ため息をつきながら社員が、私のところ、屋上にやってきて言った。「年度末、忙しいのはわかっている。だけど、――」 ……仕事でも増えたか。ベンチであくびをしながら聞いてやる。見飽きた夜景を綺麗などと思うことはない。見上げたところで、星空は見えない。遠くでサイレンの音がなっている。日常茶飯事だ。「皆忙しいなか、こんなことを言えるのはお前しかいないんだってどの口が言う?」 ……サービス残業の命令でもくらったか。「スチームバンクさえ実現していれば、こんなことにはならなかったんだがな」 スチームバンク? 専門用語?「社運がかかっているって何回聞いたっけ」 何事にも社運がかかるだろうよ。何もしないならリスクもないだろう。「お前の手でも借りたいところだ」 この私の、猫の前足など借りてどうするつもりかね?「増税ってなんだ? 残業ってなんだ?」 生活でも苦しいか? 人間というものは、仕事がすべてなようだ。たまには自分をいたわってやれ。この私のように。「特別な業務って……」 そろそろ昇進とか、結婚とか――どうやらないらしいな。「正社員ですらないってのに、帰れないんだから」 そりゃ辛いな。「お前にはわからないか」 この会社をブラックにしたのは、私の飼い主かもしれないが、諦めんな――ニャーと声をあげたところで激励にもなりはしない。この国はちょっと不景気かもしれないが、私もお前が稼がないと飯にはありつけないかもしれないからな。社畜よ、本当に疲れたやめてもいいんだぜ。 屋上を後にする社員にもう一度ニャーとないてやった。----------------------------------------------------------------------------●基本ルール以下のお題や縛りに沿って小説を書いてください。なお、「任意」とついているお題等については、余力があれば挑戦してみていただければ。きっちり全部使った勇者には、尊敬の視線が注がれます。たぶん。▲お題:「スチームバンク」「猫」「帰れないんだから」▲任意お題:なし▲表現文章テーマ:なし▲縛り:なし▲投稿締切:2/1(日)23:59まで ▲文字数制限:6000字以内程度▲執筆目標時間:60分以内を目安(プロットを立てたり構想を練ったりする時間は含みません) しかし、多少の逸脱はご愛嬌。とくに罰ゲーム等はありませんので、制限オーバーした場合は、その旨を作品の末尾にでも添え書きしていただければ充分です。●その他の注意事項・楽しく書きましょう。楽しく読みましょう。(最重要)・お題はそのままの形で本文中に使用してください。・感想書きは義務ではありませんが、参加された方は、遅くなってもいいので、できるだけお願いしますね。参加されない方の感想も、もちろん大歓迎です。・性的描写やシモネタ、猟奇描写などの禁止事項は特にありませんが、極端な場合は冒頭かタイトルの脇に「R18」などと添え書きしていただければ幸いです。・飛び入り大歓迎です! 一回参加したら毎週参加しないと……なんていうことはありませんので、どなた様でもぜひお気軽にご参加くださいませ。●ミーティング 毎週日曜日の21時ごろより、チャットルームの片隅をお借りして、次週のお題等を決めるミーティングを行っています。ご質問、ルール等についてのご要望もそちらで承ります。 ミーティングに参加したからといって、絶対に投稿しないといけないわけではありません。逆に、ミーティングに参加しなかったら投稿できないというわけでもありません。しかし、お題を提案する人は多いほうが楽しいですから、ぜひお気軽にご参加くださいませ。●旧・即興三語小説会場跡地 http://novelspace.bbs.fc2.com/ TCが閉鎖されていた間、ラトリーさまが用意してくださった掲示板をお借りして開催されていました。--------------------------------------------------------------------------------○過去にあった縛り・登場人物(三十代女性、子ども、消防士、一方の性別のみ、動物、同性愛者など)・舞台(季節、月面都市など)・ジャンル(SF、ファンタジー、ホラーなど)・状況・場面(キスシーンを入れる、空中のシーンを入れる、バッドエンドにするなど)・小道具(同じ小道具を三回使用、火の粉を演出に使う、料理のレシピを盛り込むなど)・文章表現・技法(オノマトペを複数回使用、色彩表現を複数回描写、過去形禁止、セリフ禁止、冒頭や末尾の文を指定、ミスリードを誘う、句読点・括弧以外の記号使用禁止など)・その他(文芸作品などの引用をする、自分が過去に書いた作品の続編など)
「号外! 号外!」 少年たちが声を張り上げ鐘を鳴らしながら、もうもうと黒煙を吐き続けるお化け煙突が名所となっているスチームバンクシティのメインストリートを駆け歩き、刷り上ったばかりの号外新聞を売る。「坊主。その号外をくれ」「おれにもくれ。いくらだ?」 道行く人が呼びとめ、号外を求める。「二シリンダー四ギアです」 少年はそう言って渡す。「売らなければ、帰れないんだから」 それが彼らの合言葉である。 号外は瞬く間に売れた。「ヨシュア。売れた?」 片目が白く濁っている少年が最後の一部を売りさばいた亜麻色の髪をした少年に声をかけた。「こっちも売れたよ。ライト」 ヨシュアと呼ばれた亜麻色の髪をした少年は、片目が白く濁っているライトにそう答えた。 二人は親友でスチームバンクのダウンタウンに住んでいて、家も隣同士だった。 二人が売りさばいていた号外新聞には、北の超大国であるルシアと極東の小さな島国であるフソウ大帝国が戦争をしていて、戦艦アカザを旗艦とするフソウ大帝国海軍が戦艦カラザイフを旗艦とする大艦隊のルシア海軍第三艦隊を打ち破り海に葬り去った記事が書かれていた。 それは世間を驚かせるニュースだった。極東の小国。しかもその存在を一部の人間しか知らない新興国が超大国相手に戦い勝利したことは到底信じられない出来事であり、大スクープ記事だった。「それにしてもすげぇよな。極東のフソウ大帝国って国」「うん。そうだね。極東のどこにあるのかは知らないけど、いつか行ってみたいね」 二人がそう話しながら、メインストリートから裏路地に入った。 裏路地には野良猫がいて、のんびり昼寝をしている。その中のボス猫の存在である黒猫は、ライトになついている。「名前、適当に呼んでいたけど。どんな名前がいいかなぁ」 ライトが白く濁った片目を輝かせながら言うと、「ねぇ、アカザにしない?」と、ヨシュアが提案した。「アカザかぁ。フソウ大帝国の戦艦の名前だね。いいかも」ライトが目を細めて喜んだ。 その日からそのボス猫はアカザと呼ぶことになった。 それから十数年の月日が流れた。「どうしても行くの?」 成長したライトが親友のヨシュアに聞いた。「うん。長旅になるけどね。時々、電報をよこすね」 ヨシュアが言う。「すこしさみしいな。でも帰りを待っているよ」 ライトが残った目を伏せた。 少年期に裏路地にいたボス猫の黒猫にアカザと名をつけて以来、彼の白く濁っていた片目はどんどん悪くなってとうとう見えなくなって、眼帯をしている。「ああ、大丈夫だ。心配は要らない。行ってくるよ」 ヨシュアはそう言って、波止場から極東行きの船に乗り込んだ。 