包んでくれるようなあったかいものだった。 ――幸せ。そんな気持ちを感じることが出来た。 でも、幸福感を味わっていた僕だけど同時に罪の意識も抱えていた。なぜなら……。 「彼を試さなくちゃいけない……」 そう思うと、急に心臓を鷲掴みにされた気分になる。当たり前だ。折角、高校に入って初めて『友達』と呼べる人が出来たのに、試すなんて言語道断だろう。何様のつもりだ自分は。激しく自分を叱責するのだけど、頑なに動かない不動の精神が僕には潜んでいた。 僕には秘密があるのだ。ちんけで恥ずかしくて、でも他人に打ち明けることなど到底出来ない秘密……。 「だから……」 だから試さなくちゃいけない。『友達』として付き合うのなら山田君に僕の秘密を分かってもらうしかない。 彼はわかってくれるだろうか? 受け入れてくれるだろうか? 臆病な僕は教室に帰るための階段を、音を立てずにのぼっていった。 鍵穴が錆付いた鉄製のドアをゆっくりと押す。視界の先には落下事故を防ぐための緑色のフェンスが備え付けられていた。大気中の空気は澄んでいてここを屋外だとわからせてくれる。 学校で一番空に近い場所、屋上にいた。 俺より早く着いていた米田はフェンスに体を預けながら変わり映えしない空を眺めていた。どうでもいい事だがこの女はいつも視線を空に向けているな。俺も真似して空に睨みを利かせてみる。米田の考えている事が少しでも理解できたらいいなと思いを込めて。 「何してるの? 話があるならさっさと切り出したら?」 ――お前に合わせたんだよ。 とは言えず視線を眼前に立っている米田に向ける。 「あ〜今日は天気がよろしくて……」 「前置きはいいから。単刀直入に言ってくれる?」 自己中心的な女だ。俺は咳払いを一つしてこう切り出した。 「じゃあ、単刀直入に言うぞ。米田千尋、お前はクラスメートである吉村勇作に対して吉村の存在を否定した犯人を知っているか?」 「吉村勇作? 存在を否定?」 米田は何が何だかさっぱりわからない様子。俺は注意深く米田を観察しながら続けてこう言った。 「では『妹とのラブラブ生活』というきな臭いCDに心当たりは?」 「……」 米田は視線を俺の目に向けていて堂々とした面持ちで話を聞いているが、それが逆に俺には怪しく見えた。俺はもう一度同じ質問を繰り返した。 「――心当たりは?」 米田は渋々、俺の質問に答えた。 「まあ……あるけど」 「どこでそのCDの名前を聞いたんだ?」 女はぽつりぽつりと思い出すように話し出した。 「だいたい一週間ぐらい前の日だと思うわ。その日、私は選択授業に手芸を履修していたから教室から新校舎へ続く渡り廊下を通って手芸室へ移動してたのよ。その途中に吉村君が窓の外を見ながら私の前を歩いていた。しばらくして彼は何かを踏んだみたいだった。彼、それを拾い上げてまじまじと見つめていたから私も興味を持って声を掛けたの。「それ、なに?」って。で……彼が持っていた物がそのCDってわけ」 わかった? とでも言いたげの表情を米田は浮かべる。 「で……あのCDがどうしたの?」 俺は内容を言うか迷ったが、結局言うことにした。 「あのCDの中身は、吉村本人ではない第三者が「自分こそが吉村だ」と言い張る内容のものだったらしい」 「?」 まったく同じ反応。俺が吉村からこの衝撃の告白を聞いた瞬間と同じ反応を眼前に立っている女はした。俺は十日ほど前に吉村が倒れた訳を米田に順々に話していった。「真実」と言う名のリバーシブルCD。保健室での出来事。CDに保存されていたのは吉村しか知らない筈の秘密。全部を赤裸々に話した。ある一つのことを除いてだが。 「ふ〜〜ん。そんなことが……」 米田は自分の下唇を人差し指でなぞっていた。考えるときの癖なのだろうか。ちなみに俺の場合は耳たぶを引っ張ったり曲げたりするのが癖だ。 「一つ質問があるのだけど聞いてもいいかしら?」 頭の整理が一段落したのだろう。米田は納得しない面持ちでこう聞いてきた。 「なぜ吉村君はそんな馬鹿げた事を信じたの? 自分が自分自身じゃないと考えるなんて異常だと思うのだけど」 当然の疑問だろう。俺もこの話を聞いて一番先に思い至った事だ。なぜこの話を信じるのだろう。誰かの嫌がらせだと考えなかったのだろうか、この話聞いたのなら誰しもが疑問に思うことだ。 「米田。仮に今回の件が吉村でなくお前に降り懸かった事ならどうする?」 「質問を質問で返さないで。先に質問したのは私よ」 「いいから答えてくれ」 若干、苛立つ素振り見せつつ米田は答えてくれた。 「信じる訳ないでしょ。当たり前よ」 「じゃあ……」 じゃあ――。 「お前しか知らない秘密。パンドラの箱の中身を向こうも知っていたらどうする?」 ――ビュュウウゥゥ。 その時だった。 一陣の風が俺たちの間を通り過ぎた。そのあまりの唐突さに思わず俺は目を瞑ってしまった。屋上で米田と話し初めてから初めて目を逸らした瞬間だった。涙目になった目をごしごしと擦りつつ再び目の前に立っている米田を観察する。 米田はさっき俺が目に焼き付けていた記憶と同じ苛立った表情をしていた。たった数秒の間だが米田が浮かべた表情を俺は見逃してしまった。俺が見逃した女の表情はどんなものだったのだろうか。さっきまで浮かべていた苛立ちか、突然の突風への驚きだろうか、それとも……何かを企んでいる笑みだろうか。 そんな俺の心中にはお構いなしに先程の俺の質問に米田は答える。 「驚くわね。自分しか知らない秘密なら尚更ね」 俺は相槌を打とうしたが、米田の次の言葉の方が幾分か早かった。 「山田君の言おうとしている事と考えている事がわかったわ。前者は、吉村君がもう一人の自分の存在を信じたきっかけが、彼自身しか知らない秘密をCDの製作者が握っていたこと。だから吉村君はその話を信じてしまった。そして後者、あなたが考えている事は……」 フフッと女は笑った。 「私がCDの犯人じゃないかと疑っているのね」 「む?」 なるほど。馬鹿な女じゃ無さそうだ。俺の言おうとした事と米田を呼び出した理由を当てたのだから。バレてしまったのなら仕方がない。俺は首を縦に振る。 「で、実際どうなんだ? お前はCDを製作した犯人か?」 「フフフ。探偵さんの推理を聞かせてほしいわ」 「探偵? 俺はシャーロック・ホームズじゃないぞ。普通の一般人だ」 「では、その普通の一般人さんが私を犯人に仕立て上げるのはなぜ?」 そんなものは決まっている。 「あの日、吉村と唯一コンタクトをとったのがお前だけだったからだ」 米田はキョトンとした表情を浮かべた。 「それがなに?」 「昔、犯罪心理学の本を読んだことがあってな。その本によると犯人が犯行に及ぶとき、極度の興奮状態に陥るらしい。普段の自分になろうと意識するが、意識する事で精神の不定調和が起きる。そして普段しないような事をする。お前も同じケースだと思った」 「……」 「お前は俺が見ている限り極力他人に干渉しないような奴だ。クラスの奴らと話している所を俺は見た例が無い。そんなお前が吉村に自ら進んで話しかけるなんておかしいだろう? なにか原因があって話したに違いないと俺は睨んだ。そして案の定、お前は吉村に対して嘘をついた。『そのCDは自分の所有物だから返してほしい』と言ったそうじゃないか。その後に『嘘をつくときは本当の事も混ぜておくといい』と言う意味深なアドバイス。なあ米田、本当の事って何なんだ?」 米田はじっと下を向いたまま答えない。いや……答えられない、か。 俺はチラリと腕時計を眺める。まだ昼休みには十分な時間が残されていた。 本当の事。それは米田がCDの製作者、つまり犯人だと言うこと。俺はそう思ったのだ。 「つまらないわね」 ボソリと米田の口から驚くほどの低音が聞こえる。つまらないとはどういうことだ? 「私を犯人に誑し込む証拠や動機があるかと思えば何もない。あろうことか犯罪心理学なんてものを持ち出してくる始末。山田君、あなた何か勘違いしていると思うの」 勘違いだと? 「あの日、私が吉村君に話しかけたのは最初じゃないわ。以前から彼とは何度か話したことがあったのよ。『友達』と言うほどの間柄ではないけれど、目が合ったら話すことだってあるわ。軽はずみな冗談だって言うわよ。なんなら吉村君に確認してもいいけど」 言葉が出なかった。米田は吉村と以前から交友関係であった。この事が事実であるなら米田がとった怪しいと思われる言動は何ら不自然ではない。交友関係であるなら冗談の一つや二つ言う事も極当たり前にあるだろうからだ。 だが……。 「じゃ、じゃあ、本当の事って何なんだ?」 「本当の事?……ああ、私が吉村君に教えてあげた嘘をつくときのアドバイスの事ね。あの日の前日に私……」 ゴソゴソ、とスカート付いているポケットの中を弄る米田。そして……。 「これを失くしていたの」 女の手にはボロボロになったパンダのストラップが握られていた。 「携帯電話に付けていたのだけど、紐が切れて落ちたのよ。意外と大変だったわ。学校中探しても見つからないのよ。まさか職員室にある落し物ボックスに入っていたなんて夢にも思わなかったわ。案外優しい人もいるものね」 話し終えた女はどこか清々しい面持ちをしていた。反対に俺は底知れぬ脱力感を味わっていた。 「山田君、私、犯人だと思う人がいるのよ」 「む?」 唐突に女は告げる。犯人がわかっただって? 冗談だろ? 「あの日、吉村君に話しかけた人が私以外にもいるのよ。その人の方が山田君の言った犯罪心理学に沿っているわ」 「だ、誰なんだ?」 「それはね……」 米田は右拳を俺に向け、ゆっくりと人差し指を伸ばす。その先には……。 「あなたよ、山田君」 「む?」 俺、だって? 「そう。あの日あなたは変な行動をとったらしいわね。他人なんて相手にもしない冷血男と一部で呼ばれるあなたが、わざわざ吉村君を担いで保健室まで行ったそうじゃない」 「あれは、ただ……」 「おまけに、いつの間にか吉村君と友達関係なっているし。クラスの皆も顔を揃えて驚愕していたわ」 「あいつとは成り行きでそうなっただけだ。それに俺はCDを製作した犯人じゃない。何を根拠にそんなことを言って……あ」 ……根拠が無い。 「気づいたようね。あなたが犯人だとしたら根拠となるもの。つまり犯行の証拠や明確な動機を私は貴方に対して挙げなければいけないの。貴方にとって怪しい思われる人物がいるからといって安易に疑うのはやめてよね」 「……」 言葉が出ない。冷静になって考えたら理解できることなのに、俺は何を焦っていたのだろうか。何をしたかったのだろう。早く犯人を見付けなくてはいけない等と何故考えたのだろう。わからない。自分の事なのに把握できなかった。 「悪かった……俺は馬鹿だ」 口から自然に謝罪の言葉が漏れた。 「反省しているのならいいわ。――それはそうとあなたに相談があるの」 愚かしい自分を恥じている最中だった俺は首を垂れたまま耳を傾けた。 「その事件おもしろそうね」 「む?」 「丁度、学校生活に退屈してた所なのよね。私も一枚噛みたくなったわ。だから……」 ――私もあなた達の仲間に入れて。 垂れていた首を勢いよく米田の方に向ける。女の双方の綺麗な瞳は何か悪巧みを企んでいるように見えて俺は咄嗟に拒否しようとしたが……。 「言っておくけど、あなたに拒否権はないから。私を疑った罰ね」 否定の声は喉まで到達したがそれが音になることは無かった。 代わりに予鈴のチャイムが鳴り響く。 ――キーンコーンカーンコーン。 気に入っていたチャイムの音が嫌いになった瞬間だった。 米田千尋、と言う名の女生徒が僕のクラスにはいる。 長くて透き通るような黒い髪、整った目鼻立ち、バランスの良い体つき。非の打ち所の無いプロポーション。まあ、所謂美人と言うやつなのだ。彼女を一目見ると振り返らない者はいないと皆に呼ばれるほど美しい女生徒だ。 だが唯一の欠点があった。 ――彼女は友達を作ろうとはしなかったのだ。 入学してから誰にも心を開こうとはしなかった。常時、他人との間に壁を作り絶対に近づかせないようにしていた。その内に彼女は誰からも相手にされなくなっていた。 いつも一人で空を眺めている。そんな女の人だった。 だからだろうか。目の前でシュークリームを美味しそうに頬張っている米田さんを見ていると何だか普段とギャップがあり過ぎて不自然で仕方が無かった。 「おいしぃぃ〜〜〜〜」 と、幸福な顔でシュークリームを食べている米田さん。 「はあ」 と、米田さんを見ながら溜め息をつく山田君。 「…………」 黙って状況を見守る僕。 変なミスマッチが放課後の教室に揃っていた。 この変な状況から少し戻って、昼休みの予鈴が鳴り響いてから一、二分後。 山田君はようやく教室に現れた。しかも米田さんと一緒に。長い時間、待ち惚けを食らった僕だったが、そこはプライベートと言うもの。