「同窓会殺人事件」 ( No.1 ) |
- 日時: 2013/02/04 03:59
- 名前: Φ ID:67xqxy.M
つまらない日常を送っていたというつもりはない。一部上場の製薬会社に勤め、女子大卒の妻と暮らし、今や一児の父親でもある。他人から見れば幸せな毎日を送っている人間のひとりと思われるだろう。俺だってことさら自分が不幸だと言うつもりはない。 そう、確かに幸せだ。だが、幸せと満足は別だ。人間の欲望には底がない。人の心は常に無い物ねだりの連続だ。 高校の頃、文芸部に所属していた。最も多いときでも六人程度の小さな部活だったが、ひとりひとりが純文学や推理小説や詩といったてんでばらばらのジャンルに打ち込み、月に一度はその雑多な作品たちをまとめあげて文集を出していた。いや、作品というにはあまりに稚拙な代物ばかりだったが、それでも皆が熱心に活動していた。 どんな人間にもある時期だ。誰もが自分には特別な才能が眠っていると確信し、その才能が花開く瞬間、いや、その才能が誰かに認められてもらう瞬間を心をときめかせて待っている。 そう、誰もが一度は見る夢だ。そして夢は覚めるものだ。自分には才能がないと悟る。もっと大事なものがあることに気付く。そんな夢を見ていたことなんて忘れるほどに忙しくなる。この混沌とした世の中でたったひとつの思いを貫くことほど難しいことはない。 先週の土曜日、駅ビルの高階にある居酒屋で同窓会が開かれた。とはいっても、この情報化社会の現代だ、同級生の誰もが似たり寄ったりの人生を送っていることは既に知っていた。受験して、浪人して、大学に入って、恋人を作って、大学を出て、企業に就職したり、公務員になったり……。中には大学を早々に辞めてフリーターになり、飲食店勤めを転々とする内にやがて自分で店を開く者もいた。同窓会はそいつの開店記念でもあるというわけだ。 同窓会に顔が見えない同級生たちもいた。ある女子などは、痴話げんかの末に男を殺して三年間服役していたと聞く。幹事は一応彼女を誘ってみたものの、「行けるわけない」と一蹴されたらしい。それは流石に特異な例ではあるが、他にも顔を合わせたくない理由を持つ同級生は何人かいた。失業中だったり、ひきこもりだったり、精神を病んでいたり……。 一杯目のビールがほどよく回って頬を赤らめた頃、俺の頭には文芸部の仲間であったTの顔が浮かんでいた。夏目漱石や太宰治を敬愛していた男だ。いやいや、もっと色々な作家の薀蓄をしたり顔で述べていた記憶はあるが、俺は今も昔も日本文学に疎い人間なので、それくらいしか思い出せない。 彼は一体どうしているだろう。大学に入ってからも、一、二度だけ会った記憶があるが、確か文学部に入り、未だに執筆活動も続けていると言っていた。俺は大学で始めたフットサルの練習で忙しくなり、まったく書くことを止めていたから、段々と彼に会って創作に関する話をするのが苦になっていた。今思えば、あれは自分の持っていた夢に対する後ろめたさでもあったのかもしれない。 俺は幹事にTがこの場に来ているかを尋ねた。幹事は彼の名前を聞き返した。俺はTが部外では大人しく、部内でも気むずかしい人間であることを思い出していた。あの性格では多少なりとも挫折を経験したことだろう。この場にいなくても不思議ではない――心の何処かでそう期待していた気がする。 「ああ、T先生のことかい。あっちのテーブルで女子たちにサインを書いているぜ」 俺はそれまで、その賑やかな一角が別の客たちだと思っていた。今日は貸切であることを忘れていた。 「やあ、久しぶり。ここに座ってくれよ」 テーブルの様子を見に行った俺に、Tが先に気づいて言葉を投げかけた。Tは年不相応に扇情的な格好でまとわりついていた女子(もちろん独身だ)を払いのけて俺にスペースを作った。 「文芸部は君と僕だけかな。いや、Kの顔もさっき見た気がする。ちょっと探してみよう……」 幸い、同級生の文芸部三人はひとりも欠かすことなく同窓会に顔を出していた。少しばかり昔話に花を咲かせ、すぐに話題は互いの現在のことに移った。 当然、話題の中心は二年前に作家デビューしていたTだった。