彼は少し寂しそうにしているライトが気になった。 船の野太い汽笛が鳴り、煙突からはお化け煙突を負かすほどの黒煙をあげて船が動き出した。 ヨシュアが向かうのは極東の島国フソウ大帝国だった。 少年期に抱いた夢がそのまま実現したのだ。 それまでは働きに働いて、語学も学んだ。 彼を乗せた船は南洋を回り、熱帯地方を経由し、東の大陸の港に寄港し、ようやく極東の島国に到着したのは出発してから半年近く過ぎていた。 船を降り立ったヨシュアは、憧れだった極東の小さな島国に何ヶ月かとどまって、各地を旅行し、見て回った。 そこで彼が見たものは、つましい生活をしていながら勤勉に働く人々の姿だった。しかし、それでいて気さくで謙虚だった。「これが、フソウ大帝国なんだ。あの超大国を破った国とは思えない」 ヨシュアはそう思うと同時に、故郷であるスチームバンクシティがだんだん恋しくなってきた。 ライトはどうしているか、と思う。 彼は電報をライトあてに送り、帰国することにした。 そして何ヶ月もかかってようやくスチームバンクに帰ってきた。「お帰り。ヨシュア。いろいろフソウ大帝国で見たことを電報でありがとうね」 約二年ぶりに会ったライトがそう言った。 二人はその後、夜がふけていくのをものともせず、語り合う。「ライト。どう思う。これからの僕らの町は」「聞いたところからの予想は、たぶんいつかフソウに追い越されるだろうね」 ライトはそうヨシュアに答えた。「僕もそう思うな」 極東を旅したヨシュアはそう言って、つましくも勤勉で気さくで謙虚な人々を思い出していたのだった。________________________________________________ あまりうまくまとまりませんでした。 珍しく自分としては長文です。
螺旋状の排気管が山のように積み重なる僻地で、フェレット族のティンクル・スターは鉄板のリベットを踏みしめながら錆びた空き缶を拾い続けた。上空にはキャット・ツェッペリン号がゆっくりと横断しつつスポット・ライトを赤茶けた建物群へと照射している。ここの世界に空が見えることはなく、排気ガスで常に曇り、水蒸気で町中が霞んで見える。だから彼らの視界にツェッペリンが来る頃には町中が黄金色にライトアップされ、美しい景色を眺めながら昼食を摂る事が出来るのだ。 伊達フライト・キャップを深めに被り、生意気な口を利く同僚、新星はティンクル・スターに言う。「おいティンク、あのツェッペリンの乗車券は俺達の月給の半分なんだぜ」 ティンクル・スターは冷たいリベットに居心地の悪さを感じながら、拾い集めた缶を後ろに置くと、少し毛羽立った毛を直しつつ座り込んだ。「そうなあ、でもあれのお陰でちょっとの間ここだって明るく見えるじゃないか」 とティンクル・スターは悪気のない風に答える。「あれのために猫学校で妹が虐められてもかい?」「そういうのは僕達が変えてゆくんだよ、シンシン」 ティンクル・スターのあまりの希望的観測に、新星はシャーッとフェレット続独特の声を嫌味っぽく上げ、赤星一つが中央に縫い付けられた帽子を直した。「シンシン、それは僕らの星じゃないだろ」「なあにいってやがんだ、俺達の星じゃねえか。平等の星だろ」 新星が指差す赤い星はあまり縫い付けが良くなく、所々がほころんで穴が開いている。「じゃあ僕達が缶拾いする現実は、その赤い星には届いてないんだね」 新星が掴んだキャットフードの手を止め、嫌な顔をする。「危険だよ。いつか反政府思想で捕まるかもしれない」「いつだって一緒だよ。何かとごねてパクるのが連中の筋だからな」 キャットフードの成分表をそれとなく見つめるティンクル・スターに対し、新星があれ見な、と肩を叩いた。 遠く空を泳ぐツェッペリン号から長い垂れ幕がゆっくりと降ろされ、垂れ幕に緊急の知らせが書かれている。「見えねえよ。ラジオある?」 新星の舌打ちと共にティンクル・スターは作業着のポケットからゼンマイ式のラジオを取り出すと、周波数ダイヤルを回しつつネズミの鳴き声のようなラジオの音声を聞いた。その音はネズミ音からノイズ音に変化し、やがてキャスターの声が聞こえてきた。「――であり、ワン・コロー政府としても対応の予定です。続きまして、先日より安否が気遣われている満福総督の状況です。現場のホネチキンさん?」「はい、現場のホネチキンです。先日より歯車の視察で訪れていた満福総督は、目の前に転がっていた牛骨に目が眩んでしまい、ついつい歯車に挟まってしまった、と述べており」 それを見たティンクル・スターは細長い顔を上げて目を線にして笑った。新星は呆れて眉をひそめている。「おいおい、総督とあろうものが骨に目が眩んでなんて」「幼いころ父と一緒に遊んだフリスビー投げと、おやつの骨が忘れられなかったってさ、狭いところに入るなんて猫族みたいだよね」 ティンクル・スターはキャットフードのことなど忘れて笑い転げている。 そうこうする内にツェッペリンの下部、運転席付近から幾人かの猫族が現れ、ビラをフェレット族の町へとばら撒いていった。「ラジオとビラだけ。テレビなんて町内会で集会所に集まって観る贅沢品。配分が平等ならこんな」 ラジオよりも目の前の状況に鬱々とした気分でいる新星が呟いた。「もう少し仕事さえ回してくれたら、そう、あの銀河炭鉱の銀河列車に乗って、鉱石探しでもできたら最高なんだがなあ」 総督府の前に取材陣が集まり、歯車の前には作業員が集まった。赤茶けた曇天模様の空の下で思案する猫族の作業員は、総督・満福の側で出来うる限り危険のない方法で救出しなければならないと考えた。主任は作業員に指示し、アーク溶接を試したり、王水(※金属を強力に融解させる化合液)でどうにかならないかと思案した。しかしどうにも犬族、満福の安全が確保できない。そこで、油で滑らせて満福を救出しようとしてみたものの、長毛のヨークシャー・テリア種(この世界でそれに相当する)である総督の身体は油まみれになるばかりで抜け出て来ない。「しかし参ったね」 と作業主任であるブチ猫のクロは言う。作業員は歯車の側で、舌を使って溶接面を滑らかにしようとしている。指示ではなくもはや自主的な行動だが、猫族作業員はむしろそのグルーミング的行為をにゃんにゃか言いつつ楽しんでいるように見える。「歯車が直せなきゃ、『肉球の心臓』だって復活しないというのに」 そうぼやいた主任に対して、耳部分の穴が開いたキャット・キャップを被った作業員の一人が言う。「主任、心臓の電力が回復しないと、何日までに電気がなくなっちゃうのですかね」 作業員の手はすっかり唾液で湿っており、爪が押し付けた鉄板上でむき出しになっていた。「そうさなあ、もって一週間程度。ワン・コロー政府の発表じゃ、そういうことだ。巨大木炭バッテリーは、緊急用だしな」 主任は喉を前足で掻きながら、白く長い髭をひくつかせた。「あーそれはいいのですがね、キャットフードの備蓄が心配です」 そういう作業員に対して主任は満福と同じ行動原理か、この部下は、と思ったが一応なんとなく返事してみた。「そん時にぁ、あのネズ公共をひっ捕まえて食べればいいさ、古代の猫族みたいに」「嫌ですよそんな、あんな薄汚れた連中なんて。第一、フェレットなんてやせ細って食べるところなんて無いじゃないですか」 作業員がそう言うと、歯車の間で窮屈そうにしている満福が疲労感を露わにして言う。