彼と彼女の間に何か事情があったのだろうと思い直す。そんなことは気にせず、自分の席に着いた山田君に約束の物を渡そうとする。満面の笑みを浮かべながら、あと若干誇らしい気持ちも込めながら、彼に話しかけた。 「山田君、時折高校限定シュークリームを買って来たよ。それと、やっぱり山田君の読みは当たってた。昼休みのチャイムと同時に教室を出なかったら到底買える事は無かったと思うんだ。買うことは容易だったんだ。購買部のおばちゃんにお金を渡すだけだったから。でも、その直後にすごい数の人だかりが購買部の方へ来てね。「それは俺のものだ」とか「私のものに決まってるじゃない」なんて罵詈雑言を言いながらシュークリームを買った僕に襲い掛かってくるんだよ。抗争なんて易しいものじゃなく戦争だったね。アレは」 「そ、そうか……」 苦笑交じりに限定シュークリームを受け取る山田君。様子が変だなと思い尋ねようとしたところ、彼は驚きの行動をとった。 「ほら、約束の物だ」 そう言いつつ、僕が渡したシュークリームを米田さんに渡したのだ。 ――どういう事? なんで米田さんに? 「ありがとう」 米田さんは満足げにシュークリームを眺めた後、僕に視線を移してきた。 「吉村君、放課後に山田君と一緒に教室に待っててね」 事態が把握出来ずにいた僕は山田君に説明を聞こうとして彼を見た。彼は首を左右に振って「後で説明する」と言う言付けだけ言うと腕を枕にして寝る姿勢をとる。今度は米田さんに聞こうとするのだけど彼女は自分の席へ帰り、次の授業の用意を始めていた。 「勝手だな」 文句が人知れず漏れたけれど、反応する人なんて誰もいなくて、僕も渋々自分の席に戻った。 放課後の学校は不思議でいっぱいだと僕は思う。昼の騒々しかった音は姿を消し、校舎一体がしんと静まり返るから。でも、無音と言うほどでもない。耳を澄ませば、ちゃんと音は聞こえるのだ。例えば渡り廊下では、吹奏楽部の部員達が高々とトランペットを持ち上げ美しい旋律を奏でている音が聞こえる。図書室では、黙々と本を読む者たちが出す次の頁を捲る音が。家庭科室では料理作る時に使うガスコンロの音。運動場では、野球部のボールと金属バットがぶつかる独特の響きが確かに聞こえるのだ。こんな教室の片隅でも。静かだけど一人を感じる事はない。だから、僕は結構放課後の学校の教室に居残ったりする。一人で。 でも今日は一人じゃなかった。僕を入れて三人いた。 ゆっくりと今まで閉じていた目を開けた。ちょうど米田さんが限定シュークリームを食べ終わった頃だった。 「おいしかったわ。皆がこぞって買いに走るのも解る気がするわ」 ありがとうございます、米田さん。 「ここの限定シュークリームはここら一体の洋菓子店よりずば抜けておいしいからな。俺もよく廊下を走ったもんだ」 今日は僕が走ったんだよ、山田君。君のために。 「あら? 吉村君どうしたの? そんな膨れっ面して?」 僕は努めて冷静になろうとした。そうしなければ話がややこしい方向へ流れるかもしれないためだ。短く空気を吸い、昼休みから聞きたかったことを山田君に聞く。 「山田君、なんで限定シュークリームを米田さんにあげたの? せっかく僕が頑張って買ってきたのに……」 「……む」 いきなり自分に話を振られるとは予想していなかったのだろう。彼は答えを窮するように口篭った。そんな彼を見兼ねてか米田さんが横槍を入れる。 「情報交換をするために必要だったのよ」 「情報交換?」 「そっ。山田君は私から情報を聞き出したかったみたいなの。だから彼は昼休みに私を呼び出した。私はその用件を承諾して彼についていった。でも私からして見れば何も得はしないわよね。むしろ時間の無駄。だから彼の用件を呑む代わりに条件を付けた。その対価が……」 米田さんは自分のお腹をさすってみせるジェスチャーをとった。 「限定シュークリームだったわけ」 そう言うと米田さんは少し幸福そうな顔をした。いつもの彼女はそんな表情は決してしないので少し僕は面食らった。 「じゃ、じゃあ山田君が米田さんに聞いた情報ってなに?」 「ああ、それはね……」 「おい! それは言うなよ!」 いきなり山田君は大きな声を発声して僕の鼓膜を嫌と言うほど振動させた。僕の体に強い戦慄が走ったのだが、米田さんは気にもしなかったようだ。 「どうして喋っちゃいけないの?」 「あの屋上での話は、俺とお前だけに関係のある話だ。吉村に話すことは何もない」 山田君は頑固親父のような一点張りだ。しかし……。 「あなた馬鹿でしょ」 無残にも一刀両断された。 「現段階で情報が殆ど無いに等しいのに私達だけで犯人を追えるわけ無いじゃない。だから当事者の協力が絶対に必要なのよ。それぐらい貴方にもわかるでしょ?」 「でもさ……」 二人の会話を聞いていく内に何の話をしているのかわかった僕は恐る恐る間に入る。 「あの、もしかしてだけど……。二人は僕に降り懸かったあのCDの事件について話しているの?」 「そうよ」 臆面も無く言ってのけた米田さんは「そうよね?」と山田君に同意を求めた。僕は彼女に続いて「そうなの?」と彼に質問してみる。往生際悪く口をパクパクして必死に否定しようと彼はするが、やがて諦めたように首を頷かせた。 「そう、なんだ……」 正直、驚いた。山田君があの事件のことを調べているなどと夢にも思わなかった。それに米田さんまで巻き込んで。一体何が起きようとしているのだろうか。 「さて、そろそろ行きましょうか」 米田さんはそう言うと出口へと足を向ける。そしてそのままスタスタと歩いて行った。 「行くって、何処に?」 そもそも、今日の放課後に僕ら二人を呼び出したのは彼女なのだ。何か理由があって呼び出したに違いない。 「ついてくればわかるわ」 そう言うと、彼女は教室から消えた。仕方なしに僕と山田君は今まで座っていた椅子から腰を上げ、米田さんの後へついていく。 彼女の行き先は何処なのだろう? 単純な疑問が頭をよぎったがすぐに自己解決する。何故なら方角は南に向いているからだ。 ――「文化棟」と呼ばれる場所に彼女の足は向かわれていた。 僕らが在学している時折高校には、大きく分けて三つの棟がある。 まず、大部分を占めるのが「教室棟」だ。この棟は一学年から三学年に渡ってのクラスの教室が配置されている。一年生は三階にクラス群があり、二年生は二階に、三年生は一階にある。お年寄りに優しいシステムになっているのだ。 次に割合を占めるのが「特別棟」だ。この棟はパソコン教室や、図書室、音楽室、化学室などと言った専門的な教室群となっている。文化部の方達が放課後になると忙しく活動している。 最後にあるのが「職員棟」だ。この棟には職員室は勿論の事。校長室や事務室、進路指導室などと言った教職員達の活動の場となっている。この前、お世話になった保健室もこの場所にある。 体育館やグラウンド、講義館などを除けば大きく分けてこの三つの棟が大部分の時折高校の校舎だ。他の公立高校と何ら変わらないだろう。まあ、ある一つを除けばだが。 そのある一つが「文化棟」と呼ばれる棟だ。 「着いたわ」 ――ジャラジャラ。 石と砂が入り混じった地面をスリッパで蹴るのを止める。米田さんの掛け声と同時に僕等は目の前にそびえ立っている建物を見上げた。三階建ての小規模な建物。校舎と呼ぶには小さすぎる敷地面積。そして剪定されていないフジの木が窓ガラスに密接されていた。元々、この時折高校はゴルフ場建設予定地だった場所に新しく校舎を建設した。そのゴルフ場の名残がこの眼前に建っている「文化棟」と呼ばれる建物だった。この「文化棟」はゴルフ場が中止された時には既に完成されており、取り壊すのも忍びないし、なにより取り壊す経費も掛かることから学校側が残したものだった。 元来、レストランや休憩スペースとして建設された建物だったが、今は「文化棟」と呼ばれているだけあってこの土地に古来からある重要文化財等を保管されているらしい。土偶や土器や絵巻物などだ。一種のミニ博物館みたいなものがこの場所には展開されていると聞いたことがある。 「で、米田。ここに何の用なんだ?」 山田君は米田さんの背中に疑問を投げかける。この建物は他の校舎に比べて色や形など一風変わっているのであまり人気はない。そもそも、入るには職員室に立ち寄り専用の鍵を借りなければならない。僕らはその手順を踏んでいないので当然鍵は手中に無い。これではこの場所に用があっても中に入ることはできないのだが……。 「何の用? 山田君は可笑しな事を聞くわね。もちろん入るのよ」 そう言うと米田さんはセーラー服の制服から鍵を取り出した。その鍵を入り口の鍵穴に差し込み右に一回回す。 ――カチャリ。 と言う小気味の良い音が聞こえ、「文化棟」のドアはいとも容易く開かれた。 「さ、行きましょ」 米田さんはそう言うと「文化棟」の中に入って行った。僕と山田君は暫し呆然と見送っていたけれど思い出したように後に続いた。 この棟に入るのは初めてなので若干の緊張を僕は感じたが、直ぐにその感情は闇に消えた。 「き、汚いな」 中に入ると埃が部屋に充満していたからだ。辺りを見てみると重要な文化財と思しきものはガラスケースに保管こそされているものの、ガラスには埃がたんまりと積もっていた。想像していた場所とは違い少々の驚きを感じたのだが、そんなことには意も関せず米田さんは奥へと進んで行った。 「いつ、ここの鍵を借りてきたの?」 埃を手で払いつつ、先導する米田さんに僕は質問してみた。大方、昼休みに借りたのだろうと答えは予想できたのだが、話の場繋ぎとして聞いてみたのだ。すると、驚きの答えが返ってくる。 「ああ、この鍵は私が勝手に作ったものよ」 そんなことをしていいのだろうか。僕は一介の一般生徒として頭を悩ませたが山田君が横から救助してくれた。 「無断許可による鍵の複製はれっきとした犯罪だ。見付かったら怒られるだけじゃ済まないぞ」 「……」 彼女は返事をせずに黙々と進んでいく。すると上へ上がる為の階段が見えて僕等は上っていく。一体目的地は何処なのだろうか。 手すりの設置されていない階段を最上部の三階まで上りつめてようやく米田さんは返事をしてくれた。 「この場所自体は有名だけど滅多に人は入らないの。掃除もしなくていいことになっている。『文化棟』なんて名ばかりで不必要なガラクタが置いてあるだけ」 薄暗い廊下を進んでいくと突き当りまで来て僕らは立ち止まった。すぐ右には扉がある。 「だから……こんなところに個人の空間がいとも容易く創れちゃうの」 彼女、米田さんは僕らをチラリと見て、まるで悪戯の共犯者のような目をした。そして扉をゆっくりと開け、電気のスイッチを点けた。部屋の全貌が明らかになる。 「ここは……」 僕は無意識に口を開いていた。部屋の中央には小ぶりの木製の机と普段学校で使っているパイプ椅子が備え付けられていた。机の上には簡易式のガスコンロとやかんが置かれていた。紙コップや紅茶のパック、コーヒー豆の袋も完備されている。そして何故か一眼レフのカメラや三脚、投影機らしきものまであった。しかし、この部屋で僕が最も驚いたのは壁だった。四面の壁には写真が飾られていたのだ。それも一枚や二枚じゃない。大小様々な写真がこの部屋全体に貼られていた。軽く百枚近くはあるだろう。目の前にはポスターサイズで撮られた蝶の写真まである。僕は壁に貼られた写真の下に書かれているタイトルらしきものを読み上げた。 「山桜、神社の鳥居、一人ぼっちの町並み、空とんぼ、恵みの稲穂。ここは何なの?」 その質問を待ってましたとばかりに米田さんは意気揚々と答えてくれた。 「ここに飾られている写真は全て私が撮ったものよ。そしてこの部屋は……」 そしてゆっくりと彼女は呟いた。 「写真部の部室」 彼女はそう言うと近くにあった椅子に腰掛けてお茶の準備をしだした。 写真部? 俺は自分の中にある記憶の泉から「写真部」を検索してみる。時折高校にある文科系の部活でその名は……ない。 「この学校には写真部なんて存在していな筈だ」 と言う事は……だ。自ずと答えは出てきた。 「学校側に公認されていない部活か……」 「ピンポーン」 なにがピンポーンだ。 「仕方なかったの。部活動を創設するには最低三人の部員が必要だったのよ。でも創設当時、私には友達なんていなかったし誘いたい人もいなかった。だから自分一人で創ったまでよ」 大人しそうな顔をしているくせに大胆なことをする奴だ。俺は呆れ果てたが、吉村はこの部屋に興味津々の様子だ。 「うわ〜〜。よくこんなに撮ったね。あっこの写真、僕好きだな」 「本当? その写真は最近撮った自信作なの」 米田の嬉しそうな声が聞こえる。 気になったので俺も覗き見た。写真には鮮やかな桜の木がライトアップされて映し出されていた。