俺はそのことをまったく知らなかった。 「君にも報告をしようと思ったのだけど、連絡先がわからずじまいでね」 そういってTは鞄の中から一冊の本を取り出し、扉のページにこなれたサインをした。俺は受け取った本のタイトルを見て、書店で平積みされたのを見たことがあることに気付いた。ただし推理小説のコーナーで、だ。 「推理小説は君の専門だったね。あの頃に色々教えてもらったこと、本当に感謝しているんだ。いや、もちろん僕が書きたいのは今でも純文学さ。気持ちはあの頃から一度もぶれたことはない。でもある日、持ち込みをしていた編集者に言われたのさ。ただでさえ紙の本が売れない時代に、何の衒いもない純文学なんて売れると思うか、ってね。たとえ伝えたいことがあっても、理解してもらうかどうかの前に、そもそも読んでもらわなきゃいけない。手にとってもらわなきゃいけない。本当に人に読まれたいと思うなら、その手段を選ぶべきではない。狼が人に嫌われるならば、人の皮を被ればいいじゃないか。安心して近付かれるまで牙を隠してればいい……ってね」 Tたちの誘いにもかかわらず、俺は二次会まで付き合わず家にまっすぐ帰った。書斎に入り、わずかな推理小説以外、仕事に関する本ばかりの並んだ本棚を一瞥して、すぐさまTの本を読みにかかった。 俺が昔、Tの文章を読んだことがあったり、Tと直接議論を交わしたことがあったからかもしれない。書いてある言葉はどれも胸の中にすっと入っていった。 閑静な住宅街で殺人が起きるところから物語は始まる。刑事が事件を追ううちに、被害者家族を取り巻く複雑な人間関係が明らかになる。不倫、DV、パワハラ、いじめ……昼間に流れる再放送のミステリドラマの中に、まったく同じ筋のものがあってもおかしくない。ネットで知り合った第三者を利用したアリバイトリックというのもアンフェアでつまらない。しかも、物語は明らかに犯人の動機に矛盾を残したまま終わっている。駄目な点を挙げれば両手両足の指では足りない。 だが、その本は面白かった。悔しいことに、俺はその本を面白いと感じた。 Tは成功している。推理小説としての出来はそこそこでも、彼の思想は嫌でも読んでいる者に浸透してくる。それは一種の人間賛歌だった。たとえどんな悲劇が繰り返されようと、人間はただ生きていく。それ故に人の営みは素晴らしい、という。 よくやった、とTにエールを送りたかった。 同時に、推理小説としては俺が高校時代に書いていたものの方がまだ面白いぞ、とも思った。当然じゃないか。推理小説は俺の専門だったのだ! 一ヶ月後、俺はどうにか仕事の合間を縫って、有給休暇を一週間取った。家族サービスで伊豆へ旅行に、とだけ同僚たちには告げている。 しかし昼間は妻と子供に海水浴をするよう言いつけ、俺は旅館の和室でテーブルに向かってウンウン唸っている。わざわざ高校時代に愛着のあった万年筆と原稿用紙を押入の奥から取り出したのだが、十年以上忘れていた文章のセンスを一日二日で取り戻せるはずがない。 そして何より、良い物語の筋が思い浮かばないのだ。どうもTへの嫉妬心ばかりが頭に渦巻いていけない。 くそ、わざわざ仕事を休んだ上に家族とも時間を過ごさないで、父親失格じゃないか。俺はなんて馬鹿な真似をしているのだ。あのときTに会おうなどと思わなければよかった。そもそもTが同窓会に来ていなければよかったのだ。Tがデビューなどしていなければ。いや、いっそ、Tがこの世からいなければ……。 俺は古びた原稿用紙に、"同窓会殺人事件"という仮題を書き付けた。
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この物語はフィクションであり、実在の人物とは一切関係ありません。
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Re: 即興三語小説 ―鬼は外、福は内、三語はTC― ( No.2 ) |
- 日時: 2013/02/06 00:43
- 名前: お ID:Gzo/hzjg