「やあそこの主任、君だよ」「は、なんでしょう」「ちょっとウチの部下の電話番号をを教えるから、そいつに来るように言ってもらえんかね」 そう言って満福は胸ポケットに入っていた電話番号を主任に渡した。主任はそれを見ると軽く会釈して休憩所においてある壁掛け電話へと走ってゆき、電話から交換手へと繋いだ。それから数分後には小雨が降る現場に部下のジャーマン・ショート・ヘアード・ポインター種であるエッケハルトが駆け足で到着した。手には書類の束を持っており、灰色のロング・コートを着込んで白い息を吐き出している。後ろには黒コートの部下数名が付き添っていた。「ああ、エッケハルトくん、垂れ耳をこちらへ」 満福がそう言うと、エッケハルトは眉間にしわを寄せて、生真面目な顔で満福の口元へと耳を当てる。「フェレット族、いるだろう」 と満福が言い始めたが早いか、エッケハルトは耳を離して小声で言う。「またですか総督、いくらフェレット族といえども不満ばかりを募らせれば、従わなくなりますぞ。百年前の猫族に依るマタタビ革命をお忘れですか」「しかしだな、この不祥事、儂の任期に関わる事態だ。それにフェレット族は猫族が抑えれば良いじゃないか」 エッケハルトは嫌な顔をしながら総督から顔を反らすと、後ろの黒服に首で合図し、厚手のフェルト生地で腕を組んだ。 我々党員に真の未来を、というスローガンが声高に叫ばれると同時に新星と仲間たちは祝杯を上げた。FDC共産党、という文字が木の梁からぶら下げられており、豆電球に群がるハエが不安定に飛び回る小屋の壁は、トタンで補強されている。「F・フェレット、D・ドッグ、C・キャットの共同名なんて、随分お人好しとは思わないか」 流星は木目の優しい光を浴びるテーブルの上に転がした『つまみ』を拾い上げると、一口に放り込んで、ビールと一緒に喉へと流し込んだ。「そうでもねえさ。共産ってのは文字通り共産だろう。俺も連中は最悪だと思うがね。理想は痛いことだって必要だあね」 横にいる新星は流星の言葉を一応党の方針通りに返すと、党員の賑いに口を緩ませ牙に手を当ててぼんやりした。妹は党に参加するのは危険だと言っていた事を頭の片隅でなぜか思い出したりもしたが、自分の行いは間違いではないと新星は思い直した。 新星と流星はそれぞれの四方山話をし、結婚はどうだとか、それ以前に恋愛がどうだとか、出会いがないなどと話をしながら、次第にその話は党員らしく革命や粛清の論争へと発展し、君は僕の前だとリベラリストだな、等という新星にしてみればレッテルに感じられるセリフが飛び出ると、新星は少しだけ反発した。「我が党が政府非公認だって、いくらなんでも連中が政治的な言論弾圧までは行わないだろ」「そうかな、連中はいつだって俺たちを弾圧してきたじゃないか。お前の妹さんや、友達のあいつだって」 あいつ、という言葉を聞いて新星は真っ先にティンクル・スターが浮かんだし、流星も彼のことを思い浮かべたが、両者ともに今の議論に似つかわしくないほど被差別の印象が薄い人間であることも同時に感じていた。 論争に夢中になっている二匹のそばで党首が占めの挨拶をすると、党員は深夜にもかかわらず大きな声で党首にスローガンを大声で誓った。その声に驚きながら新星と流星は慌ててスローガンを斉唱する。 しばらくして彼らの群れは入り口に酔っ払いながら殺到し、雪崩れるようにドアを壊すと路上の冷ややかな石畳に寝転んだり、ふらつきながらキュイキュイと弱った鳴き声を上げて吐き出したりした。 そうした情景をやはり同様にふらつきながら見つめていた新星は、しばらくして路上の向こう側にぼんやりと光るランプが見える事に気がついた。それは次第に近づいてきて、はっきり姿が見える頃になると、その姿が犬族の警察であることが理解できた。新星は少しだけ頭痛の始まった頭を抱えながら彼らに会釈する。「やああ、最高権力者の犬族の皆様、いかがお過ごしでしょうかあ」 新星の素振りに全く反応すること無く、ダブルボタンの厚手のコートを着込んだ犬族警察のリーダーと思わしき人物は、横にいる仲間と一緒に頷くとその瞬間一挙に走り込んだ。白い息が煙突のように後方へと流れる。さすがにその挙動に異様なものを感じた新星は酔いが瞬時に冷め、彼らの向かう方向と逆方向へと即時に反転した。 新星は小屋から出てしばらくしたところにある、石垣の塀をひょいとよじ登ると、その石垣の上を素早く走り抜けてゆく。その後を少しだけ振り返ると吐瀉物まみれの流星がついてきているのが新星の目に映った。おそらく走っている時に吐いたのだろうと流星は思ったが、そんなことに気を払っている場合でもない新星は、向きなおして路地の先を見た。ものすごい勢いで後方へと飛んでゆく景色は突然静止画像へと変わる。路地の目の前には犬警官。「おいあぶねえ、いきなり止まるな」 と新星の後ろから流星の声が聞こえたが、流星は新星の目線の先を見て何が起こっているかを直ちに理解した。新星の目の前には犬警官が五匹、流星の背後には犬警官が十匹。それぞれが二匹を見つけてランプを掲げたばかりだった。「おい流星、考えがあるから突っ込め」 と新星が突然叫ぶ。意味がわからないまま流星がそれに従うと、流星の目にいた犬警官との距離が顕微鏡のダイヤルを回したみたく一挙に迫る。それでも新星は走るのをやめず、突然、中リーダー格らしき男に飛びつくと、瞬時にしっぽごと巻き付いて目を隠した。「流星、今の内にさっさと逃げやがれ。俺みたいな中途半端な考え方じゃダメなんだろう?」 流星は状況を把握すると、錯乱する連中の足元を巧みに駆け抜け、息を切らしながら走り続けた。 あれが党員のお祭りだと知っていたティンクル・スターは夜中に目を覚ますと、賑やかな方へと窓辺から目配せし、党員のああしたところだけが羨ましいと一人物思いに耽った。一人コーヒーを淹れるとオレンジ色の灯火に向かって、たまにしか吸わない煙草を吹かすと、大好きなレーズンパンを少しずつ目を細めながらかじって、水蒸気で曇った窓辺に指で文字を書いた。空想科学小説がサイバー・パンクなら、さしずめここはスチーム・パンクだね、等と、役者になったつもりで意味なくつぶやく。ティンクル・スターは全く夜中に起こされたことに腹も立てず、そうしてしばらくするとコーヒーも特に効かなくなって、楽しそうな宴の合唱を聞きながら寝込んでしまった。何時間寝た頃か、ティンクル・スターの土壁で出来た丸い家に幾度も扉を叩く音が鳴り響いた。その音が三回繰り返されると、外の窓辺に見えた明かりがすっかり見えなくなった事をぼんやりと意識したティンクル・スターが、やっと身を起こした。彼はキューという声で背伸びをすると、扉を叩く人の元へとゆっくり歩いて行き、どなたですかと聞いた。「俺だよ、新星の友達、流星だ」 ティンクル・スターは「はて」と思った。流星のことは知らなくはないが、新星と一緒にいる知人、程度の認識でしか無い。ひとまずティンクル・スターは扉を開けると彼を招き入れ、厳重に鍵をかけた。流星は何も言うまもなく家の電気を消すと、ティンクル・スターに小声で言う。「ティンクル・スターくん」「ティンクでいいです、リウシンさん」「じゃあ、ティンク」 流星は走ってきたらしく、息が上がっている。「先ほどのいきなり電灯を消した件については謝るよ」「ああ、先日の総督が歯車に挟まった件についてでしょうか。