闇夜を照らす電灯と桜にある独特の色合いが絶妙なコントラストを醸し出していた。 「上手いな」 どの作品も写り栄えはかなり良い。素人目から見ても写真のコンテストに出せばいい所まで行けるのじゃない だろうかと思えるほどに。もちろん素人の意見だが。 「んっ?」 だが、俺はある事に気付いた。 「人物写真はないんだな」 大まかに眺めても米田の作品達は風景写真ばかりだったのだ。これ程の量ならば少なくとも数十枚は人が写っていてもいいぐらいだが。俺の指摘に米田は何故か曖昧に答える。 「ああ……人の表情って難しいの」 今一つ煮え切らない返答だったが俺は深く追求しようとはしなかった。 「さあ、写真漫談もこれ位にしましょうか。貴方達、席に着いてね」 米田の指示に従い俺達はパイプ椅子に腰をおろした。やっとここに集まることになった本題が始まることを俺は悟った。米田は用意した紅茶を俺たちに差し出しながら話し出した。 「貴方達二人をここに集めたのは他でもないわ。吉村君に降り懸かった事件を追うためよ。それも出来るだけ内密に。まあ、要するに犯人を捜そうってことね」 随分淡々と言ってくれる。米田にとってはゲーム感覚の暇潰しかもしれないが、吉村にとっては結構デリケートな問題なのだ。若干心配して吉村の顔を一瞥すると。案の定、奴は困った顔をしていた。 「よ、米田さん。その……」 「何?」 「べ、別に僕のことなんて放っておいてもいいんだよ。僕に起こった事件なんかどうせつまらないし。僕は大丈夫だから。それよりも他の話でもしようよ。僕ら折角友達になったんだから。あっそういえば山田君は料理研究部だったよね。最近はどんな料理作ったりするの? 僕はそっちの方が気になるよ」 話をいきなりこちらに振られる。どんな料理を作るか……か。俺の最近のお気に入りはカルボナーラか肉じゃがなのだが……。どちらの話をしようかと苦悩していると。 「機を逃すものは全ての事柄から逃げ出す運命にある」 一瞬、米田の声色が誰なのか判別できなかった。 「もしも今がその機会なら吉村君どうするの? 何もせずに逃げ出すの?」 「ぼ、僕は……」 「逃げ出さないでほしいの。私は吉村君の力になってあげたい。袖振り合うも他生の縁って言うでしょ。これも何かの縁だと思うの。協力したいの。だから、あのCDを信じたきっかけを教えて。それで犯人が絞れるかもしれないの」 畳み掛けるように言葉を米田は継ぐ。 「で、でも……」 「私達、貴方の友達でしょ」 「えっ、あっ、うん……」 「だったら、信用してほしい」 静寂なこの部屋で米田の女優並みの名演技が繰り広げられる。俺は舌を巻いて感心したが吉村はそうではなかったみたいだ。 「人なんて簡単に信用できない……」 か細い声がこの空間を支配した。 「君達は僕とは違う。裏切られるって事が何なのか全然わかってない。だから馬鹿馬鹿しいことが言えるんだ。奇麗事を並べたって考えていることは絶対違う。僕は、僕は君達とは違うんだよ」 数秒後、いきなり米田はその場に立って制服の左袖を大雑把に巻いた。その行動を俺は訝しがったが、女の左手首のある異変に気付いた。 「お前、それ何だよ?」 米田は俺の質問には答えず、吉村にのみ目線を送る。 「それが勘違いだって事を教えてあげる。よく見てなさい」 女はゆっくりと隠されているものを紐解いていった。 ――パサッ。 ある異変、包帯が地面に落ちた。 「あ」 「な」 俺達は同時に驚きの声を上げた。包帯で隠されていた左手首には傷、傷、傷。無数の大小様々な切り傷が女の肌に刻まれていたからだ。 「お前、それって……自分でつけたのか?」 俺は恐る恐る尋ねてみた。すると米田は一回コクリと頷いて傷跡がある腕に視線を落とした。「これはね、私の罪の形なの」 米田は多くを語らずにそれだけ言うとすぐに包帯で傷跡を隠していった。そして、巻き終わった後、視線を驚いた顔をした吉村に戻した。 「吉村君。きっと私達は同類なんだと思う。だから、私には貴方の心の痛みがわかるし、貴方には私のこの腕を見せた勇気がわかると思うの。だから……私は貴方の力になりたい……。貴方を救いたい」 いつの間にか女の目には大粒の涙が溢れていたのだ。 この時、俺はやっと気付いた。これは演技じゃない。これはこいつの本心だと。 何故だかわかってしまった。 卑怯だ。 僕は米田さんの腕を見た瞬間、そう思った。 だって、彼女の意図が分かったから。彼女は自分の傷を見せて僕の傷を知ろうとしていたからだ。なんでこんなことになったのだろう。 こんな事になるのなら、ずっと一人でいればよかった。僕は顔を地面へと向けた。 そして……。 「僕はね……」 あの事を言うことにした。 「僕は……」 僕の秘密が誰かに知れたって誰にも迷惑にはならない。 「実は……」 もう、疲れた。 「同性愛者なんだよ」 僕は顔を俯かせたまま自分の知られたくないことを努めて明るく言った。まるで冗談でも言うように真実を言った。自虐行為だなと人知れず思った。 「……」 「……」 二人は黙り込んだ。その沈黙が怖くて僕は顔を上げることが出来なかった。きっと驚いているか引いているかしているのだ。奇異の目で僕を見つめているに違いない。 そう思ったら突然悲しくなった。 それはいつも僕が味わっている孤独感なんて物の比じゃないほどに力強くて抗えない物だった。強力な力の渦に僕は飲み込まれたのだ。目に見えないソレはどんどんと膨張して僕を飲み込もうとしていた。 僕を形成している何かが壊れようとしていた。 「それがどうしたの?」 僕は意味が分からずゆっくりと顔を上げた。山田君と米田さんは驚いた顔も引いた顔もせず、ただ不思議そうな顔をしていた。 あれ、なんで? 「ねえ山田君。同姓が好きな人ってそんなに珍しいものなの?」 「いや、普通にいるんじゃないか。俺の親父の親友だってニューハーフだぜ」 「そうよね。拍子抜けしたのが私だけかと思ったわ」 この二人、おかしい。普通な訳ないじゃないか。えっ馬鹿なんじゃないの。 「ん、吉村?」 同姓が好きだなんて正気の沙汰ではないよ。本当に馬鹿なんじゃないの。 「吉村君?」 そんな当たり前のことが何で分からないんだよ。二人とも馬鹿なんじゃないの。 「何で泣いているの?」 泣いてなんかいないよ。馬鹿なんじゃ……。 「えっ、あれ?」 手を目元に擦り付ける。生暖かいものが確かに伝わる。これは……涙だ。 「あ、あれ? 僕なんで泣いて……えっ?」 目から溢れる涙を何度も手で堰き止めようとしたが一向に収まる気配がない。止めなくちゃいけないのに止まらなかった。まるで洪水だ。 「止まらない。止まってよ。ねえ、止まれよ!」 情けなくて格好悪い。どうしようもなく不様だった。 「止まれ、止まれ、止まれ!」 不意に、手を掴まれた。 「止めなくていいわ。それは全部流すべき涙だと思うから」 「っ!」 その言葉を聞いた瞬間、目元からさらに熱いものが勢いよく込み上げて来た。これは感情だ。感情が溢れ出した。 淀んだ思いが全て出て行くような気がした。不思議と穏やかな気持ちになれた。 僕は小学校五年生以来の号泣をした。 僕が落ち着いたのを見計らってから米田さんは言葉を発した。 「さて、吉村君の秘密がわかって、晴れて私達は本当の友達になれたと思うの。だから……」 彼女は机の引き出しからシャーペンとレポート用紙を取り出した。 「友達の為に犯人を捜しましょう」 「ん、まあ、そうだな」 山田君も渋々米田さんに同意した。 僕はこの人達に僕の秘密を知ってもらってよかったと思った。 「吉村君。それでいい?」 米田さんが優しい声で僕に同意を求めてくる。友達が僕のために頑張ろうとしている。純粋に嬉しかった。迷わず答えを返した。 「うん。お願いします」 こうして僕達は奇妙な事件を追い始めたんだ。 第零章 「居場所」 少年はいつもクラスの男子にイジメられていた。 机に油性マジックによる落書き。 接着剤で開くことの出来なくなった教科書。 体操服の盗難。 どれも悪質のものばかりだった。 何故彼らが少年をイジメていたか? 彼らは少女のことが好きだったのだ。 彼らが好きな少女が少年と一緒に居るのが気に喰わなかったのだ。 つまりは嫉妬だ。 男の醜い嫉妬。 しかし、イジメられているのに少年は少女と居るとき笑っていた。 太陽の輝きを持った笑みで少女と一緒に居たのだ。 少女は少年がイジメられているのを知ったとき、初めは離れようとした。 少女が離れれば少年がイジメられることは回避できた筈だ。 クラスの男子は少女にしか関心が無かった筈だからだ。 しかし、少女は離れなかった。離れようとしなかった。 なぜなら……。 少女には少年しかいなかったのだ。 自分を理解してくれる唯一の存在が少年しかいなかった。 少年は少女の居場所だった。 第三章 「犯人」 米田が開いたレポート用紙にはシャーペンの音が鳴り止まない。 「犯人は吉村勇作を名乗る人物だった。そして吉村君の秘密、彼が『同性愛者』だってことを知っていた。彼の秘密を言った後、CDは終了した」 米田は書いていた手を止め、俺達を見渡した。 「この犯人は何をしたかったのかしら? 動機がイマイチ不明瞭すぎるわよね」 動機。何かしらの目的があって仕向けた理由。思いつく限りのことを俺はつらつらと言っていく。 「金……とかか。吉村の秘密を偶然知ってしまって多額の口止め料を要求しようとしているのかもな」 「お金ねえ。考えられなくはないけれどそんなもの要求するためにあんな手の込んだCDを作るかしら?」 「じゃあ、ただの嫌がらせだ。この犯人は他人の不幸が大好きな変質者なんだ」 「嫌がらせでこんな手間のかかることする? 私なら本人に直接言うけれど」 「そうだな……。だったら本当の犯人は吉村自身だったんだ。お前が犯人だ吉村」 「そんな訳ないでしょ……。真面目に答えなさいよ」 真面目にか。俺は考えを巡らした。 「まあ、この犯人は吉村と会ったことがある人物だろうな。吉村の存在を疎ましく思っていて、そして……」 俺は吉村の幼い顔を見ながら最悪の事を呟いた。 「吉村の存在を消そうとしている」 そう言った途端に部屋が静かになった。吉村の生唾を飲む音が聞こえそうなほどだ。 「消すって……僕を殺すってこと?」 「極端に言ってしまえばそういう事になる。まあ、その可能性があるかもってだけだ。実際、この事件に危険性があるのかないのか俺にもよくわからん。まだ事件と呼べるほどでもないし……。まあ、犯人の動機は置いといて、だ」 この際、動機は後回しだ。事件を早期に解決させるためには……。 「犯人像を挙げる事が先決だと思う」 現段階ではまだCDを作った犯人は吉村に直接的に危害を加えることはしていない。だが、それも時間の問題だろう。明日にでも次のCDが送りつけられ、吉村の秘密を餌に脅しに掛かるかもしれない。吉村は自分の秘密を一人の相手に知られたぐらいで失神した奴だ。仮に全校生徒全員に吉村の秘密が犯人の手によって広まったら……。そこまで考えて最悪の事態が脳裏を横切った。そうならない為にも、少ない情報で犯人像を導きだすことは大事だと思った。犯人の次のアクションに素早く対応するためにも。 「……犯人像ね。可能性的に十中八九、犯人はここの生徒じゃないかしら。そして吉村君がいつも通るパソコン教室への道程を知っていた人でしょうね」 「生徒か。CDを予め所定の場所に置いていたことからそれは窺い知れるな。でも、なぜCDをわざわざ廊下におく必要があったんだ?」 俺は妙に思った。CDを吉村に渡すなら誰からも気付かれず確実に渡す方法をとる方が賢いやり方だと思ったからだ。わざわざ直に廊下に置く必要性があったのだろうか? 「それに、もしも吉村がCDの存在に気付かないで第三者の手に渡ってしまったら全てが水の泡じゃないか。どうしてこんな危険な方法を……」 CDを黒いCDケースに入れていたのも気に掛かる。黒という色は、あの新しくピカピカな廊下には目立ってしょうがない。CDが落とされていたあの場所は人通りが少ないとはいえ誰かしら通る。だから、多分、いや絶対に吉村が拾うかどうかを犯人は見る筈なのだ。俺は女を見た。女は紅茶を優雅に啜っていた。そして、カップをコースターに置き俺を見た。 「気持ちは解らないでもないけれど、私は犯人じゃないわよ」 俺の考えていることはバレバレか。俺は失笑しながら米田に言った。 「別にお前が犯人だなんて言ってないぞ」 「貴方の目は言ってるようなものよ」 米田は溜め息をつくとシャーペンを手に持ちそれを上手い具合にクルクルと回していく。 「あのね、山田君。貴方が思っているように吉村君がCDを拾う瞬間を犯人は見届ける必要があった。そして拾わなかった場合を想定して回収する事も頭に入れていたのでしょう。でも、二つほど私には犯人にはなれない根拠があるわ」 根拠か。 