今回もまた巧いなぁ。お題の使い方がスマートだわ。調和がある。しかし、こういうミステリーテイストの文章もいけるんですね。おちも、さらりとしていながら思わず唸ってしまう。まいりました。
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隠し戸 ( No.3 ) |
- 日時: 2013/02/10 16:12
- 名前: 朝陽遙 ID:wekfbuqY
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
冬のはじめ、父が死んだ。 規定通りの忌引きを貰うだけのつもりだったのだが、この際だから溜まった有給休暇を少しは消化しておいでと直属の上司が言ってくれたので、素直に甘えることにした。休みの間に席のなくなる心配をしなくていい勤務先というのは、有難いものだと思う。十日かそこら私がいなくても仕事は回る。十年早ければそのことを悔しがりもしただろうが、もうそれほど若くもなかったので、そもそも仕事というものはいつでも誰かに代わりの勤まるようにしておくのが理想的なのだということを、建前でなく信じられるようになっていた。 不在中のことを簡単に引き継ぐと、急のことに備えて会社のロッカーに入れてあった喪服と黒ネクタイを引っ掴んで、慌ただしく新幹線に飛び乗った。 実家に戻るのは、数えてみれば七年ぶりだった。盆も正月も、仕事が忙しいと嘘を吐いて、まるきり帰らずに済ませた。七年前に一度だけ、母が入院したというので、さすがに慌てて駆け付けたことがあった。その時にも、父とはほとんど会話を交さなかった。病院に持ってゆく母の着替えや何かについて、事務的な言葉をひとつふたつ口にしたきりではなかったかと思う。 父は無口な男だった。ただ口下手なだけならば可愛げもあるが、たまに口を開いたかと思えば人を貶すようなことばかりを言うので、弟と私からはいつも煙たがられていた。本人もそれが厭だったのだろう、歳月を追うごとにますます口数は減っていった。口に出さなくなった分だけ、胸のうちではさらに毒を溜めていったのではないかと思うと、余計に父と話すのが嫌になった。 対象的に母はとにかくよく喋る女で、人の話はろくに聞かず、自分の言いたいことばかりを捲し立てる性質だったから、父が毒舌を吐いても軽く聞き流してしまうようなところがあった。破れ鍋に綴蓋という言葉はまさしく彼らのような夫婦のためにあると、私と弟はよく言い合った。まあ、相性がよかったということなのだろう。 母のことまで嫌っていたわけではなかったのだが、とにかく口うるさくて何のかのと口出しされるのが煩わしく、また気恥ずかしくもあり、父への反感を抑えてまで帰省しようというだけの意欲を見出すことはできなかった。母の方でも父子の不仲についてはとうの昔に諦めたという様子で、帰って来いと言う代わりに頻々自分のほうで上京してきて、兄弟それぞれの部屋を訪ねた。そうしてやれ生活がだらしないの、いい加減に結婚でもして親を安心させろのと、小うるさく嘴を突っ込んで帰っていった。
七年ぶりの生家に足を踏み入れると、その母が別人のようにひっそりと黙り込んで、通夜の準備なのか、大量の皿だのコップだのを洗っていた。集まりだした親類や、父の遺体の前で神妙に座り込んでいる弟に話しかけることもしなかった。叔母がその腕を掴んで、姉さんこっちは私たちがするからと休ませようとしても、ただ無言で首を振って、黙々と手を動かしていた。 田舎のことで、広さだけはそれなりにある家だったので、通夜も葬式も自宅でやると聞いていた。死んでしまった後にさえ父の傍に寄るのに気の進まなかった私が、いつまでも突っ立っていると、母がようやく気付いたように振り返って、瞬きをした。そして思い出したように「お帰り」と言った。普段の様子からは信じられないような小さな声、静かな口調だった。 死んだ父にというよりも、気落ちしている母に対して、この期に及んで父子の確執を見せつけることのほうが悪いような気がして、ようやく遺体の脇に座った。納棺もまだで、ただ眠っているかのように、父は布団に横たえられていた。 父は老いていた。記憶の中でさえすでに初老というような年ではあったが、それからの七年の間に、目を疑うほどの衰えを見せていた。 少し前に病気をしたというのは母の口から聞いていたが、そんなに悪いとは知らなかった。言い訳のようにそういうと、急なことだったのよと叔母が教えてくれた。昨日の夜にはぴんぴんしていたのだと。 まさか遺体を腐らせないために暖房をおさえているというわけでもなかったろうが、隙間風のする田舎家は、広さがあるだけによけい寒く、部屋のストーブの上では薬缶が鳴っているのにも関わらず、吐いた息がかすかに白んだ。母はいつまでも皿を洗っていた。