電力供給が不安定になるかもしれない、という」「いや、そうじゃないんだ」 流星はつばを飲み込むと、窓際のカーテンまで駆け寄り、慌てた様子で締めてしまった。続けざまに隙間から路地の向こう側を覗きこんでいる。「実はね」 と流星が言いかけると、現段階でなんとなく予想のついていたティンクル・スターの後ろで、再びドアを何者かがノックする音が聞こえた。「リウシンさん、蛇口の下の空の米びつが案外と広いので」 ティンクル・スターが小声でそれだけ言うと、リウシンは頷いて台所までなるべく音を立てないように駆け寄ると、シンク下の米びつの中にすっぽりとはいってしまった。「こんな静かな時間に、どなたでしょうか」 ティンクル・スターが扉を開けて、顔を半分だけ出すと、乱暴な犬警察の顔が見え、それと同時に犬警察は扉をこじ開けてしまった。たちまち犬警察二名が狭い入り口をくぐり抜けると、家の中に上がり込んでテーブルをひっくり返し、ベッドの下を棒でつつき始める。「お止めくださいおまわりさん、事情は何です」「ここにFDC構成員の一人が紛れ込んでいるはずだ」「ええ、知ってますとも。連中は凶暴で粗野ですからね」「お前、連中の関係者か」「いえいえ、でもね、夜中もぎゃあぎゃあと喚き散らし、ガラス戸を時々突き破っては喧嘩を繰り広げ、兎も角何かといえば国家がどうのと。そして肉球の心臓に助けられている事も忘れて犬族の皆さんや猫族の方々を非難する始末。そんな調子でどんちゃらやられるものですから、僕としましても睡眠が十分に取れませんで困惑しているのです。おまけに連中ときたら生娘一人でもよこそうものなら機嫌を良くして急に紳士になるのです、滑稽でしょう、聞いてください、そしてね」 そこまで聞いた犬警官は二名はさすがに面倒を感じたのか、もういい、逃げた奴は居なかったのか、とだけ苦い顔で言った。するとティンクル・スターは拍子抜けした顔をし、「その扉の側で夜中コーヒーを飲んでいたら、先ほど申し上げましたガラス戸を破って出てきた男が一目散に逃げてゆきました。ほら、向こう側に」 と淡々と告白した。集会所の窓ガラスは実のところ二日前より党員の喧嘩で割れており、コーヒーは実際に先ほど飲んでいたのでロッキングチェアも手前にせり出していたし、窓には指先で書いた文字が水滴の尾を引きながら残っていた。 警官二匹は窓ガラスの指の跡と、ほんのり見える割れた向うの集会所の景色を見ながらため息を付いた。「そうじゃない、集会所で連中が構成員の懇親会を開いた後の話だ」「おや、なぜ懇親会に警察の方が」 と本気で訝しがる演技をしているティンクル・スターに対して、巡査は開いた口が塞がらず、何か気まずそうな表情を浮かべたもう一人の巡査に肩を叩かれると、白い息を吐きながら再び嘆息して出て行ってしまった。 ティンクル・スターは入口側のカーテンの隙間から彼らが遠ざかるのを確認し、照明もつけること無くシンク下の戸棚を開いた。そして米びつの蓋を開くと、丸まった流星が一言呟いた。「ティンク、あれは本音か?」 それを聞いたティンクル・スターは笑い声を暗闇で噛み締めながら言う。「夜中騒いでいて、楽しそうだと思ったのは本当ですよ。いつも話が漏れ聞こえてくるので、参考になりました」 ティンクル・スターはひとしきり笑った後、小さなろうそくに日を灯すと、今度は真剣味の有る顔になって流星を見つめた。流星もそれに答えるかのように米びつから身体を捻転させて飛び出して、蓄音機の横にある大型タイプライターの側面を背にして口を開いた。「シンシンが捕まっちまった」 その言葉を聞いたティンクル・スターは、さすがに事態を予測できずに、いつもの冷静さも無く目を見開いた。「奴はサツがガサ入れに来た時に俺を逃がすために警察の囮になっちまったんだ。何かあると震えて動けなくなる奴が、変に成長しちまいやがって」 ティンクル・スターの眼前が真っ暗になるのが分かった。明日から、小銭を稼いで笑い合う仲間がいなくなるのだということが、頭では理解できても心には落ちてこなかったのだ。それは小さな井戸に落とされた波紋のような冷たい違和感となってティンクル・スターの胸に響いた。「警察はなんと」「容疑なんて多分ありゃしないさ。ついに全面的にフェレット族を狩りに来ただけだろうよ」 吐き捨てるように言う流星の言葉に、今しがた投げ込まれた波紋以外の、別の波紋が沸き起こった。それは交差すると、心の井戸の中を乱反射する。「いえ、リウシンさん、先日のニュースで、総督は自分から歯車に嵌ったのではなく、誰かから嵌められたと言い直されていました」「なんだって?」「ですので、真犯人を捜索中としか」 流星は一瞬床を凝視するとティンクル・スターの顔を見上げた。「それじゃ」「そうです。これは犠牲者が出ますよ」 エッケハルトと満福は少々苦々しい顔をした。目の前には赤いマントを羽織ったティンクル・スターと流星、横目で時々目配せをする作業員の猫達と、それとは別に会談に現れた猫族の総督であるモモニがそれぞれ対立するように並んでいたためだ。 ティンクル・スターは流星に放送局の地図開示を願うと、流星はそれに応じて、党内一部で画策されていたクーデター計画を開示した。流星の図面を見たティンクル・スターは即座に放送局だけを占拠することを提案し、その有効性を問うた。ティンクル・スターの計画では、現状の広告や放送局さえ麻痺してしまえば政府の動きは封じられるという。逃げ延びていた党員の中にはこれに反対するものも居たが、流星の説得によりどうにか説き伏せられた党員はティンクル・スター作戦と命名して、地下会議室で突撃ラッパを吹き鳴らした。 省電力を余儀なくされた町は恐ろしく静かであり、いつも聞こえる蒸気のノズル音も聞こえない。それでも犬族に比べてフェレット族の忍び足は隠密行動に適しており、幾度かの犬警察、猫巡回員の足音にも先んじて行動することが可能だった。 彼らの電撃作戦により放送局の乗っ取りは完了し、放送局にてティンクル・スターは満福の行った政治不正や、今回の出来事、フェレット族の不遇などを止めどなく並べ立てて民衆の不満を煽った。結果的に犬族警察の面々が駆け込むより早く、気性の荒いフェレット族が大挙して満福の元へと駆ける事態が引込されると、放送室を破棄したティンクル・スターは停止した蒸気パイプを通って三者の前へと踊り出ることに成功した。 あまりの計算高さと素早い行動に流星はティンクル・スターと行動を共にしながら、起こっている現実がよく落とし込めないままでいた。時々ティンクル・スターがパイプを通る際に、本当にドブネズミになった気分だねえ、と自ら差別用語を口にしつつ笑ったことだけが思い出され、それがとにかく拍子抜けした流星の頭に残った。 ティンクル・スターはわざわざ作業着から赤い布を取り出すと腰に手を当てて言う。「放送室の事は謝ります。でもね、本当は犬族、猫族と戦うのが目的じゃない。僕達の目的は無茶をして要求を聞いてもらうことじゃないんです」 その言葉を聞いたエッケハルトは、思い描いていた待遇面の話をすぐに頭の中で組み替え始めた。満福は歯車被害から辛くも難を逃れた上半身で垂れ耳を掻いている。モモニは太っちょの身体にパイプを口揺らせながら、フーッと猫族独特のストレスを表明し、流星はどうなるのかと動揺しつつ、目を開いたり閉じたりとせわしない。「では君たちは放送局を遊びで乗っ取ったと?」 