「一つ目は犯人がCDを事前に置いていたからよ」 「む? それはそうだろ。置いていなかったら吉村が踏む訳ないんだから」 「解っていないわね。私はあの日、吉村君の後ろを歩いていたのよ。瞬間移動でもしない限りCDを置ける訳ないじゃない。それにいくら前以て設置していたとしてもあの廊下を通る人は必ず気付くでしょうね」 それもそうだ。黒色のCDケースは流石に目立つ。 「二つ目。パソコン教室である偶発的な出来事が起こったから」 偶発的な出来事? 「吉村君が失神してしまったことよ」 「それがどうしたんだ?」 「……」 諦めたような冷めた目を俺は浴びせられた。その後に続く溜め息は明らかに先程よりも大きいものだった。 「貴方は多分、探偵にはなれないわ」 ――グサッ。俺の未来の選択肢の内、一つの職業が消えた。意外と大きい精神ダメージを喰らった俺にはお構いなしに米田は続きを話す。 「これは私の仮説だけど、犯人は吉村君がCDを聞いた後の行動を二つ予想していたのよ。一つは吉村君がそのままCDを持って帰ること。もう一つは彼が失神してしまい保健室に運ばれること。前者なら私が疑われても文句はないわ。でも、実際起こったのは後者だった。後者が起こりうった後の対処法としてCDは絶対に抜き取らなければならない。犯人にとって今回のことは内密に進めたいからよ」 なるほど。 「吉村君の話ではCDと黒いCDケースは犯人に回収されたそうじゃない。このことを当てはめたら犯人は私達のクラスにいる『情報技術』選択者の可能性が高く、私は『手芸』選択者なので犯人には成り得ない」 『情報技術』選択者の中に犯人がいる……か。正直なところその可能性は考えていなかったな。俺は吉村の秘密を知っているのが犯人だと考えていたため同じ小学校や同じ中学校出身の奴が怪しいと踏んでいた。が、米田の『情報技術』選択者が犯人と言う仮説を聞くと納得できてしまうのも事実だ。ん? だとしたら……。 「犯人は昔、吉村と会っており、なおかつ『情報技術』選択者の可能性が高いと言うこか?」 満足げに米田は頷いた。俺は吉村に肝心なことを投げ掛けてみる。 「吉村、『情報技術』の選択者の中に同小か同中、もしくは幼い頃あった事がある奴はいるか?」 奴は「う〜ん」と頭を悩ませたが暫くすると答えを返した。 「一人だけいる……かな」 「本当か?」 「本当に?」 俺と米田の同時の声に吉村は困惑する顔をした。 「う、うん。クラスメートの中里さんが同じ中学校出身で三年間同じクラスだったよ」 中里……。確か下の名前は美咲だったな。 中里美咲。俺たちと同じクラスメートだ。外見上の特徴を挙げるなら眼鏡をいつもかけており髪型は三つ編みで少し幼い顔つきをしていると言ったところか。 あいつが犯人……なのか? 「どうも腑に落ちない気はするわね」 俺の心のうちの言葉を代弁するように米田は言った。 「あんな子がこんなことをするのかしら?」 中里のことは詳しくは知らない。話したことも一度だってない。でも……。 「あんな明るい子が……」 米田の言葉のとおり中里美咲はとにかく明るい。地味目な外見とは裏腹に、中身は言葉の機関銃が入っていると思われるぐらいにマシンガントークを繰り広げるのだ。だから、今回の陰湿な事件とはまったく縁の無い人物だと思われるのだ。 「妙だよな……」 俺は人知れず呟いた。 「そもそも何であのCDはリバーシブルディスクだったんだろ……。もしもあのCDの仕掛けに僕が気付かなかったら計画を実行できなかったかもしれないのに」 吉村の指摘はもっともだ。普通のCDにしても差し支えはなかっただろうに。 「犯人は迷っていたのかも……」 米田は考えるようにそう言った。 「だから、犯人は計画を実行に移すか吉村君自身の手で決めてもらいたかったのかもしれないわね」 迷っていた……か。 この事件はやはり何かがおかしい。犯人の目的がはっきりとせず、掴みどころが無さ過ぎる。そう思っていると吉村がこう言った。 「ねえ、あの場所に行ってみない?」 あの場所? 俺と米田は揃って同じ顔をした。 「僕がCDを拾った廊下に行ってみようよ」 閉門まであと十五分頃に吉村がCDを拾った廊下に着いた。鞄は持ってきたのでこのまま下駄箱に直行すればすぐに帰れるだろう。 「で、ここに何の用なんだ?」 当然の疑問を俺は吉村に投げ掛けた。 「何か事件に結びつける物が落ちてるかなと思って」 涙が出そうになる。いや実際ほんの少しは出た。 「多分見つからないと思うわよ」 米田も俺も知っている事なのに吉村一人だけは困惑顔だ。米田は人差し指を下に向けてこう言った。 「ココ、毎日掃除されてるから。何か残ってたとしてもゴミの中でしょうね」 現場検証は確かに大事だと思う。だからこそ吉村の考えは間違ってなんかいない。でもココは学校で日毎に人々が行き交う場所なのだ。手掛かりらしき怪しい物が落ちていたとしても犯人の物とは限らない。せめて事件が起こったすぐに現場を見ていたのならまだ違ったかもしれないが……。 「そうだったんだ……。知らなかった……」 ガックリとわかり易いリアクションをとる吉村。 「むっ……。いや、考え方は全然間違っていないと思うぞ」 「そうね。まあ、無意味だとは思うけど一応調べてみましょうか」 無意味はいらないだろうが。空気の読めない米田を俺は睨みつけるが、女は何処吹く風と言った様子で調べ始めた。はあ、俺も始めよう。 吉村のCDを拾った場所は若干窓寄りの所だ。手のひらを廊下につけて顔を近づけて見る。 ――うん、異常なし。 開始五秒でこの廊下にはゴミらしき物が一つも無いことが判明した。一応、窓硝子も調べてみるが怪しいところは見当たらない。 「トイレも調べたけれど何も無かったわ」 この廊下を通る前にトイレもあるので調べてみたがやはり手掛かりらしき物は無かった。 「仕方ない。今日はもう帰ろう」 手掛かりが無いんじゃしょうがない。俺は一足先に下駄箱へ向かおうとするが「待って」と呼び止められら。以外にもその声は吉村だった。 「明日から何をするの?」 俺は米田の横顔を見る。俺の真意を知ってか知らずかは解らないが女は首を縦に振った。 「明日からは……中里美咲について調べたいと思う」 「あれだけの情報で中里さんを犯人に決め付けるの?」 吉村は憤慨した面持ちで俺に詰め寄ってきた。俺は慌てて弁解した。 「別に中里が犯人だと疑っている訳じゃない……」 「なら!」 こいつにしては妙な反応だな、と思った。もしかしたら中里と過去に何かあったのか。余計な詮索を掛けたくなるがまたの機会にしよう。 「まあ、落ち着けよ。そういう路線で調べるだけなんだから」 俺はそう言うと自分の胸倉を掴んでいる吉村の手を半ば無理やり離した。学校の壁時計を見てみると閉門まであと五分だ。 急ごう、と俺が二人に言おうとした瞬間だった。吉村が口を開いた。 ――中里さん以外に怪しいと思う人がもう一人だけいる。 「……」 突然何を言い出すんだ。この馬鹿野郎は。 「僕の秘密を知っているとは到底思えないんだけどCDを置けて回収できる人が一人だけいるんだ」 「誰なの?」 米田が俺の代わりに仲介に入ってくれた。 「『情報技術』を教えている先生だよ……」 犯人と思しき人物がまた一人増えたのだった。 次の日。 僕は早朝の七時頃に文化棟の一室にある写真部の部室に居た。窓から外を見てみると、朝練習の運動部員達が清々しい朝にお似合いな大きな声を挙げてランニングに汗を流している姿が目に映った。僕も部活に入っていたらあの一員に加えられていたのだろうか。素敵な空想に頭を費やしていると隣から声がかかった。山田君だ。 「昨日、お前が言った人物の何処が怪しいのか言って貰おうか」 僕は外の景色に若干の名残惜しさを覚えた。が、早くに集合した目的を果たさなければならないだろう。 ――何故、パソコン教室の先生が怪しいのか話さなければならない。 「昨日も言ったとおりあの先生は僕の秘密を知っているとは思えないけど、犯行を行えそうな人物なんだ。なぜならね……」 僕は二人の顔をちゃんと見て言った。 「先生が遅れたからだよ」 「む?」 驚いたのは山田君だけで、米田さんは落ち着いて聞いていた。 「あの日、僕は『情報技術』の授業に遅刻した。そして先生も遅刻したんだ。僕より遅くにパソコン教室に先生は着いた。CDを誰にも見付からせること無く置けるよね」 米田さんはすぐに理解できたみたいだが、山田君は出来なかったみたいだ。何でだろうか。山田君は利口な人だと思うのに。 「つまりはね、先生は僕にCDを拾わせるように仕向けたんだ。廊下の先で待機して、僕が来るのを見計らいあの廊下にCDを置いた。そして、渡り廊下からでは無く一階から職員室へと戻り忘れ物を取りに行った。そして、渡り廊下に戻り僕がCDを拾ったか確認したという訳なんだ。で、何食わぬ顔で僕と対面した」 「……」 「あの人が犯人ならCDを廊下に置いたことにも説明がつく。あの先生は臨時の講師だから僕の教室での席や下駄箱の位置を知らなかったからだと思うんだ。だから廊下に置くしか方法が浮かばなかったんだよ」 「……」 「まだ先生が怪しいと思う点があるよ」 僕は意気揚々と言い放った。二人はいつの間にか黙っている。僕はプレゼンテーションを発表しているような心地についた。 「あの人がパソコン教室の先生だからだよ。あの先生は僕が倒れた後、あのCDと黒いCDケースを忘れ物ボックスに入れたと言っていたけど、それはあの人の真っ赤な嘘で両方とも回収したと仮定したらどうかな?」 「まあ、できるよな……」 山田君は神妙な顔つきをしながら頷いた。 「だよね。だから犯人はあの先生じゃないかなと思うんだけど……。どうかな、米田さん」 彼女はニッコリと満面の笑みを浮かべてこう言った。 「無理ね」 ……えっ。 「先生が犯人なら吉村君の事をある程度知っておかなければならない筈だわ。でも、はっきり言ってそれは無理よ。だって、あの先生の授業を私達はまだ数えるぐらいしか受けていない。そんな短期間であなたの秘密を偶然知ってしまうなんて万に一つもありえないわ」 ぐっ。痛いところを突かれてしまった。あの先生が犯行を行えたとしても、僕の秘密を知っているなんて到底思えないのだ。中里さんを疑わないでほしい一心で先生を犯人に仕立て上げたがどうやら無駄だったらしい。我ながらいい線いってると思ったんだけどな。諦めようとした時米田さんは言った。 「だから、もし先生が犯人ならこの事件には内通者がいるわ」 内通者。新しいキーワードが僕らの前に降り懸かってきた。 「は? 内通者だって?」 山田君はそんなまさかと言う様に口を大きく開けた。僕は目蓋がさらに開いた。 「内通者って……僕の秘密を先生に提供した人がいるってこと?」 「そうよ。そしてその人の名は……」 ――中里美咲。 彼女の口は確かに僕の中学時代の同級生を臆面も無く言い放った。 「ま、先生が犯人だった場合だけどね」 「なるほど……」 山田君は一人で勝手に納得している。僕には彼が何を納得出来たのかさっぱりわからなかった。 「じゃあ、あの二人を徹底的に調べてみよう」 「な、なんで?」 素っ頓狂な声が出る。我ながら恥ずかしい。 「何でって、そりゃあ、あの二人が犯人かもしれないからだろ」 「犯人かもって。そんないい加減な」 「吉村君、貴方は何がそんなに気に喰わないの? 先生が犯人だと疑ったのは貴方じゃない」 「そ、それは……」 ――中里さんが疑われたからだとは言えないよな。 「中里を疑うのが嫌なんだろ」 とか思ってると山田君に言われた。そして米田さんは「ああ」とどうでもよさそうな声を漏らした。 「なんで中里を疑うのが嫌なんだ? 同級生だったからか?」 「それもあるんだけど、中里さんには、まあ、助けられたから……」 僕は御茶を濁すように言ったつもりなのだが、それが逆に仇となったようだ。山田君はさらに追求してきた。 「助けられたって、何を?」 「……」 やはりこの二人には言わないといけないよな。僕は意を決して語りだした。 「彼女には命を救われたことがあるんだ」 それを聞いて山田君も、今まで話を知らぬ顔で聞いていた米田さんも驚いた表情をした。 「え〜と、ね。中学二年生の時だったかな。通学中に横断歩道を渡っていたら、いきなり車道からトラックが猛スピードで突っ込んできたんだ。急いで逃げようとしたんだけど恐怖で足が固まっちゃって動けなかったんだ。そんな所に中里さんは危険を顧みずに突っ込んできてくれたんだ。そのおかげで大事故になろうとしていた筈が軽い打撲程度で済んだんだ。だから彼女は僕の命の恩人なんだ」 ――だから。 「だから、そんな彼女を疑うのはちょっと……嫌なんだ」 そう、彼女がこの事件に関わりを持つはずが無い。卑劣なことやる筈がない。 「そこまで彼女を信じているのなら、疑いを晴らしたらいいじゃない」 「えっ」 「恩人が疑われているのよ。