手続きだの葬儀の手配だのと、数日間は目まぐるしく過ぎて、ふっと途切れるように時間の空いたとき、糸の切れたようになっている母のことが、恐ろしくなった。それで、急ぎもしない遺品の整理を言いだした。薄情な息子だと言われても仕方のないことだが、何かしら手を動かさせていたほうがいいような気がしたのだ。 ただの反射的な思いつきだったのだが、却って色々と思い出させて良くないかもしれないと考えついたときには、もう母はぼんやりとしたようすのまま、言われたとおりに作業を始めていた。 父が書斎と読んでいた避難部屋を、母と私とで片付けにかかった。整理といっても、どのみちすぐに処分するような決心はつかないのだから、片付けると言うよりかは、ものを引っ張り出しては戻してみたり、あっちにあったものをこっちに入れ替えてみたりという、何とも益のないような作業だった。それでもともかく何もしないでじっと座って、葉の落ちた庭木を見つめてばかりいることだけは避けられた。 母はまだ一度も泣いていなかった。悲しくなかったというわけではなく、まだ呆然としていて感情が現実に追いついていないのだと、ひと目でわかるような有り様だった。時折思い出したように目を赤くして鼻を啜っている弟よりも、泣かない母の方がよほど心配だった。 私の方はというと、本当に悲しくなかった。さっさと死んでくれて良かったというほどまで憎み抜いていたつもりはなかったのだが、父が死んで悲しいというような感情は、ちっとも湧きあがってこなかった。いくら嫌っていたからといって実父が死んだというのに、薄情なものだとは自分でも思ったが、元気なうちにあれをしておいてやればよかったとか、顔くらいはもっと見せておけばよかったとか、そんなことは何一つ思いつかなかった。 「あら」と母が言って、机の引き出しの奥から、小ぶりな段ボールを引っ張り出した。「何かしら、これ」 受け取ると、箱は存外に重かった。いつからそこにあったのか、ひどく古びていて、被った埃が貼りついて変色していた。 隠すように置かれていたことが気にかかった。人目に触れさせたくないようなものなのだろうか。エロ本か何かだったらいい年をしてと笑い飛ばして済む話だが、何かしら母を苦しめるものが入っていはしまいかと、そのことが心配になった。例えば浮気の証拠だとか、心ない悪意に満ちた書きつけだとか、そういう始末の悪いものが。 母の眼から少しでも遠ざけるように引き寄せて、封を開けた。古くなったガムテープは、何度か剥がして貼り直したものと見え、ほとんど粘着力を残していなかった。 中にぎっしりと詰まっていたのは、古びた原稿用紙の束だった。 不意をつかれて、私はその紙束をぼんやりと眺めた。父が書きものをするとは知らなかった。それもこんなに大量に、いったい何を書いていたのか。 呆気にとられたまま、ともかく一番上になっていた束を取り出してみると、数十枚ほどが糸で几帳面に綴じられており、最初の一枚に太い筆跡の万年筆で、題のようなものが記されていた。 ――名残りの雪。 あら、と母が呟いた。これって、あれよね。茫洋とした口ぶりでそう言って、母は机の引き出しを開け、いっとき中を漁っていたが、やがて一本の万年筆を取り出した。飾り気のない、黒い万年筆だった。長いこと使っていたのか、軸には細かい傷が目立っていた。ものに愛着を抱いて大事にするようなところをあまり見せなかった父に、その傷は何だか、似合わないような気がした。 「親父、そんなもの持っていたか」 言うと、母はふっと目を細めた。 「これ、結婚前に私がプレゼントしたのよ。