険しく感情の読めないエッケハルトの目が冷ややかに光った。「まさか、この状況に持ち込む以外の理由はありません」 穏やかに笑うティンクル・スターを見て、エッケハルトはやや不機嫌な顔になった。「僕たちがここでやりたい事は、窮状の満福総督を助けることです」 その意外な言葉に、今度は興奮状態で集まっているフェレット族がどよめく。 その動きを一喝により止めたのは意外な人物だった。「聴け、このフェレットの若者はお前たちより考えているぞ!」 その一喝によりフェレット族、猫族、犬族までもが静まり返り、広場の空気は別の意味で緊張に包まれる。そんな中ティンクル・スターは再び口を開いた。「お察しの通りです。交換条件として僕の親友であるシンシンを返してもらうこと、そして、犯人の汚名を返上し、僕達の町に党など無くても良いほどの有利な雇用条件を約束し、この一週間以内に制定していただくことです。もう一つは捕虜の扱いに関する事項、最後は宣戦布告なくフェレット族と事を構えないこと」 エッケハルトはその話を聞いて、宣戦布告なく襲った彼らの所行を棚に上げた演説に、あきれながらも感心した。「そんなことが短期に可能になると思うか」「思いません。しかし幾つかは叶えられるはずです。少なくとも総督の権限範囲内は行使できるでしょう。現代の科学技術では助けられる人間も助けられません。古代に残った蒸気機関の内、一部は全く別の技術が使われていると聞きます。銀河列車がなぜ飛ぶかも解明されていない。すると、全種のうち、最も歯車を削ることに特化できているのは」 ティンクル・スターが胸に手を当てて息を吸い込みかけた時に、エッケハルトが口を挟んだ。「お前たちだけというわけか」「ええ、その通りです」 少々間が悪くなったティンクル・スターは息を吐きだす。 エッケハルトは考えこむように顎に前足を乗せると顔をしかめて俯いた。その側で満福が口を開いた。「あーおほん、ティンクル・スターくんといったね。シンシン君の事は任せ給え。早速作業に取り掛かってくれんかね」「総督、そこで私から提案があります。この書類にサインして頂けますと、より円滑に事が運ぶかと」 流星が段取り通りに封筒の玉紐を外すと、中から既に肉球印が押された書類が出てくる。そこで再びティンクル・スターが茶目っ気の有る声で言った。「ごめんなさい総督。放送局の占拠時に、法務局も占拠したのです。本来そちらが僕達の狙いです。正式な書類さえあれば、状況は後からでも作り出せるものですから。つまり書類は公的なものですね」 流星は挟まった総督の下へ、出来るだけ平然を装って歩いてゆくと、踊る心拍を隠しながら腰をかがめて総督の目の前へと書類を提出した。ところが流星の過剰な心配を他所に、条件は公平なものであることを理解した総督はすぐさま書類にサインしてしまった。それを見たエッケハルトが思案していた前足を放り出し詰め寄ると、流星を押しのけた。「なぜ相談もなしにサインされるのですか」 すると満福はエッケハルトの襟を掴むと耳に口を近づけ、更に長い耳を指でつまみ直すと小声で言う。「エッケハルト君、本当は転んで挟まったことなど、どうでも良い。フェレット族のお陰で資源は歯車の問題なしにも逼迫しつつ有る。それをスケープゴートによって解決するのだよ」 挟まった事自体がどうでも良い話なのは前から知ってたよ。それにその提案は満福ではなく私の提案だ。とエッケハルトは心の中で思った。しかし立場上満福の言うことを無下にも出来ず、小声で聞き返した。「はい、名案であると存じております。しかし閣下、公的な書類にサインしてしまっては元も子もないではなりませんか」「そこはあいつらだ」 と満福が視線で誘導する先には、目を細めつつ悠然とパイプをふかすモモニの姿があった。それを見たエッケハルトはすぐさま状況を理解すると、サインに自分の名前を連名させた。サインの最中、上司は選べないものだ、という滲むような思いが沸き上がってきたものの、それは彼独特の仏頂面の下に噛み殺された。「書類は受け取った。契約は成立だ。この控えも預かっておく」 エッケハルトは契約書控えを胸ポケットに仕舞いこむと、直ちに犬族警官に武装解除を叫び、モモニと配下の群れにも解散を命じた。 歯車の周りにフェレット族が群がり、発情期入りしたせいで、刺すような体臭が周囲に撒き散らされた。黄色い頭が光りながら見え隠れする歯車の広場に、オイルの匂いと水蒸気の煙も混ざって充満する。オーバーオールを着たフェレット達はスパナや溶接機を持っていたものの、殆どのフェレットは満福の横で歯車にしがみついてひたすらかじり続けるだけだった。遠くにツェッペリン号が見え、垂れ幕がいつもの広告に戻ると、スポットライトは飛空船下部を照らしだす。「おい、ティンク。そういえばあの時、放送局から党の連中と、フェレット族のデモを起こせなかったら、どうするつもりだったんだ」「さあ、そのために党の暗号を教えてもらったじゃないですか。だから党員の皆さんが住人にデモ参加を促せたんです」 食事をとるティンクル・スターの歯は若干欠けており、流星の歯も少しだけ摩耗していた。交代制でかじり続けるものの、金属類はさすがのフェレットであっても難航した。「あの契約書に盛り込んだ、銀河列車に乗れたら、どうします」 とティンクル・スターはまるで旅行するかのような浮ついた気分で流星に話を振った。話の内容が流星の興味とは全く別の方角を向いている。流星はそれを聞いてすかされたような気分になりながらも、先輩として立派な答えをついに意識してしまって生真面目に答えた。「やはり、銀河炭鉱でしっかり働いて、カミさんと子供に腹いっぱい食わしてやりたいんだ」 それを聞いたティンクル・スターはは全く関係なく、頭のなかにある銀河列車に思いを馳せた。列車は濃い紫色の空間に吸い込まれながら煙の尾を引き、遠くキャット・キャップ銀河を背に悠然と進むのだ。おまけにその航路は銀河炭鉱を目指しておらず、延々と長蛇の列を作りながら流星群の降り注ぐ場所へと駆けてゆく。「そうですか。僕は妻帯者じゃないからなあ。リウシンさんは立派ですね」 こう、ティンクル・スターが普通の男であるかのように振る舞うと、英雄然としたティンクル・スターに負けかけていた流星の心は少しだけ自尊心で満たされ、先輩風をついつい吹かせた。「ティンクもきっといい女が見つかるさ。そら、今度は俺が手ほどきしてやろうか」 流星の勧めにティンクル・スターは微笑を浮かべると、なんとなくそういうの苦手だなあ、と呟いた。 天候の変化が見えにくいオレンジ色の空がひときわオレンジ色に染まる頃合いになると、満福の身体は片方だけ宙に浮き始め、更に空に掛かったメロンの種を思わせる夕日がさようならをすると、食べ過ぎの身体は歯車からずるり抜け落ちた。側近のエッケハルトは駆け寄ると安否を気遣い、救急車の手配を頼むと部下が走った。「ティンクル・スターとか言ったな」 エッケハルトは夕日を背に帽子をかぶり直すと、夕日に目を細めた。 満腹の重たい体を救急隊員が持ち上げる。「差別階級ながら――などという挨拶はやめるか。見事だった。ああまで鮮やかな手口で三種族を拮抗させつつ書類に有効性をもたせ、犬族との交渉条件を持ってくるとは」「ええ。あのまま放置した場合、強制連行でただ働きが関の山ですからね」「私が命令したことも知っての行動なのか」「いえ、誰が命令しても、勢力は拮抗させなければ交渉はできません」 それを聞いたエッケハルトはふっと皮肉めいた笑いを浮かべ、急に真顔になるとティンクル・スターへと向き直った。