なら証明するべきよね」 「あっ」 そうか……。それもそうだ。疑われているなら晴らせばいい。頭の中の黒い靄が、すぅと晴れたような気がした。それからの決断は早かった。 「うん、そうだね、わかったよ。なら中里さんが犯人じゃないことを僕が証明してみせるよ」 僕は固い決心を心で結び、意気込んだ。 その日の放課後。 午後の授業が終わって数刻した後、僕は屋上に居た。もちろん中里さんも一緒にだ。山田君と米田さんは席を外してくれた。彼等なりの気遣いだろう。 僕からの突然の呼び出しでびっくりしていた中里さんだったが、屋上へ着くなり期待に満ちた目をし出した。 この人はいつもそうだ。面白そうな事に首を突っ込むのが大好きなのだ。あの頃と彼女は全く変わっていなくて僕は心の中で安堵した。 「吉村君が私に用なんて久しぶりだね」 期待に満ちた表情で僕の次の言葉を待つ中里さん。 「中里さん。驚かないで聞いてね……」 首を素早く二回、コクリと振らす彼女。どうやら早く聞かせてほしい様子だ。僕は酸素を素早く肺に取り入れて今回の事件について話し出した。 僕の名を騙っているふとどき者の存在がいる事件を。 話し終わると中里さんは「それは難解だね」と言い、何かを考えるような仕草をした。ここからが肝心だ。 「でね、中里さん」 「うんうん」 「今回の事件のこと……何か知ってる?」 もちろん彼女は知らない筈だ。そしてそれが正しいことなのだ。今回の事件に彼女はまったく関係なく、犯人探しは振り出しに戻る筈だ。 ……が。 「うん、知ってるよ」 「!」 僕は驚いて言葉も出なかった。知っている? そんな馬鹿な。中里さんを驚愕の目で見詰めていると、彼女の顔は突然歪んだ。そして腹を抱えて笑い出した。僕は何が何だかわからず、ポカーンとしていると、彼女の口が開いた。 「吉村君ってからかうと本当に面白いよね。人の言った事はすぐに信じちゃ駄目だよ」 そこまで言われて僕はようやく気付いた。冗談なのだ。 「もう、からかわないでよ……」 「ごめんごめん」 その場の空気が和む。僕のはにかんだ笑い声も、中里さんの太陽のような笑い声もその場の空気と同調して穏やかになる。そんな青春の一頁のような光景がそこにはあった。 でも、それは脆くも砕け散った。中里さんの一言で。 「まあ、本当は……知ってるけど、ね」 「ははは……は?」 知ってるって何を? 「だってさ……」 彼女はゆっくりと双方の足を前へと動かして僕の目の前まで来た。 そして、誰にも聞こえないように両手で口を隠し、僕の耳にこっそり聞かせてくれた。 「私が犯人だもん」 季節は春だと言うのに風が冷たかった。 「え?」 僕は何だか途方もない荒波に飲まれたようだった。人間風情が決して抗う事は出来ないような波に。 信じたくない。否、信じられない。 中里さんは何を言って……。 「あのCD作るのは結構苦労したんだよ。ボイスレコーダーで君の昔の声を録音して、パソコンで君とまったく同じ声にするんだ。男の子の話し方も難しかったんだよ。あ、でも情報技術の先生に協力してもらうのも大変だったかな」 どこか遠い国にでも迷い込んだ気分だ。中里さんの言葉が理解できない。 「どうしてこんな事したか知りたい?」 彼女は僕の返答も聞かずに話し出した。 「動機はねなんとなく面白そうだったから。高校生活が思ってたよりつまんなかったのが原因なんだ。私の想像ではね、もっとバイタリチィー溢れる面白い人間が居ると思ってた訳よ。私の予想を遥かに超える頭の持ち主がいると信じて疑わなかったの。でも、入ってみたら拍子抜け。そんなの一人も居なかった。今までの学校生活と同じように代わり映えしない普通の人間しか居なかったの。でね落ち込んでる私に中学時代一緒のクラスだった吉村君が目に写った訳よ。そしたら何だか雷が私の頭に落ちてくるような衝撃が来たの。吉村君に何か悪戯したら面白そうだなって考えたわけよ。ほら、君って昔から何かとドジじゃない。だから良いリアクションしそうだなって睨んだわけよ。で、内容なんだけど、君は実は吉村勇作じゃなかったってな感じのCDが突然送られて来るの。でも、それじゃ何だか信憑性があまりにも無いじゃない。誰も信じないよね。だから君と全く同じ声で、君だけしか知らない秘密を乗せて言うことにしたの」 ――同性愛者って事をね。中里さんはそこだけ歯切りが悪そうに小さく呟いた。 「君があのCDを聞いた後の反応は怖がって飛び上がる程度だと思っていた。それから私がタネ明かしをして無事に終わる予定だったの。でも、君のリアクションが大きすぎた。まさか失神しちゃうなんて夢にも思わなかった。冗談が冗談じゃ無くなっちゃった。君にとってあの秘密がそこまで君を苦しめていたなんて思わなかった。軽率だった」 彼女は段々と声を小さくしていった。 「ごめん、今となっては後悔しているの。本当にごめんなさい」 中里さんはそう言うと目に涙を溜めて泣き崩れた。 僕は混乱した。恩人が犯人だったのだ。僕が同性愛者だと知っているのだから明白な事実だ。 裏切り。胸が張り裂けそうだった。 「泣いて済まされるような事じゃないわ」 突然声が聞こえた。声は屋上の古びたドア付近から聞こえたが、そのドアは固く閉ざされている。一体どこから? ――ヒョイ。 そう思っているとドアのさらに上、給水タンクの裏から人が姿を表した。米田さんだった。米田さんは身軽に給水タンクから屋上の地面まで飛び降りた。そして泣き崩れている中里さん傍までやって来た。 「貴方のやった事が吉村君にどれほど被害が及んだか解っているの?」 米田さんはそう言うと中里さんを思いっきりぶった。それも一度や二度ではない。何度も何度も。 「よ、米田さん」 「謝りなさいよ。土下座でもしてちゃんと誠意を見せなさいよ」 僕はぶたれる中里さんを見ていられなくて慌てて米田さんの両腕を掴んだ。 「もういい、もういいんだ」 「何がもういいの? 吉村君はあんなに苦しんだじゃない。それと同等の苦しみをこの女に味合わせるのが筋ってもんじゃないの?」 「もう誰も苦しまないで……」 それが米田さんに届いたのか、彼女は暴れるのを止めてくれた。 「僕のためなんかに苦しまないで……」 僕は誰に聞かせる訳でも無く、ポツリと言った。 中里さんの「ごめんなさい」の声だけが虚しくその場に残った。 「どうだった?」 開口一番、写真部の部屋の長椅子に腰を据えていた山田君は聞いてきた。 「……」 「って、聞くまでもないか……」 部屋は重苦しい空気が充満していた。犯人の正体を突き止める事が出来たのに、素直に喜べる状況じゃなかった。 「中里美咲が犯人だったわ」 そんな中、米田さんがポツリと思い出したように言った。でも、誰も言葉を発する者は居なかった。 部屋に置かれていた置時計の針だけが動いていた。 ただ、時間だけが刻々と過ぎていった。 「俺、帰るわ」 山田君はそう言うと鞄を引っ掴み早々と部屋から出て行った。 また沈黙が続いた。 ここに居ても仕方の無い気がして僕もそろそろ帰ろうかとした時、米田さんは僕にこんな事を聞いてきた。 「今、どんな感じ?」 「え?」 「なんだか心が壊れそうになったりしない?」 心が壊れる? 「体の中から何かが飛び出てくるような気配はしない?」 突然の意図が解らない質問に僕は困惑した。そればかりか米田さんの様子もおかしかった。 なぜか彼女は興奮していた。運動した後でもないのに息が上がっており、目は般若のように見開かれていた。 「ねえ、幻聴が聞こえたりしない? 頭、痛くない? 体、熱くない?」 「えっ?」 予測できない代わり映えに僕はうろたえるばかりだった。 「ねえ、ねえ、どうなの?」 「どうって……」 どうもしない、と言おうとしたその時だった。 「がっ」 彼女はいきなり僕にぶつかって来たのだ。軟弱な足はいともたやすく崩れ、僕と彼女の体はそのまま床に倒れこんだ。そして、上半身だけ起こした彼女はあろうことか僕の首を両手で掴み、そして、目一杯締め上げたのだった。 「ぐぅえっ」 彼女の長くてきめ細かい黒髪が僕の左頬に垂れた。 「アンタじゃない……」 「よ、よねだ、さん」 「アンタなんかじゃ……」 「は、はなし、て……」 僕はどちらかの片手を米田さんの手に置いた。 「はっ!」 思い出すように米田さんは僕の首を離し、僕の体から飛び退いた。一瞬の出来事はすぐに終わった。 「げほっげほっ」 「だ、大丈夫、吉村君!」 米田さんの手が恐る恐る僕の背中に触れようとした。突然どうしようもない恐怖が僕を襲った。この人は危険だ。僕の体にある防衛システムが反応した。 「さ、触るな!」 「!」 僕は最大限の声を振り絞った。それから先はまるでビデオの早送りのようだった。いつの間にか写真部の部屋から出ており、いつの間にか下駄箱まで来ており、いつの間にか靴を履き替えて校門まで辿り着いていた。 僕は頭の中が朦朧としていくのが解った。目の前の視界はぐにゃりと歪みとても見れた物では無かった。 「この世界は何処か狂っている」 僕の独り言に反応してか、前を通りがかった猫は野太い声で鳴いたのだった。 翌日。 僕の目はとうとう昨夜から一睡もすることも無く朝を迎えた。布団に入って眠気を待つのだが昨日の事が頭から離れず眠ることは愚か瞼を閉じることも困難だったのだ。 「学校どうしよう……」 行く気がしない。サボりたい。 その時、ベッド周辺に置いてある大量の目覚まし時計が一斉に鳴り響いた。 けたたましい音はまるで早く行けと言わんばかりだ。 「サボっちゃ駄目だよね……」 目覚まし時計に後押しされるように、僕はのろのろと制服に着替え、洗面所で顔を洗い、味もわからない食パンを食べる。そしていつもの灯台が見える通学路を歩いた。 授業はいつも通りに進む。皆と授業を受けていると僕に降り懸かったあの事件は幻だったんじゃないかと言う気さえしてくる。 でも、やっぱり幻なんかじゃない。その証拠に……。 「吉村、大丈夫か?」 彼、山田君は心配してくれるからだ。だから、決して昨日の事は幻なんかじゃなくて、僕の首の痛みも幻ではないと訴えていた。 「ごめん、山田君。一人にして……」 僕はそう言うと山田君の返答も聞かずに教室から廊下に出た。行きたい所なんて無かった。 ただ、一人になりたかった。 僕は今更ながら後悔していた。友達が欲しいなんて願わなければこんな事にはなっていなかったんじゃないか。友達なんて……。 ――友達なんて居ない方がいい。 その日の放課後、僕の願いは無事叶えられた。 僕の下駄箱の中。革靴の上に置いてあった一枚の写真によって。 第零章「勇気」 少女の両親が正式に離婚することに決まった。 そして少女は遠い母方の家に引っ越すことになった。 少女にとって、父と母が離婚するのは別に構わなかった。 彼等から愛を受けた例が無かったからだ。 愛なんて生まれてから持ち合わせてはいなかった。 一生知ることも無いと思っていた。 でも、与えてくれた人がいた。 少年だった。 愚直なまでに愛を与えてくれた。 少女に居場所を与えてくれた。 少女は信じてもいない神に願った。 勇気を下さい、と。 少年に思いを伝えられる勇気を。 ただ欲した。 第四章「真実」 最近、俺は学校から帰ると寄る所が出来た。金をやたらに使うゲームセンターじゃない。大人の遊びである賭博所でもない。ましてや女と人とゴニョゴニョするところでも決して無い。 病人や怪我人を最低二十人以上収容する事の出来る施設。 病院、に寄っている。 別段この体に異常がある訳ではない。もちろん心にも、だ。自分自身に病気が発祥していないのに病院なんて陰気な所に来なければならない理由。 それはお見舞いだ。 誰のかって? 野暮なこと聞くなよ。俺のオトモダチさ。 俺は受付のナースステーションに居る看護師さんに挨拶をしてからエレベーターで病院の最上階の一歩手前である六階に足を踏み入れた。 そして六〇二号室であるあいつの部屋を軽く二回ノックした。 返答は返ってくるはずも無く、俺もそれは分かっていたので直ぐに病室に入る。そして俺はベッドですやすや眠り続けているそいつに向かって一言言った。 「よう、元気か。吉村」 そいつ、吉村勇作は俺の声に反応して起き上がる素振りも見せずに眠り続けていた。 まるで一生目を開けることはないように。 まるで他者の存在を拒絶するように。 まるで……世界がこいつを仲間外れにするように。 俺はいつもの様にパイプ椅子に腰を下ろし読みかけの文庫本に目を通す。 せめて俺だけはこいつの事を忘れないようにしようと心で念じながら文体を目で辿った。 「一生目が覚めないかもしれない」 吉村の症状をクラス担任はそう言った。吉村が入院したのは怪我によるものではない。詳しいことは解らないが、精神に過度のストレスが掛かり過ぎてしまい一時的な冬眠状態になっているらしい。 