失くしてしまったなんて言ってたのに」 ぼんやりとした眼差しのまま、母は首をかしげた。「何で隠してたのかしら」 その言葉の途中から、急に泣き声に変わったので、私は慌てた。母は立ち上がると、小走りに部屋を出て行ってしまった。私に泣き顔を見られるのが嫌だったのだろうか。こんなときだというのに。 遠ざかる足音を聞きながら、私は床に座りなおして、原稿用紙を捲った。黒のインクで綴られたその文章は、口下手だった父に似つかわしくない、流麗な筆跡を見せた。 仕事として文筆をやっていたのなら、母が知らなかったわけがないから、それは趣味の書きものだったのだろう。だがその筆致は素人目ながら、書きなれた巧みな文章と見えた。 一番上になっていた束は、短い恋愛小説だった。 読んでいる間、私はそれを書いたのが父だということを半ば忘れて、読みふけっていた。それでも読み終えてからあらためて振り返ってみれば、そこに書かれているのは、たしかに母のことだった。容姿や何かのことは変えてあったが、口癖の端々や仕草の描写に、母の気配が見え隠れしていた。 箱の中を探ると、下の方にある原稿の方が紙がまだ白く、新しいようだった。どういうつもりで父がそんなふうに片付けておいたのかは知らないが、単純に最近書いたもののほうが、より人に読まれたくなかったということなのかもしれない。 二つ目の話は、少年を主人公にした物語だった。幼いころの父がモデルなのかもしれない。とりたてて事件の起こるわけではない、ありふれた日々の一片を切り取ったようなごく短いものだったが、そこには胸の詰まるような郷愁が滲んでおり、読み終えたあとに何か、柔らかい感慨のようなものを胸に残した。 これをあの口を開けば人の悪口しか言わないような父が書いたとは、とても思えなかった。そこには他者を見下して嘲るような視線はなかった。ただ周囲にあるものへの憧憬と愛情ばかりが綴られていた。 三つ目の束を手に取ったとき、私は動揺した。題名のところに、私と弟の名前が書かれていたからだ。 迷ったが、好奇心が勝った。疲れた目頭を揉むと、指を舐めて原稿用紙を捲った。 その小説には、幼い兄弟が登場した。利かん気は強いが弟思いの兄と、その兄にべったりと甘えていてすぐ泣く弱虫だが、芯のところに強情さの見える弟。私小説ということになるのだろうか。実際にそこに書かれているエピソードのいくつかには、私の覚えていることが混じっていた。 濃やかな情愛に満ちた眼差し、兄弟の成長を喜びつつも一抹の寂しさを感じている父親の心境が、自分の知る父の姿と、どうしても重ならなかった。理不尽なことで癇癪のように怒られたり、何かの賞をとって喜びながら家に帰っても鼻で笑って小馬鹿にされたり、そういう記憶しか、私にはなかった。 最後まで読むことができずに、私は紙束から視線を外した。 色あせた原稿用紙の束を発作的に破り捨てかけて、直前でどうにか思いとどまった。母や弟にも、これを読む権利はあるだろうという考えが、頭を過ったからだった。だがその考えは、余計に私をいらだたせた。 二人がこれを読んで、驚いたり父を見直したりするところを想像すると、いっそ今すぐに箱ごと燃やしてしまいたいくらいだった。 小説だ。後から振り返って文章に起こすのなら、いくらでもきれいごとを書ける。思い出を美しく装い、自分の都合のいいようにいじりまわすことができる。もし本当にここに書いてあるような情愛を、父が心に抱いていたというのなら、そのように振る舞っていたはずだ。口下手なりにも、態度の端々に何がしかの思いやりを滲ませていただろう。 今さらこんなもので、事実を美しく歪めて自分の人生をきれいに纏めてしまおうだなんて、そんな都合のいい話があるものか。 こんなものは読みたくなかった。怒りで頭のくらくらするのを感じながら、手の中で紙がよれて皺になったのを、箱の中に押し込むようにして戻した。 弟が入ってきた。 「母さん、やっと泣いたな――あれ」 弟は当惑したように入口で立ちつくし、それからばつの悪いような照れ笑いで鼻を掻いた。「何を見つけたの。兄貴までそんな顔して」 言われて、自分が泣いていることにようやく気付いた。拳で乱暴に顔を拭いながら、この弟に対しても、私は腹を立てた。 