「悪いことは言わない。飲み屋に向かう前に今すぐフェレット族の町へ帰るんだ。それと、私がこれを伝えた事もさっさと忘れろ」 その言葉を聞いた察しの良いティンクル・スターの顔は見る間に青ざめていった。 ティンクル・スターは飲み好きの仲間に次々と走り寄りながら理由は後だと説明して回りつつ、一目散に町へと走りだした。作業が終わったにも関わらず新星が戻らないことを感づくだろうと思ったエッケハルトが苦々しい顔で帽子を深々とかぶる時、ティンクル・スターは坂を駆け下りた。あの夜の時のように、賑やかな党の面々が敗れたガラス戸から喧騒をまき散らしていて欲しいと彼は思ったが、坂を駆け下りる頃にはその思いは絶望的なものへと変わった。猫族の群れの尾っぽが見え、鋭い牙と爪でフェレット族の数名が石畳に倒れている姿が目に飛び込んできたのだ。ティンクル・スターはその状況を見るやいなや彼らの姿と特徴から猫族レッドキャップ隊であることを理解し、作業用無線を手に取ると仲間へ秘密暗号ばら撒いた。さすがにそれを見ていた猫も行動が素早く、FDC暫定頭目と思わしきティンクル・スターに縮めた身体を一挙に跳躍させた。さすがのティンクル・スターも猫族本気の疾走には敵わないと見切り、飛んだ猫の方向へと正面から突進する。躍り出た猫は着地地点に居た一匹のフェレットが猛スピードで股下に消える瞬間だけを捕らえ、慌てて着地地点から身体を切り返そうとした。しかしその時既にティンクル・スターは猫の股下を走り抜けており、じゃれ叩こうとした猫の前足が届かない場所へと走り去っていた。ティンクル・スターの目の前の石畳には党員のみならず傷ついたフェレットの亡骸やまだ息のある重症者が混ざっており、心が引き裂かれる思いを抱きながらも路地裏の排水口へと身を躍らせた。「やあ、みんな集まったね」 ティンクル・スターの物腰は柔らかだったが、いつものせせらぎのような抑揚はない。 薄汚い豆電球が照らし出す室内には、いつもの割れたガラス窓も、適当に修繕してテープを張り合わせた形跡もなかった。その代わりにここ地下牢跡には湿った石壁が隙間なく敷き詰められている。中央には埃っぽい円卓が色あせた赤いテーブルクロスを被せられて、ひとまず立派に見える風に取り繕われていた。この狭い中に、逃げ延びた五十名の党員が集まっていた。「新星は戻らなかった。僕のせいだ」 ティンクル・スターはらしくもなくうつむくと、元気なく言った。それに合わせてだからあれほど書類などではなく身柄引き渡しの後満福を助ければよかったのだ、と言う声が上がった。異口同音にそうだ、その通りだと囃し立てるものもいる。ティンクル・スターがうつむくテーブルの上には破られた紙があった。「破って送らなくても、連中からすれば元々契約書なんざ握りつぶせたはずさ。そうだろ? 何しろ自分たちのケツ拭きのために俺たちを嵌めるような奴らだ」 流星がここぞとばかりに党内での威勢を発揮する。せめてティンクル・スターに良い所を見せたいという僅かな思いを、ティンクル・スターが困っているから自分が代弁しているのだという名分に置き換えて喋った。「それに、人質が解放されたとして、書類があろうがなかろうが、犬猫連合は俺たちを襲撃してたさ」 すっかり緊張のとれた流星の巧みな演説に、周囲の党員は黙らざる得なかった。「町の連中は襲撃されちまった。もう秘密裏に配っていた暗号も使おうとしねえだろう。じゃあ戦力はどうするんだ」 党員の一人がそう言うと、ティンクル・スターがようやく重たい口を開いた。その方法を興味深く聞いていた党員は作戦の奇抜さにどよめいた。早速女達にそいつを作らせるよ、とある党員は言い、ある党員は生き残っているはずの花火師に依頼すると言って、興奮した様子で部屋を出て行く。それを見た別の党員が会議はまだ終わってないだろうと言い咎めたりと、一挙に活気づいていった。この状況に流星はどうしても拭えない感情を抱き、ティンクル・スターの方へと歩み寄ると強い目線を突き刺しながら言った。「ティンク、俺はお前があの作戦を立案して指揮し始めたときから、自分の頭では到底真似できないお前の素早さに心底驚いたんだ。三者会合の演説だって大したもんだ。党のみんながお前を自然とリーダーへと押し上げたりもした。今だって落ち込んでる風に見えてきっちり考えている。俺は悔しいんだ。この想いがお前とは関係がなくても、お前にぶつけなきゃ気が済まない」 鋭い目線の奥にある少女のような動揺を隠せない流星は、ささくれだった毛並みをかきむしって、そっぽを向くと腕を組んだ。「流星さん、僕は今だって流星さんがみんなを説得をしてくれなきゃ、落ち込んだままでしたよ」 その顔にはいつも通りのティンクル・スマイルが戻ってきている。 言葉を聞いた流星は奇妙な安堵感と反発を感じた。何しろ、自分が数分党員をなだめている間に優れた作戦を思いついてしまったのだ。流星は色々と瞬間的に頭を巡らそうとしたが、精一杯振り絞って、「敵は作るなよ。優れた奴ほど、本性を見せたときの反動は大きいもんだからな」 と言うのが精一杯だった。その虚勢に対しティンクル・スターはすっかり元気な様子で可愛らしくうなずいた。 東の肉球の心臓管理局組十名は緊張の面持ちで路地を抜けた。この間の放送局事件により警戒は強まっているのではないかと思われたからだ。党員スピカと流星は部下を連れて、暗闇の中ひときわ貧しさが際立つ管理局前へと進むと、警備している門番を双眼鏡からのぞき込んだ。犬族二匹の門番はダブルボタンのコートを深く着込んで白い息を吐いており、霧雨がスポットライトをかすませている。門番二名の後ろ側にあるスポットライトは据え置き型で四方を照らすタイプだった。 スピカは流星とうなずき合うと、ひとり物陰からゆっくりと出てきて両手を挙げた。茶色いキャスケットを深くかぶっており、スポットライトが照射されるとスピカに対して二匹の警備員が真鍮製の銃を突きつける。「手を下ろしていいですかねえ」 スピカが撫でるような声で言う。「そこで止まっていろ。何の用事だ」 左側の門番はスピカの肩からぶら下がる革製の鞄に注視した。 スピカの問いに対して相も変わらず警戒を解かない門番に対してスピカは霧の中に声を響かせた。「いやね、新入荷の犬まん(ミミズをすり潰し乾燥させたもの)が入りやして」 スピカはそう言いながら挙げた手をいつの間にかもみ手にしていたが、それを見た両名は再び銃の照準を合わせ警告した。「誰が手を下ろしていいと言った!」「いや、すいやせん。しかしですね、臭いやせんか?」 そう言われると確かにそうだ、と二匹は思ったが、職務に忠実な二匹は銃を下ろすことができない。とはいえその食欲をそそる臭いに自分たちの嗅覚は嘘をつかなかった。「二十トリニーですけど、いりやせん?」 右側の若手と思わしき門番の腹が鳴るところを見て、横目で先輩門番が流し目でそれを見つめると、仕方のない奴だといった風にため息をつく。「よし分かった」 先輩門番が銃を下ろすように右の門番へと指示すると、右の門番は銃を縦に構えて起立の姿勢に戻った。「何しろここのところフェレット族ときたら、お前のようなはぐれ以外は全員反抗的でな。