明日には目を覚ますかもしれないし、死ぬまで目を開ける事は無いかもしれない。解決策の無い心の病気。 ――植物人間。世間一般ではそう呼ばれている。 「吉村君の帰りを皆で暖かく迎えよう」 と言っていたクラス担任。悲しさで涙を流す女子生徒。不慮の事態に戸惑いを隠せない男子生徒。 悲しさに暮れる心優しき二年四組のクラスがそこにはあった。 だが、それもほんの一時だ。砂漠の中で見えるほんの一瞬の蜃気楼に過ぎない。 人間は環境に順応する動物と呼ばれるがまったくのその通りで、一週間、二週間、そして初夏の匂い漂わせる六月に入るとクラスであいつの話をする奴は居なくなった。 まるで最初から居なかったかのように、吉村の存在は消されたのだった。 「精が出るわね」 スライド式の厚みのあるドアが開く音がして、その後から声が掛けられた。この時間帯に来る奴と言えば一人しか思い浮かばないので俺は読書を続けたまま返事を返す。 「お前もな。米田」 「あら、私は山田君のように毎日は来ていないわよ。週に二、三回よるだけ」 「ああ、そうだったな。ところで、今日は月曜日なのに何で来たんだ? いつもは来ない筈なのに」 俺は頁を読み進めながら聞いた。 「ああ……そうね、特別な日だからかしら」 「へー」 俺は気のない生返事をよこしたが米田は気に障る気配も見せずに窓際に歩いていき窓を開けた。夏特有の湿気が部屋まで入ってきた。 「山田君が部室に来てくれないせいで写真の現像が大変なんだけど」 「俺は部員になった覚えはない」 「そうだったかしら? 私はてっきり貴方達二人とも写真部に入ってくれているものかと思っていたのだけど」 「入部届けも書いていないのに?」 「写真部は非公式の部活だからそんな紙切れは必要ないのよ」 「あ、そ」 くだらないお喋りは数分続いた。米田は最近撮ったばかりの写真の話題をしていく。俺は適当な相槌を打ちながら耳を傾けた。 話に区切りがついた頃だろうか。俺は切り出した。 「まあ、今日お前が来てくれて俺も都合が良かった」 「……なんで?」 俺は読みかけの本にしおりを挟み、それを鞄の中に仕舞った。 「犯人がわかったんだ」 「え?」 「まあ、ある程度予測はついてたんだけど証拠を掴むのに手間取った」 「何言ってるの山田君? 犯人は中里美咲だったじゃ……」 「お前だ」 お前だよ、米田千尋。 女は暫し押し黙った。 「何か根拠はあるの?」 「あるさ」 俺は断言するように言った。そして鞄の中からある物を取り出した。 「それは……」 米田の息を呑む音が聞こえて来そうだった。俺の手にあるのは一枚のCDだ。 「これは事件当日に吉村が聞いていたあのCDさ」 「どうしてそんなものがあるの?」 「どうして……ねえ。俺がこれを手に入れた場所は写真部の部室にある机の引き出しだった。これが何を意味するのかわかるよな?」 「……」 「どうして、写真部の部室にこのCDがあったんだ?」 俺を推し測るような目で見つめた後、米田はおもいっきり溜め息をついた。まるで今にも「貴方は何も分かっていないのね」と言いそうな雰囲気だ。 「ふ〜〜ん。それはいつ頃手に入れたの?」 「お前と吉村が中里を呼び出した日だ」 「山田君は先に帰っていたじゃないの」 俺はニンマリと口を歪めた。 「実は文化棟一階の物置に隠れてたんだ。で、お前らが二人とも帰ったのを見計らって部屋に戻り部屋を隈なく詮索して、このCDが出て来た」 「そうなの。……それを見つけたのは中里美咲が犯人だと判明した後の話なのね?」 「? まあ、そうだが……」 「なら知らなくてもしょうがないわね」 「何のことだ?」 「中里美咲が犯人だと判明した後、そのCDは彼女本人から回収していたの。で、それを部室の引き出しに入れた。それを貴方が偶然見つけたに過ぎないのよ」 口から出任せがよく思いつく女だ。俺はこれを認める訳にはいかなかった。 「そんな筈はない」 ポーカーフェイスを俺は心がけた。表情に真実味を持たせるように。 「さっきCDを見つけたのはお前らが帰った後だと言った。でも、実はこのCDを発見したのはそれより前なんだよ」 「……!」 勿論、これははったりだ。だが、「前から発見していた」と嘘の供述を述べる事により、米田が先程言った「中里美咲と話した後、CDを机に入れた」と言う発言は効力を無くす。前から存在していたものが突然現れるなどありえないからだ。勿論、もしもCDを保管していた場所を何処か別の所に移し変えていたなら話は別だ。俺の出任せは出任せのままに終わり、発言は破綻する。 「……」 だが、米田は沈黙するばかりで何も俺に言ってこない。推察するなら、俺の咄嗟のはったりを女がはったりだと証明する物が何一つ無いからだろう。 だから、この空間に漂っている沈黙が意味するもの。 それは、前々からCDは机の引き出しに入っていたという事実だ。 「何処でこのCDを手に入れたんだ?」 俺は手に持っているCDをヒラヒラと振った。窓から射し込んでくる夕暮れの光がCDに反射して予測不能な光の軌道を描いていた。 それは、まるで俺たち三人の関係性のように思えた。 「言わないわ」 「……そうか」 期待していた訳じゃないが、ほんの少しだけ、少しだけ、俺は残念に思った。傍で横たわっている吉村のことを考えると、そう思えたんだ。 「まさかそのCDが写真部の机の引き出しに入っていたことだけで私が犯人だと言い張るつもり?」 「まさか、これだけで証拠になるとは思わないさ」 俺はそう言うと、次にボイスレコーダーを取り出した。 「……それは?」 「このボイスレコーダーには中里の声が録音してある」 俺はおもむろにボイスレコーダーのスイッチを押した。 『本当に誰にも言わない? 千尋に言うのは内緒だよ。計画を吐露しちゃったのがバレたら絶対怒るからね。実はね……』 ――私は犯人じゃないの。主犯は千尋なの。 『犯人じゃないって言うか、協力はしたんだけどね。吉村君は甘い物が好きじゃないってことと遅寝遅起ってことを、千尋に教えてあげたのも私だしね。まあ、いわゆる内通者って奴。ほら、千尋は情報技術の選択者じゃないじゃない。だから、パソコン教室で起こった情報が欲しかったらしいの。五分毎に逐一報告しなくちゃならなかったから嫌になっちゃったよ。で、暫くしたら吉村くんが倒れちゃうじゃない。「どうしたらいいの?」ってメールで送ったら「CDを絶対に回収して」って書かれてたからそのとおりにしたんだ。授業が終了してあの先生がCDを黒いケースに直して忘れ物ボックスに入れた。それを何食わぬ顔で鞄の中にしまったの。放課後、千尋にあのCDを返したわ。それから暫くしたら、また協力して欲しいって頼まれちゃってね。「今度は何?」って聞いたら「犯人になって欲しいの」って言われちゃってね。私は最初断ろうとしたんだよ。いくら千尋の頼みでも犯人なんてなるのは嫌だからね。でも、あのときの千尋は、何か、危機迫るものがあってね。放っておいたら危ないことしそうで……。まあ、それで嫌々ながら了承しちゃったの。でも、今は後悔してるの。だって吉村君の意識が戻らなくなるなんて思わなかったから、さ。本当、うん、ごめんね』 それからすすり泣く声が続き、俺はボイスレコーダーのスイッチを切った。 「これだけ聞いてもお前が犯人じゃないなんて言うのか?」 「……」 「事件があった日、五時間目の情報技術の時間、お前は吉村がパソコン教室に向かうとき遠回りする道程を使うことをあらかじめ調べていた。お前は吉村の後からCD発見現場に着いたと言っていたが、それは嘘だな。お前は吉村が来るのをずっと待っていたんだ。渡り廊下を通った先にある女子トイレでな。吉村が渡り廊下を通ろうとした時、お前は辺りに人影が居ないのを確認してからCDを女子トイレの入り口付近から発見現場に滑らすように投げたんだ。そして、お前は女子トイレに隠れる。吉村が女子トイレを通り過ぎてからお前は女子トイレから出て来て後をつけた。吉村が拾ったのなら計画を実行して、拾わなかったのならすぐにCD回収する予定だったんだろう。当初、お前は吉村に声を掛けようとはしなかった筈だ。変に声を掛けたら疑いを掛けられるかもしれないからな。でも、声を掛けなければならないアクシデントが発生した。吉村がCDを踏んでしまったためだ。中身の損傷が気になったお前は吉村に声を掛けた。そして自分が落としたCDだと不意に嘘を吐いたんだ。そう言えば怪しまれずにCDの中身が損傷していないか確認出来る。損傷していればそのまま持ち去ればいいからな。幸い、CDはケースだけ傷ついただけだった。実行できると踏んだお前はCDを吉村に返した。その後は、中里にパソコン教室での状況を随時連絡してもらい、最後に中里からCDを回収してもらったと言うわけだ」 俺はそこまで言い終わると米田の様子を盗み見た。米田は開けっ放しになっている窓際に体を預け必死に何かを考えているようだった。 「お前が犯人なんだろ?」 俺は容赦の無い言葉で追撃した。すると……。 「私は犯人じゃないわ。まあ、少し協力しただけよ。ある人に頼まれてね」 手のひらを返すように喋り出した。 「たしかにあのCDをあの場に置いたのは私よ。中里美咲に回収するように指示したのも私。 犯人をあの子に仕立て上げたのも私。でもね、CDの製作者は別にいるの」 「へえ、誰なんだ?」 「それは教えない」 こいつが男なら絶対に殴っているところだろう。しかし、俺は紳士だ。女は殴らない。だから、往生際の悪い女に証拠を突きつけることにした。鞄の中からノートパソコンを取り出す。 「なんでノートパソコンなんか……」 「これがお前が犯人だと言える決定的な証拠だ」 俺はCDをドライブの中に入れ、「真実」と言う名のファイルを再生させた。 『オレの名前は吉村勇作。お前の、体の、本当の持ち主だ』 吉村の声が室内に流れてくる。 「それが何の証拠になるって言うの? 吉村君の声が流れてるだけじゃない」 「俺の兄貴さ、音の編集の仕事をしてるんだ」 「?」 急に話題を変えた俺を不審そうな目で見つめる米田。 「あいつが言うには、編集した音声って不必要なノイズを全て切り取ったら元の声に戻るらしいんだ。半信半疑ながら専用のソフトを使って音のノイズ切り取ってみて出来た声が、これだ」 『オレの名前は吉村勇作。お前の、体の、本当の持ち主だ』 「!」 先程、吉村の声が聞こえたはずのパソコンから今度は米田の声が流れ出た。 「これを聞いても、お前は犯人じゃないと言い張るつもりか?」 「……」 「証拠ならまだある」 米田はさらに驚いた顔をした。 「俺、偶然見たんだよ。お前が吉村の下駄箱に一枚の写真を入れているのをさ」 「デタラメ言わないで! 私が写真を入れたのは体育の授業が終わってから……」 「そうだったんだ」 女は犯行を自分で吐露した。 「はめたわね……」 米田はこちらを睨んできた。もしも、目で人が殺せるのならば俺は間違いなく瞬殺されていただろう。それほどまでの目力だった。 「犯人はお前だよ。米田千尋」 俺はその目に怯むことなく言い放った。暫くすると、米田はこちらを睨むのをやめた。 そして、下を見ながら、 「――そうね。私が犯人よ」 やっと、認めた。 「何で吉村君の下駄箱に入れたのが写真だってわかったの?」 「さあ、なんとなくだ。吉村が下駄箱で倒れたとき、第一発見者がお前だったからな。写真ならすぐにもみ消せると思っただけだ」 そんなことより俺は米田がこの事件を計画した動機が知りたかった。 「お前、自分がなにしたのかわかってるのか?」 「ええ。一人の男子生徒を意識不明の重態に陥れた」 「何でそんなことを……」 米田は俺の声を無視して質問してきた。 「いつ頃私を犯人じゃないかと思ったの?」 「最初からだ。お前しか犯人はいないと踏んでいた」 「じゃあ、貴方が犯罪心理学なんて持ち出したときも私の反応を窺っていただけなのね」 「ああ、適当な話を持ち出して演技をしただけだ」 米田は顔を弛緩させながら「とんだ探偵さんね」と言って俺の向かい側にあるパイプ椅子に座った。 「まあ、計画は達成したし、今更ばれてもいいんだけどね……」 「なあ、どうしてなんだ? 何でこんな事したんだ? お前の動機は何なんだ?」 「動機、ね……」 一呼吸してから米田は話し出した。 「あれは雨の日だったかしら……」 第零章「雨」 雨が降っていた。 雲泥の空が決して弱くはない雨を降らせていた。 学校帰りに寄るいつもの場所。 夕日が奇麗に見える灯台の下。 いつも寄る所。 今日、最初に着いたのは少女の方だ。 少年はまだ来ない。 少女は気分が昂揚していた。 秘めていた気持ちを抑えきることがもう出来なくなっていた。 そう、つまりは。 少女は少年が好きになったのだ。 この思いに気付いたのはつい最近だ。 