弟の人の好い顔には、やっぱり兄貴も父さんが死んで悲しいんだなというような、鈍感で善良な安堵が、はっきりと描きこまれていた。悲しいのではない、俺は腹を立てているのだ、これは悔し涙なのだと怒鳴りたいような気がしたが、私が実際にしたことといえば、黙って段ボールを丸ごと弟のほうに押しやっただけだった。 原稿用紙の束を見て驚いたような顔をした弟が、父さんの字だ、としんみり呟いたので、私は自分だけが父の筆跡を知らなかったということに気付かされた。 「父さん、文章なんか書いたんだなあ。似合わない気もするけど、でも、そういうものなのかもしれないな。口下手な人間のほうがさ、書きものが巧かったりさ……」 読みかかった弟に背を向けて、私は書斎を後にした。逃げ出したのだった。この人の好い弟が、父の小説を読み終わったときに、ちょっと涙ぐみながら「父さん、こんなふうに俺たちのこと、見てくれていたんだな」などと言うところが、くっきりと見てきたように想像されて、それがどうにもならないほど耐えがたかった。 廊下に出ると、母のむせび泣くのが台所のほうから微かに響いていた。怒りを噛み潰そうとして巧くいかないまま、かつて自分の使っていた部屋に逃げ込もうとして二階に上ると、古くなった階段がいやに軋んだ。
---------------------------------------- 時間オーバー(一時間半くらい+推敲)でした。
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Re: 即興三語小説 ―鬼は外、福は内、三語はTC― ( No.4 ) |
- 日時: 2013/02/10 23:48
- 名前: お ID:TQsos9zA
巧いなぁ、良い情感でてる。 時々、なんで遥さんがファタジーなんか書いてるのか不思議に思うことがある。 好きと上手は違う次元のこととしても。 この情感をファタジーに持ち込めれば良いんだろうな、きっと。
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Re: 即興三語小説 ―鬼は外、福は内、三語はTC― ( No.5 ) |
- 日時: 2013/02/11 02:39
- 名前: Φ ID:B3Q2Qph6
>朝陽遙さん いい話だなあ!感服いたしました。いい話だ。 こういう人情話に弱いです。連城三紀彦を思い出しました。 いいもの読ませてもらいました。とても読みやすかったです。
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感想と反省とお礼 ( No.6 ) |
- 日時: 2013/02/12 22:19
- 名前: 朝陽遙 ID:9aM4lNc.
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
> お様
ありがとうございます。そもそもがファンタジーを書くために小説書いてるので、お褒めにあずかり嬉しいような、素直に喜べないような、複雑な心境であります(涙) 何はともあれ精進します。情感……。
> Φ様
読ませていただきました。友達の才能を喜びつつもおもわず嫉妬したりとか、わかるなあ……、と思いながら読んでいたら、ラストこう来ましたか! 名前のイニシャル表記といい、T氏のちょっともったいぶった話し方といい、細部がミステリという小道具にマッチしていて、いいなあと思いました。なおかつそれがオチに活きていて。伏線を使いこなすというのを、自分が苦手としているものですから、見習いたいなと思いました。
そして拙作へのコメントありがとうございます! 現在進行形で連城三紀彦を追いかけているところなので、拝見しておもわず汗が出ました。即興で書くと、いま読んでいるものの影響が露骨に出ますね……。お恥ずかしい。 どうも語りすぎないということが下手で、いつもなかなかうまくやれないものですから、少しはそういうのが出来ていたのであれば嬉しいのですが…… お言葉嬉しかったです。ありがとうございました!