商人くらいしか信用できんのだ」 スピカは渡された二十トリニーをポケットにしまい込むと鞄に手を掛けかけた。「あの、お連れさんも呼んできていただけやせんか」「なぜだ。部下の分は俺が買う。それでいいだろう」「いえね、結構重たいのですよ。ほら」 そう言いつつスピカは鞄を揺らしてみせる。それでも犬まん運搬中に門ががら空きになることを嫌がった先輩門番は首を縦に振らない。「おおい、そこの門番さあん、こっちにいらしてください。ほらほら」 気前の良さそうなスピカの声に右側でまじめくさっていた門番も、呼ばれていることに気づくと自らを指さし、その後そそくさとスピカと先輩門番の方へと小走りで近づいてきた。後輩を見ていた先輩門番は苦々しい顔をする。「あ、はいはい、それでね、こちらが商品」 スピカはフェレットの体に余る犬まんを一つずつ手渡すと、彼らの両手が塞がったことを確認しつつ、再び鞄へと手の伸ばしてなにやらごそごそと探り始めた。二匹はてっきり領収書とサインを求められると思ったが、出てきたのはガスマスクだった。「ね、こんな風に二人揃わないと難しいのでやんす」 といいつつ右手に持ったスプレーを吹き付けた。たちまち警備員二匹の眼前は曇り、それと同時に強烈な眠気が襲ってくる。目の前の好物犬まんと眠気と、目の前のフェレット族にいっぱい食わされたことをうっすら気づきながら先輩門番は床に崩れ落ち、単なる好奇心と食欲しかなかった後輩門番は訳も分からずその場で昏倒した。ガスマスクを装着したスピカの細長い顔が煙の中から現れると、煙の中から同じくガスマスクを装着した流星と部下たちが現れる。総勢十名は流星の一声により一斉に作戦を開始し始めた。「これより『フェレット・アウト・ザ・ティンクル・スター(ティンクル・スターを探し出せ)』、FOTTS(フォッツ)作戦を開始する」 メンバーは作戦名とともに周囲に散開すると、流星とスピカ二匹は建物内部にガスを充満させて残りの監視員を無力化させ、肉球の心臓のコントロール室へと忍び込んだ。そこには巨大なコントロールパネルが存在し、パネルのモニターは虹色に輝いている。部屋の内部は質素で、六角ネジむき出しの盤面は打ちっ放しで無骨な作りだ。パネルの前には監視員と思わしき犬がガスを吸ってうつむいている。流星はパネルに目を凝らすとティンクル・スターの言葉を思い出して、少し余裕を持つことができた。「――僕の得意な電撃作戦です。人数は少しでいい。県央変電所の方面に十名ほど配置、発電所を乗っ取ります。いえ、乗っ取る振りだけでもいい――」 流星はできれば停止させてくれ、との願いを思い出すとめぼしいスイッチ類をオフの方向に倒してゆく。いくつかのスイッチを倒すと停止までの秒数がモニターの端に映し出された。三時間ではやはり間に合わないと流星は思い、緊急停止のスイッチを探したものの、何処を探してもスイッチは見つからず、数分うろうろした後、いびきをかく監視員を床に寝かせると、ようやく足下の右下付近の扉にそれらしき存在を確認した。そこは厳重なダイヤル式で施錠されており、やはり三時間後を待つしかないように思える。「こんな事は予測済みさ」 ティンクル・スターがな、と流星は思ったが、とりあえずそれを心の中でかみ殺すと無線を取り出し仲間に指令を発した。「それじゃ作戦Bに移行するか」 スピカは了解でやんす、と言うと、路地に再び戻ってゆき、部下数名と一緒に巨大な旗を数本抱えて広場に戻ってきた。そしてそれを数度そそくさと繰り返すと建物外周に一本ずつまき付け始める。すっかり終える頃になると肉球の心臓周辺はFDC党の旗で埋め尽くされた。「ライトアップでやんす」 スピカの一声で肉球の心臓外周はスポットライトのまぶしい光に包まれ、町の中に忽然と彼らの旗と管理局が浮き彫りとなった。それを確認した流星は撤退を命じると、廊下を走りながら無線でこう伝えた。「こちらリウシン、フォッツは完了した。連中、大群がいると思い込んでくれるかね」 スピカが儲からない商売でやんすね、と愚痴をこぼした。 ティンクル・スターの徹底した隠密行動により五十名が西の歯車の前に到着すると、『流星の服を着た』ティンクル・スターと監視員の間で小競り合いが起きたが、数で勝るティンクル・スター勢は歯車の監視員を縛り上げることに成功し、くすぐり地獄を続けた敵より周波数を聞くことができた。すったもんだ中で増援を呼ばれてしまったが、捕まえた監視員曰く、東で大規模な蜂起があったためこちらに人員を割けないと言った。 ティンクル・スター達は東側の作戦が成功したことを確信すると、三者会談救出時の際に予め仕掛けておいた歯車のヒビを見つけ出し、用意した鉄棒で歯車を一時的に停止させた後、トンカチで解体してしまった。轟音とともに歯車は坂道を転げ落ちて行き、縛り付けられていた監視員達は目を回して、坂道下の柱にぶつかった後、むぎゅう、とばかりに歯車の下敷きになった。 きゅきゅきゅと笑ったティンクル・スター一行は、談笑からさっさと気持ちを切り替えて、素早く新刑務所行きの進路をとった。「うまく行き過ぎじゃないのか」 と党員の一人が言うとティンクル・スターは走りながらそうもでもないでしょう、と言い、ふと空を見上げた。そこにはツェッペリン号に似た小型の飛行船が巡回している。ティンクル・スターはその陰が自分たちの上に来たことに目配せしながら走り続けた。そのとき、上空に飛来していた小型飛行船から黒い影が卵のように産み落とされてゆく様が目に入った。それは最初遅く、徐々に速度を増すとティンクル・スター達が走る路地裏に衝突して、光と熱をまき散らした。ビルの屋上にあった貯水タンクが吹き飛び、水滴とがれきがメンバーに降り注ぐ。「計算違いでした」 ティンクル・スターの冷静な指摘とは裏腹に党員は口々に叫び、お互いに注意を呼びかけた。残党に対しこれほどまでの警戒をしている事を全く予期しなかったメンバーは浮き足立ったが、そのとき爆音に混じってある声が響いた。「おいてめえら、立ち止まってる場合か!」 その聞き覚えのある声にメンバーは一斉に振り向いた。砂埃が舞い上がるその先には、なんと救うはずの新星の姿があった。「シンシン! なぜここに?」 さすがのティンクル・スターも驚きを隠せず、頭の埃を払う事すら忘れて呆然とした。「話は走りながらだぜ」 新星は先陣を切ると、仲間に手招きし、一挙に路地を疾走し始めた。それに合わせてティンクル・スター以下三九名も動きに追随する。「連中は捕虜云々はもう関係がねえんだよ」 併走する新星は息一つ切らさず、ティンクル・スターの方に振り向きもせず言う。「お前らが気づいての通り、連中は残党どころかフェレット族自体を滅ぼすつもりだ」「ああ、知ってるよ、そんなことより新星はどうやって牢を抜け出したんだい」 それを聞いて新星は不機嫌なような、怪訝なような顔つきをした。煉瓦造りの家がある地帯が見え、裏路地のビルに容赦ない火花が炸裂して行く。「お前はこれからどうするんだ、逃げても追っ手が来る。戦力はほとんど残ってない、総督府は固められているだろう。電撃作戦なんてもんじゃない。東側の、ありゃなんだ、接収してどうするんだ?」 それを聞いてティンクル・スターは笑い声を上げた。何しろ陽動作戦で救うはずの新星と一緒に走っているのだ。「それはね、後のお楽しみなんだ。で、抜け出した手法はどんなものなんだい、塩味のスープで錆びさせて?」