四六時中考えた末に少女は少年に告白することにしたのだ。 もっと少年のことを知りたい。 もっと少年の笑顔を見ていたい。 もっと、もっと。 少年を好きになりたい。 そう考えると体中の血液が頬に集まってくるようだった。 しかし、興奮している気分とは裏腹に悲しさが零れ落ちそうだった。 少年とは会えなくなってしまうからだ。 二度と会えない訳ではないが、おそらく二、三年は会う事が難しくなるだろう。 だからこその告白だった。 忘れないための儀式。 心に刻み込む思い出がどうしても欲しかったのだ。 水溜りの弾ける音が聞こえた。 傘を差す手が震える。 「――ちゃん。お待たせ」 少年が来た。 ――遅いよ。 少女は大して怒っていなかったが少年を困らせるためにそっぽを向いた。 「ごめん。ちょっと学校で用事があったんだ」 用事ならば仕方が無い。 少女は少年を許すことにした。 「雨が強いね……」 ――うん。 雨は益々勢いを増していく。 そういえば、今日の夜ごろ台風が上陸するらしかった。 学校帰りに先生が早く帰宅するように注意していた。 傘に落ちてくる雨音は隣に居る少年の声さえ聞き取るのもやっとのほどだ。 少女は意を決して、普段以上に声を張り上げた。 ――今日は大事な話があるの。 「大事な話?」 ――ちゃんと聞いて欲しいの。 少年は最初、意表をつかれた顔をしたが一回コクリと頷いてくれた。 少女は暫しの間沈黙した。 その時間はたった十秒程だ。 しかし、少女には永遠とも思える長い時間だった。 そして、少女は手を強く握り締め、 ――私は……私は貴方が好きです。 自分の思いを言った。 少女は思いを言うことが出来た。 「えっ……」 激しかった雨がさらに強くなる。 「オレは……」 少年は意を決して言った。 少女の信じられないことを。 「オレは歩君が好きなんだ」 アユムクンガ、スキ? それから少年は顔を真っ赤にしながら嬉しそうに語りだした。 最近、少年と仲良くしている男の子の話を。 歩君がイジメられていた少年を守ってくれたこと。 歩君が少年と遊んでくれたこと。 歩君が家に誘ってくれたこと。 歩君が歩君が歩君が。 今日、この場所に遅れてきたのも歩君と話していたからと少年は言った。 少女の知らない少年がそこには居た。 「――ちゃん。だから、オレは……」 少女は手を耳に押し付けた。 その先は聞きたくなかった。 少女の心に黒くて嫌なモノが入り込んでくる。 少女の顔が涙で歪む。 「夢」を聞かせてくれた少年。 「居場所」を与えてくれた少年。 「勇気」を出させてくれた少年。 そんな少年はもう何処にも居ない。 信じていた少年は何処にも……。 少女は傘をかなぐり捨て灯台のすぐ側にある防波堤に走った。 雨はさらに酷くなり海の方を見ると波打っていた。 しかし、少女にはどうでもよかった。 「――ちゃん。千尋ちゃん!」 少女は防波堤の先端で止まった。 あと一歩足を踏み出せば荒れ狂う海に落ちてしまうだろう。 確実に無事では済まなくなる。 そして、少女は卑怯な手を使った。 ――私を好きだって言ってよ。 「えっ?」 ――そうすれば飛び降りないから。 「そ、それは……」 ――嘘でもいいから言ってよ! 少年はどうしていいか分からない様子だった。 ――さよなら、だね。 少女は笑顔でそう言い、海を見た。 一瞬躊躇したが、次の瞬間には足を一歩出していた。 重力がゆっくりと働き、吸い込まれるように海の中へ落ちていく。 しかし、少女の体は止まっていた。 気がついたら隣に少年が居た。 少年は笑っていた。 その笑顔は初めて会ったものと同じものだった。 少女を安心させる笑顔だった。 その笑顔のまま少年は海へと落ちていった。 ゆっくりとゆっくりと。 笑顔を絶えす事のなく。 落ちていった。 少女の代わりに落ちていった。 ――嘘でしょ……。 「勇君……」 少女の体は雨に打ち拉がれて冷たくなっているのに、少年に引っ張られた左腕だけ痛かった。 第五章「真実」 「つまり、お前が自殺的行為を行ってせいで吉村はお前を助ける羽目になり結果的に海に落ちたのは吉村だった、と?」 「そうよ。そして、勇君は偶然その様子を見ていた漁師の人に助けられたの」 米田は視線を眠っている吉村に向けた。 「海水を沢山飲んでたけど命に別状は無く、意識はすぐに回復したわ。それから数日後、入院中の勇君に別れる前の最後の挨拶に言ったの。助けてくれたお礼と自分の愚かな行為に対する謝罪を言いにね……」 「……」 「でも、それは出来なかったわ」 「何故?」 俺は女の答えを予想できたが聞いてみることにした。 「勇君の記憶が無くなっていたからよ」 記憶喪失、か。 「あの事故で頭を強打したらしいの。記憶を失っていた勇君は勇君じゃなかった。私が好きだった勇君はそこには居なかったのよ」 「つまり、お前が今回の事件を起こした動機は吉村を元に戻したかったためなんだな」 「……ええ」 米田は病室の真っ白い天井を仰ぎ見た。 「私の事を……。私と過ごしたあの時間を……思い出して欲しかったのよ」 「なら、あんなCD作らずとも言葉にして直接言ってやればよかったじゃないか」 「言える訳ないじゃない!」 米田は突然金切り声を上げた。 「記憶を失わせた張本人がその記憶を思い出して欲しいなんて言える? あまりにも身勝手すぎるじゃない。あまりにも図々しすぎるじゃない……」 俺は沸々と湧き上がっていた感情を押さえきることが出来なくなった。 「そこまでの責任感を感じているなら、初めからあんなCD作るなよ! 自分の我侭で人を巻き込むなよ!」 負けじと米田は声を張り上げた。 「私だって本当はやりたくなかったわよ! でも、限界なの。もう無理なのよ。山田君は人を本気で好きになったことってある? 人のことを愛しいと思ったことってある? 私はあるわよ。人を本気で好きになった。その人のことをもっと知りたいと思った。もっと、もっとね。 でも、報われなかった。その人は同性愛者だから。異性には興味がないの。その人を好きだと思う感情がいくら強くても結局は報われないの。だから……」 米田は吉村をうっとりとした恍惚な表情を浮かべながら信じられないことを言った。 「勇君には私と過ごしたあの時を思い出してもらう。そして、同性愛者ってことだけは忘れてもらう」 なんて自分勝手なんだろう。吉村は人形じゃないのに。 「そんなこと出来る訳ないだろう!」 「出来ないじゃなくやるの。勇君にはもう一度記憶を失ってもらって一からやり直すのよ」 悪魔か何かが乗り移った女に俺は冷徹で革新的な一言を言った。 「もしも、目覚めなかったらどうするんだ?」 「……目覚めない?」 「一生目が覚めないかもしれないんだぞ!」 女は意味が理解できなかったのか、ブツブツと「目覚めない」を反芻し始めた。 「……そんな訳無いじゃない。そんな訳……」 か細い声が聞こえた。米田の顔がどんどん青ざめる。 「目が覚めないなんて有り得ない。そんなの計画の内に入ってない」 米田はいきなり座っていたパイプ椅子から体を離し、吉村が眠っているベッドに飛び込んだ。そして、吉村の頬を両手で包み込んだ。 「ねえ、勇君、起きてよ。いつまで寝てるの? 勇君は将来写真家になるんだよね? こんな所で足踏みしてちゃ駄目だよ。塞ぎ込んでいた私に話しかけてくれたのは誰? 臆病な私に勇気をくれたのは誰? 全部勇君だよ」 吉村の顔に水滴が一つ二つ落ちていく。 「勇君のお陰で私にも夢を持つことが出来たの。何だと思う? 勇君と同じ写真家だよ。勇君と一緒に色んな場所を撮りたいな。そうだ、二人で世界を見て回ろうよ。きっと楽しいよ。こんなに世界は楽しいの。だから……だから、ね……」 米田の姿はか弱い女の子だった。 「勇君、目を開けてよ。もう一人にしないで」 俺は泣き崩れる米田に何の言葉も掛けてやれなかった。 「ねえ、山田君……」 「む?」 女は急に俺に話を振ってきた。 「勇君は目を覚ますよね?」 「……」 「答えてよ」 「植物人間になった人間がまた意識を取り戻す可能性は限りなくゼロに近いらしい」 「そう……」 米田はそう言うと吉村の頬から手を離しドアへと向かって行った。 「何処に行くんだ?」 俺は問いかけずにはいられなかった。何か危険な匂いを感じたからだ。 「思い出の場所、かな」 ――あ、あと……。 「罪滅ぼしをするわ」 そう言うと米田は病室から出て行った。その後姿は可憐な少女とは呼べないほど弱弱しいものだった。 俺は米田が何処に行くのかまったく解らなかった。 外を見てみると何時の間にか雨が降っていた。 そういえば今日の夕方辺りから台風がこの町に上陸すると、テレビのニュースキャスターが言っていたのを思い出す。 「台風」 俺は何となくその単語を口にした。 「思い出の場所。罪滅ぼし」 次に米田が去り際、呟いていた言葉を口にした。 そして俺は気付いた。 今頃気付いた。 米田が何処に行ったかわかったのだ。 すぐに俺は病院から走り出た。途中、看護師さんから注意を受けたが、そんなものしったこっちゃない。 急ぐ理由があった。急がなければならなかった。 何故なら、米田は、米田千尋は……。 「死ぬつもりだ」 俺は灯台を目指した。 そこは狭間の世界……。 音も無く、光も無く、何も無い世界。 暗くて、寒くて、形あるものが無い世界。 ――そんな世界にボクはいた。 ひとりぽつんと、闇の場所に、たった一人で、いた。 「ひとりじゃないさ」 内側から声が聞こえる。この場所では音なんて聞こえないのに。 「音じゃない。これはオレの意思だ。そしてオレはオレだ」 ……ああ。 「オレは記憶を失う前のお前だ」 そうか。君はボクなんだ。 「そんなことより……お前、外の世界を見たくないか?」 その場所には外の世界を見れる穴があった。 「この穴で見ているだけでいい」 ボクは怯えながらも穴がある場所へと来た。 穴を覗き見ると、明るい世界の一部が映し出される。 通学途中で友人と馬鹿やっている者。 食事の席で家族と談笑している者。 幸福な顔で心地よさそうに寝ている者。 「これらの光景が外の世界には一杯あるんだ」 楽しそうで、眩しくて、精一杯生きている者たち……。 ボクも、ボクもその場所に行きたい。 ボクもその場所で人の優しさに触れてみたい。 「だろ? だったら……」 ……でも。 「何だ?」 外の世界は良いことだけがある訳じゃない。悲しいことや傷つくことの方が多い。 「……たしかにそうだ」 だから……ボクは……。 「今、千尋ちゃんが命を捨てようとしている」 米田さんが! 「オレ達にとって千尋ちゃんは何だ?」 ボク等にとって……米田さんは……。 「友達」 友達。 「だったら何をするかわかるよな?」 ボクは……。 ――手を伸ばした。 届かないとわかっていても、叶わないと知っていても……。 手を伸ばして光に触れてみたかった。 だから……ボクは……。 ボクの世界を両手一杯に広げたんだ。 僕は意識を取り戻した。そして思い出の場所へと向かった。 俺は自慢じゃないが後悔なんて一度もしたことが無い人間だった。失敗しても、それは次のステップに行くための過程で恥ずべきものではないと親から教わった。幼少期からずっと言い聞かされて来たので、それが当たり前の考え方になっていた。その考え方は、現在土砂降りの中、必死こいて走っている段階でも変わらない。これから一生変わることもないだろう。 考え方は変わらない。でも、俺は生まれて初めて後悔した。 「灯台の場所聞いとけばよかった……」 灯台の場所がわかなかった。 いや、厳密に言えば場所はわかる。行った事もある。 でも、三つある内のどの灯台なのか分からなかったのだ。 この海沿いの面した町には灯台が三つある。一番古い桶三埼灯台と俺の学校からの通学路に見える先駆灯台。そして、一番サイズがでかい高浜灯台。 米田はこれらの内どれかに向かっている、筈だ。たぶん。 俺は自分の持っている記憶の引き出しを開けた。 たしか……。 桶三埼灯台には兄と妹との禁断の恋の話がある。 先駆灯台にはこの町の偉人の記念碑がある。 高浜灯台には近くに「大輪丸」と言う名の船がある。 各灯台にはこれらの名所が存在したはずだ。 この中で米田達が行っていた思い出の場所がある筈だ。 考えろ。そして導き出せ。 米田の今までの行動を考えろ。 あいつは何故吉村にCDを渡した? それは、吉村に失った記憶を思い出して欲しかったからだ。 あいつは何故写真部なんて創った? それは、吉村が幼い頃写真家になりたいと言っていたからじゃないのか。 あいつは何故自分が犯人だと名乗らなかった? それは、吉村に嫌われたくなかったからだ。 あいつの行動心理は全て吉村に関係している。 つまり、そこにヒントがあるはずだ。 あいつが吉村にやって来たことは全て昔のことに関係している。 なら、灯台がある思い出の場所も伝えたはず。そう仮定するなら……。 