> 反省文
書いたものはこまめに処分しておかないと、うっかり急死したときに大変なことになりますよ、という話でした(違) 自分の父が、悪筆を恥じてとにかく人前で字を書きたがらないので、そういえばわたしも父の筆跡を知らないなあと、書き終わったあとで気付いたりしました。 オチがいまいち、出したかった感じを出せなかった気がして反省しています。書きすぎないって難しい。
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Re: 即興三語小説 ―鬼は外、福は内、三語はTC― ( No.7 ) |
- 日時: 2013/02/13 02:15
- 名前: お ID:k01Z.qL.
多分だけど、遥さんは家族話で力を発揮する人なのかなと。正直、鳥の話はさっぱり共感しなかったのだけど、地下の話は、素直に良かった。まぁ、絶対だと言い切れる自信はないけど、そんな気がした。
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返信です ( No.8 ) |
- 日時: 2013/02/14 23:08
- 名前: 朝陽遙 ID:sErInet6
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
さ、さっぱりでしたか……orz 精進します(涙)(そしてマルゴ・トアフ長いのに読んでくだすってありがとうございました!)
家族話ですかー……。それはそれで嬉しいことではあるのですが、いずれにせよ四六時中ずっと家族話だけ書いているわけにもいきませんし(まず自分が食傷しますし……)、あと、向いていようがいまいが、自分がそのとき書きたいものしか書けないということに気付いたので、ともかく片っぱしから色々書いて、そのつど試行錯誤してみます。またぞろ大コケしてたら指さして笑ってやってください……。
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Re: 即興三語小説 ―鬼は外、福は内、三語はTC― ( No.9 ) |
- 日時: 2013/02/16 02:53
- 名前: お ID:JR/zVZSM
.さっぱりというのは、ノリで書いてしまった言葉で、ちょっと言い過ぎでした。すみません。あくまで比較の話であり、あくまで共感の話ですので、巧い下手、おもしろいおもしろくないとは、やや違う次元のことですから、そこのところはご了承ください。 もともと、家族ネタというのは、自身の経験や記憶に触れるか否かに関わりなく共感を得やすいもののように思えます。一方、それ以外の関係性というのは、経験や価値観、立ち位置などに大きく左右されるように思えます。 鳥の話に関しては、僕個人のスタンスから共感しきれなかったというだけのことであって、汎用的な意見ではありませんから、あまり気にすることもないでしょう。 家族ネタの方に関しては、ネタとしては一般的に共感されやすいとはいえ、それを引き出すにはやはり一定以上の感情表現であったり、全体の情感であったりが必須なわけで、これも簡単ではない。ただそこをクリアしていれば、もともと共感を得やすいものであるだけに、大きな武器になり得る……かも。 つまり、メインテーマにすえるばかりではなく、中長編であれば、キャラや世界観に真実味を持たせる良いアクセントになる……かも。 まぁ、短編だとそればっか書いてると息苦しくなりそうですが。 まぁ、そんなことでなにがいいたいかというと、あんまり、気にしんといてなってことで
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返信です ( No.10 ) |
- 日時: 2013/02/16 11:22
- 名前: 朝陽遙 ID:pyqHnN9E
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
あわわ、重ね重ね痛み入ります。そしてフォロー有難うございます……お気を遣わせてしまって申し訳なかったです(汗) そうですね。登場人物を描写するときに、その人物が家族とどういう関係にあって、家族から受けた影響がその人物の考え方をどう作っているか、そういうような部分については、もっと意識していきたいと思います。 家族というテーマには、たしかに普遍性がありますよね。恋愛ものが時代を問わず強いのと一緒かも…… あらためまして、ありがとうございましたー!
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