「そんな伝説の脱獄囚みてえな、カビの生えた手を使うかよ。錆びるまで何日かかると思ってんだ」 爆弾がビルの谷間の中腹で炸裂すると全員が腕で目を覆い隠した。瓦礫とガラスの音が響き渡り木っ端くずが頭上に降り注いでくる。その中を見上げもせず二匹と三十九匹は走り続けた。「鉄格子にかじりついて一本だけ壊してやったのさ。お前らがラジオでやってた奴をまねたんだよ」 そう言いつつ全力疾走で新星は胸ポケットからタバコを取り出すとジェットライターで火をともし、機関車のような勢いで速度を上げた。並の肺活量を超える新星の運動能力に驚きながら、ティンクル・スターはもうすぐ流星と合流できると告げた。爆音がそれに覆い被さった。 フェレット族の住む町から対角上の西の端、銀河列車まで大挙した一行は、銀河列車の猫族守衛を正面にして全くひるむことなく突進した。猫族守衛はそれを見て残党フェレットの存在を予期していたせいか、ずいぶんと侮ってひげを十分にいじった後、ゆったりと身を低くして構える。その予備動作をみてもフェレット達は隊列を崩すことなく前進を止めない。 守衛は全く動じることないフェレットの隊列を見て苛立ちを覚えると、同時に後ろ足で揚々と地面を蹴って躍りかかった。その時とばかりにフェレットの隊列は左右に分断され、併走で隠されていた漁網が張られると、フェレットの谷間に落ちた猫は足を絡ませて無様に転倒した。フェレットたちの行動は素早く、守衛をさっさと猫団子にしてしまうと路上に転がす。守衛は絡まった網の中で、総督府に投入された主力がいさえすれば、ともがきながら口惜しがった。しかしもがけばもがくほど網は絡まってゆく。守衛猫が数分もがいている内に時、総督府付近で爆発物と思わしき煙が確認され、同時に花火が上がった。それを見たティンクル・スター一行は、二つ目の陽動が成功したことを口笛で祝福した。予め聞き出した周波数帯を使って総督府に自分たちの居場所を攪乱する報告をすると、無線を網の上から投げつけて、メンバーは銀河列車へと駆け寄った。 銀河列車は十分に手入れされており、いつでも起動できるようだった。面々は後部に備蓄してあった大量の猫族用の食料を前方車両へと総員で手分けして移動すると、二キロの長身を持つ銀河列車の連結を次々切っていった。 高台の車内から町明かりが消え始めるのを見て、ティンクル・スターは悠々と窓から背伸びをしつつ風に吹かれてそれを眺めた。静かで、薄汚れていて、偏見に満ち、それぞれが思いやることをしない、それでも色々な事があって素敵な町だと思っていた。合流した流星も作業を終え、その隣にはスピカと新星もいる。新星はタバコを落ち着きなくふかし、流星はひとまず運んだ猫缶で腹を満たした。「話した通りだよ。僕たちはあの大海原に出る」 何となくつぶやいたティンクル・スターの目の色にはどことなく悲しい決意がある。 流星は食欲がある振りをしながらも違和感をごまかし、新星はわざといらいらした振りをした。そんなとき、探索を終えていない操縦席のドアが勝手に開いた。「そこまでだ、ティンクル・スター」 犬族の中でも最もいかめしい顔、ダブルボタンのコートに腕章と高い地位を示す星。エッケハルトだった。「どうやら、その通りみたいですね」 一車両に五十名のフェレットが十分ほどの休憩を取った瞬間をエッケハルトは狙ったようだった。スピカが針のような暗器をとっさに握り、新星が拳を握りしめ、流星は胸の内側にある小型拳銃に手を触れた。「そうだ。その言葉を聞きたかった」 エッケハルトは周囲の緊張した空気を全く感じていないかのように振る舞い、操縦席入り口にもたれかかると、新星に対してタバコをくれないか、といつになく穏やかな顔を見せた。それを見てスピカは針を握ったまま首をかしげ、流星も銃から手を離し、新星はこぶしを下ろしてタバコを一本だけ箱からつきだした。エッケハルトのそばに黒服の姿はなく、ティンクル・スターから見て何一つ策があるようには見えない。「おかしいか? これでは大英雄ティンクル・スターに出し抜かれてしまうものな」 そういうエッケハルトはタバコに火をつけると一服目で煙の輪を作り、そこへ前足を通して楽しんでいる。「俺はな、生きている間にこんなに面白いことがあるなんて思いもしなかった。あのデブに仕えているよりもずっとだ。だから、この最後のチェスは俺のチェック・メイトだ。それだけ確かめたかった」 エッケハルトはそれだけ言うと、ティンクル・スターの方へと歩いて行き、奥深い瞳で見つめながら額を肉球でこづいた。それから何も言わず列車の中央路をゆったり歩き、少しだけ明かりが差す入り口に立つと、俺は今日お前を見なかった、とだけ言い残して総督府方面へと消えた。ティンクでいいです、エッケハルトさん、とティンクル・スターも小声で会釈したが、面を上げた眼前には電力が断たれ、ほとんど暗がりとなった町が広がるばかりだった。「動力は銀河炭鉱往復分と予備電力しかない。どうする」 流星はエッケハルトの行動にいつかの自分の姿を見いだし動揺した。それを隠すかのように言葉が出てくる。「軌道計算して、一度だけの噴射だけでいい」 ティンクル・スターはそれだけしか言わず、新星は豪快にタバコの煙を吐き続け、ほかのメンバーが電力チェックを終えると、スピカも唐草模様の風呂敷からいろいろな諜報器具を取り出した。そうして三人は点灯し始める青白い光の帯に横目で目配せした。「発車の準備ができました」 党員の声に従って列車の汽笛が鳴り響くと、それぞれの席に着いたフェレットたちの口数は少なくなった。新星が言う。「確かに、俺たちがあの場所にいてもどうにもなりゃしねえ。体制は頭がすげ変わっても変わりゃしねえし」 浮遊し始める銀河列車の窓から完全に暗がりとなった町は見えず、ガスと蒸気で覆われた空にも何も映らない。ただ列車の外に張り付いている動力中のランプのみが薄ぼんやりとメンバーの顔を照らし出した。「連中も資源危機を乗り切るだろうさ。そして、歯車もやがて回復する。俺たちが残した爪痕なんかなかったみたいにな」 流星は空っぽになった猫缶を、座席の後ろから引っ張り出したテーブルの上に置くと、両手を頭の上に置いて青白い光を受けながら、体をシートに沈み込ませるのに任せた。「宇宙で商売でもするでやんす」 スピカは全く何事もないように荷物をいじり続けている。 銀河列車は見る間に天空へとフェレット族を運び、地上の犬族と猫族はそれを呆然と眺めた。やがて銀河の一番星が見えてくると、それに合わせたかのようにまた一つ、二つと輝く星達が顔を出す。そのシンフォニーと一緒に踊る列車は再び汽笛を鳴らし、フェレットたちの目の前に巨大な天の川を見せつけた。党員達の歓声が上がる中、ティンクル・スターは生命のあると思わしき星に座標をセットさせ、一人つぶやいた。「もう、これで帰れないんだから、ね」 列車は大気圏を抜け、キャット・キャップ銀河が見えてもティンクル・スターの気持ちが晴れることはなかった。その旅は新星の大胆さを持ってしても足りず、流星の統率力を持ってしても計り知れず、スピカの知略を持ってしても成功が保証されない、とティンクル・スターは思う。やがてキャット・キャップ銀河の光の渦は青白くたなびく列車を飲み込むと、列車はすっかり姿を消してしまった。 暗闇と化した地上で銀河を眺めていたエッケハルトはただ静かに敬礼し、夜空の一番星に目を細めた。