「!」 そして、俺は答えを導き出した。 吉村と米田の思い出の場所を。 僕は千尋ちゃんとの思い出の場所。 ――桶三埼灯台に到着した。 全ての記憶を思い出した僕は病院からこの灯台の場所まで最短で来れる道を使うことが出来た。おかげで寝巻きは土でぐちょぐちょ。顔は枝先によって切れていた。僕の体を見れば近道がどれほど荒れているか分かると言う物だ。 でも、到着できた。そして間に合うことが出来た。 千尋ちゃんはまだ生きていた。防波堤の先端に立っていた。 雨はさらに激しさを増していく。 僕は声を掛けようか迷った。声を掛けたら飛び込んでしまうかもしれないからだ。それならいっそのこと気付かれずに忍び込んで無理矢理にでも止めた方が安全だと思った。 でも、僕はそれをしてはいけない気がした。 話さなければ千尋ちゃんが抱えている問題は何一つ解決しないと思えた。 「……千尋ちゃん」 千尋ちゃんはゆっくりとこちらを振り返ってきた。 その顔は青白く生気の無い物だった。何も知らない人が見たら幽霊だと錯覚してしまうほど顔色が尋常じゃなかった。 「思い出したんだね……」 千尋ちゃんの声は激しい雨音の中なのにしっかりと聞き取ることが出来た。 「さっき起きたんだ。そして、全部を思い出した」 「……そう」 千尋ちゃんの声は妙に落ち着いていた。 僕は出来るだけ千尋ちゃんを刺激しないようにゆっくりと足を千尋ちゃんの方へ移動させる。 ゆっくりゆっくり……。 友達を救うんだ。 「千尋ちゃん、落ち着いて。僕は怒っていないよ。むしろあのCDを作ってくれて感謝しているだ」 「感謝?」 訳が分からないと言った顔で千尋ちゃんは僕を見た。 「そうだよ。千尋ちゃんは僕の記憶を思い出させてくれたんだ。大切な思い出を思い出すことが出来たんだよ」 「私は……」 千尋ちゃんは下を向きながら懺悔するように本心を語った。 「勇君に酷いことをした。私は勇君の心をあのCDで壊そうとしたのよ。私は勇君に私の事を好きになって欲しかった。だから勇君の『同性愛者』の部分を取り除こうとしたの。自分の我侭で勇君を一方的に傷つけた。最低な女よ」 「違うよ。千尋ちゃん」 僕は優しく語り掛けるように声を出した。 「千尋ちゃんは何も悪くない。僕はね、僕のために記憶を思い出させてくれた千尋ちゃんがすごく愛おしいよ。だから、千尋ちゃんのやったことを僕は……」 これが僕の本心だった。 「許すよ」 僕は彼女を許したかった。許すべきだと思った。 千尋ちゃんは顔を下に向けながら叫んだ。 「なら!」 ――私のこと好きになって。 千尋ちゃんはあの時と同じ事を言った。 「許してくれるなら、私のこと好きになってよ」 僕は困惑した。でも迷ったのは一瞬だ。すぐに結論は出た。 「それはできない」 「何で? どうして?」 「だって僕らは大切な友達だからだ」 「!」 「違うかい?」 「……」 「僕は自分を否定してまで千尋ちゃんと付き合う気は無い。だってそれは本当の恋じゃないもの。千尋ちゃんが納得するはずが無い」 僕はきっぱりと言った。これは重要なことなのだ。僕にとっても、千尋ちゃんにとっても。 ここだけは妥協してはいけない。 「僕たちは友達だ」 「……」 「大切な、大切な友達なんだ」 「フフフッ」 千尋ちゃんは昔のように笑ってくれた。その笑みはあの時の優しい彼女のものだった。僕にだけ時折見せてくれる無邪気な笑顔。 僕の思いは通じたと思った。 でも……。 「友達なんて嫌よ……」 千尋ちゃんは僕を悲しそうな目で見つめた。 そして、僕に背中を見せた。 飛び降りる気だ。 あの時と同じように僕は全速力で体を動かした。 そして、あの時と同じように千尋ちゃんの腕を掴んだ。 千尋ちゃんの代わりに僕の足が海へと向かう。 断末魔のような叫びが後ろから聞こえた。 走馬灯のような感覚が僕の体を包んだ。 そして落ちて行った。 これでよかったのかもしれないと僕は人知れず思った。千尋ちゃんが苦しんだ元凶の僕が居なくなれば問題は解決する。だから、これでいいと思えた。 大切な友達を救えたのだから。これでいい……。 「っ」 僕の体は止まっていた。そして、次に燃えるような痛みが腕にくる。 痛いと言おうとした瞬間、僕の体は海ではなく防波堤へと引き戻された。 何かの超能力が働いたかと思ったが、そうではない。 「待たせたな」 彼だ。山田耕平がそこに立っていた。 気配はしなかった。僕と千尋ちゃん以外この防波堤付近には人は居なかったのに……。 彼は悠然と存在していた。そして自信満々にこう言った。 「最初に会ったときに言っただろ。俺は気配を消すのが上手いんだ」 そして、彼は大きな声で笑った。その笑い方はこの天気には不釣合いでなんとも間抜けな構図だった。知らない人が見たら確実に変質者だと思われるだろう。いや、僕の目から見ても彼は変な人だ。 しかし、僕の口は上につり上がった。 それと同時に目の奥から暖かいものが溜まっていくのが感じられた。 「は、ははは」 そして、何故だか僕も彼に釣られて笑ってしまった。 面白くて、可笑しくて、嬉しくて、二人そろって馬鹿笑いをした。 そして、僕たちの笑い声が天高くまで響いたのか、太陽が暗雲の隙間から出て来た。雲の切れ目から光が溢れ出し、幻想的な光景を映し出していた。 ――カシャリッ。 写真が撮られる音が聞こえた。音源を辿ってみると千尋ちゃんが僕らの姿を撮っていた。そして、一眼レフのカメラから顔を離した彼女の表情は本来の彼女のものだった。 暖かくて、見る者を幸せにする……。 昔の彼女の笑顔がそこにはあった。 第六章「変わらないモノ、変わる者」 僕の退院を兼ねて、今日は大事な撮影会が催された。 秋の代名詞とも呼べる紅葉をバックに僕たち写真部の写真撮影が開かれるのだ。この企画は前々から実行に移そうとしていたもので、僕が退院する今日、やっと実現するものだった。 僕は一番見栄えがいい紅葉を探していた。大事な写真だから念入りに紅葉の色を観察した。 不意に、僕はベンチで座っている千尋ちゃんと山田君の姿を見る。彼らと僕の距離はぎりぎり声が聞き取れるぐらいだ。若干、話の内容が気になったので僕は聞き耳を立ててみることにした。 千尋ちゃんは山田君に何か質問していた。 「なんで、あの場所がわかったの?」 あの場所とは何処だろう? 彼は言うのが憚られるのか恥ずかしそうにそっぽを向きながらこう言った。 「あのCDの名前だよ」 千尋ちゃんは合点が言ったような顔をしたが僕には全然意味が解らなかった。 「勇君、まだいい所は見つからないの?」 「吉村、早くしないと日が暮れちまうぞ」 まったく人の気も知らないで、随分と勝手なことを言ってくれる。僕は抗議の声を二人に掛けようとしたが出なかった。 「あった」 代わりに独り言がポロリとこぼれ出た。 千尋ちゃんと山田君の座っているベンチの後ろにそれはあった。 見事なカエデの木だった。 「ねえ知ってる?」 撮影準備が出来てセルフタイマーを押した千尋ちゃんが僕等に向けてこんな質問をしてきた。 「カエデの花言葉が何なのか?」 僕と山田君は顔を見合わせたが答えを持ち合わせてはいなかった。だから首を横に振る。 「一つは撮影場所って言うの。今の状況にぴったりよね。で、もう一つが……」 ――約束。 千尋ちゃんの声と同時にシャッターが下ろされた。 僕ら三人が写った写真はいまも写真部の部室に飾られている。 終わり |
南 洸助
2011年02月02日(水) 05時01分49秒 公開 ■この作品の著作権は南 洸助さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.2 南 洸助 評価:--点 ■2011-02-07 18:06 ID:L/GJWK.WzFg | |||||
としお様。 返信が遅くなってすみません。 貴重なご感想頂きありがとうございます。そして、面白かったと書いてくれて本当に嬉しく思います。 >話が一本筋で分かりやすかっただけに、ミステリーとしては弱いかな……(零章があるせいで、 途中で犯人わかっちゃいましたし) そうですね。ミステリーとして見て、ミステリーになりきっていないと僕自身感じています。全体の話の流れや次の展開の構想を優先して作ってしまい、ミステリーで最も重要な”謎”が表現出来ずじまいでした。零章を入れた理由としてはどうしても吉村と米田の過去の話をいれたかったからです。ですが、もっと上手く彼らの過去の話を取り入れることが出来たんじゃないかと今更ながら思います。すみません、完璧に僕の実力不足です。 >この主人公が、同性愛者≠ニして書かれていない。 としおさんのご指摘どおり書かれていません。そもそも”同性愛者”を取り入れてみようと思った理由としては「主人公に特別な設定を入れてみたい」という浅はかな思いからでした。 そして、いざ吉村が山田を“異性”として意識している場面を書こうと思ったら……か、書けないのです。いや、書いたのですが恐ろしいくらいに気持ち悪い会話文になってしまって……。いや、現実の同性愛者の人が気持ち悪いという意味では決して無くて、僕が作った文章が客観的に見ても気持ち悪いとしか表現出来ない代物だったのです。 主人公が”同性愛者”という設定をなくしてしまったらこの話自体が駄目になってしまうので、考え抜いた末、吉村は山田を”友達”として見ている、ということにしたのです。 すごいこじつけで申し訳ないです。 >ただ、エンディングも爽やかで良かったです。 本当ですか! とても嬉しく思います。僕としてはもっとエンディングはもっと凝りたかったんですけど完成させたいと思う気持ちが強くて、第六章はちょっとあっさりし過ぎたなと反省しています。 最後にこんなにもダラダラと長い話を読んでくれて本当に光栄に思います。 としお様のご感想はとても勉強になり、これからの小説作りにも役立たせたいと思います。 これからもどうぞよろしくお願いします。 |
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No.1 としお 評価:30点 ■2011-02-07 15:10 ID:kWriX7DAQx. | |||||
読ませていただきました。 まず、読後の感想ですが、面白かったです。 私は基本、50k以上の長文は読んでいてダレるのですが、この作品は最後までするすると読めました、何より、あなたの文は非常に要点を突いて書かれているので、読んでいて話の筋が混乱せず、実にさらっと読めました。 また、吉村と山田の視点変更の二点でおおよそ構成されていますが、吉村と山田のキャラ分けがきちんとされていて、混乱無く読み進められました。 正直なところ、40点をつけるか迷いました。 ただ、話が一本筋で分かりやすかっただけに、ミステリーとしては弱いかな……(零章があるせいで、途中で犯人わかっちゃいましたし) あと、キャラの設定で一点、どうしてもここは微妙かな? と思ったとこがあったので、そこも。 そこは全体の柱である主人公が同性愛者である≠ニゆう点。ここにやや難点があります。 いえ、『同性愛者云々』とゆう設定が悪いわけではなく、この主人公が、同性愛者≠ニして書かれていない。とゆう事です。 基本、私達人間は大抵、異性にある程度の壁を抱いて接しています。それは、『性』がからんでくるからであり、それだからこそ、異性に対してやや、ぎこちない対応になるわけで……。それが、同性愛者の場合どうでしょう? 当然、同性に対して、やや、微妙な空気とゆうか、距離感になるのでは、と思うのです。 主人公の吉村は、男性一般に対してその様な感覚を持つはずでは無いでしょうか? しかし、彼は激しい人見知りでありながら、偶然現れた山田に対し、何の抵抗も無く=Aいわゆる同性的≠ノ接しています。つまり、性の対象と見ていないなぁ〜と。私がもし、この様な場合を想定すれば、同性愛者の吉村は、山田にかなりの意識≠抱くとゆうのは考えずにはいられないことで、そこをさらっとスルーしているのは、ちょっと『設定だけだったなぁ……』とちょっと残念に思いました。ここをもうちょっと掘り下げてきちんと話に統合してくれれば、『おおっ!』とゆう感じも有ったんですけど。 ただ、エンディングも爽やかで良かったです。 米田が写真部にこだわっていた理由とかも、いいなぁ……みたいな。 最初でここまで書けるなんて、正直、超グレートだと思います。 これからも、面白い小説を書いてください。 それでは。 |
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総レス数 2 合計 30点 |
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